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日本型経営・組織の問題点(その5)(日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 「低成長」「停滞」の根本理由はここにある、日本企業をとことんダメにした「PL脳」の呪縛 「ファイナンス思考」なくして復活はない、会社員という病 不安で思考停止のミドル 「自分の存在意義」は何か、「従業員の幸せ第一」経営が仏で拡大、日本でも期待できる理由) [企業経営]

日本型経営・組織の問題点については、5月7日に取上げた。今日は、(その5)(日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 「低成長」「停滞」の根本理由はここにある、日本企業をとことんダメにした「PL脳」の呪縛 「ファイナンス思考」なくして復活はない、会社員という病 不安で思考停止のミドル 「自分の存在意義」は何か、「従業員の幸せ第一」経営が仏で拡大、日本でも期待できる理由)である。

先ずは、7月4日付け東洋経済オンラインが掲載したレオス・キャピタルワークス代表取締役社長兼最高投資責任者の藤野英人氏へのインタビュー「日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 「低成長」「停滞」の根本理由はここにある」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/227963
・『「全国社長年齢分析」によると、社長の平均年齢は前年比+0.2歳で59.5歳になり、過去最高を更新した。上場企業では58.9歳だ。国内最大級の投資信託「ひふみ投信」を運用するレオス・キャピタルワークス代表取締役社長兼最高投資責任者の藤野英人氏は、「超高齢社会は企業経営や経済の面でも成長を阻害している」と言い、今の日本は「GG資本主義である」と懸念する』、なるほど。
・『一般的に、経営では人生経験が豊富で、さまざまな苦難を乗り越えてきたベテランほど良い結果をもたらすなどと言われますが、実はそれを証明するデータはどこにもありません。 では、若い経営者の会社はどうでしょうか。私は以前、上場企業を社長の年齢別にグループ分けし、3年間の売上高や株価の変化率を調べたことがあります。ちなみに社長の年齢は60代が最も多く1699社、次いで50代が883社でした。 驚くべきことに売上高の伸び率も、株価の上昇率も、30代、40代が社長を務めている会社の方が、はるかに高かったのです。 投資家として、50代、60代が社長を務める会社と、30代、40代が社長を務める会社のどちらに投資するかは、説明するまでもないでしょう。50代、60代が上にのさばっている会社は、明らかに機能不全を起こしています』、30代、40代が社長というのは新興企業だろうから、売上高の伸び率や株価の上昇率が高いのは当然なので、荒っぽい議論だが、もう少し言い分を読んでみよう。
・『私が「GG資本主義」という言葉を思いついたのは、2016年・・・セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏(現名誉顧問)が、会長職から退くことを表明した記者会見でした。 セブン&アイの傘下でコンビニエンスストア事業を大きく伸ばしたセブン-イレブン・ジャパンの井阪隆一社長に対し、当時、会長だった鈴木敏文氏は、「感情的」としか言いようがない不満をぶつけて退任を迫ったものの、創業家の伊藤雅俊名誉会長の反対によって、井阪社長の続投を認めざるをえず、自らは会長職を退く形で決着をつけたという、あの一件です。 何よりも驚いたのが、当時81歳だった後藤顧問が、井阪社長の父親である井阪健一氏のところに行き、息子である井阪社長の続投を阻止しようとした話です。このとき、井阪社長は58歳。間もなく還暦を迎えようとしている人に対して、81歳のおじいさんが、「父親から息子の社長続投を諦めるように言ってくれ」と進言したのですから、これを老害と言わずして、他の言い方があるでしょうか。もちろん、井阪社長の下、会社の業績が悪化しているならわからないでもないのですが、業績は順調に伸びていたのです』、たしかにあの一件は、老害の典型例だ。
・『セブン&アイのお家騒動に限らず、シニア層が組織を私物化しているケースは、他にも見られます。「危険タックル問題」で話題となった日本大学や、粉飾決算問題を起こした東芝も同じです。既得権を握ったまま、組織を私物化しているジジイたちがのさばっていることで、組織がどんどん悪い方向に進んでいるような気がしてなりません』、その通りだ。
・『私はこのような日本の状況に警鐘を鳴らし新陳代謝を促すため、『さらば、GG資本主義』という本を書きました。GGの意味の一つは、もちろん「ジジイ」をもじったものです。もう一つの意味については後でお話しします。 誤解しないでいただきたいのは、すべてのシニア層を、ビジネスの最前線から追い出そうとしているわけではなく、年齢で切ろうとしているわけでもありません。シニア層の人たちが、これまで築き上げてくれた実績は、もちろんリスペクトしています。ただ、経営に関しては、そろそろ若手に権限委譲してはどうだろうか、という提案です。 「お年を召された方」にとって、今の若者は何となく頼りなく感じるのでしょうか。 私は投資家として日々、数多くの若手経営者に会っています。将棋の藤井聡太7段、野球の大谷翔平選手・・・など、実力主義の世界では非常に良い意味で早熟な、世界レベルの若者が出てきています。それと同じように、あまり報道されていないだけで、世界で戦える若手起業家が、実は日本のビジネス界にも大勢いることに気づかされます』、なるほど。
・『今後に期待している若手経営者をあげているときりがないですが、ここでは3人だけご紹介しましょう。タイ語やベトナム語のインバウンド向け情報サイトを運営している株式会社MATCHA代表取締役社長の青木優さん、名所を訪ねる旅ではなく、たとえばウミガメと遊ぶといった体験型オプショナルツアーの予約サイトを運営している株式会社タビナカ代表取締役社長の三木健司さん、給与の即日前払いサービスを展開している株式会社ペイミーCEOの後藤道輝さんです』、いずれもニッチを狙った新興企業のようだ。
・『彼らは、私が最近、お会いした若手経営者のなかでも非常に興味をそそられた方々ですが、皆さん本当に深く物事を考えています。一方、GG資本主義の中核である60代経営者(ビジネスパースン)の多くは、「物事を深く考える前に手を動かせ」というように、どちらかというとオペレーション重視型であり、今重要性が再び叫ばれている「リベラルアーツ」・・・よりも、実学を重視する傾向が顕著です。 しかし、大量生産・大量消費時代は過去のものになり、衣食住が足りている日本の社会においては、「これから何をするか」「どんなものを食べるか」「どこに行くか」、ということを「より深く考える消費者」が増えています。GG資本主義に支配されている企業が、この手のニーズに対応できるとは、とても思えません。 実は「GG資本主義」に込めた想いは、「サヨナラジジイ」であると同時に、「コンニチハ、ゴールデンジェネレーション」のGGでもあります。これからの日本経済を引っ張っていくのは、ゴールデンジェネレーションである20代から40代の若手経営者なのです』、確かに、「60代経営者の多くは、「物事を深く考える前に手を動かせ」というように、どちらかというとオペレーション重視型」というのはその通りだろう。ただし、例示された3社の内容は分からないが、多くの新興企業が陥る「成長の壁」にぶつからずに、成長を続けられることを祈ろう。ただ、かつてのソニーやホンダのようになれる可能性は残念ながら低いのではあるまいか。

次に、シニフィアン共同代表の朝倉 祐介氏が7月10日付け東洋経済オンラインに寄稿した「日本企業をとことんダメにした「PL脳」の呪縛 「ファイナンス思考」なくして復活はない」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/228707
・『売り上げ・利益の前年比増減に一喜一憂する「PL脳」に陥っていたら、日本にAmazonは生まれない! 将来の意思決定を可能にするファイナンス的な発想こそが、今のような先行き不透明な時代には一人ひとりのビジネスパーソンに不可欠です。 その背景について実践例も紹介しながら、経営と投資、そしてコンサルタントと、さまざまな視点をもつ気鋭の実務家・朝倉祐介さんが解説するのが・・・『ファイナンス思考』。本書から、なぜファイナンス思考が重要なのかを解説した部分を抜粋しご紹介します』、期待できそうだ。
・『みなさんは、こんなフレーズを耳にしたことはないでしょうか。 「増収増益を果たすことこそが社長の使命である」「業績をよくするために売り上げを増やそう。けれども利益は減らすな」「今期は減益になりそうだから、マーケティングコストを削ろう」「うちは無借金だから健全経営です」「黒字だから問題ない」 こうした発言には、次のような見方や考え方が抜け落ちています』、『抜け落ちている考え方とは? ・会社の価値を向上させるために、先行投資をするという視点 ・自分たちがどのような資産をもっているのかという自覚 ・その資産を有効に活用して成果を得ようとする発想  近年では入門書の充実などもあって、会計の基礎的な知識についてはビジネスパーソンの間でも理解が深まってきたようです・・・その一方で、ファイナンス的な物事の見方や思考法については、重要性を十分に認識されていないように思われます。もしも冒頭のようなフレーズが自分の周囲に溢れているとしたら、それはその組織が「PL脳」に陥っている証かもしれません』、多くの企業を陥っている筈だ。
・『社内の管理指標や事業部単位での目標数値としても、多くの会社が売上高や利益といった損益計算書上の数値を活用しています・・・損益計算書の内容はあくまで、過去の一定期間における業績の「結果」を示しているにすぎません。一定期間の売上高や利益といった損益計算書上の数値を最大化しようとする取り組みは、必ずしも会社の長期的な成長につながるとは限りません。 たとえば会社の製品開発を強化するための研究開発投資や、商品の宣伝や企業ブランドの浸透にかけるマーケティング投資を抑えると、短期的には利益を底上げできます。しかし、長期的な競争力向上に必要な投資を手控えることで、場合によっては会社の根源的な価値を損なう事態につながりかねません』、その通りだ。
・『基本的な会計に関する知識は広がってきた一方で、このようなPL指標の最大化を優先する考え方が日本の経済界に根深く浸透しているために、多くの日本企業が思い切った一手を打てず、縮小均衡の衰退サイクルに入ってしまっている、と私は考えています。 日本企業は世界に誇るべき技術力や優秀な人材を抱えているにもかかわらず、そうした潜在能力を十分に発揮できているとはいえません。「失われた10年」というフレーズはいつの間にか「失われた20年」にすり替えられ、今となっては「失われた30年」に至ろうとしています。 その背景には、社会の成熟化や人口減少に加えて、「PL脳」が日本のビジネスパーソンに深く根づいた結果、「国民総PL脳」とでも呼ぶべき状況に陥っていることが一因なのではないでしょうか。かつては製品クオリティや価格競争力で圧倒していたはずのアメリカ企業や、成長著しい中国企業の後塵を我々が拝するに至った背景には、「PL脳」に基づく内向きで縮小均衡型の企業体質が多分に影響しているように思えてなりません』、なかなか興味深い見方で、特段の違和感はない。
・『バブル以降の日本を取り巻く停滞状況と負のサイクルを抜け出すために、私たちは「PL脳」の呪縛から脱する必要があります。そのためには、会社に関わるすべてのビジネスパーソンがPL脳に代わる新たな発想法を身につけなくてはなりません。そのカギとなるのが、ファイナンス的な物の見方や考え方であると、私は思うのです。 ファイナンス的な「物事の考え方」のことを「ファイナンス思考」と呼ぶことができると思います。多くの日本企業がはまり込んでいる「PL脳」に代わる概念として、「ファイナンス思考」が一体どのようなものであり、どのように日々の業務に活かされるのかについて理解を深めていくことが重要といえるでしょう・・・ファイナンス思考は、事業を通じて個々人が、社会により大きなインパクトを与えるために、また会社の成長に貢献するために、欠かすことのできない基本的な考え方です。会社のあらゆる活動に紐づいているという点で、ファイナンス思考が必要なのは、財務部門の担当者だけではありません。 会社の業務に取り組むあらゆる職種の方々が体得しておくべき思考法です。また、会社が発表する戦略や実際の活動が、会社の価値の向上にどのようにつながるのかを理解するうえで、ファイナンス思考は会社の実務に携わる方だけでなく、投資家の方にとっても重要な基礎教養であるといえるでしょう』、ここまで風呂敷を広げておいて、詳しくは『ファイナンス思考』を読めというのは、いささか不親切な感じがなくもない。

