SSブログ

ソニーの経営(その11)(ソニーのデジカメ 初の大ヒットはちょっと意外なあのカメラ、大ヒットと大炎上をデジカメ「P1」で味わう) [企業経営]

昨日に続いて、ソニーの経営を取上げよう。今日は、(その11)(ソニーのデジカメ 初の大ヒットはちょっと意外なあのカメラ、大ヒットと大炎上をデジカメ「P1」で味わう)である。これは、「ソニー」のモノづくりの牙城であるデジカメ部門を歴史の一端を見るため取上げた。

先ずは、1月31日付け日経ビジネスオンラインが掲載したソニーグループ代表執行役副会長の石塚 茂樹 他1名による対談「ソニーのデジカメ、初の大ヒットはちょっと意外なあのカメラ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00533/012500001/
・『(石塚氏の略歴はリンク先参照) 糸口は故・小田嶋隆さんと“スシ”でした  2022年秋、石塚さんが故・小田嶋隆さんのコラムを惜しむメッセージを編集部にくださったのをご縁に、インタビューする機会をいただいた(小田嶋さんが書いていた「ソニーへの手紙」)。 石塚さんはソニーのデジタルカメラ部門を長年率いてきた方、という予備知識はあったので、話のネタにと思って仕込んできた自分のデジカメを、インタビューの終わりに出してみた。 「実はこんなものを持っているんですが」 「おっ、“スシ”じゃねえか!」 ソニー サイバーショットDSC-U10 画素数は130万、ちゃんとオートフォーカスで背面液晶も装備。かわいいったらありゃしません。とても処分できず、家の引き出しにしまってありました。 「スシ? スシってあの寿司ですか?」「そうそう。当時(2002年発売)、欧州に持っていったら、このホワイトのモデルがちょうどシャリに見えるっていうんで、現地の人が『スシ、スシ』って喜んでね」 「じゃあひとつ、板前風の写真を撮らせていただいてもいいでしょうか」 「こんな感じ? へい、お待ち!」 石塚さんの意外なノリの良さにびっくりしつつ、脳内ではとっくに枯れたと思っていた「ソニーファン」魂と好奇心がシンクロし始めた。小田嶋さんのコラムを面白がる余裕、節度を持ちつつも歯切れのいい物言い。この人ならきっと……。「よろしかったら、石塚さんを通して、ソニーのデジタルカメラのこれまでの歴史を振り返る企画をやらせてもらえませんでしょうか」。気が付いたら口説き始めていたのだった。 以上が本連載開始の経緯です。ソニーの「ものづくり」の牙城として今も高い利益を稼ぎ出しているデジタルカメラの来し方を、開発の最前線に立ち続けた技術者、そしてスマホ来襲の中でデジカメを生き残らせた経営者でもある石塚さんに、根掘り葉掘り伺っていく。その中から、日本のメーカー、そして日本の技術者が、再び輝く手がかりを掘り出せたらと祈っています。そしてホンネを申せば、ソニーのデジカメの戦いの歴史って、すごく面白そうではないですか!(Qは聞き手の質問) Q:ずうずうしいお願いに応えていただいて本当にありがとうございます。何か、資料までご用意いただいたそうで。 石塚:共有画面、映っていますか。ソニーのデジタルカメラの歩みを振り返ろうということですよね。じゃ、さっそく。ソニーのカメラと言えば、まず「マビカ」。 Q:ありました。この新聞広告は覚えています。「カメラなのにフィルムがいらないんだ、テレビで見るんだ、その手があったか!」と驚きました。 石塚:開発発表は1981年でした。ちょうど私がソニーに入社した年です。正確には「デジタル」カメラではなくて、2インチのフロッピーディスクにアナログで記録する電子カメラなんですよね。発売は88年でした。 Q:テレビには、カメラ本体からビデオ出力するんですか。 石塚:再生用のアダプターがあったんです。 Q:今見直すと、アップルの「QuickTake 100」に似ていなくもないですね。あれはチノン製でしたっけ。 石塚:これはキヤノンとの共同開発でした。私はマビカには関わっていないので、全部聞いた話なんですけれども、キヤノンで社長を務められた真栄田雅也さん。 Q:はい、2022年にお亡くなりになった。1981年当時、マビカの開発発表がキヤノンに与えたショックを「日経クロステック」で語られていました。 (日経クロステックの記事はこちら) 石塚:僕がデジカメを担当するようになってから、実は真栄田さんとは親交があったんですよ。カメラ業界でのお付き合いはもちろん、たまに飲んだり、ゴルフをしたり。亡くなられてから、偲ぶ会がありまして、そこに彼の遺品が置いてあったんですね。真栄田さんはもともとメカニカル系のばりばりのエンジニアで、遺品のノートには電子スチルカメラの図面が描かれていました。 Q:キヤノン側でのご担当だったということですね。几帳面な方ですね。 石塚:そうそう。僕なんかは20代のころの仕事の記録なんて何も残っていないんだけれども、真栄田さんは非常に緻密で、きちんとした方だったんです。 Q:「フィルムが要らない」というインパクトはありながら、マビカはあっさり消えちゃいましたけれど。 石塚:うん。マビカは80年代の前半にカメラ業界、フィルム業界を震撼させたソニーの発明、だったんだけれども、ビジネス的にはまったく成功せず終わったんですよ。 でも、このマビカのアイデアはその後、ソニーのデジカメの初ヒットにつながりました。この機種のヒットがあったからこそ、ソニーのデジカメは今に至っていると思います。 Q:あっ、「サイバーショットF1」ですね! あれはかっこよかったです。 DSC-F1(1996年10月)「サイバーショット」シリーズ初代。レンズ部が回転して自撮りができる 石塚:いや、サイバーショットじゃないんですけど(笑)。 Q:あれ? 石塚:97年に出した「デジタルマビカ」というのがあるんです。MVC-FD5とFD7。 MVC-FD7(1997年7月) フロッピーにデジタル画像を記録する「デジタルマビカ」。10倍ズームレンズ付きで、世界で大ヒットを飛ばす Q:あっ、これ、ありましたね。3.5インチのフロッピーディスクに記録するやつですよね? 当時自分はパソコン誌「日経クリック」の編集をやっていて、これを見て、でかいわ、ごついわで「なんてダサいんだ」と……ごめんなさい。 石塚:いえいえ(笑)。その通りだと思います』、知り合った「糸口は故・小田嶋隆さんと“スシ”でした」というのはさもありなんだ。「マビカは80年代の前半にカメラ業界、フィルム業界を震撼させたソニーの発明、だったんだけれども、ビジネス的にはまったく成功せず終わったんですよ。 でも、このマビカのアイデアはその後、ソニーのデジカメの初ヒットにつながりました。この機種のヒットがあったからこそ、ソニーのデジカメは今に至っていると思います」、「なんてダサいんだ」、でも「世界で大ヒット」になったようだ。
