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終末期(その9)(せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」、人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終 最後の一息を吐いて…、そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき 「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」、突然 看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」) [人生]

終末期については、昨年7月26日に取上げた。今日は、(その9)(せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」、人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終 最後の一息を吐いて…、そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき 「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」、突然 看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」)である。

先ずは、本年4月27日付け現代ビジネスが掲載した作家の久坂部 羊氏による「せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」」を紹介しよう。
・『だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです』、興味深そうだ。
・『死に目に間に合わせるための非道  日本では死に目に会うことを、欠くべからざる重大事と受け止めている人が多いようです。特に親の死に目に会うのは、子として当然の義務、最後の親孝行のように言われたりもします。 しかし、感情論ではなく、その意味を現実的に考えるとどうでしょう。 以前、私が在宅医療で診ていた乳がんの女性・Kさんが、いよいよ臨終が近づいたとき、入院の手続きをとりました。Kさんは七十八歳で、ぎりぎりまで家にいたいけれど、最後は病院でと希望していたからです。 十日ほどして、病院の主治医からKさんが亡くなったという報告書が届きました。それを読んで私は愕然としました。 報告書によると、看護師が午後八時に巡回したときにはKさんは異常なかったけれど、午後十時に巡回すると、心肺停止の状態になっていたそうです。看護師はすぐに当直医に連絡し、当直医は気管内挿管をして、人工呼吸器につなぎ、カウンターショックと心臓マッサージで心拍を再開させることに成功しました。その後、ステロイドや強心剤を投与して、翌日の午後八時に、無事、家族に見守られて永眠したとのことでした。 具体的な文章は忘れましたが、心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていたKさんを、見事、蘇生させて、家族が死に目に会うことを実現させられたと、いささか誇らしげに書いてあったように記憶します。 たしかに家族は喜んだかもしれません。きっと感謝したことでしょう。しかし、亡くなったKさん本人はどうだったでしょう。 一般には心肺停止の蘇生処置がどういうものか、具体的に知らない人が多いでしょうから、この話は美談のように受け取られるかもしれません。しかし、実態を知る私としては、なんという無茶なことをと、あきれるほかありませんでした。 まず、人工呼吸のための気管内挿管は、喉頭鏡というステンレスの付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、喉頭(のどぼとけ)を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入します。意識がない状態でも、反射でむせますし、喉頭を持ち上げるとき、前歯がてこの支点になって折れることもままあります。そうなれば口は血だらけになります。 そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流を流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こします。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や胸骨を骨折させる危険性が高く、Kさんのように高齢でやせている人なら、骨折は一本や二本ではすまなかったと想像されます。) 寿命に従ってせっかく静かに亡くなっていたKさんの口に、そんな器具を突っ込み、のどに太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをして、心臓を無理やり動かしてまで、家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものでしょうか』、「寿命に従ってせっかく静かに亡くなっていたKさんの口に、そんな器具を突っ込み、のどに太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをして、心臓を無理やり動かしてまで、家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものでしょうか」、確かに逆立ちした論理だ。
