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終末期(その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい) [人生]

終末期については、5月1日に取上げた。今日は、(その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい)である。

先ずは、7月27日付けPRESIDENT Onlineが掲載した看護師の前田 和哉氏による「バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには、変わり果てた姿になっている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/59928
・『救命救急の現場では、どのような治療が行われているのか。『自分らしい最期を生きた人の9つの物語』(KADOKAWA)を上梓した看護師の前田和哉さんは「ICUに運び込まれてくれば、延命治療が最優先になる。このため胸の骨をバキバキと折りながら、心臓マッサージを続けることもあった。私はそんな現場に疑問を持って、救急科を離れることになった」という――』、看護師にとっては「救急科」にも予想外の落とし穴があるようだ。
・『新人ナース時代に感じた“違和感”  私が看護師としてのキャリアをスタートしたのは、2009年のこと。静岡県内の総合病院に就職し、救急科の集中治療室(ICU)に配属されました。 救急科には昼夜問わず、ひっきりなしに重篤な患者さんが運ばれてきます。中には治療によって回復する人もいましたが、運ばれてきた時点ですでに心肺停止に近い状態で、手の施しようのない方もたくさんいました。 1分1秒を争うような厳しい現場で患者さんの治療やケアに奔走していた私は、看護師として日々やりがいを感じながらも、ある違和感をおぼえるようになりました。 それは、今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくことでした』、「今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくこと」、確かに現在の医療の矛盾点だ。
・『骨が“バキバキ”と折れても心臓マッサージは行われる  実際に救急の現場でどのような救命措置や延命治療が行われていたのか。 まず、患者さんが心肺停止に陥った場合、即座に心臓マッサージが行われます。ただ、強い力で胸骨を圧迫するため、骨がバキバキと音を立てて折れてしまいます。特に高齢の方の場合は骨ももろくなっており、若い人以上にダメージが大きいのは間違いありません。 衝撃だったのは、その折れた骨が肺に刺さって、たびたび出血するということ。患者さんはこの時点で自発呼吸が弱まっているため、人工呼吸器の管を付けることになりますが、その際に吐血のように血が噴き出してくるのです。 さらに患者さんはショック状態に陥っていて、血も止まりにくくなっている。とめどなく流れる血液を吸引したり、拭き取ったりする処置をし続けなければなりませんでした。 血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置もナースの仕事の一つでした。 あまりに痛々しくて、目を覆いたくなるような場面もありましたが、実際に医療現場でどのようなことが起こっているのか、知っていただきたいと思い、ありのまま書かせてもらいました。 医療系ドラマの救命のシーンのように、「命が助かってよかった」と軽々しく言えないほど、壮絶な現場であったことは確かです』、「血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置もナースの仕事の一つでした」、確かに救急医療行為の副作用は想像以上に酷いようだ。
・『延命治療をしてよかったのかと悔やむ家族  そのことを最も痛切に感じたのは、間近で見ているご家族ではないかと思います。もちろん、医師や看護師が処置をしている最中はご家族に見せることはありません。 ですが、救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている。その姿を見て、本当にこうした措置を行ってよかったのかと、後悔の念にさいなまれるご家族がいたことも事実です』、「救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている」、「家族」にも覚悟が必要なようだ。
・『なぜ、救命救急の現場でこのような措置が取られるのか?  まず、心肺蘇生や延命治療を行うかどうかについては、ご本人の意識がないため、ご家族に確認します。ところが、ご家族もご本人の意思を把握していないことが多いので、なかなかすぐに決断ができません。その上、救急搬送されたショックもあり、思わず「命を助けてほしい」と、同意してしまうケースが多いのです。 ご家族と連絡がつかない場合も、医師の判断で救命措置がとられることになります。病院はまず「命を救う」ことが第一優先だからです。 ただ、「命を救う」という認識が、病院側とご家族の間で必ずしも一致していないのも事実。ご家族は「どうにか本人の命を助けてほしい」と救命や延命措置に同意しますが、病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません』、「病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません」、その通りだろう。