・『「ダサい」デジタルマビカはどうして売れた  Q:これ、売れたんですか。 石塚:めちゃめちゃ売れました。 Q:正直、すごく意外です。でかいし、重いし、ダサ……すみません。 石塚:96年の10月ぐらいだったかな、当時の上司が「3.5インチのフロッピーを使ったカメラを造ってよ」と、僕と僕の相棒に言ってきたんです。「出そうよ、とにかく早く出そうよ、なぜかって? だって誰でもできるんだから」と。 Q:誰でもできるようなものなんですか? 石塚:「その辺に売っているパソコン用のフロッピーディスクドライブを買ってきて、それにビデオカメラ用のレンズとイメージセンサーと電池をくっつけたら、カメラになっちゃうじゃないか。誰かが出す前に、さっさと造ってよ」てな感じで。とにかくよそより先に出さないと意味がないと急(せ)かされて、半年とちょっとで造って、97年の夏に売り出して、大ヒットしました。 フロッピーはパソコン用、バッテリーは、私はパーソナルビデオ事業部で、8ミリハンディカムの設計をやっていたので、そこからみんな持ってきて。FD7の10倍光学ズームもハンディカムの流用です。とにかくありものを組み合わせたので、早く出せたけれど、外観はおっしゃる通り厚ぼったくてぼてっとして、日本人にはウケない。 Q:でしたよね。 石塚:だけど、米国でバカ売れしたんですよ。特に10倍ズームのFD7が。 Q:どうしてそんなに売れたんでしょう。) 石塚:デジタルマビカが何に使われたかって、業務用だったんです、例えば、自動車の保険会社さんとか不動産屋さんとか、写真が必要な仕事ってあるじゃないですか。もちろん、当時もデジカメはたくさん出ていたんですが、ほとんどの機種は内蔵メモリーに記録して、パソコンにケーブルで接続して読み出していましたよね。 Q:そうそう、そうでした! しかも専用ソフトが必要だったりしました。 石塚:ところが、デジタルマビカはフロッピーディスク記録で、当時のパソコンはフロッピーディスクドライブがほぼ標準装備だった。だから、デジタルマビカなら、撮って、ディスクを抜いて、パソコンに差し込めばいい。画像データもJPEG形式だから、専用ソフトは不要でダブルクリックすれば開ける。徹底的にシンプルなコンセプトが、「仕事で使う」人たちに受けて、成功したんです。 Q:なるほど。画質はさておき、とにかくデータのハンドリングが楽で、仕事ならそれで十分。 石塚:そうそう。ものすごくもうかって。これに味をしめて、2号機はちゃんとまじめにデジタルマビカ専用のフロッピーディスクドライブも開発したんですよ。 Q:専用……と言いますと。 石塚:初号機はドライブが流用品だったので、書き込みが遅いし、分厚かった。そこで某メーカーと組んで、倍速化と薄型化を。 Q:ああ、そういえばシャッターを切ると、ジコジコのんびりフロッピーに書き込んでましたね。そもそもフロッピーって、書き込みも読み出しも遅くて。 石塚:FD7の画素数は41万(有効38万)で、解像度はVGA(640×480ピクセル)、ファイルサイズも、大きくてせいぜい100キロバイト前後だからこそ、フロッピーディスク記録が成り立ったわけです。フロッピー1枚にかろうじて20枚程度でしたか。「せめてフィルム1本分くらいは記録できるようにしよう」と、圧縮率もそこそこ高くしてね。 Q:もはやこの辺も解説が要りそうですが、当時、カメラ用フィルム1本で撮れる写真の枚数は24枚が主流でした』、「「誰かが出す前に、さっさと造ってよ」てな感じで。とにかくよそより先に出さないと意味がないと急(せ)かされて、半年とちょっとで造って、97年の夏に売り出して、大ヒットしました」、「自動車の保険会社さんとか不動産屋さんとか、写真が必要な仕事ってあるじゃないですか。もちろん、当時もデジカメはたくさん出ていたんですが、ほとんどの機種は内蔵メモリーに記録して、パソコンにケーブルで接続して読み出していましたよね・・・ところが、デジタルマビカはフロッピーディスク記録で、当時のパソコンはフロッピーディスクドライブがほぼ標準装備だった。だから、デジタルマビカなら、撮って、ディスクを抜いて、パソコンに差し込めばいい。画像データもJPEG形式だから、専用ソフトは不要でダブルクリックすれば開ける。徹底的にシンプルなコンセプトが、「仕事で使う」人たちに受けて、成功したんです」、思いもかけないニーズにマッチして「成功した」とは面白いこともあるものだ。
・『パソコン店でフロッピーをこっそり読ませる  石塚:とにかくやっつけで造ったので、カメラの性能としてはお世辞にもいいとは言えない。ストロボなんてもう、「光ればいいんだ」という感じだったんですね。だから、顔が白飛びする、赤目にもなる(網膜にストロボ光が反射する「赤目現象」)。クレームが来ると、今では考えられない対応ですが「そういうときは発光部にティッシュを張ってください」とか言ってね。 Q:調光機能がない。「光るンです」だったわけですか。 石塚:当時の我々は怖いもの知らずです。90年代のデジカメって、カメラの置き換えというよりは、パソコンのペリフェラル、周辺機器だったということもありますね。 Q:そうでした。カメラ雑誌じゃなくて、私がいたパソコン誌が取り上げるアイテム。 石塚:なので、特に米国で売るときは、カメラやハンディカムとかを売っている店じゃなくて、パソコン中心の「PCデポ」とか「コンプUSA」とか、そういうところで主に売ろうとしていました。一方で、とにかく簡単なのが売りでしたから、万一これで撮った画像ファイルが開けないパソコンがあったら大変。だから僕は世界中のパソコン店に行って、展示してあるパソコンに何気なく写真入りのフロッピーをぶち込んで、開くかどうか試していました。 Q:うわ(笑)。でもJPEG形式で記録しても開けない可能性ってあったんですか。 石塚:うん、簡単に造れると言いましたけれども、一応、うちのエンジニアが小さなOSを作って、MS-DOSでもWindowsでもMacでもちゃんと開けるような形式で記録していたんです。でも、例外が発生する可能性は潰せないので、地道にテストしていました。 Q:しかし、言われてみれば当時の環境だったら「フロッピーディスク記録のデジカメ」というのは“冴えたやりかた”でしたね。