原発問題(その23)(NHKメルトダウン取材班4題:「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相、「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」、「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」、1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」) [国内政治]
原発問題については、本年2月27日に取上げた。今日は、(その23)(NHKメルトダウン取材班4題:「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相、「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」、「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」、1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」)である。
先ずは、本年2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124581
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『電源喪失の真相 先例のない危機のとば口となった巨大津波。それは、いったいどのように福島第一原発の電源を奪っていったのだろうか。 事故から7年近くが経った2017年12月、東京電力は未解明事項の5回目の検証結果を明らかにし、中央制御室で目撃された1号機から2号機へと、実に4分の時間差を経て照明や計器が消えていった不思議な現象に着目して、次のように説明した。 原発沖合の波高計から、原発を襲った津波は、巨大津波の第2波の3つある波のうちの2番目の波で、その高さは13メートルあまりあった。津波は、高さ5・5メートルの防波堤をやすやすと乗り越え、海岸に平行して高さ10メートルの敷地に建てられた1号機から4号機のタービン建屋に、大きな時間差なく到達した。この時刻は、午後3時36分頃。このとき、1号機のタービン建屋の海側にある大物搬入口は、いつもは閉じられている防護扉が作業のため開けっ放しで、シャッターだけが閉められていた。シャッターは、津波がもつ50トンの強い水圧に耐え切れず、ひしゃげて押しつぶされ、大量の海水が建屋内に流れ込む。シャッターの先には、非常用発電機の電源盤が2系統仲良く並んでいた。海水は、2メートルある電源盤のほぼ真ん中の高さを走りぬけた。電源盤は、家庭でいうとブレーカーのようなものである。海水を浴びた電源盤は、たちどころにショートし、繋がっていた地下1階の非常用発電機は、家庭でブレーカーが飛ぶと電化製品が停電するように、その動きを止めた。これが午後3時37分頃のことだった。 一方、2号機のタービン建屋1階の海側には、給気ルーバと呼ばれる非常用発電機の換気口が、ぽっかりと口を開けていた。午後3時36分頃、大量の海水が給気ルーバから一気に地下1階へと流れ込んだ。2号機の非常用発電機の電源盤は、地下1階の電気品室にあった。地下1階に流れ込んだ海水は、電気品室の仕切り扉を乗り越えて、徐々に電気品室に溜まっていき、電源盤をショートさせた。繋がっていた非常用発電機が停止した時間は、午後3時41分頃。こうして、1号機から2号機は4分の時間差をもって、電源を失っていった。これが、津波が押し寄せる様子をとらえた連続写真や、電源盤と非常用発電機のデータを分析して打ち立てた東京電力の「説明」だった。 ここには、津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓がこめられている』、「津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓」、なるほど。
・『ところが、専門家らと福島第一原発の事故検証を続けている新潟県技術委員会は、事故から10年近くが経った2020年10月に公表した報告書で、東京電力の「説明」に疑義を唱えている。その理由は、津波の原発敷地への到達時間が、東京電力の言う午後3時36分台ではなく、もっと遅かったのではないかという点にあった。津波の到達時間については、当初から国会事故調査委員会が津波の連続写真の分析から、原発を襲った津波は、東京電力の言う巨大津波第2波の2番目の波ではなく、その後の3番目の波であり、その到達時間は、午後3時38分台だったと主張している。すると、午後3時37分とされる電源喪失の原因は、原発敷地を乗り越えた津波が電源盤を被水させたためという東京電力の「説明」は崩れてしまう。 新潟県技術委員会は、この説をベースにしながら、電源喪失は、原発の地下に張り巡らされた循環水系や冷却系の配管のどこかが地震で損傷し、そこから津波が流入し、地下1階の非常用発電機が浸水したことによって起きた可能性が否定できないと指摘している。1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる。ただし、この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています』、「1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる・・・この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである」、こんな重大なことが今だに「謎に包まれたまま」というのは初めて知った。
次に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124582
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『東京・内幸町 東京電力本店 福島第一原発から南に230キロ。東京・内幸町の東京電力本店も激しい揺れに襲われていた。 午後2時46分、原子力部門ナンバー2の常務の小森明生(こもり あきお)(58歳)は、会議室で打ち合わせをしていた。波を打つような激しい上下動に見舞われた。震度5強だった。小森は、揺れが収まるのを待って、会議室を飛び出した。東京電力は、電力を供給している地域に震度6弱以上の地震があったとき、2階の緊急時対策室に対策本部を設置することにしている。フロアのエレベーターは、揺れを感知してすべて止まっていた。小森は急いで階段で2階まで駆け下りた。緊急時対策室は、200人を収容できるスペースに、原発や火力発電所のほか各支店の対策本部を結ぶテレビ会議システムを備えていた。小森が対策室に入ったときには、すでにテレビ会議は立ち上がり、大型のディスプレイ画面に各地の対策本部の様子が映し出されていた。 金曜日の午後とあって、本店の緊急要員に指定されている社員が続々と集まってきた。しかし、対策本部長を務めるはずの社長の清水正孝(しみず まさたか)(66歳)はこの日、不在だった。電気事業連合会の会長として、夫人を伴って奈良県の平城宮跡を視察していたのだ。会長の勝俣恒久(かつまた つねひさ)(70歳)も副社長の一人と中国の北京に出張中だった。 原子力部門トップの副社長の武藤栄(むとう さかえ)(60歳)がほどなく駆け込んできた。武藤は東京大学で原子力工学を学び、入社後にカリフォルニア大学にも留学した原子炉と安全解析の専門家で、原発の補修・建設畑が長かった小森にとっては、緊急時に頼りになる存在だった。) 小森と武藤は、原発の状況を確認し合った。 「福島第一と第二はどうなっている?」 「福島第一、スクラム成功」 「福島第二もスクラムしています」 震源に近い福島第一原発は震度6強だった。福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された。 「柏崎刈羽は?」 100万キロワットを超える大型の原子炉7基が並ぶ新潟県の柏崎刈羽原発は、震度5弱で、稼働していた4基の原子炉は運転を続けていた。小森も武藤も対策室のメンバーもほっとしていた。地震で原子炉がスクラムし、停止するのはみな何度か経験している。あとは原子炉を手順どおり冷やしていけばいい。 午後3時を過ぎた頃だっただろうか』、「福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された」、なるほど。
