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哲学(その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!) [文化]

哲学については、2020年5月26日に取上げた。久しぶりの今日は、(その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!)である。

先ずは、2020年5月17日付け東洋経済オンラインが掲載した京都大学こころの未来研究センター教授の広井 良典氏による「AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/349506
・『新型コロナは、日本そして世界の社会構造、とりわけ都市集中や格差・貧困の問題をこれまで以上にあらわにしているといえる。この構造は今後どうなっていくのか。 このたび『人口減少社会のデザイン』を上梓した広井良典氏が読み解く』、パンデミックで取上げる方が適切かとも思ったが、哲学として取上げる。
・『「コロナ後の世界」のビジョン  新型コロナウイルスの災禍で日本と世界の状況が一変した。今年の初めの時点で、誰がこうした事態の勃発と世界の変化を予想しただろうか。 一方、新型コロナウイルス(以下単に「コロナ」等と略すことがある)をめぐる状況を受けてさまざまな「論」が世に出されているが、それらの多くはいささか時流に便乗した近視眼的なものか、逆に大雑把すぎる?文明論”のいずれかであり、客観的な論証や中長期的な視座を踏まえた実のある洞察はまだ十分な形で提示されていないように思える。 本稿で論じたいのは、そうした問題意識を踏まえたうえでの?「コロナ後」の世界”のビジョンにほかならない。 この場合、少々手前味噌に響くことを承知のうえで確認したいのは、そうした「コロナ後」の世界の構想は、私が昨年10月に公刊した『人口減少社会のデザイン』において、AIを活用した未来シミュレーションも踏まえながら、これからの日本そして世界のあるべき展望として論じた内容と大きく重なるものになるという点である。 それは端的に述べれば以下のような柱に集約される日本・世界の方向性だ。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換 (2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想 (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ  これらは、上記の拙著の中で強調した論点であると同時に、そのまま「コロナ後の世界」のビジョンとして本質的な柱となるものである。 特に(1)の「「分散型システム」への転換」については、私たちの行ったAIシミュレーションが新型コロナ・パンデミックのもたらす課題を“予言”していたのではないかと思われるほど、今回の感染拡大で明らかになった問題と重なっているのである。 この場合、重要なのは次の点だ。すなわち、「コロナ」の問題はそれだけが切り離されて存在するのではなく、むしろ私たちがいま生きている社会システムのありよう──都市への人口集中、格差の拡大、際限ないグローバル化、「スーパー情報化」の幻想──それ自体がさまざまな矛盾をはらんでおり、今回のコロナ禍は、そうした矛盾が一気に露呈した局面の1つにすぎないという認識である。 こうした関心を踏まえ、上記(1)~(4)の論点について順次述べてみたい』、さすが哲学者らしく、捉える視点が広い。
・『「都市集中型」から「分散型システム」への転換  コロナウイルスの感染拡大とその災禍が際立って大きいのは、あらためて言うまでもなく、ニューヨーク、マドリード、パリ、ロンドンそして東京など、人口の集中度がとくに高い人口数百万人規模の大都市圏である。 これらの極端な「都市集中型」地域は、ほかでもなく?3密”が常態化し、環境としても劣化している場合が多く、感染症の拡大が容易に生じやすく、現にそうしたことが起こったのだ。 一方、後で格差の関連でも述べるように、ドイツにおいて今回のコロナによる死者数が相対的に少ない点は注目すべき事実であると私は考えている。 ドイツの場合、国全体が「分散型」システムとしての性格を強くもっており、ベルリンやハンブルクのような人口規模の大きい都市も存在するものの、全体として中小規模の都市や町村が広く散在しており、「多極」的な空間構造となっている。 そして、新型コロナの感染拡大が明らかにした課題をまるで予言するかのように、先ほどふれた拙著『人口減少社会のデザイン』の基軸をなしているのは、これからの日本や世界が持続可能であるためには、「都市集中型」のシステムから「分散型システム」への転換を図っていくことが急務であるというAI(人工知能)の分析だった。 この分析の基礎となる研究を、私は2016年に京大キャンパスに設置された日立京大ラボとの共同研究として行った。 そこでは、AIを活用して2050年の日本に関する2万通りの未来シミュレーションを実施したのだが、そのシミュレーション結果において、東京一極集中のような「都市集中型」のシステムよりも、「地方分散型」と呼びうるシステムのほうが、人口・地域の持続可能性や格差、健康、幸福といった点において優れているという内容が示されたのである(しかも、都市集中型か地方分散型かに関する、後戻りできない分岐が2025年から2027年頃に起こるという結果が示された)。 このAIシミュレーションは、直接的に今回のコロナのようなパンデミックを扱っているわけではないが、医療システムに関する諸要因はモデルの中で含まれている。そして今回のコロナ禍は、「都市集中型」社会のもたらす危険度の大きさを白日の下にさらしたと言うべきだろう。 日本の状況についてさらに踏み込んで考えると、しばしば誤解されている点だが、実は日本において現在進みつつあるのは?東京一極集中”ではない。 すなわち、札幌、仙台、広島、福岡等の人口増加率は首都圏並みに大きく、例えば2010年から2015年の人口増加率は、東京23区3.7%に対し福岡5.1%となっていて、福岡の人口増加率は東京を上回っている。 興味深いことに、今年3月に発表された令和2年地価公示でも同様の傾向が示されており、上記4都市の地下上昇率は平均で7.4%となっており、東京圏の2.3%を大きく上回っているのだ。 そしてコロナとの関連で言えば、全国で初めて(法的根拠に基づかない)「緊急事態宣言」を出した(2月28日)のが北海道であったのは記憶に新しく、また東京圏と大阪圏以外で緊急事態宣言(4月7日)の対象となったのは福岡県だった。) つまり現在の日本において進みつつあるのは?東京一極集中”ではなく、むしろ「少極集中」と呼ぶべき事態であり、しかしこれは感染症の伝播という点ではかなりリスクの大きい構造であって、現にこれらの?密”地域において感染が拡大した。 こうした構造を、より「分散型」のシステムに転換していくこと、具体的にはドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要であり、それはコロナのようなパンデミックへの対応においても極めて重要な意味をもつだろう。 加えて、ここで分散型システムというとき、それは以上にとどまらず、 ①リモート・ワークないしテレワーク等を通じて、自宅などで従来よりも自由で弾力的な働き方ができ、また余暇プランも立てやすく、仕事と家庭、子育てなどが両立しやすい社会のありよう ②地方にいてもさまざまな形で大都市圏とのコミュニケーションや協働、連携が行いやすく、オフィスや仕事場などの地域的配置も「分散的」であるような社会の姿 を広く指している。 これらは、人口や経済が拡大を続け、“東京に向かってすべてが流れる”とともに、いわば“集団で一本の道を上る時代”であった(昭和・平成の)時代の価値観や社会構造からの根本的な転換を意味する。 同時にそうした新たな方向は、個人がのびのびと各々の創造性の翼を伸ばしていくことや、多様なライフコースを可能にするとともに、結果としておそらく経済や人口にとってもプラスに働き、社会の持続可能性を高めていくだろう。 「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである』、「「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである」、「ドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要」、なるほど。
