スポーツ界(その35)(高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」、将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由、イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」) [社会]
スポーツ界については、昨年3月26日に取上げた。今日は、(その35)(高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」、将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由、イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」)である。
先ずは、本年2月1日付けデイリー新潮「高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/02011056/?all=1
・『失敗は成功のもと。失格になったのは残念だが、同じミスは繰り返さないはず。高梨沙羅(26)にそんな期待を抱いた人も多かったようだが、現実にはミスが繰り返される。彼女はなぜ経験に学ばないのか。 昨年2月の北京五輪では、混合団体でスーツの規定違反に問われ、まさかの失格になったスキージャンプの高梨。号泣する姿に涙を誘われたファンも多かったようだ。だが、そんな人も、失敗から学ぶことを期待したに違いない。 ところが、昨年10月にはドイツのグランプリ・クリンゲンタール大会で、この1月15日にも、山形県の蔵王で行われたワールドカップで、立て続けにスーツの規定違反に問われ、失格になったのである。結果、1本目も2本目も95メートルを飛びながら、最下位に』、「昨年2月」、「昨年10月」、「この1月15日」と「立て続けにスーツの規定違反に問われ、失格になった」、どういうことなのだろう。
・『日本人ならではの不利な面 どうして、こういうことが起きるのか。スポーツライターの折山淑美さんは、三つの理由を挙げる。 「高梨選手はベストコンディションで競技に臨むため、その都度、微妙な体重コントロールをし、水を飲んで体重を200グラム増やす、なんてこともします。その上、海外遠征や連戦で疲労が蓄積し、痩せることも。体重や腰回りを、いつも一定に保つのが難しいのです」 日本人ならではの不利な面もあって、 「欧州での試合が多く、欧州のチームは毎回、新調したスーツを試着して練習できます。反対に、日本チームは海外遠征中、新調したスーツを試着しつつ練習することが難しいのです」 スーツが手作りであることも関係あるといい、 「スーツ作りの専門家がチームに同行し、各選手のサイズに合わせて手作業で作り上げるので、手間暇がかかる上、規則いっぱいいっぱいの線を狙って仕上げます。しかし、着ているうちに伸びたり変形したりするし、手縫いのため、縫い目にも微妙な誤差が生じます。その辺りが、抜き打ちチェックで違反とみなされるケースがあるのです」 そして、こう加える。 「高梨選手にかぎらず、スキージャンプの選手はみな、スーツ作りの段階から、ギリギリのところで戦っていることを知ってほしい」』、「スーツが手作りであることも関係あるといい、 「スーツ作りの専門家がチームに同行し、各選手のサイズに合わせて手作業で作り上げるので、手間暇がかかる上、規則いっぱいいっぱいの線を狙って仕上げます。しかし、着ているうちに伸びたり変形したりするし、手縫いのため、縫い目にも微妙な誤差が生じます。その辺りが、抜き打ちチェックで違反とみなされるケースがあるのです」、なるほど。
・『国内開催の重圧から とはいえ、1月のW杯は会場が蔵王。むしろ日本人に有利だったはずだが、国際スキージャーナリストの岩瀬孝文氏は、 「高梨選手ならではの責任感と、国内開催のための重圧からくる迷いもあり、ギリギリを狙っていたのだと察します」 と話す。実際、重圧がかかるのだろうが、ある元選手はこんな話を。 「ジャンプの選手は競技に際し、サイズが微妙に異なるスーツを4~5着用意するもので、1本飛ぶごとに別のスーツに着替えることもできます。今回、高梨選手は1本目のジャンプで着たスーツがセーフだったので、2本目で飛距離を伸ばすために、緩めでより浮力がつくスーツに着替え、違反になった。違反の可能性を認識しながら、絶対に勝たねば、というプレッシャーに屈したのです。違反を繰り返すのはコーチのせいではなく、彼女自身が判断した結果です」 きわどいところで勝負しているのである。だったら、試合後に記者会見を拒まず、自らそう訴えたほうがよかったのではないか。あるスポーツ紙の記者は、 「最近の高梨選手は、報道関係者や競技関係者に対し、強弁したり違背したり高飛車な態度をとったりしがち。彼女への風当たりが強まっているのを感じます」』、「今回、高梨選手は1本目のジャンプで着たスーツがセーフだったので、2本目で飛距離を伸ばすために、緩めでより浮力がつくスーツに着替え、違反になった。違反の可能性を認識しながら、絶対に勝たねば、というプレッシャーに屈したのです。違反を繰り返すのはコーチのせいではなく、彼女自身が判断した結果です」、相当無理を承知で際どい橋を渡っているようだ。
次に、3月11日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの藤江直人氏による「将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/318860
・『日本サッカー協会(JFA)が異例の人事を発令した。会長、副会長に次ぐナンバー3の要職で、日常の業務を統括する専務理事に2月1日付で、日本代表のキャプテンとしてW杯でも活躍し、ファン・サポーターから「ツネ様」の愛称で親しまれた46歳の宮本恒靖氏を抜擢した。古巣ガンバ大阪の監督などを経て、JFA理事および会長補佐に就任したのは昨年3月。まだ1期目の途中ながら、宮本氏本人も驚いた大出世にはどのような意図が込められているのか』、興味深そうだ。
・『W杯日本代表キャプテンを務めた「ツネ様」 JFAナンバー3の要職に 子どもの頃からサッカーが得意で、ガンバ大阪でプロになって2005年のJ1リーグを制覇。日本代表にも選出され、キャプテンを託され、2大会、計6試合にわたってW杯の舞台でもプレーし、02年の日韓共催大会では日本のW杯初勝利と初の決勝トーナメント進出の原動力になった。 現役の晩年に差しかかった07年にはヨーロッパへ移籍。オーストリア1部のレッドブル・ザルツブルクでもリーグ優勝を経験している宮本恒靖氏は、引退後に歩んでいくセカンドキャリアの選択肢のなかに、他のJリーガーや代表経験者とは明らかに一線を画す分野を加えた。 国際サッカー連盟(FIFA)が運営する大学院、FIFAマスターへの挑戦。第13期生として12年9月に入学し、サッカーを含めたスポーツ全般に関する組織論や歴史、哲学、法律、そして経営学を学び、翌13年7月に修了したときの心境を宮本氏はこう振り返っている。 「経営サイドに行く自分のことも想像していたので。スティーブ・ジョブズの言葉に『点と点をつなぐ』があるじゃないですか。自分にとっての点の一つがFIFAマスターだったんですね。自分のなかでは、いつかどこかで(経営サイドに)、といったイメージはありました」 大阪屈指の進学校である生野高から同志社大経済学部へ進学。サッカー選手との文武両道を実践してきた宮本氏の胸中には、人生における可能性をできる限り広げたい、という思いがあった。スポーツ界で活躍する人材輩出を目的とするFIFAマスターの門をたたいたのもその一環だった。 それでも修了から10年がたつ23年の自分自身の立ち位置は、想像できなかったはずだ。) 日本サッカー協会(JFA)は2月1日付で、宮本氏を専務理事に就ける人事を発令した。昨年3月の理事就任から1年もたたないうちに、会長と副会長に次ぐJFA内でナンバー3の要職で、日常の業務を統括する専務理事に大抜擢されたスピード出世を宮本氏はこう振り返る。 「JFAという組織がどのように回っているのかを知りながらの1年だったので、そのなかでこのように責任ある立場に就くのは、自分が思っていたよりも早いタイミングだったのかもしれません。回ってくる決裁文書も多いし、仕事の量自体も多いし、かなり鍛えられている日々ですが、自分が見てきたものを、課題として感じてきたものを整理しながらやっていくのは変わらないですね」』、「国際サッカー連盟(FIFA)が運営する大学院、FIFAマスターへの挑戦。第13期生として12年9月に入学し、サッカーを含めたスポーツ全般に関する組織論や歴史、哲学、法律、そして経営学を学び、翌13年7月に修了したときの心境を宮本氏はこう振り返っている。 「経営サイドに行く自分のことも想像していたので。スティーブ・ジョブズの言葉に『点と点をつなぐ』があるじゃないですか。自分にとっての点の一つがFIFAマスターだったんですね。自分のなかでは、いつかどこかで(経営サイドに)、といったイメージはありました」、「大阪屈指の進学校である生野高から同志社大経済学部へ進学。サッカー選手との文武両道を実践してきた宮本氏の胸中には、人生における可能性をできる限り広げたい、という思いがあった」、なるほど。
