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愛国、ナショナリズム(その2)(日本会議 なぜ憲法改正1000万人の署名を集められたのか、「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史、世界で高まるナショナリズムが「危険な宗教」である理由 佐藤優氏が解説) [社会]

愛国、ナショナリズムについては、2018年6月25日に取上げた。久しぶりの今日は、(その2)(日本会議 なぜ憲法改正1000万人の署名を集められたのか、「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史、世界で高まるナショナリズムが「危険な宗教」である理由 佐藤優氏が解説)である。

先ずは、2018年12月1日付けNEWSポストセブン「日本会議 なぜ憲法改正1000万人の署名を集められたのか」を紹介しよう。
https://www.news-postseven.com/archives/20181201_811024.html?DETAIL
・『第二次安倍政権の6年間で急速にその勢力を拡大させた組織がある。「日本会議」なる保守系団体だ。会員は約3万8000人(2016年時点)。政界には『日本会議国会議員懇談会』があり、衆参約280人が加入している。 2014年10月からはJR東海の葛西敬之・名誉会長(78)らが代表発起人となって「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成して国民運動を展開し、わずか4年で憲法改正に賛同する1000万人以上の署名を集めた。短期間のうちにこれだけの運動体を組織したオルガナイザーは誰なのか。組織の編成も、さらには任意団体のために資金力や経理も明らかにされていない。『日本会議の正体』の著書があるジャーナリスト・青木理氏が語る。 「事務総長として組織運営を仕切っているのは椛島有三氏(かばしまゆうぞう・73)。学生運動が激しかった1960年代に宗教団体『生長の家』が設立した右派の学生組織『生長の家学生会全国総連合(生学連)』で椛島氏は活動し、日本会議の前身の『日本を守る国民会議』の事務局長になった」 一番の謎は、どのように運動を拡大して国民に浸透し、どこまで組織の実体があるのかという点だろう。 「日本会議の活動を下支えしているのは全国約8万社の神社を傘下に置く神社本庁と右派の神道系の新興宗教団体。日本会議は独自の組織で活動しているというより、宗教右派の統一戦線と捉えた方がいい。改憲署名集めも神社の境内などで行なわれてきた」(青木氏)) 第二次安倍政権の6年間で急速にその勢力を拡大させた組織がある。「日本会議」なる保守系団体だ。会員は約3万8000人(2016年時点)。政界には『日本会議国会議員懇談会』があり、衆参約280人が加入している。 2014年10月からはJR東海の葛西敬之・名誉会長(78)らが代表発起人となって「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成して国民運動を展開し、わずか4年で憲法改正に賛同する1000万人以上の署名を集めた。短期間のうちにこれだけの運動体を組織したオルガナイザーは誰なのか。組織の編成も、さらには任意団体のために資金力や経理も明らかにされていない。『日本会議の正体』の著書があるジャーナリスト・青木理氏が語る。 「事務総長として組織運営を仕切っているのは椛島有三氏(かばしまゆうぞう・73)。学生運動が激しかった1960年代に宗教団体『生長の家』が設立した右派の学生組織『生長の家学生会全国総連合(生学連)』で椛島氏は活動し、日本会議の前身の『日本を守る国民会議』の事務局長になった」 一番の謎は、どのように運動を拡大して国民に浸透し、どこまで組織の実体があるのかという点だろう。 「日本会議の活動を下支えしているのは全国約8万社の神社を傘下に置く神社本庁と右派の神道系の新興宗教団体。日本会議は独自の組織で活動しているというより、宗教右派の統一戦線と捉えた方がいい。改憲署名集めも神社の境内などで行なわれてきた」(青木氏)) 生長の家を支持基盤に国会に出た村上正邦・元自民党参院議員会長は日本会議の「生みの親」とされるが、過去、本誌・週刊ポストに対し、〈安倍政権の側近連中が、ことあるごとに発言するから、大きな力になっていくんですよ。