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女性活躍(その7)(河合 薫氏の三題:職場に異変?「オス化」した女たちの逆襲、「女は大学行くな」で考える男の言い訳、「女性省」構想は男たちの悪巧み) [社会]

女性活躍については、昨年12月18日に取上げた。今日は、健康社会学者の河合 薫氏が日経ビジネスオンラインに寄稿した3本を、(その7)(河合 薫氏の三題:職場に異変?「オス化」した女たちの逆襲、「女は大学行くな」で考える男の言い訳、「女性省」構想は男たちの悪巧み)として取上げよう。

先ずは、2月6日付け「職場に異変?「オス化」した女たちの逆襲 出世に目覚めた女性は「両性」の良さを併せ持つわけでして…」を紹介しよう。
・「女性社員たちの“オス化”がすごくって、結構、驚いています」── 某大手企業で部長を務める男性はあきれ顔でこう話し始めた。 オス化──。 ふむ。微妙な言い回しである。 数年前なら躊躇なく使っていたけど、ナニかと過敏なこのご時世、不用意に使って大丈夫な言葉なんだろうか?
・実はつい先日も、私がインタビューした女性が、社内の役員会議で“過敏症候群”(←私が勝手に付けた名前です)とおぼしきやりとりがあったと教えてくれた。
 役員A:「“ジジイの壁”は確かにある。でも、“ババアの壁”もあるな」  役員B:「ある、ある」  役員C:「でも、“ババア”はまずいだろう」  役員D:「侮辱的な意味があるからな……」
 女性:「男性はジジイって言われても平気なんですか?」
 役員一同「別に、何も気にならない」  役員C:「比べるのが変だよ!」  役員一同「(大きくうなづく)」
・このやりとりを教えてくれた女性曰く、「女性差別の端っこが垣間見えた気がしました(苦笑)」と。「でも、男の子のいるお母さんは、ババアって言われていますよね。それでもうれしそうに世話を焼いてる」と、笑っていた。 これは拙著『他人をバカにしたがる男たち』の帯に書かれている「職場に社会にはびこるジジイの壁の正体」を見たときのやり取りだそうだ(この会社ではありがたいことに社員教育用にご購入いただいた)。
・ちなみに“ジジイ”とは、「変化を嫌い、自分の保身だけを考え、『会社のため』『キミのため』と言いながら、自分のために既得権益にしがみつき、属性で人を判断し、『下』の人には高圧的な態度をとる人びと」のこと。 ジジイは年配の男性とは限らず、女性にも若者にもジジイはいる。そして、おそらく誰もがジジイ的なものを心の奥底に秘めている(私も含め)。しかしながら、今の日本の職場ヒエラルキーの「上階」が男性で占められているので、“ババア”ではなく“ジジイ”と呼んでいるのだ。
・と、ちょっとばかり脱線してしまったが、要するに良い意味でも悪い意味でも、「女性」にはまるで腫れ物に触るがごとき過敏になっている昨今。“オス化”という表現はやっぱり微妙だ。それでもやはり使います!「メス化する男たち」なんて本もありましたし……。 というわけで、今回は「オス化する女たち」というテーマで、アレコレ考えてみようと思う。
・そもそも何が「オス化」なのか? 冒頭の男性の話をお聞きください。 「一昨年、女性で初の部長が出ました。当時の年齢は52歳です。社内でも女性活躍は進めているんですが、彼女に続く女性が出るか心配だった。 ところが……、それは男の浅はかな考えだったんですよね。 いやね、実はもうひとつ、部長のポストが空く予定なんです。そしたら、驚いたことに50前後の女性たちがいっせいにやる気を見せたんです。といっても、頑張るのはいわゆる裏工作です。出世願望の高い男たちがやってきたような、ゴマスリ、ヨイショ、密告、が始まったんです。
・先日も『相談したいことがある』と、51歳の女性部下に夕飯に誘われました。驚きましたよ。彼女の方から『飲みに行きましょう』なんて話は滅多にないことですから。そしたら、『僕の下でもっと頑張りたい』って言うじゃないですか。こんなこと今まで言われたことないですから、ダブルショックです。
・まぁ、こちらとしてはやる気を出すことも、それを上に訴えるのも大歓迎です。でもね……、密告がスゴい。同僚や後輩女性のことだけじゃなく、同じく次期ポストを狙っているであろう男性社員に関しても『アレがダメ、コレがダメ』とダメだしの連続です。 で、極めつけは『自分はこんなに頑張ってます!』の猛烈アピールです(苦笑)。
・これって、ある意味男社会の悪しき風習なんです。それを女性がやっている。しかも、ひとりじゃない。他の女性たちも雨後の筍のごとく、同じようにアプローチしてくる。いや~~、完全に女性の“オス化”です。
・上にべったりはりついてる粘土層のオヤジ社員は、ヤバいですよ。女性の方が、なんやかんやパワーがあるし、気が利くし、上の扱いも上手い。しかも、彼女たちの密告する内容は、どれもこれも正論。『アナタのおっしゃるとおり!』というばかりで否定のしようがない。粘土層社員が、一掃されるかもしれませんね(苦笑)」 ……以上です。
・補足しておくと、“オス化する女性”の話をしてくれた男性の会社は、日本を代表する大企業だ。他の大企業同様、管理職の女性比率を増やしてきた。ところが、「課長」にはなっても「部長」になりたがらない。「女性初の部長」は、いわば男社会に生き残ったと自他ともに認めるスーパーウーマン。下の世代は、「○○さんのようにはなれない」と事あるごとに昇進を嫌っていたそうだ。
・ところが、その女性たちが豹変した。我も我もと「出世したいです!」オーラを連発し、あまりの露骨さにおののいている、というわけ。 なぜ、今になって女性たちは豹変したのか?  私には、なんとなく彼女たちの気持ちが分かるような気がする。 いろいろな意味で、“狭間”なのだ。 50歳という年齢に加え、社内の女性の数という点でも“狭間”で。
・「自分たちの上の女性」が少ない一方で、「自分たちの下の女性」は多い。つまり、これまで「女性用」として用意されていた椅子に座る倍率が一気に跳ね上がり、下手すれば下に追い越される。「このままで生き残れるのか?」という漠然とした不安が、日増しに強まっているのだろう。
・とはいえ、上のスーパーウーマン世代ほどキャリア意識は高くない。私自身、社会人になったときには「今のような自分」になることなど微塵も想像していなかった。が、気がつけばこの年齢。自分がやってきたことにそれなりの自負もある。 社外には自分と同年代が要職に抜擢され活躍していたり、はたまた自分で新たな道を切り開き、パイオニアとしてがんばっている女性もいる。
