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宗教(その8)(一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!、元2世信者・小川さゆりさん2題(旧統一教会の合宿 ショックを受けた男性班長の行動、「バイト先にお金を取りにきた母親」と脱会を決意した言葉)、“むち打ち”のしつけに輸血・部活・恋愛の禁止 「エホバの証人」元2世信者が語る壮絶な幼少期と教団が唱える“終末期”思想) [社会]

宗教については、本年2月18日に取上げた。今日は、(その8)(一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!、元2世信者・小川さゆりさん2題(旧統一教会の合宿 ショックを受けた男性班長の行動、「バイト先にお金を取りにきた母親」と脱会を決意した言葉)、“むち打ち”のしつけに輸血・部活・恋愛の禁止 「エホバの証人」元2世信者が語る壮絶な幼少期と教団が唱える“終末期”思想)である。

先ずは、本年2月10日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した宗教社会学者の橋爪大三郎氏による「一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!【書籍オンライン編集部セレクション】」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/317393
・『『死の講義』という本が、西成活裕氏(東京大学教授)に読売新聞書評面(2023/2/5)で「人生で最も考えたくないことは何かというと、死ではないでしょうか。私の中で「最も考えたくないことを考える」と「死」が結びついた頃、ちょうど目に飛び込んできたのが、橋爪大三郎さんの『死の講義』でした」と紹介されて、いま大きな注目を集めている。 「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている。 現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』がロングセラーになっている。「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」(佐藤優氏)と絶賛されたその内容の一部を紹介しよう。連載のバックナンバーはこちらから。(初出:2020年9月30日)』、「死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている」、「やり残した夏休みの宿題」とは言い得て妙だ。「世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている」、「よく生きるためには死を知ることが必要だ」、確かに「死」について、きちんと考える必要がありそうだ。
・『一神教の特徴  一神教を、英語ではmonotheismという。monoは「1」、the(o)-は「神」という意味だから、わかりやすい。ちなみに多神教をpolytheismという。 一神教/多神教と聞くと、神さまの「数」の違いだと思う。たしかに数は違う。でももっと大事な違いがある。一神教では、「神は天地を、創造する(創造した)」と考えるのだ。 神は、天地を「創造」した。聞いたことぐらいはあるはずだ。でも、その程度ではだめ。創造とはどんなことか、肌身でテッテー的に感じないと、一神教を理解したとは言えない。 一神教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。どれも、「神が天地を創造した」、とする。(そもそもユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「同じ」神を信じているのだった。)なかでも、論理がいちばんすっきりしているイスラム教を例に、考えよう。 イスラム教は、つぎの二つを信仰告白することになっている。 a アッラーが、天地を創造した b ムハンマドは、アッラーの「最後で最大」の預言者である (aだけを認め、bを認めない者もいる。その場合、イスラム教徒ではないが、無信仰者でもない、という扱いになる。) ムハンマドは預言者。アッラーから啓示(神のメッセージ)を受けた。それをまとめたのが、クルアーン(コーラン)である。クルアーンを読むと、天地の創造のことが、まとまって書いてない。まとまって書いてあるのは、旧約聖書の創世記である。クルアーンはそれを当然のこととして、踏まえているのだ』、「「コーラン」には「天地の創造のことが、まとまって書いてない」、「まとまって書いてあるのは、旧約聖書の創世記」、「旧約聖書」は「ユダヤ教」や「キリスト教」だけでなく、「イスラム教」の「聖典」でもあるようだ。
