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働き方改革(その12)(小田嶋氏の見解) [経済政策]

昨日に続いて、働き方改革(その12)(小田嶋氏の見解)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋 隆氏が2月23日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「司令官たちの戦争、僕らの働き方改革」を紹介しよう。
・今国会は「働き方改革国会」と位置づけられているのだそうで、なるほど、進行中の国会審議では、働き方改革関連法案をめぐる議論が行ったり来たりしている。 現今の主たる争点は、政府がこれまで裁量労働制で働く人の労働時間について「一般労働者より短いデータもある」としていた国会答弁を、安倍晋三首相が撤回したところだ(こちら)。
・この問題を、時事通信は「データ誤用」という言葉を使って記事化している(こちら)。 「データ誤用」の具体的な中身は、日刊ゲンダイのまとめではこのとおりだ。 -略- 同省(厚労省)は19日、根拠としたデータ(2013年度労働時間等総合実態調査)を精査した結果を公表。それによると、一般労働者の残業時間については、1カ月のうち「最も長い日」のデータに法定労働時間の8時間を単純に加えて1日の労働時間を算出した一方、裁量労働制は通常の1日の労働時間を用いて比較していたという。(ソースはこちら) 
・ということだ。つまり、二つの働き方を比べるにあたって、それぞれ前提の違うデータを持ち出して比較していたことになる。これは、悪意を疑われても仕方のないところだろう。 日刊ゲンダイの記事はさらに、 -略- 塩崎恭久前厚労相は2015年7月の衆院厚労委、17年2月の衆院予算委でそれぞれ、〈厚生労働省自身の調査によりますと、裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均的な方で比べますと一般労働者よりも短いというデータもございまして、例えば一般の平均的な方が9時間37分働いていらっしゃいますが、企画業務型の裁量労働制の方は9時間16分ということで、約20分短いというデータもございます〉と答弁していた。 -略-  と、3年前の国会審議から、一貫して同じデータが引用されていた点を指摘している。
・ともあれ、3年間にわたって引用され、議論の基礎となってきたデータ自体が「捏造」とは言わないまでも、明らかな「誤用」ではあったわけで、とすると、これまで積み上げてきた議論の前提自体が崩れてしまう事態は避けられない。
・前述のリンクにある日刊ゲンダイの記事では、 《-略- 野党6党が国会内で開いた合同会議では、厚労省の担当者が「異なるやり方で選んだ数値を比較したことは、不適切だった」と頭を下げた。 -略-》 ことになっているが、これはアタマを下げればそれで済む問題ではない。
・ベースとなる説明のデータが「誤用」だったことがはっきりした以上、法案そのものをリセットするか、審議をゼロに戻すか、でなければ、今国会での法案の成立そのものを断念するのがスジだ。 しかし、たぶんそんなことにはならない。 法案は、間違いなく成立する。 私はそう確信している。
・私が法案の成立を確信する理由は、表向きには、与党勢力が衆参両院においてともに過半数を超える議席を確保しているからなのだが、私の内心を圧迫している理由は、実は、それだけではない。 個人的には、目先の議席数の多寡よりも、そっちの理由の方が本質的だと考えている。
・今回は、その話をする。 私がなんとなく観察している範囲では、国会の議席数とは別に、世論は、政府の働き方改革の内容、というより気分を、大筋において支持している。 気分というのは、働き方改革を働き方改革ならしめている設計思想の部分というのか、「日本の企業の収益力を高めるためには、労働者にある程度泣いてもらわなければならない」といった感じの、「割り切り」ないしは「切り捨て」の部分に、思いのほか広範な支持が集まっているように見える、ということだ。
・「だってさ、日本の企業の国際競争力を高めるためには、労賃を節約する施策が必要なわけだろ?」 「そりゃ、企業の収益力の向上には人件費を抑えることが一番の近道なわけだし」 「だとすれば、安価で優秀な労働力の確保を最優先にした施策を打ち出すのは当然だよな」 てな調子でこの法案を受けとめている人たちが日本人の多数派を占めている(ように見える)ということだ。
・なぜ、労働者である自分たちの権益が削がれるかもしれない法案に平気な顔で賛成できるのか、そこのところの理屈は実は、いまのところはまだ、うまく解明できていない。 ただ、一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっていることは、明らかな事実だったりもする。