・『コロナの感染拡大と格差・貧困  以上、都市集中型から分散型システムへの転換について述べたが、同時に私がここで強調したいのが、今回のコロナウイルスの感染拡大と「格差、貧困」との関わりだ。 まず事実関係として確認したいのは、今回のコロナウイルスの感染拡大や被害をめぐる状況の国別比較である。 状況は刻々と変わっているので、ごく留保付きの指摘しかできないが、5月14日現在の時点において、とくに死者数が多いのが、アメリカ、イギリス、イタリア、スペインの4か国であることは確かな事実である(死者数は1位アメリカ[8.5万人]、2位イギリス[3.3万人]、3位イタリア[3.1万人]、4位スペイン[2.7万人]という状況。感染者数は1位アメリカ[143万人]、2位スペイン[27万人]、3位ロシア[24万人]、4位イギリス[23万人])。 ちなみに日本は死者数687人、感染者数1万6079人である。 実は、私はこの4国、つまりアメリカ、イギリス、イタリア、スペインに死者数および感染者数がとくに多いことは、ある意味で十分に予想されることと思ってきた。それは、これらの国々が、「格差」の面で世界で?トップクラス“の国であることと関係している。 いくつかの国々のジニ係数、つまり格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ(なお、意外に思う人もいるかもしれないが、日本は以前はこうした図の左のほうに位置しており、比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている。この点は後ほど立ち返りたい)。 このテーマ、つまり格差・貧困とコロナウイルスの蔓延や被害との関連については、例えばアメリカにおいて黒人層の死亡率が相対的に高い等といった一定の報道や指摘もなされているが、なお十分に認知されていない、しかし極めて重要な論点であると私は考えている』、「格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ」、「日本は以前は」「比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている」、改めて「日本」での格差拡大の深刻さを再認識させられた。「格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれる」、なるほど。
・『「公共空間の全体」の劣化が招いた感染拡大  そもそもなぜコロナのような感染症拡大と貧困・格差が深く関わってくるかという点についてあらためて確認すると、格差や貧困が大きい国や社会においては、おのずと貧困層の生活環境が極めて劣悪となり感染症の温床となるという点がもちろんある。 しかし同時に私が強調したいのは、そのような国ないし社会においては、貧困層の居住地域のみならず、中間層も行き来するような都市の「公共空間の全体」が劣化していき、都市全体に感染症が拡大しやすくなるという点だ。 実際、私はアメリカ(東海岸のボストン)に3年ほど住んだことがあるが、都市の中心部やその近辺に、窓ガラスが破壊されたまま放置されていたり、ごみが散乱したりしているようなスペースがごく普通に存在するのをよく見かけていた。細菌やウイルスにとっては“格好の住処”になるだろう。 さらに加えて、これらの国々(アメリカ、スペイン、イタリア等)では公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備で、そもそも医療保険に加入していない人々が多く存在することも、感染の発見そして治療の遅れを加速している。 私は医療政策や社会保障が専門領域の1つだが、イタリアやスペインは?南ヨーロッパ型福祉国家”と呼ばれていて、その特徴は、公的な医療制度や社会保障制度が不十分で、よくも悪くも家族や地域(教会など)に依存する度合いが大きいという点である。) アメリカはそれとはまた別の意味で市場経済への信仰が強い?小さな政府”の代表的存在であるわけだが、社会保障を専門領域とする私のような人間からすれば、アメリカ、イギリス、イタリア、スペインにおいて今回のコロナ被害がとくに大きいという点は、皮肉にもある種の必然性をもっているように理解されるのだ』、「イギリス」はさすがに「公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備」とはしなかったが、そうであれば、同国で感染が広がっている理由を別途指摘すべきだ。
・『日本の?特異性”と「持続可能な福祉社会」のビジョン  ちなみに日本について見るならば、上記のように、現在の日本は先進諸国の中でも格差の大きい部類の国になっている。 それでもなお、また多くの国々の大都市に見られる?ロックダウン”のような強制力の強い対応をとっていないにもかかわらず、5月半ば時点の状況において、他の国々に比べて?桁違い”に感染者数と死者数(特に後者)が少ないという事実は、それ自体掘り下げて分析されるべきテーマだろう。 これは経験的な推測にすぎないが、おそらくそこに、かなり日常的なレベルでの「衛生意識や都市の衛生環境」が関わっていることは間違いないと思われる。 私自身、これまで一定の数の国々を訪れてきたが、ごく卑近な例で言えば、例えばトイレの清潔さという点ではおそらく日本は群を抜いており、その他「住居等に入る時に靴を脱ぐ」といった習慣を含め、ある意味で日常的すぎるため定量的に測定しにくいような、素朴なレベルの衛生意識や都市の衛生環境が(上記の格差と並んで)パンデミック拡大の帰趨を分ける重要な要因として働いていると考えられる。 一方、医療システムそのものについて見るならば、日本の場合、人口当たりのICU(集中治療室)の数がアメリカやドイツに比べて大幅に少ないなど、患者数が増えてきた場合の体制が極めて脆弱であることは確かである。 あまり指摘されることがないが、この背景は、これも拙著『人口減少社会のデザイン』第5章(医療への新たな視点)で論じたように、日本の場合、診療所(開業医)や中小病院に医療費が優先的に配分されており、高次機能病院への医療費配分が極めて手薄であることである。ICU不足はまさにその象徴なのだ。 したがって、やや強調して言えば、日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある。 いずれにしても、今回のコロナ禍は、格差や貧困の問題そして医療や社会保障制度のあり方が、それ自体にとどまらず、社会全体の真の「強さ」や回復力、あるいは脆弱性に深く関わっていることを提起している。 以上が「コロナ後の世界」の展望として挙げた、前半の〈(1)『都市集中型』から『分散型システム』への転換、(2)格差の是正と『持続可能な福祉社会』のビジョン〉であり、後半の〈(3)『ポスト・グローバル化』の世界の構想、(4)科学の基本コンセプトは『情報』から『生命』へ〉については、稿をあらためてさらに考えてみたい』、「日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある」、その後、「日本」で一時的に事実上の「医療崩壊」に近い状態になった。

