中南米(その3)(5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー、「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領 就任1カ月で売ったけんかと その結果、フジモリ大統領を軽んじ 国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”) [世界情勢]
中南米については、2020年11月12日に取上げた。久しぶりの今日は、(その3)(5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー、「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領 就任1カ月で売ったけんかと その結果、フジモリ大統領を軽んじ 国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”)である。
先ずは、昨年1月、アジア経済研究所の清水 達也氏による世界を見る目「5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー」を紹介しよう。
https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2023/ISQ202320_003.html
・『2022年12月7日正午前、ペドロ・カスティジョ大統領は国民向けテレビ演説で、国会の解散と臨時政府の樹立を宣言した。午後には国会で同大統領に対する罷免決議案の採決が予定されており、カスティジョ大統領はこれを阻止するために先手を打とうとした。これに対しマスメディアは、大統領が自主クーデター(autogolpe)を試みたと報道した。また、ディナ・ボルアルテ副大統領が国会解散を否定したほか、首相をはじめとする主要閣僚や大統領の顧問弁護士もすぐに辞任を発表した。軍や警察も憲法の秩序を守るとして、カスティジョ大統領を支持しないことを発表した。 国会は午後3時から予定されていた開会を前倒しして大統領罷免決議案の採決に入り、道徳的不適格を理由に、罷免に必要な87票を大きく上回る賛成102票、反対6票、棄権10票でカスティジョ大統領の罷免を可決した。憲法の規定に従い、ボルアルテ副大統領が大統領に就任した(写真1)。カスティジョ大統領は亡命のためにメキシコ大使館に向かう途中で警察に拘束され、反逆を企てた疑いで取り調べを受けている。今のところ18カ月の拘束が決まっている』、「大統領が自主クーデター(autogolpe)」不成立だったことは、「ペルー」の民主主義の成熟を示しているのかも知れない。
・『不規則な大統領の交代 ペルーでは大統領の任期は5年間である。にもかかわらず、ボルアルテ大統領は2016年から数えて6人目の大統領となる(表1)。最近ほかのラテンアメリカ諸国では大規模な抗議活動が目立っているものの、不規則な大統領の交代は少ない。それに対してペルーでは、2016年7月に就任したクチンスキ大統領以降、辞任や罷免による大統領の交代が相次いでいる(清水2020)。なぜ頻繁に大統領が交代するのか。その理由を、シンプルな罷免手続きと政党の断片化というペルー政治の構造的な要因と、与党分裂や汚職捜査の進展というカスティジョ政権に特有な要因に分けてみてみよう。 (表1 最近のペルーの政治情勢(大統領ごとに色を変えた) はリンク先参照) ▽シンプルな罷免手続き(現行憲法(1993年憲法)の下では、ペルーの国会は一院制で、130人の議員のうち3分の2(87人)以上が賛成すれば大統領を罷免できる。これまでにも国会は大統領の罷免決議案を9回審議し、うち2回はこれを可決した。1回目は2000年11月のフジモリ大統領で、汚職発覚後に国際会議出席を理由に出国し、滞在中の日本から国会に辞表を提出したが国会はこれを受理せず罷免した。2回目はビスカラ大統領で、2020年11月に国会が本会議で罷免決議案について議論した際に、逆にビスカラ大統領が国会議員の汚職を非難したために議員が反発して罷免を決議した(磯田2021)。国会への罷免決議案の提出から本会議での採決までにはいくつかの段階があるが、いずれにしても87人以上の議員が賛成すれば大統領を罷免できる。 一方で憲法は、国会を解散する権限を大統領に与えている。大統領が任命した首相は、内閣に対する信任決議案を国会に提出するが、これを国会が二度否決した場合には大統領は国会を解散できると定めている。最近では2019年9月にビスカラ大統領が国会を解散して、4カ月後に臨時の国会議員選挙が行われた(中沢2020)。2021年7月に政権についたカスティジョ大統領はこの権限を利用しようとした。しかし国会は、憲法修正は国会の専権事項だとして、これにかかわる信任決議案の提出を制限する法律を制定した。これにより大統領は国会を解散できなかった』、「ペルーでは大統領の任期は5年間である。にもかかわらず、ボルアルテ大統領は2016年から数えて6人目の大統領となる」、こんなに「大統領」の首がすげ替えられるのは、異常だ。
・『政党の断片化 大統領が国会議員の3分の1以上(44人)の支持を取り付ければ、罷免決議案を阻止できる。しかしペルーでは政党の断片化によってそれが難しくなっている。 断片化を示すのが総選挙における各党の得票の割合である。図に2001年から21年までの5回の総選挙における大統領選挙1次投票の主要候補の得票率(図1)と、国会議員選挙における政党別の議席配分(図2)を示した。2016年までと比べると2021年選挙では、断片化が著しいことがよくわかる。大統領選挙では5%以上を獲得した候補が前回までの4~5人から2021年には9人に増えた。同時に、決選投票に進む上位2名の得票率の合計は50~60%から32%へ下がった。国会で議席を獲得した政党の数は、前回の6党に対して今回は10党まで増えている(村上2023)。与党の自由ペルー党(Perú Libre)は37議席しか獲得できず、単独では罷免決議案を阻止できないため、ほかの政党と連立や協力をすることで政権基盤の安定を図った。(図1 大統領選1次投票 はリンク先参照)』、「政党の断片化」は政治の安定化を犠牲に進展したようだ。