・とすれば、お国の打ち出す施策が経営者にとって望ましい方向に近似して行くことは、これはもう自明の理だ。 昔からそうだが、男の子が戦争の話をする時には、司令官の目線で語ることになっている。 どこどこの戦線を打開するためには、これこれの戦力をこんな手順で投入してとかなんとか、夢想の中の戦争は、常にマクロの視点からの戦略として発想され立案される。そして、ゲーム盤の上のストラテジックでスリリングで、血湧き肉躍るヒロイックなストーリーは、あるタイプの人々に常に変わらぬ陶酔をもたらすのである。
・もちろん、現実に戦争が起こってみれば、ほとんどすべての兵士は盤上の一個のコマになりはてる。 が、具体的な肉体としてミクロの戦線に放り込まれ、物理的な泥沼の中で火薬と鉄と血と涙にまみれたまま転がされる一個の肉体たる兵士の気持ちなど、知ったことではない。戦争を夢見る人間は、兵隊の夢なんか見ない。国家の戦争を夢見る人間は、ほかの誰かが死ぬ夢と、凱旋パレードの夢だけを選択的に反芻することになっている。
・おそらく、国策や企業戦略についても事情はそんなに変わらない。 夢見がちな人々が娯楽として思い浮かべるのは、ミクロな労働者の個人的な懊悩や、貧困にあえぐ失業者の陰にこもった失意や、日々の暮らしに疲弊した非正規労働者を襲う無力感ではない。彼らが繰り返し思い浮かべては頬を緩めるのは、国際社会を舞台にイノベーションを追求する若きアントレプレナーの野望と成功であり、画期的な改革案を胸に会議に臨む架空のビジネスエリートのスチャラカ出世物語だったりするのである。 
・…何を言いたいのか説明する。 21世紀にはいってからぐらいだと思うのだが、私の目には、この世界のなかで起こるさまざまな出来事を「経営者目線」でとらえることが優秀な人間の基本的マナーですぜ的な、一種不可思議なばかりに高飛車な確信が広がっているように見えるのだ。
・その「経営者目線」は、別の言葉で言えば、「勝ち組の思想」でもあるのだが、経営でも政策でも戦略でも受験でも、自分が労働者であるよりは経営者であり、負け組であるよりは勝ち組であり、とにかく勝っている側に立って考えるべきだとする前提が、あまたの自己啓発書籍の教える勝利の鉄則だったりするということだ。
・で、そういう、決して負けを想定しない勝ち組理論の中では、弱い者や貧しい者や運の悪い人間や恵まれない育ちの仲間は、「自己責任」というよく切れる刀で切って捨ててかえりみないのが、クールな人間の振る舞い方だってなことになっている。
・一番短い言葉で言えば、「ネオリベラリズム」ないしは「市場原理主義」ぐらいの言葉に集約できる思想なのかもしれない。ともあれ、こういう、本来なら本当の勝ち組の人間を想定したバカなラノベ(注)の主人公が本文中で生存者バイアス丸出しでしゃべり倒すにふさわしい軽薄極まりない思想が、どうしてなのか若い世代やイケてるつもりの連中の合言葉になってしまっているようにみえる。
(注)ラノベとは日本で生まれた小説の分類分けの1つ、定義はあいまい(Wikipedia)
・この事態に、私はいまだにうまく適応できずにいる。 「勝ち残ったオレは優秀だ」 「優秀なオレが勝ち残ったんだから、この競争は公正だ」 「優秀なオレが勝ち残る市場をビルトインしているわけなのだからこの世界はフェアで正しくて美しい」 「負けた人間は自分の能力不足で負けただけなのだからして、同情には値しない」 「負けた人間に温情をかけるのは、その人間の弱さを助長する意味でかえって残酷な仕打ちだ」 と、乱暴に要約すれば、こんな感じの、中二病どころか小学校5年生の実写ジャイアンみたいな思想が蔓延しているのだとすれば、裁量労働制が支持されるのは当然の流れというのか、時代の必然と申し上げねばならない。
・働き方改革と呼ばれている一連の施策が、実際にはシバキ上げ改革であり、裁量労働制の実態が「賃金固定制」ないしは「残業手当廃止制度」であるのだとしても、はじめから脳内俺様劇場において自分を勝ち組の側に固定してしまっている経営者目線の国民たちは、まさか自分が労働の成果を搾取される側の人間であるとは思いもよらぬがゆえに、いそいそと支持にまわる。
・……というのはあまりに馬鹿げた想定だが、あまりに馬鹿げているがゆえにかえってありそうに思える話でもあると思うのだがどうだろうか。 司令官として腕を振るうシミュレーションでしか戦争を考えたことのないアタマでっかちのオタクが、一兵卒として泥水の中で飢えて死ぬ自らの近未来像を想定しないように、働き方改革をなんとなく支持する国民も、自分が最低賃金すれすれの報酬でひと月のうちの28日を非正規労働者としてのたうちまわる未来が訪れる可能性についてはまったく無頓着だ。