次に、この続きを、2020年5月23日付け東洋経済オンラインが掲載した京都大学こころの未来研究センター教授の広井 良典氏による「コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/349507
・『新型コロナは、すでに限界に近づいていた「グローバル化」の終焉をあらわにしたともいえる。ではグローバル化以後の世界はどうなっていくのか。 このたび『人口減少社会のデザイン』を上梓した広井良典氏が、前回に引き続き読み解いていく』、どのような観点で「読み解いて」くれるのだろう。
・『パンデミックの歴史から見えるもの  前回は、私が昨年刊行した『人口減少社会のデザイン』での主張を踏まえつつ、「コロナ後の世界」の構想として、以下の4つの方向を提起した。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換(2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想 (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ このうち前半の(1)(2)について前回記事で述べた。続いてさらに、後半の(3)(4)の話題について考えてみよう。 まず前提的な確認となるが、今回の新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」等と略すことがある)のような感染症の爆発的な拡大、あるいはパンデミックは、決して今に始まったことではなく、さかのぼれば人類の歴史の中で繰り返し生じているという事実に目を向ける必要がある。 感染症の流行はさかのぼれば人類の誕生とともに存在し、とりわけ農耕の開始ないし定住化や、多くの人々が集住する都市の発生以降から随所で起こっているが、今回のコロナをめぐる問題を考えるにあたり、やはり起点としてとらえるべきは14世紀ヨーロッパにおけるペストの大流行だろう。 古い時代の記録なので厳密な把握ではないが、このときヨーロッパ全体の人口の4分の1から3分の1、実数にして2000万人から3000万人程度が死亡したとされる。) この場合、ペスト菌はチンギス・ハーン後のモンゴル軍のヨーロッパ遠征――ある種の?グローバリゼーション”――を契機に中国方面からユーラシア大陸経由で伝わったとする説が有力である。そしてこのペスト大流行は、ヨーロッパの中世世界を揺るがし、やがて近世そして近代を準備する遠因となった。 その後の歴史を駆け足で追うと、続く16世紀にはヨーロッパで梅毒が大流行したが、これはコロンブスの一団がアメリカ大陸から持ち帰ったとされている。 また同世紀から17世紀にかけては、逆にスペインからの征服者が中南米に天然痘を持ち込み、これによってアステカ文明が滅んだと言われる。 さらに19世紀にはインド発のコレラがヨーロッパなど世界で大流行したが、これは産業革命以降の工業化による都市の衛生状態の劣化や、労働者の貧困に伴う生活環境の悪化等も関与していた(20世紀に広がった肺結核なども同様である)。 また、今回のコロナの関連でよく引き合いに出される1918年から1920年のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)の大流行は、言うまでもなく第1次大戦における、大量の兵士の国境を越えたグローバルな移動(およびその置かれた環境の劣悪さ)が背景だった』、歴史は確かなようだ。
・『感染症をめぐる歴史から気づく2つのポイント  以上は感染症をめぐる歴史の一端の確認に過ぎないが、こうした概観だけからでも気づくこととして、以下の点があるだろう。それは第1に、感染症の勃発は何らかの意味の「グローバル化」と関係しているという点である。 感染症のもととなる細菌やウイルスは、もともと存在する地域においてはその場所の風土に適応する形でいわば“大人しく”人間ないし動物と共存している面があるが、遠距離あるいは大規模な人の移動に伴ってそれがまったく別の場所に移されると、その場所にいる人間には当該細菌ないしウイルスへの免疫がないこともあって、爆発的に広がる可能性があるのだ。 実際、現在に続くパンデミックの歴史の起点をなすのが14世紀のペスト大流行であり、これは先ほど見たように、モンゴル軍のユーラシア大陸横断と関わっており、後の近世(スペインのアメリカ進出)、近代(イギリス・フランス等のアフリカ、アジア進出)への?プレリュード”ないし「幕開け」のような位置にあるとも言える。 そして、こうした「グローバル化」の進展の流れの極に今回のコロナ・パンデミックがあるという把握が可能だろう。 第2に、以上の「グローバル化」とも関連するが、コレラや結核などの例に顕著なように、感染症の爆発は、格差・貧困およびそれに伴う都市の衛生状態あるいは生活環境の悪化と密接に結び付いている場合が多いという点である(この点は前回記事でもふれた)。 この背景には、近代以降の急速な工業化の進展、あるいは資本主義の展開ということが働いている。) 以上、大きな歴史の流れを振り返りつつ、感染症の爆発的拡大が生じやすい要因として、「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点を挙げたが、この両者が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界だろう。 そうした意味では、今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っているのである』、「「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点」、「が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界」、「今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っている」、その通りだ。