・『日本のサッカー界は事務方も世界レベルになる必要がある そもそも、JFAとは何をしている組織なのか。端的に説明すれば日本のサッカー界を統括する、いわゆる総本山にあたる競技連盟であり、公式HP上では「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」と組織としての理念が謳われている。 具体的な活動としてサッカーの普及、強化、社会貢献がある。普及の対象は老若男女におよび、強化のそれはA代表だけでなく、なでしこジャパンや年代別の男女代表、指導者、そして審判と幅広い。さまざまな施策を推進していくうえで、原資となるお金を稼ぎ出すスキームも考案・実践していく必要がある。国内で開催されるA代表戦が、大きな収入源となるのは言うまでもない。 社会貢献には国際舞台での活動も含まれる。FIFAだけでなくアジアサッカー連盟でもJFAのプレゼンスを高めていくうえで、現役時代から知名度が高く、14年のブラジルW杯ではFIFAのテクニカルスタディーグループの一員として戦術や技術など大会全体の傾向を分析。英語も自在に操れる宮本氏が事務方のトップとなる専務理事として、JFAを国内外でけん引していく体制が整えられた。 JFA専務理事は18年3月から、キンコーズ・ジャパンやベルリッツ・ジャパン、ドミノ・ピザジャパンなどで経営に携わってきた56歳の須原清貴氏が務めてきた。しかし、3期目の任期を来年3月まで残していた須原前専務理事は、経営の世界に戻りたいとして昨年末に辞意を表明した。 後任人事を急いできたJFAは、会長、4人の副会長、専務理事らで構成される常務理事会で宮本氏を専務理事に推挙する人事案を内定。1月の月例理事会へ提案し、承認された。2月は常勤理事としてJFAに残り、職務の引き継ぎを行ってきた須原氏は後任者への期待をこう語る。 「ピッチ上のパフォーマンスと事務方を含めたピッチ以外のパフォーマンスの両方が、世界基準になっていく必要性がより高まっています。ピッチ上においては、W杯カタール大会で選手たちが躍動してくれた。それに合わせて事務方も世界レベルになっていかなければいけない。マネジメント、マーケティング、あるいはガバナンスでさらに高みを目指していくためには若い力が絶対に必要です。宮本専務理事は冷静沈着で非常に優秀で、かつ選手だけでなく指導者としての経験もある。新しい時代を開いていくために、極めてふさわしい専務理事になってくれると確信しています」 就任直後に46歳になった宮本専務理事は前任者より10歳も若い。さらに選手だけでなく、15年からは古巣ガンバのアカデミーで指導者の道を歩み始め、18年7月からは不振に陥っていたトップチームの監督に就任。20年にはJ1リーグで2位、天皇杯では準優勝の成績を残した。 一転して翌21年は、開幕からつまずいたまま5月に解任された。捲土重来を期す上での宮本氏の動向が注目されていたなかで、前述したように昨年3月にJFA理事に就任。同時に国際委員会の委員長として現役時代から堪能な英語を駆使し、さらに新設された会長補佐も兼任した。 異例続きの人事には、JFAの田嶋幸三会長の意向が強く反映されていたとされる。意向とは要するに、宮本氏をごく近い将来のJFA幹部候補として育てていく方針に他ならない。常勤の理事および会長補佐として組織運営を学んできた矢先に、須原前専務理事の退任が重なった。) 歴代のJFA専務理事を振り返れば、田嶋会長も原博実氏(前Jリーグ副理事長)も元日本代表であり、原氏は浦和レッズとFC東京で監督も務めた。しかし、代表キャップと監督歴に加えて代表でキャプテンを務め、W杯で戦い、海外でプレーした経験をも持つのは宮本氏が初めてとなる。 自身も務めた専務理事職を「JFAの顔だと思っています」と語ったこともある田嶋会長は、一気に若返ったナンバー3への期待を「非常に大きいですよ」と言い、こう続ける。 「いろいろな経験をしてきたなかで、今度はJFAのなかで経験を積んでほしい。JFAのなかには彼が知らないことがまだまだたくさんあります。これからはヨーロッパを経験した人たちが日本サッカー界を変えていく時代になっていく。彼はその一人目の旗頭となれる人材だと思っています」』、「これからはヨーロッパを経験した人たちが日本サッカー界を変えていく時代になっていく。彼はその一人目の旗頭となれる人材だと思っています」、その通りなのだろう。
・『将来のJFA会長も宮本氏に敷かれたレール 16年3月にJFAの第14代会長に就任した65歳の田嶋氏は現在、4期目を務めている。JFAは19年10月の規則改定で、会長任期を最長で4期8年と明文化した。田嶋会長自身も最後の任期と明言しているなかで、今年12月から来年の年明けにかけて次期会長選挙が実施される。 以前はJFAの評議員会で理事会のメンバーが選ばれ、新理事による互選で代表者、すなわち会長が決められてきた。しかし、FIFAが13年になって傘下の全サッカー協会に対して、会長選挙の実施を含めた標準規約の制定を通達。JFAでも15年12月から会長選挙が導入された。 会長立候補者はJFAが定める「役員の選任及び会長等の選定に関する規定」で、実際に就任した場合に満70歳未満である年齢に加えて、次の要件を満たしていなければいけない。 「直近5年間のうち2年以上、本協会、地域サッカー協会、都道府県サッカー協会、Jリーグ、各種の連盟、リーグ、クラブ等の役員、職員、選手、審判、指導者、その他サッカーと関わりが深いと認められる立場で、サッカー界において実質的に活動し、貢献していること」(原文ママ) その上で評議員または理事から合計で20人以上の推薦を得て、選出管理委員会に対して初めて立候補の意思を表明できる。会長立候補者が複数になった場合は、次回でいえば24年1月の臨時評議員会で、75人を数える評議員による無記名投票で会長予定者1人が選出される。 いきなり次期会長はないとみられるものの、田嶋会長をして「顔」と言わしめた専務理事に抜擢された宮本氏を巡る人事には、将来的な会長就任への期待も込められていると言っていい。 一方で4人を数えるJFA副会長の1人で、日本代表監督としてW杯の2大会で指揮を執った66歳の岡田武史氏は、4年前の18年3月にS級ライセンスの更新を見送っている。理由は後進に道を譲るためであり、さらに「資格を持っていると(復帰への)色気が出ちゃうので」と語っていた。 岡田副会長の場合はJ3のFC今治の運営会社の代表取締役を務めるなど、指導者から経営者へシフトした立場もS級ライセンス返上を決意させた。ならば、宮本氏はどうか。もしも今後、監督就任のオファーが届いたときには、JFA専務理事としてどのような選択肢を持ち合わせるのか。 指導者への未練の有無を問われた宮本氏は「まあ、せっかく取得したS級ライセンスなので」と現場復帰優先をにおわせながら、すぐに「それは冗談です」と否定。さらにこんな言葉を紡いだ。 「日本におけるサッカーの存在を大きくしたい、という思いを常に強く持っていて、そのために選手、FIFAマスターで学んだ時期、指導者、コーチ、そして監督とさまざまな立場で貢献しようと考えてきました。まだS級ライセンスを持っているので、それだけに監督やコーチを全くしないとは思わないですし、いろいろな可能性を持っておきたいと思っていますけど、いまは自分の立場に集中して、自分が持っているもので貢献していきたい。このぐらいの答えでいいでしょうか」』、「宮本」氏は「S級ライセンス」を保持しながら、「さまざまな立場で貢献しようと考えてきました」、なるほど。
・『巨大組織でいかにリーダーシップを発揮するか 昨春に理事に就任して初めて、JFAは全部で19もの部署に分かれていて、250人を超える職員が勤務し、年間で300億円近い予算が動く公益財団法人だと知った。まずはJFA全体を把握し、巨大な組織を動かす力を身につけながら、自らのカラーを打ち出していく形になるだろう。 「自分自身、選手だった期間を含めてJFAという組織を外側から見てきて、どこかちょっと遠いところにあると思っていました。さらにJFAのなかにいると、外部の人たちも同じようにわかってくれるだろう、といった感覚に陥ってしまうようなところもちょっとある。JFAが外からどのように見られているのかが、ちょっと感じられなくなっているといいますか」 こう語った宮本氏は、専務理事就任とともにインスタグラム(@tsuneyasumiyamoto_official)を開設。JFAという組織が、そのなかでナンバー3として何をやっているのかを自身のプライベートを含めて発信しながら、双方向のコミュニケーションを築いていきたいと奮闘している。 組織内へ目を向ければ職員だけでなく、ともにJFA副会長に名を連ねるJリーグの野々村芳和チェアマン、WEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)の髙田春奈チェアに加えて、さらに47を数える都道府県サッカー協会ともコミュニケーションを密にしていかなければいけない。 現役時代はガンバやそのアカデミー、最後の所属クラブとなったヴィッセル神戸、年代別を含めた日本代表とほぼすべてでキャプテンを拝命。