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人権(LGBTなど)(全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音) [社会]

今日は、人権(LGBTなど)(全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音)を取上げよう。

先ずは、東大助教授で作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督の伊東 乾氏が昨年11月30日付けJBPressに寄稿した「全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・11月23日、自由民主党の総務会長が以下のような凄まじい失言をしているのを目にしました。 「天皇皇后両陛下が国賓を迎えて開く宮中晩餐会で国賓のパートナーが同性だった場合、自分は晩餐会への(同性パートナーの)出席には反対」
・さらにその背景として「日本国の伝統に合わない」云々という、言うも恥ずかしい教養の欠如振りを見せている。あまりにも突っ込みどころ満載な、このお粗末な報道から、いくつか問題を考えてみたいと思います。
▽婚姻制度は文化によって違う
・あえて名前などは記しませんが、くだんの政治家さんは、フランスのフランソワ・オランド前大統領が国賓として来日した際に、宮中晩餐会に事実婚のパートナー女性を伴って参加したことを取り上げたそうです。 そのうえで「奥さんではないパートナー女性が天皇皇后両陛下と並んで座るのに、宮内庁がどう対処すべきか悩んだ」そうです。 しかし、まず「悩む」方がおかしいし、さらにそこで「日本国の伝統」を持ち出すのは相当変なことです。
・例えばアラブの首長が来日したとしましょう。イスラムでは妻を4人まで持つことが可能です。 仮に、アラブの王様と「第1夫人」「第2夫人」「第3夫人」「第4夫人」と、ずらーっと並んだ奥さんたちがやって来たとししましょう。 そこで日本側が「日本国の国情に合わないから」とか「伝統が・・・」とか言って、第2夫人以下を締め出すというようなことがあるとすれば、いったいどれほど外交的にマイナスか・・・。 と言うより、自国の風習を他の文化に押しつけるくらい、やってはいけないことはないわけです。そんな外交音痴は亡国の挙と言わざるを得ない。
・そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう。
・そもそも、イスラムであれば妻は4人までと節度ある上限が示されていますが「日本国の伝統」はどうでしょう? 近代に限っても、例えば、宮中晩餐会に関わりがある例で考えるなら、明治天皇には、明らかに分かっているだけで「側室」が4人は存在しています。 大正天皇は明治天皇の息子ですが、お母さんは明治天皇の皇后ではありません。柳原愛子典侍、通称「二位の局」が天皇の生母で、明治天皇は后である昭憲皇太后こと、病弱であったとされる一条美子との間には子供がありません。
・ここ20年ほど、皇位継承をめぐって女帝問題など様々な議論があります。これらについては別論としますが、少なくとも封建時代以前、領主とか君主といわれる人たちの1つの仕事は、血統を絶やさないことです。 近代以降の明治天皇ですら正妻と側室4で5人の妻、妻でない女性の数などは正確に把握できない状態が「日本の伝統」の1つの切り口にほかなりません。
・ちなみに、どの程度正確な数字か分かりませんが平安時代初期の帝である嵯峨天皇には皇子が23、皇女が27、合計50人の子があったそうで、当然ながら皇后(橘嘉智子)以外にも記録に残らない人まで含め、多くの「妻」がありました。
・あまりにも皇子が多いので、これらを皇族として税で養うのには限界があり、そこから「皇室に起源を持つ臣下」に臣籍降下して「源氏」という姓ができるわけです。 どこかの政治家の日本の歴史や文化の認識では、源氏物語も源平の戦いも鎌倉幕府も「日本国の伝統」と無関係になるようで、これはまた面白い独自研究もあったものだと思います。
・観光絵葉書以前の印象で「伝統」のような言葉を振り回す政治屋業種も問題なら、それで右往左往するなら、有権者の教養水準が低下していると言わねばなりません。そんなことでは日本の伝統が泣くでしょう。 言うまでもありませんが、現行の日本国憲法と真っ向から矛盾する、こうした多重婚を「日本の伝統」云々で是認するという話ではありません。
・「誤読以前」はご勘弁いただきたい。文化の多様性に対して外交は謙虚であるべきで、特に宮中晩餐会といった場所について、思いつきの陣笠アドリブは、相当危なっかしいというのが第1点です。
▽同性婚の国賓パートナーを排除すべきか?