・『「ポスト・グローバル化」の2つの道  誤解のないよう述べると、私はここで、?今回コロナ・パンデミックが生じ、その背景にはグローバル化があるので、よってグローバル化を即刻停止すべきだ”といった単純な主張をしようとしているのではない。 状況はある意味でもっと根本的であり、つまりコロナの発生の有無とは独立に、現在の世界では「グローバル化の終わりの始まり」と呼べる大きな流れが生じており、あるいは「ポスト・グローバル化の世界」を構想すべき時期になっているのだ。 コロナ・パンデミックはそうした構造的変化を明るみに出した事象の1つ――あるいはそうした移行への?ハード・ランディング”を余儀なくさせた出来事――と言うべきだろう。 こうした「グローバル化の終わりの始まり」あるいは「グローバル化の先の?ローカル化”」という主張を、私は『創造的福祉社会』(2011年)、『ポスト資本主義』(2015年)そして『人口減少社会のデザイン』(2019年)等の一連の本の中で展開してきたが、そのポイントとなる事柄をここでごく簡潔に述べてみたい。 イギリスのEU離脱(いわゆる?Brexit”)と?トランプ現象“と呼ばれる動きを見てみよう。あらためて言うまでもなく、私たちが現在言うような意味での「グローバル化」を明示的に本格化させたのはイギリスである。 つまり同国において16世紀頃から資本主義が勃興する中で、例えば1600年創設の東インド会社に象徴されるように、イギリスは国際貿易の拡大を牽引し、さらに産業革命が起こって以降の19世紀には、“世界の工場”と呼ばれた工業生産力とともに植民地支配に乗り出していった。 その後の歴史的経緯は省くが、そうした?最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである。 イギリスを含め、ある意味でこうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう』、「最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである」、「こうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう」、その通りだ。
・『「ローカル化(ローカライゼーション)」が進む時代へ  しかし他方で、私は以上とは別の意味で「グローバル化の終わりの始まり」がさまざまに見え始めているのが現在の世界であり、今後はむしろ「ローカル化(ローカライゼーション)」が進んでいく時代を迎えると考えている。 すなわち、環境問題などへの関心が高まる中で、「地産地消」ということを含め、まずは地域の中で食糧やエネルギー(とくに自然エネルギー)をできるだけ調達し、かつヒト・モノ・カネが地域内で循環するような経済をつくっていくことが、地球資源の有限性という観点からも望ましいという考え方が徐々に広がり始めている。 言い換えれば、およそ「グローバルな問題」とされていることの実質は、結局のところ資源をめぐる紛争やエネルギーの争奪戦なのであり、だとすれば、できる限り「ローカル」なレベルで食料やエネルギー等を自給できるようにすることが、「グローバル」な問題の解決につながるという発想である。 私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では、「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへ」という方向で物事を考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある。 したがってやや単純化して対比すると、「グローバル化の終わり」あるいは「グローバル化の先の世界」には大きく異なる2つの姿があると言える。 1つは強い「拡大・成長」志向や利潤極大化、ナショナリズムとセットでのものであり、そこでは格差や貧困、環境劣化は大きく、トランプ現象はある意味でその典型である。 もう1つは環境あるいは「持続可能性」、そしてローカルな経済循環や共生から出発し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会の姿であり、上記のようにドイツ以北のヨーロッパに特徴的である。 その具体的なイメージとしては、先述の拙著『人口減少社会のデザイン』でも紹介したが、ドイツの地方都市の姿が挙げられる。 エアランゲンという人口約10万の中小都市は、日本の同規模の地方都市がほぼ間違いなくシャッター通り化しているのと異なり、中心部が賑わい、しかも自動車交通が排除されて誰もが「歩いて楽しめる」コミュニティ空間となっている。先ほど述べた「ローカルな経済循環や共生から出発」とはこうした姿を指している。 そして前回も述べたように、ドイツなどで今回のコロナ・パンデミックの被害が相対的に小さいのは、まさにこうした社会の姿と関係していると私は考えている』、「できる限り「ローカル」なレベルで食料やエネルギー等を自給できるようにすることが、「グローバル」な問題の解決につながるという発想である。 私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では、「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへ」という方向で物事を考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある」、「「グローバル化の終わり」あるいは「グローバル化の先の世界」には大きく異なる2つの姿があると言える。 1つは強い「拡大・成長」志向や利潤極大化、ナショナリズムとセットでのものであり、そこでは格差や貧困、環境劣化は大きく、トランプ現象はある意味でその典型である。 もう1つは環境あるいは「持続可能性」、そしてローカルな経済循環や共生から出発し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会の姿であり、上記のようにドイツ以北のヨーロッパに特徴的である』、私には「ドイツ以北のヨーロッパに特徴的」な姿の方が望ましいように思える。
・『「ポスト情報化」と「生命」の時代  さて、「コロナ後の世界」を論じている本稿の最後に述べたいのが、今回のパンデミックは、これから私たちが生きていく21世紀の時代が、「ポスト情報化」そして「生命」を基本コンセプトにする時代になっていくことを象徴的に示しているという点だ。 歴史を大きな視点でとらえ返すと、17世紀にヨーロッパで「科学革命」が生じて以降、科学の基本コンセプトは、大きく「物質」→「エネルギー」→「情報」という形で展開し、現在はその次の「生命」に移行しつつある時代であるととらえることができる(拙著『人口減少社会のデザイン』第3章参照)。 すなわち、17世紀の科学革命を象徴する体系としてのニュートンの古典力学は、基本的に物質ないし物体(matter)とその運動法則に関するものだった。 やがて、ニュートン力学では十分扱われていなかった熱現象や電磁気などが科学的探究の対象になるとともに、それを説明する新たな概念としての「エネルギー」が(ドイツのヘルムホルツらによって)19世紀半ばに考案され、理論化されていった。 これはほかでもなく、産業革命の展開あるいは工業化の進展と呼応しており、石油・電力等のエネルギーの大規模な生産・消費という経済社会の変化と表裏一体のものだった。 20世紀になると、(二度の世界大戦における暗号解読や「通信」技術の重要性とも並行して)「情報」が科学の基本コンセプトとして登場するに至る。具体的には、アメリカの科学者クロード・シャノンが情報量の最少単位である「ビット」の概念を体系化し、情報理論の基礎を作ったのが1950年頃のことだった。 重要な点だが、およそ科学・技術の革新は、「原理の発見・確立→技術的応用→社会的普及」という流れで展開していく。すなわち一見すると、「情報」に関するテクノロジーは現在爆発的に拡大しているように見えるが、その原理は上記のように20世紀半ばに確立したものであり、それはすでに技術的応用と社会的普及の成熟期に入ろうとしている。実際、インターネットの普及その他さまざまな情報関連指標も近年飽和してきている。 つまり、実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これからの21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていくということを、私自身は先述のような一連の本の中で論じてきたのだが、今回のコロナをめぐる災禍は、ある意味でそれをきわめて逆説的な形で提起したと言えるだろう』、「実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これからの21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていく」、なるほど。