マネするところが出てきてもおかしくなさそうです。 石塚:1つエピソードを言うと、某カメラメーカーの方にずっと後になってから聞いたら、「実はうちも開発していた」と。ところが、ソニーが出しちゃったものだから、二番煎じになっちゃうとよろしくないというのでやめたらしいんです。Q:「あっという間に造って出した」のは結果的に正解だった、ということですね。 上司の方の考えはまさにその通り、大正解だった。 石塚:と、デジタルマビカはデジカメとしての性能はほどほどでしたが、汎用性、使い勝手に集中したことで、米国と欧州で大ヒットして。 Q:海外市場で「デジカメと言えばソニー」というイメージをつくったと。 石橋:いや、それは言い過ぎですね。一般ユーザーよりも業務用として売れましたし、売れた地域も申し上げた通りばらつきがありましたから。ただ、「ソニーのデジカメ」についての一定の存在感を市場に確立したのは確かです。 Q:なるほど。 石塚:その後、2号機ぐらいまでは売れたかな。ご存じの通りデジカメが高画素化して、データサイズが大きくなるとフロッピーディスクでは記録できなくなって、8cm CD-Rに記録するモデルを出すんですが、最大の特徴である、データのハンドリングの良さを失って、消えていくんです。 Q:さっき先走りましたけれど、私には「ソニーのデジカメ」と言えば、サイバーショット初号機、F1のイメージが強いんです。あちらはどうだったんでしょう。 石塚:こちらは私は関わっていませんでした。コンセプトは回転レンズに代表されるように、フィルムカメラでは絶対できない、「撮る、見る、飛ばす」を実現しようというものです。撮って、見てというのは液晶で見て、飛ばすというのはIrDA(赤外線通信)のことで、パソコン、そしてプリンターに送ることもできました。 Q:めっちゃ未来的、いかにもソニー。 石塚:とてもとんがった商品で、話題になったんですけれども、これはあんまり売れなかったのです。 Q:そうなんですか。どうしてでしょう。 石塚:売れなかった理由は、記録メモリーが内蔵式だったこと、そして電池が持たなくて、「サイバーちょっと」と言われていたんですよね。 Q:そういえば当時そんなあだ名も聞いたかもしれない。 石塚:さらにビジネス的なことを言うと、材料費がものすごく高くて。 販売価格が9万円くらいでしたっけ、けっこう高級機でしたよね。 石塚:それでも逆ざやだったかもしれません。あまりうまくいかなかった。 Q:すみません。実はF1って大ヒット商品だと思っていましたが』、「デジタルマビカについて、某カメラメーカーの方が、「実はうちも開発していた」が、「ソニーが出しちゃったものだから、二番煎じになっちゃうとよろしくないというのでやめたらしい」、製品開発にはタイムんぐも重要なようだ。「デジタルマビカはデジカメとしての性能はほどほどでしたが、汎用性、使い勝手に集中したことで、米国と欧州で大ヒット」、「「ソニーのデジカメ」についての一定の存在感を市場に確立した」、見事だ。「サイバーショット初号機、F1」「「撮る、見る、飛ばす」を実現しようというものです。撮って、見てというのは液晶で見て、飛ばすというのはIrDA(赤外線通信)のことで、パソコン、そしてプリンターに送ることもできました。 Q:めっちゃ未来的、いかにもソニー」しかし、「あんまり売れなかった」、「売れなかった理由は、記録メモリーが内蔵式だったこと、そして電池が持たなくて、「サイバーちょっと」と言われていたんですよね・・・さらにビジネス的なことを言うと、材料費がものすごく高くて。 販売価格が9万円くらいでしたっけ、けっこう高級機でしたよね。 石塚:それでも逆ざやだったかもしれません。あまりうまくいかなかった」、時代の先を行き過ぎていたのかも知れない。
・『日本と海外で評価ポイントが逆  石塚:いえ、日本では売れました。ですが、海外では全然売れなかった。電池の持ちもありますが、IrDAが普及していなくて、ケーブルだとRS232Cで通信速度がすごく遅いんですよね。だから内蔵メモリーのデータをパソコンへ吸い出すのに手間がかかった。 Q:見た目は最高、機能もすごい、だけど使い勝手が悪い。デジタルマビカの正反対ですね。 石塚:そう。日本で評価されるポイントと海外のそれとは逆だった、とも言えます。 Q:そういえば、サイバーショットF1のほうがデジタルマビカより先に出ていたわけですが、マビカを「サイバーショット」というシリーズの中に入れなかったのはわざとですか。 石塚:うん、実はネーミングに内部の論争がありまして。 Q:ありそうです。 石塚:販売会社は「サイバーショットにしてほしい」と言っていましたね。「マビカなんか、売れなかったから印象が悪い」とか。でも当時の僕のボスがこだわって、「いや、デジタルマビカだ」と。フロッピーディスク記録というイメージを打ち出した「マビカ」は、逆にアセットになるはずだ、と考えていたようです。 Q:なるほど。 石塚:それからもう1つ「サイバーショットプロ」というシリーズが出ます。DSC-D700。業務用っぽいカメラです。 石塚:ファインダーはプリズムが入っていて、見た目も一眼っぽいやつなんですけれども。これはこれでまた別の、業務用の機材を造っていた厚木の部隊が開発しました。これも材料費が高いわりには全然売れなくて。 Q:いろいろな背景を持つチームがそれぞれ自分の得意技でデジカメを出していたわけですか。そういえば、音楽用のMD(ミニディスク)が使えるサイバーショットもありませんでしたか。 石塚:はい、DSC-MD1ですね。F1と同じ部隊が開発しました。) Q:当時としてはMDは大容量メディアだし、面白い試みです。一方で戦線がぜんぜん整理されていない印象があるのも、デジカメ草創期ならではでしょうか。やりたい人がやりたい仕事をやる、という。こういうのもメーカーにとって1つの理想のような気もするんですけれど。特に当時のソニーは、まだまだこういう「やりたい放題」が似合う会社、でしたよね。 石塚:確かに、このあたりはソニーらしいっちゃらしいんです。けれどもだいたい一発屋で失敗して終わるという。MDも1号機が出て、あとが続きませんでした。 さすがに上層部が「お前らいいかげんにしろ、1カ所でやれ」と言って、デジタルマビカが一番成功していたので、そこに統合されたわけです。当時はやりたい人がやりたいようにやっていたんだけれども、採算をちゃんと考えなかったり、品質が悪かったり、一言で言えばバランスが非常に悪かった。 Q:そんな中で目立ったヒットがデジタルマビカだった。1つ質問いいですか』、「やりたい人がやりたい仕事をやる、という。こういうのもメーカーにとって1つの理想のような気もするんですけれど。特に当時のソニーは、まだまだこういう「やりたい放題」が似合う会社、でしたよね。 石塚:確かに、このあたりはソニーらしいっちゃらしいんです。けれどもだいたい一発屋で失敗して終わるという。MDも1号機が出て、あとが続きませんでした。 さすがに上層部が「お前らいいかげんにしろ、1カ所でやれ」と言って、デジタルマビカが一番成功していたので、そこに統合されたわけです。当時はやりたい人がやりたいようにやっていたんだけれども、採算をちゃんと考えなかったり、品質が悪かったり、一言で言えばバランスが非常に悪かった。 Q:そんな中で目立ったヒットがデジタルマビカだった」、いかにも「ソニー」らしい開発スタイルだ。
