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森友学園問題(その15)(小田嶋氏:霞が関文学としての森友文書) [国内政治]

森友学園問題については、昨年8月3日に取上げたままだった。これは、事態が余りに流動的だったためでもある。今日もこの問題で国会審議が行われるようだが、取り敢えず、(その15)(小田嶋氏:霞が関文学としての森友文書)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋 隆氏が3月16日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「霞が関文学としての森友文書」を紹介しよう(+は段落)。
・今週のはじめに財務省が森友関連文書の書き換えを認める方針(←方針かよ)を発表して以来、世間の空気は微妙に険しくなっている。 論点は多岐にわたるが、ざっと考えて以下のような疑問点が浮かぶ。
 +改ざんに関与した官僚は何を隠蔽したかったのか。
 +彼らは、何におびえているのか。
 +「佐川(宣寿・前国税庁長官)の(国会での)答弁と決裁文書の間に齟齬があった、誤解を招くということで佐川の答弁に合わせて書き換えられたのが事実だと思います」という麻生太郎財務相の説明が示唆している「誤解」とは、具体的に誰のどのような認識を指しているのか。
 +佐川氏の答弁が虚偽でなかったのだとすると、その真実の答弁と齟齬していたとされる決裁済みの文書の方に虚偽が含まれていたことになるわけだが、その「虚偽」とは具体的に何を指すのか。そして、その「虚偽」と、文書の改ざん部分は整合しているのか。
 +通常、国会答弁では、質問側が事前に内容を通告する。とすると、当日、佐川氏とともに答弁した首相は、事前に情報を共有をしたはずなのだが、その共有していた情報とはつまるところ改ざん済みの文書ではなかったのか。
 +改ざんのタイミングは、佐川氏が国会で答弁をした後ではなくて、安倍総理が森友学園の認可や国有地の払い下げについて「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と答弁した2月17日の後なのではなかったのか。
・どれもこれも、簡単に答えの出る問いではない。 これらの謎は、今後、国会の審議やメディアの取材を通じて少しずつ明らかになることだろう。 いずれにせよ、私のような者が取り組むべき仕事ではない。私の力でどうにかなる課題でもない。 なので、当稿では、「言葉」の問題に焦点を絞って、森友文書改ざんの背景を考えてみることにする。
・今週は、しばらくぶりに熱心にテレビを見たのだが、なかでも印象に残ったのは、さる民放の情報番組にゲストとして出演していた元官僚の女性のコメントだった。彼女は、改ざん前の決裁文書を読んだ感想として、 「通常、この種の文書の中に個人名を書くことはない」 「ところが、この文書には政治家の個人名とその個人の関わり方が具体的に詳述されている」 「交渉過程をこれほど執拗に記述した文書は見たことがない」 「異様さを感じる」 といった感じの言葉を漏らしていた。
・なるほど。 私は、官僚の書くこの種の文書に詳しい者ではないのだが、それでも、件の決裁文書の異様さはなんとなくだが、感知し得ている。たしかに、あの文書は「異様」だった。 誤解を恐れずに言えば、このたびの文書改ざんは、最初に書かれた文書が異様だったことと無縁ではない。つまり、原本の文書がひと目見て「異様」であったからこそ、財務省の人間はそれを書き換えずにおれなかった、ということだ。
・誤解してもらっては困るのだが、私は「異様」な文章を「正常」な文書に書き換えた財務官僚の行為が正しかったことを立証したくてこんな話をしているのではない。 改ざんは、言語道断の暴挙だ。 ただ、それはそれとして、私がぜひお伝えしたいのは、最初の段階で決裁文書を作成した現場の役人が、その「異様」な文書を通じて訴えようとしたことを正しく読み取らないと、この話の背景にある謎の解明は先に進まないのではなかろうかということだ。