・『非道な蘇生処置の理由  Kさんに非道な蘇生処置をした当直医は、(1)まだ経験の浅い若い医者か、(2)医療に前向きな信念しか持たない医者か、あるいは、(3)あとで遺族から非難されることを恐れる保身の医者のいずれかでしょう。 (1)の医者は未熟なので、心肺停止という状況で反射的に(つまり何も考えず)教えられた通りの処置を行ったケースで、これは経験を積めばそんな無駄で残酷なことはしなくなる可能性があります。 (2)の医者は、医療の善なる面のみに目を向け、医療の弊害や矛盾、あるいは限界から目を背ける医者です。こういう医者はイケイケですから、むずかしい状況の患者さんを積極的な治療で救うこともありますが、無理な治療で患者さんを苦しめたり、逆に命を縮めたりする危険性もあります。まじめで純粋、かつ努力家である反面、己の非はぜったいに認めないタイプですが、医師としては優秀な者に多いのが困りものです。 (3)の医者は、もっとも厄介なケースで、患者さんのためにならないことを知りつつ、言わばアリバイ作りのために蘇生処置を行う医者です。なぜ、そんなことをするのかというと、何もしないで静かに看取ると、遺族のなかには、「あの病院は何もしてくれなかった」とか、「最後は医者に見捨てられた」などと、よからぬを立てる人がいるからです。 看護師が巡回したら、心肺停止になっていましたなどと、ほんとうのことを告げたら、遺族によっては、「気づいたら死んでいたというのか。病院はいったい何をやっていたんだ」と、激昂する人も出かねません。) 実際、死に対して医療は無力なのに、世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ないのです。それが患者さん本人にとって、どれほどの害を与えていることか。 死を受け入れたくない気持ちはわかりますが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることは、とてもむずかしくなります。 さらに連載記事<人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終>では、人が死ぬときの様子を詳しく解説します』、「実際、死に対して医療は無力なのに、世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ないのです。それが患者さん本人にとって、どれほどの害を与えていることか。 死を受け入れたくない気持ちはわかりますが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることは、とてもむずかしくなります」、その通りだ。

次に、昨年1月19日付け現代ビジネスが掲載した作家の久坂部 羊氏による「人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終 最後の一息を吐いて…」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/103427?imp=0
・『だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです』、興味深そうだ。
・『死を見る機会  ふつうの人が人の死を直接見る機会は、さほど多くはないでしょう。 見るとすれば、たいていは家族の死で、多くは病院のベッドのまわりで見ることになります。医者と看護師がいて、患者さんには点滴とか酸素マスクがつけられ、場合によっては心電計や人工呼吸器も装着されている。家族の死だから、悲しかったり複雑な思いがあったりして、とても冷静には見られない。加えて、死は忌むべきものという頑強な刷り込みもあるので、じっくり見たり、ましてや観察などはまず行われません。 自宅での看取りでも、まわりに医療機器などがなく、場所が見慣れた空間であるというだけで、看取る家族の動揺はほとんど変わりがないでしょう。 稀なケースとして、目の前で突然だれかが死ぬ(交通事故や水難事故、飛びこみ自殺など)のを目撃することもあるでしょうが、こちらは家族の死以上に見る者を動揺させるにちがいありません。殺害現場などに遭遇してしまうと、動揺どころか動転、驚愕、ときには失神さえしてしまうでしょう。 医者だって人間です。はじめて患者さんの死を看取るときは、一般の人と同じく動揺します。それまで自分が治療し、いろいろなことを説明し、人間的な関わりを持った人が死ぬのですから、当然ながらショックは大きい。 自分の患者さんでなくても、たとえば当直のアルバイト先でたまたま臨終に立ち会う場合でも、一人の人間の死という厳粛な事実の前では、畏怖のようなものを感じずにはいられません。その感覚は、家族や一般の人のそれとさほど差はないはずです。 が、場数を踏むにつれ、医者は次第に死に慣れてきます。死に慣れるなど、不謹慎だと思われるかもしれませんが、実際、慣れます。慣れると心にゆとりができます。