・『創世記はアッラーの預言  旧約聖書はもともと、ユダヤ教の聖典だ。創世記など最初の五つの書物を、モーセ五書(トーラー)という。預言者モーセが伝えた律法である。イスラム教は、モーセも、神アッラーの預言者だと考える。創世記も、アッラーから人類へのメッセージなのだ。 創世記によれば、神は六日で世界を創造した。一日目に「光あれ」と言い、二日目に陸地と海を造り、…、六日目に動物や人間を造った。そして七日目に休んだ(安息日)。 イスラム教は、旧約聖書の内容を、だいたいそのまま認める。クルアーンと違うところは、クルアーンのほうを信じる。旧約聖書は不完全で、ところどころ間違っている、と考えるのである。 創世記に関して言えば、その内容はほぼそのまま、クルアーンに引き継がれている』、「イスラム教は、旧約聖書の内容を、だいたいそのまま認める。クルアーンと違うところは、クルアーンのほうを信じる。旧約聖書は不完全で、ところどころ間違っている、と考えるのである」、後で出現した宗教の強味だ。
・『人間は、一人ひとり神が造った  創造という考え方のポイントは、創造の前と後で、すべてががらりと変化することである。 (創造の前)神がいる ↓ (創造の後)神がいる + 世界がある(天地、山や河、植物や動物、人間が存在する) このことを、肝に銘じてほしい。 最初、神(アッラー)がただ存在するだけで、ほかには何も存在しなかった。神は寂しかったろうか。そんなことはない。神は完全で、欠けたところがなく、満足していたはずだ。 それから、世界を創造した。天地が存在するのは、神が創造したから。天地が存在すべきだと、神が思ったからだ。山や河が存在するのは、神が創造したから。植物や動物が存在するのは、神が創造したから。人間が存在するのは、神が創造したから。神が、それらは存在すべきだ、と思ったからだ。 このように、「世界は、神(アッラー)の意思によって、存在する」のである。山や河を見るたび、植物や動物を見るたび、「神がこれを創造したのだ」と思わなければならない。そして、感謝しなければならない。 人間はどうか。人間ももちろん、神が造った。しかも人間は、一人ずつ、神に手造りされた。 最初の人間は、アダムである。アダムは、「土」という意味。神が土をこねて、人間のかたちにし、息(つまり、生命)を吹き入れて、人間にした。イヴ(エヴァ)も、やはり神が手造りした。以上のことは、創世記2章に書いてある。(細かいことだが、創世記1章には、神は男女を造った、と書いてあるだけ。男性(アダム)を先に造った、とは書いてない。1章は2章と別系統のテキストなのだ』、「人間ももちろん、神が造った。しかも人間は、一人ずつ、神に手造りされた」、「一人ずつ、神に手造り」とは大変な手間だろう。
・『死の講義 (橋爪大三郎氏の略歴はリンク先参照) 深みと奥行きのある生き方をするために――著者より(突然ですが、この本は、死んだらどうなるかの話です。 だいたい死は、突然やってくるものなので、お許しください。 ただしご安心ください。「死んだらどうなるかの話」は、死ぬことそのものではありません。むしろそんなことを考えるのは、生きているひとです。かく言う著者の私もまだ生きているし、この本を手にとったあなたも生きている。悠長なことです。いまにも死にそうで、それどころではないひとだってけっこういるのに。 じゃあなぜ、そんな悠長なことを考えるのか。 いよいよ死にそうになったときには、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうち、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。 人間は、自分が死ぬとわかっている。よろしい。では、死んだらどうなるとわかっているのでしょうか。 むかし人びとは、群れをつくったり、村に住んだり、小さな集団で暮らしていました。そこには、死んだらどうなるか、の決まった考え方がありました。死んだら鳥になる。先祖のところに帰る。どこか遠くで、楽しく暮らす。などなど。それは、人びとが自分の考えを持ち寄って、みんなの考えにしたものです。 そのうち、社会はもっと複雑になります。広い場所で農業を営み、人口も増えた。社会階層が分化した。ふつうの人びとのほかに、商人や職人や、軍人や王さまや、官僚や神官がいます。複雑な社会のなかで、人びとはさまざまな人生を歩みます。職業を変わったり、出世したり落ちぶれたり、戦争に駆り出されたり難民としてよその土地に移住したり。人びとの生き方が何通りもあるということは、人びとの考え方も何通りもあるということです。 広い場所には、さまざまな文化をもった人びとが集まります。さまざまな人種、さまざまな民族の人びとが集まります。死んだらどうなるか、の考え方も違います。これが、「宗教の違い」として意識されます。 いくつも宗教がある。それは、死んだらどうなるか、の考え方がいくつもあるということです。いくつも宗教が出てきてどうなったかというと、大部分は廃れてしまいました。けれどもそのうちいくつかは、信じる人びとの人数が増えて生き残りました。それが「大宗教」です。大宗教は、社会を丸ごと呑みこんで、文明につくり変えました。