第三に、健康社会学者の河合 薫氏が7月31日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「会社員という病 不安で思考停止のミドル 「自分の存在意義」は何か」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/073000174/?P=1
・『「河合さんは率直に会社員って、どう思いますか?」 先日、48歳の男性をインタビューした時、こんな質問を受けた。 会社員――。 普段何気なく使っている言葉だが、突然「どう思うか?」と問われ、「いや~、会社員って、やっぱ●●ですよね~」と即答できるほど「会社員」について考えたことはなかったので、正直戸惑った・・・会社員。どちらかといえば……ここ数年、ネガティブに使われることが増えたように思う。実際、冒頭の男性も「会社員」を決してポジティブには捉えていなかった・・・今回は「会社員」について、考えてみようと思う。 冒頭の「男性会社員」は大手メーカーに勤める課長さんで、インタビューでは彼のこれまでのキャリアに加え、部下のこと、家庭のことなど話題が広がり、いつも通りちょっとした相談会になった。 で、これまたいつも通り「自分の相談」が始まり、以下のような流れで冒頭の質問が出てきたのである。 といっても、多くの男性の相談の仕方は変化球だ。 つまり、「実は私は……」と切り出すのではなく、「~ってどうなんですかね?」とか、「~~ってどう思いますか?」とか、「河合さんがインタビューした中で●●だった人いますか?」といった具合に、探る・・・彼らは決して「自分」を主語にはせず、周りの動向を探りながら「自分」を確認する作業を行うのだ』、確かに中高年の男性はそうなのだろう」。
・『件の「男性会社員」の場合はこんな感じだった・・・「僕は部長にはなれない。既に後輩に抜かれてますから。よほどのことがない限り、僕はこの後一回くらい横滑りがあって、それで終わりです」・・・「関連会社に行かされるかもしれません。今のところ転職する予定はないんですけど。……河合さんは率直に会社員って、どう思いますか?」 「どう思うかって?? へ??」(河合) 「そのなんというか河合さんのように、自分の力だけで稼いでる人から見ると、会社員って甘えて見えるんじゃないかなぁ、と」 「甘えてる……とは思いませんよ。組織の中で生きていくのって大変だと思うし。それに私は確かに組織には属していませんけど、私を使ってくれる人がいて初めて稼げるので。“自分の力だけ”で稼いでるわけじゃないし……。 ただ、一円稼ぐことがどれだけ大変なことなのか? ってことは、いわゆる“会社員”でいる時には、わかりづらいかもしれないなぁとは思います」(河合) 「まさにソコなんです! 僕、若い時に一度会社を辞めようと思ったことがあるんです。入社して3年くらい経った頃に、『このまま会社の歯車として働いてくんだ』って思ったら、急に虚しくなって転職しようと思った。 要するに、ただの若気の至りです。で、その時、父親に怒鳴られましてね。 『お前は会社の歯車にもなってない。いっぱしの歯車にまずはなってみろ!』って。父親とはそんなに話したこともなかったのに、その時はいきなり怒鳴られてびっくりしました。 それからは自分なりに頑張って、一応は歯車にはなれたんじゃないかって思っています。 でも、今って、会社員でいること自体がかっこ悪いという空気、ありませんか? 会社員だと付き合いも会社関係になりがちだし、知識や知見も会社員としてのもので。会社員っていうのは、ものすごく狭い世界で生きてる『いきもの』なんだよなぁ、なんてことを思ってしまうんです」 「でも、この先もその“会社員”を続けていくわけですよね?」(河合) 「そうですね。……はい」 「会社の歯車として……ですよね?」(河合)』、私でも息子から、すぐ辞めたいなどと相談されれば、同じように怒鳴ったに違いない。
・『「それが結構微妙でして(苦笑)。うちの会社では48歳になると『セカンドキャリア研修』というのがあります。そこで耳にタコができるほど『自立』『自分らしく生きる』という言葉を講師が連発するんです。自立という言葉を借りた、肩たたき研修です。 退職を選択しないと、地方や系列会社に行かされるわけです。世間一般ではそういうポジションに甘んじることを、しがみつく、と表現しますよね? 僕自身、数年前まではそう思っていました。 でも、そういうアッパーミドルが就くポジションって、新しいチャレンジこそないですけど、そこでの仕事も会社にとっては必要な仕事です。給料も減ります。でも、自分さえ腐らず、しっかりと歯車として働けば会社に貢献できるんです。 結局、出世競争に敗れた会社員は、楽して給料だけもらってる、と思われる。それが自分としては悔しいんですけど。河合さんは会社員というのをどう見ているのかなぁ、って思ったので。変な質問でしたね。あっはは。すみません。忘れてください」』、当初の簡単な質問をここまで掘り下げてゆく河合氏の力はさすがだ。
・『ふむ。よくよく考えていくと会社員とは不思議な「いきもの」だとつくづく思う。 学生たちはみな「会社員」になりたくて、“国葬”のような格好で就活に精を出し、「会社員」になれたことに喜ぶ。 ところが、「会社員」になった途端、「社畜」だのなんだのと会社員をディスり、自分の意見を認めない会社を「この会社に先はないね」と切り捨てる。本当は「自分に力がない」だけかもしれないのに会社や上司のせいにする。 不満を募らせながらも「会社員」を辞めず、「会社員」をさげすむのである。 この国で働く人のほとんどが、「過去」あるいは「今」、会社員を経験し、「仕事は?」「ふつーの会社員です」とほとんどの人が答える「会社員」。 会社員って一体なんなのだろう? 作家の伊井直行さんが『会社員とは何者か?』というタイトルの本を出し、会社員小説で描かれている会社員について論じているのだが、これが実に面白い。 伊井さん曰く、「会社員小説において、会社員である時には家庭(私生活)が見えず、家庭にいる会社員を描いた時には、会社が見えない」と。 これは人間の半身しかとらえていないことを意味し、「会社に勤める人間を描いても、なぜかいい小説にならない」理由がここにあるという。 で、そういった会社員小説の構造は「1人の人間が会社では法人に、家庭では自然人になること」から生じていると説く。 「会社員小説においてガンダム(ロボットに入りロボットの一部になることの比喩)を下りて自然人に戻ると、会社員である登場人物は、モビルスーツを着ていた法人である自分を忘れてしまう。逆もまた同様。元は1人である2人が、お互いを疎外しあっている」とし、 日本の自殺者の多さは「モノでもあるヒト、二人であり一人である会社員の自己疎外が生んだ悲劇であるかもしれない」と、自らが会社員を辞めた経験を交え推察している。 自己疎外。難しい言葉だ。 元々はヘーゲルやマルクスが用いた言葉だが、平たくいうと「自分を見失った状態」に近く、自分と置かれた環境に折り合いをつけられなかったり、自分の身に生じていることを把握できていない状態を意味する。 健康社会学的には自己疎外は生きる力を妨げる感情なので、伊井さんの自殺との関連には至極納得した』、「日本の自殺者の多さは「モノでもあるヒト、二人であり一人である会社員の自己疎外が生んだ悲劇であるかもしれない」との指摘はなかなか深い考察だ。
・『私のような非会社員は、しょせん、会社という組織の出入り業者でしかなく、そういう人間に対して「会社員」が「会社員の人格」を表出させた時の怖さを、これまで何度も経験した。 “ガンダム”の物言いはスーパー上から目線で、一個人として交わされる会話とは別人格。そのギャップに、私は繰り返し翻弄されてきた。 そして、隙のない、「全くもってその通りです!」とうなずくしかない選択を余儀なくされたとき、「ああ、この人は出世していくんだろうな~」などと妙に納得してしまうのだ。 ただし、ガンダムの操縦が許されるのは基本的には「正社員かつ50歳未満」のみで、50歳以上の場合、出世街道を歩く一部のエリートという条件がある。それ以外の人たちは油を注いだり、動作点検という地味な作業を強いられる。 が、それも「会社員」の大切な仕事だ』、「“ガンダム”の物言いはスーパー上から目線で、一個人として交わされる会話とは別人格。そのギャップに、私は繰り返し翻弄されてきた」というのは、大いにありそうな話だ。
・『そもそも会社を英語で言うと、COMPANY(カンパニー)となるが、COMPANYは、「ともに(COM)パン(Pains)を食べる仲間(Y)」のこと。 つまり、会社とは、「(食事など)何か一緒に行動する集団」であり、会社員はそのメンバーである。 私が会社員という身分でなくなった時、「会社員っていうのは、その場所に“いる”ことも、大切な仕事なんだなぁ」と感じたことがある。その場所にいるとは、ガンダムの動きがよくなるように、操縦している人が少しでも操縦しやすいように縁の下の力持ちになるってこと。 そして、その当たり前を忘れた時、人は会社員をさげずむ「会社員という病」に陥り、名ばかり会社員になる。 思考が停止し、「会社員」という身分に安住した時「会社員という病」になってしまうのだ』、確かに、縁の下の力持ちのことは忘れがちだったと、遅ればせながら反省している。会社とは、を語源に遡って考察したのも面白い。
。『以前、会社員時代にペンネームで会社の事情を書き作家デビューした方と話をさせてもらったことがある。 その時「なぜ、ペンネームにしたのか?」と聞いたら、「会社員の身分のままで会社に隠して会社のことを書くのに、本名で書くわけにいかないでしょ?」と返された。 つい私はそこで、「会社員の身分のままって……なんかズルイ」と口走ってしまい、慌てて「あ、でも、会社の仕事は?」と中途半端な質問をしたら彼はこう答えた。 「僕がね、笑顔になったんです。楽しそうに左遷先の仕事ができた」と。 この時はちぐはぐな受け答えに戸惑い、男性の言葉の真意が理解できなかったけど、男性は会社での自分の存在意義を「笑顔になった」という言葉で捉えた。男性は会社員をさげずんでなかった。 ふむ。これが「会社員」なのだ』、なかなかよくできた「オチ」だ。

第四に、明るい話題として、Nagata Global Partners代表パートナー、パリ第9大学非常勤講師の永田公彦氏が8月15日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「従業員の幸せ第一」経営が仏で拡大、日本でも期待できる理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/177093
・『 CHO(チーフ・ハピネス・オフィサー)の数が2年で50倍に…欧州、特にフランスでは、「幸福経営」の研究や導入の動きが、この数年急速に広がっています。これは、「従業員の幸せが企業や組織に繁栄をもたらす」という考えに基づいた、シリコンバレーに端を発し、最近は日本でも拡大の兆しが見える経営モデルです。本稿では、日本と似て「階層社会で、新しいものや変化に対し慎重」という文化特性を持つ社会であるにもかかわらず、こうした動きが加速するフランスの動向をお伝えします』、面白そうだ。
・『フランスにおけるCHOの数は、3年前のわずか3人から、昨年末には150人と2年で50倍に増えています。CHOは、まさに「幸福経営」を推進する中心人物です。この役職名ではないものの、類似の役割を果たす人を含めると、その数はさらに膨らむといわれています。 CHO急増の理由の一つが、筆者も登録するClub des CHO(CHOクラブ)の存在です・・・昨年2月に立ちあげたシンクタンクです。設立後、会員数が増え続け、現在約200企業・4万5000人が登録しています。 内訳を企業規模で見ると大企業60%、中小企業20%、スタートアップ企業20%となっています。その中には、オレンジ、ロレアル、BNPパリバ・・・等のCAC40企業(ユーロネクスト・パリ証券取引所に上場されている株式銘柄のうち、時価総額上位40銘柄)や外資系企業も多く含まれ、日系ではソフトバンク・ロボティクス、トヨタファイナンシャルサービスなどが登録しています。 また、登録者の部署では、人事部門とCSR(企業の社会的責任)部門が、最も多く、それに広報部門、オフィスマネジメント部門が続きます。 こうした企業の登録者が、国内外の有識者、経営者団体、労働者団体と連携一体化しながら、「幸福経営」に関する各種のセミナー、ワークショップ、研究会、CHO育成研修などを積極的に開催しています』、なるほど。
・『フランスにおける幸福経営への関心は、企業関係者だけではなく、国民全体に広がる兆しを見せています。その背景には、前述のCHOへの関心の高まりに加え、主に3つの要因があります。 1つは、従業員の幸せファースト経営を後押しするエコシステムの急速な発展です。様々な同分野の関連イベントや書籍はもとより、デジタル技術等を活用した「職場環境、働き方、福利厚生」に関するプラットフォームやコンテンツを開発提供するスタートアップ企業が急増しています・・・「Bonheur au travail (仕事の幸せ)」という言葉を見聞きする国民が増えるに従い、従業員の幸せファースト経営に対する関心が広がりつつあります。 2つ目の要因は、メディアを通じ、従業員の幸せと組織パフォーマンスの関係についての調査研究報告を目にする国民が増えていることです。こうした報告には、「幸福度が高まると、生産性が12%向上(Daniel Sgroi、英ワ―ウィック大学、2015年)等の学術研究論文もあれば、「幸福度が高まると、離職者が75%減少、欠勤率が26%減少、生産性が20%向上、就職希望者が5倍に(ベルギー社会保障機関、2012年)等の企業の事例報告もあります。 3つ目の要因は、行政、労働組合、民間企業などが、労働者に対し行う「仕事(職場)と幸せ」に関するアンケート調査の急増です。その調査対象となるか、またはメディアを通じてその結果を目にした人たちが職場で話題にすることで、この問題がより身近なものになりつつあります』、確かに生産性や離職率・欠勤率には大きく影響しそうだ。
・『アンケート調査(から)・・・「幸せな従業員像」を総合的に見てみると、「社会的倫理、存在承認、好き、笑い、チーム、信頼、自由、自主、民主、平等、フェア、癒し、カジュアル、ワーク・ライフ・バランス」というキーワードが浮かび上がります。つまり、従業員を幸せに導くための構成要素です。 これを、筆者なりに職場・仕事・人間関係という3つの因子で整理すると、総じて次のような状態で働くことができれば、幸福度が高まるということになります(ただし、幸せの構成要素や要素ごとの濃淡は、調査対象者の職業、職位、年代等の属性により多少の違いは出ます)。(1)職場――民主的で平等かつフェアな業務プロセスや評価システムがあり、普遍的な社会問題(地球環境、人権、社会格差等)に配慮する職場で勤働くことができる (2)仕事――好きでワクワクする仕事を、ストレスを溜めることなく主体的かつ自由に進められる (3)人間関係――自分の仕事を認めてくれる信頼できる上司やチーム仲間と階層の隔たりなくカジュアルに協力し合い仕事ができる』、素人目にも妥当そうな結果だ。
・『フランスの調査結果から読み取れる「幸せな従業員像」は、日本も含め他国では、その歴史、社会構造、経済システム、文化価値観、労働法規等の違いにより、全く同じものにはならないはずです。とはいうものの長年、海外から客観的に日本の移り変わりを見てきた筆者には、次の5つの理由から、日本でも幸福経営の研究や導入企業が、フランスでの幸せな従業員像に近いかたちで、早い時期に広がるのではないかと思われます。 1つは冒頭に示したように、日本と同様「学歴ベースの階層社会で、国民は新しいものや変化に対し慎重」という文化的傾向にあるフランスですら、この経営モデルが急速に広まっているからです。 2つ目は、ここ数年日本でも、こうした動きを牽引する研究・・・や産学連携の取り組み・・・が起きてきていることです。 3つ目は、そもそも歴史的に日本では、90年代初期にバブルが崩壊しアメリカ型の株主重視経営が広がるまでは、従業員とその家族の幸せに配慮する経営思想が脈々と流れていたと思われるからです。 例えば古いところでは、三井家に残る1722年の家法 「宗竺遺書」に、退職金制度をはじめ人を大切にする精神・・・渋沢栄一の関連文献にも、経営者に対し労働者の幸福への配慮を説いていると解釈できるものがあります・・・4つ目は、デジタルネイティブ世代を中心に、日本人の労働観や働き方が、欧米のように個人主体の合理性重視へシフトしつつある、と各種の調査から読み取れるからです。 例えばワークライフバランスの重視、残業の回避、より自由でフレキシブルな働き方、仕事の関係者とベッタリ深くではなくライトでカジュアルな関係で仕事したい、より合理的に仕事したい等です。こうした変化を、もはや経営側は無視できなくなっているのではないでしょうか。 最後は、そもそも仕事では不幸でもいい、または不幸な仕事や職場に居続けたいと思う人はいないはずです。つまり、働く人たちが、幸福感をもって仕事をしたいというのは、何をもって幸福というかに違があるとしても、万国共通の願いではないかと考えるからです』、日本でもアメリカ型のコーポレート・ガバナンス論議はそろそろ打ち止めにして、幸福経営が早く広がって欲しいものだ。
タグ:日本でも幸福経営の研究や導入企業が、フランスでの幸せな従業員像に近いかたちで、早い時期に広がるのではないかと思われます 藤野英人 「PL脳」に基づく内向きで縮小均衡型の企業体質が多分に影響 損益計算書の内容はあくまで、過去の一定期間における業績の「結果」を示しているにすぎません 『ファイナンス思考』 その当たり前を忘れた時、人は会社員をさげずむ「会社員という病」に陥り、名ばかり会社員になる。 思考が停止し、「会社員」という身分に安住した時「会社員という病」になってしまうのだ 現在約200企業・4万5000人が登録 職場――民主的で平等かつフェアな業務プロセスや評価システムがあり、普遍的な社会問題(地球環境、人権、社会格差等)に配慮する職場で勤働くことができる 「日本企業をとことんダメにした「PL脳」の呪縛 「ファイナンス思考」なくして復活はない」 の数が2年で50倍に…欧州、特にフランスでは、「幸福経営」の研究や導入の動きが、この数年急速に広がっています 「失われた30年」 朝倉 祐介 その資産を有効に活用して成果を得ようとする発想 CHO(チーフ・ハピネス・オフィサー) 自分たちがどのような資産をもっているのかという自覚 衣食住が足りている日本の社会においては、「これから何をするか」「どんなものを食べるか」「どこに行くか」、ということを「より深く考える消費者」が増えています セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏(現名誉顧問)が、会長職から退くことを表明した記者会見 当時、会長だった鈴木敏文氏は、「感情的」としか言いようがない不満をぶつけて退任を迫ったものの、創業家の伊藤雅俊名誉会長の反対によって、井阪社長の続投を認めざるをえず、自らは会長職を退く形で決着をつけた 「「従業員の幸せ第一」経営が仏で拡大、日本でも期待できる理由」 彼らは決して「自分」を主語にはせず、周りの動向を探りながら「自分」を確認する作業を行うのだ フランスにおける幸福経営への関心は、企業関係者だけではなく、国民全体に広がる兆し 会社の価値を向上させるために、先行投資をするという視点 「PL脳」が日本のビジネスパーソンに深く根づいた結果、「国民総PL脳」とでも呼ぶべき状況に陥っていることが一因なのではないでしょうか ファイナンス的な物事の見方や思考法については、重要性を十分に認識されていないように思われます 抜け落ちている考え方とは 幸福度が高まると、離職者が75%減少、欠勤率が26%減少、生産性が20%向上、就職希望者が5倍に 世界で戦える若手起業家が、実は日本のビジネス界にも大勢いることに気づかされます 上場企業を社長の年齢別にグループ分けし、3年間の売上高や株価の変化率を調べたことがあります 日本の自殺者の多さは「モノでもあるヒト、二人であり一人である会社員の自己疎外が生んだ悲劇であるかもしれない」 シニア層が組織を私物化しているケース 日本型経営・組織の問題点 社長の年齢は60代が最も多く1699社、次いで50代が883社でした 日系ではソフトバンク・ロボティクス、トヨタファイナンシャルサービスなどが登録 河合 薫 経営に関しては、そろそろ若手に権限委譲してはどうだろうか、という提案 皆さん本当に深く物事を考えています。一方、GG資本主義の中核である60代経営者(ビジネスパースン)の多くは、「物事を深く考える前に手を動かせ」というように、どちらかというとオペレーション重視型であり 1つは冒頭に示したように、日本と同様「学歴ベースの階層社会で、国民は新しいものや変化に対し慎重」という文化的傾向にあるフランスですら、この経営モデルが急速に広まっているからです 名所を訪ねる旅ではなく、たとえばウミガメと遊ぶといった体験型オプショナルツアーの予約サイトを運営している株式会社タビナカ代表取締役社長の三木健司さん セカンドキャリア研修 給与の即日前払いサービスを展開している株式会社ペイミーCEOの後藤道輝さん 社員だと付き合いも会社関係になりがちだし、知識や知見も会社員としてのもので。会社員っていうのは、ものすごく狭い世界で生きてる『いきもの』なんだよなぁ、なんてことを思ってしまうんです 投資家の方にとっても重要な基礎教養 父親に怒鳴られましてね。 『お前は会社の歯車にもなってない。いっぱしの歯車にまずはなってみろ!』って ダイヤモンド・オンライン 日本大学や、粉飾決算問題を起こした東芝も同じです 幸福度が高まると、生産性が12%向上 オレンジ、ロレアル、BNPパリバ・・・等のCAC40企業 働く人たちが、幸福感をもって仕事をしたいというのは、何をもって幸福というかに違があるとしても、万国共通の願いではないかと考えるからです そもそも会社を英語で言うと、COMPANY(カンパニー)となるが、COMPANYは、「ともに(COM)パン(Pains)を食べる仲間(Y)」のこと。 つまり、会社とは、「(食事など)何か一緒に行動する集団」であり、会社員はそのメンバーである 4つ目は、デジタルネイティブ世代を中心に、日本人の労働観や働き方が、欧米のように個人主体の合理性重視へシフトしつつある、と各種の調査から読み取れるからです 社内の管理指標や事業部単位での目標数値としても、多くの会社が売上高や利益といった損益計算書上の数値を活用しています 肩たたき研修 転職しようと思った 「会社員小説においてガンダム(ロボットに入りロボットの一部になることの比喩)を下りて自然人に戻ると、会社員である登場人物は、モビルスーツを着ていた法人である自分を忘れてしまう。逆もまた同様。元は1人である2人が、お互いを疎外しあっている」 会社員 「会社員」になった途端、「社畜」だのなんだのと会社員をディスり、自分の意見を認めない会社を「この会社に先はないね」と切り捨てる。本当は「自分に力がない」だけかもしれないのに会社や上司のせいにする。 不満を募らせながらも「会社員」を辞めず、「会社員」をさげすむのである。 入社して3年くらい経った頃に シンクタンク 『自立』『自分らしく生きる』 売上高の伸び率も、株価の上昇率も、30代、40代が社長を務めている会社の方が、はるかに高かったのです ファイナンス思考が必要なのは、財務部門の担当者だけではありません。 会社の業務に取り組むあらゆる職種の方々が体得しておくべき思考法です 学生たちはみな「会社員」になりたくて、“国葬”のような格好で就活に精を出し、「会社員」になれたことに喜ぶ 売り上げ・利益の前年比増減に一喜一憂する「PL脳」に陥っていたら、日本にAmazonは生まれない! 従業員の幸せが企業や組織に繁栄をもたらす」という考えに基づいた、シリコンバレーに端を発し、最近は日本でも拡大の兆しが見える経営モデルです タイ語やベトナム語のインバウンド向け情報サイトを運営している株式会社MATCHA代表取締役社長の青木優さん 総じて次のような状態で働くことができれば、幸福度が高まるということになります 永田公彦 『さらば、GG資本主義』 「会社員という病 不安で思考停止のミドル 「自分の存在意義」は何か」 今の日本は「GG資本主義である」と懸念 GGの意味の一つは、もちろん「ジジイ」をもじったものです 「日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 「低成長」「停滞」の根本理由はここにある」 日経ビジネスオンライン 東洋経済オンライン (その5)(日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 「低成長」「停滞」の根本理由はここにある、日本企業をとことんダメにした「PL脳」の呪縛 「ファイナンス思考」なくして復活はない、会社員という病 不安で思考停止のミドル 「自分の存在意義」は何か、「従業員の幸せ第一」経営が仏で拡大、日本でも期待できる理由) 会社員小説の構造は「1人の人間が会社では法人に、家庭では自然人になること」から生じていると説く 将来の意思決定を可能にするファイナンス的な発想こそが、今のような先行き不透明な時代には一人ひとりのビジネスパーソンに不可欠 社長の平均年齢は前年比+0.2歳で59.5歳になり、過去最高を更新した。上場企業では58.9歳だ 会社の製品開発を強化するための研究開発投資や、商品の宣伝や企業ブランドの浸透にかけるマーケティング投資を抑えると、短期的には利益を底上げできます。しかし、長期的な競争力向上に必要な投資を手控えることで、場合によっては会社の根源的な価値を損なう事態につながりかねません Club des CHO(CHOクラブ) ガンダムの動きがよくなるように、操縦している人が少しでも操縦しやすいように縁の下の力持ちになるってこと (2)仕事――好きでワクワクする仕事を、ストレスを溜めることなく主体的かつ自由に進められる 3つ目は、そもそも歴史的に日本では、90年代初期にバブルが崩壊しアメリカ型の株主重視経営が広がるまでは、従業員とその家族の幸せに配慮する経営思想が脈々と流れていたと思われるからです 2つ目は、ここ数年日本でも、こうした動きを牽引する研究・・・や産学連携の取り組み・・・が起きてきていることです 「リベラルアーツ」・・・よりも、実学を重視する傾向が顕著 50代、60代が上にのさばっている会社は、明らかに機能不全を起こしています 3)人間関係――自分の仕事を認めてくれる信頼できる上司やチーム仲間と階層の隔たりなくカジュアルに協力し合い仕事ができる
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歴史問題(7)(いま明かされる 戦中日本軍の「あまりに愚かな」逸話の数々【特別対談】戦争と歴史を辿る、10万人死亡「東京大空襲」の翌朝 政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…、アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権) [国内政治]