・さらに、どこかで言及されていた「同性婚」の国賓、これは具体例を挙げる方がいいでしょう。 ルクセンブルク大公国の首相 グザヴィエ・ベッテル(1973-) はフランスやギリシャで学んだ弁護士で、21世紀初頭にはテレビ番組の司会もしていた多才な人です。 ルクセンブルク市長を経て2013年、アンリ大公から組閣の大命を受けて34年ぶりの政権交代で首相になります。
・ときに40歳の若さでしたが、自らルクセンブルク内での同性婚を合法化し、2015年、ベルギー人の男性建築家ゴティエ・デストネ氏と結婚します。 2013年、ベッテル首相とゴーティエ氏はローマ教皇フランシスコから招待を受け、バチカンで祝福を受けています。
・これに先立ち、フランシスコ教皇は、ローマ教会が長年にわたって性的マイノリティに対して迫害を加え続けてきたことに「謝罪すべき」と繰り返し声明を発してもいる。 これと対照的でみっともなかったのがドナルド・トランプ政権のお粗末な対応でした。
・NATO(北大西洋条約機構)首脳会議に集まった各国トップ「配偶者の会」で、メラニー夫人などと並んで唯一男性として参加したゴーティエ氏の名を、ホワイトハウスの公式フェイスブックでは削除して発表したのです。 当然ながら轟々たる非難を浴び、修正するという失態を演じています。
・欧州では、アイスランドの女性首相ヨハンナ・シグルザルドッティル(1942-)が首相在任中の2010年に長年の生活パートナー、脚本家のヨニナ・レオスドッティルと「同性婚」入籍して、先進的な例として世界の注目を集めました。
・ただ、これは少し冷静に見る必要があるケースで、シグルザルドッティル元首相はかつて男性と結婚、2児を育てたのちに離婚。 政治家として活躍し首相まで務める日常生活を、あれこれうるさいことのない生活のベストパートナーと言うべきレオスドッティル女史と送ってきたもので、入籍時点で68歳。
・残りの人生をどのように生きるか、という生活の選択でもあって、単に「性的マイノリティのリべレーション」といった風潮だけで見ると、大切な一面を見失うことになるように思います。 ほかにも、男性の生活パートナーを持つ政治家は欧州に多く、ベルギーのエリオ・ディ・ルポ元首相(1951-)、フランスの元パリ市長ベルトラン・ドラノエ氏などの例が知られています。
・ドラノエ・パリ市長は初期の例として暴漢に襲われて重症を負ったりしていますが、ルクセンブルクのベッテル首相が「すでにルクセンブルク国民は、そんなこどどうでもよいと思っているようだ」と述べているように、ことさらに取り沙汰されていない。
・むしろそこに注目したいと思います。 ある政治家が、例えばポニーテールが好きだろうと、ミニスカートが好きだろうと、それでセクハラなどに及ぶなど悪影響のない限り、政治家として大事なのは政策実行能力であって、それ以外の要素があれこれ取り沙汰されるのは、そもそも本質的ではありません。
・むしろここでは、さらに進んだ点を記しておきましょう。ベルギーのディ・ルポ元首相は、エリオ、という名や苗字にディが入ることから分かるかもしれませんが、露骨なイタリア系です。 さらに、ルクセンブルクのベッテル首相の伴侶はベルギー人の男性建築家、性別のみならず国籍も国境も自由自在になっている。
・マーストリヒト体制・ユーロ導入から10年を経た2010年以降の欧州では、様々なボーダーが現実問題として壊されており、島国日本の「独自の価値観」とは、かなりかけ離れたものになっている。 日本で首相のパートナーが同性かつ隣国人なんてことがあるか、考えてみるといいでしょう。
・私たち音楽の世界もそうですが、仕事をきちんとしていればプロとして一流であって、その人がどういうプライバシーであるか、など問うこと自体が、全く的外れという冷静な分別にこそ、注目すべきと思います。 では「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51712
(上記リンクは2頁目以降は有料)

次に、在日13年の黒人作家のバイエ・マクニール氏が1月17日付け東洋経済オンラインに寄稿した「「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」は人種差別行為か――。昨年12月31日に放映された「ガキの使い!大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」(日本テレビ)の中で、ダウンタウンの浜田雅功が、アメリカの黒人コメディアン、エディ・マーフィに扮して登場。日本で賛否両論を巻き起こすと同時に、英BBCや米ニューヨーク・タイムズなどもこれを報じた。
・擁護派の多くは、「差別的な意図がなければブラックフェイスはOK」としているが、米国出身で在日13年の黒人作家、バイエ・マクニール氏は、これは日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない、と見る。
・日本式の「ブラックフェイス」に初めて出くわしたのは2004年、初来日して間もないときのことだ。日本の友人と渋谷をぶらついていると、交差点付近の壁に、モータウンの衣装と白い手袋を身にまとい、髪にはパーマをあて、顔は黒塗りのゴスペラッツのポスターがあった。