さまざまな場面で卓越したリーダーシップを発揮してきた宮本氏は、専務理事に求められるリーダーシップは「全然違いますね」と思わず苦笑する。 「専務理事としていきなり須原さんと同じことができるか、というのはちょっと違うと思っているし、いろいろな人の力を借りながら、自分なりのバックグラウンドを生かしてやっていきたい。組織としてはサッカーに対して熱い思いを持っている職員が多いし、ほぼ全員が中途採用で入ってきている関係もあって、さまざまなビジネスのバックグラウンドも持っている。強化部や競技運営部、チームコミュニケーション部などさまざまな部署の間で横のコミュニケーションも発揮していくことで、組織としてのパフォーマンスもよりよくなっていくのでは、という課題意識も持ってやっていきたい」 宮本氏が自身のキャリアを例えたスティーブ・ジョブズの「点と点をつなぐ」は、将来を見越して知識や経験などをつないでいく、という意味ではない。さまざまなことが将来的に線となってつながり、自らを高めていくと信じて取り組んでほしいという人生訓やエールが込められていた。 選手としての輝かしい実績。Jリーガー出身の日本人として初めて入学し、そして修了したFIFAマスターでの充実した日々。そして、成功と挫折を経験した指導者時代。そこへJFA専務理事の仕事が加わった結果として生まれる、未来へとつながる線を誰よりも宮本氏が楽しみにしている』、「宮本」「専務理事」の今後の活躍が楽しみだ。
第三に、7月16日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの藤江直人氏による「イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/326186
・『名門バルセロナからヴィッセル神戸へ加入し、世界を驚かせてから5年余り。スペイン代表でも一時代を築いた司令塔、アンドレス・イニエスタが涙とともに日本を去った。だが「人格者」のイメージが強いイニエスタは、日本ラストマッチでの交代時に自チームの吉田孝行監督と目も合わせず、半ば“無視”するような形でピッチを後にした。愛する神戸での引退を望んでいた39歳のレジェンドは、なぜ「もう一つの顔」をのぞかせたのか――。その胸中に迫る』、興味深そうだ。
・『人格者イニエスタの「もう一つの顔」 高ぶった感情を抑え切れないことも 温厚な性格と常に謙虚な立ち居振る舞い。そして、ピッチを離れれば夫として生涯の伴侶と決めているアンナさんを心の底から愛し、父親として2男3女の幼い子どもたちを優しく見守る。 ヴィッセル神戸を退団した元スペイン代表のレジェンドで、名門バルセロナでも一時代を築いたアンドレス・イニエスタの素顔を問われれば、真っ先に「人格者」という言葉が思い浮かんでくる。 しかし、イニエスタはもう一つの顔も持ち合わせていた。ときに高ぶった感情を抑え切れない、と言えばいいだろうか。試合中に初めて「それ」をのぞかせたのは、2年前の9月だった。 北海道コンサドーレ札幌戦の後半に途中交代を告げられた直後。イニエスタはタッチライン際に置かれていたペットボトルを思い切り蹴り上げた。さらにベンチ前ではペットボトルが数本入ったケースにもキックを見舞い、ベンチに座ってからはそれまで履いていたスパイクも投げ出した。 当時のイニエスタは、試合後に自身のインスタグラム(@andresiniesta8)を更新。スペイン語と日本語の両方で、ファン・サポーターを驚かせた自らの行為を謝罪している』、「人格者イニエスタの「もう一つの顔」、「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを蹴り上げた。 このときは試合後の取材エリアを無言で通過したイニエスタに代わって、元日本代表の酒井高徳が「ロッカールームでは、いつも通りのアンドレスでした」とレジェンドの胸中を代弁してくれた。 「試合途中で交代を告げられて、うれしいと思う選手はどこにもいないと思う。そういう姿勢はプロサッカー選手として絶対に持っていなければいけない。なので、誰もとがめませんでした」 そして、今年7月1日に行われたイニエスタのラストマッチ(札幌戦)では、これまでとは違った形で「怒り」が顔をのぞかせた』、「イニエスタはもう一つの顔も持ち合わせていた。ときに高ぶった感情を抑え切れない、と言えばいいだろうか。試合中に初めて「それ」をのぞかせたのは、2年前の9月だった。 北海道コンサドーレ札幌戦の後半に途中交代を告げられた直後。イニエスタはタッチライン際に置かれていたペットボトルを思い切り蹴り上げた。さらにベンチ前ではペットボトルが数本入ったケースにもキックを見舞い、ベンチに座ってからはそれまで履いていたスパイクも投げ出した。 当時のイニエスタは、試合後に自身のインスタグラム(@andresiniesta8)を更新。スペイン語と日本語の両方で、ファン・サポーターを驚かせた自らの行為を謝罪している。 「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを蹴り上げた」、微笑ましい「フラストレーション」の発揮だ。
・『敵将と抱擁をかわした一方で 神戸・吉田監督とは目も合わせず 後半12分に交代を告げられたイニエスタは、代わりにキャプテンマークを託した山口蛍をはじめとするチームメイトと抱き合い、万雷の拍手を送るスタンドに手をたたいて応えながらタッチラインへ近づいていった。 交代出場へ向けてスタンバイしていた佐々木大樹へ笑顔でエールを送り、万感の思いを込めるようにピッチに向かって深々とお辞儀する。さらに試合中にもかかわらず反対側のベンチからわざわざ歩み寄ってきた、札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督とも熱い抱擁をかわした。 だが直後に、異なる感情をあらわにした。ベンチ前で手をたたいて出迎えた、神戸の吉田孝行監督とは目を合わせようとしなかったのだ。視線を落としながら握手もせず、半ば“無視”するように指揮官の横を通り過ぎたイニエスタはベンチ前で再び顔を上げ、コーチ陣やリザーブの選手たちとタッチを繰り返した。 イニエスタの最終戦は、本拠地の名称が「ノエビアスタジアム神戸」となった2013年3月以降では歴代最多となる、2万7630人もの大観衆が駆けつけた。その一戦に、わずかに影を落とした吉田監督との一幕。試合後に臨んだ会見で、イニエスタは一度だけ吉田監督に言及した。契約を半年残して神戸を退団し、新天地を求める胸中を問われたときだった。 「自分はまだできる、選手として戦う準備ができている、チームに貢献できると日々感じてきました。ただ、監督はそのように考えていませんでした。しかし、自分にとってはそれがサッカーを続けるモチベーションにつながりました。だから、新天地でサッカーを続けたいと思っています」 過去の2度はより長く試合に出たい、神戸の勝利に貢献したい、という思いが悔しさに転じた末に、ペットボトルを蹴り上げるといった行為につながった。しかし、ラストマッチでのぞかせた怒りは理由が根本的に異なる。それは退団を決意するに至った過程に起因していると言っていい。 3年半契約での神戸移籍が発表され、世界中を驚かせたのが18年5月。さらに契約を今年いっぱいまで延長した21年5月以降で、イニエスタはこんな考えを抱くようになった。 「自分は、ずっとここ(神戸)で引退する姿を想像してきました」 過去形になっているのは、神戸における立ち位置が一変したからだ。5月に行われた退団会見。イニエスタは「時に物事は希望や願望通りにいかない」と、声を詰まらせながら理由を語っている』、「「自分は、ずっとここ(神戸)で引退する姿を想像してきました」 過去形になっているのは、神戸における立ち位置が一変したからだ。5月に行われた退団会見。イニエスタは「時に物事は希望や願望通りにいかない」と、声を詰まらせながら理由を語っている』、「(神戸)で引退する姿を想像してきました」とは初めて知った。
・『イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」 「まだまだプレーを続けて、ピッチで戦いたい思いがありました。しかし、それぞれが歩んでいく道が分かれ始め、監督の優先順位も違うところにあるとも感じ始めました。ただ、それが自分に与えられた現実であり、リスペクトを持ってそれを受け入れました。最終的には現実と自分の情熱とをかけ合わせた結果、ここを去るのがベストな決断だとクラブとの話し合いの中で決めました」、なるほど。