・「今、踏んばらなくてどうする? 10年後、いやいやこのままでは5年後もないかも……」 などと自問し、結局のところ前に進むしか選択肢はなく、「うん。自分もがんばろう。もう一踏ん張りしよう」──。 そんな気持ちになっているのだと思う。
・うん、そう。“オス化”という言葉の妥当性は横に置いといても、今いる職場で、とことんやってみようと、腹を決めたのでは? と推察している。 方や男性たちは、これまで女性たちの言動にこれまで頭を悩ませてきた。「女性は自尊心が低い」「女性には男性のような攻撃性がない」「女性は昇進意欲が低い」「女性は不安傾向が強い」「女性はすぐに感情的になる」などなど、「やっぱり女は違うよね」という意見や、「だから女性は……」という嘆きを、これでもか!というくらい聞かされてきた。
・しかしながら、実際にはこういった性格傾向や言動に「男女差はない」。 古くから学者たちがこぞって明らかにしてきた、いくつもの「心理的特性や行動傾向の男女差」に関する研究で得られた統計量を、共通の効果サイズに変換し分布や平均値を算出すると(メタ分析)、男女差は有意でないばかりか、様々な調整要因によって男女差の方向性が逆転することが確かめられているのである。
・わずかに男女差が認められるものでも、男女間の差異は同性内の個人差に比べて小さい。 つまり、現実社会における男女差を説明するために社会心理学者たちが果たした貢献は、男女差がいかに社会的状況に左右されるかを明らかにしたことにある。一般に男女差とされる特性は、多様な要因の影響を受けて出現したもので、環境が変われば消滅する。
・であるからして、女性を取り巻く環境が変わった今。女性の“オス化”現象がおきたとしても不思議でないのである。 ただし、男と女はややこしきもの。「個人特性」ではなく、「ジェンダー・ステレオタイプ」という、いわば“社会のまなざし”からのぞいてみると、ちょっとばかり興味深いことがわかる。
・「ジェンダー・ステレオタイプ」は男性、女性という社会的カテゴリーのメンバーに関する知識構造で、具体的には 
 男性:自信、独立、冒険的、決断、支配、強さ、競争
 女性:配慮、相互依存、温かさ、繊細、養育、従属性、協力 などが含まれる。
・さらにこれらのイメージが、
 男性=「キャリア」「努力」「高権威」
 女性=「家庭」「温かさ」「低権威」 といった性役割的概念と結びつき、規範的性質を含んだものとして保持されていく。
・ジェンダー・ステレオタイプは社会の深部に根付いているので、長期に記憶される無自覚の価値観として刷り込まれる。そのため本人が意識することなく、ジェンダー・ステレオタイプに合致する言動を演じるようになる。
・女性が「子どもが好き」とアピールしたり、親切にふるまったり、外見に注意を払ったり、男性が「リーダーシップ能力」をアピールしたり、決断力を示したり、スポーツにコミットするのも、ジェンダー・ステレオタイプによるものである。 しかも、「異性」を意識すればするほど、自己ジェンダー・ステレオタイプは強化される。心が勝手に動いてしまうのだ。
・例えば、普段料理をしない女性が、彼氏にお弁当を作ったり、バリキャリの女性が「手料理を部下に振る舞う」なんてことも、異性を意識したことで長期記憶が規範的行動として掘り起こされた無意識の結果と考えることができる。
・実際に、男女の権力格差が小さい国(フランス、ベルギー、オランダ、米国)と、大きい国(マレーシア)の学生を対象に検討したところ、前者の女性の方が、自己ジェンダー・ステレオタイプが強い。 一見矛盾した結果に思われるかもしれないけど、男女平等が進めば進むほど、異性と接する機会が増える。自己ジェンダー・ステレオタイプは異性という要因で強化されるので、結果的に「女性はより女らしく」、「男性はより男らしく」、無意識に演じるようになってゆくのである。
・つまり、男女平等化が進み、女性が家庭を飛び出し外で働くようになったことで、女性の“オス化”傾向が認められるものの、それは女性が「女性らしく振る舞う」ことを止めたわけじゃない。ちょっとばかり古いネタだが、1980年代後半にニューヨークのキャリアウーマンがスニーカーで出勤し、オフィスでパンプス履き替えているといったこと話題になったが、まさしくコレ。
・そういえばフランスの女性は強いけど、色っぽい。内面的には男性に同化し、出世志向を強めながらも、オンナを演じる部分は残し続ける。日本にも、こういった女性たちが増えつつあるってこと。「私にはムリ」と尻込みしていた女性が立ち上がれば、保身だけに走り、ジジイの壁に張り付く粘土層社員はかなりヤバい。
・だって、ただの“オス化”ではないのだ。「配慮、相互依存、温かさ、繊細さ」といった女らしさも合わせ持つ。両性。そう“両性化”だ。 もちろんこういった頼もしい女性たちは、女性活躍が進み、女性が育児などで辞める必要のない一部の企業でしか誕生していないのだと思う。
・それでも、個人的には頼もしい女性が一人でも増えればいいなぁと願い、そして、お願いだから彼女たちにはジジイ化だけはしないで欲しいと思う。スカートを履いたオジさんではなく、スカート履いたデキるミドルになって欲しい。
・最後に、男性たちの背筋が凍る話をしておきます。 両生類のサラマンダーにはメスだけの集団がいて、何不自由なく、600万年以上繁栄している。 両生類のサラマンダーはメスだけの集団でも繁殖できる。その理由はオスが生息地に残していくDNAを「盗んでいる」という
・一般的には、メスが産卵を始めるとオスが精子を排出する体外受精で繁殖するのだが、この方法にうんざりしたメスたちが、”こっそりセックス”を試みているのだとか。 しかもその方法がすごい! なんと自分たちの集団に属さないオスが、生息地に残していくDNAを「盗んでいる」というのだ!メスたちはオスが放出した精包(精子が入ったカプセルのようなもの)からDNAを盗み、その後、精子を勝手に使って産卵。
・ただし、DNAの使い道は異なる。「DNAは卵の受精に使うわけではなく、自分自身のゲノムに単に加えている。したがって彼女たちの中には、たいていの動物のように染色体を2本1対ではなく、3本、あるいは4本を1組として持つ個体がいる。 その結果、身体の一部を失っても再生することが可能で、驚くことに、オスとメスがそろっているときよりも1.5倍も速く新しい尾を作り出せる」(「メスしかいないサラマンダー、驚きの利点判明」 ……メス集団、恐るべし!