・もっとも、現段階で、私がその問いに対する答えを持っているわけではない。 だから、ここでは、文体と読解力についての思わせぶりな話を書く。 どっちにしても、答えは書かない。 私は、「みんなで考えてみよう」というずるい提案を残して、この場を立ち去るつもりでいる。
・官僚の作文は評判がよくない。 いわゆる「霞が関文学」は、学校でもカルチャーセンターでも常に悪文の典型として非難の的になっている。 というのも、現代において模範とされるテキストは、表現のブレの少ない簡潔な文章だからで、その視点から評価すると、官僚がやりとりしている文章は瑣末な装飾ばかりが過剰で、骨子の伝わるところの少ない、極めて非生産的な言語運用法であるからだ。
・彼らの文章は、 +断定しない語尾 +言質を取らせない語法 +含みを持たせた主語 +焦点をボカす接尾辞 +多義的な接頭辞 といったいずれ劣らぬ曖昧模糊とした要素から構成される、修辞上のレゴブロック作品のごときもので、読み取る側の読み方次第でどうにでも読めてしまえる半面、ほとんどまったく具体的な事実を伝えていない点で、われら一般世界の人間の生活には寄与しない。
・しかしながら、役人が役人として働いている場所では、カドを立てることなく陳情者の要求をかわしたり、確約せずに許認可の利権をチラつかせたり、責任をとらない形式でやんわりと指示を出すような場面で、大いに使い勝手の良いツールだったりもしている。
・それだけではない。 霞が関文体で書かれたメッセージは、木で鼻をくくったような行政文書としての機能とは別に、高い読解力を備えたメンバーの間でだけ通用する符丁としてもっぱら行間を読み合う形式で流通している。 ラテン語を解するエリートだけが共有するアカデミアの結界と似ていなくもない世界が、霞が関文壇の周辺には広がっているわけで、あの練りに練られた悪文を自在に使いこなしている人々は、結局のところ自分たちにしかわからない日本語で何かを伝え合うことのできる、テレパシーにも似た一種の超能力の使い手でもあるのだ。
・私の知っているある自動車オタクは、視界の隅を0.5秒で過ぎ去って行く対向車線のクルマの車種と年式をあやまたずに言い当てる識別能力を持っているのだが、その彼の師匠筋に当たるご老人は背後から追い越しにきているクルマの排気量と気筒数とエンジン型式を排気音のみで聴き分けることができるのだそうだ。  どこまでがホラ話なのかはわからない。が、ことほどさように、時間をかけた没頭と献身は人を神に似た存在に作り変えてしまう。
・であるからして、練達の霞が関文学読解者は、決裁文書の行間に畳み込まれた一見無意味無味無臭の情報から、書き手の失意や無念やあるいは遺言のような言葉すらも読み取ることができるはずなのだ。 たとえば、同じマニア雑誌を長年購読している読者は、その雑誌内だけで通じるジャーゴンやしきたりについての、著しく偏った、かつ高度な読解力を身につけることになる。
・私自身、洋楽にカブれて内外の音楽雑誌を濫読していた時期には、自分で言うのもナンだが、異様な読解力を持っていた。 ひいきの評論家が、一見、ごく普通の言葉で賞賛しているレコード評が、実は明らかな酷評であることなどは、最初の10行を読めば感知できた。 「○○さんが《小粋な》という言葉を使うのは録音が大っ嫌いな時だからなあ」 「××先生がいきなりコード進行の話をしてるってことは、音楽的に退屈だという意味だよ」 と、もののわかった読者は、ささいな言葉の違和感や常套句の運用法を手がかりに、書き手の真意を読み取ることができる。
・もっとも、私は、読解力こそ身につけてはいたものの、音楽雑誌で4年近く連載コラムを執筆していながら、ついに業界標準の褒め殺しの技巧を身につけるには至らなかった。腕の立つレビュアーは、固定読者に向けて「こんなイモ盤買うなよ」というメッセージを伝えつつ、業界向けには無難な賞賛記事として通用するレコード評を自在に書くことができる。まったくうらやましい限りだ。