・『「外部電源を失っています」 ひやりとさせる報告がきた。福島第一原発からだった。外から供給を受けていた電気が途絶えたという連絡だった。対策室がざわついた。しかし、小森は慌てていなかった。その福島第一原発の所長を小森は2年にわたって務めていた。外部電源の喪失は事故対応マニュアルに記してある。外からの電気が絶たれても、発電所には軽油で動く非常用発電機とバッテリーも8時間もつ機器が備えられている。 テレビ会議の画面では、8ヵ月前に引き継ぎをした後任の吉田が、そうしたバックアップの電源が所定どおり動き始めていることを報告していた。対策室の空気が和らいできた。 テレビ会議を通して、福島第一原発だけでなく、福島第二原発や柏崎刈羽原発から現状や対処の方法について、報告や指示を求める連絡が次から次に飛び込んできた。対策室はごった返していた。 停止した原子炉内の温度を100℃以下に冷やす「冷温停止」に向けて、みな、担当の仕事をあわただしくこなしていた。 途絶えることのない報告を受けていた小森のもとに、武藤が対策本部から離れるという連絡が入ってきた。東京電力は、中越沖地震の原発火災の際、地元への説明が不十分だったと厳しい批判を受けて、大きな地震発生時は、原子力・立地本部長自らが原発に赴き、地元支援にあたることにしていた。) 武藤は、福島第一原発から南西に5キロ離れた大熊町役場近くに建てられたオフサイトセンターと呼ばれる国や福島県など関係機関が集まって避難対策を協議する拠点に行くことになった。 武藤が小森に近寄り「よろしく頼みます」と短く声をかけ、部下3人と一緒にあわただしく対策室を後にしていった。午後3時半、武藤は本店を出発し、新木場のヘリポートに向かった。 頼りになるはずの武藤がいなくなり、会長も社長も不在の対策室のリーダーは、名実ともに小森となった。責任が小森の肩に重くのしかかってきた。その10分後の午後3時42分のことだった。 「10条の発令をお願いします」 吉田の声だった。本店対策室の緊張が一気に高まった。福島第一原発の免震棟を映し出すディスプレイ画面から円卓を行き交う「SBO!」という言葉が何度も漏れ聞こえた。非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。 しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした。とにかく電源確保だ。そのためには電源車だった。午後4時10分、本店の配電部門から東京電力全店の配電担当者に、電源車を確保するよう一斉に指示が出た。東京電力は各支店に、6900ボルト用の高圧電源車と、100ボルト用の低圧電源車を多数所有していた。20分もすると、配電担当者のもとに、高圧電源車48台、低圧電源車79台が準備できると報告があがった。電源車は、用途によってボルト数や仕様が様々だった。しかし、今は、何より早く到着できるかが問題だった。配電担当者は、どの電源車もすぐに出発するよう指示を出した。福島に近い東北電力にも電源車の救援を依頼した。全国各地から手当たり次第に電源車が福島第一原発に向かい始めた。 ちょうどこの頃だった。午後4時45分、本店対策室の緊迫度をさらに高める状況になった。吉田がテレビ会議で原災法15条を通報したのだ。福島第一原発1号機と2号機の中央制御室では、原子炉の冷却が行われているかどうか確認できないというのだ。 送られてきた15条通報のファックスを手に、小森は言葉を失った。「これはえらいことになるかもしれない」と思った。 一方、新木場に向かっていた武藤は、車の中で電源喪失の連絡を受けた。とにかく一刻も早く福島に行かねばならない。焦る気持ちと裏腹に、普段は20分で行く道が大渋滞となり、車はまったく前に進まなくなった。ついに武藤らは、ヘリポートまで数キロというところで、車を降りて歩いて行こうとした。ところが、歩き始めたら液状化のため、膝まで泥に浸かり、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまった。困り果てた武藤は60歳にして生まれて初めてヒッチハイクを試みた。緊急時においても親切な人はいるもので、武藤らはヒッチハイクを2回重ねて、泥だらけになって新木場にたどり着いた。待ちかねていたヘリコプターに乗り込んで福島へと飛び立ち、午後6時過ぎ福島第二原発のヘリポートに降り立った。あたりはすっかり薄暗くなっていた。 こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていったのである。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。 しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした・・・こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていった」、なるほど。
第三に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124452
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『錯綜する免震棟 中央制御室の異変は、免震棟にもすぐに伝えられていた。 「SBO! DGトリップ! 非常用発電機が落ちた」連絡を受けた発電班長の大声が円卓に響いた。 本部長席の吉田が思わず「えっ?」と声を出した。非常用発電機がやられた? 握りしめていた頼みの綱が唐突に切れてしまったようなものだった。 「大変なことになった」吉田は頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。非常用発電機を生き返らせられないのか。それがなくなったらどうする。イソコンやRCICがあれば、とりあえず、数時間は冷却できる。けれど、次はどうする? しかし、不安がまとわりついた自らの思考を、部下に向けて口には出さなかった。所長の仕事はまず対外的な連絡だった。 吉田は、テレビ会議のマイクをとった。「10条の発令をお願いします」 午後3時42分。原子力災害対策特別措置法にもとづく特定事象、全交流電源喪失が通報された瞬間だった。230キロ先にいる大型ディスプレイに映る東京本店の幹部の顔に驚きが走った。免震棟の円卓を囲む幹部にも緊張と当惑が入り混じった表情が浮かんだ。吉田の隣に座るユニット所長の福良は、「訓練でしか起きたことのない10条がまさか現実になるとは」と、どこか半信半疑の心地だった。 しかし3号と4号もSBOだと報告されていた。 10条通報はまぎれもない現実だった。なぜだ。非常用発電機に何が起きたのか。) このとき、まだ吉田や免震棟幹部の頭の中には、非常用発電機の停止と津波を結びつける回路はなかった。免震棟には窓がなく、外の様子をうかがい知ることはできなかった。