そうすると、ゆとりのないときには見えなかったものが見えてきます。それは死を、ある種、乾いた現象として理解させてくれたりします。 いずれにせよ、一般の人は平常心で死を見る機会が少ないので、死を大袈裟に捉え、死者に過剰に反応しがちではないでしょうか。 死が人生の重大事であることはまちがいありませんが、心にゆとりを持って見れば、特別な不幸でも不運でもないことがわかります。だれにでも起こることで、恐ろしいことでも、いやなことでもない。ごく当たり前のことだと感じられる。その感覚を理解してもらうために、死に直面していない今、死の実際をイメージしていただきたいと思います』、「一般の人は平常心で死を見る機会が少ないので、死を大袈裟に捉え、死者に過剰に反応しがちではないでしょうか。 死が人生の重大事であることはまちがいありませんが、心にゆとりを持って見れば、特別な不幸でも不運でもないことがわかります。だれにでも起こることで、恐ろしいことでも、いやなことでもない。ごく当たり前のことだと感じられる。その感覚を理解してもらうために、死に直面していない今、死の実際をイメージしていただきたいと思います」、その通りだ。
・『死の判定とは  最近は人の死といっても、一筋縄ではいきません。 「心肺停止」などは、心拍も呼吸も止まっているのに「死」とは認められない。蘇生処置によって、生き返る可能性があるからです(と言っても、多くの場合は植物状態であったり、麻痺が残ったりして、元通りになることは少ないですが)。 人の死を判定するときには、医者は「死の三徴候」と呼ばれるものを確認します。「呼吸停止」「心停止」「瞳孔の散大」がそれです。この三つがうと、人は死んだと判定されます。 一般の人は、人の死は医者が死亡時刻を告げたときに起こったと思うでしょうが、実はそうではありません。そもそも、人がいつ死んだかということは、厳密に規定することができないのです。なぜなら、臓器はある瞬間にいっせいに機能を止めるわけではありませんので。 たとえば、死体腎移植は、ドナーが亡くなってから腎臓を取り出して、レシピエントに移植しても十分に機能を果たします。つまり、腎臓は死後もしばらく生きているということです。膵臓や眼球(角膜)なども同様です。 心臓と肺にしても、同時に機能を止めるわけではありません。心臓の動きは心音や心電図、肺は呼吸で確認できますが、心音が聞こえなくなっても、心臓の細胞がすべて機能を停止したわけではないし、呼吸が止まっても、肺の細胞が死に絶えたわけではありません。いずれも徐々に機能を停止し、細胞レベルでは順に死滅していきますから、最後の細胞が死んだときなど、どんな計測器を使っても決定することはできないでしょう』、「人の死を判定するときには、医者は「死の三徴候」と呼ばれるものを確認します。「呼吸停止」「心停止」「瞳孔の散大」がそれです。この三つがうと、人は死んだと判定されます・・・死体腎移植は、ドナーが亡くなってから腎臓を取り出して、レシピエントに移植しても十分に機能を果たします。つまり、腎臓は死後もしばらく生きているということです。膵臓や眼球(角膜)なども同様です・・・心臓の動きは心音や心電図、肺は呼吸で確認できますが、心音が聞こえなくなっても、心臓の細胞がすべて機能を停止したわけではないし、呼吸が止まっても、肺の細胞が死に絶えたわけではありません。いずれも徐々に機能を停止し、細胞レベルでは順に死滅していきますから、最後の細胞が死んだときなど、どんな計測器を使っても決定することはできないでしょう」、なるほど。
・『死のポイント・オブ・ノーリターン  突然死や即死の場合は別として、ふつうの死はまず昏睡状態からはじまります。完全に意識がなくなって、呼びかけにも痛みの刺激にも反応しない状態です。唸り声やうめき声を発していたり、顔を歪めていたりする間は、昏睡とは言いません。 昏睡のときは、エンドルフィンやエンケファリンなど、脳内モルヒネが分泌されますから、本人は心地よい状況にあるなどと言われますが、もちろんこれは仮説で、確かめようがありません。脳内モルヒネは人生最後のお楽しみであり、ほんとうに心地よい状態が用意されているのかもしれませんが、実際はそれほどでもなく、単に死戦期(生から死への移行期)の不安をやわらげるためのおまじないかもしれません。 昏睡状態になれば、いっさいの表情は消えます。意識がないのだから当然です。昏睡に陥ると、間もなく下顎呼吸がはじまります。顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。呼吸中枢の機能低下によるものですから、酸素を吸わせても意味がありません。つまり、これがはじまると、回復の見込みがゼロになるということです。) ほとんど空気を吸っていないように見えるので、はじめて見る人には喘いでいるように感じられるかもしれません。ですが、先に述べたように意識はないので、本人は苦しくない(はずです、確認はできませんが)。この状態になると、蘇生処置をほどこしたところで元にもどることはまずなく、仮にもどったとしてもすぐまた下顎呼吸になります。生き物として寿命を迎えているのですから、抗わずに穏やかに見守るのが、周囲の人間のとるべき態度と言えます。 下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります』、「昏睡状態になれば、いっさいの表情は消えます。意識がないのだから当然です。昏睡に陥ると、間もなく下顎呼吸がはじまります。顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。呼吸中枢の機能低下によるものですから、酸素を吸わせても意味がありません。つまり、これがはじまると、回復の見込みがゼロになるということです・・・下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります」、なるほど。
