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終活(死への準備)(その2)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の後半:③始皇帝でも失敗した「不死探求」は 「科学×庶民」で実現するか、④それでもやっぱり 人は死ぬ その現実が導く理想の生き方) [人生]

昨日に続いて、終活(死への準備)(その2)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の後半:③始皇帝でも失敗した「不死探求」は 「科学×庶民」で実現するか、④それでもやっぱり 人は死ぬ その現実が導く理想の生き方)を取上げよう。話は抽象的で哲学的だが、あえて終活を取上げるに当たって、準備の意味を込めて取上げた次第である。

先ずは、1月20日付け日経ビジネスオンラインが掲載した哲学博士のスティーヴン・ケイヴ氏による「始皇帝でも失敗した「不死探求」は、「科学×庶民」で実現するか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00421/011200003/
・『「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。3回目は、「権力者による不老不死の追求と、科学が見せる夢」について』、「「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました」、なるほど。
・『始皇帝が目指した「不老不死」  今日では通常、「始皇帝」として知られている秦(しん)王の政(せい)が、自分の死の必然性を痛切に自覚していたことには、何の不思議もない。彼の胸に短剣を突き立てたかった者は大勢いただろうし、現にそれを試みた者も少なからずいた。実の父だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない前王は、3年しか王座を保てなかった。さらにその前の王は、わずか1年しかもたなかった。自分が死を免れぬ儚(はかな)い存在であることを一瞬でも忘れる誘惑にかられないように、世間が共謀して皇帝に思い知らせていたわけだ。「死のパラドックス」の前半(連載第1回参照)は、私たちが自分の儚さを意識しながら生きねばならないことを教えてくれる。生まれた者はみな、死なねばならぬことに、誰もが気づいている。 だが、私たちの大半には、この事実が頭に浮かばぬようにする文化的な道具や仕組みがある。親族や友人を突然亡くさぬかぎり、私たちは死が避けようもないことから、喜んで気を逸(そ)らされるに任せている。 ところが、ファラオや独裁者や王のように、暗殺者の影につきまとわれて生きている者は、自分の運命の危うさを、常時思い知らされる。この、自身の脆弱(ぜいじゃく)さについての意識が、最強の地位にある者にこそまとわりついてくるというのは、よくできた皮肉だ。シェイクスピアのヘンリー4世が言うとおり、王冠を戴く者は、安穏と頭を横たえることができないとは。したがって、こうした支配者に、この無情な消滅の自覚が及ぼす最大の影響が見て取れる。 始皇帝は、死を免れえない現実に対してすっかり不安に包まれていたように見えるが、一方で不死身になって、永遠に生き続けることは可能だと信じていた。それを成し遂げるために、彼は秦帝国を打ち立てたのだ。 無期限に生き永らえるというのは、今、ここで命を保つことの継続であり、生存のための日々の奮闘を果てしなく延長することだ。したがって、すべての人間が維持する必要がある、基本的な物事から始まる。すなわち、飲食物と住まいと身を守る道具だ。社会は、発達するにつれ、協同や労働の専門化や技能の伝承を通して、こうした必需品の供給法を洗練させていく。文明は根本的には、延命テクノロジーの集積だ。 農業は食糧の安定供給を確実にし、衣服は寒さを防ぎ、建築は住み処と安全を提供し、優れた武器は狩猟と身を守ることを助け、医学は負傷や病気と闘う。だが、大半の人がこうしたテクノロジーを自分や家族や村に適用して満足するのに対して、始皇帝にははるかに壮大な展望があった。