そうした文明は現在も大きな勢力を保っています。 いま、世界には、四つの大きな文明があります。どれも、宗教を土台にしています。 ・ ヨーロッパ・キリスト教文明 ……キリスト教を土台にしている ・ イスラム文明 ……イスラム教を土台にしている ・ ヒンドゥー文明 ……ヒンドゥー教を土台にしている ・ 中国・儒教文明 ……儒教を土台にしている  この本では、これらの宗教が、人間は死んだらどうなると考えているのか、詳しく追いかけることにします。それぞれの宗教について調べて、もの知りになることが、目的ではありません。自分で納得して、そうだと思える考え方を、選び取ることが目的です。もしかしたら、どの考え方にも納得できないかもしれません。(最近、そういう人びとが増えています。)そういう場合には、ほかにどういう考え方があるのかも、わかる限りで紹介することにします。 この本のタイトルは、『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』です。こんな本を読んでいると、変な目で見られるかもしれません。縁起でもない、と。いやいや、決して怪しい本ではないですよ、と説明してあげましょう』、『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』、確かに興味深そうだ。
・『この本を読む理由。  死んだらどうなるかわからないので、怖くて、心配で、読むのではありません。もちろん、怖くて、心配で、困って読むのでもかまいません。でもほんとうは、しっかり生きるために読む、のです。 死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよいのです。宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるのか、の答えがあります。そのどれにも、大事な生き方が詰まっています。人生の知恵がこめられています。それは、これまでを生きた人びとから、いまを生きる人びとへのプレゼントです。 これより大きなプレゼントがあるでしょうか。私の役目は、そのプレゼントを、読者の皆さんに届けることです。 そこで、読者のみなさんに、約束します。 中学生でも読めるように、わかりやすく書きます。 少しむずかしい言葉を使うときは、説明や注をつけます。 頭に入りやすいように、かみ砕いて話を進めます。 人間が死んだらどうなるのか。この本にあるように、ほんとうにいろいろな考え方があります。そしてどれも、よく考えられています。選りどり見どりです。 人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。ほかの考え方を、理解する力も高まります。 それでは、死んだらどうなるのか、さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください。そして毎日を、胸を張って生きてください』、「人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。ほかの考え方を、理解する力も高まります。 それでは、死んだらどうなるのか、さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください。そして毎日を、胸を張って生きてください」、確かに「さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください」、そこまで到達できれば、そうだろう。
・『新刊書籍のご案内  『死の講義』橋爪大三郎 著、定価1870円 佐藤優氏推薦 神が手造りしたのは、人間だけである。創世記によると、ほかの動物は、言葉で命令するだけで造られている。アダムとイヴは、神の言いつけに背いて善悪の樹の実を食べてしまい、エデンの園を追放された。それから二人は結ばれ、カインとアベルの兄弟が生まれた。イヴは、ふつうのやり方で妊娠し出産した。 カインとアベルは、神に造られたのか? それとも、人間から生まれたのか? 人間から生まれたのに、間違いない。けれども、カインもアベルも、そのほか母から生まれる人間はひとり残らず、神が手造りした。そう、一神教では考える。人間から生まれるのは見かけだけ。誰が存在するのも、例外なく、神の意思によるのだ。 神が造った存在を、被造物という。被造物にも、いくつもの種類がある。まず、物体(モノ)。太陽や月のような天体も、山や河のような地上のモノ(無機物)もある。植物や動物(有機物)もある。 神は三日目に言う、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」植物は、種をもつように造られている。植物は、地が生えさせるもので、草や木の一本一本を区別しない。 神は五日目に言う、「生き物は水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」この命令で、水中の魚類は群れるようになった。一匹一匹は区別しない。