・『看取りの作法  今では禁止されていますが、私が医学部を卒業したころは、大学病院の研修医がアルバイトで市中病院の当直を行っていました。 その病院で夜に患者さんが亡くなると、アルバイトの研修医が看取ることになります。研修医はヒヨコ医者で、闊な看取りをすると家族を傷つけたり、混乱させたりするので、先輩から看取りの作法を教えられました。夜中に起こされても眠そうな顔をするな、白衣はきちんとボタンを留めろ、だらしない恰好はするな等、基本的なこともありますが、看取りのコツは「慌てず、騒がず、落ち着かず」だと、伝授されました。 「慌てず」というのは、新米だと見破られないためで、「騒がず」というのは、騒ぐと医療ミスを疑われかねないからですが、あまりに落ち着いていると、患者さんを見捨てているように受け取られるので、適度な緊迫感が必要なため、「落ち着かず」ということになります。) もう一つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。 当直の夜、看護師から危篤の連絡を受けて病室に行くと、患者さんはたいてい下顎呼吸になっています。間隔がだんだん間遠になって、最後の息を吐き終わったとき、腕時計で時刻を確認して、「残念ですが、何時何分。ご臨終です。力及びませんで」と、殊勝な顔で一礼します。すると、家族がわっと泣き崩れたりするのですが、この判断が早すぎると、思いがけない最後の一呼吸が起こるのです。すると、家族は「あーっ、まだ生きてる!」と混乱します。 心電図も同じで、徐々に波が乱れ、スパイクの間隔が延びて、やがてフラットになる。そこで早まって臨終を告げると、ピコンと最後の波が現れたりして、家族がまた、「あーっ、まだ……」と叫ぶことになります。 そのあとで、もう一度、時刻を確認し直して、「えー、何時何分……」と告げるほど間の悪いことはありません。ですから、最後の呼吸が終わったと思っても、しばらく待って、ほんとうにもう下顎呼吸が二度と起こらないと確信してから、おもむろに時刻を確認し、臨終を告げるのです。そして、心電図にオマケのスパイクが出てもわからないように、スイッチはすぐに切るべしと教えられました。 すなわち、実際、患者さんは私が告げる時刻より少し前に亡くなっているのです。 ▽死に際して行う“儀式”(アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。 別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。) 具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。 そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです。 これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。 なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。単純に看取って臨終を告げると、あとで「あの病院は何もしてくれなかった」などと言われる危険性があります。それは困るので、無駄かつ当人には残酷とも思える処置をせざるを得ないのです。 「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。 最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。こんな無益で残酷なことを減らすためにも、家族の側がしっかりと死を受け入れる心構えが重要です。死を拒んでばかりいると、ロクなことはないということです』、「心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。 そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです」、なるほど。