彼は帝国を支配しており、それを永続させ、自分が永遠に君臨するつもりだった。これを達成するために、自分の版図(はんと)を、予測できぬ危険なもののいっさい、すなわち、死をもたらしうるものすべてから隔て始めた。 そして、文字どおりの意味で、すなわち、北の国境沿いに1万キロメートルほど続くことになる城壁の建設という形で、それに取り掛かった。さまざまな文明の人々が、遠い昔から家や村の周り、さらには都市の周囲にさえ防壁を築くのを常としてきたが、1つの帝国をそっくり防壁で隔てることは、かつてなかった。これが万里の長城の始まりであり、この長城は徴用された労働者の血と汗の上に築かれ、その建設中には何十万という人が命を落としたと考えられている。 この長城の内側で、始皇帝は前代未聞の改革を行なって経済を発展させた。度量衡(どりょうこう/長さ・容積・重さの基準)と通貨が統一され、漢字書体が一本化され、行政と統治が合理化された。相争う諸国から、単一の国家が創設された。この国は、始皇帝の祖国である秦(chin =チンと発音する)王国にちなんで、今もなお広く中国(China =チャイナ)として知られている。 その後、紀元前213年に始皇帝は悪名高い命を発し、自分の新体制とは相容れぬ学派の書物はすべて焼かせた。過去の年代記は破棄され、歴史は一から始まることになった。延命の役に立つと思われる文書、すなわち、農業や占いや医学に関するものだけが難を逃れた。残りはみな禁書とされ、その所有は極刑に相当する罪と見なされた。 アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、万里の長城と焚書(ふんしょ)を共に、永遠に生きようとする始皇帝の探求という文脈で捉えた。「空間における城壁と時間における炎は、死の接近を止めることを意図した魔法の防壁だったことを、データが示唆している」と彼は書いている。始皇帝は生――自分の命――を無期限に存続させることができる新しい秩序を樹立することを試みていた。文明と野蛮の相違が表れているのがこれだった。それはボルヘスの言葉を借りれば、魔法の防壁であり、それが生を持続させる秩序を、混沌(こんとん)と疾患と崩壊から隔てているのだった。 始皇帝は、秩序ある政治とよく統制された経済が実現可能だと信じていたのとちょうど同じように、不老不死の霊薬(エリクサー)を手に入れることも可能だと信じていた。そこで皇帝は、最高の医師や呪術師、錬金術師、賢者たちを身辺に置いた。彼らの任務は、皇帝がありきたりの病気にかかったときに治すことだけではなく、加齢に伴う衰えを食い止め、その最終結果である死を寄せつけぬことでもあった。さらに自分の帝国全土を経巡り、霊験(れいげん)あらたかな山々で供犠(くぎ)を執り行ない、各地で出会った呪術師や学者に助言を求め、彼らが処方した水薬や丸薬、霊薬とされるものを熱心に服用した。 日本の和歌山県新宮市周辺に伝わる「徐福(じょふく)伝説」もまた、始皇帝による不老不死の霊薬探索の一端として知られている』、「始皇帝は、秩序ある政治とよく統制された経済が実現可能だと信じていたのとちょうど同じように、不老不死の霊薬・・・を手に入れることも可能だと信じていた。そこで皇帝は、最高の医師や呪術師、錬金術師、賢者たちを身辺に置いた。彼らの任務は、皇帝がありきたりの病気にかかったときに治すことだけではなく、加齢に伴う衰えを食い止め、その最終結果である死を寄せつけぬことでもあった」、「万里の長城」には、軍事上の理由だけでなく、「死の接近を止めることを意図した魔法の防壁」だったとは、初めて知った。