免震棟の壁面には、テレビ会議のほかに、NHKや民放テレビ局の放送を6分割で映し出す大型ディスプレイがあった。その画面は、東北地方から関東沿岸まで赤い線がチカチカと光り、大津波警報が発令されていることを告げていた。しかし、この時点で、福島県沿岸の津波の高さは3メートルから5メートルと報じられていた。10メートルを超える津波が原発を襲ったとは、想像がつかなかったのである。 何とか電源を確保しなければならない。ほどなく吉田がテレビ会議で本店に向かって声をあげた。 「電源車を持ってきてください。どこからでもいいから」 このとき、福島第一原発には、1台も電源車がなかった。4年前の中越沖地震で柏崎刈羽原発3号機の変圧器が火を吹いた際、鎮火に2時間もかかったという批判を受けて、福島第一原発にも3台の消防車が配備された。しかし、この時点で、東京電力には、電源喪失という危機に思いを馳せて、電源車を原発構内に配備するという発想はなかったのである。 本店からは、すぐに電源車を手配するという回答が返ってきた。 午後4時を過ぎた頃だった。にわかには信じられない話が円卓に飛び込んできた。 原発敷地の海岸沿いにあった重油タンクが根こそぎ津波で流されたというのだ。さらに、外の避難場所にいた何人もが大きな津波が来たのを見たと報告してきた。 この段階で初めて、吉田は、非常用発電機が動きを止めた原因は、津波ではないかと思い始めた。 「1号、2号の計器が見えないそうです」 発電班長が中央制御室からの新たな報告を伝えてきた。 中央制御室の計器類の電源は、交流の非常用発電機ではなく、直流のバッテリーだった。津波で非常用発電機だけでなく、同じ地下1階にあるバッテリーも水をかぶって動かなくなったのではないか。吉田や幹部は、信じたくない現実に向き合わざるを得なかった。 電源を担当する復旧班長の稲垣武之(いながき たけゆき)(47歳)は、同僚の第二復旧班長と思わず顔を見合わせていた。稲垣は、大学院で機械工学を専攻し、原発の補修畑を歩んできたキャリア組だった。一方、第二復旧班長は、東電学園を卒業後福島第一原発に長く勤め、原発の隅々までよく知っている56歳の叩き上げの技術者だった。奪われた電源を取り戻さなければならない。2人の肩に困難で重い任務がずっしりとのしかかってきた。 吉田は、電源をなんとかするよう2人に指示した。ただ、原発の補修畑を長く歩み機械屋を自負する自分でもどうすればいいのか、良い知恵は浮かんでこなかった。) 電源の復旧だけではない。計器が見えなければ、中央制御室の運転員はどうするのか。原発の運転操作はどうすべきなのか。改めて大変なことになったと吉田は思った。しかし、原発の操作に関しては、運転員たちのほうがプロだ。箸の上げ下ろしまで、ああやれ、こうやれと部下に指示するのは、トップの所長がするようなことではない。運転操作は、中央制御室の運転員や発電班長ら信頼できる現場に任せておくべきものだ。リーダーたる所長のやるべきことは、全体を見据えた指揮であり、今は状況把握と対外連絡と考えていた。 計器が見えないことは、核燃料が冷却されているかどうかわからないことを意味した。それは、全交流電源喪失よりさらに一段高い危機だった。 吉田はテレビ会議に映る本店に向かって声をあげた。 「原災法15条です。15条の通報をお願いします」 午後4時45分。原子力緊急事態にあたる原子力災害対策特別措置法15条が通報された。 本店の幹部が居並ぶテレビ会議の映像からも明らかな動揺が伝わってきた。 原発はスクラムが成功して止まったとは言え、300℃あった核燃料は強い熱を帯びている。その核燃料に水を注ぐことで熱を徐々に冷まし、100℃まで下げる作業が続いていたのだ。その注水が止まったとなると、原子炉温度は、熱を帯びた核燃料によって、再び上昇し始める。その行く末は……。 ただ、この時点で、吉田は、計器が見えなくなったことで、原子炉が冷却されているかわからなくなったが、冷却は続いていると考えていた。1号機はイソコン、2号機はRCICが動いていると思っていたからだ。 ほどなく円卓に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていた。地下1階にバッテリーがある他の号機より高い位置にあったことが幸いして、津波の被害を免れたのだった。3号機の中央制御室は、バッテリーを使ってRCICを手動で起動させ、原子炉への注水を続けていた。 2号機からは、電源が失われる直前にRCICを手動で起動させたと連絡を受けていた。RCICは、起動するときは電源が必要だが、後は蒸気の力で動き続ける。蒸気の流れを調整する機器を動かすバッテリーが途絶えた今、不安はあったが、動き続けているのではないか。吉田はそう考えていた。 そして、1号機のイソコン。一度起動すると、電気の力を使わなくても、蒸気の力で循環して動く仕組みを持つ。バッテリーがなくても、動き続けるはずだ。「イソコンは動いている」この吉田の思い込みが、後の事故対応を大きく左右することになる。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「吉田は、計器が見えなくなったことで、原子炉が冷却されているかわからなくなったが、冷却は続いていると考えていた。1号機はイソコン、2号機はRCICが動いていると思っていたからだ。 ほどなく円卓に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていた。地下1階にバッテリーがある他の号機より高い位置にあったことが幸いして、津波の被害を免れたのだった。3号機の中央制御室は、バッテリーを使ってRCICを手動で起動させ、原子炉への注水を続けていた」、なるほど。
第四に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124773
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『3・11 そのとき、吉田は 1号機爆発まで24時間50分 窓の外の太平洋に灰色の雲が垂れ込めていた。 2011年3月11日午後2時半すぎ。福島第一原子力発電所の事務本館2階にある所長室で、吉田昌郎((*)56歳 *年齢・肩書はすべて当時のもの)は、机に広げた書類に目を走らせながら、午後3時から始まる会議を待っていた。会議は、原子力部門から他部署に出向している部下たちの報告を受け、部署を超えた交流の成果について話し合うものだった。きょうは金曜日。会議の後には懇親会も開かれる。久しぶりに会う顔なじみの部下と杯を傾け、週末は休めるはずだった。 福島第一原発は、福島県浜通りの太平洋に面した広大な敷地に、6つの原子炉を有していた。1967年にアメリカGE社によって建設が開始され、東京電力が運転する初の原発となった1号機。国内メーカー各社が国産の技術を開発し建設にあたった2号機から6号機。この日、4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた。構内では、東京電力や協力会社の社員がそれぞれのマニュアルに従って、規則正しく作業にあたっていた。原発はいつものような週末を迎えようとしていた。 午後2時46分のことだった。吉田は所長室がかすかに揺れ始めるのを感じた。あっ地震だ。反射的に立ち上がった。揺れは次第に大きくなり、立っていられなくなるほどの強烈な上下動になった。これは大きい。がちゃという金属音が聞こえ、テレビがひっくり返った。吉田は机の下にもぐろうとしたが、揺れが激しく185センチほどある長身を思うように動かすことができず、机にしがみついているのがやっとだった。 