・『「脱イニエスタ・エース大迫」で結果を残す吉田監督 神戸がJ1残留争いを強いられた昨シーズンの後半戦で、故障が続いたイニエスタはほとんどピッチに立てなかった。迎えた今シーズンもコンディション不良で出遅れ、2月にリーグ戦が開幕してからはアンナさんの第5子出産に立ち会うために一時帰国。再来日は3月中旬だった。 一方の吉田監督はシーズン途中の昨年6月に就任し、最下位にあえいでいた神戸を最終的に13位で残留させた。13年限りで現役を終えた神戸で指導者の道を歩み始めた吉田監督は、17年8月、19年4月に続く3度目の登板であり、過去2度はともにシーズン途中で解任されていた。 21年はJ2のV・ファーレン長崎の監督に就任するも、シーズン序盤の5月にはアシスタントコーチに配置転換された。その後は強化部スタッフとして神戸へ復帰。これまでと同じく、例えるなら「応急措置」的な形で率いた神戸を必死に立て直し、何とかJ1残留という結果を手繰り寄せた。 引き続き指揮を執った今シーズン。イニエスタを欠いた状態で開幕を迎える状況がわかっていた中で、キャンプから新しい戦い方を模索してきた吉田監督は一つの答えにたどり着いた。 守備では球際の強度を重視し、前線から激しく連動したプレスを展開。泥くささと運動量の多さを前面に押し出し、ハードワークによってボールを奪い取る。そして、ボールを奪えばロングボールをFW大迫勇也へ送る。ピッチ上の大黒柱をイニエスタから、オフの間にコンディションを整えて復活した大迫にスイッチさせた。 イニエスタの加入後に掲げられた「バルサ化」の対極に位置する、堅守速攻スタイルが鮮やかにはまった神戸は開幕ダッシュに成功。イニエスタが退団を表明した時点で首位に立っていた(本稿執筆時点では2位)。 サッカーの鉄則として「勝っている間はメンバーを代えない」がある。札幌戦を迎えるまでイニエスタのリーグ戦出場は3試合。すべて後半途中から投入され、プレー時間もわずか38分だった。 吉田監督は神戸を勝たせる手段として「脱・イニエスタ」を決断し、実際に昨シーズンまでとはまったく異なる結果を残してきた。5月に39歳になったイニエスタもまた、プロとして常に試合に出られる準備を整えながら、ベンチから、あるいはベンチの外から好調な神戸を見つめてきた。 その間にいつしか、居場所がなくなった神戸に別れを告げ、ピッチの上で最後の輝きを放った上でスパイクを脱ぎたいと思うようになった。イニエスタは退団会見でこんな言葉を残している。 「サッカーを続けていく限り、引退する日がどんどん近づいてくる、というのは誰もが感じること。その中で自分がこのチームを去るべきタイミングを、いろいろな局面で考え始めました」 だからこそ、札幌戦での先発出場はイニエスタにとっても意外だったはずだ。昨年8月を最後に遠ざかっていたイニエスタの先発起用の意図を問われた吉田監督は、苦笑しながら言葉を濁した。 「それに関しては説明はいらないかな、と。彼に対するリスペクトということです」』、「「脱イニエスタ・エース大迫」で結果を残す吉田監督」、「居場所がなくなった神戸に別れを告げ、ピッチの上で最後の輝きを放った上でスパイクを脱ぎたいと思うようになった」、なるほど。
・『「温情」での先発起用にイニエスタ自身が違和感!? イニエスタを起用する上での難しさを問う質問には、吉田監督はこんな言葉を返している。 「もちろんそこは自分にしかわからない部分、というのもあると思いますし、スーパースターとしてずっとプレーしてきた彼にしかわからないつらさもあったと思っています」 しかし、堅守速攻にかじを切った神戸で、イニエスタは最終戦でも思うように攻撃に絡めなかった。後半開始とともに大迫が投入されてからは、中途半端な展開が余計に目立った。試合は札幌にリードを許して前半を折り返した神戸が、イニエスタがピッチを退いた後の後半40分に追いついて何とか引き分けた。 神戸における最後のプレーを、イニエスタは独特の表現で振り返っている。 「人生においても、スポーツにおいてもスーパーヒーローはいません。現実として自分もこの4、5カ月間、チームに継続的に絡んでいませんでした。その中で最大限の貢献ができるように、自分のすべてを出し尽くしました。自分が何をしたのか、どのような結果だったのかというよりは、チームでここまでやってきたことに対する誇りと達成感の気持ちをもって今日という日を終えました」 ラストマッチだからと、温情的な意味合いで先発起用されても難しい、という複雑な思いが「スーパーヒーローはいない」というくだりに反映されている。お互いにプロとしての矜持(きょうじ)を貫き、その結果として別々の道を歩む状況に至った以上は、最後まで非情に徹してほしかったのだろう。 ましてやイニエスタのラストマッチは、親善試合ではなく公式戦だ。悲願のリーグ戦優勝を目指す上で、一戦必勝の態勢で臨まなければいけない。イニエスタを送り出すのであれば結果を出してきた堅守速攻スタイルで臨み、リードを奪った上で後半途中から起用すべきだったのではないか。 川崎フロンターレが1-0でガンバ大阪を下した、2021年元日の天皇杯決勝を思い出す。この試合を最後に引退する中村憲剛をベンチでスタンバイさせていた川崎の鬼木達監督は、延長戦に突入するケースを含めて、さまざまな考えを巡らせた中でレジェンドをピッチに送り出せなかった。 試合後に「使ってあげられなくて申し訳ない」と謝った指揮官に対して、中村は「チームの勝利が最優先ですから」と笑顔で返した。お互いにリスペクトの思いがあったからこそのやり取りだ。中村は「個人的な感情は抜きにして、これがベストの筋書きでした」と指揮官に感謝している。 対照的にイニエスタ本人が違和感を覚えたことを示唆した57分間は、果たして神戸とイニエスタの双方にとってベストだったのか――。いずれにせよ、最後まで神戸の力になれなかったふがいなさが負の感情へと変わり、吉田監督を無視した交代直後の異例とも言える態度に反映されてしまったのだろう。 もちろん、5年間にわたって在籍した神戸へ注ぐ愛はまったく変わらない。札幌戦後に行われた退団セレモニー。何度も頬に涙を伝わせながら、イニエスタはこんな言葉を残している。 「ファン・サポーターのみなさんには、これまで通りチームを支えてほしい。チームは素晴らしいシーズンを送っていますが、後半戦はみなさんの力が必要になってきます。みなさんと一緒に、自分も離れたところからチームに力を送りたいと思っています」 イニエスタは「さようなら」ではなく「また会いましょう」という言葉で、神戸における日々を締めくくった。いまは手元に届いている中東やアメリカなどからのオファーを吟味しながら、引退後には何らかの形で再び関わりたいと望んでいる神戸が、これからも勝ち続けていく姿を祈っているだろう』、「ラストマッチだからと、温情的な意味合いで先発起用されても難しい、という複雑な思いが「スーパーヒーローはいない」というくだりに反映されている。お互いにプロとしての矜持(きょうじ)を貫き、その結果として別々の道を歩む状況に至った以上は、最後まで非情に徹してほしかったのだろう」、難しいものだ。「イニエスタは」「いまは手元に届いている中東やアメリカなどからのオファーを吟味しながら、引退後には何らかの形で再び関わりたいと望んでいる神戸が、これからも勝ち続けていく姿を祈っているだろう」今後、どんな活躍をするのだろうか。
先ずは、本年2月1日付けデイリー新潮「高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/02011056/?all=1
・『失敗は成功のもと。失格になったのは残念だが、同じミスは繰り返さないはず。高梨沙羅(26)にそんな期待を抱いた人も多かったようだが、現実にはミスが繰り返される。彼女はなぜ経験に学ばないのか。 昨年2月の北京五輪では、混合団体でスーツの規定違反に問われ、まさかの失格になったスキージャンプの高梨。号泣する姿に涙を誘われたファンも多かったようだ。だが、そんな人も、失敗から学ぶことを期待したに違いない。 ところが、昨年10月にはドイツのグランプリ・クリンゲンタール大会で、この1月15日にも、山形県の蔵王で行われたワールドカップで、立て続けにスーツの規定違反に問われ、失格になったのである。結果、1本目も2本目も95メートルを飛びながら、最下位に』、「昨年2月」、「昨年10月」、「この1月15日」と「立て続けにスーツの規定違反に問われ、失格になった」、どういうことなのだろう。
・『日本人ならではの不利な面 どうして、こういうことが起きるのか。スポーツライターの折山淑美さんは、三つの理由を挙げる。 「高梨選手はベストコンディションで競技に臨むため、その都度、微妙な体重コントロールをし、水を飲んで体重を200グラム増やす、なんてこともします。その上、海外遠征や連戦で疲労が蓄積し、痩せることも。体重や腰回りを、いつも一定に保つのが難しいのです」 日本人ならではの不利な面もあって、 「欧州での試合が多く、欧州のチームは毎回、新調したスーツを試着して練習できます。反対に、日本チームは海外遠征中、新調したスーツを試着しつつ練習することが難しいのです」 スーツが手作りであることも関係あるといい、 「スーツ作りの専門家がチームに同行し、各選手のサイズに合わせて手作業で作り上げるので、手間暇がかかる上、規則いっぱいいっぱいの線を狙って仕上げます。しかし、着ているうちに伸びたり変形したりするし、手縫いのため、縫い目にも微妙な誤差が生じます。その辺りが、抜き打ちチェックで違反とみなされるケースがあるのです」 そして、こう加える。 「高梨選手にかぎらず、スキージャンプの選手はみな、スーツ作りの段階から、ギリギリのところで戦っていることを知ってほしい」』、「スーツが手作りであることも関係あるといい、 「スーツ作りの専門家がチームに同行し、各選手のサイズに合わせて手作業で作り上げるので、手間暇がかかる上、規則いっぱいいっぱいの線を狙って仕上げます。しかし、着ているうちに伸びたり変形したりするし、手縫いのため、縫い目にも微妙な誤差が生じます。その辺りが、抜き打ちチェックで違反とみなされるケースがあるのです」、なるほど。