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/020500142/?P=1

次に、4月17日付け「「女は大学行くな」で考える男の言い訳 6歳の少女が教えてくれた会社が変らない理由」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・今回は「ミドルたちのこれから」についてアレコレ考えてみる。 突然ですが、「あなたはあなたを知っているか?」 そして、 「あなたは変革を担っているだろうか?」
・「もう50年以上自分と付き合ってるんだから、知ってるも何もないだろ?」「少なくとも会社での自分のポジションは、よ~くわかっているぞ(苦笑)」「そうそう。オレたちの時代は終わったってことは知ってる(笑)」「あとは下の世代に迷惑かけないように、息を潜めるだけ」「こんな自分でもさ~、若いときは色々夢見たけどね」「かっこつけて起業とかしても、あんまり上手くいってるヤツいないしな~」「まぁ、給料減っても65歳までは一応いられるんで」 ……なんてことを思っているのであるまいか?
・実は冒頭のメッセージの発信者は、神戸女学院大学と津田塾大学。 言うまでもなくどちらも女子大である。つまり、これらは若い女性たちに送ったもの。が、私は「私たちの世代」へのメッセージとして受け止めるべきと感じた。 少なくとも私は自問した。「私は私をホントに知っているのか? 私は変革を担っているか?」と。
・例えば、こちらが神戸女学院大のメッセージの全文である。JRと阪急電車の車内広告に掲載されているので、ご覧になった方もいるかもしれない。 「女は大学に行くな、」とは、数年前に物議をかわした曽野綾子さんの「女は子どもができたらお辞めなさい」(忘れちゃった方はこちらをどうぞ)を彷彿させるコピーだが、全文を読めば全く真意が異なることがわかる。
・大学の広報担当者はWebニュースのインタビューに、次のように話している。「伝えたいのは『正解がない。その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。』というところです。 大学時代だけではなくその後の人生においても学び続けていってほしいと願っています」
・確かに。自由と言いながらも、若い女性たちは「産めや、働けや」と戦時中並みにプレッシャーをかけられている。「女は大学に行くな、」「私はまだ、私を知らない」という刺激的かつ温かいメッセージは、若い女性たちの心を掴み、「泣いた」「勇気が出た」「かっこよすぎる」などとSNSでは大絶賛。車内で涙が止まらなくなったという女性もいたという。
・でもね、オジさんやオバさんたちだって、正解や当たり前に囚われすぎているように思えてならないのです。 “職場”という狭い世界の中の「自分」しか見えてないんじゃないのか? と。 正解のない時代だからこそ、学び続けなくてはならないのに、私たちオトナは学び続けているのだろうか? 情報過剰社会で「知っている」つもりになっているだけじゃないのか? と。 ………なんてことをついつい考えてしまったのである。
▽梅子氏が「変革の担い手」になれた理由
・奇しくも神戸女学院大がSNSでにぎわっている頃、朝日新聞の特集ページに掲載された「女性の力を信じることがこの国の未来を救う理由」という記事も話題となった。 こちらは津田塾大学が昨年公表した「TSUDA VISION 2030」で掲げた、「変革を担う、女性であること」というステートメントに関する津田塾大学の髙橋裕子学長へのインタビュー記事だ。
・津田塾大学と言えば、津田梅子氏。 いわずもがな津田塾大学の創立者であり、女性教育の先駆者。まさしく変革者である。1871年(明治4年)、梅子氏が6歳だったとき黒田清隆氏が企画した女子留学生に応募。見事、女性として初めての官費留学生5人のうちの1人に選ばれた(最年少)。
・高橋学長によれば「明治の新しい日本を築く人材を育てるには、『優秀な母親』を増やさなければならないという、時代の要請に後押しされた面もあった」とのこと。だが、わずか6歳というまだ母親に甘えたい年齢で渡米し、1882年(明治15年)までの11年間異国で過ごしたというのだから、すごすぎるとしか言いようがない。
・梅子氏は帰国から7年後の1889年(明治22年)7月に再び渡米するのだが、このとき尽力したのが、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニー氏の娘クララさん。彼女はブリンマー・カレッジの学長に掛け合い、梅子の学費と寮費の免除という好条件を引き出し、留学が実現したのだ。
・梅子氏はこのときの経験から日本女性留学のための奨学金設立を発起。講演や募金活動などを行い8000ドルを集め、その利子だけで1人の日本人女性をブリンマーに留学させることに成功。「ジャパニーズ・スカラシップ(日本婦人米国奨学金)」と呼ばれたこの奨学金制度は、梅子氏が亡くなったあとも続き、1976年までに計25人の女性を米国に送りだした。
・のちに津田塾の学長を務めた星野あい氏、女性初の国連総会日本政府代表として活躍した藤田たき氏、恵泉女学園を創立した河井道氏、同志社女子専門学校の校長となった松田道氏など、いずれも“時代の当たり前”に囚われなかった女性たちである。
・一方、梅子氏は1899年にイギリスに3度目の留学をし、帰国した翌年の1900年に女子英学塾(のちの津田塾大学)を創立した。「わずか半年の滞在でしたが、その間に梅子はナイチンゲールと面会したり、オックスフォード大学の講義を聴講したりと、生涯忘れられないものになっただろう多くの体験をしています。こうしたすべての出来事が、彼女の背中を強く押した。日本の女性がリーダシップをとれるよう育成していくことに心血を注いだのです」(by 高橋学長)
・大学や政財界のトップが集まる会合で常に“紅一点”という高橋学長は 「男性たちは『女性たち自身が昇進を望まない。人材がいない。女性だからといって下駄を履かせるわけにはいかない』と決まり事のよう人材不足を嘆くが、どれほど十分な教育・訓練そしてインフォーマルなネットワークの機会を女性たちに与えているのか、将来トップになることをどれほど本気で期待されているか?」 と男性たちに問う。
・女性が海外体験をすることも、高等教育を受けることも今よりはるかに困難だった時代に、梅子氏は「人材不足」を言い訳にはしてはいない。「自分以外の誰かのために、広く社会のため」に動き続けたからこそ、不可能を可能にしたのだ。