・『死には三つの種類がある  ここまで説明したのは、生き物としての死、すなわち生物学上の死についてですが、死にはほかにも二つの種類があります。 それは手続き上の死と、法律上の死です。 手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、すなわち医者が死亡確認をしたことで認められる死です。これまで書いたように、医者の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレることは理解してもらえたと思いますが、それが大きくズレることもあります。 在宅医療をやっていると、たまに、「朝、起きたらおじいさん(またはおばあさん等)の息が止まっていました」などという電話がかかってきます。夜中、寝ている間に亡くなって、気づいたのが朝というケースです。 すぐに患者さん宅に駆けつけますが、死亡診断からって二十四時間以内に診察をしていないと、警察に連絡しなければならず、そうなると検死を受けたあと、場合によっては行政解剖が行われます。当然、遺族には大きな負担となり、警察にも面倒をかけることになります。そんな無用なことを避けるために、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目にペンライトの光を当て、ピクリとも動かない胸に聴診器を当てて、死の三徴候を確認します。そして、時計で時間を確認し、おもむろに、「何時何分、ご臨終を確認しました」と告げるのです。 白々しいことこの上ないですが、こうすれば、診察してから死亡を確認したという体裁になり、警察への連絡をせずにすみます。手続き上、人は医者が死亡を確認するまで生きていると見なされるのです。 事故や災害などで心肺停止状態になった人が、病院に運ばれ、何時間後に死亡が確認されましたなどという報道がありますが、そのタイムラグは、たいてい病院で懸命の蘇生処置を行っている時間です。いろいろやってみたけれどダメでしたというとき、死亡確認が行われ、はじめて手続き上、その人は死んだことになります。しかし、生き物としての実際の死は、心肺停止になったときであると考えるべきです。) 三番目の死は法律上の死です。いわゆる「脳死」。日本でも二〇一〇年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められるようになりました。 脳死とは、脳幹を含む全脳死のことです。脳幹は呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする部位で、ここが死ぬと、どんな蘇生処置をしても生き返ることはありません。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえったなどと紹介されることもありますが、それはそもそも脳死の判定がまちがっているケースがほとんどです。 脳死とよく混同されるのが、「植物状態」です。以前は、「植物人間」などと称されていましたが、それは人権上の配慮に欠けるということで改められました。 植物状態では、大脳は死んでいるから意識はありませんが、脳幹が生きているので、自発呼吸ができます。だから、水と栄養さえ与えると生きられるということで、植物と同じ状態と考えられるわけです』、「生物学上の死についてですが、死にはほかにも二つの種類があります。 それは手続き上の死と、法律上の死です。 手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、すなわち医者が死亡確認をしたことで認められる死です。これまで書いたように、医者の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレることは理解してもらえたと思いますが、それが大きくズレることもあります・・・在宅医療をやっていると、たまに、「朝、起きたらおじいさん(またはおばあさん等)の息が止まっていました」などという電話がかかってきます。夜中、寝ている間に亡くなって、気づいたのが朝というケースです。 すぐに患者さん宅に駆けつけますが、死亡診断からって二十四時間以内に診察をしていないと、警察に連絡しなければならず、そうなると検死を受けたあと、場合によっては行政解剖が行われます。当然、遺族には大きな負担となり、警察にも面倒をかけることになります。そんな無用なことを避けるために、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目にペンライトの光を当て、ピクリとも動かない胸に聴診器を当てて、死の三徴候を確認します。そして、時計で時間を確認し、おもむろに「何時何分、ご臨終を確認しました」と告げるのです。 白々しいことこの上ないですが、こうすれば、診察してから死亡を確認したという体裁になり、警察への連絡をせずにすみます。手続き上、人は医者が死亡を確認するまで生きていると見なされるのです・・・三番目の死は法律上の死です。いわゆる「脳死」。日本でも二〇一〇年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められるようになりました。 脳死とは、脳幹を含む全脳死のことです。脳幹は呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする部位で、ここが死ぬと、どんな蘇生処置をしても生き返ることはありません。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえったなどと紹介されることもありますが、それはそもそも脳死の判定がまちがっているケースがほとんどです」、なるほど。