・先週にも触れた日曜日の民放のバラエティー番組で、今度は、MC役の松本人志氏がネットカフェ難民について 「働いてほしい」 という発言をして話題になっている。 -略- 番組では、ネットカフェ難民が就労先を探すも住所がないことが支障になり悪循環に陥っているという現状を伝えたが、松本は「わからんようにちょっとずつ(部屋を)狭くしたったらどう?」と珍案を提示。出演者たちは笑いながら「追い出す話じゃないですよ」「その人たちが出ていった時に行かれるところを作らなきゃいけない」と諭したが、松本は「なんかみんな優しいなぁ、話を聞いてると。俺は若干、イライラしてきてる」と反論。「(ネットカフェ難民に)ちゃんと働いてほしいから」と自身の考えを説明した。
・-略- (ソースはこちら) つまり、ネットカフェみたいなそこそこに居心地の良い環境に甘えられる現状が、必死で職探しをしない生き方を続けさせてしまっている、という見方なのだろう。 自分では愛のムチのつもりで言っているのだと思う。 よくある無知のムチというやつだ。 人には個々の事情があるという、そこのところに想像が及ばないのだろう。
・「甘えるな」の一言で問題が解決するのなら、それこそ政府などはじめから必要ないし、社会保障もハローワークもいらないことになるってなあたりのあれこれについても、マトモに考えたことがないのだろう。 松本氏の発言は、お笑い芸人によるウケ狙いの逆張りだということで大目に見るのだとして、個人的には、むしろ、上記の日刊スポーツの記事で引用されている社会学者の古市憲寿氏の言葉に大きな問題を感じている。
・-略- 社会学者の古市憲寿氏は「30代で夢を追うためにネットカフェって別にいいと思うんですよ、自分の人生だし」と理解を示す一方で、40~50代のネットカフェ難民も増えていることについて「昔はフリーターってイメージ的に若者が多かったじゃないですか。でも昔フリーターだった人が今どんどん高齢化していて40代、50代になりつつある。だから、それで一生いいの? っていう話はある。まだ健康なうちはいいけど、50代、60代で体の健康とかも悪くなって病気になったりとか、親が介護になったり死んだりとかって場合にどうするのっていう問題。フリーターの高齢化みたいな問題で考えると悩ましい」と語った。 -略-
・そりゃたしかに、ネットカフェに一夜の宿を求めながら、ロケンローラーの夢を追っている青年がいないとは言わないし、吟遊詩人やダンサーやユーチューバーになりたくて、あえて正社員での採用を蹴飛ばして不安定な非正規の仕事で糊口をしのいでいる野心あふれる愛と青春の旅立ちなヤングピーポーだって、探せば見つからないこともないのだろう。
・だが、大多数のネットカフェ難民は、夢だとかポエムだとかいったそういうふわふわした言葉とはまるで無縁な暮らしの中で、余儀なく住所不定の日常に追い込まれているはずなのだ。40~50代のフリーターに対しても、古市氏は「それで一生いいの?」とかいうお気楽な質問をカマしてしまっているが、50ヅラ下げたフリーター本人が自分で自分の生活についてそれでいいと思いつつ夢を追うオレの人生ってセツナウツクシイとかなんとか、そんなことを考えてるはずがないではないか。
・にもかかわらず、彼は、ネットカフェ難民が、非正規で働くことや孤独であることも含めて、経済的に自立できずにいることや、一寸刻みに若さを喪失しながら四十の坂を上り詰め五十の坂を転げ落ちたりしていることのすべてを、「本人が自己責任で自ら選んだこと」として語ってしまっている。 致命的にダメな分析だと思う。
・ただ、論点は、そこではない。 私が当稿で訴えたいのも彼らの至らぬ点についてではない。 問題は、こういう発言が受けているということだ。 視聴者の多くが、これらの発言を問題視しないどころか、大筋において共感をもって受けとめているからこそ、番組は成り立っている。ということはつまり、私が非常識だと思ってくどくどと責め立てていた彼らの発言こそが、実は現代の日本の庶民の多数派が抱いているところの最大公約数の世論だったということで、とすると、非常識なのは私の方だったということになる。なんということだろう。
・おそらく、世間の少なからぬ層の人々は 「ネットカフェ難民なんて甘ったれてるだけだからどんどん追い出してホームレスから再出発させればいいんだよ」 「40代で夢追ってフリーターとかイタいっすよね」 というそのままの感想を保持している。
・つい2日ほど前にも、さる上方の落語家がツイッター上に 《世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ。 この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。 我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ。》 (ツイートはこちら) という書き込みをして話題になった。