・「変革を担う、女性であること」という津田塾大学のメッセージは、津田梅子の生き様そのものである。 ただし、これは“津田梅子氏の話”であって、“津田梅子氏だけの話”ではない。日本の女性の話であり、日本の女性だけの話でもない。「私」――。そう、「私」が主語。 先行きの見えない不安な時代だからこそ、オジさんもオバさんも「言い訳をしない自分」を目指すべきことが大切なんじゃないだろうか。
▽9歳のときに米国南部ですごした記憶から
・6歳の黒髪の少女が、親元を離れ、異国の地で暮らす状況をイメージしてほしい。サクセスストーリーは常に前向きなことばかりが語られがちだ。だが、実際には本人が語らなかったさまざまな苦難もあったはずだ。 まったくレベルは違うし、こんなところに自分のことを書くのはおこがましいのだが、9歳のときに米国のアラバマ州ハンツビルのエレメンタリースクールで、私は“初めての外国人”だった。
・初めての日本人ではない。初めての外国人。 米国南部の黒人差別のある土地で、自分の名前を英語で書くのがやっとだった黒髪の少女が、白人だけの、完全アウエーの小学校に転校した。 引っ越して間もない頃に、隣の家のひとつ上のお姉さんが遊びに来てくれたときの話は、ずいぶん前にコラムにも書いた。
・私はコミュニーションが双方向であることを伝えたくて書いたコラムだったが、読者の反応はまったく私の予想していないものだった。 「うちの娘も小3で海外に連れていったので……涙が止まらなくなった」「息子は小6だったけど、現地の学校で適応できずに、日本人学校に通いました。子どもなりにがんばっていたのに……親はそのがんばりがわからなかった」 etc etc――こういったメッセージをくれる人がたくさんいた。
・私は家族と一緒だったが、梅子は単身。私の経験と比べものにならないくらい大変なことがあったこはずだ。まだまだ親離れできない年齢。日本とはまったく違う言語、まったく違う文化の土地で、梅子は笑顔になった回数以上に涙した経験があったに違いない。
・ただ、子どもはしんどさを大人のように口にしない、というかできない。私自身がそうだったから。そして、それを乗り越える強さを人間は持っていて、乗り越えられた時に、「変革の担い手」になれるのだと、私は確信している。
▽ブルナー博士の「知覚とは習慣による解釈」
・「心(mind)は、人間の文化(culture)の使用によって構成され、文化の使用において現実化する。 人間は文化に影響をうけながら、意味づけを行う」(J. Bruner . The Culture of Education, Harvard University Press , 1996)。 これは1990年に文化心理学という新しい 学問を提唱した、米国の教育心理学者J.S.ブルナー博士の言葉である。ブルナーは認知心理学の産みの親であり、文化心理学の育ての親で、「人の知覚」に関する研究に生涯を捧げた。
・心理学における「知覚」とは、「外界からの刺激に意味付けをするまでの過程」のこと。例えば熱いお茶を飲んだ時に、皮膚が「温度が高い」という情報を受け取り、それに対して「熱い」という意味づけを行うまでの過程が知覚だ。
・しかしながら、同じ80度のお茶を飲んでも、その「熱さ」の感じ方は人それぞれ。猫舌なんて言葉があるのもそのためである。 そのときの状況によっても「知覚」は変わる。 いわゆる「慣れ」。人の適応する力が時に私たちの五感を狂わせる。ブルナー博士が「知覚とは習慣(=文化)による解釈」と指摘するように、どっぷりとそこでの“当たり前”に染まっていくのだ。
・集団(=企業)に属する年数が長ければ長いほど、年齢を重れば重ねるほど、自分のコンフォートゾーンから抜け出すのが億劫になる。 そして、自分の価値=所属する会社や肩書きと勘違いし、それが自分の可能性を狭めていることにも気づかない。
・もっと学び、もっと外に出て、もうひとふんばり汗をかき、涙し、自分さえ限界をひかなければ可能性は無限大に広がっていくのに、それができなってしまうのである。 そんな人たちが「自分以外の誰かのために、広く社会のために」など考えられるわけがない。
・私は私を知っているか? 私は変革を担っているか? あなたはどうですか?
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/041600155/?P=1

第三に、6月5日付け「「女性省」構想は男たちの悪巧み ショールームやアリバイ作りはいらない」を紹介しよう。
・今回は「手段と目的」について、アレコレ考えてみる。 先週、自民党の参院政策審議会が、女性に関する政策を総合的に推進する「女性省」の創設を検討していることがわかった。 報道によれば、女性や若者、高齢者の力を引き出す「活力持続型の健康長寿社会」を目標に設定。厚生労働省や内閣府にある女性施策関連部署を一省に再編するらしい。
・またか、というのが正直な感想である。 思い起こせば4年前の2014年12月。「女性活躍担当大臣」が創設され、有村治子氏が就任した。 それまでの「男女共同参画担当」との違いが全く分からないまま、“女性活躍担当大臣様”は、自称“トイレ大臣”となった。
・「トイレは毎日お世話になっているもの。暮らしの質を高めるには、トイレの空間を変えていくことが大切。トイレ大臣と呼ばれるくらいやります!」 と、奇想天外な政策を進めたのだ。 “トイレ大臣”の発案は「ジャパン・トイレ・チャレンジ」と銘打たれ、20年の東京五輪開催時に国内主要空港で高機能トイレの設置したり、政府開発援助(ODA)を通じた途上国でのトイレ整備を進めたりするほか、「日本トイレ大賞」を公募。
・16年3月24日に更新された首相官邸ホームページには、「『日本トイレ大賞』には、378件ものご応募をいただき、その中から28件の受賞者を決定いたしました! 国立新美術館において、「日本トイレ大賞」表彰式及びシンポジウムを開催し、受賞者の方々には有村治子女性活躍担当大臣から賞状が授与されました!」 と、意気揚々と記載されている(ここを参照)。
・なるほど。単なる“思いついたでショー(賞)”で盛り上がったわけだ。 きれいで使いやすいトイレを増やすのは多いに結構だが、「女性管理職30%」という数値目標を、なぜ、事実上断念した? 待機児童問題は? 女性の暮らしの質ってナニ?