地方議会においては、椛島あたりのシニア部隊が議員をオルグしていくから、議会がそれ(日本会議)に従うような構図が生まれてくる〉と分析している。 国会議員懇談会も、安倍内閣では“お友達”である懇談会メンバーが大臣の多くを占めていることから、入閣希望者が我も我も……と入会した傾向がある。 “強大な保守系団体”という印象ばかりが巨大化した日本会議。だが、現実には1000万の署名を集めるようになった。しかし、それが具体的にどのような政治力を持っているのかが依然として見えないこともまた“当世フィクサー像”の変化といえる』、「日本会議」については、このブログで取上げたのは、新元号問題で2019年4月3日、日本の政治情勢で2019年9月17日、右傾化では2016年6月16日、2016年10月9日、2020年4月7日、2021年4月1日tp、極めて多く取上げた。母体の「神社本庁」は内部がガタついているようだ。先日亡くなった「JR東海」の「葛西敬之・名誉会長」「らが代表発起人となって「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成して国民運動を展開し、わずか4年で憲法改正に賛同する1000万人以上の署名を集めた」、凄い手際だが、「日本会議」のみならず、「葛西敬之」氏らの力量が大きかったのだろう。

次に、2019年8月31日付け現代ビジネスが掲載したオタゴ大学教授の将基面 貴巳氏による「「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66844?imp=0
・『「愛国」という言葉、使用頻度の激増  日韓関係が緊張を増している今日、日本国内で愛国ムードが高まっている。それが証拠に、ツイッターでは分刻みで「愛国」という言葉が飛び交っている。しかし、愛国への関心の高まりはごく最近の現象ではない。 最近公刊した拙著『愛国の構造』(岩波書店)で指摘したように、「愛国」という用語を含む雑誌記事は、1990年代後半から戦後初めて急激に増加し始めた。教育基本法改正問題で揺れた2006年にピークに達したのちは、やや沈静化の傾向が見られる。しかし、現在でも、戦後まもなくのレベルを超える高水準を保っていることにかわりはない(図参照)。 現代では「愛国」という言葉をメディアで目にすることが、戦時中と変わらないほど日常的になっているといっても過言ではない。 だが、そもそも愛国的であるとはどういうことなのか。「愛国」とは、すなわち、ナショナリズムである、という理解が一般に広く流通している。しかし、このような認識は歴史的にいえば、必ずしも正しくないことを読者はご存知だろうか。『愛国の構造』と同時に刊行した拙著『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)で平易に解説したが、その一部をここに粗描しよう』、興味深そうだ。
・『日本人はいつ「愛国」という言葉を使い始めたか  明治時代が幕を開けたとき、日本の政治的・知的リーダーたちにとって、日本が近代国家として出発するための課題のひとつとは、日本人一人ひとりに愛国心を一日も早く持たせることだった。すなわち、明治初期の日本人は、愛国心など全く持っていなかったのである。 なぜなら、明治初期の日本人の大半にとって、愛国心とはそれまで聞いたことのなかった概念だったからである。そもそも「愛国」という言葉は、徳川時代以前の文献にはほとんど登場しない。日本人の多くは1891(明治24)年になっても、思想家・西村茂樹が“日本人の7、8割は愛国心が何であるかもわからない”と慨嘆するような状態にあったのだ。 ところが、日清戦争を経た1890年代後半に入って事情は一変する。フランスの宣教師リギョールは1898(明治31)年にこう書いている。「世界に国を成すもの沢山あり、然れども日本人程愛国々々と叫ぶ者は未だ嘗て見たることなし」。世界には国がたくさんあるが、日本人ほど「愛国、愛国」と絶叫する国民は見たことがない、というのである。日本人が愛国的な国民に生まれ変わったのは20世紀が始まる寸前のことなのだ。 もともと日本人が「愛国心」を全く知らなかったのであれば、日本人の「愛国心」の起源はどこに求めるべきだろうか。明治時代の早い段階から、愛国心は政治家や知識人たちによって論じられたが、その場合、「愛国心」という日本語は「パトリオティズム」の翻訳である、という但し書きが必ずといってよいほど添えられている。明治のリーダーたちにとって「愛国心」とは、英語にいう「パトリオティズム(patriotism)」だったのである。「愛国心」は元来、ナショナリズムではないのだ』、「明治のリーダーたちにとって「愛国心」とは、英語にいう「パトリオティズム(patriotism)」だったのである。「愛国心」は元来、ナショナリズムではないのだ」、なるほど。