・『与党分裂 政党の断片化が進んでいるにもかかわらず、カスティジョ政権は他党との連立や協力によって約16カ月間続いた。それが2022年12月に崩壊した要因となったのが、与党である自由ペルー党の分裂と汚職捜査の進展である。 自由ペルー党はペルー中部フニン州の州知事だったブラディミル・セロンが設立し、党首を務める左派政党である。セロン党首は2021年総選挙で自身が大統領候補になるつもりだったが、知事時代の汚職事件で有罪となったために立候補できなかった。そこで教員組合の活動家として2017年に全国規模のストライキを率いて注目を集めたカスティジョを招いて同党の大統領候補にすえた。カスティジョが大統領に当選すると、セロンは与党党首として政権に対して強い影響力を持った。閣僚人事など主要ポストの任命には彼の意向が強く反映された。同党は新自由主義を批判し、政府の役割を拡大する新憲法の制定を目標として掲げ、これに賛同するほかの左派政党からも協力を取り付けた。 しかしカスティジョ大統領と与党の関係はしだいに悪化した。カスティジョの当選後、検察はセロン党首に対して、新たな汚職疑惑の捜査を本格化した。州知事時代に不正に集めた資金を大統領選挙の活動資金とした疑いである。カスティジョ大統領はセロン党首から距離を置くことで、自身のイメージダウンを避けるとともに、セロン党首からの影響力を弱めようとした。 さらに党内派閥の対立が進んだ。自由ペルー党には、もともとの党員を中心としたセロン派のほか、カスティジョと同じ教員出身で教育行政に強い関心を持つ教員派や、ほかの党から合流した議員が混在していた。カスティジョ大統領がセロン党首から距離を置いたこともあり、派閥によって国会での投票が分かれたほか、首相、大臣、国会の委員会の議長などのポストの配分をめぐって党内で対立が生じた。そして2022年5月には教員派の議員10人が離党した。これにより自由ペルー党の議員は22人に減り、野党第1党を下回った。さらに6月にはセロン党首が方針の相違を理由にカスティジョ大統領に離党を求めると、大統領はこれに応じた。ただしこの段階では、自由ペルー党や離党した議員、そのほかの左派政党も、カスティジョ政権の継続では利害が一致していた』、「カスティジョの当選後、検察はセロン党首に対して、新たな汚職疑惑の捜査を本格化した。州知事時代に不正に集めた資金を大統領選挙の活動資金とした疑いである。カスティジョ大統領はセロン党首から距離を置くことで、自身のイメージダウンを避けるとともに、セロン党首からの影響力を弱めようとした」、汚職は「ペルー」につきもののようだ。これ以降は紹介を省略したい。
次に、本年1月31日付けNewsweek日本版「「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領、就任1カ月で売ったけんかと、その結果」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/01/post-103578_1.php
・『<12月に就任したミレイ新大統領。早々に外相が台湾と接触、BRICS入りを白紙に戻したが...> 昨年12月に就任したアルゼンチンのミレイ新大統領が、外交面で急進的リバタリアン(自由至上主義者)らしい暴挙に出るまで、それほど時間はかからなかった。 1月15日に開幕した世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で、ミレイはキャメロン英外相と会談。その際、1982年に両国の間で領有権をめぐる紛争が起きたフォークランド諸島の主権問題を蒸し返し、一蹴された。瀕死の国内経済の回復が急務であるときに、軍政時代の紛争をわざわざ持ち出すのは賢明とは言えない。 ミレイは、アルゼンチンの主要な貿易相手国である中国にもけんかを売った。地元メディアが12月末、アルゼンチンのモンディノ外相が台湾の駐アルゼンチン代表の謝妙宏(シエ・ミアオホン)と会談したと報じている。 台湾との接触は、ミレイが大統領選で公約に掲げた「中国との関係凍結」を実行に移す可能性があることを示唆している。彼は選挙戦で「共産主義」国家を厳しく批判。アルゼンチンが輸入の資金調達や債務の償還に当たり中国との通貨スワップ協定に大きく依存しているなかで、その姿勢は深刻な懸念を引き起こしていた。 ミレイが大統領に就任した直後、中国はこの協定を一時停止したと報じられている。 ブラジルやロシアなど新興5カ国でつくるBRICSへのアルゼンチンの新規加盟が前政権下で決まっていたのに、ミレイが白紙に戻したことも経済に大きな影響を及ぼす可能性がある。少なくともアルゼンチンは、BRICSの新開発銀行から資金を調達できなくなる。 「無政府資本主義者」を自称するミレイは、彼の言う「自由な世界」との関係強化を図っていくつもりかもしれない。だが外交や国際経済の複雑な状況に対応するには、もっと現実的でイデオロギー色の薄い外交的アプローチが必要だ。 事実、大統領就任から1カ月ほどの間に、ミレイは自分を政治的な失敗に追い込みかねない要素が2つあることに気付き始めている。「議会」と「中国」だ。 1月に入ってミレイは議会の反対を受けて、急進的な提案の一部を取り下げた。いかなる政治交渉にも妥協は必要であり、落としどころの見極めが重要だ。ただしミレイの場合は、見返りを得られるという保証なしに相当の譲歩をする勇気が必要だろう。 中国との関係については、緊張緩和を目指してモンディノが駐アルゼンチン中国大使の王衛(ワン・ウエイ)と会談。自分が台湾代表と会談したという報道を「誤解」だと否定し、さらにアルゼンチンが「一つの中国」の原則を支持することを改めて確認した。 ミレイ政権の姿勢の軟化には、財政面で結び付きの強い中国との関係を断つのは不可能だという認識が見て取れる。) 資金不足と急激なインフレに直面しているアルゼンチンは中国との関係修復を急ぎたいが、中国は余裕の構えだ。アルゼンチンは資金が必要で、ほかの市場がその提供を嫌がることを知っているからだ。 そう考えると、ミレイ政権が下す決定は中国・台湾との関係に影響を及ぼすだけでなく、アルゼンチンの両者に対する国際的な立場をより幅広く定義することにもなるだろう。 台湾にしてみれば、現在は外交関係を持つ国がパラグアイしかない南米で外交上の存在感を高めるチャンスだ。アルゼンチンが承認する政府を中国から台湾に変えないとしても、台湾にとってはミレイ政権と頻繁に交流できるようになれば大きなプラスになる。 しかしアルゼンチンは中国が反発を強めることを承知の上で、本当に台湾との関係を強化すべきなのか。ミレイに決断の時が来ている』、「資金不足と急激なインフレに直面しているアルゼンチンは中国との関係修復を急ぎたいが、中国は余裕の構えだ。アルゼンチンは資金が必要で、ほかの市場がその提供を嫌がることを知っているからだ・・・アルゼンチンが承認する政府を中国から台湾に変えないとしても、台湾にとってはミレイ政権と頻繁に交流できるようになれば大きなプラスになる。 しかしアルゼンチンは中国が反発を強めることを承知の上で、本当に台湾との関係を強化すべきなのか」、やはり「中国」優先に走らざるを得ないのではなかろうか。
第三に、9月19日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した元週刊文春・月刊文芸春秋編集長の木俣正剛氏による「フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/350661