昨日に続いて、歴史問題(7)(いま明かされる 戦中日本軍の「あまりに愚かな」逸話の数々【特別対談】戦争と歴史を辿る、10万人死亡「東京大空襲」の翌朝 政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…、アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権)を取上げよう。

先ずは、3月1日付け現代ビジネスが掲載した学習院大学学長の井上寿一氏と作家・演出家の鴻上尚史氏の対談「いま明かされる、戦中日本軍の「あまりに愚かな」逸話の数々【特別対談】戦争と歴史を辿る」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54631
・『2017年11月に同時刊行した講談社現代新書、井上寿一『戦争調査会幻の政府文書を読み解く』と鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』。多くの人に知られていない文書に光をあてた前著は7刷、後著は10刷と版を重ねています。10万部を突破した『不死身の特攻兵』では、「必ず死んでこい!」と命令されながら、9回生還した特攻兵に迫り、合理性を欠いた日本軍について考察しました。敗戦へと突き進んでしまったのは何故だったのか。今回は、著者お二人が、太平洋戦争当時の日本のあり方や、歴史を語り継ぐ意義について対談しました』、面白そうだ。
・『鴻上:井上先生が今回の著作のテーマに選んだ「戦争調査会」は、終戦間もない頃、幣原喜重郎首相の強い意向によって、日本が敗戦に至った理由を調査するために設置された機関なんですね。
井上:ええ、東京裁判が連合国による戦争責任追及の場であったとするならば、戦争調査会は日本人自らの手で、開戦から敗戦に至る経緯を調査・研究する場でした。ところが、GHQにより1年弱で廃止されてしまい、プロジェクトは未完のまま終わってしまいました。
鴻上:井上先生は長らく眠っていた当時の資料に光を当て、内容を詳細に分析して『戦争調査会』にまとめられた。ここでは、なぜ日本があの戦争に向かっていったのかが実証的に著されていて面白いのですが、その反面、読んでいくと腹が立ってくるんですね。というのも、戦争を回避するチャンスは幾度となくあったのに結局軍部は勝てる見込みのない戦争に突っ込んでいった。なぜこんな愚かな決断ばかりしたのかと……』、確かに『戦争調査会』は興味深い本だ。
井上:社会の構造的な変動によって、戦争が避けがたくなっていきました。戦争への道には実は分岐点がいくつもあって、そこで違う決断をしていれば回避できる可能性はあった。一つひとつの決断の積み重ねとして戦争になっていくのです。一つの判断は、わずかな結果の差異しか生みませんが、それがいくつも重なることで最終的な結果が大きく変わってしまったのですね。
鴻上:単純に「東条英機が悪かった」というように、分かりやすい個人に責任を帰すということではないということですね』、歴史は社会の流れの中で理解すべきことのようだ。
・『井上:ええ。例えば東条一人に責任があるというなら話は簡単ですが、その背景には東条を支持した国民の存在もありました。なにしろ東条自身は、必ずしも開戦に積極的ではなかったのですから。戦争が避けられない状況になっても、陸軍出身の東条は責任を海軍に押し付けようとしていました。「陸軍はやりたくてやっているわけじゃない。海軍はこういうときのために軍拡していたんだろう? 開戦したなら頑張れよ」という流れに持っていった。 海軍も、合理的に判断すれば戦争をしたら負けるということは分かっている。しかし10年くらい軍拡を続けているのに、いざというときに「戦えません」とは言えない。彼らは自分たちの組織を守るために「じゃあ、やります」と言わざるを得なかったのですね』、「東条自身は必ずしも開戦に積極的ではなかった」というのは初めて知った。海軍は軍拡してきたので、拒否できなかったというのも興味深い。
・『井上:・・・東条は、開戦を決断せず、ぐずぐずしているときには「なんで開戦しないんだ」と世論から叩かれていたのですが、いざ開戦してみたら、国民から激励の電話や電報がジャンジャン入ってくる。そうしたら彼も気持ちよくなりますよね。戦況が有利なところで講和に持ち込むのが常道だったけれど、その判断もできなくなっていったのです』、国民が東条を煽ったとは確かにありそうで、怖い話だ。
・『鴻上:本の中で井上先生が「主観的でない歴史は存在しない」と書かれていて興味深かったんですが、世の中には「客観的な歴史が存在する」と考える人もいますよね。
井上:歴史って教科書に書いてあることを暗記すればいいというのではないですよね。いま生きている自分が直面している問題を考えたい、解決したいというとき、過去に遡って何かしらつながりを求めたくなる。そこに歴史を学ぶ意味があると思うのです。 もちろん過去に遡れば、そこに事実というものは無数にありますが、それをすべて再現することは不可能だし、する必要もないと思うのです。それよりも、いま生きている自分が「過去のどういうところから学びたいのか」という意識をもって過去に遡っていくことが大切だと思いますね』、なるほど。
・『井上:『戦争調査会』を書くにあたって、広く知られた存在ではありませんが、東京帝大教授の渡辺銕蔵や陸軍の岡田菊三郎という魅力的な人物を再発見しました。大学教授であり財界人であり政治家でもあった渡辺は、戦前から軍部や右翼を批判し、戦時中は戦局批判で投獄されている。 彼は戦後、戦争調査会の調査に対して、「日本とアメリカとは戦争をする理由なんて全然なかったんだ」と言っています。日本が中国に進出したこと自体は日米開戦の原因にならない。満州事変を拡大させない方針を固めて、例えば小満州に独立政権を作り、形式的に主権は中国にあるという妥協点を作り出せば、中国ともギリギリで折り合えた。「だから最後まで戦争回避の可能性はあったんだ」と渡辺は言っています。現代の外交史研究ではそれが定説になっていますが、渡辺がそれを敗戦直後から言っているという先見性は驚嘆に値します。 一方の岡田は陸軍の戦備課長でありながら、日本軍の仏印進駐に反対していた。忘れられているこの人たちを現在に蘇らせたい。当時、こんなことを考え、発言していた人がいたんだよ、と今の人たちに伝えたい。そういう気持ちが根底にあります』、「最後まで戦争回避の可能性はあったんだ」というのは興味深い。
・『鴻上:・・・私の本には、美濃部正さんという海軍少佐が登場します。1945年(昭和20年)2月下旬、作戦会議の席上で「全軍特攻化」の方針の下、「赤トンボ」と呼ばれた練習機も特攻に駆り出す方針が発表されると、席次が最も下だった美濃部少佐は猛然と反対するわけですね。敵機のグラマンの最大時速が600キロ、それに対する布張り複葉機の赤トンボは200キロ。とても太刀打ちできない。特攻兵の命と練習機を無駄にするようなものだと。 とたんに参謀から「必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」と一喝され、美濃部少佐はすぐ反論しました。「私は箱根の上空で(零戦)一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤トンボに乗って来て下さい。私が一人で全部たたき落として見せましょう」と。これでみな黙ってしまったそうです。 観念や精神論がまかり通った軍部の中にも、「ダメなものはダメなんだ」と、リアルな、実証的なものの見方を貫いた人も少数派ながらいたんですよね』、最下位ながら50人の上官に向かって反論し、黙らせた美濃部少佐のような人物がいたのには驚かされた。『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』も読んでみたい。
・『井上:レーダー研究は日本が英米に先行している部分が多かったのです。ところが日本は、八木秀次が持っていたレーダー技術の特許を期限切れにしてしまった。八木秀次とは、戦時中技術院総裁で、八木アンテナの発明で知られる研究者です。 お陰で米英は八木の技術を最大限生かして研究開発のアクセルを踏み込んで、日本よりも先に実戦配備したのですね。これで戦局に大きな影響が出ました・・・実は海軍の担当者による八木氏への嫌がらせなのです。「レーダー開発は海軍がやる。お前の特許は必要ないんだ」というわけです。もっと言うなら、「海軍が開発をしているのに、お前に特許を独り占めされたくない。お前の許しを得ないとレーダーが開発できないんじゃ困るんだ」ということなのです。 同時に陸軍も開発に乗り出しているのですけど、互いに情報交換もしないで、それぞれがやっている。こんな合理性を欠くことをしているうちに、英米に先を越されてしまったのです』、仮に特許を更新していたとしても、戦時下で欧米の開発を差し止めることは無理だったろうが、陸海軍の縄張り争いまであったとは、確かにが抜けるほどの愚かさである。
・『井上:東京裁判を巡っては、いまも賛否両論があります。「文明の裁き」として肯定的に受けとる意見と、「勝者の裁き」であるとして否定的に受けとる意見です。だけど私は、日本人自らが戦争の原因を追究してこなかったことが最大の問題だと思うのです。戦争調査会は、不十分ながら、それが試みられた組織でした。その存在は以前から知られてはいましたが、バラバラに存在していた資料が2015~16年に15巻の書物にまとめられたのです。そこで、この際、系統的に読んでみようと思ったのが始まりでした。 ところが、これは予想以上に難しい作業でした。当初は、「どのページを見ても初めて知るような事実がザクザク書いてあるのだろうな」と期待していたのですが、全然違いました。長野県の一地方における戦時中の中小企業の運営状況や統制状況を調べていたりする・・・それをじっくり読んでいると、東京裁判のような犯人探しをしているのではなく、戦時経済の状況を含めて、なぜ日本が戦争に向かっていったのかを構造的に解き明かそうという試みがなされているのだなと気づきました。だから地方の中小企業の実態まで調べる必要があったのだろうなと思います』、『鴻上:私も『戦争調査会』を読み砕くのに時間がかかりました。戦争が起こる構造というのはそれだけ複雑なことなんだと思うんですけど、この複雑な構造の本がこれだけ売れるというのは、この国も捨てたもんじゃないなと思いましたよ』、「戦争が起こる構造というのはそれだけ複雑なこと」というのはその通りだろう。
・『井上:『不死身の特攻兵』を読ませていただいて、ちょっと他の人とは違った感じ方をしました。というのは9度の特攻出撃から生還した佐々木友次さんという人が並外れた精神力と飛行技術の持ち主であることに異論はないのですが、あの戦時の極限状況で、こんな奇跡的なことはどんなに超人的な人であっても個人の力だけでは無理だったのではないかなと思うのです。 それを可能にしたのは、本来は爆弾を切り離せなくなっていた飛行機に手を加え、爆弾を切り離せるようにしてくれた整備兵や、不時着したときに襲うどころか、逆に現地の日本軍の基地まで送り届けてくれたフィリピンの人たち、あるいはマラリアに罹って治療していたときに出撃を促しに来た上官に反対してくれた軍医などの存在だと思うのです。 佐々木さんという個人の強さだけではなく、それをいろんな形で支えた人たちが存在していたというところに、大きな可能性を感じます。 何でもかんでも自己決定権で、自分一人でできると、自分で自分のことは責任を取る、というのは無理な話で、自分が何かを成し遂げることができるのは、他人の少しずつの善意の結果なのではないかなと思うのです。鴻上さんの本を読ませてもらって、それを強く感じました』、「自分が何かを成し遂げることができるのは、他人の少しずつの善意の結果なのではないかなと思うのです」は正論だ。
・『鴻上:近現代史を扱う本を書くものの宿命かもしれませんが、ある程度本が売れてくると、ほとんど読んでいない人からの批判がくるようになりませんか。
井上:あります、あります。
鴻上:まあSNSで批判してくる人のアカウントを見ると、フォロワーも数人だったりするので気にしないようにしていますが、自分が読みたい言説だけを読み、それに沿わない論者にはあたりかまわず?みついてくるという人がネットを舞台に増殖しているような気がします。
井上:研究者の中にはそういう人たちに関わりたくないから、ほとんど誰も読まないような学術論文で、先行研究にほんのちょっとだけ独自性があるようなものを書いて満足している人もいます。しかしそれは研究者としての社会的責任を何も果たしていないし、そんな「研究」は単なる趣味でしかないですよね、って言いたいのです。 私が自著の出版のときに新書の形式にこだわるのも同じ理由です。新書ならなんと言っても1万部くらいは刷ってもらえるので、研究のフロントラインをできるだけ分かりやすく世の中に提示することができる。それが研究者の仕事だと思っているからです』、いい心がけだ。
・『鴻上:大事なことですよね。アカデミズムが大衆から逃げたり大衆を馬鹿にしたりして一歩引いてしまったことが、リアリズムと実証主義に基づかない無知で無責任な言説が大手を振ってまかり通る現状を生んでしまった原因であることは間違いないと思うんです。 僕はずっと演劇という、アカデミズムではない普通の人たちにものを提示する仕事をしてきたから、時には面と向かって批判されることもあるわけですが、アカデミズムにもある程度そういう覚悟は必要だと思う。一般の人がアクセスしやすい形で、自分の考えを打ち出していくのはアカデミズムのある種の責務だと思うんです。 井上先生は今回それを見事にやってくださった。これからのお仕事も注目させてもらいます』、「アカデミズムが大衆から逃げたり大衆を馬鹿にしたりして一歩引いてしまったことが、リアリズムと実証主義に基づかない無知で無責任な言説が大手を振ってまかり通る現状を生んでしまった原因」とはその通りだろう。井上氏のような考え方がアカデミズムに広がってもらいたいものだ。