・読解力は、特別な能力ではない。 一定量以上の文章を読みこなせば、誰にでも身につく能力だ。 逆に言えば、文章を読まない人間が、読解力を磨くことは不可能に近い。 私が残念に思っているのは、現政権が、リーダーである首相をはじめとして、もっぱら、読解力の乏しいメンバーで構成されているように見える点だ(なお、断っておくが、これで「オダジマは野党の政治家の方がマシだと言いたいんだな」と思う方は読解力が足りない)。
・彼らは「言葉」を大切にしない。 なにより、国会答弁をないがしろにしている。 国会での質問に簡潔な言葉で答えないばかりか、官僚の用意した原稿をマトモに読むことさえしない。 記者の問いかけにも真摯な言葉で応じようとない。 くわえて、文書の扱いもおよそぞんざいだと申し上げねばならない。 「無い」と説明した文書が、後になって出てくる例が続いているかと思えば、面会記録を1日ごとに廃棄していると言い張る。さらに、国会審議の基礎データには恣意的な数字を並べたデタラメの統計を持ち出して恥じない。
・いったいどういう神経なのだろうか。 政治家にとっての言葉が、寿司職人にとっての寿司ネタに等しい生命線であることを、彼らは理解していないのだろうか。
・今年の秋に62歳になる私は、昭和の時代から数えて何十という内閣の治乱興亡を見てきわけだが、その老人の目から見て、これほどまでに言葉を軽視している政権は見たことがない。 昭和の時代の自民党の政治家は、強欲だったり無神経だったり高圧的だったり下品だったりで私はほとんどまったく尊敬していなかったものだが、それでも、彼らは現政権の政治家よりはずっと言葉を大切にしていた。その点に限ってのみ言えば、彼らは見事だった。 
・自ら「言語明瞭意味不明」と韜晦していた竹下登氏の一歩引いた位置からの論評(さる世襲の政治家を評して「あれは、竹馬に乗った人間だわな」と言った)はいつも秀逸だったし、大平正芳氏のもたもたしているようでいながら滋味横溢する言語運用と、田中角栄氏の卓抜な比喩は、そのまま見出しになるキャッチフレーズの宝庫として好一対だった。
・引き比べて、現職の閣僚の言葉の貧しさはどうだろう。 私は、語っている政策や答弁の内容以前に、とにかく彼らの文体(というか口調)に耐えることができない。 こんな日本語をこれ以上聞かされるのはごめんだ、と思ってテレビのスイッチを切ったことが何度もある。 なんとも悲しい話ではないか。
・1年ちょっと前に、ツイッター上の知り合いの間で 《AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?》 という記事が、話題になったことがある。 詳しくはリンク先を読んでほしいのだが、要するに、AIの読解力を高めるために研究をしている学者さんが、そのための基礎データを集めるべく人間の子供たちの読解力を調査してみたところ、衝撃的に低い結果が出たというお話だ。
・たとえば、 《仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジアにおもに広がっている。》 という課題文を読ませた後に 《オセアニアに広がっているのは(   )である。》 という文の( )内を埋めさせる問題を出題してみたところ、正解(もちろん「キリスト教」です)した生徒の割合は、公立中学校の生徒で53%、中高一貫高(中学)で64%、公立高校生で81%にとどまっている。
・つまり、この程度の問題文さえ、中学生の半分近くが読み取れていないのだ。 この研究をしている国立情報学研究所社会共有研究センターのセンター長、新井紀子さんによると、文章を読めない子供たちの中には、「キーワードとパターン」で問題文を読み、問題を解こうとしている生徒が意外にいるのだそうで、つまり、文章をきちんと最後まで読んで意味を把握するのではなくて、目についたワードの中からそれらしいものを選んで答えを選びに行っている生徒が少なくない、ということらしいのだ。