・『脳死のダブルスタンダード  脳死になっても、人工呼吸をしていると、しばらく心臓は動き続けます。だから、心臓を含む臓器移植が可能となるのです。 そもそも、脳死という無理くりの概念が捻り出されたのは、臓器移植が可能になったからです。心臓移植では、生きている心臓を移植しなければなりません。死体から取った心臓を移植しても動かないからです。しかし、生きている心臓を取り出せば、ドナーは死ぬので殺人になる。ですから、心臓移植では、心臓は生きているが、ドナーは死んでいるという、自然ではあり得ない状況が必要だったのです。) そこであみ出されたのが脳死です。脳死は人の死と定義され、死んでいるのだから心臓を取り出しても殺人にはならないというのが、法律上の解釈です。 しかし、脳死の患者さんは、人工呼吸器をつけているとはいえ、胸は動いているし、身体も温かい。当然、心臓も動いている。あまつさえ、心臓を摘出するときには全身麻酔をかけるのです。死体に麻酔? ほんとうに死んでいるのかという疑問が湧くのは当然でしょう。 ここに脳死に関するダブルスタンダードが発生します。 <この続きは書籍にて!>』、「脳死は人の死と定義され、死んでいるのだから心臓を取り出しても殺人にはならないというのが、法律上の解釈です。 しかし、脳死の患者さんは、人工呼吸器をつけているとはいえ、胸は動いているし、身体も温かい。当然、心臓も動いている。あまつさえ、心臓を摘出するときには全身麻酔をかけるのです。死体に麻酔? ほんとうに死んでいるのかという疑問が湧くのは当然でしょう」、確かに「脳死」は難しい問題だ。

第三に、4月27日付け現代ビジネスが掲載した作家の久坂部 羊氏による「そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき、「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」」を紹介しよう。
・『だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです』、興味深そうだ。
・『救急車を呼ぶべきか否か  どんなときに救急車を呼ぶべきで、どんなときは呼ばないほうがいいのかも、多くの人が迷うことでしょう。 わかりやすいのは、超・高齢者の意識がない状態のときです。この場合は、そのまま静かに見守ってあげるのがベストです。かかりつけ医または、在宅医療の主治医がいれば、連絡して看取りに来てもらいましょう。間に合わなくても大丈夫です。逆に、間に合っても医者にできることはありませんし、命が終わってからでも、医者が死亡確認するまでは、法的には死んでいないことになりますから、死亡診断書も書いてもらえます。 この場合、救急車を呼んでしまうと、悲惨なことになります。超・高齢者が死にしているとき、救急隊員は「どうして救急車なんか呼ぶんだ。このまま逝かせてやったほうがいいのに」と思いつつも、当然、口には出せず、型通り人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしたりしながら、病院に運ばざるを得ません。 運び込まれた病院の医者も、「どうして病院になんか連れてくるんだ。そのまま逝かせてあげろよ」と思いつつも、やはり口には出せず、型通りに蘇生処置をし、運悪く心拍が再開などしたら、気管チューブを挿入し、人工呼吸器につなぎ、肺のX線検査をし、点滴をし、導尿カテーテルを入れと、せざるを得なくなります。 それでまた退院できるくらい元気になればいいですが、超・高齢者の場合はその可能性は低く、仮に復活したとしても、病気や年齢が回復するわけではありませんから、またすぐ同じ状態になるのが関の山です。 冷静に考えれば理解していただけると思いますが、ふだんから心の準備をしていないと、救急車を呼ばない状況に耐えるのがむずかしくなります。だから、つい救急車を呼んでしまう。それは倒れているお年寄りのためではなく、不安に耐えられない家族が自分の安心のために呼んでいるのです。それで、病院に運ばれたお年寄りは、右に述べたようなつらい目に遭わされます。それで最期を迎えたら、せっかく自宅で静かに亡くなりかけていたのに、余計な苦しみを負わされることになります。) それでも病院へ運ばずにはいられないと思う人は、自分が運ばれる側になったときを想像してみてください。家族の安心のために、肋骨が折れる心臓マッサージや、口から形の金具とプラスチックのチューブを突っ込まれ、尿道に管を通されてもいいでしょうか。 超・高齢者の身内がいる人は、最後の孝行のためにも、意識がない状態になったら、救急車は呼ばないと、ふだんからしっかり気持ちを決めておくのがよいと思います。 さらに続きとなる<「上手に楽に老いている人」と「下手に苦しく老いている人」の意外な違い>では、症状が軽いのに「老いの症状に苦しみ続ける」人と、症状が重いのに「気楽に幸せに生きられる人」の実例を紹介しています。 本記事の抜粋元である『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)では、人が死ぬときに起こることや、「死の恐怖」をどうすれば乗り越えられるかといった内容をさらに詳しく解説しています。ぜひ、お手に取ってみてください』、「超・高齢者が死にしているとき、救急隊員は「どうして救急車なんか呼ぶんだ。このまま逝かせてやったほうがいいのに」と思いつつも、当然、口には出せず、型通り人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしたりしながら、病院に運ばざるを得ません。 運び込まれた病院の医者も、「どうして病院になんか連れてくるんだ。