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司法の歪み(その8)(小田嶋 隆氏:21世紀のオウム報道から消えたもの) [社会]

司法の歪みについては、5月10日に取上げた。今日は、(その8)(小田嶋 隆氏:21世紀のオウム報道から消えたもの)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が7月13日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「21世紀のオウム報道から消えたもの」を紹介しよう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/071200151/?P=1
・『テレビの番組が提供しているオウム事件の概要説明に納得できなかったということだ。 だか具体的にどこに奇妙さを感じるのかというと、たとえば、オウム真理教が史上稀に見る凶悪犯罪集団であり、常人には理解不能なドグマを奉じる狂信者の集団だったという感じの決めつけ方が、すでにしておかしい。  オウムは、やってのけたことから逆算すれば、なるほど異常な狂信者集団だったには違いない。 しかしながら、彼らがわれわれの視野に入った最初の時点から、危険極まりないカルトとして扱われていたのかというと、そんなことはない。ら、これ以上自分を不快な気持ちにさせないために視聴を断念した。それだけの話だ・・・私は、自分がもはやこの種のニュースには動揺しないだろうと思っていたその予断が裏切られたことにわがことながら驚き、そしてなんだかわけもわからず腹を立てていた。 そんなふうに自分の心の動揺に対して素直になれないことも含めて、オウム事件は、私の世代の人間にとって特別な出来事だったのだろう』、私は小田嶋氏よりひとまわり上の世代で、当時は同じように衝撃を受けた。しかし、物忘れが早く、余り突き詰めて考えないこともあって、今回の報道で違和感を覚えるようなこともなかった。しかし、以下の小田嶋氏の指摘には、なるほどこんなこともあったと思い出し、共感できる部分も多い。
・『テレビカメラを向けられた状態で、10秒以内のコメントを求められるスタジオ内の仕事に限って申し上げるなら、・・・こういう時に、適切なワンフレーズのコメントを供給するためには、クリシェ(紋切り型・常套表現)の力を借りなければならない。つまり「自分がどう考えているのか」よりは、「こういう場合はどんなふうに答えておくのが相場であるのか」に沿って一口サイズの鵜呑み用コメントを並べにかかるのが、コメント供給業者の現場感覚だということだ。 この世界で起こる問題の多くは、一言で要約できる形式に沿う形で勃発しているわけではない。むしろ、それらの問題は、わかりやすい感想になじまない謎を含んでいるからこそ大きなニュースになっている。とすれば、その種の厄介な事件に、とりあえずの添え物として付加されているワンフレーズのコメントは、雑な仕事である以上に、ほとんどウソなのである』、というのは手厳しいが、妥当な批判だ。
・『本来、100年からの時を隔てないと表面化しないと思われていた歴史の描写と実感の乖離が、たったの25年で生じるようになっている。その結果、45歳以上の人間は、自分にとっては生身の「実体験」であったオウム関連の一連の出来事が、各種ニュースメディアによって「歴史」として記述されている場面に出くわすと、どうしても「ウソ」の匂いを嗅ぎ取らずにおれない。オウム事件に限らず、実際に自分が体験として知っていた出来事について、ウィキペディアから引っ張ってきたみたいな解説を並べられると、それを見せられた人間は、眉にツバをつけたくなる。これは極めて自然な感情だ』、すると、さしずめ「ウソ」の匂いを嗅ぎ取れなかった私は、自らの記憶力の弱まりを認識すべきなのかも知れない。
・『具体的にどこに奇妙さを感じるのかというと、たとえば、オウム真理教が史上稀に見る凶悪犯罪集団であり、常人には理解不能なドグマを奉じる狂信者の集団だったという感じの決めつけ方が、すでにしておかしい。 オウムは、やってのけたことから逆算すれば、なるほど異常な狂信者集団だったには違いない。 しかしながら、彼らがわれわれの視野に入った最初の時点から、危険極まりないカルトとして扱われていたのかというと、そんなことはない』、言われてみれば、その通りで、漸く、思い出した。
・『彼らがテレビ各局のスタッフに比較的あたたかく迎えられていたのは、オウムの幹部が高い学歴の持ち主であったこととおそらく無縁ではない。しかも、彼らの弁舌は、われわれがイメージする凝り固まったカルト信者とは一線を画するものだった。表面的には筋道だって見える論理とそれなりの柔軟さと、時にはユーモアさえ感じさせる十分に知的な話しぶりだったと言って良い。ということは、彼らは、はじめからテレビ向きだったのだ』、たしか、広報担当の上祐氏は、弁舌鋭く、「ああ言えば上祐」なる言葉まで生んでいた、のまで思い出した。