・『「生命」は「情報」でコントロールできるか  この場合重要なのは次の点である。すなわち、昨今の「情報」をめぐる議論で、しばしば私たちは、膨大な「ビッグ・データ」やさまざまな「アルゴリズム」で世界のすべてを把握し、コントロールできるという世界観あるいは?幻想”にとらわれがちだ。 そして、「生命」それ自体も「情報」によってすべて理解し把握できると考えがちなのであり、私は以前からそれを「情報的生命観」と呼んできた(拙著『生命の政治学』参照)。 近年のその典型は、いわゆるシンギュラリティ論で有名なアメリカの未来学者レイ・カーツワイルであり、彼の主書『シンギュラリティは近い(Singularity is Near)』のサブタイトルは、いみじくも「人間が生物学を超えるとき(When Humans Transcend Biology)」となっている。 要するに、「生命」はすべて「情報」でコントロールできる、あるいは生命は情報に還元することができるというのがその基本思想である。 しかし、今回のコロナ・パンデミックは、「生命」はそれほど簡単に「情報」によってコントロールできるようなシロモノではないということを、私たちに冷厳な形で突き付けたのではないだろうか。細菌やウイルスはある種の?創発性”をもっており、人間が設計したアルゴリズムのコントロールをすり抜ける形でさらに進化していく。 さらに言えば、むしろ「情報」と「金融」と「集中化」と「グローバル化」で世界をコントロールし尽くそうとするという現在の流れこそが、皮肉にも今回のようなパンデミックをもたらし、しかもそうした流れの中で蓄積していた格差や貧困や環境劣化が、災禍を一層増幅させてしまうことが明るみになったのではないか。 ここでは、前回も含め、昨年出した拙著『人口減少社会のデザイン』の議論を踏まえつつ、「コロナ後の世界」の構想というテーマを、以下の4つの柱にそくして述べてきた。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換(2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想  (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ  という4つの柱にそくして述べてきた。以上の議論からすでに明らかなように、これらの4つの論点は相互に深く関連し合っている。 現下の対応と並行しながら、社会システムのありようや人間と科学、生命との関わりを含め、「コロナ後の世界」の構想を根底から議論していくことが今こそ求められている』、なかなか意欲的な取り組みだ。今後の展開を大いに期待したい。

第三に、本年12月1日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した作家の橘玲氏による「「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!」を紹介しよう。なお、これは有料だが、私の場合、あと4本まで無料。
https://diamond.jp/articles/-/313649
・『東京五輪開幕式をめぐる辞任・解任騒動などで日本でも「キャンセルカルチャー」が注目されるようになった。これは、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ:政治的正しさ)に反する言動をした者をSNSなどで糾弾し、公的な地位からキャンセル(排除)することをいう。 欧米では2010年代から過激化するようになり、しばしば社会問題になった。フェイスブックの創業が2004年、ツイッターの誕生が06年、iPhoneの発売が07年だから、この社会運動がテクノロジーの強い影響を受けていることは明らかだ。 キャンセルカルチャーは「社会正義」の運動で、たんに気に食わない相手を寄ってたかって叩くわけではない。それが「正義」を掲げる以上、なんらかの思想的・政治的正当性がなければならない。 ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイの『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』(山形浩生、森本正史訳、早川書房)は、日本からはわかりにくい欧米(英語圏)の思想状況を案内し、「正義」がどのように複雑骨折しているかを教えてくれる。 原題は“Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity - And Why this Harms Everybody(シニカルな理論 アクティビストの人文科学はどのようにして人種、ジェンダー、アイデンティティについてのすべてをつくりあげ、なぜこれがすべてのひとに害をなすのか)”で、キャンセルカルチャーの思想的基盤となる“Critical Theories(批判理論)”への皮肉になっている』、「「正義」がどのように複雑骨折しているか」とは興味深そうだ。 
・『ポストモダン思想家の文体をまねた「デタラメ論文」を投稿し、高い評価を得て掲載された「ソーカル事件」  ヘレン・プラックローズはイギリスの著述家、ジェームズ・リンゼイはアメリカの数学者、文化評論家だが、哲学者で元ポートランド州立大学助教授でもあるピーター・ボゴシアンとともに、「第二のソーカル事件」とも呼ばれる「不満研究事件(Grievance studies affair)」の首謀者として知られている(以下、著者たちと呼ぶ)。 ちなみに「ソーカル事件」は、1995年にニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、現代思想系の学術誌に、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリのようなポストモダン思想家の文体をまね、科学用語と数式を無意味にちりばめた「デタラメ(疑似)論文」を投稿し、それが高い評価を得て掲載されたことを暴露した事件で、人文科学界隈では大きなスキャンダルになった(ソーカルはその後、ジャック・ブリクモンとの共著『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』〈田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳、岩波現代文庫〉に経緯と主張をまとめている)。 ソーカルがこの「実験(いたずら)」を行なった背景には、フランスから移殖され、80年代以降、アメリカの(人文系)知的世界で流行したポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる。 