次に、弁護士の大前 治氏が3月10日付け現代ビジネスに寄稿した「10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614
・『「東京大空襲」・・・一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。 この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造・東京都長官(現在の知事にあたる)と坂信弥・警視総監も、都民にむけた告諭で次のように呼びかけた。 【東京都長官と警視総監の連名による告諭】 ・罹災者の救護には万全を期している。 ・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。 「恐れるな」など無理な話だ。しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったはずである。  さらに、この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼呼びかけた。 【小磯首相のラジオ演説】・敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。 ・断じて一時の不幸に屈することなく、国民が聖戦目的の達成に邁進することを切望する。  家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない。 2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けた。いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害を生じた。 3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びかけを掲載。同日の朝日新聞は、「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」と一面に掲載した』、酷い話だが、これが日本政府やマスコミの体質だったのだろう。
・『防空対策を担当する内務省が発した命令がある。 残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。 空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである・・・1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。 なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている・・・予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。 この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。 そこで、憲兵司令部は火消しに走った。 「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。 ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。 そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった・・・避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。 本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない』、「避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである」というのも酷い話だが、これが戦争の実態なのだろう。
・東京大空襲の翌日(3月11日)、午前10時9分から貴族院本会議、午後3時9分からは衆議院本会議が始まった。議事堂の周囲は・・・焦土と化していた。 貴族院では小磯首相が演説した。空襲で傷ついた国民にムチを打つように、「職場に、防衛に、輸送に、国民ことごとく戦列につき、断じて我が国体と我が国土とを護り抜かんこと」を要望した。 各議員からの質問は、国際情勢や本土決戦をめぐり政府を礼賛する内容が多かったが、最後に登壇した大河内輝耕(おおこうち・きこう)の質問は様相が違った。次のように政府の空襲対策を批判したのである。政府のやることが全て後手に回っている。例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。 学童以外の疎開を制限してきた政府方針を真っ向から批判する。空襲の翌日、焼け跡の異臭が漂うなかで、1人の人間として政府の方針を批判せずにはいられなかったのであろう。 大河内議員は、3月14日にも貴族院本会議で登壇した。大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対し、「簡単に質問をいたします」と立ち上がり、次のように迫った。私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。 防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。私は、人を助ける方がよいと思う。 消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。 内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。 避難を禁止して消火義務を負わせる防空体制を根本から否定している。この大河内議員は、東条英機首相による選挙干渉を議会で批判するなど、時流に流されない立ち位置を維持してきた稀有な議員であった。 これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。 東京大空襲の惨状をみても、国民を守るための軌道修正をしようという姿勢は皆無であった・・・それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくが、政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかった。 広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた』、僅か1人でもこうした議員がいたとは、せめてもの救いだ。「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示にはあきれてものも言えない。
・『日本が「我が国の権益を守るための自衛戦争だ」という名目で始めた戦争だったが、最終的には、国民が命を捨てて国を守るよう命じられた。 たとえ自衛戦争だったとしても、国民を守るのではなく、国民が犠牲となって国家を守るという意味での「自衛」だったように思う。 こうした過去の事実は、現代の私たちにも示唆を与える。 憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されているが、もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう。 自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい。 かつて日本政府は「戦争には必ず勝てる」「空襲の被害は軽微だ」という嘘を重ねた。それが国民総動員の原動力となった。 今の政府は、同じような過ちを繰り返さないだろうか。 ニュースをみれば、資料の廃棄(南スーダン自衛隊派遣、加計学園問題)や、不適切な比較資料(裁量労働問題)など、不都合な事実を隠蔽しているのではないかと疑わしい事態が繰り返されている。 こうした体質の政府が「非常事態だから自衛のため武力行使をする」というとき、国民に向けて正しい情報と判断材料を提供するだろうか。もし疑問をもっても、特定秘密保護法が壁となって事実を知ったり知らせたりすることは困難なのではないか。 あらためて、戦争は国民に何をもたらすのか。政府は国民を守るのか。過去の事実から学ぶべきことは多いように思える』、説得力に富んだ結びで、その通りだ。

第三に、スタイリストで有名ブロガーのきっこ氏が8月16日付けの同氏のブログに掲載した「アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権」を紹介しよう。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2018/08/post-450b.html
・『「ポツダム宣言」だけど、これは、ドイツのポツダムにおいてアメリカと中国とイギリスが日本に対して発した共同宣言で、ぜんぶで13の項目に分かれている。でも、13の項目をすべて説明するのはメンドクサイヤ人なので、全体の内容をザックリとまとめると、次のようになる。 「我々、アメリカ、中国、イギリスの連合国軍は、日本政府に対して無条件降伏を要求する。もしも拒否すれば、我々連合国軍は徹底攻撃で日本を殲滅する。我々の陸海空軍は絶大な力を持っており、日本が抵抗するのであれば日本を簡単に焦土と化すことができる。今、日本は決断の時を迎えている。このまま自己中心的な軍国主義者たちの言いなりになって破滅の道へ進むのか、それとも理性的な道を選ぶのか。無責任な軍国主義者たちが日本国民を騙して世界征服を企てたことは許されないし、そのような軍国主義者たちは日本から排除しなければならない。そうしなければ日本に平和や安全といった秩序を確立することが不可能だからだ。そのため、日本が無条件降伏するのであれば、日本から戦争遂行能力が完全に消滅したと確認できるまで、我々連合国軍が日本領土内の拠点を占領する。そして、日本国民の自由意思で平和的かつ責任ある政府が樹立されれば、我々連合国軍は直ちに日本より撤退する。」 こんな感じで、あとは「日本の軍隊が完全に武装解除した時点で平和で生産的な生活を営む機会を与える」とか「我々は日本人を人種差別したり奴隷にするつもりはない。しかし、我々の捕虜を虐待した軍部の戦争犯罪者に対しては厳しい処罰を行なう」とか「日本政府は民主主義を推進し、日本国民に対して言論、宗教、思想の自由を認め、基本的人権の尊重を保障しなければならない」とか、日本がこの「ポツダム宣言」を受諾した場合のことが具体的に書かれている。 ま、全文でも日本語訳で1000文字程度、原稿用紙2枚ちょいの文字数しかないので、10分もあれば読むことができるし、口語訳なら小学校の高学年くらいでも理解することができる。そんな「ポツダム宣言」なので、興味のある人は外務省のHPなどで和訳された全文を読んでみてほしいけど、この「ポツダム宣言」について、現在の日本の総理大臣である安倍晋三は、かつて、呆れ返るほどトンチンカンなことをノタマッていたのだ。』、なるほど。
・『文藝春秋社の月刊オピニオン雑誌『諸君!』の2005年7月号に、安倍晋三を始めとした複数の自称「保守派」の論客の対談が掲載されている。その中で、当時の小泉純一郎首相の靖国参拝について、国会で野党から「首相の靖国参拝は日本が軍国主義化に向かっているという象徴であり、ポツダム宣言にも反している」と批判された問題が取り上げられている。そして、この「ポツダム宣言にも反している」という点について、安倍晋三は、次のように反論しているのだ。「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えたあと『どうだ』とばかりに叩き付けてきたものです。そんなものを持ち出して、あたかも自分自身が戦勝国であるかのような態度で日本の総理を責め上げるのはいかがなものか?」 はぁ?何言ってんの、この人?‥‥ってなワケで、あたしは久しぶりに開いた口からエクトプラズムが流れ出て幽体離脱しちゃいそうなほど呆れ返ってしまった。だって、小学生でも知っているように、広島に原爆が投下されたのが1945年8月6日で、長崎に原爆が投下されたのが3日後の8月9日だ。そして、連合国軍が日本に対して降伏を促す「ポツダム宣言」を提示したのは、それより10日以上も前の7月26日だからだ。 時系列で説明すると、まず、連合国軍が7月26日に日本に対して「ポツダム宣言」を提示したんだけど、日本は全国各地を空襲された上に沖縄戦でもボコボコにやられていて敗戦は時間の問題だった。それなのに日本軍は「ポツダム宣言」を受託せず、白旗を上げずに国民を犠牲にしながら悪あがきを続けていたため、8月6日と9日に原爆を投下されてしまった。そして、8月14日になって、ようやく「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏を表明したってワケだ。 だから、安倍晋三が『諸君!』で公言した「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えたあと『どうだ』とばかりに叩き付けてきたものです」という説明は、時系列が真逆なトンチンカンな説明ということになる。さらに言えば、7月26日に「ポツダム宣言」を提示された時点で、日本がすぐに受諾していれば、広島にも長崎にも原爆など投下されなかったのだ』、安倍の「ポツダム宣言」への誤った理解のお粗末さを、再認識させられた。
・『アメリカによる日本への原爆投下は、どんな説明をしようが絶対に許されるものじゃないし、大量虐殺、ジェノウサイドであり、完全なる戦争犯罪だ。だけど、何の前触れもなく、突然、原爆が投下されたワケじゃなくて、連合国軍は10日以上も前に「無条件降伏しろ。そうしなければ日本を焦土と化す」という内容の「ポツダム宣言」を提示していたのだ。そして、日本政府が「ポツダム宣言」をすぐに受託せず、最後まで悪あがきを続けていたため、原爆が投下されてしまったのだ。こんな言い方には語弊があるかもしれないけど、日本への原爆投下は、「加害者がアメリカ、被害者が日本」ではなく、「加害者がアメリカと日本政府、被害者が日本国民」なのだ』、原爆は「加害者がアメリカと日本政府、被害者が日本国民」とは言い得て妙だ。
・『こうした当時の「実際の状況」を踏まえれば、この安倍晋三のトンチンカンな説明は、ただ単に安倍晋三の無知無能ぶりを全世界に知らしめたというだけでは終わらない。安倍晋三の、この無責任なデマ発言は、歴史的事実を捻じ曲げ、当時の日本政府の戦争責任を棚の上に上げてしまっているのだ。そして、このデマ発言が故意でなかったとすれば、安倍晋三は国会議員のクセに「ポツダム宣言」も読んでいない無知で無能で無教養で無責任な大バカ野郎ということになる。仮にも日本の現職の与党議員が「ポツダム宣言」も読んでいなかった上に、デタラメなデマを月刊誌の誌面で流布するなんて、あまりにも酷すぎる。そして、そんな大バカ野郎が、今では日本の総理大臣になってしまったのだ。 故意であれ無知であれ、どちらにしても、口をひらけばバカのひとつ覚えのように「戦後レジームからの脱却」と連呼して、日本が世界に誇る平和憲法を踏みにじろうとしているブンザイで、その「戦後レジーム」の根本である「ポツダム宣言」も読んでいなかっただなんて、呆れ果てて言葉も出てこない。いまだかつて、これほど愚かで無責任で恥ずかしい総理大臣がいただろうか?』、漢字が読めなかった麻生よりも、はるかに愚かで無責任で恥ずかしい総理大臣だ。
・『現在の第2次安倍政権がスタートして2年目の2015年5月20日、国会での党首討論で、日本共産党の志位和夫委員長は「過去の日本の戦争は間違った戦争であるという認識はありますか?」と、安倍晋三を厳しく問いただした。そして、次のようなやり取りをした。 志位委員長「ポツダム宣言は日本の戦争について、第6項と第8項の2つの項で間違った戦争だという認識を明確に示しております。総理にお尋ねします。総理はポツダム宣言のこの認識をお認めにならないのですか?」  安倍首相「このポツダム宣言を我々は受諾し、そして敗戦となったわけです。そして今、私もつまびらかに承知をしているわけではございませんが、ポツダム宣言の中にあった連合国の理解、例えば日本が世界征服を企んでいたということ等を今ご紹介になられました。私はまだその部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりませんから、今ここで直ちにそれに対して論評することは差し控えたいと思いますが、いずれにせよですね、まさに先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、我々はそのことは忘れてはならないと思います」 おいおいおいおいおーーーい!とうとう日本の総理大臣が「ポツダム宣言はちゃんと読んでいませんでした」って自分で認めちゃったよ!つーか、「ポツダム宣言」って、さっきも言ったように、原稿用紙2枚ほどの短い文書で、どんなに丁寧に読んだって10分もあれば読めるものだし、小学生でも理解できる口語訳もあるのに、仮にも日本の総理大臣が「私はまだその部分をつまびらかに読んでおりませんので」って、何だそれ?ぜんぶで13項目しかないのに、その中の第6項と第8項を読んでいないってことは、ようするに「まったく読んでいないし、全体でどれくらいの長さの文書なのかも把握していない」ってことじゃん! 結局、この党首討論では、安倍晋三は志位委員長の「過去の日本の戦争は間違った戦争であるという認識はありますか?」という質疑にはマトモに答弁することができず、お得意の「質疑と無関係なことをダラダラとしゃべってはぐらかす」という作戦で逃げ続けるしかなかった。今でもYOU TUBEなどで当時の映像を観ることができるけど、終始シドロモドロの安倍晋三は、まるで宿題を忘れた小学生が先生に叱られてバレバレの嘘の言い訳をしているようで、観ているこちらが恥ずかしくなるほど情けない姿を晒している』、党首討論であれば、事前に質問事項は届けられている筈だが、にも拘わらずこの体たらくとは・・・。
・『そんなワケで、敗戦国の総理大臣が、それも「戦後レジームからの脱却」を掲げて改憲を進めようとしている総理大臣が、その「戦後レジーム」の根幹である「ポツダム宣言」を読んでいなかっただなんて、この信じがたいニュースはネット上を駆け廻り、トレンドの1位に「ポツダム宣言」が躍り出るほど盛り上がってしまった。 だけど、皆さんご存知のように、安倍晋三には「恥」という概念がない。この時、安倍晋三が真っ先にやったことは、いつものように「権力によるゴマカシ」だった。この党首討論から約2週間後の6月2日、イエスマンの閣僚たちを集めた安倍晋三は、こともあろうに「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」という答弁書を閣議決定したのだ!アホか? ・・・何なんだよ?この「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」という閣議決定って?バカを通り越して、マジでどうかしちゃってるよ、この人‥‥』、こんなのが閣議決定に馴染むとは到底思えないが、全くの茶番劇だ。
・『日本の政治家であれば読んでいて当たり前の文書をこれまで一度も読んだことがなく、志位委員長の簡単な質疑にも答えられなかったのだから、普通なら自分の不勉強を恥じ、すぐに「ポツダム宣言」を読み、党首討論の場で「差し控えた」自分の考えを後日でもキチンと述べるのが国民の代表である志位委員長に対する義務であり、それこそが総理大臣としての真摯な態度と言うもの。それなのに、この人と来たら、一事が万事、いつでも自分のミスや不勉強をゴマカシて、嘘と詭弁で取り繕うことばかり繰り返してきた。 たとえば、2016年5月16日の衆議院予算委員会で、「行政府の長」である安倍晋三が「私は立法府の長であります」と述べて、「おいおい!日本の総理大臣が三権分立も知らないのかよ?」と全国の中学生を呆れさせた時も、普通なら自分の不勉強を恥じ、すぐに謝罪と訂正をするのが筋なのに、安倍晋三が何をしたかと言えば、コッソリと衆議院の議事録からその部分を消し、ちゃんと「行政府の長であります」と言っていたことに書き直させたのだ。自分に都合の悪い文書は、国会の議事録でさえも改竄させる。安倍晋三の十八番の「文書改竄」は今に始まったことじゃないのだ。 百歩ゆずって、一度であれば「言い間違い」という言い訳も通用するけど、安倍晋三が国会で自分のことを「立法府の長」と言ったのは少なくとも二度目なのだ。つまり、この人は根本的に三権分立を理解しておらず、普段から自分のことを「立法府の長」だと思い込んでいたことになる。「ポツダム宣言」は読んでいないし、「三権分立」は理解していないって、こんなのが日本の総理大臣だとは、一国民としてこれほど恥ずかしいことはない。そして、それを「恥」だと思っていないところが、この人の本当に恥ずかしい部分なのだ』、国会議事録を改竄するとは悪質だ。どうしても訂正する必要がある場合は、議院運営委員会などで謝罪し、野党の了解を取った上で、訂正させるようにするべきだ。
・『8月8日に67歳で亡くなった沖縄県の翁長雄志知事は、生前、「安倍首相はいったいどこを向いて政治をやっているのか?日本の総理大臣なのに、どうして日本のためでなくアメリカのための政策ばかり進めているのか?安倍首相が目指しているのは『戦後レジームからの脱却』ではなく『戦後レジームの完成』ではないのか?」と指摘し、日米地位協定ひとつも正常化できないアメリカ従属の弱腰姿勢を厳しく批判していた。日本が世界に誇る平和憲法を「アメリカから押し付けられた恥ずかしい憲法」と揶揄するのなら、その前に日本人を苦しめ続けている日米地位協定を正常化するのが日本の首相としての最優先課題だと思うし、日本人のための福祉や社会保障の予算を削ってまでアメリカの言い値で欠陥機オスプレイや役立たずのイージスアショアなどを次から次へとお買上げするのだっておかしな話だからだ。結局、自民党総裁の任期を3期に延長してまで安倍晋三が成し遂げたいことは、日本を完全なる「アメリカの属国」にすることであり、翁長知事の指摘の通り「戦後レジームの完成」こそが「安倍政権の目指しているゴール」なのだということが良く分かった。だから、今日は最後にハッキリと言わせてもらうけど、日本を愛する保守派の皆さん!右翼の皆さん!思想の左右に関係なく「日本が大好き」なすべての愛国者の皆さん!このまま今の安倍政権が続いたら、日本はケツの毛までアメリカにむしられてしまい、完全にアメリカの属国に成り果ててしまうから、今すぐに安倍晋三という稀代の売国奴を権力の座から引きずり降ろすために力を結集してほしい!‥‥って、マジでそう思った今日この頃なのだ』、完全に同意できる。いつもながら、きっこ氏の鋭い指摘には感心させられる。
タグ:歴史問題 (7)(いま明かされる 戦中日本軍の「あまりに愚かな」逸話の数々【特別対談】戦争と歴史を辿る、10万人死亡「東京大空襲」の翌朝 政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…、アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権) 現代ビジネス 井上寿一 鴻上尚史 「いま明かされる、戦中日本軍の「あまりに愚かな」逸話の数々【特別対談】戦争と歴史を辿る」 井上寿一『戦争調査会幻の政府文書を読み解く』 鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』 戦争調査会は日本人自らの手で、開戦から敗戦に至る経緯を調査・研究する場 GHQにより1年弱で廃止 東条自身は、必ずしも開戦に積極的ではなかった 海軍も、合理的に判断すれば戦争をしたら負けるということは分かっている。しかし10年くらい軍拡を続けているのに、いざというときに「戦えません」とは言えない いざ開戦してみたら、国民から激励の電話や電報がジャンジャン入ってくる。そうしたら彼も気持ちよくなりますよね。戦況が有利なところで講和に持ち込むのが常道だったけれど、その判断もできなくなっていったのです レーダー研究は日本が英米に先行している部分が多かったのです 同時に陸軍も開発に乗り出しているのですけど、互いに情報交換もしないで、それぞれがやっている。こんな合理性を欠くことをしているうちに、英米に先を越されてしまったのです 戦争が起こる構造というのはそれだけ複雑なこと 大前 治 「10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…」 東京都長官と警視総監の連名による告諭 都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ 小磯首相のラジオ演説 家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない 陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びか 内務省が発した命令 空襲予告ビラを所持するなという命令 憲兵司令部 発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように 敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する 広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた 憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されている もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう 自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい きっこ 「アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権」 「ポツダム宣言」 全文でも日本語訳で1000文字程度、原稿用紙2枚ちょいの文字数しかないので、10分もあれば読むことができるし、口語訳なら小学校の高学年くらいでも理解することができる 『諸君!』の2005年7月号 安倍晋三は、次のように反論しているのだ。「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えたあと『どうだ』とばかりに叩き付けてきたものです。そんなものを持ち出して、あたかも自分自身が戦勝国であるかのような態度で日本の総理を責め上げるのはいかがなものか?」 島に原爆が投下されたのが1945年8月6日で、長崎に原爆が投下されたのが3日後の8月9日だ。そして、連合国軍が日本に対して降伏を促す「ポツダム宣言」を提示したのは、それより10日以上も前の7月26日だからだ 日本軍は「ポツダム宣言」を受託せず、白旗を上げずに国民を犠牲にしながら悪あがきを続けていたため、8月6日と9日に原爆を投下されてしまった 日本がすぐに受諾していれば、広島にも長崎にも原爆など投下されなかったのだ 日本への原爆投下は、「加害者がアメリカ、被害者が日本」ではなく、「加害者がアメリカと日本政府、被害者が日本国民」なのだ』 口をひらけばバカのひとつ覚えのように「戦後レジームからの脱却」と連呼して、日本が世界に誇る平和憲法を踏みにじろうとしているブンザイで、その「戦後レジーム」の根本である「ポツダム宣言」も読んでいなかっただなんて、呆れ果てて言葉も出てこない 国会での党首討論 安倍首相「このポツダム宣言を我々は受諾し、そして敗戦となったわけです。そして今、私もつまびらかに承知をしているわけではございませんが、ポツダム宣言の中にあった連合国の理解、例えば日本が世界征服を企んでいたということ等を今ご紹介になられました。私はまだその部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりませんから、今ここで直ちにそれに対して論評することは差し控えたいと思いますが、いずれにせよですね、まさに先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、我々はそのことは忘れてはならないと思 安倍晋三が真っ先にやったことは、いつものように「権力によるゴマカシ」 「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」という答弁書を閣議決定 普通なら自分の不勉強を恥じ、すぐに「ポツダム宣言」を読み、党首討論の場で「差し控えた」自分の考えを後日でもキチンと述べるのが国民の代表である志位委員長に対する義務であり、それこそが総理大臣としての真摯な態度と言うもの いつでも自分のミスや不勉強をゴマカシて、嘘と詭弁で取り繕うことばかり繰り返してきた 「私は立法府の長であります」と述べて コッソリと衆議院の議事録からその部分を消し、ちゃんと「行政府の長であります」と言っていたことに書き直させたのだ 「文書改竄」は今に始まったことじゃないのだ 「立法府の長」と言ったのは少なくとも二度目 安倍晋三が成し遂げたいことは、日本を完全なる「アメリカの属国」にすることであり、翁長知事の指摘の通り「戦後レジームの完成」こそが「安倍政権の目指しているゴール」なのだということが良く分かった
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歴史問題(6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由) [国内政治]