そのまま逝かせてあげろよ」と思いつつも、やはり口には出せず、型通りに蘇生処置をし、運悪く心拍が再開などしたら、気管チューブを挿入し、人工呼吸器につなぎ、肺のX線検査をし、点滴をし、導尿カテーテルを入れと、せざるを得なくなります・・・ふだんから心の準備をしていないと、救急車を呼ばない状況に耐えるのがむずかしくなります。だから、つい救急車を呼んでしまう。それは倒れているお年寄りのためではなく、不安に耐えられない家族が自分の安心のために呼んでいるのです。それで、病院に運ばれたお年寄りは、右に述べたようなつらい目に遭わされます。それで最期を迎えたら、せっかく自宅で静かに亡くなりかけていたのに、余計な苦しみを負わされることになります。) それでも病院へ運ばずにはいられないと思う人は、自分が運ばれる側になったときを想像してみてください。家族の安心のために、肋骨が折れる心臓マッサージや、口から形の金具とプラスチックのチューブを突っ込まれ、尿道に管を通されてもいいでしょうか・・・超・高齢者の身内がいる人は、最後の孝行のためにも、意識がない状態になったら、救急車は呼ばないと、ふだんからしっかり気持ちを決めておくのがよいと思います」、その通りで、大いに気をつけたい。
タグ:終末期 (その9)(せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」、人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終 最後の一息を吐いて…、そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき 「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」、突然 看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」) 現代ビジネス 久坂部 羊氏による「せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」」 久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書) 「寿命に従ってせっかく静かに亡くなっていたKさんの口に、そんな器具を突っ込み、のどに太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをして、心臓を無理やり動かしてまで、家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものでしょうか」、確かに逆立ちした論理だ。 「実際、死に対して医療は無力なのに、世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ないのです。それが患者さん本人にとって、どれほどの害を与えていることか。 死を受け入れたくない気持ちはわかりますが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることは、とてもむずかしくなります」、その通りだ。 久坂部 羊氏による「人はどう死ぬのか…医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終 最後の一息を吐いて…」 「一般の人は平常心で死を見る機会が少ないので、死を大袈裟に捉え、死者に過剰に反応しがちではないでしょうか。 死が人生の重大事であることはまちがいありませんが、心にゆとりを持って見れば、特別な不幸でも不運でもないことがわかります。だれにでも起こることで、恐ろしいことでも、いやなことでもない。ごく当たり前のことだと感じられる。その感覚を理解してもらうために、死に直面していない今、死の実際をイメージしていただきたいと思います」、その通りだ。 「人の死を判定するときには、医者は「死の三徴候」と呼ばれるものを確認します。「呼吸停止」「心停止」「瞳孔の散大」がそれです。この三つがうと、人は死んだと判定されます・・・死体腎移植は、ドナーが亡くなってから腎臓を取り出して、レシピエントに移植しても十分に機能を果たします。つまり、腎臓は死後もしばらく生きているということです。膵臓や眼球(角膜)なども同様です・・・ 心臓の動きは心音や心電図、肺は呼吸で確認できますが、心音が聞こえなくなっても、心臓の細胞がすべて機能を停止したわけではないし、呼吸が止まっても、肺の細胞が死に絶えたわけではありません。いずれも徐々に機能を停止し、細胞レベルでは順に死滅していきますから、最後の細胞が死んだときなど、どんな計測器を使っても決定することはできないでしょう」、なるほど。 「昏睡状態になれば、いっさいの表情は消えます。意識がないのだから当然です。昏睡に陥ると、間もなく下顎呼吸がはじまります。顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。呼吸中枢の機能低下によるものですから、酸素を吸わせても意味がありません。つまり、これがはじまると、回復の見込みがゼロになるということです・・・ 下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります」、なるほど。 