鳥は、空を飛ぶようになった。一羽一羽は区別しない。 神は六日目に言う、「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」陸上の生き物は、家畜/地を這うもの/野生動物、の三つのカテゴリーに分けて造られた。そして、一匹一匹は区別しない。それは、原子や分子がひと粒ひと粒区別されないようなものだ。 このように、創世記によれば、被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れ(生物学の用語では、種)として存在し、個物としては存在しない。 唯一、人間だけは、個物として造られ、存在している。アダム、イヴがそうである。そして、カインもアベルも、それ以後生まれた人間は全員、一人ひとり名前があって、個性がある。同じ人間はひとりもいない。これが人間の特徴だ。「人間は、一人ひとり個性ある存在として、神に造られる」。 神は、人間を、一人ひとり手造りする。これが一神教の、神と人間の関係の基本である。ぼんやり読むと、「人間は、一人ひとり個性ある存在として、神に造られる」ことは当たり前のような気がする。全然、当たり前でない。とても特別の考え方だ。 ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、地球上の人類約七七億人の半分以上、およそ四〇億人がこのように考えている。一神教の考え方がどんなふうに特別か、しっかり理解しよう。(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)』、「被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れ(生物学の用語では、種)として存在し、個物としては存在しない。 唯一、人間だけは、個物として造られ、存在している」、「人間」だけは特別扱いのようだ。
・『新刊書籍のご案内  『死の講義』橋爪大三郎 著、定価1870円 佐藤優氏推薦 「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」 「死」とは何か。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。本書は、現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明するコロナの時代の必読書。 宗教の、どれかひとつを選んで、死んだらどうなるか、考えてみる。ちょっとやってみる、をお勧めする。それは、運命の出会いかもしれない。とのべておきながら、反対のことを言おう。どの宗教を選んでも、結局は同じことですよ、と。 なぜか。それはどの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。 宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである。 人類の最大の知的財産である宗教をわからないままで、生きていると言えるだろうか。ささやかな本書を手がかりに、宗教の豊かさを味わってくれる人びとがひとりでも多いことを願っている。(本書より)』、「どの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。 宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである」、「宗教社会学者」らしい主張だ。

次に、2月21日付けNEWSポストセブン「元2世信者・小川さゆりさんが明かす旧統一教会の合宿 ショックを受けた男性班長の行動」を紹介しよう。
https://www.news-postseven.com/archives/20230221_1842880.html?DETAIL
・『旧統一教会信者である両親から止められ、教団から妨害されても屈せず、顔を出して宗教2世としての被害を訴え続けてきた小川さゆりさん。そんな彼女が自らの半生を綴った手記『小川さゆり、宗教2世』が、来月刊行される予定だ。教会や両親への赤裸々な思いを綴った覚悟の手記の内容について独占告白──。【第2回。第1回から読む】 高校3年生の冬、当時信仰が高かった私は、祝福を受けて合同結婚式に参加したいと思っていました。誰かをこの世で一番に愛してみたい、愛されてみたいと思ったし、前々から私は教会が「神が選んだ国」とする韓国の人と結婚したいと思っていました。 この祝福結婚を目指して、2014年の冬、私は21日間の修練会(※統一教会の教義を学ぶためのイベント。上記の21日間の修練会への参加は、合同結婚式に参加するために必要だったという)の合宿に参加しました。合宿では男女は基本的に別行動でしたが、班をまとめる班長は特別でした。私は一緒に行動していた修練生の女の子と、この修練会で10歳以上年上の男性班の班長と仲良くなり、よく3人で話すようになりました。この男性班長は、司会進行補佐も務めていて真面目な人に見えました。 