・『パトリオティズムとは何か  「パトリオティズム」とは、あまり聞きなれない言葉かもしれない。それは、ラテン語にいう「パトリア」つまり「祖国」に忠実である思想を意味する。ただし、ここにいう「祖国」とは、「先祖代々住んできた国」や、「故郷の山河や人々」を意味しない。 古代ローマの哲学者キケロは、「パトリア(祖国)」が「生まれ故郷」を意味するだけでなく、「自分が市民権を有する国」を意味すると述べた上で、「自分が市民権を有する国」という意味の「祖国」に忠誠心を発揮することこそが重要だと主張した。この「市民的祖国」のためには自分の命をも惜しまない自己犠牲をキケロは説いたのである。 この「市民的祖国」とは、キケロにとって、共和主義の主張の中核をなすものだった。共和主義とは、市民の自治を通じて、市民にとっての共通善(自由や平等といった政治的価値とそうした価値を実現するための政治制度)を守る主張である。したがって、キケロ以来、ヨーロッパにおいて、愛国心パトリオティズムとは、共和主義的な政治的価値やその価値を実現する政治制度に忠誠心を抱くべきだという主張や政治的姿勢を意味してきた。 視点を変えれば、愛国心パトリオティズムにとっての“敵”とは、市民の自由や平等を脅かす暴政である。西洋政治思想史における「暴政」という概念は、暴虐非道な政治を必ずしも意味しない。「暴政」とは、一部の人々が私利私欲の追求に走り、権力を乱用することで共通善を破壊し、政治が腐敗する事態を意味する。 したがって、愛国者パトリオットとは、元来、反体制側に属する人々を意味していた。なぜなら、体制側の人々こそが、私益のために権力を私物化しうる存在だからである。愛国心パトリオティズムとは、共通善を脅かす権力の乱用に抵抗する姿勢を意味したといってもよいであろう』、「愛国心パトリオティズムとは、共通善を脅かす権力の乱用に抵抗する姿勢を意味した」、ふーん。
・『ナショナリズムとパトリオティズムの違い  これに対し、ナショナリズムの語源は、ラテン語にいう「ナティオ(natio)」であり、「同郷の人々」や「言語や社会慣習を共にする人々の共同体」を意味した。「ナティオ」は中世末期から広く流通した概念である。実際、15世紀の中世ヨーロッパを支配したローマ教会では、「ナティオ」という同郷者団体が形成され、それらの間でいわば派閥抗争が見られた。この「ナティオ」が、のちに英語で「国民」や「民族」を意味する「ネイション(nation)」となったのである。 ナショナリズムとは広く定義すれば「ネイション」の独自性にこだわる主張や政治的姿勢を意味する。「ネイション」の中身は、同一ネイションのメンバーの間で共有する言語や社会慣習、文化や宗教、歴史などといった事柄であるために、異なる言語や文化、歴史などを有する他のネイションに対して潜在的に敵対関係にある。この点、パトリオティズムが「パトリア(祖国)」=共和主義的な政治的価値と制度にこだわるのと明らかに異なっている。 さらに、パトリオティズムの場合、共和主義的な価値やそれを保証する制度がある国であれば、自分の国に限らず他国でも「祖国」でありうると考える。言い換えれば、自分の国から市民の自由や平等が失われれば、自分の国でさえも、もはや「祖国」ではないと考えるのである。 この点、ナショナリズムの場合、同郷者の間で言語や文化、歴史を共有している点にこだわるのだから、自分の生まれ育った環境と「ネイション」とは切り離すことができない。したがって、自分の生まれ育った国がどれほど劣化し暴政の下にあっても、その国が自分にとってのネイションであることにかわりはない。このように、パトリオティズムとナショナリズムは、出自も性格も大きく異なる政治思想なのである』、「パトリオティズムとナショナリズムは、出自も性格も大きく異なる政治思想」、なるほど。