・科学は「不老不死」を実現するか  初期の文明の人々にとって文明は、農業と医学という、明らかに寿命を延ばすテクノロジーから不老不死の霊薬へと、すんなり続いていくものだった。さらに言えば今日もなお、不老不死の霊薬追求の試みの途上にある。 実際、新しい千年紀の初頭に当たる今、霊薬産業は依然として活況を呈している。2010年までの10年間に、れっきとした科学雑誌『ニューサイエンティスト』が掲載した、老化を止めることを約束する新しい「霊薬」の記事は、12にのぼる。 臨床検査を行なった今日の特効薬とは違い、古代の伝説はすべて架空の迷信にすぎないと考えたくなるといけないので指摘しておくが、『ニューサイエンティスト』誌に載った12の老化防止策の1つは、マメ科の草であるレンゲソウの根から抽出した成分を利用したものだ。レンゲソウは、伝統的な中国医学における「基本的な50の薬草」の1つで、始皇帝に処方された薬のうちに入っていた可能性がきわめて高い。呪術と科学の間には、厳然とした境界線はない。 使う方法こそ、長い歳月を経るうちに、より厳密で、効率的で、生産的になったものの、それを別とすれば、私たちは依然として「生き残り」を追求しており、それは歴史が始まって以来、人類が常にやってきたこととまったく同じだ。 「この探求は、単に変わり者や偽医師だけのものだったためしがない」と、医学史家のジェラルド・グルーマンは書いている。それどころか、さまざまな宗教そのものや、高名な哲学者、重要な科学者が、無限の寿命のカギを見つけることに打ち込んできたのだ。 どの世代にも期待をかけるテクノロジーがある。錬金術(錬丹術)という名称で知られる取り組みもまたその一環だ。歴史で初めて錬金術に触れたのが、紀元前1世紀の中国の歴史家、司馬遷(しばせん)が残した記録だ。司馬遷は始皇帝について現在知られていることの大半も記録した。彼は、宮廷の錬金術師が辰砂(しんしゃ/硫化水銀から成る深紅色の鉱物)を金に変えようとしていたこと、そして、もしその金を飲食のために使えば、「けっして死ななくなる」だろうことを記している。このように、錬金術はその最初期から、変化という概念によって統合された2つの目標の追求と結びつけられてきた。その2つの目標とは、卑金属を金に変えること、そして、卑(いや)しい人間を不死の人に変えることだ。 今では錬金術は前者の目標と結びつけられることが多いものの、大方の錬金術師は、どれほど控えめに言っても、これら2つの目標が分かち難く関連していると考えただろうし、司馬遷の記述にあるように、金の製造は無期限の生という目的のための手段にすぎないと考えることが非常に多かった。 これは、西洋の錬金術にも同様に当てはまる。科学実験の提唱者の草分けで、オックスフォード大学教授のロジャー・ベーコンは、1267年に次のように述べている。 「卑金属から不純物と穢(けが)れをすべて取り除いて銀や純金にするような薬は、人間の身体から穢れを取り除いて、長い年月にわたって寿命を延ばすことができると、科学者は考える」 ヨーロッパではルネサンス以降かなりの時を経るまで、化学と錬金術の区別も、科学者と魔術師の区別もなかった。今日私たちが科学的方法の厳密さと見なし、あらゆる迷信の正反対に位置づけるものは、錬金術による不死の探求から、徐々に現れ出てきたにすぎない。 ロバート・ボイル、さらにはサー・アイザック・ニュートンのような、科学時代の黎明期に現れた偉人の多くは、錬金術の教えに染まっており、ニュートン本人は、物理学の分野における自分の発見よりも、錬金術への自分の貢献を重視していた。 根拠に基づく新しい方法の成功が急速に重なるにつれ、古来の知恵と秘術への信頼はやがて衰えていった。もし自然界の秘密が解明されるとしたら、それは丹念に集めた実験データに照らして新しい説を検証することを通して達成されるのであって、古い象形文字を解読することを通してではなかった。 だが、方法と文化が進化しても、霊薬の概念は生き延び、無数の研究者がせっせとそれに取り組み、マーガリンから美顔用クリームまで、ありとあらゆるものを私たちに売りつけるのに利用されている。この探求の科学的な現代版は、神話的な過去を放棄することで、霊薬伝説のきわめて重大な側面、すなわち、それが万人向けに意図されたものではないという面も失ってしまった。じつは、やはり治癒と蘇生の力を持つとされていた聖杯に似て、霊薬は賢者や有徳の人だけが手にできるものだった。永続的な生は、並外れた努力と善行を通して勝ち取るもので、そうした美点が、文明が野蛮へと衰退するのを防いでいるというのが約束事だったのだ』、「呪術と科学の間には、厳然とした境界線はない。 使う方法こそ、長い歳月を経るうちに、より厳密で、効率的で、生産的になったものの、それを別とすれば、私たちは依然として「生き残り」を追求しており、それは歴史が始まって以来、人類が常にやってきたこととまったく同じだ」、「司馬遷は・・・宮廷の錬金術師が辰砂・・・を金に変えようとしていたこと、そして、もしその金を飲食のために使えば、「けっして死ななくなる」だろうことを記している」、「ニュートン本人は、物理学の分野における自分の発見よりも、錬金術への自分の貢献を重視していた」、「ニュートン」でも「錬金術への自分の貢献を重視」とは当時の「錬金術」の地位の高さを示しているようだ。