・この感じは、私にもある程度わかる 実際、文章を読み慣れていない子供は、論理が錯綜しているタイプの文に出くわすと、その時点で読むことを投げ出してしまう。 たとえば、 「うそをつかずに生きることの苦手なタイプとは正反対の生徒が集まるクラスの中にあって私は例外的な存在だったというのはうそだよ」 のような、4重にも5重にも理屈がひっくり返っているタイプの文章を読むと、たいていの人はアタマが混乱する。  これは無理もない。相当に手の込んだ悪文だからだ。
・が、文章を読み慣れていない子供たちは、「うれしくないこともない」「食べすぎないように気をつけないといけない」といった程度の二重否定にでくわしただけで、完全に文意を見失ってしまう。 そういう子供たちは、やがて文章を読解する作業そのものを憎むようになり、最終的には論理を操る人間に敵意を抱くタイプの大人に成長する。
・思うに 「野党は重箱の隅ばっかりつついてないできちんと議論しろよ」 「マスゴミの印象操作にはうんざりだ」 みたいなことを言っている政権支持層の中には、そもそもの傾向として、議論や読解を受け付けない人々がかなりのパーセンテージで含まれているのではないか。 私のツイッターに毎度意味不明のリプライを寄せてくるアカウントの多くは、140文字以下の文章すら正確に読解できていなかったりする。 なんともやっかいなことだ。
・「明日雨が降らないと言い切るのが極めて困難であることを信じるのは不可能だ」 と言っている男は、実際のところ、明日雨が降ると思っているのだろうか? それとも雨が降らないことを予想しているのだろうか。  霞が関文体は、間違いなく悪文だし、それを自在に駆使している官僚という人々は、ある意味知的能力を無駄遣いしている不毛な存在でもある。
・でも、彼らが一見不必要に思える人名を列挙しながら行間に書き込もうとしていた叫びに、誰かが真摯に耳を傾けないといけない。 そういう意味では、まさしく森友文書は「文学」だったのかもしれない。 なぜなのかは、行間を読むまでもなく分かるはずだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031500135/?P=1

小田嶋氏が、 『霞が関文体で書かれたメッセージは、木で鼻をくくったような行政文書としての機能とは別に、高い読解力を備えたメンバーの間でだけ通用する符丁としてもっぱら行間を読み合う形式で流通している・・・練達の霞が関文学読解者は、決裁文書の行間に畳み込まれた一見無意味無味無臭の情報から、書き手の失意や無念やあるいは遺言のような言葉すらも読み取ることができるはずなのだ』、との「霞が関文学」への批判的解説はその通りだ。 『(現政権の)彼らは「言葉」を大切にしない。 なにより、国会答弁をないがしろにしている。 国会での質問に簡潔な言葉で答えないばかりか、官僚の用意した原稿をマトモに読むことさえしない。 記者の問いかけにも真摯な言葉で応じようとない。 くわえて、文書の扱いもおよそぞんざいだと申し上げねばならない。 「無い」と説明した文書が、後になって出てくる例が続いているかと思えば、面会記録を1日ごとに廃棄していると言い張る。さらに、国会審議の基礎データには恣意的な数字を並べたデタラメの統計を持ち出して恥じない。 いったいどういう神経なのだろうか。 政治家にとっての言葉が、寿司職人にとっての寿司ネタに等しい生命線であることを、彼らは理解していないのだろうか』、 『昭和の時代の自民党の政治家は、強欲だったり無神経だったり高圧的だったり下品だったりで私はほとんどまったく尊敬していなかったものだが、それでも、彼らは現政権の政治家よりはずっと言葉を大切にしていた。その点に限ってのみ言えば、彼らは見事だった』、との現政権批判は痛烈で、全面的に同意できる。 最後の 『彼らが一見不必要に思える人名を列挙しながら行間に書き込もうとしていた叫びに、誰かが真摯に耳を傾けないといけない。 そういう意味では、まさしく森友文書は「文学」だったのかもしれない』、との皮肉っぽい結びは見事だ。
なお、森友学園問題についての通常の分析記事は、後日、改めて取上げるつもりである。
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