・『日本大使公邸占拠事件の取材で見た「フジモリ一家」の意外すぎる素顔 9 月11日、ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領(86)が死去しました。 1996年12月、在ペルー日本大使公邸占拠事件が起きたとき、私はペルーに取材に行き、フジモリ一家と行動を共にした経験があります。スペイン語どころか、英語もまともにできない私は、以前からフジモリ一家と親交のあった写真家の蓮尾真司氏に同行をお願いして、大統領のインタビューために慌ただしく飛行機に乗りました。 当時は『月刊文春』編集部に在籍。公邸では日系人中心に約600人が人質にされていましたが、フジモリ大統領は身代金と引き換えに人質を解放することには絶対反対でした。当時は、日本政府も必死に解決を求めていました。 ただ、私はこの事件やフジモリ氏個人のことより、せっかく海外で珍しい日系大統領が登場したという外交チャンスを生かせず、南米を中心とした世界的戦略を打ち立てられなかった日本の政治家たちのフジモリ氏に対する残念な扱いについて、振り返りたいと思います。 ペルーには飛行機で約20時間。蓮尾氏へのフジモリ家の信頼は厚く、なんとフジモリ大統領が所有する家の一軒に宿泊を許されました。金持ちの大統領だからといって、何軒も家があるわけではありません。いつテロに遭うかわからない国で、毎日同じ家に泊まるのは危険。そのため数軒の家を所有し、毎日宿泊する家を変えているとのことでした。 ペルーといえば、インカ帝国。マチュピチュ遺跡など観光地のイメージがありますが、首都リマはペルーの全人口約3000万人のうち1000万人が居住する、一大工業・商業地域です。雑然とした街並みで、当時は驚くべき治安の悪さと貧困ぶりを見ることになりました。 周囲はボロボロの車しか走っていません。「お金がないなら、中国やタイみたいに自転車にしたらどうなんですか?」と聞くと、大統領の側近が笑いながら答えました。「自転車なんて簡単に盗まれるでしょ」。 確かに、日系人の家を訪ねたところ、すべて三重の鉄トビラで守られていました。入り口で最初の扉を開けて、狭い小部屋に入り、誰何されて名前と写真が照合されると次の扉が開き、また狭い部屋に入ってもう一度確認されたあと、ようやく三つ目の扉が開き、家に入れます。鉄扉は頑丈で、一人で動かすのも苦労するくらいです。 中流階級以上の家は広い庭と農場が周囲にありますが、高い塀で囲まれ、中は簡単には見えません。塀の扉を気軽に開けようものなら、何匹ものドーベルマンがすごい表情で吠えながら、走ってきます。その家の当主の案内でしか、家には入れないのです。) フジモリ一家は我々にとても親切でした。「事件にまだ進展はないよ」と、毎日首都を案内してくれます。ただし、観光気分になどまったくなれません。なにしろ、常に私たちの車の前後は機関銃を装備した車が警戒しているのだから。テロ組織は首都にもいて、武器も威力の高いものを所持しています。事前に見たペルーの資料や現在の資料にも「フジモリになって治安がよくなった」と書かれていますが、それでも当時はそんなレベルでした』、「中流階級以上の家は広い庭と農場が周囲にありますが、高い塀で囲まれ、中は簡単には見えません。塀の扉を気軽に開けようものなら、何匹ものドーベルマンがすごい表情で吠えながら、走ってきます。その家の当主の案内でしか、家には入れないのです・・・毎日首都を案内してくれます。ただし、観光気分になどまったくなれません。なにしろ、常に私たちの車の前後は機関銃を装備した車が警戒しているのだから」、なるほど。
・『フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算” 豪華な大統領官邸も訪れました。植民地時代、スペインの征服者ピサロが建てた宮殿ですから、日本の国会議事堂より贅沢な作りで、衛兵が常に警戒の巡回行進をしています。案内の男性が忠告してくれました。 「夜になると大統領府の周囲は、ヤバい街に変わります。道には1メートルおきに女性が立っています。すべて売春婦です。値段は1ドル。間違っても買ってはいけませんよ。誰もが性病を持っているから……」』、「豪華な大統領官邸も訪れました。植民地時代、スペインの征服者ピサロが建てた宮殿ですから、日本の国会議事堂より贅沢な作りで、衛兵が常に警戒の巡回行進をしています」、なるほど。
・『なぜか郷愁を感じてしまう恐ろしく貧しい国ペルー ペルー人の人柄には、何か日本人に郷愁を感じさせるものがありました。一つは、地元のインディオのスタイルでしょう。もともとモンゴリアンが何万年も前に陸続きだったベーリング海峡伝いに渡米して、辿り着いたのがペルーという国。日本の縄文人とルーツが同じなのです。南米は征服民族であるヒスパニックとその混血児が多いので、スタイルがよく美形の男女が多いのですが、インディオは背が低いから目立ちます。明治時代の日本人の写真を見ると、三頭身か四頭身でかなり頭が大きいですが、そんな感じの男女もかなり混じっています。 そして私を最も驚かせたのが、当時「新リマ」と名付けられていた副都心を訪れたときのことでした。整備されたコンクリートの街角を予想していたのですが、イメージとは真逆のスラム街。鳥取砂丘を何倍にも大きくしたような丘に、ビッシリと住宅が建てられています。住宅といっても、日本の海の家と似て葦簾(よしず)で囲っただけのような建物です。当然、電気も水道もガスもない。ひっきりなしに少年少女がバケツを持って山を上ったり下ったり。水はそこから運ぶしかないのです。 インフラがない。資源がない。工業化されていない。この国を統治するのは大変な作業に違いありません。「フジモリ氏は日本食は好きだが、絶対に寿司と刺身は食べない」と家族も語っていました。お腹を壊すと、臥せっているだけで、敵対派のクーデターに襲われかねないというお国柄なのです。) ペルー紀行を書きすぎました。実は、ここからが私が本当に書きたいことです。フジモリ氏の信条と日本政府のズレ、そして日本政府の外交上の大きな失点を指摘するのが本稿の目的です。 フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。 だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います。 ある日系人の家を訪れたとき、ボロボロの『文藝春秋』が置いてありました。「ああ、この国に文藝春秋の編集者が来てくれるなんて、夢のようだよ」とその日系人は語り、1ページずつめくりながら感想を語ってくれます。 10年以上前の雑誌なのですが、何回も読み直したのでしょう。手垢にまみれ、もう表紙もすり切れた雑誌を見ながら窓の外を見ると、浜辺の向こうに太平洋が見えました。ここから日本まで1万5000km。何十年も前に汽船に乗ってこの国にやってきた人々は、どんな想いで海の向こうを見ていたのだろう――。そんなことを考えつつ、なんとか大統領のインタビューもとれました。正直、公式コメントのようなインタビューだったので、今回はとりあげません。むしろ一番心に残ったのが、親族の一人が大統領から聞いた話でした』、「フジモリ氏は日本食は好きだが、絶対に寿司と刺身は食べない」と家族も語っていました。お腹を壊すと、臥せっているだけで、敵対派のクーデターに襲われかねないというお国柄なのです・・・フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。 だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います』、なるほど。