・『国内開催の重圧から とはいえ、1月のW杯は会場が蔵王。むしろ日本人に有利だったはずだが、国際スキージャーナリストの岩瀬孝文氏は、 「高梨選手ならではの責任感と、国内開催のための重圧からくる迷いもあり、ギリギリを狙っていたのだと察します」 と話す。実際、重圧がかかるのだろうが、ある元選手はこんな話を。 「ジャンプの選手は競技に際し、サイズが微妙に異なるスーツを4~5着用意するもので、1本飛ぶごとに別のスーツに着替えることもできます。今回、高梨選手は1本目のジャンプで着たスーツがセーフだったので、2本目で飛距離を伸ばすために、緩めでより浮力がつくスーツに着替え、違反になった。違反の可能性を認識しながら、絶対に勝たねば、というプレッシャーに屈したのです。違反を繰り返すのはコーチのせいではなく、彼女自身が判断した結果です」 きわどいところで勝負しているのである。だったら、試合後に記者会見を拒まず、自らそう訴えたほうがよかったのではないか。あるスポーツ紙の記者は、 「最近の高梨選手は、報道関係者や競技関係者に対し、強弁したり違背したり高飛車な態度をとったりしがち。彼女への風当たりが強まっているのを感じます」』、「今回、高梨選手は1本目のジャンプで着たスーツがセーフだったので、2本目で飛距離を伸ばすために、緩めでより浮力がつくスーツに着替え、違反になった。違反の可能性を認識しながら、絶対に勝たねば、というプレッシャーに屈したのです。違反を繰り返すのはコーチのせいではなく、彼女自身が判断した結果です」、相当無理を承知で際どい橋を渡っているようだ。
次に、3月11日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの藤江直人氏による「将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/318860
・『日本サッカー協会(JFA)が異例の人事を発令した。会長、副会長に次ぐナンバー3の要職で、日常の業務を統括する専務理事に2月1日付で、日本代表のキャプテンとしてW杯でも活躍し、ファン・サポーターから「ツネ様」の愛称で親しまれた46歳の宮本恒靖氏を抜擢した。古巣ガンバ大阪の監督などを経て、JFA理事および会長補佐に就任したのは昨年3月。まだ1期目の途中ながら、宮本氏本人も驚いた大出世にはどのような意図が込められているのか』、興味深そうだ。
・『W杯日本代表キャプテンを務めた「ツネ様」 JFAナンバー3の要職に 子どもの頃からサッカーが得意で、ガンバ大阪でプロになって2005年のJ1リーグを制覇。日本代表にも選出され、キャプテンを託され、2大会、計6試合にわたってW杯の舞台でもプレーし、02年の日韓共催大会では日本のW杯初勝利と初の決勝トーナメント進出の原動力になった。 現役の晩年に差しかかった07年にはヨーロッパへ移籍。オーストリア1部のレッドブル・ザルツブルクでもリーグ優勝を経験している宮本恒靖氏は、引退後に歩んでいくセカンドキャリアの選択肢のなかに、他のJリーガーや代表経験者とは明らかに一線を画す分野を加えた。 国際サッカー連盟(FIFA)が運営する大学院、FIFAマスターへの挑戦。第13期生として12年9月に入学し、サッカーを含めたスポーツ全般に関する組織論や歴史、哲学、法律、そして経営学を学び、翌13年7月に修了したときの心境を宮本氏はこう振り返っている。 「経営サイドに行く自分のことも想像していたので。スティーブ・ジョブズの言葉に『点と点をつなぐ』があるじゃないですか。自分にとっての点の一つがFIFAマスターだったんですね。自分のなかでは、いつかどこかで(経営サイドに)、といったイメージはありました」 大阪屈指の進学校である生野高から同志社大経済学部へ進学。サッカー選手との文武両道を実践してきた宮本氏の胸中には、人生における可能性をできる限り広げたい、という思いがあった。スポーツ界で活躍する人材輩出を目的とするFIFAマスターの門をたたいたのもその一環だった。 それでも修了から10年がたつ23年の自分自身の立ち位置は、想像できなかったはずだ。) 日本サッカー協会(JFA)は2月1日付で、宮本氏を専務理事に就ける人事を発令した。昨年3月の理事就任から1年もたたないうちに、会長と副会長に次ぐJFA内でナンバー3の要職で、日常の業務を統括する専務理事に大抜擢されたスピード出世を宮本氏はこう振り返る。 「JFAという組織がどのように回っているのかを知りながらの1年だったので、そのなかでこのように責任ある立場に就くのは、自分が思っていたよりも早いタイミングだったのかもしれません。回ってくる決裁文書も多いし、仕事の量自体も多いし、かなり鍛えられている日々ですが、自分が見てきたものを、課題として感じてきたものを整理しながらやっていくのは変わらないですね」』、「国際サッカー連盟(FIFA)が運営する大学院、FIFAマスターへの挑戦。第13期生として12年9月に入学し、サッカーを含めたスポーツ全般に関する組織論や歴史、哲学、法律、そして経営学を学び、翌13年7月に修了したときの心境を宮本氏はこう振り返っている。 「経営サイドに行く自分のことも想像していたので。スティーブ・ジョブズの言葉に『点と点をつなぐ』があるじゃないですか。自分にとっての点の一つがFIFAマスターだったんですね。自分のなかでは、いつかどこかで(経営サイドに)、といったイメージはありました」、「大阪屈指の進学校である生野高から同志社大経済学部へ進学。サッカー選手との文武両道を実践してきた宮本氏の胸中には、人生における可能性をできる限り広げたい、という思いがあった」、なるほど。
・『日本のサッカー界は事務方も世界レベルになる必要がある そもそも、JFAとは何をしている組織なのか。端的に説明すれば日本のサッカー界を統括する、いわゆる総本山にあたる競技連盟であり、公式HP上では「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」と組織としての理念が謳われている。 具体的な活動としてサッカーの普及、強化、社会貢献がある。普及の対象は老若男女におよび、強化のそれはA代表だけでなく、なでしこジャパンや年代別の男女代表、指導者、そして審判と幅広い。さまざまな施策を推進していくうえで、原資となるお金を稼ぎ出すスキームも考案・実践していく必要がある。国内で開催されるA代表戦が、大きな収入源となるのは言うまでもない。 社会貢献には国際舞台での活動も含まれる。FIFAだけでなくアジアサッカー連盟でもJFAのプレゼンスを高めていくうえで、現役時代から知名度が高く、14年のブラジルW杯ではFIFAのテクニカルスタディーグループの一員として戦術や技術など大会全体の傾向を分析。英語も自在に操れる宮本氏が事務方のトップとなる専務理事として、JFAを国内外でけん引していく体制が整えられた。 JFA専務理事は18年3月から、キンコーズ・ジャパンやベルリッツ・ジャパン、ドミノ・ピザジャパンなどで経営に携わってきた56歳の須原清貴氏が務めてきた。しかし、3期目の任期を来年3月まで残していた須原前専務理事は、経営の世界に戻りたいとして昨年末に辞意を表明した。 後任人事を急いできたJFAは、会長、4人の副会長、専務理事らで構成される常務理事会で宮本氏を専務理事に推挙する人事案を内定。1月の月例理事会へ提案し、承認された。2月は常勤理事としてJFAに残り、職務の引き継ぎを行ってきた須原氏は後任者への期待をこう語る。 「ピッチ上のパフォーマンスと事務方を含めたピッチ以外のパフォーマンスの両方が、世界基準になっていく必要性がより高まっています。ピッチ上においては、W杯カタール大会で選手たちが躍動してくれた。それに合わせて事務方も世界レベルになっていかなければいけない。マネジメント、マーケティング、あるいはガバナンスでさらに高みを目指していくためには若い力が絶対に必要です。宮本専務理事は冷静沈着で非常に優秀で、かつ選手だけでなく指導者としての経験もある。新しい時代を開いていくために、極めてふさわしい専務理事になってくれると確信しています」 就任直後に46歳になった宮本専務理事は前任者より10歳も若い。さらに選手だけでなく、15年からは古巣ガンバのアカデミーで指導者の道を歩み始め、18年7月からは不振に陥っていたトップチームの監督に就任。20年にはJ1リーグで2位、天皇杯では準優勝の成績を残した。 一転して翌21年は、開幕からつまずいたまま5月に解任された。捲土重来を期す上での宮本氏の動向が注目されていたなかで、前述したように昨年3月にJFA理事に就任。同時に国際委員会の委員長として現役時代から堪能な英語を駆使し、さらに新設された会長補佐も兼任した。 異例続きの人事には、JFAの田嶋幸三会長の意向が強く反映されていたとされる。意向とは要するに、宮本氏をごく近い将来のJFA幹部候補として育てていく方針に他ならない。常勤の理事および会長補佐として組織運営を学んできた矢先に、須原前専務理事の退任が重なった。) 歴代のJFA専務理事を振り返れば、田嶋会長も原博実氏(前Jリーグ副理事長)も元日本代表であり、原氏は浦和レッズとFC東京で監督も務めた。しかし、代表キャップと監督歴に加えて代表でキャプテンを務め、W杯で戦い、海外でプレーした経験をも持つのは宮本氏が初めてとなる。 自身も務めた専務理事職を「JFAの顔だと思っています」と語ったこともある田嶋会長は、一気に若返ったナンバー3への期待を「非常に大きいですよ」と言い、こう続ける。 「いろいろな経験をしてきたなかで、今度はJFAのなかで経験を積んでほしい。JFAのなかには彼が知らないことがまだまだたくさんあります。これからはヨーロッパを経験した人たちが日本サッカー界を変えていく時代になっていく。彼はその一人目の旗頭となれる人材だと思っています」』、「これからはヨーロッパを経験した人たちが日本サッカー界を変えていく時代になっていく。彼はその一人目の旗頭となれる人材だと思っています」、その通りなのだろう。