・『ナショナリズムとパトリオティズムの「合流」  では、現代日本では、なぜ“愛国心=イコールナショナリズム”という理解が一般的なのか。先に指摘したように、明治時代のリーダーたちは、「愛国心」が「パトリオティズム」の翻訳であることを自覚していた。それにもかかわらず、「愛国心」がナショナリズムを意味するかのような“すり替え”が起こったのは何故なのか。 それは、明治日本が西洋から輸入したパトリオティズムが、古典的な共和主義的なものではなく、ナショナリズムの影響を受けて変質したものだったからである。キケロ以来の古典的なパトリオティズムを〈共和主義的パトリオティズム〉と呼ぶとすれば、ナショナリズムの影響を受けたものは〈ナショナリズム的パトリオティズム〉と名付けることができる、別の代物なのだ。) 〈共和主義的パトリオティズム〉はヨーロッパの歴史において、古代から中世・ルネサンス、そして17世紀を通じて生き続けた、いわば“本家本元”のパトリオティズムである。 しかし、18世紀末期のフランス革命をきっかけとして、ナショナリズムとパトリオティズムの“合流”がおこる。フランス革命は、貴族や聖職者からなる特権階級が運営した旧体制(アンシャン・レジーム)を打倒すべく、中産階級や農民、手工業者などを含む第三身分の人々が立ち上がったことから発生した歴史的大事件である。第三身分の人々は、「愛国者パトリオット」であり「国民ネイション」であると自称し、革命運動を展開した。一方、特権階級の人々は、第三身分の人々を「愛国者パトリオット」や「国民ネイション」と呼んで敵視したのだ。 革命が進展を遂げるにつれて、革命政府は全てのフランス民衆に「フランス国民」としての意識を植え付けるために、様々な祝典、儀礼、教育をおこなった。特に重要だったのは、言語教育である。 フランスという国ではもともと、各地方の独自性が強く、地方ごとに話されていた言語すら異なっていた。フランス語という「標準語」を教え込むことで言語的な統一性を生み出したのである。さらに、「フランス国民の歴史」が歴史家たちによって書かれた。異なる地方の出身の、どの時代の歴史上の人物も、全て同じフランス人であるという認識がこうして形成された。 このようにフランスの言語や歴史、文化の統一性を追求する姿勢は、紛れもなくナショナリズムの性格を帯びている。しかし、その一方で、革命勢力が謳った政治的理想は人類普遍の自由と平等であり、その点では共和主義の伝統をも継承していた。つまり、フランス革命では、共和主義とナショナリズムとが同居していたわけである。 その結果、「パトリア(祖国)」観も変貌した。共和主義的な自由や平等という政治的価値は、フランス国民が“すでに実現したもの”と理解されたのだ。すなわち、共和主義的な「パトリア(祖国)」とナショナリズム的な「ネイション」とが等号で結ばれることとなった。こうして「祖国」という言葉には、その“国民ネイションの言語や文化、歴史”という意味も盛り込まれた。これが〈ナショナリズム的パトリオティズム〉である』、「フランス革命では、共和主義とナショナリズムとが同居していた」、「共和主義的な自由や平等という政治的価値は、フランス国民が“すでに実現したもの”と理解されたのだ。すなわち、共和主義的な「パトリア(祖国)」とナショナリズム的な「ネイション」とが等号で結ばれることとなった。こうして「祖国」という言葉には、その“国民ネイションの言語や文化、歴史”という意味も盛り込まれた。これが〈ナショナリズム的パトリオティズム〉である」、なるほど。
・『愛国は「自己礼讃」ではない  さて、フランス革命から80年ほどが経過した、明治初期の日本に流入したのは、〈共和主義的パトリオティズム〉と〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の両方だった。前者は、自由民権運動を主導した植木枝盛うえきえもりらが主張し、後者は、日本の国際的独立を説いた福沢諭吉が採った政治的立場だった。 ふたつの立場の間で論戦が戦われた結果、〈共和主義的パトリオティズム〉が敗退したが、最終的に勝利を収めたのは〈ナショナリズム的パトリオティズム〉ではなかった。論争の果てに登場したのは、「忠君愛国」というスローガンだった。つまり、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉に「忠君」つまり、天皇への忠誠を接合することで日本独自の「愛国心」が誕生したのである。 このような歴史的経緯を踏まえれば、なぜ現代日本では「愛国心」がナショナリズムと同一視されるのか、明白であろう。日本では、〈共和主義的パトリオティズム〉を明治時代に早々と捨て去り、「愛国心」をネイションの文化や歴史によって彩られるものとしてしまったのだ。 