・『「一体いくら欲しいんだ?」陰口を言い合う日本の政治家たち 1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。 「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです。) 実際には、フジモリ大統領の来日時に日本政府が約束したペルーへの経済援助は、当時の南米の国の中では破格であり、1億ドル(130億円)の円借款や35億円の無償援助を柱とするものでした。「日系大統領の国だから特別に」という配慮があったことは事実でしょう。 ペルーにはその後も、日本からの経済援助が継続的に行われています。しかし、次に挙げる数字と比べると、あまりの規模の違いに驚くでしょう。日本がこの時期も含め、現在に至るまで何十年にもわたって約3兆6600億円ものODA(政府開発援助)をしていた国があります。その国の名は中国です』、「1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。 「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです・・・ペルーにはその後も、日本からの経済援助が継続的に行われています。しかし、次に挙げる数字と比べると、あまりの規模の違いに驚くでしょう。日本がこの時期も含め、現在に至るまで何十年にもわたって約3兆6600億円ものODA(政府開発援助)をしていた国があります。その国の名は中国です」、なるほど。
・『フジモリ氏を「物乞い」扱いし 他国にすり寄った日本の誤算 この援助は、北京国際空港などのインフラ整備、貧困解消、環境対策など様々な用途に使われたとされています。しかし、中国はこの時期、本当にまだ日本の援助が必要だったのでしょうか。彼らは改革開放路線を唱え、工業国化を急ピッチで展開し、すでに世界の工場になろうとしていました。 軍事力も急拡大させ、1990年代後半から空母の導入計画を本格化、南シナ海における領土問題に対して、海軍が島嶼や岩礁の防衛・占拠を進めていました。ロシアから先端戦闘機を導入し、自国での組み立てや生産を進めました。核兵器の開発と配備も進められ、特に弾道ミサイルの技術が向上して、DF-21(東風21)やDF-31(東風31)などの新型弾道ミサイルを開発・配備し、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も開発していました。核抑止力が強化されたのです。 約3兆6600億円もの日本の経済援助により、浮いた国家予算でつくられた中国の武器が、今まさに日本を威圧しているのです。もしこの大金の一部でも、当時からフジモリ大統領のペルーや日系移民の多い南米諸国に援助されていたら、経済の安定に対して絶大な効果を発揮し、南米の発展に大きく寄与していたはずです。 南米からの移民問題が常にアメリカ合衆国を揺るがせ、今はとりわけ大問題になっています。その南米が日本の援助で安定していれば、米国の分断ももっと温和なものになったでしょう。 そして、グローバルサウスに南米の国々が大きな影響力を持つ時代が来ました。中国への付き合い方を慎重に考え、南米をもっと援助していれば、グローバルサウスに日本は大きな影響力を持てたはずです。 中国に感謝もされず、反日国家を育てたのも自民党政権でした。祖国を愛しながら、他国で日本人ならではの勤勉さを発揮していたフジモリ大統領のことを面前で「物乞い扱いした」自民党と日本政府こそ、税金泥棒だったのではないでしょうか』、「中国はこの時期、本当にまだ日本の援助が必要だったのでしょうか。彼らは改革開放路線を唱え、工業国化を急ピッチで展開し、すでに世界の工場になろうとしていました。 軍事力も急拡大させ、1990年代後半から空母の導入計画を本格化、南シナ海における領土問題に対して、海軍が島嶼や岩礁の防衛・占拠を進めていました。ロシアから先端戦闘機を導入し、自国での組み立てや生産を進めました。核兵器の開発と配備も進められ、特に弾道ミサイルの技術が向上して、DF-21(東風21)やDF-31(東風31)などの新型弾道ミサイルを開発・配備し、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も開発していました・・・約3兆6600億円もの日本の経済援助により、浮いた国家予算でつくられた中国の武器が、今まさに日本を威圧しているのです。もしこの大金の一部でも、当時からフジモリ大統領のペルーや日系移民の多い南米諸国に援助されていたら、経済の安定に対して絶大な効果を発揮し、南米の発展に大きく寄与していたはずです。 南米からの移民問題が常にアメリカ合衆国を揺るがせ、今はとりわけ大問題になっています。その南米が日本の援助で安定していれば、米国の分断ももっと温和なものになったでしょう。 そして、グローバルサウスに南米の国々が大きな影響力を持つ時代が来ました。中国への付き合い方を慎重に考え、南米をもっと援助していれば、グローバルサウスに日本は大きな影響力を持てたはずです。 中国に感謝もされず、反日国家を育てたのも自民党政権でした。祖国を愛しながら、他国で日本人ならではの勤勉さを発揮していたフジモリ大統領のことを面前で「物乞い扱いした」自民党と日本政府こそ、税金泥棒だったのではないでしょうか」、全く同感である。
先ずは、昨年1月、アジア経済研究所の清水 達也氏による世界を見る目「5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー」を紹介しよう。
https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2023/ISQ202320_003.html
・『2022年12月7日正午前、ペドロ・カスティジョ大統領は国民向けテレビ演説で、国会の解散と臨時政府の樹立を宣言した。午後には国会で同大統領に対する罷免決議案の採決が予定されており、カスティジョ大統領はこれを阻止するために先手を打とうとした。これに対しマスメディアは、大統領が自主クーデター(autogolpe)を試みたと報道した。また、ディナ・ボルアルテ副大統領が国会解散を否定したほか、首相をはじめとする主要閣僚や大統領の顧問弁護士もすぐに辞任を発表した。軍や警察も憲法の秩序を守るとして、カスティジョ大統領を支持しないことを発表した。 国会は午後3時から予定されていた開会を前倒しして大統領罷免決議案の採決に入り、道徳的不適格を理由に、罷免に必要な87票を大きく上回る賛成102票、反対6票、棄権10票でカスティジョ大統領の罷免を可決した。憲法の規定に従い、ボルアルテ副大統領が大統領に就任した(写真1)。カスティジョ大統領は亡命のためにメキシコ大使館に向かう途中で警察に拘束され、反逆を企てた疑いで取り調べを受けている。今のところ18カ月の拘束が決まっている』、「大統領が自主クーデター(autogolpe)」不成立だったことは、「ペルー」の民主主義の成熟を示しているのかも知れない。