この修練会が終了した次の日は閉会式がありました。修練生全員で修練場の清掃をしていたときのことでした。 「ちょっと手伝ってもらおっかな」 清掃の途中に、その男性班長から声をかけられました。彼の後ろをついていくと、人気のない場所へ連れていかれました。学校の教室くらいの広さの部屋で、その部屋には倉庫のような個室があり、そこへ誘導されました。 彼はスマホを取り出して、私の横に並んで内カメラにして一緒に写真を撮りました。そのとき、彼は私の腰に手を回してきました。少し緊張していたのか、あるいは興奮していたのか、彼の手は不自然に震えていました。 それから彼は私に向かい合い、私だけの写真も撮りました。撮影後に、頭を撫でられたり、頬を両手で触られたりしました。男性班長は、終始ニヤニヤとした笑みを浮かべていました。 そこに一緒にいた時間は、2分間もなかったかと思います。班長の誘導ですぐにその部屋を出ました。 この短い出来事に、私は大きなショックを受けました。教会では男女の身体的な接触は禁止されています。それなのに、信仰上の先輩である班長がどうしてそんなことをするのだろう、と恐ろしくなったからです。 合宿の解散後、帰りの夜行バスの座席に座りSNSのアプリを開くと、先ほど写真を一緒に撮られた班長から、友達申請とメッセージが届いていました。 「○○だよ」と男性班長の名前が書かれていました。それは修練会中に送信されていたことに気づきました。 「オッパ(お兄さん)、お疲れ様でした」 そういった返事を送ると、すぐにメッセージが返ってきました。 「いまは帰ってる途中なのかな」と聞かれて、「はい、帰っている途中です」と返信すると、それからは男性班長からのメッセージが矢継ぎ早に届きました。 「○○(地元)に会いに行くからね」「可愛いから男の子が寄ってくるでしょ」「もうおねんねしたかな?」「返信くれないと天国で会えないよ」 私は驚きましたが、このことを教会の指導役の先輩に相談しても、基本的には「そのことを他に漏らさないこと」を約束させられ、「そういう感情や行動は上の立場にある人であっても誰でも起こりうる可能性があるので気をつけるように」というような具体的解決のない対応に終始されました。 「男性は目から刺激を受ける傾向がありますが、かといって、美しいものを美しいと思うこと自体が罪ではありません」 私の相談に、本部の指導者はこう答えました。 美しいものを美しいと思うことは、人間のごく普通の感情であることは確かですが、私たちはそれを「取って食べるな」と幼少期から否定されてきたのです。(第3回につづく。第1回から読む)』、「教会の指導役の先輩に相談しても、基本的には「そのことを他に漏らさないこと」を約束させられ、「そういう感情や行動は上の立場にある人であっても誰でも起こりうる可能性があるので気をつけるように」というような具体的解決のない対応に終始されました」、張本人に注意するのではなく、「相談者」への一般的注意に留まったのは、誠に卑怯な姿勢だが、大いにありそうだ。

第三に、この続きを、2月21日付けNEWSポストセブン「元2世信者・小川さゆりさんが告白 「バイト先にお金を取りにきた母親」と脱会を決意した言葉」を紹介しよう。
https://www.news-postseven.com/archives/20230221_1842881.html?DETAIL
・『旧統一教会信者である両親から止められ、教団から妨害されても屈せず、顔を出して宗教2世としての被害を訴え続けてきた小川さゆりさん。そんな彼女が自らの半生を綴った手記『小川さゆり、宗教2世』が、来月刊行される。教会や両親への赤裸々な思いを綴った覚悟の手記の内容について独占告白──。【第3回。第1回から読む】 私は高校生の頃から19歳頃まで、アルバイト代を預けるという名目で母にほとんどのお金を渡していました。 あるときには私がアルバイトしていた介護施設まで、母がお金を取りに来たことがありました。その日は給料日で、手渡しでもらった給料袋を自分の白いロッカーにしまっていました。 施設のデイサービスで高齢の利用者さんのお世話をしていたところ、施設のインターホンが鳴りました。当時一緒に勤務していた女性職員から「お母さん来てるよ」と教えてもらい、玄関へ行くと、深刻そうな顔をした母が立っていました。 「さゆりちゃんごめん、お兄ちゃんたちの大学のお金もあって今月本当に厳しくて、絶対に返すからお給料もらえないかな」 私は自分のためにお金を貯めたいし、嫌だから帰ってくれと頼みましたが、母は「お願い」と言って渡すまで帰ろうとしませんでした。その月の給料のほぼすべて、15万円ほど渡しました。 そうしたこともあって、教会での出来事で精神状態が不安定になり、高校卒業後は仕事もうまく続かず引きこもりがちになってしまっていました。 そんなとき、きょうだいが私の部屋に入ってきて言いました。 「お母さん言ってたよ。あの子家にお金も入れないし、いつになったら働くんだろうって」 この言葉に私は大きなショックを受けました。結局、家に入れるお金のことばかりなのかと感じてしまったのです。 