しかし、欧米においては、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の勢いに押されつつも〈共和主義的パトリオティズム〉の伝統は今日なお生き続けている。アメリカでは2017年に、ジャーナリズムの重鎮ダン・ラザーが愛国心を論じた書物を発表し、ベストセラーとなった。その書物は、“権力に対して異議申し立てをすることが愛国的である”と強調している。反体制派による政治権力への批判的態度こそが、本来の共和主義的愛国心パトリオティズムなのだ。 現代日本では、一般に「愛国者」を自認する人々とは、日本の文化や歴史を誇り、現政権を支持し「嫌韓」を叫ぶ体制派である。彼らは、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の信奉者たちである。 しかし、本来の「愛国心」とは政治権力の横暴から市民的自由と平等を守る〈共和主義的パトリオティズム〉である。〈共和主義的パトリオティズム〉は、自国を溺愛し、自国をひたすら誇りに思う自己礼讃とは無縁である。時の政府による権力行使が、市民的自由や平等を脅かしていないか、厳重に監視する態度にほかならない。 しかし、〈共和主義的パトリオティズム〉が今日なお息づいている欧米とは異なり、日本ではこれまで共和主義的愛国心パトリオティズムが根付くことはなかった。「愛国」が体制派の“専売特許”であるかのような傾向が日本では著しい所以である』、「日本では、〈共和主義的パトリオティズム〉を明治時代に早々と捨て去り、「愛国心」をネイションの文化や歴史によって彩られるものとしてしまったのだ」、特に「「忠君愛国」は捻じ曲げの最たるものだ。「「愛国」が体制派の“専売特許”であるかのような傾向が日本では著しい所以である」、やはり歴史的に捉える必要があるようだ。

第三に、本年6月29日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏による「世界で高まるナショナリズムが「危険な宗教」である理由、佐藤優氏が解説」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/305578
・『ウクライナ戦争をきっかけに、第二次世界大戦後に確立した国際秩序は崩れつつあります。これから世界は、そして日本はどうなってしまうのか?われわれはいま、どう行動すべきなのか?作家の佐藤優さんは「この際重要なのは、ナショナリズムの力を正確に理解すること」だと言います。そこで今回は、佐藤優さんの新刊『国家と資本主義 支配の構造』(青春出版社)から、ウクライナ戦争をきっかけに世界中で高まる「ナショナリズム」について解説します』、興味深そうだ。
・『わたしたちはナショナリズムの意識に侵されている  2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻しました。この事件は、第二次世界大戦後に確立した国際秩序を、根本から崩す性格を帯びています。この際重要なのは、ナショナリズムの力を正確に理解することです。 ロシアの侵攻は、ウクライナの主権と国家の一体性を毀損する、国際法に違反する行為です。しかし、その構造的要因は、ウクライナにおける上からの民族形成政策と、民族よりも国家への忠誠を重視する帝国型のロシア国家体制の、軋轢にあると私は考えています。 「ナショナリズムの力」は、わたしたち日本人にも働いています。 尖閣諸島沖で中国海警局の船が挑発的な行動をとっているニュース映像を見て、彼らの行為に怒りを覚え、「圧力に屈するな」とか「力ずくでも相手をねじ伏せてしまえ」と憤ります。弱腰の政府の態度に、腹を立てることもあります。) しかし、中国や台湾の側にも言い分があります。すでに15~16世紀に、自国人によってこれらの島が発見された記録があるとして、日本側の主張する「先占の法理」(いずれの国にも属していない土地に関しては、先に支配を及ぼした国の領土とする考え方)は成り立たないと主張しているのです。 領土問題となると、政府も国民も、とてもナーバスになります。 しかしそもそも、いったいわたしたちのどんな価値判断が、われわれをナーバスにするのでしょうか? 動物は本能的に、「縄張り」に対して非常に敏感です。犬や猫、猿などの動物は、縄張りのなかのエサをとることで生存できているわけで、外敵が入ってくれば全力で威嚇し排除しようとします。