・この発言について、 「落語家というのは、貧困者や慮外者に寄り添う語り芸の体現者ではなかったのか?」 「強欲って、どういう文脈から出てきた言葉なわけ?」 などと、各方面から批判の声が集まった。  私は何も言わなかった。 無力感に襲われたからだ。
・今回のこれに近い問題に関連して、私は、昨年の9月に 《その昔「不謹慎だけど笑える」ネタは、「反権威・反秩序」の話で、それをとがめるのは「保守・封建・伝統」主義のおっさんだった。それが、ある時期から、笑えるネタが「反人権・反ポリコレ・反フェミニズム」方向にシフトして、眉をひそめるのは「良識・リベラル」派の亜インテリてなことになった。》(こちら) 《何が言いたいのかというと、お笑いが反体制だというのは、20世紀の話(それも多分に幻想)で、21世紀のお笑いは大衆を慰安することで権力の統治を補完しているのではないかということです。まあ、お笑いに限らずロックをはじめとするサブカル全般に言えることなのでしょうが》(こちら) というツイートを発信している。 いまも、この立場に変化はない。
・現代にあって、お笑いは、新自由主義的な、市場原理主義的な、勝ち組が負け組を嘲笑して悦に入る的な、功成り名遂げた先輩芸人が下っ端の芸人やアガリ症の素人を小突き回してその挙動不審のリアクションを冷笑するみたいな娯楽になっているということだ。
・意気阻喪しつつ思うのは、結局のところお笑いが反権力的な技芸だった時代は、歴史上一回も存在していなかったのかもしれない、ということだ。 無論、お笑いは、いまも昔も「反抗」ないしは「逆張り」を旨とする芸能ではある。 しかしながら、その「反抗」の対象が、「国家権力」や「現政権」であるケースはごく稀で、でなくても、現代のお笑いが風刺の対象としてロックオンしているのは、もっぱら「いい子ちゃん思想」や「偽善的な建前」であり、最近では「ポリティカル・コレクトネス」あたりが格好のターゲットになっている。
・もう少し踏み込んだ言い方をすれば、現在お笑いが攻撃の対象としているのは、ヘタをすると、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という日本国憲法の三大原則にあたる思想だったりする、ということでもある。
・彼らは、インテリくさい建前が大嫌いなのだ。 「そんなん、きれいごとやんか」 「ガッコでベンキョできた人らの言う理想っちゅうこっちゃ」 であるからして、彼らの世界で言う「戦っているネタ」 や、「ぶっこんできてる笑い」 や、 「ギリギリで勝負してる芸」 の、「戦い」や「ブッコミ」や「ギリギリ」の相手は、「権力」でもなければ「体制」でもない。当然だが、「首相」でも「政権与党」でもない。
・彼らの戦う相手は、むしろ、政権の敵だったりする場合が多い。 残酷でもあれば不謹慎でもあり、時には下品でも無作法でもあり、なおかつ「ホンネ」を恐れずに表出する人間である彼らが戦っているのは、世の「良識」であり、世間の「きまりごと」であり、いい子ちゃんたちが大切にしている「素敵ぶったマナー」だ。
・それらを嘲笑し、揶揄し、踏みにじり、ケチョンケチョンにやっつけることが、すなわち「戦ってる」ことであり「ギリギリの笑い」を追求しているってなことになる。 もっとも、私は、松本氏が、政権をバックアップするために、意図的にあのような発言をしているとは思っていない。安倍総理と会食したからとかいった理由で、彼が政権にとって有利な話を選択的に選んでいるとも考えない。
・日本のお笑いの世界の人間がおおむね親政権的に見えるのは、別に官邸が世論操作のために大衆文化を使嗾しているからではないし、芸人が権力に迎合しているからでもない。単に、政権のバックグラウンドにある思想と、お笑いの世界を支えている感覚が大筋において似通っているからに過ぎない。 
・具体的にいえば、同じように非インテリ的で反リベラルで本音至上主義的な人間たちである彼らが同調するのは、当然のなりゆきだということだ。 大切なのは、現政権を動かしている思想と当代一流の人気コメディアンの価値観が一致しているのは、必ずしも癒着とか迎合とかではなくて、彼らのアタマの中にある考えは、われら現代の日本人の主流をなすど真ん中の思想であるということだ。
・ということは、これは、正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。 われわれは、善し悪しはともかくとして、こういう時代に立ち至っているのだ。 なんとも、オチがつけられない。 そういうのは当代一流の芸人に任せるべき、ということだろうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/022200132/?P=1