統一教会を脱会したのには様々なきっかけがありましたが、この母の言葉が一番大きかったように感じます。 「お母さんは私のことをお金のあてにしか思っていないんだ」 そう感じ、脱会を決意しました』、アルバイト先の「施設のデイサービス」の事務所までアルバイト代を取りに来たとは、よほど金に逼迫していたようだ。「きょうだいが私の部屋に入ってきて言いました。 「お母さん言ってたよ。あの子家にお金も入れないし、いつになったら働くんだろうって」 この言葉に私は大きなショックを受けました。結局、家に入れるお金のことばかりなのかと感じてしまったのです。 統一教会を脱会したのには・・・「お母さんは私のことをお金のあてにしか思っていないんだ」 そう感じ、脱会を決意しました」、「脱会」を促したのは、ラッキーだ。
・『父親からのメール  昨年の安倍元首相銃撃事件後、私に届いた父からのメールには、私が引きこもりがちになっていた時期のことについてこう書かれていました。 「あの頃、お父さんはさゆりなら信仰的に乗り越えてくれるはずとただ信じてたんだよ。教会で頑張ってた頃の、お父さんの誰よりも何よりも自慢の娘、それはお父さんの頭からは一生消せないんだ」 メールは、試練は一時的なもので、必ず信仰的に乗り越えられるはずと思った、押しつけた言葉が親子の断絶を生んでしまうことに気がつかなかった、と続きました。 そして、昨年10月の外国特派員協会での会見後に届いた手紙にも、こう書かれていました。 「いつか、わかりあえる日が来ると信じている」 父や母は私に対して悪意が全くありません。娘の幸せを一番に願い、その行動の結果がそうなってしまうのです。このメールや手紙もすべて本心で、私の本当の幸せが教会への信仰であると信じて疑いません。 「そういう教え、考え方があってもいい」と私が思うことができればいいですが、もうそんな気持ちにはなれない。昔のように、心の底から両親と仲良く笑い合うことは、できないと思っています。 それでも、私が脱会を悩んでいた時期に両親への思いを書いた手紙は、いまも手元にあります。 どうしても捨てることはできないのは、やはりいつか両親に自分の思いが届く日がくると、信じているのかもしれません』、「いつか両親に自分の思いが届く日がくると、信じているのかもしれません」、そんな「日」はまずこないと覚悟することが先決だ。

第四に、3月4日付け文春オンラインがFNNプライムオンラインを転載した「“むち打ち”のしつけに輸血・部活・恋愛の禁止。「エホバの証人」元2世信者が語る壮絶な幼少期と教団が唱える“終末期”思想」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/61109
・『子どもに輸血を受けさせない行為は「虐待」にあたるとして、弁護団は2月27日、宗教団体「エホバの証人」を厚生労働省に通報した。 エホバの親に育てられ、幼少期には“むち打ち”の体罰などに苦しんだと話す、元2世信者の小松猛さんに、教団の教えや今も続く苦悩などについて聞いた(Qは聞き手の質問、Aは小松氏の回答)』、「2世信者」の問題は第三の記事の「統一教会」で発覚し、その後、「エホバの証人」にも広がったようだ。
・『おしりに“ベルトむち”で懲らしめ  Q:どのような幼少期だった? A:物心がついた頃から私の生活はすべて「エホバの証人」の教えに囲まれていました。 幼い頃は平手でおしりをパチンとやられるだけで済んでいましたが、ある時を境にビニール製のベルトを二重三重に折り曲げてガムテープでぐるぐる巻きにして、それを“手製のむち”として、生身のおしりを叩くという懲らしめが始まりました。 懲らしめの原因は、週3回、約2時間に渡って「エホバの証人」の教えを聞く教団の集まりがあり、そこで足をばたつかせた、落ち着きがなかったという理由で、教団施設内の授乳室やトイレなど隔絶された空間に連れて行かれ、むちを打たれ、子供の泣き叫ぶ声が響き渡っていました。 私も、母親から「天に居るお父さん・エホバ神が悲しむから」と言われ、おしりにむち打ちされました。2歳から中学生ぐらいまで続き、歯を食いしばって涙を堪えていた記憶があります。 終わった後は、みみず腫れで痛くて、椅子にも座れず、翌日の学校は中腰で授業を受けていました。 (教団のホームページに記載される“ムチ”に関する聖書の言葉 についてはリンク先参照) 教団のホームページには、聖書の言葉として「むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない」との一文が紹介さている。 では、“懲らしめ”の対象は何なのか。小松さんは、「エホバの証人が教える理想像」に基いて決められていると話す』、「終わった後は、みみず腫れで痛くて、椅子にも座れず、翌日の学校は中腰で授業を受けていました」、「むち打ち」は想像以上に激しいようだ。