・『「生き残りのシナリオ」による不死探求の限界  ここで紹介したエピソードは、4つある不死のシナリオ(連載第2回参照)の基本形態の第一である「生き残りのシナリオ」に紐(ひも)づいている。この「生き残りのシナリオ」は、文明が拠(よ)り所としている約束の一部を成し、現代における西洋的世界観の核心にある、進歩の概念にとって不可欠だ。 少しだけ長く、さらに長く、なおいっそう長く生きられるという希望こそが、人間社会の物質的側面のほぼすべての発展を促してきた。そして、今日その希望は、科学と医薬の巨大産業に動機を与えている。これらの分野は、現に私たちの人生を、より長く、より良いものにするような成果を上げている。 だが、さらに先まで私たちを導くことを約束する科学は、他にも教訓を示している。老化と衰弱の過程は、私たちの身体に深く根差していること、私たちの助けとなりうるテクノロジーは、破滅ももたらしかねぬこと、私たちが暮らす世界は人間の生を永遠には許容しないだろうことだ。 私たちは、親や祖父母よりも少し長く生きられるかもしれない。いつの日か、癌(がん)を打ち負かしたり、移植用臓器を培養したりするかもしれない。だが、永遠に生き永らえるのに成功する人は、1人もいないだろう。私たちの生身の体も、私たちが暮らすこの惑星も、それを許すことはない。このシナリオは魅惑的でも生産的でもあるが、約束を果たすことはないのだ』、「私たちの助けとなりうるテクノロジーは、破滅ももたらしかねぬこと、私たちが暮らす世界は人間の生を永遠には許容しないだろうことだ」、「不老不死」が実現すれば、「老人だらけの世界」にならざるを得ず、持続可能性がなくなるので、社会が認める筈がない。

次に、この続きを、1月21日付け日経ビジネスオンラインが掲載した哲学博士のスティーヴン・ケイヴ氏による「それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00421/011200004/
・『「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。4回目は、「必ず死ぬという現実を踏まえ、私たちはどう生きるべきなのか」について』、「「必ず死ぬという現実を踏まえ、私たちはどう生きるべきなのか」、役立ちそうだ。
・『守られない「不死への約束」  人類による「不死」の探求は、太古以来の歴史と、無数の信奉者と、人類の文明を形作る計り知れぬ影響力を持ってきた。とはいえ、そのどれもが頂(いただき)には遠く及ばない。私たちは、永遠の生にはけっして手が届かないのだ。 おかげで、少しばかり困ったことになった。私たちはみな、未来永劫(えいごう)生き続けたいという本能、つまり不死への意志を持っている。そして、それは「死のパラドックス」(連載第1回参照)と表裏一体である。 それがすべて幻想なら、いったいどういうことになるのだろう? 個人の観点ではなく、文明の視点から考察すると、状況はなお悪い。始皇帝の物語(連載第3回参照)でも見たように、文明そのものは、死の克服を目指す探求によって推進されてきた。それどころか、多くの文明にとって創始時の存在意義が不死の約束だった。 また、科学と進歩のイデオロギーが現れたのは寿命を無期限に延ばそうとしたからであり、宗教が繁栄するのは死後の生を保証するからであり、文化の所産のほとんどは象徴の領域で自己複製するための私たちの試みであり、子供をもうけるのは自らを未来に存続させたいという生物学的な衝動の表れである。そうした試みを抜きにして、いったいどのような種類の社会が成立しうるだろうか? どれだけ努力しても無に帰するとわかっていても、進歩や正義や文化はありうるだろうか?』、「どれだけ努力しても無に帰するとわかっていても、進歩や正義や文化はありうるだろうか?」とは、本源的な問いだ。