歴史問題については、昨年10月13日に取上げた。今日は、(6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由、10万人死亡「東京大空襲」の翌朝 政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…)である。

先ずは、作曲家=指揮者、ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督で東大助教授の伊東乾氏が昨年10月24日付けJBPressに寄稿した「「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか、歴史が語る大きなリスク」を紹介しよう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51412
・『どこかに、日本人がたくさん集まっている状況を考えてみます。例えばスポーツの国際大会などで遠征チームと応援の人たちが偶然集まった、でもいい。場所も、スタジアムであれ、街頭であれ、あるいは一杯飲んでるタイミングでもかまいません。 そんなところで、誰かが立ち上がって突然 「き~み~が~ぁ~よ~ぉ~わ~」と歌い始めたとします。何が起きるでしょう? 一概には言えませんが、そこそこ以上の確率で、一緒に歌い始める人がいる・・・と言っても、不思議な顔をする日本人は少ないのではないでしょうか? 知っている歌を誰かが歌うと、つられて自分も、声を張らなくても歌い出してしまう・・・。こうした経験をお持ちの方は少なくないはずです。それが人間の生理で、これなくして幼児が母語を獲得することはできません』、なるほど。
・『音声言語を話すことができる人は、例外なくこの「引き込み」に引っかかる、そういう生理現象として押さえておいてください。 誰かが1人、「君が代」を歌うと、つられて君が代を歌い出す人がたくさん出てくる。またその中で1人シラケた顔をして黙っていると、歌を知らない場合は疎外感を感じるでしょうし、知っていてわざと歌わないと「どうして参加しないんだ!」という<同調圧力>にさらされる。 というのも、容易に想像がつくところと思います。イデオロギーは無関係、音声と言語を理解し操る知能を持つ霊長類の、必然の生理を述べているに過ぎません』、私も付和雷同しているだけと思っていたが、「必然の生理」とは、一安心した。
・『これを用いて人を調教することができます。人類は、暴力や薬物を用いて人を支配してきた歴史を持ちます。しかし、歌などを用いるこうした調教は、物理的な証拠、例えば殴られた跡であるとか、血液や毛髪の検査で分かる薬物の痕跡とかが残らない「スマートな支配の道具」です。  暴力や薬物を用いて人を調教するケースは「Brain washing(洗脳)」と呼ばれますが、それに該当しないこうした支配を「mind control」と呼んでいます。 適切な訳語がなく、そのままカタカナでマインドコントロールとして日本社会に普及したのは1995年、オウム真理教事件が摘発され、そこで宗教を語ってこれらが濫用されていた事実が明らかになって以降のことと思います・・・ここでは「歌」と「共同体」の重要なポイントだけに絞って、平易にお話したいと思います』、「スマートな支配の道具」とは上手い表現だ。
・『日本の国歌「君が代」を、何かとても古いものと勘違いしている人がいるようです。 確かに歌詞は古今集、平安時代に根を持ちますが、何風とも判断のつかぬあのメロディー、さらにそれに寄せられた特徴的な和声などは近代国家日本初期の迷走がそのまま形になって残っているのも、音楽に関わる者には広く知られた事実です。 この旋律自体は、京都出身の若い宮内省楽士、奥好義(1857-1933)が下書きしたものを、上司で大阪四天王寺出身の雅楽人、林廣守(1831-96)が手直ししたとして箔をつけたものです。 しかし、「国歌」というのは海外向けの発信道具でもあるので、どちらも西欧風の和声などつけられない。ここが重要なポイントです。仕方なくお雇いの海軍軍楽教師、フランツ・エッケルトにハーモニーをつけてもらうのですが、エッケルトは悩んだ末、ついに冒頭と末尾についぞ和声を付すことができませんでした・・・現行の君が代という「国歌」は、日本人のメロディにドイツ人が間違ったハーモニーをつけたものである事実は直視しておくべきだと思います』、なるほど。
・『この歌が生まれた当時、西南戦争が終わりようやく国内は平定されます。しかし莫大な戦費、特に重火器の購入で日本国内の金が海外に流失し、ほとんど失敗国家直前に明治政府は陥りました。そこで国際社会に伍していくために必須の軍事アイテムとして、お雇い外国人海軍軍楽教師などに助けてもらって作ったものにほかなりません。1880年に成立した近代の産物なのです。 君が代は、成立時期としては「あんぱん」や「牛なべ」とほぼ同じ、文明開化の時期の産物、さも古そうに見せて実は近代の模作、という点では、もともとは1895年に開かれた内国勧業博覧会のパビリオンだった、京都の平安神宮とよく似ています』、「さも古そうに見せて実は近代の模作」で平安神宮も同様というのは、初めて知った。
・『明治以前の日本に「国歌(National anthem)」などというものは一切存在せず、またそんな必要もありませんでした。 鎖国していたので、国全体を見渡し、またそれを代表して海外と栄誉礼など軍事儀礼交換などする必要もなかったのですから・・・。 「国歌」という概念の背景は・・・「国民国家(Nation state)」の成立を抜きに考えることができません・・・帝国主義列強が覇権を競い合っていた19世紀後半、国民国家はこぞって「国歌」を制定し、内政外交双方に活用していました。 国内的には、市民兵養成の基礎として「わが国の国民であるぞよ」と幼時から心身に刻印するのに、国歌ほど有効なアイテムはありません。 これはフランス革命と、そのときの革命歌で現在はフランスの国歌である「ラ・マルセイエーズ」を想起していただければ、自明のことと思います。「国の歌」は赤ん坊から自国民としてアイデンティティを染め込む、国民国家の基本ツールにほかなりません』、西欧でも19世紀後半に制定であれば、日本が特に遅れた訳ではないようだ。「赤ん坊から自国民としてアイデンティティを染め込む、国民国家の基本ツール」とは実に上手い表現だ。
・『対外的には、和平条約調印などの折、双方の軍楽隊が対等に国家を演奏といった習慣がすでに定着しており、この残滓はオリンピックでメダルを取った国の国家が演奏されることなどで、現在でもメディアで確認できるでしょう。海外の元首など国賓を迎える際にもこれを栄誉をもって演奏します。 日本が西欧列強から、アジアの一国として尊厳をもって遇してもらえるようになるには、相手側の国の軍楽隊が演奏できる、西欧風の<ナショナル・アンセム>あるいは愛国行進曲のようなものが必須不可欠でした。 それがなく、雅楽や能楽で自己主張しても、諸外国列強は「極東の後れた民族音楽」としか扱えなかったでしょう。 アジアやアフリカの各国が、変にバタ臭い国歌を擁しているのを、私はやや残念に思うのですが、その背景にはこのような事情がありました。この点、日本の「アンパン牛なべ式」の国歌作りは、ユニークな取り組みであったと言えるでしょう』、確かに雅楽や能楽を使う訳にはいかず、和洋折衷方式を採った理由が理解できた。
・『ギリシャ・ローマの古代から19世紀まで軍事行動は基本、白兵戦で、野戦展開している将兵のシグナルには角笛=ホルンやラッパが活用されました。 日本なら法螺貝がこれに相当します。各国が軍楽隊に力を入れたのは、それが軍事情報技術の核を担うものだからにほかなりません。 また、今では体育会系の応援団などに名残をとどめるエールの交換は、和議の場での互いの国歌の交換に端を発します。相手方の奏楽に見劣りのしない音楽が、国威発揚の上で必須不可欠でした。「威風堂々」という訳名を持つエルガーの行進曲も大英帝国で重視されているのをご存知の方も多いでしょう。 「軍楽」は練兵のツールとして、「国歌」はネーション・ステートでの幼時からの「国民創成」にとって必須不可欠なアイテムでした。 そこには「刷り込み(imprinting)」があるだけで、何一つ相対化や批判がありません。軍隊で上官の命令をいちいち批判していたら作戦行動になりません。 だからこそ、武官ベースで軍部が暴走すると、思考しないシステムの自走で、先の大戦のような破局を避けることができません。 歌は反射調教のツールで、そこには「なぜ?」がない。 日の丸や君が代を軽んじられると怒り出す人がいます。そこには「なぜ?」という批判はない。なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置であることを、この仕事を30年ほど続けてきた教授職として保証したいと思います』、西欧での本格的な軍楽隊のツールは、オスマントルコらしい。「なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置」というのは、言い得て妙だ。
・『誰か1人が「君が代」なり何なりのメロディを歌い始めると、それを知る大群衆は容易に、思考を停止したまま、唱和という同調圧力を生み出す生理があります。 そこには悟性による批判は介在しません。客観的で冷静な判断力を欠く投票が例えば昨年の英国、米国、今現在ならカタルーニャで、今現実に起きているわけです。 これを仕かける人もいれば、それに応じてしまう十分に煮上がった国民群衆環境が醸成されている。イデオロギーもイズムも無関係に、生理的な根拠だけで、リスクの所在をつまびらかにしてみました。良識ある読者の賢慮に資することを期待するものです』、ここには触れられてないが、ナチスも勇ましい軍歌で、国民を煽った。「大群衆は容易に、思考を停止したまま、唱和という同調圧力を生み出す生理があります」というのは、大いに噛み締める必要がある。公立学校で、「君が代」斉唱を拒否した教師を処分するなどは、もってのほかだ。