・『一命を取りとめたとしても、重篤な後遺症をもたらす可能性がある  蘇生行為によって一命を取りとめたとしても、意識不明のままであったり、重篤な後遺症をもたらしたりすることもあります。 それに加え、延命治療を途中でストップすることは困難です。現行の法律に「尊厳死」はなく、もし延命治療を中止した場合、医師の刑事責任が問われる恐れがあります。 そのため、人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません。 その間、家族が通院して介護することになり、精神面、肉体面のみならず、経済的にも多大な負担を強いられます』、「蘇生行為によって一命を取りとめたとしても、意識不明のままであったり、重篤な後遺症をもたらしたりすることもあります。 それに加え、延命治療を途中でストップすることは困難です」、「人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません」、「人工呼吸器」の装着は事前に家族の了解を取るのだろう。
・『何度も話し合いを重ねることで「本人の意思」をくみ取れる  人生の最終段階において、自分がどういう最期を迎えたいのか? 家族や医療・ケアチームと前もって話し合う、「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」、通称「人生会議」の重要性が叫ばれています。 「ACP(人生会議)」は、厚生労働省を中心に普及活動が行われていますが、中でも強調されているのが、本人と家族、医療・ケアチームの間で「繰り返し話し合う」という点です。 なぜ、話し合いを重ねたほうがいいのかというと、心身の状態によって本人の意思が変わる可能性があったり、家族の側が本人に対して望むこともあったりするからです。 例えば、本人は「家族に迷惑をかけたくないから、延命治療はしたくない」という想いを持っていても、家族は「できるだけの治療を受けて長く生きてほしい」と願っている場合もあります。お互いに想いをすり合わせることが、本人だけではなく残される家族にとっても、悔いのない最期につながりやすくなるのです。 近年の終活ブームにより、エンディングノートを書く人が増えましたが、書いておくだけでは残念ながら不十分です。 せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成すものだと考えます』、「せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成す」、大いに気をつけたい。
・『術後のリスクや後遺症を事前に理解しておくべき  また、人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです。というのも、延命治療にはどういうものがあり、その治療によって実際にどういうリスクがあるのか、医療者の立場でないと詳しくわからない部分があるからです。 これは私自身の家族のケースになりますが、以前こんな出来事がありました。 祖母が脳腫瘍を患い、手術をするかどうか家族内で話し合った時のことです。 祖母は、「どうしても手術がしたい。失敗しても自分が死ぬだけだから、責任は自分で取る」と言っていたため、家族もその想いに同意したのですが、現役の看護師でもある私は「待った」をかけました。そこでこう告げたのです。 「厳しいようだけど、もし手術が失敗した場合、重い障害が残り、寝たきりになるリスクもある。そのままずっと介護が続く恐れもあるよ」と。すると、家族は「そこまで想像していなかった」と言い、改めて手術をするべきかどうか考え直したのです。 結果的に手術を受けることになりましたが、術後のリスクや起こり得る後遺症を理解し、覚悟を持った上で治療に挑むのと、何も知らずに挑むのとでは、その後の事態の受け止め方が変わってきます。 私の場合はたまたま医療従事者の立場から意見が言えましたが、そうした医療の面からの視点も加えることで、より納得のいく決断がしやすくなるでしょう』、「人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです」、理想論ではあるが、現実には「医療従事者を交える」ことは難しいそうだ。
・『本人の意思を伝えられる代理人の存在が重要  終末期における延命治療については、さまざまな方法があります。いわゆる三大延命治療と言われているのが、「人工呼吸」「人工栄養」「人工透析」です。 中でも、口から栄養が取れなくなった場合に行われる「人工栄養」は種類も幅広く、点滴で注入する「末梢まっしょう静脈栄養法」、心臓に近い太い静脈に注入する「中心静脈栄養法」、鼻からチューブで胃に送る「経鼻経管栄養法」、胃に直接チューブで送る「胃瘻いろう」などがあります。 これらの治療は具体的にどのように行われるのか? 治療を行うことによってどのようなリスクがあるのかなど、それぞれのメリット・デメリットについて、医師から十分な説明を聞くと同時に、不安な点を確認しておくといいでしょう。 患者さん本人が自分の意思を明確に伝えられる場合はよいのですが、終末期の時にはすでに話せる状態にないことも多いかもしれません。 その場合には、本人に成り代わって、意思や希望を伝えられる代理人(代理意思決定者)となる人がいるとスムーズです。 例えば、「父(母)は、昔から食べることが好きで、『口から食べられなくなったら寿命だ』と言っていた。だから、胃瘻いろうの造設はしないでほしい」といったことや、「本人は延命治療を望んでいないが、痛かったり苦しかったりするのはとても嫌だと言っていた。最期、苦痛だけでも取り除いてもらえないか」など、本人の望みをまるで“影武者”のように医師に伝えられるとベストです。 そのためにも、「自分がどういう最期を迎えたいのか」を日頃から家族や身近な人に伝えておくと同時に、家族自身も本人の意向や考え方を知る努力が必要だと言えます。 幸せな最期とは、自分の望んだ形で人生のゴールテープを切れること――。多くの終末期の患者さんやご家族を見てきて、そう実感しています』、私の母の場合には、「人工栄養」は断ったので、最後の時はそれだけ早く来たが、それでよかったと思っている。

次に、8月24日付けPRESIDENT Onlineが掲載した東京大学名誉教授の矢作 直樹氏による「マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた」を紹介しよう。