「不満研究(グリーバンス・スタディーズ)」とは、「客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先し、特定の結論のみが許容される学術分野」を総称する著者たちの造語で、「カルチュラル・スタディーズ 」「ジェンダー・スタディーズ」「CRT(批判的人種理論:Critical Rase Thery)」などを指している。本書では「批判理論(critical theory)」あるいは《理論》と略して呼ばれている。 ソーカルはポストモダン思想を「内実のない言葉遊び」だとしたが、それから10年以上たって、それは「社会正義の恫喝」へと変容した。そこで著者たちは、一般人が知らない学術の世界で、どれほど異様なことが起きているかを広く知らしめるために、社会正義を論ずる(その界隈では)著名な査読付き学術誌にデタラメ論文を投稿する「実験」を新たに行なったのだ』、「ポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる」、「アメリカ」の学者たちはとんでもなく面白いことをするものだ。 
・『「デタラメ論文」によって、わずか1年間に7本の論文を学術誌に掲載させることに成功した  2017年から18年にかけて、著者たちが1年間で20本の「デタラメ論文」を作成して投稿したところ、そのうち4本が査読を経てオンライン上に公開され、3本が承認された(訂正の要求はなく、著者たちの「実験」がメディアの報道で中断しなければ公開されていた)。「再提出」の2本も、査読を通る可能性が高かった(通常、指摘された部分を修正すれば掲載される)。「審査中」が1本で、それ以外の10本は「却下」もしくは査読の指摘を修正できないとして著者たちが辞退した。 アメリカのほとんどの主要大学では、7年間に7本の論文が学術誌に掲載されれば、テニュア(終身在職権)を取得するのにじゅうぶんな実績になるとされる。それを著者たちは、「デタラメ論文」によって、わずか1年間に(すくなくとも)7本の論文を学術誌に掲載させることに成功した。だとすれば、この分野の「学術」とはいったい何なのか? もっとも話題となった「デタラメ論文」は“ヘレン・ウィルソンHelen Wilson”を名乗る(ボゴシアンが勤務する)ポートランド州立大学の架空のジェンダー研究者が、「フェミニスト地理学(Feminist geography)」の著名な学術誌“Gender, Place & Culture(ジェンダー・場所・文化)”に投稿した「オレゴン州ポートランドのドッグパークにおける、レイプ文化とクイア行為遂行性への人間の反応」だ。著者たちが投稿した論文はすべてWEBに公開されているが、この「ドッグパーク論文」はパロディとしてとてもよくできている。 “ヘレン・ウィルソン”は、黒人犯罪学や(性暴力を批判的に検討する)ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする。そのために、2016年6月から1年間、ポートランドの3つのドッグパークに通い、「犬たちの周辺に座り、歩き、観察し、メモを取り、飼い主たちと話し、犬を観察し、目立たないように立ち去る」というアプローチを繰り返した。 “ウィルソン”がとりわけ注目したのは、犬同士の性暴力(相手に馬乗りになってレイプしようとする)に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬(2%は性別を特定できず)だった。興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった。そればかりか、飼い主の12%は逆にオス犬を励まし、18%は声を出して笑った。逆にオス犬同士の性交渉は飼い主の7%しか笑わず、「同性愛嫌悪」と一致する反応を見せた――とされる。 驚くのは、著名なフェミニズム雑誌の査読者たちがこの「(バカバカしい)論文」を絶賛したことだ。そればかりかこの雑誌の編集者は、創刊25周年の「記念論文」としてこの「研究」を掲載することを提案した……』、「犬同士の性暴力・・・に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬・・・だった。興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった」、「ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする」姿勢は微笑ましい。
・『「不満研究事件」の余波  「ドッグパーク論文」以外に査読を通って掲載された「デタラメ論文」には、筋肉ムキムキの身体を賞賛するのは文化的な差別であり、ボディビルディングの基準に脂肪も加えるべきだという「肥満のボディビルディング(Fat Bodybuilding)」、異性愛の男が性具(バイブレーター)を自分で肛門に挿入してマスターベーションすることで、同性愛嫌悪やトランスフォビアを減少させることができると論じる「性具(Dildos)」などがある。 査読を通ったが掲載が間に合わなかった論文のひとつ「フェミニスト版『我が闘争』(Feminist Mein Kampf)」は、ヒトラーの『我が闘争(Mein Kampf)』をフェミニズム用語で書き換え、「不満研究(批判理論)」風に仕立てたものだ。これらの「デタラメ論文」が高い評価を得たことで、著者たちは、他の研究者が書いた4本の(デタラメでない)論文の査読者になることを要請されたというオマケまでついた(「倫理的な理由」からこの依頼は断ったという)。 この興味深い「実験」は、「ドッグパーク論文」がSNSでバズり、メディアが「著者」を探しはじめたことで中断を余儀なくされた。この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した。 「不満研究事件」の余波は著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年、「さまざまな嫌がらせや報復にさらされた」ことを理由にポートランド州立大学を辞任した。  ヘレン・プラックローズはキャンセルカルチャーを批判するオンライン雑誌『アエロ・マガジン(Areo Magazine)』の編集長を務めていたが、21年に「カウンターウェイト(Counterweight)」という組織を立ち上げた。設立の趣旨は、左派(レフト)に偏りすぎた言論空間の重心(ウェイト)を正すことで、「文化戦争のための市民相談」を行なっている。 ジェームズ・リンゼイはオンライン雑誌『新しい言説(New Discourses)』の創設者で、「ウォーク(Woke)」と呼ばれる「目覚めたひとびと(社会的な「意識高い系」)」にしか理解できない「政治的に正しい難解用語」ではなく、対話が可能な言葉を取り戻すことを目指して活動している。 当然のことながら、ボゴシアン、プラックローズ、リンゼイは左派から「右翼」「極右」「差別主義者」と批判(あるいは罵倒)されている。その一方でリチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーなど、キャンセルカルチャーに批判的なリベラル知識人は『「社会正義」はいつも正しい』を絶賛している』、「この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した」、「著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年・・・ポートランド州立大学を辞任」、当然のことだ。