次に、1月28日付け東洋経済オンライン「半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/205960
・『1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている・・・今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。 だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた』、どんな異議なのだろう。
・『私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。 明治初期の詔勅や太政官布告などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。 そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。 調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした』、なるほど。
・『明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長政府というよりは長州政府が、肥前の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。 薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。 確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。 薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。 歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました』、確かにありそうな話だ。
・『そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。 困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。 そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。 さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……』、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めないので、「薩長側の活字史料に頼るしかないのです」、というのはその通りだろう。
・『私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」 いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。 また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。 そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります』、なるほど。
・『「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。 司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。 本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。 そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。 私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。 にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。 そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです』、なるほど。
・『宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。 たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。 新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。 県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。 また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。 いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。』、原発が開発の遅れた賊軍地域だけに集中しているとは、驚かされた。「埼玉」の由来も面白い。
・『立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者・・・賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。 ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。 また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。 政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです』、これは十分考えられることだ。
・『NHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別された・・・例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。 こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです』、「神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています」というのにも驚かされた。
・『「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。 いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。 「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて忍苦まさに幾星霜~」 勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう』、こうした恨みが残っている限り、国民的に祝うのは無理があるといえよう。

第三に、元レバノン大使の天木直人氏が2月12日付け同氏のブログに掲載した「吉田松陰がワーストNO1である本当の理由」を紹介しよう。
http://kenpo9.com/archives/3260
・『実話BUNKAタブー誌(コアマガジン社)が2月号で特集した「日本をダメにした幕末・維新のワースト15人」の中では、吉田松陰がワーストNO1にランクされていた。 その理由は、吉田松陰が「松下村塾」という私塾を開いてテロリストを養成したからだ。 しかし、本当の理由はそれではない。 吉田松陰の考えこそが、大問題であるのだ。 その事を、歴史学者の磯田道史氏が、二日ほど前の東京新聞の連載「変革の源流」(7)で、吉田松陰が獄中で綴った思想書「幽囚録」を引用して、教えてくれた』、『すなわち、吉田松陰はこの幽囚録で、その後の日本がたどる道を提言していたというのだ。 蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質をとって朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ、と提言していたというのだ。 そして、磯田氏はこう語っている。ここに書かれている思想は、明治以降の外交政策に大きく影響しましたと。 北海道開発、琉球処分、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言通りに進みましたと。 武力に頼る中央集権国家の確立に影響を与えた吉田松陰は、間違いなくワーストNO1である。 しかし、ワーストNO1どころか、その吉田松陰を称えるのが、安倍首相の下で急速に進んでいる今の政治の風潮なのだ。 アジアとの共生が出来ないはずである』、大東亜共栄圏の原型となる構想を描き、明治以降の外交政策に大きく影響したとは、初めて知った。ただ、吉田松陰を責めるのはいささか酷で、むしろその構想を実現しようとしたその後の世代に責任がある、と考えるべきなのではなかろうか。
明日も引き続き歴史問題を取上げる予定である。
タグ:歴史問題 (6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由) 伊東乾 JBPRESS 「「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか、歴史が語る大きなリスク」 音声言語を話すことができる人は、例外なくこの「引き込み」に引っかかる、そういう生理現象として押さえておいてください 誰かが1人、「君が代」を歌うと、つられて君が代を歌い出す人がたくさん出てくる。またその中で1人シラケた顔をして黙っていると、歌を知らない場合は疎外感を感じるでしょうし、知っていてわざと歌わないと「どうして参加しないんだ!」という<同調圧力>にさらされる これを用いて人を調教することができます 歌などを用いるこうした調教は、物理的な証拠、例えば殴られた跡であるとか、血液や毛髪の検査で分かる薬物の痕跡とかが残らない「スマートな支配の道具」です 暴力や薬物を用いて人を調教するケースは「Brain washing(洗脳)」と呼ばれますが、それに該当しないこうした支配を「mind control」と呼んでいます 「君が代」 歌詞は古今集、平安時代に根を持ちます この旋律自体は、京都出身の若い宮内省楽士、奥好義(1857-1933)が下書きしたものを、上司で大阪四天王寺出身の雅楽人、林廣守(1831-96)が手直ししたとして箔をつけたものです。 しかし、「国歌」というのは海外向けの発信道具でもあるので、どちらも西欧風の和声などつけられない。ここが重要なポイントです。仕方なくお雇いの海軍軍楽教師、フランツ・エッケルトにハーモニーをつけてもらうのですが、エッケルトは悩んだ末、ついに冒頭と末尾についぞ和声を付すことができませんでした 国際社会に伍していくために必須の軍事アイテムとして、お雇い外国人海軍軍楽教師などに助けてもらって作ったものにほかなりません。1880年に成立した近代の産物 君が代は、成立時期としては「あんぱん」や「牛なべ」とほぼ同じ、文明開化の時期の産物 さも古そうに見せて実は近代の模作、という点では、もともとは1895年に開かれた内国勧業博覧会のパビリオンだった、京都の平安神宮とよく似ています 帝国主義列強が覇権を競い合っていた19世紀後半、国民国家はこぞって「国歌」を制定し、内政外交双方に活用 国内的には、市民兵養成の基礎として「わが国の国民であるぞよ」と幼時から心身に刻印するのに、国歌ほど有効なアイテムはありません ラ・マルセイエーズ 対外的には、和平条約調印などの折、双方の軍楽隊が対等に国家を演奏といった習慣がすでに定着しており、この残滓はオリンピックでメダルを取った国の国家が演奏されることなどで、現在でもメディアで確認できるでしょう。海外の元首など国賓を迎える際にもこれを栄誉をもって演奏します 日本が西欧列強から、アジアの一国として尊厳をもって遇してもらえるようになるには、相手側の国の軍楽隊が演奏できる、西欧風の<ナショナル・アンセム>あるいは愛国行進曲のようなものが必須不可欠でした それがなく、雅楽や能楽で自己主張しても、諸外国列強は「極東の後れた民族音楽」としか扱えなかったでしょう 体育会系の応援団などに名残をとどめるエールの交換は、和議の場での互いの国歌の交換に端を発します 相手方の奏楽に見劣りのしない音楽が、国威発揚の上で必須不可欠 威風堂々 「軍楽」は練兵のツールとして、「国歌」はネーション・ステートでの幼時からの「国民創成」にとって必須不可欠なアイテムでした そこには「刷り込み(imprinting)」があるだけで、何一つ相対化や批判がありません なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置である 東洋経済オンライン 「半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す」 安倍晋三首相 年は、明治維新から、150年目の年です 記念事業に積極的 日本のいちばん長い日 昭和史 賊軍の昭和史 「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした 「明治14年の政変」があり、薩長政府というよりは長州政府が、肥前の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年 薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」 薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか 明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきた 幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです 明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません 薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています 長岡 明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ 薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。 「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉 「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません 戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない 戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています 県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です 埼玉県 岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩 世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます 賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れた 原子力発電所が賊軍地域だけに集中 立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者 神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業 「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです 天木直人 同氏のブログ 「吉田松陰がワーストNO1である本当の理由」 「日本をダメにした幕末・維新のワースト15人」の中では、吉田松陰がワーストNO1にランク 吉田松陰の考えこそが、大問 東京新聞の連載「変革の源流」(7)で、吉田松陰が獄中で綴った思想書「幽囚録」を引用して、教えてくれた その後の日本がたどる道を提言していたというのだ。 蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質をとって朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ、と提言していたというのだ 明治以降の外交政策に大きく影響 その吉田松陰を称えるのが、安倍首相の下で急速に進んでいる今の政治の風潮なのだ。 アジアとの共生が出来ないはずである
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幸福(その1)(「インスタ映え」の対極、デンマーク人の人生観に癒される人多数、なぜ日本人の幸福度は低いのか?その背景にある「身分制社会」、「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論 「環境との相互作用」を忘れている) [社会]

今日は、幸福(その1)(「インスタ映え」の対極、デンマーク人の人生観に癒される人多数、なぜ日本人の幸福度は低いのか?その背景にある「身分制社会」、「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論 「環境との相互作用」を忘れている)を取上げよう。

先ずは、芳子ビューエル氏の著作の一部を藤野ゆり氏が3月10日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「「インスタ映え」の対極、デンマーク人の人生観に癒される人多数」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/162909
・『「世界一幸福な国」と言われるデンマークの人々の幸福の秘訣といわれるヒュッゲは、流行の「インスタ映え」とは対極的な意味を持つ価値観である・・・「ヒュッゲとはデンマーク独特の言葉で、デンマーク人のライフスタイルそのものを表現しています。例えばデンマーク人はピクニックが大好きなのですが、インスタ映えするような、お洒落な小道具を並べた形式的なピクニックは行いません。バスケットにパンや水筒、必要なものだけをボンボン詰め込んで、見た目にこだわらないピクニックを行うことが、最高にヒュッゲなのです」 こう語るのは『世界一幸せな国、北欧デンマークのシンプルで豊かな暮らし』の著者で、北欧流ワークライフデザイナーの芳子ビューエル氏。ビューエル氏の解釈では「ヒュッゲ」とは、日本語でいう「ほっこり」に近いものだという。例えば、キャンドルの明かりのそばでココアを飲むこと、海辺で日が沈む様子を眺めながら波の音に耳を澄ますこと、大好きな人たちと一緒に過ごすひと時…。これらは全て「なんてヒュッゲなの!」と評される』、なるほど。
・『デンマーク人は、自然体で暖かい人との触れ合いを尊重している。インスタ映えばかりを考えてスマホに気をとられ、目の前の自然が奏でる音や海の匂いの心地よさに気づけないような野暮さは、ヒュッゲではないわけだ。 「デンマーク人はプレゼントもヒュッゲです。いただいたなかで特に記憶に残っているのは、バタフライプランツという蝶が寄ってくる植物。もらった時はなにそれ?と思いましたが(笑)、その木には本当に蝶が寄ってきて、ふとした日常のなかで癒されるんですよね。物質ではなく心の豊かさみたいなものを、デンマーク人は大事にしているんです」 デンマークではホームパーティーに招かれても、日本のように大仰な手土産を持ってくる人は少ないという。持ち寄るのは、ハンドメイドのクッキーやワインなど、ナチュラルで飾らないアイテムだ』、概念がようやく解ってきた。
・『老後破産とは無縁!ヒュッゲを生んだ土壌とは・・・そもそもデンマークとは、一体どのような国なのか。「デンマークといえば、『世界幸福度報告書』で何度も第1位になった“世界一幸せな国”として有名です。この調査は、経済的な豊かさや社会の寛容性、人生選択の自由度、政治への信頼など様々なポイントを世論調査で集計し、それをランキング化したもので、国民の主観的判断に委ねられる部分が大きいものです」 つまり、デンマーク人は「自分たちは幸せだ」と強く感じている人たちなのだ。最新の2017年の発表でも、ノルウェーに次いで第2位である。一方、日本は150以上の国や地域の中で51位、先進国としては低いランクに位置している。日本人は、自身のことを「幸せ」だと実感できていない人が多いのである。 では、なぜ日本人と違ってデンマーク人は胸を張って幸せだ、と言えるのだろうか。そこにはヒュッゲを重んじる国民性と、デンマークの社会保障制度の充実があるようだ。「デンマークの社会保障の素晴らしさは群を抜いています。医療費も教育費も介護費も無料。出産費用だって負担してくれるので、税金さえ納めていれば将来への不安がほとんどありません」 費用面のみならず、育児支援制度や高齢者のための福祉サービスも非常に充実している。ただし、その代わりに税金が高すぎるというデメリットも存在する』、デンマークは高福祉・高負担の典型だ。
・『「所得税はほぼ50%で消費税も25パーセント。自動車の登録税なんて150%ですから、高級車に乗っている人はほとんど見かけません。日々の移動は基本、自転車です。消費税が高すぎるため、必然的に買い物をする際は吟味して、本当に気に入ったものしか買わなくなりますし、ブランド物にもなかなか手が出せません」 日本社会に蔓延しているような、子育て不安や老後破産とは無縁な一方、ジャンジャン消費を楽しむことは難しいデンマーク人。こうした社会環境から、ミニマリストで、シンプルな生活を楽しむ感性が生まれたのかもしれない。 派手な色合いのドレスなどで着飾ってパーティーに参加している人を見ると「あの人、きっとアメリカ人よ」と皮肉られることがあるほど、デンマーク人は黒・グレーなどのベーシックな色合いを好み、そこに控えめにアクセサリーを用いるというのが定番だという。 一方で日本は、アメリカ式の華美でゴージャスな文化に慣れ親しんだ結果、生活に求めるハードルが上がってしまっているのではないかとビューエルさんは分析する。「日本人は暮らしに求める基準が高すぎるから、不満も溜まりやすい気がします。誰かにいいね!を押してもらいたいと思えば思うほど、素の自分から離れていってしまうし、ナチュラルな状態ではいられなくなる。自然体で着飾らない自分でいることの素晴らしさが、”いいね!社会”では、どんどん失われていく気がします」』、最後の部分は、その通りで、実に味わい深い分析だ。
・『毎日を慎ましく丁寧に、シンプルに重ねていくデンマークのライフスタイルは、昔の日本の生活様式に共通する部分があるとも言えそうだ。 「デンマークの人々は、とにかくファイアープレイスに集まるのが大好き。暖炉の周りに集まったり、たくさんのキャンドルを灯して、その中で大勢で食事を楽しみます。日本も昔はこたつや囲炉裏に自然と家族が集まって、そこで暖をとりながらコミュニケーションを図っていた。日本の伝統美である“こたつにみかん”こそ、最も日本的なヒュッゲと言えるでしょう」 こたつにみかん、そして家族との団欒。決して「インスタ映え」しない風景である。しかし素朴な日常とその温かみこそが、私たちの人生、そして幸せに必要だということを、「ヒュッゲ」は教えてくれているのかもしれない』、今さら日本人に「こたつにみかん」に戻れといっても無理だろうが、将来、高負担になれば、自ずとデンマーク風にならざるを得ないのかも知れない。
・なお、本題とは関係ないが、デンマークでも押し寄せる中東難民に対し、一定額を超える財産を没収するなど、難民に冷たいムードが高まっている。