・結局のところ、なにひとつ変わった感がないまま、“トイレ大臣”はフェードアウトした。有村氏自身もお子さんを持つワーキングマザーなのに。なぜ、こうなってしまうのか? 全くもって意味不明だ。
・今年の3月8日の「国際女性の日」、野田聖子総務大臣(女性活躍担当大臣・内閣府特命担当大臣)は、「女性の就業者数はこの5年間で約200万人増加し、子育て期の女性の就業率も上昇するなど成果は着実にあがっています」 とのメッセージを出した。 が、その半数超は非正規である。
▽「ナニかやってます!」とアピールすることが目的
・大学進学率は「男子55.4%、女子は56.6%(内9.3%は短大)」でほぼ一緒。さらに、共働き世帯と専業主婦世帯の割合がこれだけ開いている状況下で、いったいなぜ? 「女性は世帯主としてじゃなく、家計をサポートするためのパート・アルバイトが多いから」と指摘もあるが、貧困世帯率は男性単独世帯38.6%、女性単独世帯にいたっては59.1%。18歳未満の子と1人親の世帯に限ると貧困率は54.6%と半分を超える(ここを参照、12年、OECD統計)。
・つまり、あれだ。「女性活躍」とは「ナニかやってます!」とアピールすることが目的であり、格差是正のための手段ではない。「女性の暮らしの質を向上させましょう!」と狼煙だけあげ、ホントに向上したかどうかなんてどうでもいい。 「女性」という言葉を使うこと自体に意味があるのだろうね、きっと。
・「ホラ、セクハラ問題とかで、女の人たちに嫌われちゃったし~」「そうそう。いろんな国にあるしさ~」「そうだよ、国連で言っちゃったし、世界のアピールにもなるぞ!」(関連情報はここ) 「年明けに『女性が輝く社会』の実現に向けて昼食会もやったしね」(関連情報はここ) 「よし、女性省だ!」「おう、女性省ね!」「とりあえずは参議院から意見書ってカタチで出したらどう?」「いいね」「うん、いいね」「女性省の考えは、いいね」ってことなのだろう。
・私は数年前までは、どんなカタチであれ“風”が吹くことは悪くないと、考えていた。「転換期だから変化はすべての人に平等にはこない。でも、必ず良い方向に向く」と。
・が、今は違う。偉い人たちの“ショールーム“信仰に、うんざりしている。「『女性』という言葉を都合よく使うのをやめてくれ」と。内閣支持率アップのための女性枠を設け、“ショーケース”に女性大臣を飾ったり、「女性」を持ち上げドヤ顔するジジイどもに辟易している。「女性活躍」の先頭に立つ“女性政治家”たちも例外ではない。
・だいたいなぜ、「女性」なんだ? 1999年6月に公布・施行された「男女共同参画社会基本法」では、男女共同参画社会をこう定義している。「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」 女性だけじゃない。男女。男女が均等、かつ共に責任を持つ社会だ。
▽ナショナル・マシーナリーの役割とは
・各国の「女性省」もすべて「ナショナル・マシーナリー」としての「女性省」である。ナショナル・マシーナリーは、ジェンダー平等に関する直接の政策立案・調整機関。形態は女性省や女性課題省などの省庁のほか、行政機関や議会内の委員会、オンブズマン、大統領付きのアドバイザーなど国によって異なるが、取り組むのはむしろ「男性問題」がメインだ。
・女性が仕事と家庭の両立をするために、男性の育児休暇の取得を増やす。単なる数字目標を設定するだけではなく、実効性をもたせるために義務化する。「ケア労働」に価値を置き、長時間労働をなくす(こちらに詳細に書いてあるのでお読みください。男だ女はもう「114」。埋まらぬ日本の格差問題)。「もう1人産もう」と思えるように、子育てや教育予算を徹底して増やす。「女性向けの仕事」とされてきた仕事の賃金を上げて、男性が「生涯の仕事」と思えるようにする。 etc……。
・男性と女性という性で何がしかの「差別」がないかどうかの「ファクト」を確実に捉えた上で、「女性省」に「権限」を与え、社会を変える。ナショナル・マシーナリーとはそのための機関だ。日本のように“ショールーム”的発想で設置されているワケじゃない……。あたり前だけど。
・例えば、
 +カナダには内閣の中に女性の地位担当大臣と、閣議に出席して発言する権限を有する専任の女性の地位副大臣がいる。その下に女性の地位庁(Status of Women Canada)が設置されている(1976年~)。
 +フィリピンでは、「フィリピン女性の役割国内委員会」が設置され(1975年~)、徹底的にジェンダー問題に関するモニタリングと、政策分析、調査研究を行っている。
 +韓国には、政務長官室というのがあり、これは官房長官が2人いて、その2人目が女性問題担当の専任大臣という位置づけである(1988年~)
・これはごく一部だが、世界中の国々が1970年代後半にナショナル・マシーナリーを設置し女性問題に取り組み、1990年代に入ってからは男・女の二分法から脱却し、ジェンダー平等という立場に徹している。 日本と逆。2000年初頭は「男女平等」という言葉を多用し、その後一瞬「ジェンダー平等」が使われたけど、気がつけば「女性」。女性、女性、女性。困ったことが起きる度に「女性」が持ち上げられる。
・そして、「女性」連呼→女vs男にうんざり→拒絶→解決すべき問題は置き去りにされる→女性の権利主張→「女性」連呼…… という完全なる悪循環が繰り返され、ますます女性問題の解決は遠のいていくのである。
・日本が「女性活躍」を掲げた組織の起源は、1975年まで遡ることができる。 75年の9月に、総理大臣を本部長にした「婦人問題企画推進本部」が作られ、「婦人問題企画推進会議」「婦人問題担当室」が設置された。が、これは1975 年を「国際婦人年」と定めた国連の外圧による部分が多く、いわばスタートも“ショールーム”だったのである。
▽日本以外の国々では「ジェンダー視点」が主流化
・たとえスタートがショールームであっても、その後もっと真摯に取り組めば良かった。でも、日本は、各国が並行して「女性」に権限を与え、クオーター制に代表される「女性政治家を増やす努力」をしているのを「見ないふり」をし続けた。 女性たちの努力が足りなかったのか? あるいは男性にやる気がなかったのか? 答えを出すのは難しい。
・ただひとつだけ明らかなのは、日本以外の国々ではもはや「女性」という利用価値の高い記号を使うのやめ「ジェンダー視点」を主流化させているのに対し、日本はいまだに記号としての「女性」を多用しているという事実である。
・奇しくも先日、候補者男女均等法が施行されたが、女性を当選しやすくする選挙制度(比例名簿に女性を上位に入れる)は、自民党を中心とした議員たちの猛反対で棚上げになった。 しかも努力義務。「とりあえず法律は作りましたよ~」とアリバイだけは作ったかっこうである。
・46年4月10日に行われた第22回衆議院選挙で、園田天光光さん(故人)を含む39人の日本史上初めての女性代議士が誕生したのは、一枚の投票用紙に「3人の候補者の名前を書ける」という手段を講じた影響が大きい。
・ところが翌年の衆議院選挙で、吉田茂内閣は1人の名前しか書けない形に変更。女性だけでなく男性からも「それでは女性が当選しずらくなる」と不満が出たのにもかかわらず、聞く耳を持たず結果的に15人しか女性議員は当選しなかった。 政府は「このままでは共産党の議員が増える」とGHQ(連合国軍総司令部)に訴え、選挙制度の変更を説得したとされている。  ……。ショールームやアリバイ作りは、もういらないのです。  男女が半分半分なのに、なぜ、政治家は男性が大半なのか? なぜ、女性政治家は活躍できないのか?)