・『将来のJFA会長も宮本氏に敷かれたレール 16年3月にJFAの第14代会長に就任した65歳の田嶋氏は現在、4期目を務めている。JFAは19年10月の規則改定で、会長任期を最長で4期8年と明文化した。田嶋会長自身も最後の任期と明言しているなかで、今年12月から来年の年明けにかけて次期会長選挙が実施される。 以前はJFAの評議員会で理事会のメンバーが選ばれ、新理事による互選で代表者、すなわち会長が決められてきた。しかし、FIFAが13年になって傘下の全サッカー協会に対して、会長選挙の実施を含めた標準規約の制定を通達。JFAでも15年12月から会長選挙が導入された。 会長立候補者はJFAが定める「役員の選任及び会長等の選定に関する規定」で、実際に就任した場合に満70歳未満である年齢に加えて、次の要件を満たしていなければいけない。 「直近5年間のうち2年以上、本協会、地域サッカー協会、都道府県サッカー協会、Jリーグ、各種の連盟、リーグ、クラブ等の役員、職員、選手、審判、指導者、その他サッカーと関わりが深いと認められる立場で、サッカー界において実質的に活動し、貢献していること」(原文ママ) その上で評議員または理事から合計で20人以上の推薦を得て、選出管理委員会に対して初めて立候補の意思を表明できる。会長立候補者が複数になった場合は、次回でいえば24年1月の臨時評議員会で、75人を数える評議員による無記名投票で会長予定者1人が選出される。 いきなり次期会長はないとみられるものの、田嶋会長をして「顔」と言わしめた専務理事に抜擢された宮本氏を巡る人事には、将来的な会長就任への期待も込められていると言っていい。 一方で4人を数えるJFA副会長の1人で、日本代表監督としてW杯の2大会で指揮を執った66歳の岡田武史氏は、4年前の18年3月にS級ライセンスの更新を見送っている。理由は後進に道を譲るためであり、さらに「資格を持っていると(復帰への)色気が出ちゃうので」と語っていた。 岡田副会長の場合はJ3のFC今治の運営会社の代表取締役を務めるなど、指導者から経営者へシフトした立場もS級ライセンス返上を決意させた。ならば、宮本氏はどうか。もしも今後、監督就任のオファーが届いたときには、JFA専務理事としてどのような選択肢を持ち合わせるのか。 指導者への未練の有無を問われた宮本氏は「まあ、せっかく取得したS級ライセンスなので」と現場復帰優先をにおわせながら、すぐに「それは冗談です」と否定。さらにこんな言葉を紡いだ。 「日本におけるサッカーの存在を大きくしたい、という思いを常に強く持っていて、そのために選手、FIFAマスターで学んだ時期、指導者、コーチ、そして監督とさまざまな立場で貢献しようと考えてきました。まだS級ライセンスを持っているので、それだけに監督やコーチを全くしないとは思わないですし、いろいろな可能性を持っておきたいと思っていますけど、いまは自分の立場に集中して、自分が持っているもので貢献していきたい。このぐらいの答えでいいでしょうか」』、「宮本」氏は「S級ライセンス」を保持しながら、「さまざまな立場で貢献しようと考えてきました」、なるほど。
・『巨大組織でいかにリーダーシップを発揮するか 昨春に理事に就任して初めて、JFAは全部で19もの部署に分かれていて、250人を超える職員が勤務し、年間で300億円近い予算が動く公益財団法人だと知った。まずはJFA全体を把握し、巨大な組織を動かす力を身につけながら、自らのカラーを打ち出していく形になるだろう。 「自分自身、選手だった期間を含めてJFAという組織を外側から見てきて、どこかちょっと遠いところにあると思っていました。さらにJFAのなかにいると、外部の人たちも同じようにわかってくれるだろう、といった感覚に陥ってしまうようなところもちょっとある。JFAが外からどのように見られているのかが、ちょっと感じられなくなっているといいますか」 こう語った宮本氏は、専務理事就任とともにインスタグラム(@tsuneyasumiyamoto_official)を開設。JFAという組織が、そのなかでナンバー3として何をやっているのかを自身のプライベートを含めて発信しながら、双方向のコミュニケーションを築いていきたいと奮闘している。 組織内へ目を向ければ職員だけでなく、ともにJFA副会長に名を連ねるJリーグの野々村芳和チェアマン、WEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)の髙田春奈チェアに加えて、さらに47を数える都道府県サッカー協会ともコミュニケーションを密にしていかなければいけない。 現役時代はガンバやそのアカデミー、最後の所属クラブとなったヴィッセル神戸、年代別を含めた日本代表とほぼすべてでキャプテンを拝命。さまざまな場面で卓越したリーダーシップを発揮してきた宮本氏は、専務理事に求められるリーダーシップは「全然違いますね」と思わず苦笑する。 「専務理事としていきなり須原さんと同じことができるか、というのはちょっと違うと思っているし、いろいろな人の力を借りながら、自分なりのバックグラウンドを生かしてやっていきたい。組織としてはサッカーに対して熱い思いを持っている職員が多いし、ほぼ全員が中途採用で入ってきている関係もあって、さまざまなビジネスのバックグラウンドも持っている。強化部や競技運営部、チームコミュニケーション部などさまざまな部署の間で横のコミュニケーションも発揮していくことで、組織としてのパフォーマンスもよりよくなっていくのでは、という課題意識も持ってやっていきたい」 宮本氏が自身のキャリアを例えたスティーブ・ジョブズの「点と点をつなぐ」は、将来を見越して知識や経験などをつないでいく、という意味ではない。さまざまなことが将来的に線となってつながり、自らを高めていくと信じて取り組んでほしいという人生訓やエールが込められていた。 選手としての輝かしい実績。Jリーガー出身の日本人として初めて入学し、そして修了したFIFAマスターでの充実した日々。そして、成功と挫折を経験した指導者時代。そこへJFA専務理事の仕事が加わった結果として生まれる、未来へとつながる線を誰よりも宮本氏が楽しみにしている』、「宮本」「専務理事」の今後の活躍が楽しみだ。
第三に、7月16日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの藤江直人氏による「イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/326186
・『名門バルセロナからヴィッセル神戸へ加入し、世界を驚かせてから5年余り。スペイン代表でも一時代を築いた司令塔、アンドレス・イニエスタが涙とともに日本を去った。だが「人格者」のイメージが強いイニエスタは、日本ラストマッチでの交代時に自チームの吉田孝行監督と目も合わせず、半ば“無視”するような形でピッチを後にした。愛する神戸での引退を望んでいた39歳のレジェンドは、なぜ「もう一つの顔」をのぞかせたのか――。その胸中に迫る』、興味深そうだ。