・『こだわり・わりきり・おもいきり  石塚:はい、どうぞ。 Q:出来合いのものをがっちゃんこして造ったそのデジタルマビカですが、これをやらせたボスの方は、どうしてこれを作りたかったんでしょう? 「俺が使いたいものが欲しい」みたいな感じだったんでしょうか。 石塚:「自分が使いたい」と「売れるもの」でしたね。事業部長をやって、役員、副会長をやったNさんという、ちょっと変わったおじさんなんですけれども。 Q:……石塚さんが変わったおじさんという人。 石塚:商品開発を考えるのが得意で、僕も好きで自分でもやっていましたけれども、この人に教えられたところもあって。シンプルなものが好きなんですね。どういうことかというと、要するに「セールストークは簡単なほうがいい」と。シンプル・イズ・ベストということで、だから、ケーブルなんか絶対に付けるな、専用ソフトは同梱するな、そこにこだわれ、とね。 Q:そうか、シンプルさは売る側が手間を惜しむと実現できない。 石塚:そうそう。これは余談だけれど、社内で僕がこの15年ぐらい言っているフィロソフィーがあって、「こだわり、わりきり、おもいきり」というんです。だから、こだわるところにはこだわるけれども、それ以外の余分な要素は切り捨てて、割り切れ。決めたら、思いきりやれ、という。それは最初のヒットになった、デジタルマビカの教訓なのかもしれません。 Q:おお。すごく含蓄があるんですね、このデジタルカメラに。 石塚:だから、さっきのご質問への回答を改めて言うと、上司の気持ちは「ものすごく使いやすいものを造ろう」ということになるかもしれないですね。 まずフロッピーディスクって、当時はただ同然、とは言わないまでも、コンビニに行って小銭で買えた。どこでも買えてしかも安い。当時、他のリムーバブルメディアってすごく高かったですよね。そしてカメラ本体も、大きくて無骨でとんがったことはできないけれど、どこをどうすればどうなるかがすごく分かりやすい。そして、パソコンとの親和性も最高だと。 Q:なるほど、どこをとっても使いやすい。 石塚:米国向けのセールスマニュアルには「イージー」という言葉がたくさん入っていましたよ。説明書を読まなくてもすぐ使えちゃうというね。 Q:使いやすさにこだわり、デザインや機能は割り切り、イージーを思いきり全面展開して売る、という。外にいる私たちは「他がやらないことや見た目にこだわって、でも使いにくくて壊れやすい」のがソニーらしさ、くらいに思っていましたが。 石塚:(苦笑して)それだとビジネスとしては続かない。デジタルマビカは既存技術の寄せ集めといえば寄せ集め。でも、結局、フロッピーディスク記録のデジタルカメラでビジネスができたのは、ソニーだけだったわけです』、「「セールストークは簡単なほうがいい」と。シンプル・イズ・ベストということで、だから、ケーブルなんか絶対に付けるな、専用ソフトは同梱するな、そこにこだわれ、とね」、「「こだわり、わりきり、おもいきり」・・・こだわるところにはこだわるけれども、それ以外の余分な要素は切り捨てて、割り切れ。決めたら、思いきりやれ、という。それは最初のヒットになった、デジタルマビカの教訓なのかもしれません」、凄い「フィロソフィー」だ。「米国向けのセールスマニュアルには「イージー」という言葉がたくさん入っていましたよ。説明書を読まなくてもすぐ使えちゃうというね。 Q:使いやすさにこだわり、デザインや機能は割り切り、イージーを思いきり全面展開して売る、という・・・デジタルマビカは既存技術の寄せ集めといえば寄せ集め。でも、結局、フロッピーディスク記録のデジタルカメラでビジネスができたのは、ソニーだけだったわけです」、なるほど。
・『独自性を出すのに「世界一」「新技術」は必須、ではない  Q:確かに。あ、カセットテープのウォークマンもそういえばそういう、既存品のがっちゃんこプロダクトですね。でも「誰もやらないこと」だし、投資額もきっとしたいたことはなかった、んでしょうね。 石塚:だと思います。 Q:誰もやらないこと」を実現するのがソニーらしさだとすれば、このデジタルマビカは「誰もやったことがないほど分かりやすい」、ソニーらしいデジタルカメラ、ということですか。なるほど。 石塚:違う言い方をするなら、誰もやらないことをやるためには、「新技術」「世界初」だけがその方法ではない、ということですね。無論、新技術、世界初、というのは技術者としてとてもいい手段、目標だと思います。でも、それにはお金も時間もかかる。そして、もうけることと両立しないと、やりたいこともできなくなってしまうわけです。技術者は自分の好きなことを続けるために、ちゃんともうけることも考えねばならない。 Q:比べるのも申し訳ありませんが、本もそうなんです。好きなものを作るだけなら楽ですが、売れないと次が出せないから、「好きなものをどう見せれば売れるのか」を、毎回うんうん考えるという。 石塚:それで、売れることだけをつい考えちゃったりしません? Q:しますします(笑)。 石塚:そうなると本末転倒で。だから「人のやらない、やりたいこと」と「売れること」のせめぎ合いを常に強いられるんですよね。 Q:その辺の苦しさと面白さを、これからお話しいただければと思います』、「ウォークマンもそういえばそういう、既存品のがっちゃんこプロダクトですね。でも「誰もやらないこと」だし、投資額もきっとしたいたことはなかった」、「誰もやらないことをやるためには、「新技術」「世界初」だけがその方法ではない、ということですね。無論、新技術、世界初、というのは技術者としてとてもいい手段、目標だと思います。でも、それにはお金も時間もかかる。そして、もうけることと両立しないと、やりたいこともできなくなってしまうわけです。技術者は自分の好きなことを続けるために、ちゃんともうけることも考えねばならない」、「売れることだけをつい考えちゃったりしません?・・・そうなると本末転倒で。だから「人のやらない、やりたいこと」と「売れること」のせめぎ合いを常に強いられるんですよね。 Q:その辺の苦しさと面白さを、これからお話しいただければと思います」、次回が楽しみだ。