・『孤独死は避けるべきものなのか。東京大学名誉教授の矢作直樹さんは「一人でいることは決してネガティブなことではなく、家で孤独死することは本来褒められることだ。人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」という――。※本稿は、矢作直樹『閉塞感がニャくなる魔法の言葉88』(ワニブックス)の一部を再編集したものです』、「人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」、面白い考え方だ。
・『孤独死は特別なことでも寂しいことでもない  猫は気高く誰にも見られずに死ぬ、と言われています。これは、身体が弱ってきたときには誰の目にもつかないところに逃げ込むという防衛本能によるものだとも言われています。 今、世間では孤独死を、よくないこととして、問題として扱っている風潮があります。私はそうは思いません。 一人で家で死ぬということは、つまり、それまで一人で家で生活していたということです。 これは褒められこそすれ、非難されるようなことではありません。 家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません。 寂しくもありません。先に逝った、あなたにとって懐かしい人が迎えに来るからです。両親かもしれませんし、配偶者や友人かもしれません。もしかしたら、飼っていたペットも一緒に迎えに来てくれるかもしれません。死は終わりではなく、こちらからあちらへ処替ところがえするだけです。楽しみに待っていていいのです。 独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません。脱いだ服が少々傷いたんでしまうだけです』、「家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません」、「独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません」、発想法一つで世間の常識が頼りにならないことを示している。
・『一人でいても自由に好きなことができる  仲間がいないのを嘆くことはありません。一人でも楽しいことはたくさんあります。一人でできることに楽しみを見つけることができればいいのです。一人は気ままで自由です。 そういうと、そうした人生に意味があるのか、などとにらまれそうです。でも、人生に意味などいるのでしょうか。一匹で歩いている猫を見て不幸と感じるでしょうか。一人の気ままな自由を実感したら、きっと、人生に意味を見出す必要などないと思うでしょう。 私は学生のときから、一人でいるのが好きでした。山登りや自転車やランニングが好きなのは一人でできるからです。自分のペースで、誰に気兼ねする必要もありません。 山へはだいたい一人で行きます。長い時は3週間近く、人に会わないこともあります。冬は寒いです。風呂にも入れません。食事も質素なものになります。「何が楽しいの?」と友人に真顔で聞かれますが、荷物を詰め、山の準備をしているときは、まるで遠足前の子どもです。 また、私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています。ランやグズマニアをいただいて鉢分けしたり、近所の花屋で買ったハイビスカスやブーゲンビリアなども育てていて、冬なのに花を咲かせていたりすると本当にけなげだと思います。話しかけると、まるで答えてくれるようなのです。 音楽を聴いたり、地図を見たり、本を読んだり、私の好きなことはすべて一人でできるものです。人嫌いなわけではありません。小さい頃から、一人でいる時間が多いのです。そこに、童心に戻れるような瞬間が少しでもあれば、それが幸せというものです』、「私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています」、もともと独身のようだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BD%9C%E7%9B%B4%E6%A8%B9
・『私がテレビのニュースを見ない理由  猫はたぶん、テレビを見ません。ですから、擬人化された漫画や小説の中の猫でもない限り、ニュースを見て世の中を嘆いたりはしません。 私は一方的にたれ流されるテレビのニュースは見ないようにしています。必要な情報はネットや文献から取捨選択します。 私たちができるのは、自分の心持ちをしっかりさせることだけです。それができないのなら、なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです。同様に、つきあう友だちも自分で選べます。できる限り、自分が心地良いものを取り入れるようにしましょう』、「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです」、私は「ニュース」は「ネガティブな」ものであっても「インプットする」ようにしている。「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう」、とすると、自分の判断基準がおかしくなってしまう懸念があるためだ。
・『マスコミは心配をあおることばかりする  たとえば、子どもへの虐待が後を絶たない、というニュースをよく目や耳にしますが、本当にそうでしょうか。ネットに公表されている警察庁の公式データを見ると、2009年から子供の虐待死の数は減少しています。 その一方、虐待事件の件数は増えています。これには理由があります。児童虐待防止法が制定されて虐待の範囲が大幅に拡大されたからです。この法律に基づいて警察が虐待の捜査や検挙に積極的に取り組むようになったために見た目の数字が増えました。ニュースは、データに基づいて正確に読み取る必要があります。マスコミは心配をあおることばかりするものです。 世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます』、「世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます」、私は「世の中を変えること」の難しさは理解した上で、それでも「変える」努力をすることに意義を見出している。