・『人格者イニエスタの「もう一つの顔」 高ぶった感情を抑え切れないことも 温厚な性格と常に謙虚な立ち居振る舞い。そして、ピッチを離れれば夫として生涯の伴侶と決めているアンナさんを心の底から愛し、父親として2男3女の幼い子どもたちを優しく見守る。 ヴィッセル神戸を退団した元スペイン代表のレジェンドで、名門バルセロナでも一時代を築いたアンドレス・イニエスタの素顔を問われれば、真っ先に「人格者」という言葉が思い浮かんでくる。 しかし、イニエスタはもう一つの顔も持ち合わせていた。ときに高ぶった感情を抑え切れない、と言えばいいだろうか。試合中に初めて「それ」をのぞかせたのは、2年前の9月だった。 北海道コンサドーレ札幌戦の後半に途中交代を告げられた直後。イニエスタはタッチライン際に置かれていたペットボトルを思い切り蹴り上げた。さらにベンチ前ではペットボトルが数本入ったケースにもキックを見舞い、ベンチに座ってからはそれまで履いていたスパイクも投げ出した。 当時のイニエスタは、試合後に自身のインスタグラム(@andresiniesta8)を更新。スペイン語と日本語の両方で、ファン・サポーターを驚かせた自らの行為を謝罪している』、「人格者イニエスタの「もう一つの顔」、「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを蹴り上げた。 このときは試合後の取材エリアを無言で通過したイニエスタに代わって、元日本代表の酒井高徳が「ロッカールームでは、いつも通りのアンドレスでした」とレジェンドの胸中を代弁してくれた。 「試合途中で交代を告げられて、うれしいと思う選手はどこにもいないと思う。そういう姿勢はプロサッカー選手として絶対に持っていなければいけない。なので、誰もとがめませんでした」 そして、今年7月1日に行われたイニエスタのラストマッチ(札幌戦)では、これまでとは違った形で「怒り」が顔をのぞかせた』、「イニエスタはもう一つの顔も持ち合わせていた。ときに高ぶった感情を抑え切れない、と言えばいいだろうか。試合中に初めて「それ」をのぞかせたのは、2年前の9月だった。 北海道コンサドーレ札幌戦の後半に途中交代を告げられた直後。イニエスタはタッチライン際に置かれていたペットボトルを思い切り蹴り上げた。さらにベンチ前ではペットボトルが数本入ったケースにもキックを見舞い、ベンチに座ってからはそれまで履いていたスパイクも投げ出した。 当時のイニエスタは、試合後に自身のインスタグラム(@andresiniesta8)を更新。スペイン語と日本語の両方で、ファン・サポーターを驚かせた自らの行為を謝罪している。 「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを蹴り上げた」、微笑ましい「フラストレーション」の発揮だ。
・『敵将と抱擁をかわした一方で 神戸・吉田監督とは目も合わせず 後半12分に交代を告げられたイニエスタは、代わりにキャプテンマークを託した山口蛍をはじめとするチームメイトと抱き合い、万雷の拍手を送るスタンドに手をたたいて応えながらタッチラインへ近づいていった。 交代出場へ向けてスタンバイしていた佐々木大樹へ笑顔でエールを送り、万感の思いを込めるようにピッチに向かって深々とお辞儀する。さらに試合中にもかかわらず反対側のベンチからわざわざ歩み寄ってきた、札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督とも熱い抱擁をかわした。 だが直後に、異なる感情をあらわにした。ベンチ前で手をたたいて出迎えた、神戸の吉田孝行監督とは目を合わせようとしなかったのだ。視線を落としながら握手もせず、半ば“無視”するように指揮官の横を通り過ぎたイニエスタはベンチ前で再び顔を上げ、コーチ陣やリザーブの選手たちとタッチを繰り返した。 イニエスタの最終戦は、本拠地の名称が「ノエビアスタジアム神戸」となった2013年3月以降では歴代最多となる、2万7630人もの大観衆が駆けつけた。その一戦に、わずかに影を落とした吉田監督との一幕。試合後に臨んだ会見で、イニエスタは一度だけ吉田監督に言及した。契約を半年残して神戸を退団し、新天地を求める胸中を問われたときだった。 「自分はまだできる、選手として戦う準備ができている、チームに貢献できると日々感じてきました。ただ、監督はそのように考えていませんでした。しかし、自分にとってはそれがサッカーを続けるモチベーションにつながりました。だから、新天地でサッカーを続けたいと思っています」 過去の2度はより長く試合に出たい、神戸の勝利に貢献したい、という思いが悔しさに転じた末に、ペットボトルを蹴り上げるといった行為につながった。しかし、ラストマッチでのぞかせた怒りは理由が根本的に異なる。それは退団を決意するに至った過程に起因していると言っていい。 3年半契約での神戸移籍が発表され、世界中を驚かせたのが18年5月。さらに契約を今年いっぱいまで延長した21年5月以降で、イニエスタはこんな考えを抱くようになった。 「自分は、ずっとここ(神戸)で引退する姿を想像してきました」 過去形になっているのは、神戸における立ち位置が一変したからだ。5月に行われた退団会見。イニエスタは「時に物事は希望や願望通りにいかない」と、声を詰まらせながら理由を語っている』、「「自分は、ずっとここ(神戸)で引退する姿を想像してきました」 過去形になっているのは、神戸における立ち位置が一変したからだ。5月に行われた退団会見。イニエスタは「時に物事は希望や願望通りにいかない」と、声を詰まらせながら理由を語っている』、「(神戸)で引退する姿を想像してきました」とは初めて知った。
・『イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」 「まだまだプレーを続けて、ピッチで戦いたい思いがありました。しかし、それぞれが歩んでいく道が分かれ始め、監督の優先順位も違うところにあるとも感じ始めました。ただ、それが自分に与えられた現実であり、リスペクトを持ってそれを受け入れました。最終的には現実と自分の情熱とをかけ合わせた結果、ここを去るのがベストな決断だとクラブとの話し合いの中で決めました」、なるほど。
・『「脱イニエスタ・エース大迫」で結果を残す吉田監督 神戸がJ1残留争いを強いられた昨シーズンの後半戦で、故障が続いたイニエスタはほとんどピッチに立てなかった。迎えた今シーズンもコンディション不良で出遅れ、2月にリーグ戦が開幕してからはアンナさんの第5子出産に立ち会うために一時帰国。再来日は3月中旬だった。 一方の吉田監督はシーズン途中の昨年6月に就任し、最下位にあえいでいた神戸を最終的に13位で残留させた。13年限りで現役を終えた神戸で指導者の道を歩み始めた吉田監督は、17年8月、19年4月に続く3度目の登板であり、過去2度はともにシーズン途中で解任されていた。 21年はJ2のV・ファーレン長崎の監督に就任するも、シーズン序盤の5月にはアシスタントコーチに配置転換された。その後は強化部スタッフとして神戸へ復帰。これまでと同じく、例えるなら「応急措置」的な形で率いた神戸を必死に立て直し、何とかJ1残留という結果を手繰り寄せた。 引き続き指揮を執った今シーズン。イニエスタを欠いた状態で開幕を迎える状況がわかっていた中で、キャンプから新しい戦い方を模索してきた吉田監督は一つの答えにたどり着いた。 守備では球際の強度を重視し、前線から激しく連動したプレスを展開。泥くささと運動量の多さを前面に押し出し、ハードワークによってボールを奪い取る。そして、ボールを奪えばロングボールをFW大迫勇也へ送る。ピッチ上の大黒柱をイニエスタから、オフの間にコンディションを整えて復活した大迫にスイッチさせた。 イニエスタの加入後に掲げられた「バルサ化」の対極に位置する、堅守速攻スタイルが鮮やかにはまった神戸は開幕ダッシュに成功。イニエスタが退団を表明した時点で首位に立っていた(本稿執筆時点では2位)。 サッカーの鉄則として「勝っている間はメンバーを代えない」がある。札幌戦を迎えるまでイニエスタのリーグ戦出場は3試合。すべて後半途中から投入され、プレー時間もわずか38分だった。 吉田監督は神戸を勝たせる手段として「脱・イニエスタ」を決断し、実際に昨シーズンまでとはまったく異なる結果を残してきた。5月に39歳になったイニエスタもまた、プロとして常に試合に出られる準備を整えながら、ベンチから、あるいはベンチの外から好調な神戸を見つめてきた。 その間にいつしか、居場所がなくなった神戸に別れを告げ、ピッチの上で最後の輝きを放った上でスパイクを脱ぎたいと思うようになった。イニエスタは退団会見でこんな言葉を残している。 「サッカーを続けていく限り、引退する日がどんどん近づいてくる、というのは誰もが感じること。その中で自分がこのチームを去るべきタイミングを、いろいろな局面で考え始めました」 だからこそ、札幌戦での先発出場はイニエスタにとっても意外だったはずだ。昨年8月を最後に遠ざかっていたイニエスタの先発起用の意図を問われた吉田監督は、苦笑しながら言葉を濁した。 「それに関しては説明はいらないかな、と。彼に対するリスペクトということです」』、「「脱イニエスタ・エース大迫」で結果を残す吉田監督」、「居場所がなくなった神戸に別れを告げ、ピッチの上で最後の輝きを放った上でスパイクを脱ぎたいと思うようになった」、なるほど。