次に、この続きを、2月7日付け日経ビジネスオンラインが掲載したソニーグループ代表執行役副会長 石塚 茂樹 他1名の対談「大ヒットと大炎上をデジカメ「P1」で味わう」を紹介しよう(Qは聞き手の質問)。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00533/020300002/
・『メモリースティック登場  Q:前回は、ソニーのデジタルカメラを世界に広げたのは、フロッピーディスク記録の「デジタルマビカ」(MVC-FD5、FD7、1997年発売)だったという、意外なお話を伺いました。日本にいると、「ソニーのデジカメ」といえば初代サイバーショットの「DSC-F1」(1996年発売)の印象が強いんですが。 ソニーグループ副会長・石塚茂樹さん(以下、石塚):F1は日本では売れました。しかし海外では、電池が持たないこと、内蔵メモリーしかないので、パソコンに画像データを転送するのに時間がかかること、などが響いて全然売れませんでした。もう一つ、回転レンズで自撮りができるのが大きな特徴だったのですが、これは単焦点なので、ズームができない。 Q:F1はその後も独特のデザイン、質感で「Fシリーズ」としてサイバーショットの一角を支え続けます。現在の視点で見ても古びないですね。ガジェットの楽しさにあふれていて。 石塚:F1はマイナーチェンジを重ねつつ、記録メディア「メモリースティック」を搭載し、バッテリー容量を増やした「DSC-F55K」で、仕切り直しを図りました。 DSC-F55K(1999年) 電池の持ち、パソコンへの転送が面倒、といったDSC-F1の欠点を潰したモデル。ソニーが開発した記録メディア「メモリースティック」(写真右側)を初めて搭載したデジカメでもある。 Q:そうだ、メモリースティックがこの頃登場するんですね。当時のデジカメ用の記録メディアとしては、東芝が始めたスマートメディア、そしてコンパクトフラッシュがありましたよね。 石塚:現場はスマートメディアを使おうと言っていたんですけれど、うちの上層部はまた……。 Q:また? 石塚:「人のやらないことをやるのが、ソニーだ」みたいな感じで、軍門に下るなとか、自分たちでやれとか。それでメモリースティックの採用ということに。それ自体は正しいと思うんですけれど、ね。 全社横断組織の「メモリースティック事業センター」が設立されて、僕もメンバーになったんですが、これもまた大変でした。カメラで撮ってメモリースティックに記録しても「相手」がいないとどうしようもないわけです。そこで、パソコンにつなぐアダプターやリーダーを作ったり、フォトフレームを作ったり、プリンターに入れたりと、色々な「相手」を開発したんです。でも後々、メモリースティックはサイバーショットにとって足かせになるんですね。ソニーしかやっていないから。 Q:結局、ファミリーができなかったんでしたっけ。 石塚:大きなファミリーはできませんでした。 Q:それはつらい。規格競争はソニーにとって鬼門の印象があります』、「当時のデジカメ用の記録メディアとしては、東芝が始めたスマートメディア、そしてコンパクトフラッシュがありましたよね・・・現場はスマートメディアを使おうと言っていたんですけれど、うちの上層部はまた……・・・「人のやらないことをやるのが、ソニーだ」みたいな感じで、軍門に下るなとか、自分たちでやれとか。それでメモリースティックの採用ということに。それ自体は正しいと思うんですけれど、ね」、 Q:結局、ファミリーができなかったんでしたっけ。 石塚:大きなファミリーはできませんでした。 Q:それはつらい。規格競争はソニーにとって鬼門の印象』、「カメラで撮ってメモリースティックに記録しても「相手」がいないとどうしようもないわけです。そこで、パソコンにつなぐアダプターやリーダーを作ったり、フォトフレームを作ったり、プリンターに入れたりと、色々な「相手」を開発したんです。でも後々、メモリースティックはサイバーショットにとって足かせになるんですね。ソニーしかやっていないから」、確かに「規格競争はソニーにとって鬼門の印象」、その通りだ。
・『どうして仲間づくりがうまくないのか  石塚:うん、僕がソニーのビデオテレビ事業部(ベータマックスの事業担当)に入社した時期(1981年)って、ベータマックス対VHSの競争が盛んだった頃なんですね。 ベータのソニー対VHSの松下電器産業・日本ビクター(現パナソニック・JVCケンウッド)、家庭用ビデオデッキの規格争い。1984年ごろにベータの敗色が濃厚になってきて、最終モデル(SL-200D)の発売が93年ですから、この頃は完全に決着がついてますね。 石塚:なのに、また似たようなことをやっているという個人的な思いはありました。あくまで個人的な感想ですが……。のちに、シェアを伸ばしてきた後発の「SDカード」に対抗すべく、「メモリースティックDuo」という小さいやつを作るんですけれども、それでもやっぱりそこが足かせでデジカメのシェアが伸び悩みました。 僕は、2000年代の後半だったかな、ひそかにプロジェクトを興して、ソニーのデジカメにメディアが両方、SDカードと、メモリースティックDuoが挿さるようにしたんですよ。そこからシェアがぐっと伸びたんです。 Q:ユーザーは素直に反応するんですね。ファミリーづくりがうまくないのはなぜでしょう。 石塚:「マネをしない」「人のやらないことをやる」という企業カルチャーは、独自性によって商品を差異化するには大きなプラスでした。一方で、独自性をビジネス面や顧客価値・満足度とどうバランスを取るか、が、常にマネジメントのテーマになっていたのだと思います。前回の「こだわり、わりきり、おもいきり」に通じるものがありますね。 Q:確かに。そう考えると、現場よりマネジメントのほうが「独自性」にこだわりすぎて、わりきれなかった、ということが一因だったように思えます。 石塚:ずいぶん余談が長くなっちゃいましたが(笑)、F55Kはそこそこ売れました。