・『「万が一の事態」に向けて心がけることは…  「備え」をして、「恐れ」を手放してください。猫のようにいつも泰然自若としていましょう。 でも、「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です。3日間の内に、自治体の対策が整ってきます。そのための備えが必要、というわけです。具体的な準備については、消防庁のホームページなどに一般的な案内が載っています。 いろいろなものが入った「非常袋」を今はかんたんに買うこともできます。他に、赤ちゃんのオムツとか、ペットを飼っているならペットフードの備えとか、自分なりにアレンジする必要もあるでしょう。 私はいつも登山用のヘッドライトをカバンの中に入れています。電源が落ちても、明かりがあればとりあえず安全な場所へ動くことはできます。準備は想像力を働かせて行いましょう。 「○○になったら、○○する」というシミュレーションも必要です。これも想像力が必要です。自家用車を持っているなら、水没しそうになったら窓を割る、ということでカナヅチなどを運転席に備えておくこともいいでしょう。 準備が終わったら心配するのはやめましょう。もし、日本国民のすべてが「地震が来たら怖い」と思っていると、その集合意識が現実に地震を創ってしまうかもしれません。かといって、何も起こらないと思うのは謙虚さが足りません。地球に対して失礼です。「もし動くならば、穏やかな変化でお願いします」と祈ればよろしいと思います』、「「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です」、これは同感である。

第三に、9月1日付けPRESIDENT Onlineが掲載した精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授の和田 秀樹氏による「和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人、満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら、もっと遊んだほうがいい」を紹介しよう。
・『老年医学の専門家として、長年にわたり現場で高齢者たちをみてきた精神科医の和田秀樹さんは「お年寄りはもっと遊ぼう。それが心身の健康度を上げ、健康寿命を延ばすことにつながります」という。新著『70歳から一気に老化する人しない人』を上梓した和田さんがすすめる「70歳からの新しい生き方」とは──。(第1回/全2回) ※本稿は、和田秀樹『70歳から一気に老化する人しない人』(プレジデント社)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『男性は73歳、女性は75歳が「老化の分かれ道」  日本人の平均寿命は、2020年(令和2年)の調査によると、男性が81.64歳、女性が87.74歳です。これは、「何歳まで生きるか」という平均年齢を示すものです。と同時に、ズバリ言うと「何歳で死ぬか」という平均値でもあります。 では、「男性は9年間」「女性は12年間」──この年数がいったい何を示すかわかりますか。実はこれ、病気や認知症などで寝たきりになったり、誰かに介助されたりしながら生きる平均年数を表したものです。 「健康寿命」という言葉を聞いたことのある人も多いと思います。心身ともに自立していられる年齢のことを意味します。 その年齢は、男性が72.68歳、女性が75.38歳です(令和元年調べ)。つまり、平均して男性は73歳、女性は75歳で、誰かの介助が必要になるのです。病気や認知症で寝たきりになるレベルでなくても、身の回りのことを一人でできなくなり始める平均年齢です。 先に記した男性9年間、女性12年間とは、平均寿命から健康寿命を引いた数字。身の回りのことを一人でできずに過ごす年数がこれだけ長いことに驚く人もいるかもしれません。もちろんこれは統計上の数字にすぎませんが。
・『健やかな老後を過ごしたい…  「人生100年」といわれる時代になりました。日本にはいま100歳オーバーの人が8万6000人もいるそうです。皆さんの周りにも、とても元気な100歳前後の人がいるでしょう  しかし当然ですが、「100年時代」といっても全員が90歳、100歳を迎えられるわけではありません。 また、90歳、100歳を迎えたとしても、全員が健康で幸せであるという保証もありません。介助を受けてベッドで過ごしている、ボケてしまって自分が誰かわからない、ということも考えられます。 先に平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう』、「平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう」、同感だ。
・『誰もが人生の最後に通る「道」  当然のことながら、人はそれぞれ年齢も体型も違います。性格や考え方も違います。生活の環境や仕事も家族構成も違う。一人ひとりは、まったく違う人生を歩むまったくの別人です。 しかし、すべての人に共通することがあります。それは、全員が「やがて死んでいく」ということです。これだけは避けようがありません。 死に至るまでには、2つの道があります。 1つは、幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道です。もう1つは、不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道です。 どちらの道を選びたいか? それは聞くまでもありませんね』、「不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道」、は送りたくない。やはり「幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道」、を送りたいものだ。