▽「ケア労働」にもっと価値を見いだす
・男性も女性も住みやすい社会、ストレートもLGBTも区別しない社会を目的に、それを実行するには「ナニが必要なのか?」「政治とはナニか?」  これまでその都度、自分なりの意見は書いてきた。
・でも、やはり今いちばん必要なのは「ケア労働」にもっと価値を見いだすことだと考える。女性省より「ケア労働省」。子育て、介護など、生きるための「労働」に価値を見いだす。  というわけで、まだ提案段階ではあるが、「女性省」には反対です。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/060400162/

第三に、6月5日付け「「女性省」構想は男たちの悪巧み ショールームやアリバイ作りはいらない」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・今回は「手段と目的」について、アレコレ考えてみる。 先週、自民党の参院政策審議会が、女性に関する政策を総合的に推進する「女性省」の創設を検討していることがわかった。 報道によれば、女性や若者、高齢者の力を引き出す「活力持続型の健康長寿社会」を目標に設定。厚生労働省や内閣府にある女性施策関連部署を一省に再編するらしい。
・またか、というのが正直な感想である。 思い起こせば4年前の2014年12月。「女性活躍担当大臣」が創設され、有村治子氏が就任した。それまでの「男女共同参画担当」との違いが全く分からないまま、“女性活躍担当大臣様”は、自称“トイレ大臣”となった。
・「トイレは毎日お世話になっているもの。暮らしの質を高めるには、トイレの空間を変えていくことが大切。トイレ大臣と呼ばれるくらいやります!」と、奇想天外な政策を進めたのだ。 “トイレ大臣”の発案は「ジャパン・トイレ・チャレンジ」と銘打たれ、20年の東京五輪開催時に国内主要空港で高機能トイレの設置したり、政府開発援助(ODA)を通じた途上国でのトイレ整備を進めたりするほか、「日本トイレ大賞」を公募。
・16年3月24日に更新された首相官邸ホームページには、「『日本トイレ大賞』には、378件ものご応募をいただき、その中から28件の受賞者を決定いたしました! 国立新美術館において、「日本トイレ大賞」表彰式及びシンポジウムを開催し、受賞者の方々には有村治子女性活躍担当大臣から賞状が授与されました!」と、意気揚々と記載されている(ここを参照)。
・なるほど。単なる“思いついたでショー(賞)”で盛り上がったわけだ。 きれいで使いやすいトイレを増やすのは多いに結構だが、「女性管理職30%」という数値目標を、なぜ、事実上断念した? 待機児童問題は? 女性の暮らしの質ってナニ?
・結局のところ、なにひとつ変わった感がないまま、“トイレ大臣”はフェードアウトした。有村氏自身もお子さんを持つワーキングマザーなのに。なぜ、こうなってしまうのか? 全くもって意味不明だ。
・今年の3月8日の「国際女性の日」、野田聖子総務大臣(女性活躍担当大臣・内閣府特命担当大臣)は、「女性の就業者数はこの5年間で約200万人増加し、子育て期の女性の就業率も上昇するなど成果は着実にあがっています」 とのメッセージを出した。 が、その半数超は非正規である。
▽「ナニかやってます!」とアピールすることが目的
・大学進学率は「男子55.4%、女子は56.6%(内9.3%は短大)」でほぼ一緒。さらに、共働き世帯と専業主婦世帯の割合がこれだけ開いている状況下で、いったいなぜ? 「女性は世帯主としてじゃなく、家計をサポートするためのパート・アルバイトが多いから」と指摘もあるが、貧困世帯率は男性単独世帯38.6%、女性単独世帯にいたっては59.1%。18歳未満の子と1人親の世帯に限ると貧困率は54.6%と半分を超える(ここを参照、12年、OECD統計)。
・つまり、あれだ。「女性活躍」とは「ナニかやってます!」とアピールすることが目的であり、格差是正のための手段ではない。「女性の暮らしの質を向上させましょう!」と狼煙だけあげ、ホントに向上したかどうかなんてどうでもいい。「女性」という言葉を使うこと自体に意味があるのだろうね、きっと。
・「ホラ、セクハラ問題とかで、女の人たちに嫌われちゃったし~」「そうそう。いろんな国にあるしさ~」「そうだよ、国連で言っちゃったし、世界のアピールにもなるぞ!」(関連情報はここ) 「年明けに『女性が輝く社会』の実現に向けて昼食会もやったしね」(関連情報はここ) 「よし、女性省だ!」「おう、女性省ね!」「とりあえずは参議院から意見書ってカタチで出したらどう?」「いいね」「うん、いいね」「女性省の考えは、いいね」ってことなのだろう。
・私は数年前までは、どんなカタチであれ“風”が吹くことは悪くないと、考えていた。「転換期だから変化はすべての人に平等にはこない。でも、必ず良い方向に向く」と。
・が、今は違う。偉い人たちの“ショールーム“信仰に、うんざりしている。「『女性』という言葉を都合よく使うのをやめてくれ」と。内閣支持率アップのための女性枠を設け、“ショーケース”に女性大臣を飾ったり、「女性」を持ち上げドヤ顔するジジイどもに辟易している。「女性活躍」の先頭に立つ“女性政治家”たちも例外ではない。