・『彼らが不思議な面白い人たちだったのではない。彼らがそんなふうに見えていたのは、わたくしども世間一般の野次馬の側の視線の置き方が、一貫していいかげんで不徹底で興味本位だったことの反映に過ぎない。 要するにわれわれは、最後の最後の、本当の正体が割れる寸前の段階まで、バカな野次馬だったのである。 テレビは、かなりの段階に至るまで、一方的な断定を避ける形で、彼らをやんわりと揶揄しつつ、容認していた。おそらく、テレビが彼らに甘かった理由は、視聴者たるわれわれが、彼らのおおむね奇矯でありながら、ときに驚くほど鋭くみえる言葉を投げかけてくる存在感に、魅力を感じていたからで、つまるところ、彼らには「需要」があったのだ。 オウムの事件があれほどまでに深くわれわれの心を揺さぶったのは、オウムが異常だったからではない。 むしろ彼らが身近だったからだ。 自分自身と地続きの、ちょっと変わった若者たちに過ぎない彼らが、フタを開けてみたら、あれほどまでに驚天動地の犯罪を犯していたということのもたらした恐怖が、あの事件の根本的な驚きだった』、事件発覚後の我々一般庶民の驚きを、見事に解説してくれた。
・『21世紀のオウム報道の中では、そうした部分(オウムの若者たちが、当時の一般の若者たちと地続きであったということ)が、まるっきり省略されてしまっている。 その風化の早さには慄然とせざるを得ない』、言われてみると、強く同感する。
・『もうひとつ、オウムが残した影響のひとつに、偏差値信仰の相対化ということがあったと思う。 名だたる学歴エリートが雁首を揃えてあのバカバカしい陰謀論にハマっていたことを知ったことで、偏差値や学歴といったあたりのタームについて、世間の目が醒めた部分があって、良い意味でも悪い意味でも、彼らが既存の信仰をぶち壊したことの影響は現在に及んでいる・・・AO入試や推薦入学による大学進学者の比率が増えたことも・・・』、確かに思い出した。
・『オウムの失敗は、人それぞれの中にある乱雑な思考に統一的な秩序をもたらそうとしたところにあったはずで、私がオウムのような思想にハマらずに済んだのは、支離滅裂を維持できているからでもあるのだろう・・・私は、おそらくオウムを一生涯理解できないと思う。その点についてはありがたいと思っている』、さすがに上手い締めだ。
タグ:21世紀のオウム報道の中では、そうした部分(オウムの若者たちが、当時の一般の若者たちと地続きであったということ)が、まるっきり省略されてしまっている。 その風化の早さには慄然とせざるを得ない 私は、おそらくオウムを一生涯理解できないと思う。その点についてはありがたいと思っている AO入試や推薦入学 適切なワンフレーズのコメントを供給するためには、クリシェ(紋切り型・常套表現)の力を借りなければならない。つまり「自分がどう考えているのか」よりは、「こういう場合はどんなふうに答えておくのが相場であるのか」に沿って一口サイズの鵜呑み用コメントを並べにかかるのが、コメント供給業者の現場感覚だということだ 10秒以内のコメントを求められるスタジオ内の仕事に限って申し上げるなら 彼らがわれわれの視野に入った最初の時点から、危険極まりないカルトとして扱われていたのかというと、そんなことはない オウム真理教 歴史の描写と実感の乖離が、たったの25年で生じるようになっている 要するにわれわれは、最後の最後の、本当の正体が割れる寸前の段階まで、バカな野次馬だったのである オウムの事件があれほどまでに深くわれわれの心を揺さぶったのは、オウムが異常だったからではない。 むしろ彼らが身近だったからだ。 自分自身と地続きの、ちょっと変わった若者たちに過ぎない彼らが、フタを開けてみたら、あれほどまでに驚天動地の犯罪を犯していたということのもたらした恐怖が、あの事件の根本的な驚きだった 「21世紀のオウム報道から消えたもの」 司法の歪み 各種ニュースメディアによって「歴史」として記述されている場面に出くわすと、どうしても「ウソ」の匂いを嗅ぎ取らずにおれない オウム真理教が史上稀に見る凶悪犯罪集団であり、常人には理解不能なドグマを奉じる狂信者の集団だったという感じの決めつけ方が、すでにしておかしい 彼らがテレビ各局のスタッフに比較的あたたかく迎えられていたのは、オウムの幹部が高い学歴の持ち主であったこととおそらく無縁ではない。しかも、彼らの弁舌は、われわれがイメージする凝り固まったカルト信者とは一線を画するものだった。表面的には筋道だって見える論理とそれなりの柔軟さと、時にはユーモアさえ感じさせる十分に知的な話しぶりだったと言って良い。ということは、彼らは、はじめからテレビ向きだったのだ ワンフレーズのコメントは、雑な仕事である以上に、ほとんどウソなのである オウムが残した影響のひとつに、偏差値信仰の相対化 彼らが不思議な面白い人たちだったのではない。彼らがそんなふうに見えていたのは、わたくしども世間一般の野次馬の側の視線の置き方が、一貫していいかげんで不徹底で興味本位だったことの反映に過ぎない 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン オウムの失敗は、人それぞれの中にある乱雑な思考に統一的な秩序をもたらそうとしたところにあったはずで、私がオウムのような思想にハマらずに済んだのは、支離滅裂を維持できているからでもあるのだろう (その8)(小田嶋 隆氏:21世紀のオウム報道から消えたもの)
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