・『“戦隊ヒーロー”は禁止  Q:懲らしめの対象は? A:聖書に基いてエホバの証人が独自に解釈した出版物があり、その内容から逸れる行為に対して、むちが行われました。 例えば、「エホバ神は戦いを望んでおられない」という教えを理由に、“戦い”をテーマにした戦隊ヒーローやアニメを見たり、キャラクターグッズを集めることはダメでした。僕は子どもの頃、戦隊ものの筆箱を隠れて使っていることが親にばれてしまい、懲らしめを受けました。) Q:親はなぜ懲らしめを行う? A:親は子供をしつけようと思って、子供の幸せを真剣に考えた上で懲らしめを与えるので、子供が憎くてやってるわけではないんです。 私が従順であれば、とても優しいし、そういう母親が好きでした』、なるほど。
・『助かったはずの多くの命が失われた  一方、輸血に関しては、聖書の「血を食べてはならない」という教えをもとに、“輸血拒否カード”を365日身に着けていたという。 (子どもが身に着ける“輸血拒否”を示す身元証明書 についてはリンク先参照) Q:なぜ輸血をしない? A:教団の集会では、医学の進歩によって無輸血でも代替治療があるから決して命を軽視しているわけではない。無輸血治療は体に良く、リスクも避けられる素晴らしい治療だという説明がされて信者は安心していました。 しかし、本当は助かったであろう命が失われた事例を大人になってたくさん見聞きしました。 そうして亡くなった子供たちがまるで英雄のように雑誌の表紙を飾り、教団内では喜ばしいことであると教えられていることに対しては、激しい怒りを感じますし、残念な気持ちでなりません』、「無輸血治療は体に良く、リスクも避けられる素晴らしい治療だという説明がされて信者は安心していました」、医学的知識に欠ける信者を騙すとは極めて悪質だ。
・『「隣の家に生まれたかった」  一方、13歳から20歳まで信者だった小松さんは、20年前に教団を脱会した。 しかしその後は、20年経っても、両親・兄との交流は途絶えたままだという。 Q:家族との交流は? A:教団と「断絶」した人とは、家族であってもコミュニケーションをとってはならないという取り決めがあり、共に食事をしてはならない、声を掛けてはならない、となっているため、私も父、母、兄とそういう状況です。 脱会して20年経ちますが、家族からは「戻って来なさい」と数年に1回手紙が来ます。 直接会って「孫も生まれたから家族としての交流を再開できないか?」と、話し合いも重ねてきましたが、「あなたが戻ってこない限りは再開はできない」と言われています。 Q:他の家族を見てどう感じていた? A:幼少期のころは友達が誕生会やクリスマス会など楽しそうにしていたり、家で好きなテレビを見て、好きなおもちゃやゲームで遊んでいるのを見て、すごく羨ましかったです。 「どうして自分の家はエホバなんだ。隣の家に生まれたかった」というのが正直な気持ちでした。 今は自分の家族もできたので、この家族を大事にしようと生きています。) だいたい30代ぐらいで模範的な信者は結婚していましたが、それまでは恋愛関係に陥る必要もないというのがセオリーだったと思います。 Q:今振り返ってエホバの証人の教えはどうだった? A:私が今強く言いたいのは、「エホバの証人」は今現在も“この世の終末”を謳っています。 まもなくこの地球全体がアルマゲドンによって滅ぼされ、新しい世界が楽園となってくる。だから今この苦しみを喜んで耐え忍ぼう。そして一人でも多くの人を楽園に導こうというのが根幹にあります。 僕が子供のころは、「あなたは大人になることはない。運転免許を取るころには楽園が来ている」と口酸っぱく言われて育ちました。 「きょう、明日終わりが来てもおかしくない」と何十年も同じことを言っています。 終わりが来た時に子供がエホバにとって良くないことをおこなっていたら滅ぼされてしまうんだと、終末論を謳って信者の焦燥感を煽っています。 その教えが非常に悪だと思っています。 Q:最後に、今後の願いは? A:家族との交流が絶たれるのを恐れて、疑念を持ちながらも抜け出せないでいる人たちが救われること。そして、私のように家族との交流が絶たれたままの人が救われることを強く望みます』、「「エホバの証人」は今現在も“この世の終末”を謳っています。 まもなくこの地球全体がアルマゲドンによって滅ぼされ、新しい世界が楽園となってくる。だから今この苦しみを喜んで耐え忍ぼう。そして一人でも多くの人を楽園に導こうというのが根幹にあります」、「終末論を謳って信者の焦燥感を煽っています」、極めて悪どいやり方だ。いずれにしろ、「輸血」をさせないのは人命に関わる重大な問題だ。