・『不規則な大統領の交代 ペルーでは大統領の任期は5年間である。にもかかわらず、ボルアルテ大統領は2016年から数えて6人目の大統領となる(表1)。最近ほかのラテンアメリカ諸国では大規模な抗議活動が目立っているものの、不規則な大統領の交代は少ない。それに対してペルーでは、2016年7月に就任したクチンスキ大統領以降、辞任や罷免による大統領の交代が相次いでいる(清水2020)。なぜ頻繁に大統領が交代するのか。その理由を、シンプルな罷免手続きと政党の断片化というペルー政治の構造的な要因と、与党分裂や汚職捜査の進展というカスティジョ政権に特有な要因に分けてみてみよう。 (表1 最近のペルーの政治情勢(大統領ごとに色を変えた) はリンク先参照) ▽シンプルな罷免手続き(現行憲法(1993年憲法)の下では、ペルーの国会は一院制で、130人の議員のうち3分の2(87人)以上が賛成すれば大統領を罷免できる。これまでにも国会は大統領の罷免決議案を9回審議し、うち2回はこれを可決した。1回目は2000年11月のフジモリ大統領で、汚職発覚後に国際会議出席を理由に出国し、滞在中の日本から国会に辞表を提出したが国会はこれを受理せず罷免した。2回目はビスカラ大統領で、2020年11月に国会が本会議で罷免決議案について議論した際に、逆にビスカラ大統領が国会議員の汚職を非難したために議員が反発して罷免を決議した(磯田2021)。国会への罷免決議案の提出から本会議での採決までにはいくつかの段階があるが、いずれにしても87人以上の議員が賛成すれば大統領を罷免できる。 一方で憲法は、国会を解散する権限を大統領に与えている。大統領が任命した首相は、内閣に対する信任決議案を国会に提出するが、これを国会が二度否決した場合には大統領は国会を解散できると定めている。最近では2019年9月にビスカラ大統領が国会を解散して、4カ月後に臨時の国会議員選挙が行われた(中沢2020)。2021年7月に政権についたカスティジョ大統領はこの権限を利用しようとした。しかし国会は、憲法修正は国会の専権事項だとして、これにかかわる信任決議案の提出を制限する法律を制定した。これにより大統領は国会を解散できなかった』、「ペルーでは大統領の任期は5年間である。にもかかわらず、ボルアルテ大統領は2016年から数えて6人目の大統領となる」、こんなに「大統領」の首がすげ替えられるのは、異常だ。
・『政党の断片化 大統領が国会議員の3分の1以上(44人)の支持を取り付ければ、罷免決議案を阻止できる。しかしペルーでは政党の断片化によってそれが難しくなっている。 断片化を示すのが総選挙における各党の得票の割合である。図に2001年から21年までの5回の総選挙における大統領選挙1次投票の主要候補の得票率(図1)と、国会議員選挙における政党別の議席配分(図2)を示した。2016年までと比べると2021年選挙では、断片化が著しいことがよくわかる。大統領選挙では5%以上を獲得した候補が前回までの4~5人から2021年には9人に増えた。同時に、決選投票に進む上位2名の得票率の合計は50~60%から32%へ下がった。国会で議席を獲得した政党の数は、前回の6党に対して今回は10党まで増えている(村上2023)。与党の自由ペルー党(Perú Libre)は37議席しか獲得できず、単独では罷免決議案を阻止できないため、ほかの政党と連立や協力をすることで政権基盤の安定を図った。(図1 大統領選1次投票 はリンク先参照)』、「政党の断片化」は政治の安定化を犠牲に進展したようだ。
・『与党分裂 政党の断片化が進んでいるにもかかわらず、カスティジョ政権は他党との連立や協力によって約16カ月間続いた。それが2022年12月に崩壊した要因となったのが、与党である自由ペルー党の分裂と汚職捜査の進展である。 自由ペルー党はペルー中部フニン州の州知事だったブラディミル・セロンが設立し、党首を務める左派政党である。セロン党首は2021年総選挙で自身が大統領候補になるつもりだったが、知事時代の汚職事件で有罪となったために立候補できなかった。そこで教員組合の活動家として2017年に全国規模のストライキを率いて注目を集めたカスティジョを招いて同党の大統領候補にすえた。カスティジョが大統領に当選すると、セロンは与党党首として政権に対して強い影響力を持った。閣僚人事など主要ポストの任命には彼の意向が強く反映された。同党は新自由主義を批判し、政府の役割を拡大する新憲法の制定を目標として掲げ、これに賛同するほかの左派政党からも協力を取り付けた。 しかしカスティジョ大統領と与党の関係はしだいに悪化した。カスティジョの当選後、検察はセロン党首に対して、新たな汚職疑惑の捜査を本格化した。州知事時代に不正に集めた資金を大統領選挙の活動資金とした疑いである。カスティジョ大統領はセロン党首から距離を置くことで、自身のイメージダウンを避けるとともに、セロン党首からの影響力を弱めようとした。 さらに党内派閥の対立が進んだ。自由ペルー党には、もともとの党員を中心としたセロン派のほか、カスティジョと同じ教員出身で教育行政に強い関心を持つ教員派や、ほかの党から合流した議員が混在していた。カスティジョ大統領がセロン党首から距離を置いたこともあり、派閥によって国会での投票が分かれたほか、首相、大臣、国会の委員会の議長などのポストの配分をめぐって党内で対立が生じた。そして2022年5月には教員派の議員10人が離党した。これにより自由ペルー党の議員は22人に減り、野党第1党を下回った。さらに6月にはセロン党首が方針の相違を理由にカスティジョ大統領に離党を求めると、大統領はこれに応じた。ただしこの段階では、自由ペルー党や離党した議員、そのほかの左派政党も、カスティジョ政権の継続では利害が一致していた』、「カスティジョの当選後、検察はセロン党首に対して、新たな汚職疑惑の捜査を本格化した。州知事時代に不正に集めた資金を大統領選挙の活動資金とした疑いである。カスティジョ大統領はセロン党首から距離を置くことで、自身のイメージダウンを避けるとともに、セロン党首からの影響力を弱めようとした」、汚職は「ペルー」につきもののようだ。これ以降は紹介を省略したい。
次に、本年1月31日付けNewsweek日本版「「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領、就任1カ月で売ったけんかと、その結果」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/01/post-103578_1.php
・『<12月に就任したミレイ新大統領。早々に外相が台湾と接触、BRICS入りを白紙に戻したが...> 昨年12月に就任したアルゼンチンのミレイ新大統領が、外交面で急進的リバタリアン(自由至上主義者)らしい暴挙に出るまで、それほど時間はかからなかった。 1月15日に開幕した世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で、ミレイはキャメロン英外相と会談。その際、1982年に両国の間で領有権をめぐる紛争が起きたフォークランド諸島の主権問題を蒸し返し、一蹴された。瀕死の国内経済の回復が急務であるときに、軍政時代の紛争をわざわざ持ち出すのは賢明とは言えない。 ミレイは、アルゼンチンの主要な貿易相手国である中国にもけんかを売った。地元メディアが12月末、アルゼンチンのモンディノ外相が台湾の駐アルゼンチン代表の謝妙宏(シエ・ミアオホン)と会談したと報じている。 台湾との接触は、ミレイが大統領選で公約に掲げた「中国との関係凍結」を実行に移す可能性があることを示唆している。彼は選挙戦で「共産主義」国家を厳しく批判。アルゼンチンが輸入の資金調達や債務の償還に当たり中国との通貨スワップ協定に大きく依存しているなかで、その姿勢は深刻な懸念を引き起こしていた。 ミレイが大統領に就任した直後、中国はこの協定を一時停止したと報じられている。 ブラジルやロシアなど新興5カ国でつくるBRICSへのアルゼンチンの新規加盟が前政権下で決まっていたのに、ミレイが白紙に戻したことも経済に大きな影響を及ぼす可能性がある。少なくともアルゼンチンは、BRICSの新開発銀行から資金を調達できなくなる。 