・『「ない」ものを数える人、「ある」ものを大切にする人  最期に満足しながら死ぬために大切なこととは何でしょうか。 突き詰めるとそれは、たった1つに集約できます。老いを受け入れ、できることを大事にする、という考え方です。これが「幸せな晩年」と「不満足な晩年」の境目になると思っています。 「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです。 たとえば、自分の老いを嘆き、「あれができなくなった」「これだけしか残されていない」と「ない」「ない」を数えながら生きる人がいます。かたや、自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます。 どちらの人が幸せなのでしょうか? 私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます』、「「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです」、「自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます・・・私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます」、なるほど。
・『70歳からは「“幸”齢者」を目指そう  いま日本では、65歳以上を「高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と呼んでいます。でもなんだか機械的な響きで、ちょっと切なくありませんか。 ここまで頑張って生きてきたのですから、もっと明るくて希望の持てる呼び方にすべきだと、私は常々思っています。そこで提案したいのです。 70歳を超え、楽しく充実した暮らしを送っている人は、高齢者ではなく「“幸”齢者」──。 この呼び方なら、温かみや年をとることへの希望も感じられるでしょう。幸せな晩年を過ごして、人生をまっとうしたい。私たちが目指すべきは「幸齢者」なのではないでしょうか』、「幸齢者」とは確かに上手いネーミングだ。
・『70代からは「個人差」を受け入れる  70代になると、世代全体の10%が認知症になります。しかし残りの9割は依然として頭がはっきりしていて、健康な人とそうでない人の差が、それまでになくはっきりと分かれてきます。 70代では、外見の面でも社会的地位についても、それぞれ取り巻く状況が大きく異なってきます。そのため、なにかと他人と比べて引け目を感じやすくなり、人によってはそれが重荷になってくるケースもありえます。 同世代の人よりもちょっとだけ早く老いを受け入れざるをえなくなった70代の人にとっては、「老いを受け入れる」ことは「個人差を受け入れる」とほぼイコールの行為でもあると私は思います。 自分を他人と比べている限りは抱えている苦しさから抜け出せません。他人にはできて、自分にはできないことについて思いを巡らせて悶々もんもんとするよりは、「いまの自分に何ができるのか」ということを前向きに考えたほうが、ずっと健康的に生きられます。 また、「働いているほうが偉い」「社会的地位が高いほうが偉い」「見た目が若々しいほうが偉い」といった50代、60代までの価値観にいつまでも縛られているのもよくありません。 人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと、私としては信じています』、私も現在では、「人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと」考えるようになった。
・『年をとったら、もっと遊ぼう  もう1つ指摘したいことがあります。それは、高齢になると、「健康のために遊ぶ」「健康のためにお金を使う」ことも大きな意味を持ってくる、ということです。 日本では、高齢者は地味に暮らすのが当然だと思われていますから、「年金でカラオケに行くのはいかがなものか」「年金生活者がパチンコに行くとはけしからん」などといった非難を浴びがちです。 しかし家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう。 感情の老化を予防するには、年をとるほど強い刺激が必要です。脳の老化によって弱い刺激には反応しにくくなることに加えて、積み重ねた人生経験から多少のことでは心に響かなくなるからです』、「家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう」、同感である。
・『お金を使ってよい刺激を受ける  仕事などで経験を積んだおかげで先が読めるから、ものごとをそつなくこなしてしまいます。失敗することがなくなるのはいいのですが、面白さは薄れてしまいます。 「先が読めてしまう」と、刺激が失せるだけでなく、興味や関心までも色いろ褪あせるわけです。それだけに、いままで以上に、意識して強い刺激を与えてくれる遊びをしたほうがいいのです。 資本主義社会とは、「お客様は神様です」の社会です。お金を使うことによって、よりよいサービスが受けられます。それに、社会の第一線から退いたと感じている高齢者は、お金を使うことで自己愛が満たされることでしょう。 お年寄りの多くがお金を使って遊ぶと、これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになるでしょう。高齢者がしっかり遊んでくれたほうが、消費が拡大し、経済が回ります。国内の景気のためにもいいのです。 「生涯現役」とは、高齢になっても働き続けるという意味だけでなく、「生涯現役の消費者である」という意味も含まれているのです』、私の場合、消費のうち、選択的消費の主なものとしては、旅行、音楽、付き合いでの飲み会、程度で、とても「これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになる」にはほど遠い。しかし、「生涯現役の消費者である」と考えて消費するのは気分が良さそうだ。その効用はきっと大きいだろう。