小田嶋氏が、 『ベースとなる説明のデータが「誤用」だったことがはっきりした以上、法案そのものをリセットするか、審議をゼロに戻すか、でなければ、今国会での法案の成立そのものを断念するのがスジだ。 しかし、たぶんそんなことにはならない。 法案は、間違いなく成立する。 私はそう確信している・・・私がなんとなく観察している範囲では、国会の議席数とは別に、世論は、政府の働き方改革の内容、というより気分を、大筋において支持している。 気分というのは、働き方改革を働き方改革ならしめている設計思想の部分というのか、「日本の企業の収益力を高めるためには、労働者にある程度泣いてもらわなければならない」といった感じの、「割り切り」ないしは「切り捨て」の部分に、思いのほか広範な支持が集まっているように見える、ということだ』、と予想外に深い社会の潮流から分析しているのは、大いに参考になり興味深い。  『一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっていることは、明らかな事実だったりもする。 とすれば、お国の打ち出す施策が経営者にとって望ましい方向に近似して行くことは、これはもう自明の理だ』、という風潮が強まっていることは確かで、嘆かわしいことだ。  社会学者の古市憲寿氏が40~50代のネットカフェ難民について、厳しい発言をしたことについては、私もそれまで古市氏はなかなか参考になる見方をすると思っていただけに、驚き失望した。 『無論、お笑いは、いまも昔も「反抗」ないしは「逆張り」を旨とする芸能ではある。 しかしながら、その「反抗」の対象が、「国家権力」や「現政権」であるケースはごく稀で、でなくても、現代のお笑いが風刺の対象としてロックオンしているのは、もっぱら「いい子ちゃん思想」や「偽善的な建前」であり、最近では「ポリティカル・コレクトネス」あたりが格好のターゲットになっている』というのは、アメリカでトランプが「偽善的な建前」を攻撃、草の根の世論がこれを支持している構図と何故かうり二つのようだ。  『働き方改革と呼ばれている一連の施策が、実際にはシバキ上げ改革であり、裁量労働制の実態が「賃金固定制」ないしは「残業手当廃止制度」であるのだとしても、はじめから脳内俺様劇場において自分を勝ち組の側に固定してしまっている経営者目線の国民たちは、まさか自分が労働の成果を搾取される側の人間であるとは思いもよらぬがゆえに、いそいそと支持にまわる』、というのであれば、最終的に自分が「搾取される側の人間である」ことが分かるまでは、現在の風潮は変わらないのかも知れない。或いは、分かる頃には、自分がした判断を忘れて、無反省のまま終わるのかも知れない。やれやれ・・・。
タグ:40~50代のネットカフェ難民も増えていることについて「昔はフリーターってイメージ的に若者が多かったじゃないですか。でも昔フリーターだった人が今どんどん高齢化していて40代、50代になりつつある。だから、それで一生いいの? っていう話はある。まだ健康なうちはいいけど、50代、60代で体の健康とかも悪くなって病気になったりとか、親が介護になったり死んだりとかって場合にどうするのっていう問題。フリーターの高齢化みたいな問題で考えると悩ましい」と語った 古市憲寿氏 働き方改革と呼ばれている一連の施策が、実際にはシバキ上げ改革であり、裁量労働制の実態が「賃金固定制」ないしは「残業手当廃止制度」であるのだとしても、はじめから脳内俺様劇場において自分を勝ち組の側に固定してしまっている経営者目線の国民たちは、まさか自分が労働の成果を搾取される側の人間であるとは思いもよらぬがゆえに、いそいそと支持にまわる 、「ネオリベラリズム」ないしは「市場原理主義」ぐらいの言葉に集約できる思想 勝ち組の思想 21世紀にはいってからぐらいだと思うのだが、私の目には、この世界のなかで起こるさまざまな出来事を「経営者目線」でとらえることが優秀な人間の基本的マナーですぜ的な、一種不可思議なばかりに高飛車な確信が広がっているように見えるのだ 一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっていることは、明らかな事実だったりもする 、「日本の企業の収益力を高めるためには、労働者にある程度泣いてもらわなければならない」といった感じの、「割り切り」ないしは「切り捨て」の部分に、思いのほか広範な支持が集まっているように見える、ということだ 世論は、政府の働き方改革の内容、というより気分を、大筋において支持している 政府がこれまで裁量労働制で働く人の労働時間について「一般労働者より短いデータもある」としていた国会答弁を、安倍晋三首相が撤回したところだ 「司令官たちの戦争、僕らの働き方改革」 経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その12)(小田嶋氏の見解) 働き方改革
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