・『「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転  1968年の五月革命(パリで起きた学生と労働者の一斉蜂起)とプラハの春(改革を目指すチェコへのソ連軍の侵攻)によって「世界を変える」夢が挫折したあと、フランスから「ポストモダン」と呼ばれるようになる新しい思想潮流が登場した。ソシュールの言語論と、それを人類学に応用したレヴィ・ストロースの構造主義を源流とし、モダニズム(近代主義)が提示する大きな物語(革命や人権、自由、民主政)に異議を申し立てる思想運動と(とりあえずは)定義できるだろう。 ポストモダン思想は文学・映画や心理学(精神分析)、社会学(権力論)、経済学(消費資本主義の分析)などへと展開し、日本でも1970年代から知的流行に敏感な若者たちのあいだで広まり、やがて空前の「現代思想ブーム」が起きた(その後はサブカルチャー批評などに引き継がれた)。 プラックローズとリンゼイは、このポストモダン思想のなかで、とりわけミシェル・フーコーの権力論とジャック・デリタの「脱構築」の思想が、ポストコロニアル理論(カルチュラル・スタディーズ)、クィア理論、ジェンダー・スタディーズ、批判的人種理論(CRT)などの「《(批判)理論》」に大きな影響を与えたという。 応用ポストモダニズム(applied postmodernism)は1980年代から90年代にかけてアメリカで始まった新たな展開で、ポストモダン思想と社会正義を結びつけたところに特徴がある。だがこの組み合わせは、フランスの(元祖)ポストモダン思想に馴染んだひとは違和感を覚えるだろう。ポストモダンとは、モダン(西洋近代)が強要する真理や正義を拒絶し、確固たるものなどどこにもないという相対主義を徹底する思想運動だったからだ。 ところが応用ポストモダニズムでは、ここにふたたび「正義」が導入される。なぜこんなことができるかというと、それが「マイノリティの正義」だからだ。 構築」することだけだと主張した。 ところが「応用ポストモダニズム」では、フーコーとデリダの思想をさまざまな文化現象に当てはめ、植民地主義、人種差別、性差別、クイア差別などの痕跡を暴き出し、それを「脱構築」することで「差別」と闘うことができると論じた。これがポストモダンの一度目の「転回」だ。 ポストモダン思想では、人種や性別などはすべて「社会的構築物」だとする。この立場では、個人間には差異があったとしても、ヒト集団には実質的なちがいはなにもない。 ところが2010年代以降の「物象化ポストモダニズム(reified postmodernism)」になると、テキストに埋め込まれた差別が現実に存在(物象化)しているのだとされた(実在するのは「人種」や「性別」ではなく、この社会的構築物に対する「差別」だ)。 この二度目の転回によって、ポストモダン思想はたんなる文化批評から「社会正義」の運動になった。テキストのなかの差別が実在(リアルなもの)であるならば、それを取り出して、著者・制作者やメディア(プラットフォーム)を批判することで、差別をなくす(すくなくとも減じる)ことができるはずだ。 このようにして、「家父長制、白人至上主義、(男/女の性自認を正常とみなす)シスノーマティビティ、(異性愛者正常とみなす)ヘテロノーマティビティ、(障害者を排除する)健常主義、(肥満者を嫌悪する)ファットフォビア」などを、政治家や芸能人など著名人の言動から見つけ出し、それを糾弾・解体すべきだとされるようになった。この「社会正義運動」を、SNSなどのテクノロジーが増幅・拡散して狂乱状態に陥ったのだ。 こうして、「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転してしまった――というのが著者たちの主張になる』、「「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転」、笑えない皮肉だ。
・『「肥満が危険で治療可能な医学的状態なのだという研究すべて」がファットフォビア的  物象化ポストモダニズムがどれほど奇妙な主張か、ファット(肥満)スタディーズの例で見てみよう。ちなみに日本とアメリカでは「肥満」の定義が異なり、日本はBMI(体重を身長の2倍で割った体格指数)25.0以上が肥満だが、アメリカではBMI25.0~30.0が過体重、30.0超が肥満とされている。ここでいう「ファット(肥満)」とは、身長170センチ程度の平均的な日本人男性なら体重100キロを超えるようなケースだ。 ファット・スタディーズではポストモダンの様式どおり、肥満は社会的構築物だということになる。肥満への嫌悪(ファットフォビア)は、同性愛者やトランスジェンダーなどへの社会的な嫌悪(フォビア)と同じだ。 アメリカでは早くも1969年に「全米ファット受容促進協会(NAAFA)」が設立されているが、本格的に肥満者の権利運動が展開するのは1990年代で、ボディポジティブ運動が「太った身体」の受容と賞賛を目指し、「全サイズ健康運動」はどんなサイズの身体でも健康でいられると主張した。肥満についての否定的な意見は、人種や性別、性的指向などへの否定と同様に、変更不可能な特性に対する偏見なのだ。 だがその後、こうした肥満者の権利運動はファット・スタディーズによってさらに批判されることになる。ボディポジティブ運動は、「集合性ではなく個人性を強調する」からだ。 《理論》にとっては、差別の元凶となるのはあくまでも社会の権力関係であって、差別されている個人が問題なのではない。だがボディポジティブ運動は、「自分の身体を愛してそれに満足するという責任」を個人に負わせている。この「責任化」は、同性愛者を差別する社会を放置したまま、同性愛者に「もっと自分を愛しなさい」と説教するのと同じだというのだ。 だがこの主張には、きわめて危ういものがある。アメリカには同性愛者を強制的に「治療」した歴史があり、それはときにきわめて残酷なものになったが、現在では性的指向は生得的なもので治療対象ではないとの理解が広まった。肥満差別を同性愛差別と同じだとすると、肥満への「治療」も否定すべきだということになってしまう。そして実際に、このような主張がなされている。 体重の遺伝率は身長とほぼ同じで、太りやすいかどうかはかなりの程度、遺伝で決まっている。その意味で、肥満者を「意志が弱い」「やせる努力をしていない」と見なすことが差別的なのはその通りだが、だからといって肥満を放置しておいていいということにはならない。あらゆる医学データが、肥満は喫煙と同様かそれ以上に健康を損ね、寿命(および健康寿命)を短くすることを示しているからだ。 だがファット・スタディーズでは、「肥満が危険で(通常は)治療可能な医学的状態なのだという研究すべて」をファットフォビア的だと見なし、肥満者が医療支援を拒否し、「肯定的なコミュニティ『知識』」を受け容れるだけの力を与えようとする。だがこれは、ほんとうに肥満者の利益になっているのだろうか』、行き過ぎのような気がする。