生活の場を確保するために、外敵の侵入を許さないのです。人間も動物ですから、これは同じです。 ところが、犬や猫が「目に見える範囲の縄張り」だけを守ろうとするのに対して、人間は、行ったことも見たこともない土地までも守ろうとします。日本人のほとんどは、尖閣諸島に行ったことがないはずです。なのに、そこを守ろうとするのです。 行ったことも見たこともない尖閣諸島という「縄張り」を守ろうとするのは、子どものころからわたしたちが、「自分は日本人である」と教えられてきたためです。そういう価値判断の基準を持っているということです。だから日本の領海が侵犯されれば、許せないという気持ちになるのです』、「行ったことも見たこともない尖閣諸島という「縄張り」を守ろうとするのは、子どものころからわたしたちが、「自分は日本人である」と教えられてきたためです。そういう価値判断の基準を持っているということです。だから日本の領海が侵犯されれば、許せないという気持ちになるのです」、「領海が侵犯」への「怒り」は「教育」のなせるわざだ。
・『ナショナリズムとは、現代における一種の宗教である  「自分は日本人である」というような国民としての意識、国を守ろうという意識、こうした意識のことを「ナショナリズム」と言います。 領土問題のニュースを見て価値判断するとき、われわれにはナショナリズムの意識が、自然と働いているのです。 気をつけなければならないのは、この意識が本能的なものではなく、教育などによってあとから植え付けられた意識である、ということです。 わたしは「ナショナリズム」を、現代における一種の宗教だと考えています。 ナショナリズムは、日本語では「国家主義」「国民主義」「民族主義」と訳されています。自国の文化や歴史、政治体制を誇り、国内的にはその統一を図り、国外的にはその独立性を維持し強化しようとする動きです。一口にナショナリズムと言っても、その表れ方は、各国における歴史や慣習、政策などによって多種多様です。 つい先ごろまで、世界はグローバル化が進み、国家間のボーダーラインが曖昧になってきていました。おのずと、自国に対する国民の忠誠心も薄らいでいました。 ところが近年は、その反動として、ナショナリズムを煽ることで国家への求心力を高めようとする動きが、各国で起きています。とくに新型コロナウイルスの蔓延やウクライナ戦争によって、「自国優先主義」はより鮮明になりました。 国内でも、新型コロナ禍による不景気や失業で、国民には不平不満が溜まっています。国は、その不平不満が政府に向けられないよう、外交問題や領土問題など「国外」の問題に目を向けさせることで、国民のナショナリズムの意識を煽ろうとします。 このようにナショナリズムは、国家から意図的に操作されたり強められたりすることがあります。政府の外交政策や領土問題に関するニュースを見て、われわれはそれと気づかず無意識的に、ナショナリズムの意識を強めているのです。 現在、世界各国で起きているナショナリズムの高まりは、とても危険なことだとわたしは考えています。 ですからわれわれは、ナショナリズムという現代の宗教に完全に洗脳されてしまわないように、“マクロな視座”でこの現象をとらえ、突き放して見つめる必要があります』、「ナショナリズムという現代の宗教に完全に洗脳されてしまわないように、“マクロな視座”でこの現象をとらえ、突き放して見つめる必要があります」、同感である。
・『ナショナリズムがわかると、社会のカラクリが見えてくる  アーネスト・ゲルナー著『民族とナショナリズム』(加藤節 監訳、岩波書店、2000年)は、現代に蔓延するナショナリズムという現象を理解するために、マクロな視座を与えてくれる格好のテキストです。 アーネスト・ゲルナーは、1925年にフランスのパリでユダヤ人の家庭に生まれ、チェコスロバキアのプラハで育ちました。ナチス・ドイツのプラハ占領で、1939年に家族とともにイギリスに移住し、オックスフォード大学を卒業します。1962年からロンドン大学の哲学教授、1984年からケンブリッジ大学の社会人類学教授を勤めるなど、イギリスの哲学者、社会人類学者、歴史学者として、第一線で活躍した人です。 ゲルナーは、ナショナリズムについて、「産業社会の勃興のなかで、必然的に生まれてくる現象である」と説きます。 自分の国や、その伝統や文化を愛し、それを大切にする気持ちは、自然に湧き起こるもののように思えます。