「無政府資本主義者」を自称するミレイは、彼の言う「自由な世界」との関係強化を図っていくつもりかもしれない。だが外交や国際経済の複雑な状況に対応するには、もっと現実的でイデオロギー色の薄い外交的アプローチが必要だ。 事実、大統領就任から1カ月ほどの間に、ミレイは自分を政治的な失敗に追い込みかねない要素が2つあることに気付き始めている。「議会」と「中国」だ。 1月に入ってミレイは議会の反対を受けて、急進的な提案の一部を取り下げた。いかなる政治交渉にも妥協は必要であり、落としどころの見極めが重要だ。ただしミレイの場合は、見返りを得られるという保証なしに相当の譲歩をする勇気が必要だろう。 中国との関係については、緊張緩和を目指してモンディノが駐アルゼンチン中国大使の王衛(ワン・ウエイ)と会談。自分が台湾代表と会談したという報道を「誤解」だと否定し、さらにアルゼンチンが「一つの中国」の原則を支持することを改めて確認した。 ミレイ政権の姿勢の軟化には、財政面で結び付きの強い中国との関係を断つのは不可能だという認識が見て取れる。) 資金不足と急激なインフレに直面しているアルゼンチンは中国との関係修復を急ぎたいが、中国は余裕の構えだ。アルゼンチンは資金が必要で、ほかの市場がその提供を嫌がることを知っているからだ。 そう考えると、ミレイ政権が下す決定は中国・台湾との関係に影響を及ぼすだけでなく、アルゼンチンの両者に対する国際的な立場をより幅広く定義することにもなるだろう。 台湾にしてみれば、現在は外交関係を持つ国がパラグアイしかない南米で外交上の存在感を高めるチャンスだ。アルゼンチンが承認する政府を中国から台湾に変えないとしても、台湾にとってはミレイ政権と頻繁に交流できるようになれば大きなプラスになる。 しかしアルゼンチンは中国が反発を強めることを承知の上で、本当に台湾との関係を強化すべきなのか。ミレイに決断の時が来ている』、「資金不足と急激なインフレに直面しているアルゼンチンは中国との関係修復を急ぎたいが、中国は余裕の構えだ。アルゼンチンは資金が必要で、ほかの市場がその提供を嫌がることを知っているからだ・・・アルゼンチンが承認する政府を中国から台湾に変えないとしても、台湾にとってはミレイ政権と頻繁に交流できるようになれば大きなプラスになる。 しかしアルゼンチンは中国が反発を強めることを承知の上で、本当に台湾との関係を強化すべきなのか」、やはり「中国」優先に走らざるを得ないのではなかろうか。
第三に、9月19日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した元週刊文春・月刊文芸春秋編集長の木俣正剛氏による「フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/350661
・『日本大使公邸占拠事件の取材で見た「フジモリ一家」の意外すぎる素顔 9 月11日、ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領(86)が死去しました。 1996年12月、在ペルー日本大使公邸占拠事件が起きたとき、私はペルーに取材に行き、フジモリ一家と行動を共にした経験があります。スペイン語どころか、英語もまともにできない私は、以前からフジモリ一家と親交のあった写真家の蓮尾真司氏に同行をお願いして、大統領のインタビューために慌ただしく飛行機に乗りました。 当時は『月刊文春』編集部に在籍。公邸では日系人中心に約600人が人質にされていましたが、フジモリ大統領は身代金と引き換えに人質を解放することには絶対反対でした。当時は、日本政府も必死に解決を求めていました。 ただ、私はこの事件やフジモリ氏個人のことより、せっかく海外で珍しい日系大統領が登場したという外交チャンスを生かせず、南米を中心とした世界的戦略を打ち立てられなかった日本の政治家たちのフジモリ氏に対する残念な扱いについて、振り返りたいと思います。 ペルーには飛行機で約20時間。蓮尾氏へのフジモリ家の信頼は厚く、なんとフジモリ大統領が所有する家の一軒に宿泊を許されました。金持ちの大統領だからといって、何軒も家があるわけではありません。いつテロに遭うかわからない国で、毎日同じ家に泊まるのは危険。そのため数軒の家を所有し、毎日宿泊する家を変えているとのことでした。 ペルーといえば、インカ帝国。マチュピチュ遺跡など観光地のイメージがありますが、首都リマはペルーの全人口約3000万人のうち1000万人が居住する、一大工業・商業地域です。雑然とした街並みで、当時は驚くべき治安の悪さと貧困ぶりを見ることになりました。 周囲はボロボロの車しか走っていません。「お金がないなら、中国やタイみたいに自転車にしたらどうなんですか?」と聞くと、大統領の側近が笑いながら答えました。「自転車なんて簡単に盗まれるでしょ」。 確かに、日系人の家を訪ねたところ、すべて三重の鉄トビラで守られていました。入り口で最初の扉を開けて、狭い小部屋に入り、誰何されて名前と写真が照合されると次の扉が開き、また狭い部屋に入ってもう一度確認されたあと、ようやく三つ目の扉が開き、家に入れます。鉄扉は頑丈で、一人で動かすのも苦労するくらいです。 中流階級以上の家は広い庭と農場が周囲にありますが、高い塀で囲まれ、中は簡単には見えません。塀の扉を気軽に開けようものなら、何匹ものドーベルマンがすごい表情で吠えながら、走ってきます。その家の当主の案内でしか、家には入れないのです。) フジモリ一家は我々にとても親切でした。「事件にまだ進展はないよ」と、毎日首都を案内してくれます。ただし、観光気分になどまったくなれません。なにしろ、常に私たちの車の前後は機関銃を装備した車が警戒しているのだから。テロ組織は首都にもいて、武器も威力の高いものを所持しています。事前に見たペルーの資料や現在の資料にも「フジモリになって治安がよくなった」と書かれていますが、それでも当時はそんなレベルでした』、「中流階級以上の家は広い庭と農場が周囲にありますが、高い塀で囲まれ、中は簡単には見えません。塀の扉を気軽に開けようものなら、何匹ものドーベルマンがすごい表情で吠えながら、走ってきます。その家の当主の案内でしか、家には入れないのです・・・毎日首都を案内してくれます。ただし、観光気分になどまったくなれません。なにしろ、常に私たちの車の前後は機関銃を装備した車が警戒しているのだから」、なるほど。
・『フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算” 豪華な大統領官邸も訪れました。植民地時代、スペインの征服者ピサロが建てた宮殿ですから、日本の国会議事堂より贅沢な作りで、衛兵が常に警戒の巡回行進をしています。案内の男性が忠告してくれました。 「夜になると大統領府の周囲は、ヤバい街に変わります。道には1メートルおきに女性が立っています。すべて売春婦です。値段は1ドル。間違っても買ってはいけませんよ。誰もが性病を持っているから……」』、「豪華な大統領官邸も訪れました。植民地時代、スペインの征服者ピサロが建てた宮殿ですから、日本の国会議事堂より贅沢な作りで、衛兵が常に警戒の巡回行進をしています」、なるほど。