・『「不死」の実現で起こる様々な「大問題」  ただし、この問題に対し、私たちは絶望する必要はなく、生の有限性に向き合いつつも、真っ当(まっとう)で満足のいく人生を送れるはずだと、私は信じている。じつのところ、それは意外なほど容易でさえあるかもしれない。不死には実は、望ましくない点もあるのだ。 不老不死の人が住むという山を登るための奮闘は、成長と革新に満ちたものだったと同時に、流血や残虐行為や不正だらけのものでもあった。始皇帝に限らず、彼らは不老不死を追求するあまり、厖大(ぼうだい)な数の人の人生を破綻させた。名声や栄光を狙う数々の試みが慈悲深さをはなはだしく欠いていることは記憶にとどめる価値がある。 同様に、生物学的な不死のシナリオもまた、人種差別やナショナリズムや外国人嫌いに変質することが頻繁にある。「他者」の排除あるいは殺害は、自らの純潔性を維持し、自分たちの人種こそが死を超越することを示す1つの方法になるからだ。そういうわけでアーネスト・ベッカーは、「死の必然性を否定し、英雄的な自己像を築きたいという衝動が、人間の悪事の根本原因である」と主張したのだ。だから、不死の達成という目的への手段として多くの文明が興(おこ)る一方で、不死のシナリオの結果としてやはり多くの文明が滅亡の憂き目に遭(あ)ってきた。 また、異なる不死のシナリオを持つ文化間の戦争は、アメリカの哲学者サム・キーンの言葉を借りれば、永遠の生にかかわる「聖戦」となる。あなたが自分の命を、プロレタリア革命を進めるために犠牲にしたのなら、資本主義が勝利すれば、後世でのあなたの役割は消滅する。人生をアッラーに捧(ささ)げたいと願うなら、世俗主義が発展すると、楽園に居場所を見出せなくなる恐れがある。こうして、私たちは自らに固有の神話の真実性を守るために闘い、たいてい勝者に劣らぬほどの数の敗者も出るのだ。 さらに、不死のシナリオの望ましからぬ影響は“文明間”の争いだけに限られるわけではない。それぞれの社会の“中”にもやはり、はっきり現れている。不死のシナリオは多くの倫理体系で重要な役割を果たし、この世で人が見せる善行や悪行への褒美や懲罰として永続的なアメとムチを提供する。だが、こうした倫理体系は、非道極まりない不正をも容認しうる厳格な保守主義と表裏一体なのだ。 中世ヨーロッパの支配者がキリスト教に大きな利用価値を見出した理由も、そこにあることは間違いない。キリスト教は搾取される臣民に、日々の生活の忌まわしさから目を逸(そ)らし、代わりに未来の楽園を夢見るように教えたからだ。これこそニーチェが「奴隷の道徳」と呼んだものだ。なぜならそれは、踏みにじられた人々に悲惨な運命を受け容れさせ、来るべき世界での復讐(ふくしゅう)と満足に空想を巡らせるように仕向けるからだ。 奴隷解放、両性間や人種間の平等、社会福祉などを目指す、ここ数世紀の素晴らしい社会改革運動が起こったのは、西洋社会において来世への執着がようやく薄れ始めたときだった。永遠に続く道義的に正しい喜びが待っているのであれば、現世で正義や幸福を追い求める必要はないのだから。 不死を信じる人は、頑(かたく)なに将来の至福を見据え、“今”存在することの価値を理解しそこなっている。 最後になるが、不死のシナリオの大多数が根深い利己心を育てることも注目に値する。そうしたシナリオはあなたに、自分の個人としての人格が無限に存続することに執着するよう教える。すると、あらゆる行動が、あなた個人が生き残る可能性を高めるか低めるか、あるいは期待される永遠の生をより楽しいものにするか否かで評価されるというわけだ。 これらは不死のシナリオが現時点で持つ欠点だが、問題点の一覧にはさらにつけ加えるべき事柄がある。すなわち、私たちが本当に個人の不死を達成したら起こりかねぬことだ』、「キリスト教は搾取される臣民に、日々の生活の忌まわしさから目を逸(そ)らし、代わりに未来の楽園を夢見るように教えたからだ。これこそニーチェが「奴隷の道徳」と呼んだものだ」、「ここ数世紀の素晴らしい社会改革運動が起こったのは、西洋社会において来世への執着がようやく薄れ始めたときだった。永遠に続く道義的に正しい喜びが待っているのであれば、現世で正義や幸福を追い求める必要はないのだから」、なるほど。