次に、7月13日付けAERAdot.が作家の橘玲の著作の一部を掲載した「なぜ日本人の幸福度は低いのか?その背景にある「身分制社会」」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/dot/2018071100017.html?page=1
・『日本経済のいちばんの問題は労働生産性が低いことで、OECD35カ国中21位、先進7カ国のなかではずっと最下位だ。日本人は過労死するほど働いているが、一人あたりの労働者が生み出す利益(付加価値)は8万1777ドル(約834万円)で、アメリカの労働者(12万2986ドル)の7割以下しかない。 そればかりか、世界の労働者のエンゲージメント(会社や仕事に対するかかわり方)の度合いを調べると日本のサラリーマンは最低レベルで、もっともやる気がない。それもひとつの調査ではなく、OECDを含む10の機関でほぼ同じ結果が出ている。 これを手短に要約すると、「日本のサラリーマンは過労死するほど長時間働いているが、生産性がものすごく低く、世界でいちばん会社を憎んでいる」ということになる』、エンゲージメントまで最低レベルとは驚いた。
・『家庭に目を転じると、日本では若い女性の3割が「将来は専業主婦になりたい」と思っており、専業主婦世帯は約4割と先進国では際立って高い。しかし不思議なことに、家庭生活に満足している女性の割合を国際比較すると、共働きが当たり前のアメリカやイギリスでは7割が「満足」と答えるのに、日本の女性は4割ちょっとしかない。専業主婦になりたくて、実際に専業主婦になったにもかかわらず、彼女たちの幸福度はものすごく低い。 なぜこんなヒドいことになっているのだろうか。じつは、この問題はコインの裏表だ。専業主婦の家庭には、家事育児を妻に丸投げして会社に滅私奉公する夫がいる。 日本では、男は会社という「イエ」に、女は家庭という「イエ」に所属する。女性が出産を機に会社から排除されるのは、会社と家庭という2つのイエに同時に属することができないからだ。総合職でも子育て中は「マミートラック」という“ママ向け”の仕事をあてがわれることが、女性管理職がきわめて少ない理由になっている』、「専業主婦になりたくて、実際に専業主婦になったにもかかわらず、彼女たちの幸福度はものすごく低い」というのも驚きだが、あり得る話だ。
・『男女のジェンダーギャップだけでなく、正規/非正規、親会社/子会社、本社採用/現地採用など、日本的雇用制度ではあらゆるところに「身分」が顔を出す。日本は先進国のふりをしているが、その実態は江戸時代の身分制社会に近い。日本人同士が出会うと、まず相手の所属=身分を確認し、尊敬語や謙譲語で上下関係を示そうとするが、こんな「風習」は欧米ではもはや存在しない。 近代の理想は、自由な個人が自らの可能性を社会の中で最大化できることだ。こうした価値観は日本人も共有しているが、実際には男は会社、女は家庭というイエに押し込められて身動きがとれなくなってしまう。理想と現実のこのとてつもない落差が、日本人の幸福度を大きく引き下げているのだろう』、説得力がある説明だ。

第三に、健康社会学者の河合 薫氏が7月17日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論 「環境との相互作用」を忘れている」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/071300169/
・『持てる者と持たざる者といいますか。モヤモヤする出来事が、新聞で、テレビで、リアル世界で相次ぎ、暗たんたる気持ちになってしまったのだ。 以下、もろもろ“連打”しますので、皆さんも一緒にお考えいただけば幸いです。 ●6月25日付で「低所得者世帯の乳児発育不全リスク 高所得者世帯の1.3倍」との見出しで・・・所得が下位4分の1(平均279万円)の世帯の乳児は、所得が上位4分の1(平均924万円)の世帯の乳児と比べ、体重の増加不良になる割合が1.3倍となった(01年、10年ともに)。 ●6月26日付で「低所得ほど長時間 老老介護 支援の情報届きにくく」との見出しで・・・1日平均で10時間以上(週72時間以上)の介護をしなければならないリスクは、「318万円以上」を1とすると……、 •「200―318万円未満」では1.63倍、「130-200万円未満」では1.86倍、「生活保護受給者」では2.68倍となり、所得が低いほど介護する時間が長くなる傾向が見られた・・・在宅介護時間が長いと介護者の心身にも悪影響が出る。収入が低くなると有効な情報が入りづらくなったり、頼れる他者がおらず孤立している可能性がある。 また、筑波大などの研究チームが滋賀県内に住む65歳以上の8434人を11年から6年間追跡したところ、「経済的に困窮」「近所づきあいがない」「独居」「ボランティアなど社会参加していない」の4項目のうち2つ以上が該当する人は、全く当てはまらない人より1.7倍、要介護・死亡リスクが高いこともわかっている。 ●6月28日付で「成績・進学期待 収入に比例」との見出しで・・・全国学力テストを受けた小6と中3の保護者約12万2000人を対象に調査し、両親の収入や学歴(SES)で「上位層」「中上位層」「中下位層」「下位層」の4群に分割したところ、 •層が上がるほど学力調査の平均正答率が高く、中3の数学Aは「上位層」77.1%に対して「下位層」は52.8%。 •層が上がるほど子供への進学期待が高く、「大学」と答える人は、小6の「上位層」で80.8%に対し「下位層」33.2%、中3の「上位層」で81%に対し「下位層」は29.3%』、格差が様々な面でここまで広がっていることを、再認識させられた。
・『奇しくも時を同じくして、自民党の二階俊博幹事長の「子どもを産まない方が幸せに送れるとは勝手な考え」発言が物議を醸していたので、余計末期的な気分になった。 すでに忘れてしまった方のためにおさらいしておくと、二階氏の講演会で、参加者から「自民党と政府が一体になって、早く結婚して早く子どもを産むように促進してもらいたい」と言われると、二階氏は戦時中の話をした上で、「この頃はね、『子どもを産まない方が幸せに送れるんじゃないか』と勝手なことを自分で考えてね」と発言・・・個人的には“その後”の発言の方が納得いかなかった。 二階氏曰く、「食べるのに困る家は実際はない。今晩、飯を炊くのにお米が用意できないという家は日本中にない。こんな素晴らしいというか、幸せな国はない」と断言していたのだ。 ご存知の通り、日本の相対的貧困率は世界的に見ても高く、「ひとり親世帯」(就労者)は50.8%で、経済協力開発機構(OECD)の調査でも主要国で最悪レベルだ。特に子供の「相対的貧困率」は社会問題で、最新の調査では7人に1人の子どもが「相対的貧困状態」にある。「相対的貧困」とは、普通の生活水準と比較して下回っている状態のこと。具体的には世帯1人あたりの手取り収入の中央値を基準とし、その半分未満。金額にすると1人世帯では年収122万円程度で、両親と子ども2人では244万円が基準となり、4人家族であれば月収およそ20万円以下であれば貧困状態だ。 冒頭の「所得が下位4分の1(平均279万円)世帯」「130万~200万未満世帯」は、相対的貧困層に入る可能性の高い世帯である。「月収で20万円あるんだったら、二階氏の言う通りじゃん。それだけあれば今晩の飯を炊くお米が用意できない』ってことはないでしょ?」そう思う人もいるかもしれない。これこそが「見えない貧困」と言われるゆえんだ』、食べるのに困る家はないから、こんな素晴らしいというか、幸せな国はない、という二階発言は確かに問題だ。
・『機会略奪のスパイラル 貧困の最大の問題は「普通だったら経験できることができない」という、機会の略奪。とりわけ幼少期の「機会奪略」はその後の人生の選択にも大きな影響を与える。教育を受ける機会、仲間と学ぶ機会、友達と遊ぶ機会、知識を広げる機会、スポーツや余暇に関わる機会、家族の思い出を作る機会、親と接する機会……etc.etc。 私たちは幼少期にこういった様々な経験を積む中で、80年以上の人生を生き抜く「リソース」を獲得する。 ところが低所得世帯の子どもはそういった機会を経験できず、進学する機会、仕事に就く機会、結婚する機会など、「機会略奪のスパイラル」に入り込む』、機会略奪のスパイラルとは上手い表現だ。
・『子どもの貧困率が増えた背景には、シングルマザーの増加や、非正規雇用の低賃金が存在していることがわかっているので、その機会略奪が「貧困の連鎖」を拡大させる大きなリスクになってしまうのだ。 それだけではない。若干古いデータになるが、2011年~2014年までに自殺した国公私立の小中高校、特別支援学校の児童生徒約500人について実態を調査したところ、経済的困難で将来を悲観した自殺が5%と、いじめの2%を上回っていることが明らかになっている(文科省調べ)。 つまり、今回のテーマを「リソースの欠損」とした理由がここにある。 少々専門的な話になるが、リソースは、専門用語ではGRRs(Generalized Resistance Resources=汎抵抗資源)と呼ばれ、世の中にあまねく存在するストレッサー(ストレスの原因)の回避、処理に役立つもののこと。ウェルビーイング(個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態)を高める役目を担っている・・・平たく言い換えれば、「いくつもの豊富なリソースを持ち、首尾よく獲得していくことが重要」となる。 リソースは、遺伝や免疫などといった生物学的なものに始まり、カネ、体力、住居、衣類、食事、権力、地位、サービスの利用可能性、あるいは、知識や知性、知力。特に人間関係は重要なリソースで、社会や地域とのかかわり、友人・知人・家族などからのサポートも有力なリソースである。 一方、リソースの欠損は「目に見えない貧困」であり、それは「慢性的なストレッサー」となる』、リソースの欠損は「目に見えない貧困」とは初耳だが、言われてみればその通りだ。
・『お金がないこと、知識のないこと、情報のないこと、サポートしてくれる人がいない、相談できる人がいない、気兼ねなく話せる人がいないなどなど、すでにお気づきの通り、「カネ」の欠損状態が、様々なその他のリソースを複合的に欠損させてしまうのだ。 それを調査によって明らかにしたのが冒頭の3つの調査だ。 たとえ「今晩、飯を炊くのにお米が用意できないという家は日本中にない」としても、「カネ」が欠損していることで、普通(欠損していない状態)だったら経験できることが経験できなかったり、普通だったら何気に手にしてるものが手に入れられなかったりする「人」たちがいる。 慢性的なストレッサーは確実に心身を蝕み、死亡リスクまでをも高めてしまうことが大きな問題であり、社会的損失なのだ。 要するにあれだ。政治家が「こんな素晴らしいというか、幸せな国はない」というトンデモ発言は完全にアウトだ。 が、世間はあまりこの部分には反応しなかった。 と言うか、ここ最近の「上位層」に位置する人たちは、大学への進学、大企業への就職、正社員か非正規という事にいたるまで、「個人の努力が足りない」「個人の責任」だと考える人が増えた』、「慢性的なストレッサーは確実に心身を蝕み、死亡リスクまでをも高めてしまうことが大きな問題であり、社会的損失なのだ」というのは、初めて知ったが、確かに重大な問題だ。
・『正社員と非正規は努力の違い?? いや、違う。実際には昔からいたけど、堂々と口にする人は少なかった。 ところが最近は、みんなの前で平気で言う。そうなのだ。ここ数カ月の間に、幾度となくリアル世界でそういう人たちと遭遇し、なんとも言えない薄気味悪さを感じている。 つい先日も講演会でこんな質問を受けた。「私は正社員と非正規は賃金格差ではなく、努力の違いだと思っているんです。正社員になるにはそれなりの努力が必要です。河合さんは、個人の努力ということについて、どう評価しているのか教えてください」と・・・「働き方改革になんか不満を感じています。多様な働き方って言いますけど、なんでも会社のせいばかりにして、個人の努力の多寡がないがしろにされてませんか?」と憤る人も……。 繰り返すがこういった発言は全て「上位層」の人たちによるものである』、浅薄な自己責任論が強まっているのは嘆かわしい話だ。詳しくは以下で説明される。
・『自分のリソースではどうにもならないことがある・・・人生には「ストレッサー」はあまねく存在しており、とどのつまり日々の生活も人生もすべてストレッサーででき上がっている。言い換えれば「生きる」ということは、ストレッサーを処理することを連続的に行うことでもある。 そこで必要なのがリソースとなるわけだが、残念なことにそれは個人の努力だけでどうなるものではない。常に人は環境との相互作用で生きているため、たとえどんなに恵まれた星の元に生まれた人であっても、自分のリソースではどうにもならないことがあるし、リソースがないことで土砂降りの雨にびしょ濡れになる。 そんな時、リソース(傘)となってくれるような他者がいればなんとかなる。ところが、そのリソースを豊富に持つ体力ある人たちが、「いやいや、それは自己責任。努力が足りない」と傘を貸すことを厭う。 社会でも、会社という小さな社会でも、「人は環境との相互作用で生きている」ことを忘れてしまっている「持てる人たち」がじわじわと増えているのではあるまいか。 確かに、自分が必死で頑張って、頑張って、頑張って、権力やカネ、地位など物理的、社会的なリソースを手に入れれば、「俺は頑張った。親が貧困だろうと関係ない」「今の所得に不満なら自分ががんばって自分の価値をあげればいい」……そう思いたくなる気持ちもわかる。 が、その壁を超えられたのは果たして「自分だけ」の力だったのだろうか? そっとリソースを提供してくれる環境があったのではないのか? 自己責任論が世間に蔓延するようになって久しい。 が、最近のそれは、たまたま「持てる者」になった人が、その「たまたま」という偶然を自分のプライドとして、自分のテリトリー外の人を石ころのように扱っている気がして……』、特に最後の部分は、自己責任論への痛烈な批判である。
・『ああ。これじゃあ、過労死も過労自殺もなくならないなぁと。そんな景色が「リソースの窓」から見えて残念で仕方がないのである。 そして、何よりも厄介なのは、「自己責任論」を訴える人が、人間的に嫌な人でもなければ、問題のある人でもないってこと。どちらかといえば、優しい普通の人ってことだ』、確かに厄介で嘆かわしいことだ。
タグ:幸福 (その1)(「インスタ映え」の対極、デンマーク人の人生観に癒される人多数、なぜ日本人の幸福度は低いのか?その背景にある「身分制社会」、「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論 「環境との相互作用」を忘れている) 芳子ビューエル ダイヤモンド・オンライン 「「インスタ映え」の対極、デンマーク人の人生観に癒される人多数」 世界一幸福な国 デンマークの人々の幸福の秘訣といわれるヒュッゲ ヒュッゲとはデンマーク独特の言葉で、デンマーク人のライフスタイルそのものを表現しています 自然体で暖かい人との触れ合いを尊重 日本は150以上の国や地域の中で51位、先進国としては低いランクに位置 そこにはヒュッゲを重んじる国民性と、デンマークの社会保障制度の充実があるようだ 社会保障の素晴らしさは群を抜いています。医療費も教育費も介護費も無料。出産費用だって負担してくれるので、税金さえ納めていれば将来への不安がほとんどありません 高福祉・高負担 所得税はほぼ50%で消費税も25パーセント。自動車の登録税なんて150% 買い物をする際は吟味して、本当に気に入ったものしか買わなくなりますし、ブランド物にもなかなか手が出せません 子育て不安や老後破産とは無縁な一方、ジャンジャン消費を楽しむことは難しいデンマーク人 日本は、アメリカ式の華美でゴージャスな文化に慣れ親しんだ結果、生活に求めるハードルが上がってしまっているのではないか 毎日を慎ましく丁寧に、シンプルに重ねていくデンマークのライフスタイル 昔の日本の生活様式に共通する部分がある こたつにみかん、そして家族との団欒 AERAdot. 橘玲 「なぜ日本人の幸福度は低いのか?その背景にある「身分制社会」」 『朝日ぎらい~よりよい世界のためのリベラル進化論~』(朝日新聞出版) 日本人は過労死するほど働いているが、一人あたりの労働者が生み出す利益(付加価値)は8万1777ドル(約834万円)で、アメリカの労働者(12万2986ドル)の7割以下しかない 世界の労働者のエンゲージメント(会社や仕事に対するかかわり方)の度合いを調べると日本のサラリーマンは最低レベルで、もっともやる気がない 日本のサラリーマンは過労死するほど長時間働いているが、生産性がものすごく低く、世界でいちばん会社を憎んでいる 日本では若い女性の3割が「将来は専業主婦になりたい」と思っており、専業主婦世帯は約4割と先進国では際立って高い。しかし不思議なことに、家庭生活に満足している女性の割合を国際比較すると、共働きが当たり前のアメリカやイギリスでは7割が「満足」と答えるのに、日本の女性は4割ちょっとしかない 専業主婦の家庭には、家事育児を妻に丸投げして会社に滅私奉公する夫がいる 日本的雇用制度ではあらゆるところに「身分」が顔を出す 日本は先進国のふりをしているが、その実態は江戸時代の身分制社会に近い 近代の理想は、自由な個人が自らの可能性を社会の中で最大化できることだ 実際には男は会社、女は家庭というイエに押し込められて身動きがとれなくなってしまう。理想と現実のこのとてつもない落差が、日本人の幸福度を大きく引き下げているのだろう 河合 薫 日経ビジネスオンライン 「「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論 「環境との相互作用」を忘れている」 低所得者世帯の乳児発育不全リスク 高所得者世帯の1.3倍 低所得ほど長時間 老老介護 支援の情報届きにくく 成績・進学期待 収入に比例 自民党の二階俊博幹事長 子どもを産まない方が幸せに送れるとは勝手な考え 、「食べるのに困る家は実際はない。今晩、飯を炊くのにお米が用意できないという家は日本中にない。こんな素晴らしいというか、幸せな国はない」 貧困の最大の問題は「普通だったら経験できることができない」という、機会の略奪 機会略奪のスパイラル 機会略奪が「貧困の連鎖」を拡大させる大きなリスクになってしまうのだ ストレッサー リソース リソースは、遺伝や免疫などといった生物学的なものに始まり、カネ、体力、住居、衣類、食事、権力、地位、サービスの利用可能性、あるいは、知識や知性、知力。特に人間関係は重要なリソースで、社会や地域とのかかわり、友人・知人・家族などからのサポートも有力なリソースである リソースの欠損は「目に見えない貧困」 ここ最近の「上位層」に位置する人たちは、大学への進学、大企業への就職、正社員か非正規という事にいたるまで、「個人の努力が足りない」「個人の責任」だと考える人が増えた 自分のリソースではどうにもならないことがある 最近のそれは、たまたま「持てる者」になった人が、その「たまたま」という偶然を自分のプライドとして、自分のテリトリー外の人を石ころのように扱っている気がして 何よりも厄介なのは、「自己責任論」を訴える人が、人間的に嫌な人でもなければ、問題のある人でもないってこと。どちらかといえば、優しい普通の人ってことだ
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カジノ解禁(その6)(カジノより恐ろしい「亡国の依存症」を野党はなぜ糾弾しないのか、カジノ法案 胴元がカネ貸し「2カ月無利子」の危険なワナ、政官財が利権狙い…カジノ管理委は新たな天下り組織になる、パチンコ業界「大衆娯楽」で生き残り カジノと棲み分け) [国内政治]