・『なぜか郷愁を感じてしまう恐ろしく貧しい国ペルー ペルー人の人柄には、何か日本人に郷愁を感じさせるものがありました。一つは、地元のインディオのスタイルでしょう。もともとモンゴリアンが何万年も前に陸続きだったベーリング海峡伝いに渡米して、辿り着いたのがペルーという国。日本の縄文人とルーツが同じなのです。南米は征服民族であるヒスパニックとその混血児が多いので、スタイルがよく美形の男女が多いのですが、インディオは背が低いから目立ちます。明治時代の日本人の写真を見ると、三頭身か四頭身でかなり頭が大きいですが、そんな感じの男女もかなり混じっています。 そして私を最も驚かせたのが、当時「新リマ」と名付けられていた副都心を訪れたときのことでした。整備されたコンクリートの街角を予想していたのですが、イメージとは真逆のスラム街。鳥取砂丘を何倍にも大きくしたような丘に、ビッシリと住宅が建てられています。住宅といっても、日本の海の家と似て葦簾(よしず)で囲っただけのような建物です。当然、電気も水道もガスもない。ひっきりなしに少年少女がバケツを持って山を上ったり下ったり。水はそこから運ぶしかないのです。 インフラがない。資源がない。工業化されていない。この国を統治するのは大変な作業に違いありません。「フジモリ氏は日本食は好きだが、絶対に寿司と刺身は食べない」と家族も語っていました。お腹を壊すと、臥せっているだけで、敵対派のクーデターに襲われかねないというお国柄なのです。) ペルー紀行を書きすぎました。実は、ここからが私が本当に書きたいことです。フジモリ氏の信条と日本政府のズレ、そして日本政府の外交上の大きな失点を指摘するのが本稿の目的です。 フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。 だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います。 ある日系人の家を訪れたとき、ボロボロの『文藝春秋』が置いてありました。「ああ、この国に文藝春秋の編集者が来てくれるなんて、夢のようだよ」とその日系人は語り、1ページずつめくりながら感想を語ってくれます。 10年以上前の雑誌なのですが、何回も読み直したのでしょう。手垢にまみれ、もう表紙もすり切れた雑誌を見ながら窓の外を見ると、浜辺の向こうに太平洋が見えました。ここから日本まで1万5000km。何十年も前に汽船に乗ってこの国にやってきた人々は、どんな想いで海の向こうを見ていたのだろう――。そんなことを考えつつ、なんとか大統領のインタビューもとれました。正直、公式コメントのようなインタビューだったので、今回はとりあげません。むしろ一番心に残ったのが、親族の一人が大統領から聞いた話でした』、「フジモリ氏は日本食は好きだが、絶対に寿司と刺身は食べない」と家族も語っていました。お腹を壊すと、臥せっているだけで、敵対派のクーデターに襲われかねないというお国柄なのです・・・フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。 だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います』、なるほど。
・『「一体いくら欲しいんだ?」陰口を言い合う日本の政治家たち 1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。 「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです。) 実際には、フジモリ大統領の来日時に日本政府が約束したペルーへの経済援助は、当時の南米の国の中では破格であり、1億ドル(130億円)の円借款や35億円の無償援助を柱とするものでした。「日系大統領の国だから特別に」という配慮があったことは事実でしょう。 ペルーにはその後も、日本からの経済援助が継続的に行われています。しかし、次に挙げる数字と比べると、あまりの規模の違いに驚くでしょう。日本がこの時期も含め、現在に至るまで何十年にもわたって約3兆6600億円ものODA(政府開発援助)をしていた国があります。その国の名は中国です』、「1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。 「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです・・・ペルーにはその後も、日本からの経済援助が継続的に行われています。しかし、次に挙げる数字と比べると、あまりの規模の違いに驚くでしょう。日本がこの時期も含め、現在に至るまで何十年にもわたって約3兆6600億円ものODA(政府開発援助)をしていた国があります。その国の名は中国です」、なるほど。
・『フジモリ氏を「物乞い」扱いし 他国にすり寄った日本の誤算 この援助は、北京国際空港などのインフラ整備、貧困解消、環境対策など様々な用途に使われたとされています。しかし、中国はこの時期、本当にまだ日本の援助が必要だったのでしょうか。彼らは改革開放路線を唱え、工業国化を急ピッチで展開し、すでに世界の工場になろうとしていました。 軍事力も急拡大させ、1990年代後半から空母の導入計画を本格化、南シナ海における領土問題に対して、海軍が島嶼や岩礁の防衛・占拠を進めていました。ロシアから先端戦闘機を導入し、自国での組み立てや生産を進めました。核兵器の開発と配備も進められ、特に弾道ミサイルの技術が向上して、DF-21(東風21)やDF-31(東風31)などの新型弾道ミサイルを開発・配備し、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も開発していました。核抑止力が強化されたのです。 約3兆6600億円もの日本の経済援助により、浮いた国家予算でつくられた中国の武器が、今まさに日本を威圧しているのです。もしこの大金の一部でも、当時からフジモリ大統領のペルーや日系移民の多い南米諸国に援助されていたら、経済の安定に対して絶大な効果を発揮し、南米の発展に大きく寄与していたはずです。 南米からの移民問題が常にアメリカ合衆国を揺るがせ、今はとりわけ大問題になっています。その南米が日本の援助で安定していれば、米国の分断ももっと温和なものになったでしょう。 そして、グローバルサウスに南米の国々が大きな影響力を持つ時代が来ました。中国への付き合い方を慎重に考え、南米をもっと援助していれば、グローバルサウスに日本は大きな影響力を持てたはずです。 中国に感謝もされず、反日国家を育てたのも自民党政権でした。祖国を愛しながら、他国で日本人ならではの勤勉さを発揮していたフジモリ大統領のことを面前で「物乞い扱いした」自民党と日本政府こそ、税金泥棒だったのではないでしょうか』、「中国はこの時期、本当にまだ日本の援助が必要だったのでしょうか。彼らは改革開放路線を唱え、工業国化を急ピッチで展開し、すでに世界の工場になろうとしていました。 軍事力も急拡大させ、1990年代後半から空母の導入計画を本格化、南シナ海における領土問題に対して、海軍が島嶼や岩礁の防衛・占拠を進めていました。ロシアから先端戦闘機を導入し、自国での組み立てや生産を進めました。核兵器の開発と配備も進められ、特に弾道ミサイルの技術が向上して、DF-21(東風21)やDF-31(東風31)などの新型弾道ミサイルを開発・配備し、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も開発していました・・・約3兆6600億円もの日本の経済援助により、浮いた国家予算でつくられた中国の武器が、今まさに日本を威圧しているのです。