・アメリカ人の自分は愕然としたが、日本人の友人の誰1人として少しも驚いていなかった。この日の出来事から、黒人の人種差別的な描写が日本では普通であることを知った。当時は日本に長く滞在しようとは考えていなかった (それが今では13年になる) ため、ブラックフェイスについて詳しく調べなかった。が、この国にほれ込み、ここに住んで生計を立てようと決めてから、それに対する考え方が変わった。
▽来日から11年後に再び・・・
・それから11年後、「ブラックフェイス」が再び自分の目にするところになるとは、まったくといっていいほど考えていなかった。  マクニール氏の昨年12月31日のツイート それは、ラッツ&スターとももいろクローバーZが、フジテレビの「ミュージックフェア」で共演することになった際、ブラックフェイスで一緒にポーズをとっている宣伝用写真が公開されたときのことだ。このドゥーワップ・グループが恥ずべき“無恥のバトン”を次の世代につなごうとしていることに世界中の目が向けられ、多くの人がショックを受け、当惑した。SNS上でも話題になり、中でも#StopBlackfaceJapanのハッシュタグは注目を集めた。
・日本で活動家になろうと考えたことはなかったが、これには活動を起こさねばとの思いを抱いた。日本が世界の舞台で恥をかくのを避けるため、フジテレビに対してこの部分の放映を中止することを求める嘆願活動を行った。当時ファーストレディで来日を予定していたミシェル・オバマ氏と、前駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディ氏にこの問題に介入することを求める公開状も作成した。
・嘆願には5000人近くの署名が集まった。大半は日本の人々によるもので、フジテレビと番組スポンサーのシオノギ製薬に送られた。そして3月7日、番組は放送されたが、ブラックフェイスは登場しなかった。画面には小さい文字で番組に編集が加えられているとのメッセージが表示されたが、その理由については推測の域を出ない。
・放送中止の理由は明らかに、嘆願書とキャンペーンにより世界から集まったあらゆるたぐいの注目によるものだった。だが、フジテレビも、ほかのニュースメディアも、この件について報じることはなかった。そのため、現在の嘆願活動と同様に、多くの日本人は世界中、および日本に住む人々から、ブラックフェイスに対する非難の声が上がっていることに気づかなかった。
▽ペリーが残した「ミンストレル・ショー」
・これは残念なことだ。というのも、この問題に対する日本人の意見を、「日本には人種差別の歴史がない。だからブラックフェイスは差別的な意図のない、無害なエンターテインメントだ」というものから、「意図にかかわらず、これは人類にとって有害であり、現在の日本に対する好意的イメージを著しく毀損する可能性がある」というものへと変えるには、以下の3点しかないと私は考えるからだ。
・第1に、アメリカではなく、日本におけるブラックフェイスの歴史に関する事実に着目することが重要だ。実際のところ、1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している。
・ペリー提督は、日本人の観衆のために、白人の部下にブラックフェイスで「ミンストレル・ショー (顔を黒く塗った白人と、白人が登場する寸劇)を演じさせた。当時の記録によると、臨席していた日本人はこれを喜んで観ていたという。これがあまりに面白かったため、ペリー提督が離日した後も、日本人は自分たちの中で、この人種差別的な行為を続けた。アメリカの直接的関与と関わりなく、日本のミンストレル劇や黒塗りメイクで演じる日本人のコメディアンは1870年から2017年の大晦日に至るまで存在し、これは記録に残っている。
・ブラックフェイスを演じる人々は人種差別主義者だろうか?いや、必ずしもそうではない、と私は思う。では、日本に150年以上存在し続けるうちに、ブラックフェイスに内在する人種差別的なDNAは少しでも薄れただろうか。いや、それもないだろう。歴史的な証明を見れば、これには多くの日本人も同意するだろう。
・第2に、ブラックフェイスは害になり得るし、実際に害になっていることがある。日本に住むアフリカ系外国人だけでなく、多人種の血を引く日本人、とりわけ日本の学校ですでにはびこっているいじめの被害を受けやすい子どもにとってはそうだ。
・2年前にミス・ユニバース日本代表となった黒人と日本人のハーフの宮本エリアナを取材したとき、アフリカの起源を併せもつ女性として日本で前例のない立場となった背景について聞いた。自らが日本人の血を完全には引いていないことで、いじめられ、苦しめられただけでなく、同じくハーフの友人も同様の扱いを受け、悲しいことに自殺にまで追い込まれたことを話してくれた。そして、このことが彼女を成功に導く力になったのだと語った。友人を死に追いやったいじめに向き合い、それに取り組む場を作り出したかったのである。
▽メディアが「外国人の扱い方」を左右する
・日本の子どもの多くは、古い映画の愛好家でもないかぎり、エディ・マーフィという昔のコメディアンになじみは薄い。つまり、純真な日本の子どもがブラックフェイスを施した浜田雅功を見たとしても、それをエディ・マーフィだとは思わないのである。彼らの目には、黒人の外見的特徴を面白おかしく誇張した下手なモノマネが映るばかりだ。