「心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。 そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。 チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです」、なるほど。 「生物学上の死についてですが、死にはほかにも二つの種類があります。 それは手続き上の死と、法律上の死です。 手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、すなわち医者が死亡確認をしたことで認められる死です。これまで書いたように、医者の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレることは理解してもらえたと思いますが、それが大きくズレることもあります・・・在宅医療をやっていると、たまに、「朝、起きたらおじいさん(またはおばあさん等)の息が止まっていました」などという電話がかかってきます。 夜中、寝ている間に亡くなって、気づいたのが朝というケースです。 すぐに患者さん宅に駆けつけますが、死亡診断からって二十四時間以内に診察をしていないと、警察に連絡しなければならず、そうなると検死を受けたあと、場合によっては行政解剖が行われます。当然、遺族には大きな負担となり、警察にも面倒をかけることになります。そんな無用なことを避けるために、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目にペンライトの光を当て、ピクリとも動かない胸に聴診器を当てて、死の三徴候を確認します。そして、時計で時間を確認 し、おもむろに「何時何分、ご臨終を確認しました」と告げるのです。 白々しいことこの上ないですが、こうすれば、診察してから死亡を確認したという体裁になり、警察への連絡をせずにすみます。手続き上、人は医者が死亡を確認するまで生きていると見なされるのです・・・三番目の死は法律上の死です。いわゆる「脳死」。日本でも二〇一〇年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められるようになりました。 脳死とは、脳幹を含む全脳死のことです。脳幹は呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする部位で、ここが死ぬと、どんな 蘇生処置をしても生き返ることはありません。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえったなどと紹介されることもありますが、それはそもそも脳死の判定がまちがっているケースがほとんどです」、なるほど。 「脳死は人の死と定義され、死んでいるのだから心臓を取り出しても殺人にはならないというのが、法律上の解釈です。 しかし、脳死の患者さんは、人工呼吸器をつけているとはいえ、胸は動いているし、身体も温かい。当然、心臓も動いている。あまつさえ、心臓を摘出するときには全身麻酔をかけるのです。死体に麻酔? ほんとうに死んでいるのかという疑問が湧くのは当然でしょう」、確かに「脳死」は難しい問題だ。 久坂部 羊氏による「そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき、「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」」 「超・高齢者が死にしているとき、救急隊員は「どうして救急車なんか呼ぶんだ。このまま逝かせてやったほうがいいのに」と思いつつも、当然、口には出せず、型通り人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしたりしながら、病院に運ばざるを得ません。 運び込まれた病院の医者も、「どうして病院になんか連れてくるんだ。そのまま逝かせてあげろよ」と思いつつも、やはり口には出せず、型通りに蘇生処置をし、運悪く心拍が再開などしたら、気管チューブを挿入し、人工呼吸器につなぎ、肺のX線検査をし、点滴をし、導尿カテーテルを入れと、せざるを得な ります・・・ふだんから心の準備をしていないと、救急車を呼ばない状況に耐えるのがむずかしくなります。だから、つい救急車を呼んでしまう。それは倒れているお年寄りのためではなく、不安に耐えられない家族が自分の安心のために呼んでいるのです。それで、病院に運ばれたお年寄りは、右に述べたようなつらい目に遭わされます。それで最期を迎えたら、せっかく自宅で静かに亡くなりかけていたのに、余計な苦しみを負わされることになります。) それでも病院へ運ばずにはいられないと思う人は、自分が運ばれる側になったときを想像してみてください。家族の安心のために、肋骨が折れる心臓マッサージや、口から形の金具とプラスチックのチューブを突っ込まれ、尿道に管を通されてもいいでしょうか・・・超・高齢者の身内がいる人は、最後の孝行のためにも、意識がない状態になったら、救急車は呼ばないと、ふだんからしっかり気持ちを決めておくのがよいと思います」、その通りで、大いに気をつけたい。
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