・だいたいなぜ、「女性」なんだ? 1999年6月に公布・施行された「男女共同参画社会基本法」では、男女共同参画社会をこう定義している。「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」 女性だけじゃない。男女。男女が均等、かつ共に責任を持つ社会だ。
▽ナショナル・マシーナリーの役割とは
・各国の「女性省」もすべて「ナショナル・マシーナリー」としての「女性省」である。ナショナル・マシーナリーは、ジェンダー平等に関する直接の政策立案・調整機関。形態は女性省や女性課題省などの省庁のほか、行政機関や議会内の委員会、オンブズマン、大統領付きのアドバイザーなど国によって異なるが、取り組むのはむしろ「男性問題」がメインだ。
・女性が仕事と家庭の両立をするために、男性の育児休暇の取得を増やす。単なる数字目標を設定するだけではなく、実効性をもたせるために義務化する。「ケア労働」に価値を置き、長時間労働をなくす(こちらに詳細に書いてあるのでお読みください。男だ女はもう「114」。埋まらぬ日本の格差問題)。「もう1人産もう」と思えるように、子育てや教育予算を徹底して増やす。「女性向けの仕事」とされてきた仕事の賃金を上げて、男性が「生涯の仕事」と思えるようにする。 etc……。
・男性と女性という性で何がしかの「差別」がないかどうかの「ファクト」を確実に捉えた上で、「女性省」に「権限」を与え、社会を変える。ナショナル・マシーナリーとはそのための機関だ。日本のように“ショールーム”的発想で設置されているワケじゃない……。あたり前だけど。
・例えば、
 +カナダには内閣の中に女性の地位担当大臣と、閣議に出席して発言する権限を有する専任の女性の地位副大臣がいる。その下に女性の地位庁(Status of Women Canada)が設置されている(1976年~)。
 +フィリピンでは、「フィリピン女性の役割国内委員会」が設置され(1975年~)、徹底的にジェンダー問題に関するモニタリングと、政策分析、調査研究を行っている。
 +韓国には、政務長官室というのがあり、これは官房長官が2人いて、その2人目が女性問題担当の専任大臣という位置づけである(1988年~)
・これはごく一部だが、世界中の国々が1970年代後半にナショナル・マシーナリーを設置し女性問題に取り組み、1990年代に入ってからは男・女の二分法から脱却し、ジェンダー平等という立場に徹している。
・日本と逆。2000年初頭は「男女平等」という言葉を多用し、その後一瞬「ジェンダー平等」が使われたけど、気がつけば「女性」。女性、女性、女性。困ったことが起きる度に「女性」が持ち上げられる。 そして、「女性」連呼→女vs男にうんざり→拒絶→解決すべき問題は置き去りにされる→女性の権利主張→「女性」連呼…… という完全なる悪循環が繰り返され、ますます女性問題の解決は遠のいていくのである。
・日本が「女性活躍」を掲げた組織の起源は、1975年まで遡ることができる。 75年の9月に、総理大臣を本部長にした「婦人問題企画推進本部」が作られ、「婦人問題企画推進会議」「婦人問題担当室」が設置された。が、これは1975 年を「国際婦人年」と定めた国連の外圧による部分が多く、いわばスタートも“ショールーム”だったのである。
▽日本以外の国々では「ジェンダー視点」が主流化
・たとえスタートがショールームであっても、その後もっと真摯に取り組めば良かった。でも、日本は、各国が並行して「女性」に権限を与え、クオーター制に代表される「女性政治家を増やす努力」をしているのを「見ないふり」をし続けた。 女性たちの努力が足りなかったのか? あるいは男性にやる気がなかったのか? 答えを出すのは難しい。
・ただひとつだけ明らかなのは、日本以外の国々ではもはや「女性」という利用価値の高い記号を使うのやめ「ジェンダー視点」を主流化させているのに対し、日本はいまだに記号としての「女性」を多用しているという事実である。
・奇しくも先日、候補者男女均等法が施行されたが、女性を当選しやすくする選挙制度(比例名簿に女性を上位に入れる)は、自民党を中心とした議員たちの猛反対で棚上げになった。 しかも努力義務。「とりあえず法律は作りましたよ~」とアリバイだけは作ったかっこうである。
・46年4月10日に行われた第22回衆議院選挙で、園田天光光さん(故人)を含む39人の日本史上初めての女性代議士が誕生したのは、一枚の投票用紙に「3人の候補者の名前を書ける」という手段を講じた影響が大きい。
・ところが翌年の衆議院選挙で、吉田茂内閣は1人の名前しか書けない形に変更。女性だけでなく男性からも「それでは女性が当選しずらくなる」と不満が出たのにもかかわらず、聞く耳を持たず結果的に15人しか女性議員は当選しなかった。 政府は「このままでは共産党の議員が増える」とGHQ(連合国軍総司令部)に訴え、選挙制度の変更を説得したとされている。
・……。ショールームやアリバイ作りは、もういらないのです。 男女が半分半分なのに、なぜ、政治家は男性が大半なのか? なぜ、女性政治家は活躍できないのか?