・『「無限」という名の新しい絶望  不死によってもたらされる「無限」とは、単なる割り増しの時間ではなく、際限なく続く時間だ。無限の時間という巨大な枠組みの中では、たちまち私たちに残されるのは退屈極まりないものだけということになり、自分の意欲が著しく減退する憂き目に遭いかねない。 もちろん、何度も味わえる楽しみもある。美味(おい)しい食事をしたり、友人と会話したり、好きなスポーツをしたり、お気に入りの音楽を聴いたりといった楽しみだ。こうしたことは、少なくとも2回目、3回目、あるいは100回目でも素晴らしさは薄れぬように思える。だが、毎日キャビアを食べている人は、いずれげんなりするだろうし、いつの日か、たとえ100万年先だとしても、友人たちのジョークにも全部飽きるだろう。あらゆる贅沢(ぜいたく)も、長々と楽しんだ後は、ありきたりのつまらぬものになる。どんな活動を追求しても、終わることなく繰り返すなら、最後にはシーシュポスのような気持ちになるだろう。シーシュポスは、何度やっても必ず転がり落ちる重い岩を山頂に向かって永久に押し上げ続けるという罰を神々に与えられたギリシア神話の王だ。 もう1つ、深刻な問題は次のようなものだ。物事の価値は、その稀少(きしょう)性と関連している。自分が死を免れぬことを自覚している人は、人生に限りがあることを知っているので、時間を大切にし、それを賢く使おうとする。朝、ベッドから起き出すのも、学業を終えて社会に出るのも、安定した老後のためにお金を稼ぐのも、その制約に駆り立てられてのことだ。限りある時間という制約に、私たちのあらゆる決定は左右されている。 無限の時間に関するこの推測が少々抽象的に聞こえるのなら、突然、自分が余命いくばくもないと知った人の経験に目を向けるとよい。末期患者を対象としている精神科医のアーヴィン・D・ヤーロムは、癌(がん)のような重病と診断された人さえ「生きているという実感の高まり……人生における本当に大切な事柄の鮮明な認識……そして、愛する人たちとのより深い意思疎通」を経験することを指摘している。 つまり、生は今の長さであっても、私たちはすでにその真価を理解できておらず、これ以上時間が増えれば、あるいは無限に時間が増えれば、この状態を悪化させるだけであることが、証拠から窺(うかが)える。 無限を前にしては、時間はその価値を失う。そして、時間が無価値になれば、選択というものが無意味になり、時間の使い方を合理的に決めることは不可能になる。意味のある生と生産的な社会には、それらの意味を明確にする限界が必要だ。私たちには生の有限性が不可欠なのだ』、「意味のある生と生産的な社会には、それらの意味を明確にする限界が必要だ。私たちには生の有限性が不可欠なのだ」、その通りだ。
・『ヴィトゲンシュタインが「生に終わりはない」といった理由  真に終わりなき生は恐ろしい災(わざわ)いである可能性を認識すれば、永遠に生きたいという望みは薄れるかもしれない。が、だからといって、死んでもかまわないと私たちが納得する可能性は低い。 しかし、実際に死んでいる状態を恐れるのは無意味かもしれない。これを私たちに明確に言い表すために登場したのは、ギリシアの哲学者だった。エピクロスだ。紀元前300年頃に彼はこう書き記した。 「死は我々にとって何の意味も持たない。なぜなら、あらゆる善悪は感覚の中に存在し、死はあらゆる感覚の終わりだからだ」 「我々が存在しているときには死は存在しないし、死がやって来たときには我々は存在しない。したがって、生きている者にも死んでいる者にも死は関係ない。というのも、死は生者と共には存在しないし、死者は存在しないからだ」 エピクロスの主張は、まさに自然科学が説くことでもある。私たちは“本質的に”、生き物、つまり、生きている物なのだ。そこから議論が紛糾(ふんきゅう)しそうな結論が導き出される。あなたも私も、文字どおり“死んでいる状態”になることはできない。生きている物は死んでいる物になりえない。誰かについて「死んでいる」と言うのは、その人が存在しなくなったということの、簡便な言い換えにすぎない。 