・『「温情」での先発起用にイニエスタ自身が違和感!? イニエスタを起用する上での難しさを問う質問には、吉田監督はこんな言葉を返している。 「もちろんそこは自分にしかわからない部分、というのもあると思いますし、スーパースターとしてずっとプレーしてきた彼にしかわからないつらさもあったと思っています」 しかし、堅守速攻にかじを切った神戸で、イニエスタは最終戦でも思うように攻撃に絡めなかった。後半開始とともに大迫が投入されてからは、中途半端な展開が余計に目立った。試合は札幌にリードを許して前半を折り返した神戸が、イニエスタがピッチを退いた後の後半40分に追いついて何とか引き分けた。 神戸における最後のプレーを、イニエスタは独特の表現で振り返っている。 「人生においても、スポーツにおいてもスーパーヒーローはいません。現実として自分もこの4、5カ月間、チームに継続的に絡んでいませんでした。その中で最大限の貢献ができるように、自分のすべてを出し尽くしました。自分が何をしたのか、どのような結果だったのかというよりは、チームでここまでやってきたことに対する誇りと達成感の気持ちをもって今日という日を終えました」 ラストマッチだからと、温情的な意味合いで先発起用されても難しい、という複雑な思いが「スーパーヒーローはいない」というくだりに反映されている。お互いにプロとしての矜持(きょうじ)を貫き、その結果として別々の道を歩む状況に至った以上は、最後まで非情に徹してほしかったのだろう。 ましてやイニエスタのラストマッチは、親善試合ではなく公式戦だ。悲願のリーグ戦優勝を目指す上で、一戦必勝の態勢で臨まなければいけない。イニエスタを送り出すのであれば結果を出してきた堅守速攻スタイルで臨み、リードを奪った上で後半途中から起用すべきだったのではないか。 川崎フロンターレが1-0でガンバ大阪を下した、2021年元日の天皇杯決勝を思い出す。この試合を最後に引退する中村憲剛をベンチでスタンバイさせていた川崎の鬼木達監督は、延長戦に突入するケースを含めて、さまざまな考えを巡らせた中でレジェンドをピッチに送り出せなかった。 試合後に「使ってあげられなくて申し訳ない」と謝った指揮官に対して、中村は「チームの勝利が最優先ですから」と笑顔で返した。お互いにリスペクトの思いがあったからこそのやり取りだ。中村は「個人的な感情は抜きにして、これがベストの筋書きでした」と指揮官に感謝している。 対照的にイニエスタ本人が違和感を覚えたことを示唆した57分間は、果たして神戸とイニエスタの双方にとってベストだったのか――。いずれにせよ、最後まで神戸の力になれなかったふがいなさが負の感情へと変わり、吉田監督を無視した交代直後の異例とも言える態度に反映されてしまったのだろう。 もちろん、5年間にわたって在籍した神戸へ注ぐ愛はまったく変わらない。札幌戦後に行われた退団セレモニー。何度も頬に涙を伝わせながら、イニエスタはこんな言葉を残している。 「ファン・サポーターのみなさんには、これまで通りチームを支えてほしい。チームは素晴らしいシーズンを送っていますが、後半戦はみなさんの力が必要になってきます。みなさんと一緒に、自分も離れたところからチームに力を送りたいと思っています」 イニエスタは「さようなら」ではなく「また会いましょう」という言葉で、神戸における日々を締めくくった。いまは手元に届いている中東やアメリカなどからのオファーを吟味しながら、引退後には何らかの形で再び関わりたいと望んでいる神戸が、これからも勝ち続けていく姿を祈っているだろう』、「ラストマッチだからと、温情的な意味合いで先発起用されても難しい、という複雑な思いが「スーパーヒーローはいない」というくだりに反映されている。お互いにプロとしての矜持(きょうじ)を貫き、その結果として別々の道を歩む状況に至った以上は、最後まで非情に徹してほしかったのだろう」、難しいものだ。「イニエスタは」「いまは手元に届いている中東やアメリカなどからのオファーを吟味しながら、引退後には何らかの形で再び関わりたいと望んでいる神戸が、これからも勝ち続けていく姿を祈っているだろう」今後、どんな活躍をするのだろうか。
タグ:スポーツ界 (その35)(高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」、将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由、イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」) デイリー新潮「高梨沙羅はなぜ「スーツ違反失格」を繰り返すのか 「緩いスーツを選んだのは彼女自身で、コーチのせいではない」 「昨年2月」、「昨年10月」、「この1月15日」と「立て続けにスーツの規定違反に問われ、失格になった」、どういうことなのだろう。 「スーツが手作りであることも関係あるといい、 「スーツ作りの専門家がチームに同行し、各選手のサイズに合わせて手作業で作り上げるので、手間暇がかかる上、規則いっぱいいっぱいの線を狙って仕上げます。しかし、着ているうちに伸びたり変形したりするし、手縫いのため、縫い目にも微妙な誤差が生じます。その辺りが、抜き打ちチェックで違反とみなされるケースがあるのです」、なるほど。 「今回、高梨選手は1本目のジャンプで着たスーツがセーフだったので、2本目で飛距離を伸ばすために、緩めでより浮力がつくスーツに着替え、違反になった。違反の可能性を認識しながら、絶対に勝たねば、というプレッシャーに屈したのです。違反を繰り返すのはコーチのせいではなく、彼女自身が判断した結果です」、相当無理を承知で際どい橋を渡っているようだ。 ダイヤモンド・オンライン 藤江直人氏による「将来の会長含み?「宮本恒靖」が日本サッカー協会No.3に大抜擢された理由」 「国際サッカー連盟(FIFA)が運営する大学院、FIFAマスターへの挑戦。第13期生として12年9月に入学し、サッカーを含めたスポーツ全般に関する組織論や歴史、哲学、法律、そして経営学を学び、翌13年7月に修了したときの心境を宮本氏はこう振り返っている。 「経営サイドに行く自分のことも想像していたので。スティーブ・ジョブズの言葉に『点と点をつなぐ』があるじゃないですか。自分にとっての点の一つがFIFAマスターだったんですね。自分のなかでは、いつかどこかで(経営サイドに)、といったイメージはありました」、「大阪屈指の進学校である生野高から同志社大経済学部へ進学。サッカー選手との文武両道を実践してきた宮本氏の胸中には、人生における可能性をできる限り広げたい、という思いがあった」、なるほど。 「これからはヨーロッパを経験した人たちが日本サッカー界を変えていく時代になっていく。彼はその一人目の旗頭となれる人材だと思っています」、その通りなのだろう。 「宮本」氏は「S級ライセンス」を保持しながら、「さまざまな立場で貢献しようと考えてきました」、なるほど。 「宮本」「専務理事」の今後の活躍が楽しみだ。 藤江直人氏による「イニエスタが最終戦で監督を“無視”した理由…人格者が見せた「もう一つの顔」」 「人格者イニエスタの「もう一つの顔」、「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを蹴り上げた。 このときは試合後の取材エリアを無言で通過したイニエスタに代わって、元日本代表の酒井高徳が「ロッカールームでは、いつも通りのアンドレスでした」とレジェンドの胸中を代弁してくれた。 「試合途中で交代を告げられて、うれしいと思う選手はどこにもいないと思う。そういう姿勢はプロサッカー選手として絶対に持っていなければいけない。なので、誰もとがめませんでした」 そして、今年7月1日に行われたイニエスタのラストマッチ(札幌戦)では、これまでとは違った形で「怒り」が顔をのぞかせた』、 「イニエスタはもう一つの顔も持ち合わせていた。ときに高ぶった感情を抑え切れない、と言えばいいだろうか。試合中に初めて「それ」をのぞかせたのは、2年前の9月だった。 北海道コンサドーレ札幌戦の後半に途中交代を告げられた直後。イニエスタはタッチライン際に置かれていたペットボトルを思い切り蹴り上げた。さらにベンチ前ではペットボトルが数本入ったケースにもキックを見舞い、ベンチに座ってからはそれまで履いていたスパイクも投げ出した。 当時のイニエスタは、試合後に自身のインスタグラム(@andresiniesta8) を更新。スペイン語と日本語の両方で、ファン・サポーターを驚かせた自らの行為を謝罪している。 「自分らしくない不適切な行動を示したので、サッカーファンやサポーターのみなさんに詫びます。時々フラストレーションが溜まりますが、僕はそのような人ではありません。申し訳ありません」 同じような光景は、昨年7月のジュビロ磐田戦でも再現された。後半途中に交代を告げられたイニエスタは、ねぎらおうと出迎えたコーチ陣やチームメイトを拒絶するように左手を小さく振り上げ、直後に左足を思い切り振って目の前に置かれていたペットボトルを 「「自分は、ずっとここ(神戸)で引退する姿を想像してきました」 過去形になっているのは、神戸における立ち位置が一変したからだ。5月に行われた退団会見。イニエスタは「時に物事は希望や願望通りにいかない」と、声を詰まらせながら理由を語っている』、「(神戸)で引退する姿を想像してきました」とは初めて知った。 「「脱イニエスタ・エース大迫」で結果を残す吉田監督」、「居場所がなくなった神戸に別れを告げ、ピッチの上で最後の輝きを放った上でスパイクを脱ぎたいと思うようになった」、なるほど。 「ラストマッチだからと、温情的な意味合いで先発起用されても難しい、という複雑な思いが「スーパーヒーローはいない」というくだりに反映されている。お互いにプロとしての矜持(きょうじ)を貫き、その結果として別々の道を歩む状況に至った以上は、最後まで非情に徹してほしかったのだろう」、難しいものだ。 「イニエスタは」「いまは手元に届いている中東やアメリカなどからのオファーを吟味しながら、引退後には何らかの形で再び関わりたいと望んでいる神戸が、これからも勝ち続けていく姿を祈っているだろう」今後、どんな活躍をするのだろうか。
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