三陸沖深さ24キロを震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が原発を襲った瞬間だった。震源に近く最も揺れが激しかった宮城県栗原市では最大震度7。震源から180キロ離れた福島第一原発は、震度6強を観測した。 5分は続いたと感じられた長い揺れは、実際には3分後にようやく収まった。 吉田は所長室を飛び出した。目の前に広がる総務班の部屋は、本棚が倒れ、至る所に書類が散乱していた。天井の化粧板がほぼすべて落下し、白い煙のようなほこりがあたり一帯にもうもうと漂っていた。数人の総務班の部下が目に入り、吉田は思わず「どうだっ」と大声を出した。「みんな避難しています」比較的冷静な声が返ってきた。ちょうど1週間前に、避難訓練を行ったばかりだった。吉田は残っていた総務班員と一緒に、1週間前に確認した避難通路を通って、避難場所に定められていた事務本館の西にある駐車場に向かった。ところが、避難通路の途中まで来ると、舞い上がっていたほこりを煙と感知したのか、火災は起きていないのに防火シャッターが下りていて、行く手を阻まれてしまった。何事も訓練通りにはいかない。吉田と部下は、遠回りをして階段を下り、他の所員よりやや遅れて避難場所の駐車場にたどり着いた。駐車場には、すでに大勢の東京電力の社員や協力会社の社員が集まっていた。吉田の目には、ざっと700~800人は集まっていると映った。4号機から6号機が定期検査を行っているため、構内には、作業にあたるメーカーの社員も含めいつもより多い6350人もの人が働いていた。その一人一人の安全が、リーダーである吉田の肩に重くのしかかっていた。この日は、日中になっても気温が10度に届かず、どんよりした雲から小雪もちらつき始めた。寒さに震えている女性社員もいた。吉田は、すぐにグループマネージャーと呼ばれる課長級の社員に指示を出した。「グループごとに安否確認して報告しろ」まず、安否確認であり、何より所員の安全だと考えていた。駐車場では総務班長がトラックの荷台に立ち、拡声器を手にしてグループごとに安否を確認するよう叫んでいた。 吉田は足早に避難場所のすぐ南に建つ免震重要棟に向かった。 免震棟は、8ヵ月前に完成したばかりだった。4年前の2007年7月に起きた新潟県中越沖地震で柏(かしわ)崎(ざき)刈羽(かり わ)原発の事務棟が破損し、対策本部の機能を十分果たせなかった教訓を受けて建設されたものだった。その名のとおり震度7の地震に耐えられる免震構造で、放射性物質を除去する高性能のフィルター付きの換気装置やガスタービンによる大型の自家発電機を完備していた。 小さな体育館ほどある550平方メートルの2階フロアには、25人が座れる楕円形の円卓があり、その円卓を取り囲むように、発電班、復旧班、医療班、通報班など12班の緊急対応の担当チーム用の大型の机が配置されている。緊急時には406人が集まり、事故対応にあたることになっていた。 地震から15分が経った午後3時すぎ、吉田が円卓中央にある本部長席に駆け上がってきた。すでに到着していた発電班長が緊張した面持ちで指示を飛ばしていた。「浮き足立たないで落ち着いて確認しろ」吉田はまず言った。「余震があるかもしれないから、その注意はちゃんとしておけ」と念を押した。 円卓に近い壁面には、200インチある大型プラズマディスプレイ画面が光っていた。緊急時に各原発と本店を結ぶテレビ会議システムだった。東京電力の鉄塔の送電網を走る光ケーブル回線で結ばれたこのシステムは、前年6月に画面を鮮明なハイビジョンテレビに更新し、操作も簡便になっていた。激しい揺れで各社の電話回線が不通になったり、輻輳(ふく そう)したりする中で、中越沖地震で耐震対策を強化したこともあって、テレビ会議システムは支障なく立ち上がっていた。6分割の画面には、本店の緊急時対策室が映し出されていた。本店は「大丈夫か?」「安否確認はどうだ?」とさかんに聞いてきていた。遠く離れた大勢の関係者をリアルタイムに結ぶ、時代を先取りしたこのシステムが、この後の事故対応に微妙な影響を与えていく。 吉田のもとには、各グループから次々と安否確認の報告があがってきた。幸い大きなけが人はなく、最大の心配事がひとまずなくなった。吉田は胸を撫で下ろした。右隣には、1号機から4号機を統括するユニット所長の福良昌敏(ふくら まさとし)(53歳)が座った。福良は吉田の右腕として、福島第一原発の運転指揮にあたってきた幹部だった。 「1号、2号、3号ともスクラムしました」発電班長が報告した。 円卓近くには、ホワイトボードが引っ張り出され、1号機から6号機までの状態が書き込まれた。1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった。原発は、大きな揺れを感知すると制御棒が自動的に原子炉の中に入って、核分裂反応を止める仕組みになっている。運転中だった3つの原子炉は想定通りスクラムし、止まったのだ。「大丈夫だ」吉田はそう思った。 「DG起動しています」発電班長が続けて報告した。吉田は即座に「外部電源がやられたのか」と思った。DGとは、Diesel Generator、軽油で動く非常用のディーゼル発電機のことだった。皮肉なことだが、原発は、自分を動かす電気を外から送電線でもらう仕組みになっている。地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた。 <職員も初めて聞いた…「東日本大震災」発生直後、福島第一原発で「ゴー」という轟音が響き渡ったワケ>の記事に続きます。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた」、「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止」していたのは不幸中の幸いだった。「1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった・・・地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた」、この時点ではまだ最悪の状態に追い込まれたことが認識できなかったようだ。
先ずは、本年2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124581
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『電源喪失の真相 先例のない危機のとば口となった巨大津波。それは、いったいどのように福島第一原発の電源を奪っていったのだろうか。 事故から7年近くが経った2017年12月、東京電力は未解明事項の5回目の検証結果を明らかにし、中央制御室で目撃された1号機から2号機へと、実に4分の時間差を経て照明や計器が消えていった不思議な現象に着目して、次のように説明した。 原発沖合の波高計から、原発を襲った津波は、巨大津波の第2波の3つある波のうちの2番目の波で、その高さは13メートルあまりあった。津波は、高さ5・5メートルの防波堤をやすやすと乗り越え、海岸に平行して高さ10メートルの敷地に建てられた1号機から4号機のタービン建屋に、大きな時間差なく到達した。この時刻は、午後3時36分頃。このとき、1号機のタービン建屋の海側にある大物搬入口は、いつもは閉じられている防護扉が作業のため開けっ放しで、シャッターだけが閉められていた。シャッターは、津波がもつ50トンの強い水圧に耐え切れず、ひしゃげて押しつぶされ、大量の海水が建屋内に流れ込む。シャッターの先には、非常用発電機の電源盤が2系統仲良く並んでいた。海水は、2メートルある電源盤のほぼ真ん中の高さを走りぬけた。電源盤は、家庭でいうとブレーカーのようなものである。