そして、2000年に「DSC-P1」が出ます。これは自分にとって忘れられない思い出があるデジカメです。(ソニーのプレスリリースはこちら) DSC-P1(2000年10月20日発売) 小型ながら3倍光学ズーム、当時としては高画素・高画質、そしてメモリースティック搭載と機能に妥協がなく、大ヒットとなった。 石塚:1998年に、僕がいたデジタルマビカと他のデジカメ開発部隊が一緒になったお話は前回しましたね。そこで開発を率いる立場(パーソナルビデオカンパニー パーソナルビデオ2部 担当部長)になった僕は「とにかくヒットモデルを作ろう」と言って、このP1に取り組んだんです。 Q:一発、大きく当てることを最初から狙ったモデル。) 石塚:ええ、サイバーショットでは「ヒットモデルプロジェクト」を何年かごとに発動しています。開発のリソースを集中して、新規の専用デバイスを起こしていくんですね。その際にはモデル名に“1”というエースナンバーを付けて気合を入れるのが我々の伝統です』、「「マネをしない」「人のやらないことをやる」という企業カルチャーは、独自性によって商品を差異化するには大きなプラスでした。一方で、独自性をビジネス面や顧客価値・満足度とどうバランスを取るか、が、常にマネジメントのテーマになっていたのだと思います。前回の「こだわり、わりきり、おもいきり」に通じるものがありますね。 Q:確かに。そう考えると、現場よりマネジメントのほうが「独自性」にこだわりすぎて、わりきれなかった、ということが一因だったように思えます」、「マネジメントのほう」に責任があるようだ。「サイバーショットでは「ヒットモデルプロジェクト」を何年かごとに発動しています。開発のリソースを集中して、新規の専用デバイスを起こしていくんですね。その際にはモデル名に“1”というエースナンバーを付けて気合を入れるのが我々の伝統です」、「エースナンバーを付けて気合を入れる」、とは興味深い。
・『フラッグシップ機のナンバーを背負って  Q:おー、フラッグシップ機の称号。ベータマックスにも「F1」がありましたし、最近だとミラーレス一眼の「α1」とかですね。 石塚:そうそう。 Q:商品力をぐっと上げる専用のデバイスを新規開発して、宣伝広告にも力を入れてヒットを狙う。毎年やると大変だけど、大きく当てればそのマイナーチェンジでしばらく稼げる。その間に次を仕込む。そんな感じですか。 石塚:そうです。そして自分が手がける製品としては、P1がその1回目でした。レンズを新規で起こしたり、それから、液晶も小さな1.5インチという、すごく小さいのを作ったりしたんですね。 Q:1.5インチというと横幅約3.3センチというところでしょうか。本体がこれだけ小さければ無理もないですね。そして、デザインがガラッと変わりました。 石塚:どうしてこんなに横長かという話をすると、大前提として「よそのカメラと違うデザインにしよう」という意図がありました。そしてとにかく小さくしたい。背を低くしたい。 我々はメモリースティックをメディアとして使うわけですが、そこが一つの切り口になるわけです。コンパクトフラッシュとか、他のメディアは形状が正方形に近く、一辺が高いので、P1の背の低さに対抗できない。横にして入れたら分厚くなっちゃいますしね。そこで、とにかく押しつぶして横長にしたんです。メモリースティックは横長なので。 Q:ちなみに、ライバルとなるSDカード(SDメモリーカード)の発売は2000年第2四半期からでした。 石塚:そうすると、結果的にストロボと光学ファインダーが横に並んでしまいました。これがまた、後にカメラメーカーさんから「ソニーさん、これはご法度です」と、言われてしまうことになるんです。 Q:どうしてご法度なんですか。 石塚:カメラメーカーさんの常識から見ると許せないのは、まずファインダーというのは本来、レンズの光軸と合ってないといけないんです。だから、普通はレンズの真上かちょっとだけ斜め上にあるんですよ。横に置くと、撮れる画像と視野が変わっちゃうから。 Q:ああ、今でも本体の横に出せる「バリアングル液晶」にダメ出しする方は多いですね。あれと同じ理由ですね』、「結果的にストロボと光学ファインダーが横に並んでしまいました。これがまた、後にカメラメーカーさんから「ソニーさん、これはご法度です」と、言われてしまうことになるんです」、「カメラメーカーさんの常識から見ると許せないのは、まずファインダーというのは本来、レンズの光軸と合ってないといけないんです。だから、普通はレンズの真上かちょっとだけ斜め上にあるんですよ。横に置くと、撮れる画像と視野が変わっちゃうから」、なるほど。
・『社内の雰囲気は「やっちゃえ、ソニー!」  石塚:あと、ストロボの位置もレンズの光軸上にあるべきだと。レンズの横でストロボを使うと、横からライトが当たったことになっちゃうんですよ。 Q:だから本来はレンズの上、一眼レフならペンタプリズムがある軍艦部にストロボがないといけない。でも、場所がないから横に並べちゃったと。 石塚:そうそう。理屈はその通りなんですよ。禁じ手をやってしまったと。だけど、当時の僕、そして我々というのは「とにかく人と違うものをやる」と。「やっちゃえ、ソニー」みたいな感じで。 Q:やっちゃえ、ソニー(笑)。これは「割り切り」ってことですね。 石塚:それで、やっちゃうわけです(笑)。結果はどうかというと、P1は世界中で大ヒットしました。 Q:カメラの常識は障害にならなかったわけですね。当時すでにSシリーズが市場に投入されていましたが、その最上位機種であるS70と同等の性能(334万画素で光学式3倍ズーム搭載)を持ちながら、圧倒的にコンパクト。これは売れるわけです。 石塚:そうなんです。そして大ヒットしたが故に、僕は自分史上最大の試練に直面することになるわけですが。 Q:それはどういう……。 石塚:どういうって、「日経ビジネス」のおかげですよ(笑)。 Q:ええと?』、「場所がないから横に並べちゃったと・・・理屈はその通りなんですよ。禁じ手をやってしまったと。だけど、当時の僕、そして我々というのは「とにかく人と違うものをやる」と。「やっちゃえ、ソニー」みたいな感じで」、「これは「割り切り」ってことですね」、なるほど。