タグ:「「エホバの証人」は今現在も“この世の終末”を謳っています。 まもなくこの地球全体がアルマゲドンによって滅ぼされ、新しい世界が楽園となってくる。だから今この苦しみを喜んで耐え忍ぼう。そして一人でも多くの人を楽園に導こうというのが根幹にあります」、「終末論を謳って信者の焦燥感を煽っています」、極めて悪どいやり方だ。いずれにしろ、「輸血」をさせないのは人命に関わる重大な問題だ。 「無輸血治療は体に良く、リスクも避けられる素晴らしい治療だという説明がされて信者は安心していました」、医学的知識に欠ける信者を騙すとは極めて悪質だ。 「終わった後は、みみず腫れで痛くて、椅子にも座れず、翌日の学校は中腰で授業を受けていました」、「むち打ち」は想像以上に激しいようだ。 「2世信者」の問題は第三の記事の「統一教会」で発覚し、その後、「エホバの証人」にも広がったようだ。 FNNプライムオンラインを転載した「“むち打ち”のしつけに輸血・部活・恋愛の禁止。「エホバの証人」元2世信者が語る壮絶な幼少期と教団が唱える“終末期”思想」 文春オンライン 「いつか両親に自分の思いが届く日がくると、信じているのかもしれません」、そんな「日」はまずこないと覚悟することが先決だ。 統一教会を脱会したのには・・・「お母さんは私のことをお金のあてにしか思っていないんだ」 そう感じ、脱会を決意しました」、「脱会」を促したのは、ラッキーだ。 アルバイト先の「施設のデイサービス」の事務所までアルバイト代を取りに来たとは、よほど金に逼迫していたようだ。「きょうだいが私の部屋に入ってきて言いました。 「お母さん言ってたよ。あの子家にお金も入れないし、いつになったら働くんだろうって」 この言葉に私は大きなショックを受けました。結局、家に入れるお金のことばかりなのかと感じてしまったのです。 NEWSポストセブン「元2世信者・小川さゆりさんが告白 「バイト先にお金を取りにきた母親」と脱会を決意した言葉」 「教会の指導役の先輩に相談しても、基本的には「そのことを他に漏らさないこと」を約束させられ、「そういう感情や行動は上の立場にある人であっても誰でも起こりうる可能性があるので気をつけるように」というような具体的解決のない対応に終始されました」、張本人に注意するのではなく、「相談者」への一般的注意に留まったのは、誠に卑怯な姿勢だが、大いにありそうだ。 NEWSポストセブン「元2世信者・小川さゆりさんが明かす旧統一教会の合宿 ショックを受けた男性班長の行動」 「どの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。 宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである」、「宗教社会学者」らしい主張だ。 「被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れ(生物学の用語では、種)として存在し、個物としては存在しない。 唯一、人間だけは、個物として造られ、存在している」、「人間」だけは特別扱いのようだ。 「人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。ほかの考え方を、理解する力も高まります。 それでは、死んだらどうなるのか、さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください。そして毎日を、胸を張って生きてください」、確かに「さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください」、そこまで到達できれば、そうだろう。 『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』、確かに興味深そうだ。 「人間ももちろん、神が造った。しかも人間は、一人ずつ、神に手造りされた」、「一人ずつ、神に手造り」とは大変な手間だろう。 「イスラム教は、旧約聖書の内容を、だいたいそのまま認める。クルアーンと違うところは、クルアーンのほうを信じる。旧約聖書は不完全で、ところどころ間違っている、と考えるのである」、後で出現した宗教の強味だ。 「「コーラン」には「天地の創造のことが、まとまって書いてない」、「まとまって書いてあるのは、旧約聖書の創世記」、「旧約聖書」は「ユダヤ教」や「キリスト教」だけでなく、「イスラム教」の「聖典」でもあるようだ。 「世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている」、「よく生きるためには死を知ることが必要だ」、確かに「死」について、きちんと考える必要がありそうだ。 「死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている」、「やり残した夏休みの宿題」とは言い得て妙だ。 死の講義 橋爪大三郎氏による「一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!【書籍オンライン編集部セレクション】」 ダイヤモンド・オンライン 宗教 (その8)(一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!、元2世信者・小川さゆりさん2題(旧統一教会の合宿 ショックを受けた男性班長の行動、「バイト先にお金を取りにきた母親」と脱会を決意した言葉)、“むち打ち”のしつけに輸血・部活・恋愛の禁止 「エホバの証人」元2世信者が語る壮絶な幼少期と教団が唱える“終末期”思想)
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