▽「ケア労働」にもっと価値を見いだす
・男性も女性も住みやすい社会、ストレートもLGBTも区別しない社会を目的に、それを実行するには「ナニが必要なのか?」「政治とはナニか?」 これまでその都度、自分なりの意見は書いてきた。でも、やはり今いちばん必要なのは「ケア労働」にもっと価値を見いだすことだと考える。女性省より「ケア労働省」。子育て、介護など、生きるための「労働」に価値を見いだす。
・というわけで、まだ提案段階ではあるが、「女性省」には反対です。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/060400162/

第一の記事で、 『わずかに男女差が認められるものでも、男女間の差異は同性内の個人差に比べて小さい。 つまり、現実社会における男女差を説明するために社会心理学者たちが果たした貢献は、男女差がいかに社会的状況に左右されるかを明らかにしたことにある。一般に男女差とされる特性は、多様な要因の影響を受けて出現したもので、環境が変われば消滅する』、というのは初耳だが、確かにそうなのだろう。『男女平等が進めば進むほど、異性と接する機会が増える。自己ジェンダー・ステレオタイプは異性という要因で強化されるので、結果的に「女性はより女らしく」、「男性はより男らしく」、無意識に演じるようになってゆくのである』、というのは嬉しい話だ。 『男性たちの背筋が凍る話をしておきます。 両生類のサラマンダーにはメスだけの集団がいて、何不自由なく、600万年以上繁栄している』、というのは考えさせられた。
第二の記事で、 『「あなたはあなたを知っているか?」 そして、 「あなたは変革を担っているだろうか?」』、というのは男女を問わず、耳が痛い質問だ。 『9歳のときに米国南部ですごした記憶から』、という河合氏の体験は初めて知ったが、かつての米国南部であれば、さぞかし差別で苦しめられたのだろう。でも、それが同氏のたくましい精神的な強さのバネになったのかも知れない。
第三の記事で、 『偉い人たちの“ショールーム“信仰に、うんざりしている。「『女性』という言葉を都合よく使うのをやめてくれ」と。内閣支持率アップのための女性枠を設け、“ショーケース”に女性大臣を飾ったり、「女性」を持ち上げドヤ顔するジジイどもに辟易している。「女性活躍」の先頭に立つ“女性政治家”たちも例外ではない』、というのは鋭い指摘だ。 『世界中の国々が1970年代後半にナショナル・マシーナリーを設置し女性問題に取り組み、1990年代に入ってからは男・女の二分法から脱却し、ジェンダー平等という立場に徹している。 日本と逆。2000年初頭は「男女平等」という言葉を多用し、その後一瞬「ジェンダー平等」が使われたけど、気がつけば「女性」。女性、女性、女性。困ったことが起きる度に「女性」が持ち上げられる。 そして、「女性」連呼→女vs男にうんざり→拒絶→解決すべき問題は置き去りにされる→女性の権利主張→「女性」連呼…… という完全なる悪循環が繰り返され、ますます女性問題の解決は遠のいていくのである』、との指摘は説得力がある。 『翌年(1947年)の衆議院選挙で、吉田茂内閣は1人の名前しか書けない形に変更。女性だけでなく男性からも「それでは女性が当選しずらくなる」と不満が出たのにもかかわらず、聞く耳を持たず結果的に15人しか女性議員は当選しなかった』、との指摘は初耳だ。確かに3人まで選べるのであれば、女性も進出し易いだろう。「ジェンダー平等」を追求してゆく上では、『「ケア労働」にもっと価値を見いだす』、というのは確かに有効そうだ。
タグ:日本と逆。2000年初頭は「男女平等」という言葉を多用し、その後一瞬「ジェンダー平等」が使われたけど、気がつけば「女性」。女性、女性、女性。困ったことが起きる度に「女性」が持ち上げられる 1990年代に入ってからは男・女の二分法から脱却し、ジェンダー平等という立場に徹している ジェンダー・ステレオタイプは社会の深部に根付いているので、長期に記憶される無自覚の価値観として刷り込まれる。そのため本人が意識することなく、ジェンダー・ステレオタイプに合致する言動を演じるようになる 「女性」連呼→女vs男にうんざり→拒絶→解決すべき問題は置き去りにされる→女性の権利主張→「女性」連呼…… という完全なる悪循環が繰り返され、ますます女性問題の解決は遠のいていくのである 「「女性省」構想は男たちの悪巧み ショールームやアリバイ作りはいらない」 「職場に異変?「オス化」した女たちの逆襲 出世に目覚めた女性は「両性」の良さを併せ持つわけでして…」 “ジジイの壁” 9歳のときに米国南部ですごした記憶から わずかに男女差が認められるものでも、男女間の差異は同性内の個人差に比べて小さい。 つまり、現実社会における男女差を説明するために社会心理学者たちが果たした貢献は、男女差がいかに社会的状況に左右されるかを明らかにしたことにある。一般に男女差とされる特性は、多様な要因の影響を受けて出現したもので、環境が変われば消滅する 神戸女学院大のメッセージ (その7)(河合 薫氏の三題:職場に異変?「オス化」した女たちの逆襲、「女は大学行くな」で考える男の言い訳、「女性省」構想は男たちの悪巧み) 「女性活躍」とは「ナニかやってます!」とアピールすることが目的であり、格差是正のための手段ではない。「女性の暮らしの質を向上させましょう!」と狼煙だけあげ、ホントに向上したかどうかなんてどうでもいい。 「女性」という言葉を使うこと自体に意味があるのだろうね 古くから学者たちがこぞって明らかにしてきた、いくつもの「心理的特性や行動傾向の男女差」に関する研究で得られた統計量を、共通の効果サイズに変換し分布や平均値を算出すると(メタ分析)、男女差は有意でないばかりか、様々な調整要因によって男女差の方向性が逆転することが確かめられているのである 日本のように“ショールーム”的発想で設置されているワケじゃない…… 翌年の衆議院選挙で、吉田茂内閣は1人の名前しか書けない形に変更。女性だけでなく男性からも「それでは女性が当選しずらくなる」と不満が出たのにもかかわらず、聞く耳を持たず結果的に15人しか女性議員は当選しなかった 男性と女性という性で何がしかの「差別」がないかどうかの「ファクト」を確実に捉えた上で、「女性省」に「権限」を与え、社会を変える。ナショナル・マシーナリーとはそのための機関だ 11年間異国で過ごした 女性活躍 男女平等が進めば進むほど、異性と接する機会が増える。自己ジェンダー・ステレオタイプは異性という要因で強化されるので、結果的に「女性はより女らしく」、「男性はより男らしく」、無意識に演じるようになってゆくのである 梅子氏が6歳だったとき黒田清隆氏が企画した女子留学生に応募。見事、女性として初めての官費留学生5人のうちの1人に選ばれた(最年少) 津田梅子 “ババアの壁” 取り組むのはむしろ「男性問題」がメインだ 「あなたはあなたを知っているか?」 そして、 「あなたは変革を担っているだろうか?」 「「女は大学行くな」で考える男の言い訳 6歳の少女が教えてくれた会社が変らない理由」 ナショナル・マシーナリー 日本以外の国々では「ジェンダー視点」が主流化 第22回衆議院選挙で、園田天光光さん(故人)を含む39人の日本史上初めての女性代議士が誕生したのは、一枚の投票用紙に「3人の候補者の名前を書ける」という手段を講じた影響が大きい 「変革を担う、女性であること」 「TSUDA VISION 2030」 津田塾大学 両生類のサラマンダーにはメスだけの集団がいて、何不自由なく、600万年以上繁栄している 偉い人たちの“ショールーム“信仰に、うんざりしている。「『女性』という言葉を都合よく使うのをやめてくれ」と。内閣支持率アップのための女性枠を設け、“ショーケース”に女性大臣を飾ったり、「女性」を持ち上げドヤ顔するジジイどもに辟易している。「女性活躍」の先頭に立つ“女性政治家”たちも例外ではない 伝えたいのは『正解がない。その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。』というところです。 大学時代だけではなくその後の人生においても学び続けていってほしいと願っています 女は大学に行くな、
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