タグ:「幸齢者」とは確かに上手いネーミングだ。 「「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです」、「自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます・・・私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます」、なるほど。 「不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道」、は送りたくない。やはり「幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道」、を送りたいものだ。 「平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう」、同感だ。 「せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成す」、大いに気をつけたい。 「人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません」、「人工呼吸器」の装着は事前に家族の了解を取るのだろう。 PRESIDENT ONLINE 私の場合、消費のうち、選択的消費の主なものとしては、旅行、音楽、付き合いでの飲み会、程度で、とても「これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになる」にはほど遠い。しかし、「生涯現役の消費者である」と考えて消費するのは気分が良さそうだ。その効用はきっと大きいだろう。 「家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう」、同感である。 私も現在では、「人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと」考えるようになった。 和田秀樹『70歳から一気に老化する人しない人』(プレジデント社) 和田 秀樹氏による「和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人、満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら、もっと遊んだほうがいい」 「「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です」、これは同感である。 「世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます」、私は「世の中を変えること」の難しさは理解した上で、それでも「変える」努力をすることに意義を見出している。 「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです」、私は「ニュース」は「ネガティブな」ものであっても「インプットする」ようにしている。「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう」、とすると、自分の判断基準がおかしくなってしまう懸念があるためだ。 「私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています」、もともと独身のようだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BD%9C%E7%9B%B4%E6%A8%B9 「家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません」、「独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません」、 「人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」、面白い考え方だ。 矢作直樹『閉塞感がニャくなる魔法の言葉88』(ワニブックス) 矢作 直樹氏による「マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた」 私の母の場合には、「人工栄養」は断ったので、最後の時はそれだけ早く来たが、それでよかったと思っている。 「人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです」、理想論ではあるが、現実には「医療従事者を交える」ことは難しいそうだ。 「病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません」、その通りだろう。 「救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている」、「家族」にも覚悟が必要なようだ。 「血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置 「今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくこと」、確かに現在の医療の矛盾点だ。 看護師にとっては「救急科」にも予想外の落とし穴があるようだ。 前田 和哉氏による「バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには、変わり果てた姿になっている」 (その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい) 終末期
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