・これをこの番組の暴力性とあわせて考えた場合、たとえば学校のような場で、浜田ファンと遭遇する、多人種の地をひく同級生や外国人教師(10年前の私がそうだった)にとって、いい話ではない。だからこそ、ブラックフェイスは完全に無害である、とは言えないのだ。
・特に浜田がやったように、ブラックフェイスが笑いの種として使われる場合、暗黙の偏見を助長する。そしてそれは、日本においてすでにしばしば見られる外国人の「他人化」を悪い方向へと導く、肌の色に対する感情や態度につながる。
・幸いなことに、私に対して人種的なののしり言葉やヘイトスピーチを投げかける人はこれまでにいなかったが、お笑いであれ、ミュージカルであれ、ニュースであれ、日本のメディアにおける黒人描写の結果として生まれる世界観が、日本人が私をどう扱うべきかを日本人に伝えることになる。これがメディアの力なのである。
・第3に、ブラックフェイスは許されるべきではないという意見が、世界では趨勢的である。日本もその正当な一員としての立場を確保しているグローバルコミュニティでは、こうした良識を欠く行為は容認できないという見解で一致している。
・現在、日本は東西の思想が融合した好例として、先進国の地位を得ている。ブラックフェイスそのものについては日本のメディアやエンターテインメント界で150年を超える歴史があるが、日本人が文化面での理想の一部としてブラックフェイスにこだわっているのではないと私は考えたい。
▽ブラックフェイスは氷山の一角
・さまざまな人種や国籍の外国人が、現在の日本が持つ魅力的なイメージに引かれて日本への旅を考えている。日本人がブラックフェイスを用いたり、擁護したりしていることは、これらの外国人には、日本人の心理に潜む(ほかの無神経な表現にも表われがちな)無神経さの表れと映る。
・このことを日本人が知ったら、ブラックフェイスや、そのほかの人種的特徴の戯画化は、面白かろうがなんだろうが、やめるだろう。公共の場での喫煙を禁じたように。また、日本が示してきた環境生態系に対する品位や洗練を、日本が避けて通ることのできない多元文化への歩みを受け止めるだろう。
・とはいえ、ブラックフェイスは氷山の一角にすぎない。これは大いに注目を集めた一角だが、実はさらに大きな病の兆候でしかない。ブラックフェイスそのものが必ずしも人種差別主義的という訳ではないが、日本には人種差別と排外的な感情が確かに存在する。
・家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある。大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する。今回のように目立つ、警鐘を鳴らすような事態が発生したときに、それが多くの注目を集めることは驚愕に値しない。
・問題は、こうした事例を減らすために何ができるか、ということだ。 日本が根深い差別的な考え方をなくすべきであることは、明白だ。なぜなら日本の未来にとっては、日本人と非日本人や多人種・民族の血を引く人々との共存は極めて重要な命題だからだ。これに疑いを持つ人はいないだろう。だが、言うは易く行うは難し。特効薬はない。
・たいていの日本人には外国人と直接触れ合う機会がないため、メディア、主にジャーナリストや影響力のある人々に大きな責任があることは疑いようがない。つまり、私たちのイメージや評価はもっぱら彼らの手にゆだねられている。ブラックフェイスは、無頓着さと、グローバルコミュニティへの参加に必要な認識や感受性の欠如を反映している。メディア業界は、自らが独立した存在であると考えているかもしれないが、事実はそうではない。
▽日本が世界からのけ者にされないために
・日本におけるメディアの一部として、自分にも、この責任の一端はある。だからこそ私は当初から、日本に住むアフリカ系の血を引く人々のもう一つのイメージ、つまり、この国のメディアがせっせと広めてきたさまざまな外国人についての間違った情報を打ち消すようなイメージを提示することで、自分の責任を果たそうとしてきた。
・私たちはおとぎの国の親日派でも、エキゾチックな異邦人でも、要警戒の怪しい人物でもない。私は外国人の経験やものの見方の多様性を示すことで、こうした情報に基づいて外国人が誤解されるのを解くよう、さまざまな取り組みを行ってきた。
・現在の時代精神 (トランプ、ブレグジットなど) はさておき、日本は、すでに危険なまでに不寛容へと向かう世界にどのように関わりたいかを自問しなければならない。不寛容へ向かう傾向の結果を私たちは見てきているし、それはかんばしいものではない。
・また、これには国民的な議論も必要である。だが、事実が公に提示されなければ、また、公に国の将来に関する議論への積極的な参加が促されなければ、これは実現しない。日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい。
・日本は私にとって大切な国であり、わが家だ。日本の友人や家族は私が知る人の中でも最高の人たちである。この国からは、返しきれないくらいに、多くのものを与えてもらった。そして私はこの国を深く愛している。 だが、その愛は見境のないものではない。愛するわが家を世界ののけ者の立場に追いやるリスクがある問題を、黙って見ていることはできない。日本は世界から迫害されるべきではないし、日本にはそれを回避する力がある。友人や愛する人を中傷から守るために、自分でできるあらゆる手段を尽くして擁護したいと思っている。