・『バッテリー関連の不具合で大クレーム発生  石塚:P1はバッテリー関連のトラブルを起こしました。それがきっかけで、日経ビジネスの「1万人アフターサービス調査」(2003年3月10日号)で、ソニーが前年の1位から最下位に転落するんです。 (編注:このトラブルについてのソニーの説明はこちらの平成15年4月15日の箇所を参照) Q:うわ、そうでしたか。どうしてそんなことが? 石塚:今だから言えるんですが、P1のバッテリーは、自分も関わった「RUVI(ルビ)」という乾電池2本で動作するビデオカメラ用に開発したものでした。RUVIは全然売れませんでしたが、乾電池2本サイズとコンパチのバッテリーは、P1にもってこいで、これ幸いと採用したんです。 Q:なるほど。ありそうなお話です。 石塚:でも、ビデオカメラとデジカメとでは用途がまったく違うんですよ。 Q:と言いますと。 石塚:ビデオカメラは、運動会とかイベントの際に引っ張り出されるけれど、デジカメは日常的に使われますよね。デイリーユースの商品に使うには、このバッテリーは耐久性が足りなかった。具体的には、冬に寒くなって電池の化学反応が鈍くなると、所期の性能が出なくなる。ところが、RUVIは売れなかったし、使われ方もデイリーユースとまでは残念ながらいかなかったのでしょう、クレームも上がってこなかった。 Q:なるほど。ところが、P1は大ヒットしたし、日常的に使われるから。 石塚:そうです。2002年冬になって大クレームが来ました。当時「2ちゃんねる」でいくつもスレッドが立つ大炎上になりました。もしかしたら初めて「ネットで炎上」した電気製品かもしれません。なので、経験知や免疫がなかった。 日経ビジネスでそれが取り上げられ、最終的には(全世界で)無償点検・サービスを実施することになりました。詳しく調査すると、バッテリーだけでなく、P1本体の消費電力やソフトウェア、充電アダプターなど複合的な原因がわかりました。自分のソニー人生最大の試練でしたし、そこから学ばせていただくことが、ものすごく多かった体験となりました。 Q:よろしかったら、別途詳しく聞かせていただけますか? 石塚:3時間くらいかかっちゃいますけれど、いいですか(笑)。 Q:望むところでございます。(つづきます)』、「2002年冬になって大クレームが来ました・・・もしかしたら初めて「ネットで炎上」した電気製品かもしれません。なので、経験知や免疫がなかった。 日経ビジネスでそれが取り上げられ、最終的には(全世界で)無償点検・サービスを実施することになりました。詳しく調査すると、バッテリーだけでなく、P1本体の消費電力やソフトウェア、充電アダプターなど複合的な原因がわかりました。自分のソニー人生最大の試練でしたし、そこから学ばせていただくことが、ものすごく多かった体験となりました」、「初めて「ネットで炎上」した電気製品かもしれません。なので、経験知や免疫がなかった」、「自分のソニー人生最大の試練でしたし、そこから学ばせていただくことが、ものすごく多かった体験となりました」、さぞかし大変な思いをしたものと、同情申し上げる。今後の対談の続きも、適宜、紹介していくつもりだ。
タグ:日経ビジネスオンライン 石塚 茂樹 他1名による対談「ソニーのデジカメ、初の大ヒットはちょっと意外なあのカメラ」 知り合った「糸口は故・小田嶋隆さんと“スシ”でした」というのはさもありなんだ。「マビカは80年代の前半にカメラ業界、フィルム業界を震撼させたソニーの発明、だったんだけれども、ビジネス的にはまったく成功せず終わったんですよ。 でも、このマビカのアイデアはその後、ソニーのデジカメの初ヒットにつながりました。この機種のヒットがあったからこそ、ソニーのデジカメは今に至っていると思います」、「なんてダサいんだ」、でも「世界で大ヒット」になったようだ。 「「誰かが出す前に、さっさと造ってよ」てな感じで。とにかくよそより先に出さないと意味がないと急(せ)かされて、半年とちょっとで造って、97年の夏に売り出して、大ヒットしました」、「自動車の保険会社さんとか不動産屋さんとか、写真が必要な仕事ってあるじゃないですか。もちろん、当時もデジカメはたくさん出ていたんですが、ほとんどの機種は内蔵メモリーに記録して、パソコンにケーブルで接続して読み出していましたよね・・・ところが、デジタルマビカはフロッピーディスク記録で、当時のパソコンはフロッピーディスクドライブがほぼ 標準装備だった。だから、デジタルマビカなら、撮って、ディスクを抜いて、パソコンに差し込めばいい。画像データもJPEG形式だから、専用ソフトは不要でダブルクリックすれば開ける。徹底的にシンプルなコンセプトが、「仕事で使う」人たちに受けて、成功したんです」、思いもかけないニーズにマッチして「成功した」とは面白いこともあるものだ。 「デジタルマビカについて、某カメラメーカーの方が、「実はうちも開発していた」が、「ソニーが出しちゃったものだから、二番煎じになっちゃうとよろしくないというのでやめたらしい」、製品開発にはタイムんぐも重要なようだ。 「デジタルマビカはデジカメとしての性能はほどほどでしたが、汎用性、使い勝手に集中したことで、米国と欧州で大ヒット」、「「ソニーのデジカメ」についての一定の存在感を市場に確立した」、見事だ。「サイバーショット初号機、F1」「「撮る、見る、飛ばす」を実現しようというものです。撮って、見てというのは液晶で見て、飛ばすというのはIrDA(赤外線通信)のことで、パソコン、そしてプリンターに送ることもできました。 Q:めっちゃ未来的、いかにもソニー」しかし、「あんまり売れなかった」、「売れなかった理由は、記録メモリーが内蔵式だったこと、そして電池が持たなくて、「サイバーちょっと」と言われていたんですよね・・・さらにビジネス的なことを言うと、材料費がものすごく高くて。 販売価格が9万円くらいでしたっけ、けっこう高級機でしたよね。 石塚:それでも逆ざやだったかもしれません。あまりうまくいかなかった」、時代の先を行き過ぎていたのかも知れない。 「やりたい人がやりたい仕事をやる、という。こういうのもメーカーにとって1つの理想のような気もするんですけれど。特に当時のソニーは、まだまだこういう「やりたい放題」が似合う会社、でしたよね。 石塚:確かに、このあたりはソニーらしいっちゃらしいんです。けれどもだいたい一発屋で失敗して終わるという。MDも1号機が出て、あとが続きませんでした。 さすがに上層部が「お前らいいかげんにしろ、1カ所でやれ」と言って、デジタルマビカが一番成功していたので、そこに統合されたわけです。当時はやりたい人がやりたいようにやっていたんだけれども、採算をちゃんと考えなかったり、品質が悪かったり、一言で言えばバランスが非常に悪かった。 