海水を浴びた電源盤は、たちどころにショートし、繋がっていた地下1階の非常用発電機は、家庭でブレーカーが飛ぶと電化製品が停電するように、その動きを止めた。これが午後3時37分頃のことだった。 一方、2号機のタービン建屋1階の海側には、給気ルーバと呼ばれる非常用発電機の換気口が、ぽっかりと口を開けていた。午後3時36分頃、大量の海水が給気ルーバから一気に地下1階へと流れ込んだ。2号機の非常用発電機の電源盤は、地下1階の電気品室にあった。地下1階に流れ込んだ海水は、電気品室の仕切り扉を乗り越えて、徐々に電気品室に溜まっていき、電源盤をショートさせた。繋がっていた非常用発電機が停止した時間は、午後3時41分頃。こうして、1号機から2号機は4分の時間差をもって、電源を失っていった。これが、津波が押し寄せる様子をとらえた連続写真や、電源盤と非常用発電機のデータを分析して打ち立てた東京電力の「説明」だった。 ここには、津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓がこめられている』、「津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓」、なるほど。
・『ところが、専門家らと福島第一原発の事故検証を続けている新潟県技術委員会は、事故から10年近くが経った2020年10月に公表した報告書で、東京電力の「説明」に疑義を唱えている。その理由は、津波の原発敷地への到達時間が、東京電力の言う午後3時36分台ではなく、もっと遅かったのではないかという点にあった。津波の到達時間については、当初から国会事故調査委員会が津波の連続写真の分析から、原発を襲った津波は、東京電力の言う巨大津波第2波の2番目の波ではなく、その後の3番目の波であり、その到達時間は、午後3時38分台だったと主張している。すると、午後3時37分とされる電源喪失の原因は、原発敷地を乗り越えた津波が電源盤を被水させたためという東京電力の「説明」は崩れてしまう。 新潟県技術委員会は、この説をベースにしながら、電源喪失は、原発の地下に張り巡らされた循環水系や冷却系の配管のどこかが地震で損傷し、そこから津波が流入し、地下1階の非常用発電機が浸水したことによって起きた可能性が否定できないと指摘している。1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる。ただし、この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています』、「1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる・・・この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである」、こんな重大なことが今だに「謎に包まれたまま」というのは初めて知った。
次に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124582
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『東京・内幸町 東京電力本店 福島第一原発から南に230キロ。東京・内幸町の東京電力本店も激しい揺れに襲われていた。 午後2時46分、原子力部門ナンバー2の常務の小森明生(こもり あきお)(58歳)は、会議室で打ち合わせをしていた。波を打つような激しい上下動に見舞われた。震度5強だった。小森は、揺れが収まるのを待って、会議室を飛び出した。東京電力は、電力を供給している地域に震度6弱以上の地震があったとき、2階の緊急時対策室に対策本部を設置することにしている。フロアのエレベーターは、揺れを感知してすべて止まっていた。小森は急いで階段で2階まで駆け下りた。緊急時対策室は、200人を収容できるスペースに、原発や火力発電所のほか各支店の対策本部を結ぶテレビ会議システムを備えていた。小森が対策室に入ったときには、すでにテレビ会議は立ち上がり、大型のディスプレイ画面に各地の対策本部の様子が映し出されていた。 金曜日の午後とあって、本店の緊急要員に指定されている社員が続々と集まってきた。しかし、対策本部長を務めるはずの社長の清水正孝(しみず まさたか)(66歳)はこの日、不在だった。電気事業連合会の会長として、夫人を伴って奈良県の平城宮跡を視察していたのだ。会長の勝俣恒久(かつまた つねひさ)(70歳)も副社長の一人と中国の北京に出張中だった。 原子力部門トップの副社長の武藤栄(むとう さかえ)(60歳)がほどなく駆け込んできた。武藤は東京大学で原子力工学を学び、入社後にカリフォルニア大学にも留学した原子炉と安全解析の専門家で、原発の補修・建設畑が長かった小森にとっては、緊急時に頼りになる存在だった。) 小森と武藤は、原発の状況を確認し合った。 「福島第一と第二はどうなっている?」 「福島第一、スクラム成功」 「福島第二もスクラムしています」 震源に近い福島第一原発は震度6強だった。福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された。 「柏崎刈羽は?」 100万キロワットを超える大型の原子炉7基が並ぶ新潟県の柏崎刈羽原発は、震度5弱で、稼働していた4基の原子炉は運転を続けていた。小森も武藤も対策室のメンバーもほっとしていた。地震で原子炉がスクラムし、停止するのはみな何度か経験している。あとは原子炉を手順どおり冷やしていけばいい。 午後3時を過ぎた頃だっただろうか』、「福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された」、なるほど。
・『「外部電源を失っています」 ひやりとさせる報告がきた。福島第一原発からだった。外から供給を受けていた電気が途絶えたという連絡だった。対策室がざわついた。しかし、小森は慌てていなかった。その福島第一原発の所長を小森は2年にわたって務めていた。外部電源の喪失は事故対応マニュアルに記してある。外からの電気が絶たれても、発電所には軽油で動く非常用発電機とバッテリーも8時間もつ機器が備えられている。 テレビ会議の画面では、8ヵ月前に引き継ぎをした後任の吉田が、そうしたバックアップの電源が所定どおり動き始めていることを報告していた。対策室の空気が和らいできた。 テレビ会議を通して、福島第一原発だけでなく、福島第二原発や柏崎刈羽原発から現状や対処の方法について、報告や指示を求める連絡が次から次に飛び込んできた。対策室はごった返していた。 停止した原子炉内の温度を100℃以下に冷やす「冷温停止」に向けて、みな、担当の仕事をあわただしくこなしていた。 途絶えることのない報告を受けていた小森のもとに、武藤が対策本部から離れるという連絡が入ってきた。東京電力は、中越沖地震の原発火災の際、地元への説明が不十分だったと厳しい批判を受けて、大きな地震発生時は、原子力・立地本部長自らが原発に赴き、地元支援にあたることにしていた。) 武藤は、福島第一原発から南西に5キロ離れた大熊町役場近くに建てられたオフサイトセンターと呼ばれる国や福島県など関係機関が集まって避難対策を協議する拠点に行くことになった。 武藤が小森に近寄り「よろしく頼みます」と短く声をかけ、部下3人と一緒にあわただしく対策室を後にしていった。午後3時半、武藤は本店を出発し、新木場のヘリポートに向かった。 頼りになるはずの武藤がいなくなり、会長も社長も不在の対策室のリーダーは、名実ともに小森となった。責任が小森の肩に重くのしかかってきた。その10分後の午後3時42分のことだった。 「10条の発令をお願いします」 吉田の声だった。本店対策室の緊張が一気に高まった。