しかしゲルナーによれば、そういう気持ちは自然発生的なものではなく、国家の教育によって植え付けられた「後付け」の意識だ、と言うのです。 そしてなぜ、自国を愛する気持ち、すなわちナショナリズムの意識が国家にとって重要なのかというと、それが、その国の産業発展にとって都合が良いからに過ぎない、と言うのです。 『民族とナショナリズム』の与えてくれるマクロな視座によって、わたしたちは、メディアやSNSからの情報を受け取るだけでは見えてこない「社会のカラクリ」に気づくことができます』、「ゲルナーは、ナショナリズムについて、「自然発生的なものではなく、国家の教育によって植え付けられた「後付け」の意識だ、と言うのです。 そしてなぜ、自国を愛する気持ち、すなわちナショナリズムの意識が国家にとって重要なのかというと、それが、その国の産業発展にとって都合が良いからに過ぎない」、なるほど。
・『拝金教に出世教、現代に蔓延する“新宗教”から身を守れ  “現代の宗教”と言えるものは、「ナショナリズム」だけではありません。 わたしたちが、当たり前だとか当然だと思っている判断基準のなかには、じつは思い込みや妄信に過ぎないものが多々あります。 その1つが、お金への信仰です。 1万円札を実際につくるときのコストは、1枚あたり22~24円ほどだと言われています。この22~24円の紙が、1万円の価値を持つものとして、だれも疑うことなく市場で流通しているのです。 よくよく考えたら奇妙なことなのですが、日本国政府が通貨として認め、日本の人々、あるいは世界の人々が、「1万円の価値を持つものだ」と信じているからこそ、1万円札として成り立っているわけです。 このような「共同幻想」そのものが宗教的ではあるのですが、現代の資本主義社会においては、「お金は絶対的なもの」と多くの人に信じられています。愛情さえもお金で買える─。) そのように考える人が出てくるほど、お金は絶対的な価値を持つものとして君臨しています。 わたしは「拝金教」と呼んでいますが、みんながこの宗教による、ある種の洗脳を受けていると言えます。 近代以降、自然科学の発達とともに、それまで信じられていた伝統的な宗教の考え方ではなく、「合理的精神」が、人々のさまざまな価値判断の基準となっていきました。神によってこの世界がつくられたと本気で信じる人は少なくなり、神に変わる新たな価値観を求めて、人々はお金を拝んだり、国家を絶対視したりするようになります。 お金や国家への依存心は、産業社会の支配者である資本家や、国家の為政者にとっては、都合が良いことです。こうして人々は、それと知らずに社会のカラクリのなかに巻き込まれ、そこで植え付けられた価値観のなかでしか物事を判断できなくなっているのです。 『民族とナショナリズム』を読み解くことで、ナショナリズムという宗教に限らず、現代にはびこるさまざまな「宗教的なもの」を、俯瞰して見つめることができるようになります。 そうすることによってあなたは、人生を「呪縛するもの」から解き放たれることができるでしょう』、「お金や国家への依存心は、産業社会の支配者である資本家や、国家の為政者にとっては、都合が良いことです。こうして人々は、それと知らずに社会のカラクリのなかに巻き込まれ、そこで植え付けられた価値観のなかでしか物事を判断できなくなっているのです。 『民族とナショナリズム』を読み解くことで、ナショナリズムという宗教に限らず、現代にはびこるさまざまな「宗教的なもの」を、俯瞰して見つめることができるようになります。 そうすることによってあなたは、人生を「呪縛するもの」から解き放たれることができるでしょう』、なるほど。
・『◆本コラムの作者・佐藤 優氏の新刊が発売中! 『国家と資本主義 支配の構造』 佐藤 優著 青春出版社刊 2200円(税込)  ほとんどの大人が知らない、世の中の「残酷な真実」とは――? 資本主義とナショナリズムの現代に生きるわたしたちは、それと気づかず“支配の構造”に巻き込まれ、マインドコントロールされています。そしてこのなかで植えつけられた価値基準でしか、物事を判断できなくなっているのです。 現代社会で心折れずに生き抜くためには、“支配の構造”を見破り、自分の置かれている状況を俯瞰して見つめることが、とても重要になってきます。 佐藤優氏が、社会人類学者アーネスト・ゲルナーの名著『民族とナショナリズム』をテキストに、現代の“支配の構造”を解き明かし、だまされずに賢く生きるための思考法を伝授します』、時間ができたら読んでみたい。