20世紀哲学界の巨人ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、意識があり、物事を経験している生き物としての私たちにとってこれが意味するところを、次のように要約している。「死は人生における出来事ではない。私たちは生きて死を経験することはない」。ヴィトゲンシュタインはここから、その意味で「生に終わりはない」と結論した。つまり、私たちは生に終わりがあることを、けっして自覚できない。知りうるのは、生だけなのだ。 自分を海の波にたとえることができるかもしれない。岸に打ち寄せるとき、その短い一生は終わるが、その後「死んでいる波」あるいは「元波」といった何らかの新たな状態に入るわけではない。波を構成していた各部分が消散して、再び海に吸収される。私たちも同様だ。人間という生き物の、自己制御を行なう有機化された複雑な仕組みが機能停止すると、その人は終焉(しゅうえん)を迎える。死という新たな状態に入ったわけではない。その人は終わり、その構成要素はやがて人間の形を失って、再び全体に組み込まれる。 死とは終わりであり、だからこそ、それを正確に理解したときには、死を恐れるべきではない。これまでに積み上げた意識経験が、私たちの“生のすべて”だ。誕生と同様に、死はこうした経験の境界を定義する用語でしかない。このことを、不死の問題の理解と組み合わせると、直感で信じているほど、永遠に生きるというのは良いものでもなく、死は悪いものでもないと結論できる』、「誕生と同様に、死はこうした経験の境界を定義する用語でしかない。このことを、不死の問題の理解と組み合わせると、直感で信じているほど、永遠に生きるというのは良いものでもなく、死は悪いものでもないと結論できる」、なるほど。
・『私たちは、どう生きるべきなのか?  自らの死の必然性に敢然と立ち向かう人々の文明は、その実現に向けて努力する価値がある。そればかりか、死の必然性の自覚は、起こりうるあらゆる状況のうちで最良のものを提供してくれる、と私たちは大胆に主張することさえできるだろう。 人生には終わりがあると知れば、私たちの時間に制限が課されるので、その時間が価値あるものとなる。死は必然であるという事実は、私たちの存在に緊急性を帯びさせ、私たちがそれに形と意味を与えることを可能にしてくれる。 できる間は毎朝起き出して世の中とかかわるべき理由を私たちに与えてくれる。この世界を最高の世界にすべき理由を与えてくれる。それ以外の世界などないことがわかっているからだ。それでいて、制限を課すもの、すなわち死は、私たちが苦しんだり、他のいかなる形で経験したりできるものでは断じてない。私たちは本質的に生き物、すなわち生きている物なのだから、文字どおり死んでいる状態にはなることさえできない。私たちが知りうるのは生のみであり、その生には限りがあるという事実を受け容れれば、それを大切にしなければならないことも理解できる。 私たちの生は、始まりと終わりによって範囲を定められてはいるものの、自分自身を超えてはるか遠くに手を伸ばし、無数の形で他の人々や場所に触れることができる、数知れぬ瞬間から成り立っている。 その意味では、私たちの生は本に似ている。表紙と裏表紙に挟まれた世界で自己完結していながら、遠くの風景や異国の人物やはるか昔に過ぎ去った時代を網羅できる。その本の登場人物たちは限界を知らない。彼らは私たちのように、自らの生を構成している一瞬一瞬を知ることができるだけだ。たとえ本が閉じられたときでさえも。したがって、彼らは最後のページに行き着くことには煩(わずら)わされない。 だから私たちもそうあるべきなのだ』、「私たちが知りうるのは生のみであり、その生には限りがあるという事実を受け容れれば、それを大切にしなければならないことも理解できる」、やはり「生」は「大切に」しなければならない」ようだ。「私たちの生は本に似ている。表紙と裏表紙に挟まれた世界で自己完結していながら、遠くの風景や異国の人物やはるか昔に過ぎ去った時代を網羅できる。その本の登場人物たちは限界を知らない。彼らは私たちのように、自らの生を構成している一瞬一瞬を知ることができるだけだ。たとえ本が閉じられたときでさえも」、「私たちの生は本に似ている」、とはなかなか面白い比喩だ。