・『「差別されている者(マイノリティ)はつねに正しく、差別する側にいる者(マジョリティ)はつねに間違っている」  ファット・スタディーズは極端な例だが、同じ論理は障害者研究にも登場する。そこでは、問題なのは障害者個人ではなく(これはその通りだ)、健常者を「正常」、障害者を「異常」と見なす「健常者主義(ableism)」なのだから、治療や治癒の試み(医療化)は拒絶すべきだと主張される。 プラックローズとリンゼイは、このような奇妙な(そして有害な)論理のねじれが、人種差別や性差別、性的少数者差別など、《理論》が取り上げるあらゆる領域に見られ、それは差別されている「被害者」を支援するよりも、むしろ問題の解決を困難にしていると批判している。 《理論》は難解な哲学用語を駆使するが、それだけでは社会運動として大衆を動員することはできない。その結果、必然的に「差別されている者(マイノリティ)はつねに正しく、差別する側にいる者(マジョリティ)はつねに間違っている」という極端に単純化された善悪二元論に陥ることになる。 CRT(批判的人種理論)では白人は「白人」であるというだけで人種差別の罪(原罪)を生涯背負わなければならないし、「交差性(インターセクショナリティ)」では、より多く差別されている者がより大きな正当性をもつ。白人女性のフェミニストよりブラックフェミニズム(黒人女性のフェミニズム)が重視されるべきだし、黒人女性の同性愛者(あるいはトランスジェンダー)はより大きな「正義」を主張できることになる。 これは「思想(あるいは理論)」というよりも、あらゆる反差別の闘争に見られる感情的な反発で、それが大きな影響力をもつようになったのは、誰もが直観的に理解できるからだろう。《理論》はこの感情的な怒りに、思想的な説明(らしきもの)を提供しているのだ。 あらゆる言説やテキストには「差別」が埋め込まれており、それを暴いて糾弾しなければならないという信念は、あらゆる権力機構がディープステイト(闇の政府)に侵食されており、それと闘わなくてはならないという右派の陰謀論に不気味なほどよく似ている。キャンセルカルチャーが「現代の魔女狩り」と呼ばれるのは、たんなる比喩ではなく、そこに宗教的熱狂のようなものを感じるからだろう。 日本ではこれまで、「社会正義」はリベラルな団体・知識人が担ってきた。そのため《理論》もリベラルな主張だと思われているが、いまやアメリカでは、「ラディカルレフト(過激な左派)」や「プログレッシブ(進歩派)」が、「社会正義」を掲げて(著者たちのような)リベラルと敵対している。この構図がわからないと、欧米(英語圏)で頻発する思想的・政治的な紛争を理解することはできないだろう。 著者たちの主張に説得力があると思うひとも、そうでないひともいるだろうが、日本でも本書が社会正義を論じる際の必読書となることは間違いない。 (橘玲氏の略歴等はリンク先参照)』、昔の学生運動も多くの分派が生じたが、「社会正義」を巡っても分派が生じているようだ。
タグ:東洋経済オンライン 哲学 (その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!) 広井 良典氏による「AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務」 パンデミックで取上げる方が適切かとも思ったが、哲学として取上げる。 さすが哲学者らしく、捉える視点が広い。 「「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである」、「ドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要」、なるほど。 「格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ」、「日本は以前は」「比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている」、 改めて「日本」での格差拡大の深刻さを再認識させられた。「格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれる」、なるほど。 「イギリス」はさすがに「公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備」とはしなかったが、そうであれば、同国で感染が広がっている理由を別途指摘すべきだ。 「日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある」、その後、「日本」で一時的に事実上の「医療崩壊」に近い状態になった。 広井 良典氏による「コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」」 どのような観点で「読み解いて」くれるのだろう。 「「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点」、「が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界」、「今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っている」、その通りだ。 「最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである」、「こうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう」、その通りだ。 私には「ドイツ以北のヨーロッパに特徴的」な姿の方が望ましいように思える。 「実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これか の21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていく」、なるほど。 なかなか意欲的な取り組みだ。今後の展開を大いに期待したい。 ダイヤモンド・オンライン 橘玲氏による「「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!」 「「正義」がどのように複雑骨折しているか」とは興味深そうだ 「ポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。 アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる」、「アメリカ」の学者たちはとんでもなく面白いことをするものだ。 「犬同士の性暴力・・・に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬・・・だった。 興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった」、「ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする」姿勢は微笑ましい。 「この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した」、「著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年・・・ポートランド州立大学を辞任」、当然のことだ。 「「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転」、笑えない皮肉だ。 行き過ぎのような気がする。 昔の学生運動も多くの分派が生じたが、「社会正義」を巡っても分派が生じているようだ。
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