タグ:将基面 貴巳氏による「「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史」 現代ビジネス 「日本会議」については、このブログで取上げたのは、新元号問題で2019年4月3日、日本の政治情勢で2019年9月17日、右傾化では2016年6月16日、2016年10月9日、2020年4月7日、2021年4月1日tp、極めて多く取上げた。母体の「神社本庁」は内部がガタついているようだ。先日亡くなった「JR東海」の「葛西敬之・名誉会長」「らが代表発起人となって「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成して国民運動を展開し、わずか4年で憲法改正に賛同する1000万人以上の署名を集めた」、凄い手際だが、「日本会 NEWSポストセブン「日本会議 なぜ憲法改正1000万人の署名を集められたのか」 愛国、ナショナリズム (その2)(日本会議 なぜ憲法改正1000万人の署名を集められたのか、「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史、世界で高まるナショナリズムが「危険な宗教」である理由 佐藤優氏が解説) 「明治のリーダーたちにとって「愛国心」とは、英語にいう「パトリオティズム(patriotism)」だったのである。「愛国心」は元来、ナショナリズムではないのだ」、なるほど。 「愛国心パトリオティズムとは、共通善を脅かす権力の乱用に抵抗する姿勢を意味した」、ふーん。 「パトリオティズムとナショナリズムは、出自も性格も大きく異なる政治思想」、なるほど。 「フランス革命では、共和主義とナショナリズムとが同居していた」、「共和主義的な自由や平等という政治的価値は、フランス国民が“すでに実現したもの”と理解されたのだ。すなわち、共和主義的な「パトリア(祖国)」とナショナリズム的な「ネイション」とが等号で結ばれることとなった。こうして「祖国」という言葉には、その“国民ネイションの言語や文化、歴史”という意味も盛り込まれた。これが〈ナショナリズム的パトリオティズム〉である」、なるほど。 「日本では、〈共和主義的パトリオティズム〉を明治時代に早々と捨て去り、「愛国心」をネイションの文化や歴史によって彩られるものとしてしまったのだ」、特に「「忠君愛国」は捻じ曲げの最たるものだ。「「愛国」が体制派の“専売特許”であるかのような傾向が日本では著しい所以である」、やはり歴史的に捉える必要があるようだ。 ダイヤモンド・オンライン 佐藤 優氏による「世界で高まるナショナリズムが「危険な宗教」である理由、佐藤優氏が解説」 「行ったことも見たこともない尖閣諸島という「縄張り」を守ろうとするのは、子どものころからわたしたちが、「自分は日本人である」と教えられてきたためです。そういう価値判断の基準を持っているということです。だから日本の領海が侵犯されれば、許せないという気持ちになるのです」、「領海が侵犯」への「怒り」は「教育」のなせるわざだ。 「ナショナリズムという現代の宗教に完全に洗脳されてしまわないように、“マクロな視座”でこの現象をとらえ、突き放して見つめる必要があります」、同感である。 アーネスト・ゲルナー著『民族とナショナリズム』 「ゲルナーは、ナショナリズムについて、「自然発生的なものではなく、国家の教育によって植え付けられた「後付け」の意識だ、と言うのです。 そしてなぜ、自国を愛する気持ち、すなわちナショナリズムの意識が国家にとって重要なのかというと、それが、その国の産業発展にとって都合が良いからに過ぎない」、なるほど。 「お金や国家への依存心は、産業社会の支配者である資本家や、国家の為政者にとっては、都合が良いことです。こうして人々は、それと知らずに社会のカラクリのなかに巻き込まれ、そこで植え付けられた価値観のなかでしか物事を判断できなくなっているのです。 『民族とナショナリズム』を読み解くことで、ナショナリズムという宗教に限らず、現代にはびこるさまざまな「宗教的なもの」を、俯瞰して見つめることができるようになります。 そうすることによってあなたは、人生を「呪縛するもの」から解き放たれることができるでしょう』、なるほど。 国家と資本主義 支配の構造』 佐藤 優著 時間ができたら読んでみたい。
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