Q:そんな中で目立ったヒットがデジタルマビカだった」、いかにも「ソニー」らしい開発スタイルだ。 「やりたい人がやりたい仕事をやる、という。こういうのもメーカーにとって1つの理想のような気もするんですけれど。特に当時のソニーは、まだまだこういう「やりたい放題」が似合う会社、でしたよね。 石塚:確かに、このあたりはソニーらしいっちゃらしいんです。けれどもだいたい一発屋で失敗して終わるという。MDも1号機が出て、あとが続きませんでした。 さすがに上層部が「お前らいいかげんにしろ、1カ所でやれ」と言って、デジタルマビカが一番成功していたので、そこに統合されたわけです。 当時はやりたい人がやりたいようにやっていたんだけれども、採算をちゃんと考えなかったり、品質が悪かったり、一言で言えばバランスが非常に悪かった。 Q:そんな中で目立ったヒットがデジタルマビカだった」、いかにも「ソニー」らしい開発スタイルだ。 「「セールストークは簡単なほうがいい」と。シンプル・イズ・ベストということで、だから、ケーブルなんか絶対に付けるな、専用ソフトは同梱するな、そこにこだわれ、とね」、「「こだわり、わりきり、おもいきり」・・・こだわるところにはこだわるけれども、それ以外の余分な要素は切り捨てて、割り切れ。決めたら、思いきりやれ、という。それは最初のヒットになった、デジタルマビカの教訓なのかもしれません」、凄い「フィロソフィー」だ。 「米国向けのセールスマニュアルには「イージー」という言葉がたくさん入っていましたよ。説明書を読まなくてもすぐ使えちゃうというね。 Q:使いやすさにこだわり、デザインや機能は割り切り、イージーを思いきり全面展開して売る、という・・・デジタルマビカは既存技術の寄せ集めといえば寄せ集め。でも、結局、フロッピーディスク記録のデジタルカメラでビジネスができたのは、ソニーだけだったわけです」、なるほど。 「ウォークマンもそういえばそういう、既存品のがっちゃんこプロダクトですね。でも「誰もやらないこと」だし、投資額もきっとしたいたことはなかった」、「誰もやらないことをやるためには、「新技術」「世界初」だけがその方法ではない、ということですね。無論、新技術、世界初、というのは技術者としてとてもいい手段、目標だと思います。でも、それにはお金も時間もかかる。そして、もうけることと両立しないと、やりたいこともできなくなってしまうわけです。技術者は自分の好きなことを続けるために、ちゃんともうけることも考えねばならない 」、「売れることだけをつい考えちゃったりしません?・・・そうなると本末転倒で。だから「人のやらない、やりたいこと」と「売れること」のせめぎ合いを常に強いられるんですよね。 Q:その辺の苦しさと面白さを、これからお話しいただければと思います」、次回が楽しみだ。 石塚 茂樹 他1名の対談「大ヒットと大炎上をデジカメ「P1」で味わう」 「当時のデジカメ用の記録メディアとしては、東芝が始めたスマートメディア、そしてコンパクトフラッシュがありましたよね・・・現場はスマートメディアを使おうと言っていたんですけれど、うちの上層部はまた……・・・「人のやらないことをやるのが、ソニーだ」みたいな感じで、軍門に下るなとか、自分たちでやれとか。それでメモリースティックの採用ということに。それ自体は正しいと思うんですけれど、ね」、 「カメラで撮ってメモリースティックに記録しても「相手」がいないとどうしようもないわけです。そこで、パソコンにつなぐアダプターやリーダーを作ったり、フォトフレームを作ったり、プリンターに入れたりと、色々な「相手」を開発したんです。でも後々、メモリースティックはサイバーショットにとって足かせになるんですね。ソニーしかやっていないから」、確かに「規格競争はソニーにとって鬼門の印象」、その通りだ。 「「マネをしない」「人のやらないことをやる」という企業カルチャーは、独自性によって商品を差異化するには大きなプラスでした。一方で、独自性をビジネス面や顧客価値・満足度とどうバランスを取るか、が、常にマネジメントのテーマになっていたのだと思います。前回の「こだわり、わりきり、おもいきり」に通じるものがありますね。 Q:確かに。そう考えると、現場よりマネジメントのほうが「独自性」にこだわりすぎて、わりきれなかった、ということが一因だったように思えます」、「マネジメントのほう」に責任があるようだ。 「サイバーショットでは「ヒットモデルプロジェクト」を何年かごとに発動しています。開発のリソースを集中して、新規の専用デバイスを起こしていくんですね。その際にはモデル名に“1”というエースナンバーを付けて気合を入れるのが我々の伝統です」、「エースナンバーを付けて気合を入れる」、とは興味深い。 「結果的にストロボと光学ファインダーが横に並んでしまいました。これがまた、後にカメラメーカーさんから「ソニーさん、これはご法度です」と、言われてしまうことになるんです」、「カメラメーカーさんの常識から見ると許せないのは、まずファインダーというのは本来、レンズの光軸と合ってないといけないんです。だから、普通はレンズの真上かちょっとだけ斜め上にあるんですよ。横に置くと、撮れる画像と視野が変わっちゃうから」、なるほど。 「場所がないから横に並べちゃったと・・・理屈はその通りなんですよ。禁じ手をやってしまったと。だけど、当時の僕、そして我々というのは「とにかく人と違うものをやる」と。「やっちゃえ、ソニー」みたいな感じで」、「これは「割り切り」ってことですね」、なるほど。 「2002年冬になって大クレームが来ました・・・もしかしたら初めて「ネットで炎上」した電気製品かもしれません。なので、経験知や免疫がなかった。 日経ビジネスでそれが取り上げられ、最終的には(全世界で)無償点検・サービスを実施することになりました。詳しく調査すると、バッテリーだけでなく、P1本体の消費電力やソフトウェア、充電アダプターなど複合的な原因がわかりました。自分のソニー人生最大の試練でしたし、そこから学ばせていただくことが、ものすごく多かった体験となりました」、 「初めて「ネットで炎上」した電気製品かもしれません。なので、経験知や免疫がなかった」、「自分のソニー人生最大の試練でしたし、そこから学ばせていただくことが、ものすごく多かった体験となりました」、さぞかし大変な思いをしたものと、同情申し上げる。今後の対談の続きも、適宜、紹介していくつもりだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。