・だが、日本の運命を決するのは、究極的には日本人の手にかかっている。そして、ブラックフェイスを過去の遺物とすることは、最初の一手として最適な象徴的行為となるだろう。
https://toyokeizai.net/articles/-/204735

第一の記事で、大失言をした自由民主党の総務会長は、竹下亘氏のようだ。驚いたのは、彼が田舎の政治家上がりではなく、かつて、竹下登首相の秘書だったことに加え、なんと元NHK記者だったことである。 『そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう』、というのはその通りだ。 『「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います』、少子化問題でも持ち出すのだろうか、今後の稿が楽しみだ。
第二の記事で、 『ブラックフェイスは・・・は日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない』、というのは初耳だが、言われてみればその通りなのだろう。『1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している』、そんな歴史があったことも初めて知った。 『家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある。大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する。今回のように目立つ、警鐘を鳴らすような事態が発生したときに、それが多くの注目を集めることは驚愕に値しない』、「家探し」についてはやむを得ない面もあると思うが、「外国人へのサービス提供を拒む企業や店」については、未だにあるとすれば問題だろう。なお、筆者は触れてないが、日本人には白人系と非白人系の扱いには大きな格差がある。 『日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい』、親日家の筆者の危機感と忠告を正面から受け止めるべきだろう。
タグ:ブラックフェイスは許されるべきではないという意見が、世界では趨勢的である。日本もその正当な一員としての立場を確保しているグローバルコミュニティでは、こうした良識を欠く行為は容認できないという見解で一致している 日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい 天皇皇后両陛下が国賓を迎えて開く宮中晩餐会で国賓のパートナーが同性だった場合、自分は晩餐会への(同性パートナーの)出席には反対 恥ずべき“無恥のバトン”を次の世代につなごうとしていることに世界中の目が向けられ、多くの人がショックを受け、当惑 大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する ブラックフェイスは氷山の一角 メディアが「外国人の扱い方」を左右する 日本式の「ブラックフェイス」 人権(LGBTなど) (全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音) 伊東 乾 JBPRESS 「全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?」 1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している 「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います 自由民主党の総務会長 #StopBlackfaceJapan ラッツ&スターとももいろクローバーZ 「「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音」 東洋経済オンライン そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう ある政治家が、例えばポニーテールが好きだろうと、ミニスカートが好きだろうと、それでセクハラなどに及ぶなど悪影響のない限り、政治家として大事なのは政策実行能力であって、それ以外の要素があれこれ取り沙汰されるのは、そもそも本質的ではありません ブラックフェイスは害になり得るし、実際に害になっていることがある 「日本国の伝統に合わない」 バイエ・マクニール 2010年以降の欧州では、様々なボーダーが現実問題として壊されており、島国日本の「独自の価値観」とは、かなりかけ離れたものになっている 家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある 日本のミンストレル劇や黒塗りメイクで演じる日本人のコメディアンは1870年から2017年の大晦日に至るまで存在
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