もしこの大金の一部でも、当時からフジモリ大統領のペルーや日系移民の多い南米諸国に援助されていたら、経済の安定に対して絶大な効果を発揮し、南米の発展に大きく寄与していたはずです。 南米からの移民問題が常にアメリカ合衆国を揺るがせ、今はとりわけ大問題になっています。その南米が日本の援助で安定していれば、米国の分断ももっと温和なものになったでしょう。 そして、グローバルサウスに南米の国々が大きな影響力を持つ時代が来ました。中国への付き合い方を慎重に考え、南米をもっと援助していれば、グローバルサウスに日本は大きな影響力を持てたはずです。 中国に感謝もされず、反日国家を育てたのも自民党政権でした。祖国を愛しながら、他国で日本人ならではの勤勉さを発揮していたフジモリ大統領のことを面前で「物乞い扱いした」自民党と日本政府こそ、税金泥棒だったのではないでしょうか」、全く同感である。
タグ:中南米 (その3)(5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー、「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領 就任1カ月で売ったけんかと その結果、フジモリ大統領を軽んじ 国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”) アジア経済研究所の清水 達也氏による世界を見る目「5年間で6人目の大統領──政治混乱が続くペルー」 「大統領が自主クーデター(autogolpe)」不成立だったことは、「ペルー」の民主主義の成熟を示しているのかも知れない。 「ペルーでは大統領の任期は5年間である。にもかかわらず、ボルアルテ大統領は2016年から数えて6人目の大統領となる」、こんなに「大統領」の首がすげ替えられるのは、異常だ。 「政党の断片化」は政治の安定化を犠牲に進展したようだ。 「カスティジョの当選後、検察はセロン党首に対して、新たな汚職疑惑の捜査を本格化した。州知事時代に不正に集めた資金を大統領選挙の活動資金とした疑いである。カスティジョ大統領はセロン党首から距離を置くことで、自身のイメージダウンを避けるとともに、セロン党首からの影響力を弱めようとした」、汚職は「ペルー」につきもののようだ。これ以降は紹介を省略したい。 Newsweek日本版「「中国との関係凍結」が公約のアルゼンチン新大統領、就任1カ月で売ったけんかと、その結果」 「資金不足と急激なインフレに直面しているアルゼンチンは中国との関係修復を急ぎたいが、中国は余裕の構えだ。アルゼンチンは資金が必要で、ほかの市場がその提供を嫌がることを知っているからだ・・・アルゼンチンが承認する政府を中国から台湾に変えないとしても、台湾にとってはミレイ政権と頻繁に交流できるようになれば大きなプラスになる。 しかしアルゼンチンは中国が反発を強めることを承知の上で、本当に台湾との関係を強化すべきなのか」、やはり「中国」優先に走らざるを得ないのではなかろうか。 ダイヤモンド・オンライン 木俣正剛氏による「フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算”」 「中流階級以上の家は広い庭と農場が周囲にありますが、高い塀で囲まれ、中は簡単には見えません。塀の扉を気軽に開けようものなら、何匹ものドーベルマンがすごい表情で吠えながら、走ってきます。その家の当主の案内でしか、家には入れないのです・・・毎日首都を案内してくれます。ただし、観光気分になどまったくなれません。なにしろ、常に私たちの車の前後は機関銃を装備した車が警戒しているのだから」、なるほど。 フジモリ大統領を軽んじ、国際政策で手痛いブーメランを食らった日本の“誤算” 「豪華な大統領官邸も訪れました。植民地時代、スペインの征服者ピサロが建てた宮殿ですから、日本の国会議事堂より贅沢な作りで、衛兵が常に警戒の巡回行進をしています」、なるほど。 「フジモリ氏は日本食は好きだが、絶対に寿司と刺身は食べない」と家族も語っていました。お腹を壊すと、臥せっているだけで、敵対派のクーデターに襲われかねないというお国柄なのです・・・フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。 フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。 だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います』、なるほど。 「1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。 「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです・・・ペルーにはその後も、日本からの経済援助が継続的に行われています。しかし、次に挙げる数字と比べると、あまりの規模の違いに驚くでしょう。日本がこの時期も含め、現在に至るまで何十年にもわたって約3兆6600億円も のODA(政府開発援助)をしていた国があります。その国の名は中国です」、なるほど。 「中国はこの時期、本当にまだ日本の援助が必要だったのでしょうか。彼らは改革開放路線を唱え、工業国化を急ピッチで展開し、すでに世界の工場になろうとしていました。 軍事力も急拡大させ、1990年代後半から空母の導入計画を本格化、南シナ海における領土問題に対して、海軍が島嶼や岩礁の防衛・占拠を進めていました。ロシアから先端戦闘機を導入し、自国での組み立てや生産を進めました。核兵器の開発と配備も進められ、特に弾道ミサイルの技術が向上して、DF-21(東風21)やDF-31(東風31)などの新型弾道ミサイルを開発・ 配備し、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も開発していました・・・約3兆6600億円もの日本の経済援助により、浮いた国家予算でつくられた中国の武器が、今まさに日本を威圧しているのです。もしこの大金の一部でも、当時からフジモリ大統領のペルーや日系移民の多い南米諸国に援助されていたら、経済の安定に対して絶大な効果を発揮し、南米の発展に大きく寄与していたはずです。 南米からの移民問題が常にアメリカ合衆国を揺るがせ、今はとりわけ大問題になっています。その南米が日本の援助で安定していれば、米国の分断ももっと温和なも のになったでしょう。 そして、グローバルサウスに南米の国々が大きな影響力を持つ時代が来ました。中国への付き合い方を慎重に考え、南米をもっと援助していれば、グローバルサウスに日本は大きな影響力を持てたはずです。 中国に感謝もされず、反日国家を育てたのも自民党政権でした。祖国を愛しながら、他国で日本人ならではの勤勉さを発揮していたフジモリ大統領のことを面前で「物乞い扱いした」自民党と日本政府こそ、税金泥棒だったのではないでしょうか」、全く同感である。
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