タグ:「始皇帝は、秩序ある政治とよく統制された経済が実現可能だと信じていたのとちょうど同じように、不老不死の霊薬・・・を手に入れることも可能だと信じていた。そこで皇帝は、最高の医師や呪術師、錬金術師、賢者たちを身辺に置いた。彼らの任務は、皇帝がありきたりの病気にかかったときに治すことだけではなく、加齢に伴う衰えを食い止め、その最終結果である死を寄せつけぬことでもあった」、「万里の長城」には、軍事上の理由だけでなく、「死の接近を止めることを意図した魔法の防壁」だったとは、初めて知った。 「「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました」、なるほど。 スティーヴン・ケイヴ氏による「始皇帝でも失敗した「不死探求」は、「科学×庶民」で実現するか」 日経ビジネスオンライン 終活(死への準備) (その2)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の後半:③始皇帝でも失敗した「不死探求」は 「科学×庶民」で実現するか、④それでもやっぱり 人は死ぬ その現実が導く理想の生き方) 「呪術と科学の間には、厳然とした境界線はない。 使う方法こそ、長い歳月を経るうちに、より厳密で、効率的で、生産的になったものの、それを別とすれば、私たちは依然として「生き残り」を追求しており、それは歴史が始まって以来、人類が常にやってきたこととまったく同じだ」、「司馬遷は・・・宮廷の錬金術師が辰砂・・・を金に変えようとしていたこと、そして、もしその金を飲食のために使えば、「けっして死ななくなる」だろうことを記している」、「ニュートン本人は、物理学の分野における自分の発見よりも、錬金術への自分の貢献を重視し 「私たちの助けとなりうるテクノロジーは、破滅ももたらしかねぬこと、私たちが暮らす世界は人間の生を永遠には許容しないだろうことだ」、「不老不死」が実現すれば、「老人だらけの世界」にならざるを得ず、持続可能性がなくなるので、社会が認める筈がない。 スティーヴン・ケイヴ氏による「それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方」 「「必ず死ぬという現実を踏まえ、私たちはどう生きるべきなのか」、役立ちそうだ。 「どれだけ努力しても無に帰するとわかっていても、進歩や正義や文化はありうるだろうか?」とは、本源的な問いだ。 「キリスト教は搾取される臣民に、日々の生活の忌まわしさから目を逸(そ)らし、代わりに未来の楽園を夢見るように教えたからだ。これこそニーチェが「奴隷の道徳」と呼んだものだ」、「ここ数世紀の素晴らしい社会改革運動が起こったのは、西洋社会において来世への執着がようやく薄れ始めたときだった。永遠に続く道義的に正しい喜びが待っているのであれば、現世で正義や幸福を追い求める必要はないのだから」、なるほど。 「意味のある生と生産的な社会には、それらの意味を明確にする限界が必要だ。私たちには生の有限性が不可欠なのだ」、その通りだ。 「誕生と同様に、死はこうした経験の境界を定義する用語でしかない。このことを、不死の問題の理解と組み合わせると、直感で信じているほど、永遠に生きるというのは良いものでもなく、死は悪いものでもないと結論できる」、なるほど。 「私たちが知りうるのは生のみであり、その生には限りがあるという事実を受け容れれば、それを大切にしなければならないことも理解できる」、「私たちの生は本に似ている。表紙と裏表紙に挟まれた世界で自己完結していながら、遠くの風景や異国の人物やはるか昔に過ぎ去った時代を網羅できる。その本の登場人物たちは限界を知らない。彼らは私たちのように、自らの生を構成している一瞬一瞬を知ることができるだけだ。たとえ本が閉じられたときでさえも」、「私たちの生は本に似ている」、とはなかなか面白い比喩だ。 やはり「生」は「大切に」しなければならない」ようだ。
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