福島第一原発の免震棟を映し出すディスプレイ画面から円卓を行き交う「SBO!」という言葉が何度も漏れ聞こえた。非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。 しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした。とにかく電源確保だ。そのためには電源車だった。午後4時10分、本店の配電部門から東京電力全店の配電担当者に、電源車を確保するよう一斉に指示が出た。東京電力は各支店に、6900ボルト用の高圧電源車と、100ボルト用の低圧電源車を多数所有していた。20分もすると、配電担当者のもとに、高圧電源車48台、低圧電源車79台が準備できると報告があがった。電源車は、用途によってボルト数や仕様が様々だった。しかし、今は、何より早く到着できるかが問題だった。配電担当者は、どの電源車もすぐに出発するよう指示を出した。福島に近い東北電力にも電源車の救援を依頼した。全国各地から手当たり次第に電源車が福島第一原発に向かい始めた。 ちょうどこの頃だった。午後4時45分、本店対策室の緊迫度をさらに高める状況になった。吉田がテレビ会議で原災法15条を通報したのだ。福島第一原発1号機と2号機の中央制御室では、原子炉の冷却が行われているかどうか確認できないというのだ。 送られてきた15条通報のファックスを手に、小森は言葉を失った。「これはえらいことになるかもしれない」と思った。 一方、新木場に向かっていた武藤は、車の中で電源喪失の連絡を受けた。とにかく一刻も早く福島に行かねばならない。焦る気持ちと裏腹に、普段は20分で行く道が大渋滞となり、車はまったく前に進まなくなった。ついに武藤らは、ヘリポートまで数キロというところで、車を降りて歩いて行こうとした。ところが、歩き始めたら液状化のため、膝まで泥に浸かり、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまった。困り果てた武藤は60歳にして生まれて初めてヒッチハイクを試みた。緊急時においても親切な人はいるもので、武藤らはヒッチハイクを2回重ねて、泥だらけになって新木場にたどり着いた。待ちかねていたヘリコプターに乗り込んで福島へと飛び立ち、午後6時過ぎ福島第二原発のヘリポートに降り立った。あたりはすっかり薄暗くなっていた。 こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていったのである。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。 しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした・・・こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていった」、なるほど。
第三に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124452
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『錯綜する免震棟 中央制御室の異変は、免震棟にもすぐに伝えられていた。 「SBO! DGトリップ! 非常用発電機が落ちた」連絡を受けた発電班長の大声が円卓に響いた。 本部長席の吉田が思わず「えっ?」と声を出した。非常用発電機がやられた? 握りしめていた頼みの綱が唐突に切れてしまったようなものだった。 「大変なことになった」吉田は頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。非常用発電機を生き返らせられないのか。それがなくなったらどうする。イソコンやRCICがあれば、とりあえず、数時間は冷却できる。けれど、次はどうする? しかし、不安がまとわりついた自らの思考を、部下に向けて口には出さなかった。所長の仕事はまず対外的な連絡だった。 吉田は、テレビ会議のマイクをとった。「10条の発令をお願いします」 午後3時42分。原子力災害対策特別措置法にもとづく特定事象、全交流電源喪失が通報された瞬間だった。230キロ先にいる大型ディスプレイに映る東京本店の幹部の顔に驚きが走った。免震棟の円卓を囲む幹部にも緊張と当惑が入り混じった表情が浮かんだ。吉田の隣に座るユニット所長の福良は、「訓練でしか起きたことのない10条がまさか現実になるとは」と、どこか半信半疑の心地だった。 しかし3号と4号もSBOだと報告されていた。 10条通報はまぎれもない現実だった。なぜだ。非常用発電機に何が起きたのか。) このとき、まだ吉田や免震棟幹部の頭の中には、非常用発電機の停止と津波を結びつける回路はなかった。免震棟には窓がなく、外の様子をうかがい知ることはできなかった。免震棟の壁面には、テレビ会議のほかに、NHKや民放テレビ局の放送を6分割で映し出す大型ディスプレイがあった。その画面は、東北地方から関東沿岸まで赤い線がチカチカと光り、大津波警報が発令されていることを告げていた。しかし、この時点で、福島県沿岸の津波の高さは3メートルから5メートルと報じられていた。10メートルを超える津波が原発を襲ったとは、想像がつかなかったのである。 何とか電源を確保しなければならない。ほどなく吉田がテレビ会議で本店に向かって声をあげた。 「電源車を持ってきてください。どこからでもいいから」 このとき、福島第一原発には、1台も電源車がなかった。4年前の中越沖地震で柏崎刈羽原発3号機の変圧器が火を吹いた際、鎮火に2時間もかかったという批判を受けて、福島第一原発にも3台の消防車が配備された。しかし、この時点で、東京電力には、電源喪失という危機に思いを馳せて、電源車を原発構内に配備するという発想はなかったのである。 本店からは、すぐに電源車を手配するという回答が返ってきた。 午後4時を過ぎた頃だった。にわかには信じられない話が円卓に飛び込んできた。 原発敷地の海岸沿いにあった重油タンクが根こそぎ津波で流されたというのだ。さらに、外の避難場所にいた何人もが大きな津波が来たのを見たと報告してきた。 この段階で初めて、吉田は、非常用発電機が動きを止めた原因は、津波ではないかと思い始めた。 「1号、2号の計器が見えないそうです」 発電班長が中央制御室からの新たな報告を伝えてきた。 中央制御室の計器類の電源は、交流の非常用発電機ではなく、直流のバッテリーだった。津波で非常用発電機だけでなく、同じ地下1階にあるバッテリーも水をかぶって動かなくなったのではないか。吉田や幹部は、信じたくない現実に向き合わざるを得なかった。 電源を担当する復旧班長の稲垣武之(いながき たけゆき)(47歳)は、同僚の第二復旧班長と思わず顔を見合わせていた。稲垣は、大学院で機械工学を専攻し、原発の補修畑を歩んできたキャリア組だった。一方、第二復旧班長は、東電学園を卒業後福島第一原発に長く勤め、原発の隅々までよく知っている56歳の叩き上げの技術者だった。奪われた電源を取り戻さなければならない。2人の肩に困難で重い任務がずっしりとのしかかってきた。 吉田は、電源をなんとかするよう2人に指示した。ただ、原発の補修畑を長く歩み機械屋を自負する自分でもどうすればいいのか、良い知恵は浮かんでこなかった。) 電源の復旧だけではない。計器が見えなければ、中央制御室の運転員はどうするのか。原発の運転操作はどうすべきなのか。改めて大変なことになったと吉田は思った。しかし、原発の操作に関しては、運転員たちのほうがプロだ。箸の上げ下ろしまで、ああやれ、こうやれと部下に指示するのは、トップの所長がするようなことではない。運転操作は、中央制御室の運転員や発電班長ら信頼できる現場に任せておくべきものだ。リーダーたる所長のやるべきことは、全体を見据えた指揮であり、今は状況把握と対外連絡と考えていた。 計器が見えないことは、核燃料が冷却されているかどうかわからないことを意味した。それは、全交流電源喪失よりさらに一段高い危機だった。 吉田はテレビ会議に映る本店に向かって声をあげた。 「原災法15条です。15条の通報をお願いします」 午後4時45分。原子力緊急事態にあたる原子力災害対策特別措置法15条が通報された。 本店の幹部が居並ぶテレビ会議の映像からも明らかな動揺が伝わってきた。 原発はスクラムが成功して止まったとは言え、300℃あった核燃料は強い熱を帯びている。その核燃料に水を注ぐことで熱を徐々に冷まし、100℃まで下げる作業が続いていたのだ。その注水が止まったとなると、原子炉温度は、熱を帯びた核燃料によって、再び上昇し始める。その行く末は……。 ただ、この時点で、吉田は、計器が見えなくなったことで、原子炉が冷却されているかわからなくなったが、冷却は続いていると考えていた。1号機はイソコン、2号機はRCICが動いていると思っていたからだ。 ほどなく円卓に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていた。地下1階にバッテリーがある他の号機より高い位置にあったことが幸いして、津波の被害を免れたのだった。3号機の中央制御室は、バッテリーを使ってRCICを手動で起動させ、原子炉への注水を続けていた。 2号機からは、電源が失われる直前にRCICを手動で起動させたと連絡を受けていた。RCICは、起動するときは電源が必要だが、後は蒸気の力で動き続ける。蒸気の流れを調整する機器を動かすバッテリーが途絶えた今、不安はあったが、動き続けているのではないか。吉田はそう考えていた。 そして、1号機のイソコン。一度起動すると、電気の力を使わなくても、蒸気の力で循環して動く仕組みを持つ。バッテリーがなくても、動き続けるはずだ。「イソコンは動いている」この吉田の思い込みが、後の事故対応を大きく左右することになる。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「吉田は、計器が見えなくなったことで、原子炉が冷却されているかわからなくなったが、冷却は続いていると考えていた。1号機はイソコン、2号機はRCICが動いていると思っていたからだ。 ほどなく円卓に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていた。地下1階にバッテリーがある他の号機より高い位置にあったことが幸いして、津波の被害を免れたのだった。3号機の中央制御室は、バッテリーを使ってRCICを手動で起動させ、原子炉への注水を続けていた」、なるほど。
第四に、2月20日付け現代ビジネスが掲載したNHKメルトダウン取材班による「1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/124773
・『東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『3・11 そのとき、吉田は 1号機爆発まで24時間50分 窓の外の太平洋に灰色の雲が垂れ込めていた。 2011年3月11日午後2時半すぎ。福島第一原子力発電所の事務本館2階にある所長室で、吉田昌郎((*)56歳 *年齢・肩書はすべて当時のもの)は、机に広げた書類に目を走らせながら、午後3時から始まる会議を待っていた。会議は、原子力部門から他部署に出向している部下たちの報告を受け、部署を超えた交流の成果について話し合うものだった。きょうは金曜日。会議の後には懇親会も開かれる。久しぶりに会う顔なじみの部下と杯を傾け、週末は休めるはずだった。 福島第一原発は、福島県浜通りの太平洋に面した広大な敷地に、6つの原子炉を有していた。1967年にアメリカGE社によって建設が開始され、東京電力が運転する初の原発となった1号機。国内メーカー各社が国産の技術を開発し建設にあたった2号機から6号機。この日、4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた。構内では、東京電力や協力会社の社員がそれぞれのマニュアルに従って、規則正しく作業にあたっていた。原発はいつものような週末を迎えようとしていた。 午後2時46分のことだった。吉田は所長室がかすかに揺れ始めるのを感じた。あっ地震だ。反射的に立ち上がった。揺れは次第に大きくなり、立っていられなくなるほどの強烈な上下動になった。これは大きい。がちゃという金属音が聞こえ、テレビがひっくり返った。吉田は机の下にもぐろうとしたが、揺れが激しく185センチほどある長身を思うように動かすことができず、机にしがみついているのがやっとだった。 三陸沖深さ24キロを震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が原発を襲った瞬間だった。震源に近く最も揺れが激しかった宮城県栗原市では最大震度7。震源から180キロ離れた福島第一原発は、震度6強を観測した。 5分は続いたと感じられた長い揺れは、実際には3分後にようやく収まった。 吉田は所長室を飛び出した。目の前に広がる総務班の部屋は、本棚が倒れ、至る所に書類が散乱していた。天井の化粧板がほぼすべて落下し、白い煙のようなほこりがあたり一帯にもうもうと漂っていた。数人の総務班の部下が目に入り、吉田は思わず「どうだっ」と大声を出した。「みんな避難しています」比較的冷静な声が返ってきた。ちょうど1週間前に、避難訓練を行ったばかりだった。吉田は残っていた総務班員と一緒に、1週間前に確認した避難通路を通って、避難場所に定められていた事務本館の西にある駐車場に向かった。ところが、避難通路の途中まで来ると、舞い上がっていたほこりを煙と感知したのか、火災は起きていないのに防火シャッターが下りていて、行く手を阻まれてしまった。何事も訓練通りにはいかない。吉田と部下は、遠回りをして階段を下り、他の所員よりやや遅れて避難場所の駐車場にたどり着いた。駐車場には、すでに大勢の東京電力の社員や協力会社の社員が集まっていた。吉田の目には、ざっと700~800人は集まっていると映った。4号機から6号機が定期検査を行っているため、構内には、作業にあたるメーカーの社員も含めいつもより多い6350人もの人が働いていた。その一人一人の安全が、リーダーである吉田の肩に重くのしかかっていた。この日は、日中になっても気温が10度に届かず、どんよりした雲から小雪もちらつき始めた。寒さに震えている女性社員もいた。吉田は、すぐにグループマネージャーと呼ばれる課長級の社員に指示を出した。「グループごとに安否確認して報告しろ」まず、安否確認であり、何より所員の安全だと考えていた。駐車場では総務班長がトラックの荷台に立ち、拡声器を手にしてグループごとに安否を確認するよう叫んでいた。 吉田は足早に避難場所のすぐ南に建つ免震重要棟に向かった。 免震棟は、8ヵ月前に完成したばかりだった。4年前の2007年7月に起きた新潟県中越沖地震で柏(かしわ)崎(ざき)刈羽(かり わ)原発の事務棟が破損し、対策本部の機能を十分果たせなかった教訓を受けて建設されたものだった。その名のとおり震度7の地震に耐えられる免震構造で、放射性物質を除去する高性能のフィルター付きの換気装置やガスタービンによる大型の自家発電機を完備していた。 小さな体育館ほどある550平方メートルの2階フロアには、25人が座れる楕円形の円卓があり、その円卓を取り囲むように、発電班、復旧班、医療班、通報班など12班の緊急対応の担当チーム用の大型の机が配置されている。緊急時には406人が集まり、事故対応にあたることになっていた。 地震から15分が経った午後3時すぎ、吉田が円卓中央にある本部長席に駆け上がってきた。すでに到着していた発電班長が緊張した面持ちで指示を飛ばしていた。「浮き足立たないで落ち着いて確認しろ」吉田はまず言った。「余震があるかもしれないから、その注意はちゃんとしておけ」と念を押した。 円卓に近い壁面には、200インチある大型プラズマディスプレイ画面が光っていた。緊急時に各原発と本店を結ぶテレビ会議システムだった。東京電力の鉄塔の送電網を走る光ケーブル回線で結ばれたこのシステムは、前年6月に画面を鮮明なハイビジョンテレビに更新し、操作も簡便になっていた。激しい揺れで各社の電話回線が不通になったり、輻輳(ふく そう)したりする中で、中越沖地震で耐震対策を強化したこともあって、テレビ会議システムは支障なく立ち上がっていた。6分割の画面には、本店の緊急時対策室が映し出されていた。本店は「大丈夫か?」「安否確認はどうだ?」とさかんに聞いてきていた。遠く離れた大勢の関係者をリアルタイムに結ぶ、時代を先取りしたこのシステムが、この後の事故対応に微妙な影響を与えていく。 吉田のもとには、各グループから次々と安否確認の報告があがってきた。幸い大きなけが人はなく、最大の心配事がひとまずなくなった。吉田は胸を撫で下ろした。右隣には、1号機から4号機を統括するユニット所長の福良昌敏(ふくら まさとし)(53歳)が座った。福良は吉田の右腕として、福島第一原発の運転指揮にあたってきた幹部だった。 「1号、2号、3号ともスクラムしました」発電班長が報告した。 円卓近くには、ホワイトボードが引っ張り出され、1号機から6号機までの状態が書き込まれた。1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった。原発は、大きな揺れを感知すると制御棒が自動的に原子炉の中に入って、核分裂反応を止める仕組みになっている。運転中だった3つの原子炉は想定通りスクラムし、止まったのだ。「大丈夫だ」吉田はそう思った。 「DG起動しています」発電班長が続けて報告した。吉田は即座に「外部電源がやられたのか」と思った。DGとは、Diesel Generator、軽油で動く非常用のディーゼル発電機のことだった。皮肉なことだが、原発は、自分を動かす電気を外から送電線でもらう仕組みになっている。地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた。 <職員も初めて聞いた…「東日本大震災」発生直後、福島第一原発で「ゴー」という轟音が響き渡ったワケ>の記事に続きます。 *本記事の抜粋元・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」 検証編』では、福島第一原発事故を13年にわたって検証取材してきた内容を報告書としてまとめています。ぜひお買い求めください』、「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた」、「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止」していたのは不幸中の幸いだった。「1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった・・・地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた」、この時点ではまだ最悪の状態に追い込まれたことが認識できなかったようだ。
タグ:原発問題 (その23)(NHKメルトダウン取材班4題:「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相、「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」、「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」、1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」) 現代ビジネス NHKメルトダウン取材班による「「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相」 単行本『福島第一原発事故の「真実」』 「津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓」、なるほど。 「1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる・・・この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。 しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである」、こんな重大なことが今だに「謎に包まれたまま」というのは初めて知った。 NHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生直後、東京・内幸町「東京電力本店・原子力部門」の「緊迫した状況」」 「福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された」、なるほど。 「非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。 しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした・・・ こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていった」、なるほど。 NHKメルトダウン取材班による「「東日本大震災」発生時、「福島第一原発」の事故対応を大きく左右することになった「所長の思い込み」」 「吉田は、計器が見えなくなったことで、原子炉が冷却されているかわからなくなったが、冷却は続いていると考えていた。1号機はイソコン、2号機はRCICが動いていると思っていたからだ。 ほどなく円卓に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていた。地下1階にバッテリーがある他の号機より高い位置にあったことが幸いして、津波の被害を免れたのだった。 3号機の中央制御室は、バッテリーを使ってRCICを手動で起動させ、原子炉への注水を続けていた」、なるほど。 NHKメルトダウン取材班による「1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」」 「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた」、「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止」していたのは不幸中の幸いだった。 「4号機から6号機は定期検査のため運転を停止」していたのは不幸中の幸いだった。「1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった・・・地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた」、この時点ではまだ最悪の状態に追い込まれたことが認識できなかったようだ。
2024-09-02 18:40
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