カジノ解禁については、7月16日に取上げた。法案通過を踏まえた今日は、(その6)(カジノより恐ろしい「亡国の依存症」を野党はなぜ糾弾しないのか、カジノ法案 胴元がカネ貸し「2カ月無利子」の危険なワナ、政官財が利権狙い…カジノ管理委は新たな天下り組織になる、パチンコ業界「大衆娯楽」で生き残り カジノと棲み分け)である。なお、タイトルから「(統合型リゾート(IR)法案)」はカットした。

先ずは、経産省出身で慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授の岸 博幸氏が7月6日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「カジノより恐ろしい「亡国の依存症」を野党はなぜ糾弾しないのか」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/174145
・『IR法案に反対する野党は、カジノ、つまりギャンブルへの依存症を防ぐ対策が不十分であることを声高に叫んでいます。それに連動してか、マスメディアでもそうした論調がよく見られます・・・依存症の悪影響を懸念する必要があるのはカジノだけではありません。気がつくと、今の日本には依存症を憂慮すべきものが他にもたくさんあるからです。 そもそも、依存症はギャンブル一般に該当する問題です。その観点からは、カジノもさることながら、日本が世界に誇るギャンブルとも言えるパチンコへの依存症がもっと憂慮されるべきではないでしょうか。 また、競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルもまったく同様です。これらの公営ギャンブルにハマっている人がかなりたくさんいます。宝くじやサッカーくじなどの公営のくじも、一見ギャンブルには感じられないかもしれませんが、一攫千金を求めて買う人が多いことから明らかなように、立派なギャンブルです。 もちろん、現行法上パチンコはギャンブルに該当しませんが、それは単なる屁理屈に過ぎません。また、“公営”であることをもって依存症を懸念してなくても良いとはなりません。  それにもかかわらず、少なくともIR法案の審議の過程で、野党の政治家が国会などでカジノでの依存症の懸念を声高に叫びながら、その一方でパチンコや公営ギャンブルでの依存症にほとんど触れていないというのは、いかがなものでしょうか。IR法案の審議は、ある意味でギャンブルへの依存症について包括的に議論できる貴重な機会であることを考えると、野党の政治家のダメさ加減が際立ってしまいます。 ギャンブル依存症対策基本法案が国会で可決・成立しました。そこでは、一応対象となるギャンブルの範囲に公営ギャンブルやパチンコも含まれています。しかし、実際にはIR法案とのセットとしてカジノ依存症への対策が主眼であり、公営ギャンブルやパチンコの問題については深い議論が行われていないのにおまけのように加わっているだけであることを考えると、本当に腹が立ってきます』、「パチンコや公営ギャンブルでの依存症にほとんど触れていない」というのは筆者の事実誤認らしいが、「ギャンブルへの依存症について包括的に議論できる貴重な機会」だったというのは、その通りだ。
・『個人的には、ギャンブル以上に、日本のみならず世界中がもっと憂慮しなければいけない依存症が蔓延していると思っています。それは、スマホとソーシャルメディアです。 先月ニールセンデジタルが発表したデータを見ると、日本人のスマホ利用時間は1日で3時間強となっています。年代別に見ると以下の通りです。 +18~34歳:3時間23分 +35~49歳:3時間11分 +50歳以上:3時間14分  日本人の平均睡眠時間は、OECDの統計で7時間43分、民間企業の調査で6時間40分とばらつきがありますので、とりあえず7時間と仮定すると、日本人は睡眠を除いた1日17時間のうち3時間強、つまり起きている時間の2割をスマホに費やしていることになります。 ニールセンデジタルのデータによると、スマホの利用時間に占める割合が長いサービスはLINE、Google、Twitter、YouTubeとなっていますが、ソーシャルメディアや動画サイト、eコマース、自分の関心がある情報の収集などに1日のうち2割の時間を費やしていると言えます。 ちなみに、米国のデータを見てみると、米国人がスマホに費やしている時間は1日で3.3時間(2017年)と、日本とほぼ同じです。 しかし、ここで留意すべきは、米国ではスマホに費やす時間が2011年に比べてなんと4倍に激増していることです。また、スマホ以外のデジタル機器も含めると、ネットに接している時間は5.9時間と非常に長い時間になっています。おそらく日本も、ほぼ同じ状況と考えられるのではないでしょうか。 これらの数字から推察できるのは、米国はもちろん日本でも、かなり多くの人がスマホ依存、ソーシャルメディア依存、ネット依存になっているということです』、スマホ依存、ソーシャルメディア依存、ネット依存などは確かに深刻なようだ。
・『そして重要なのは、第一にこの依存症は自然に起きたものではなく、サービスを提供する企業の側が意図的に仕組んだ結果だということです。 たとえば、スマホではメールやLINEのメッセージが届いたことを知らせる“push-notification”が当たり前に使われていますが、これはユーザ―がスマホを頻繁に利用するように仕向けるために開発されたものです。 また、ソーシャルメディアをよく使う人は、自分の書き込みに対してどれくらい“いいね!”が増えているか、自分がフォローしている人たちがどういう新しい書き込みをしているかを楽しみに、1日に何度もアクセスしていると思います。これはソーシャルメディアのサービスを提供する側が、ビジネスモデルに“variable reward”という要素を組み込んでいるからです。 つまり、アクセスする度に変動するreward(報酬)を得られるようにすることで、ユーザーが「今度はどういう新しい投稿が来ているだろう」「この前は自分の投稿に“いいね!”がついてなかったけど、今度はその数が増えているんじゃないか」と期待して、何度もアクセスするように仕向けているのです。これは、原理としてカジノのスロットマシーンと全く同じ仕掛けです。 第二に、スマホ依存症、ソーシャルメディア依存症、ネット依存症になると、人の集中力は低下して仕事の質も低下することが、米国のさまざまな研究で証明されています。暇な時間にいつもちょこちょこスマホをいじっていると、それが仕事中も含めた1日の脳や行動のデフォルトパターンになってしまい、また人間の脳の限られたメンタルパワーをネット上のどうでもいい選択に費やし過ぎて、肝心の仕事に集中して使う分がなくなってしまうからです。 そう考えると、これらの依存症は、生産性の向上が至上命令となっている今の日本では、ギャンブルへの依存症と同じくらいに深刻に捉えるべきではないでしょうか』、その通りだ。
・最後に、『カジノ依存症より憂慮すべきは政治的立場だけで騒ぐ野党の政治家』、として野党の政治家批判をしているが、これには違和感を感じた。読者が知りたい肝心のことは、スマホ依存症、ソーシャルメディア依存症、ネット依存症に対する対策の筈だが、これからは逃げ、野党批判でお茶を濁すとは残念だ。

次に、7月15日付け日刊ゲンダイ「カジノ法案 胴元がカネ貸し「2カ月無利子」の危険なワナ」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/233407/1
・『石井啓一国交相は「依存防止対策などを重層的かつ多段階的に講じたクリーンなカジノだ」と繰り返すが、逆に多重債務者を続出させる仕組みが盛り込まれている。賭け金が不足した客に、胴元であるカジノ事業者がカネを貸せるのだ。 「顧客への金貸しは、日本参入を狙う米カジノ企業の強い意向でした。持ち金がなくなって帰られたら、せっかくの“上客”を逃すことになります。法案では意向通り、カジノ事業者が施設内で『特定金融業務』ができるようになった。これで、顧客の資金繰りの限界を超えておカネをつぎこませられます」(金融関係者) 法案によると、カジノ事業者は一定額を預けた顧客に無制限で貸し付けができる。返済期間は2カ月以内でナント無利子。 手持ちのカネがなくなったギャンブラーが、負けを取り返そうといかにも飛びつきそうである。ところが、タダほど怖いものはない。返済できなければ、年利14・6%もの違約金が発生。カジノ事業者は、第三者に債権譲渡や回収を委任できるから、ニコニコ貸してくれた事業者ではなく、コワモテの兄ちゃんが取り立てに来かねない・・・消費者金融やカードローンなどの多重債務が大問題になり、貸金業法の改正で、2010年6月から限度額を設定。貸金業者からの借入残高が年収の3分の1を超える場合は、新たな借り入れはできなくなった。そんな法の歯止めも、カジノ場に一歩入れば“治外法権”。正常な判断を失ったギャンブラーは青天井で借金を押しつけられるのだ』、年収制限もなく無制限で貸し付けができ、返済が2カ月を越すと年利14・6%もの違約金が発生するとは、大変なことだ。
・『「金融業者は、ビジネス縮小につながる年収3分の1の限度額設定には抵抗しました。しかし、深刻な多重債務問題を見過ごすわけにもいかず、苦渋の決断で限度額をのんだ経緯があります。カジノ場の無制限融資は、そうした努力を台無しにするもので、金融機関はカンカンでしょう」(金融ジャーナリストの小林佳樹氏) 石井は「顧客の利便性のため」と説明するが、そこを便利にしてはマズイだろう』、石井大臣の「顧客の利便性のため」との説明は、貸金業法の適用除外にする根拠を何ら説明してない。恐ろしい仕組みになったものだ。

第三に、7月21日付け日刊ゲンダイ「政官財が利権狙い…カジノ管理委は新たな天下り組織になる」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/233824/1
・『カジノ事業は、施設の管理運営はもちろん、関連機器の製造など、幅広い分野で高い透明性の確保が求められる。マネロン対策などを行う警察庁や法務省、観光振興を担う観光庁など、関係するとみられる役所は幅広い。法案では、カジノ施設関係者を規制するための「カジノ管理委員会」を内閣府の外局に新設する、としている。 この委員会が、カジノ事業免許の審査や違反行為時の免許取り消しといった行政処分の権限を持ち、事業者の監督などを行うわけだ。しかし、国家公安委員会や原子力規制委員会など、こうした委員会で度々、問題視されるのが、天下りと多額の交付金(税金)投入の問題だろう。何せ、数兆円規模のカネが動くとされるカジノ事業だ。利権を狙っているのは民間事業者だけじゃなく、政治家や官僚の中にもゴロゴロいるだろう』、カジノの場合は交付金投入はないと思われるが、「カジノ管理委員会」の権限は確かに強大だ。
・『カジノ管理委員会の委員長や委員は衆参両院の同意を得て、総理大臣が任命するとなっているが、今の政権であれば任命権者は希代のペテン師である安倍首相。とてもじゃないが、マトモな人選になるはずがない。そうなれば政官財が一体となって、カネも権力もやりたい放題だ。ジャーナリストの若林亜紀氏はこう言う。「カジノ管理委員会をわざわざ外局でつくる必要はないでしょう。カジノ法案を成立させ、運用していくには官僚の協力は不可欠。そのためにつくられる『天下り団体』と言ってもいい。カジノは利権の裾野が広く、将来、『カジノ振興センター』などの名称で関連の天下り団体ができる可能性もあります」 国民もよ~く監視する必要がある』、その通りだ。

第四に、7月27日付けロイター「焦点:パチンコ業界「大衆娯楽」で生き残り、カジノと棲み分け」を紹介しよう。
https://jp.reuters.com/article/japan-pachinko-analysis-idJPKBN1KH011
・『人口減少や高齢化などの構造要因にカジノ導入という新たな逆風が加わり、パチンコ業界が浮沈の岐路に直面している。業界が望みをつなぐのは、「庶民のゲーム」としての生き残り策だ。  2月に導入された新規制はパチンコの射幸性を抑えこむ一方、より幅広い客層を呼び込む契機にもなり得る。ギャンブル色を強めてきたパチンコは、大衆娯楽へ変身の手腕が問われている』、なるほど。
・『パチンコ業界関係者の頭を悩ませる最大の課題は遊戯人口の減少だ。 日本生産性本部の「レジャー白書2017」によると、2016年のパチンコ参加人口は940万人。07年の1450万人から35%も減った。携帯ゲームの広がりなどで、「ちょっとした空き時間」をパチンコに充てる人が減少。利用客の高齢化も進み、需要は右肩下がりが続いている。 こうした市場縮小に追い討ちをかけると懸念されているのが、今年2月に導入された新規制だ。今回の規制のポイントは、パチンコの出玉の上限をこれまでの3分の2にするなど、射幸性が抑えられた点にある。ハイリスク・ハイリターンからローリスク・ローリターンになるため、大勝ちを求めてきた顧客の足が遠退く可能性があり「規制変更で、短期的にはパチンコホールの収益は落ちる。ホールの収益が落ちると設備投資も下がるので、プラスに働くイメージはない」(平和執行役員の高木幹悦氏)。新たな顧客層を獲得できなければ、パチンコホール・メーカーの収益は厳しくなる。 東京商工リサーチによると、17年のパチンコホールの倒産(負債1000万円以上)は29件で、3年ぶりに前年を上回った。全国企業の倒産件数が1990年以来の低水準となる中で、前年比2.4倍となったホールの倒産の大幅増は際立つ。東京商工リサーチの谷澤暁情報部課長は「大手ホールの客の奪い合いで、中小が苦しい」と説明する』、市場縮小に射幸性を抑えた新規制とは、確かに環境は厳しさを増しそうだ。
・『 21年1月までに全ての台が新規制に対応した機種へ入れ替えられることになる。パチンコ台は1台40―50万円。収益力が落ちたホールはこうした投資に耐えられないということも考えられ、3年後のタイムリミットに向けて、中小ホールの一段の廃業も視野に入ってくる。 大和証券シニアアナリストの鈴木崇生氏は「約1万1000件のパチンコホールのうち、現時点で新台を入れ替えていないホールは4000―5000件あるとみられている。そうしたホールの撤退・廃業のリスクが高まる状況」と指摘。ホール全体の収入は2割減るとみている。 ダイナムジャパンホールディングスの事業会社ダイナムは業界最大手ながら、展開店舗は約450店舗、パチンコ店舗網に占めるシェアは約5%に過ぎない。それでも、100店舗以上展開する会社がダイナムを含めて4社になるなど、すでに業界では、中小を買収して規模を大きくする動きが活発になってきている。 ダイナムは近い将来1000店舗まで拡大することを目指しており「これからは、コストやサービス、教育などに取り組むことが当たり前の産業になっていく。積極的に拡大するチャンスだと思っている」(佐藤公治取締役)と話している』、大手が苦しくなった中小を傘下に収める再編成が進むようだ。
・『日本でも解禁が近いカジノは「Game of chance」、パチンコは「Game of skill」というように、カジノは運が勝負を左右するのに対し、パチンコは個人の技術介入がある点も「賭博」ではない理由となっている。 しかし「1―2万円を使って満足できた時代はパチンコに来る客が多かった。今は、パチンコに1回行くのに10万円を用意する人も少なくないと聞く」と深谷氏は話す。1回に10万円を投じなければ勝つことができないなら、会社帰りにサラリーマンが気軽に立ち寄る「大衆娯楽」とは言い難い。業界でも「ハイリスク・ハイリターン」の進み過ぎが、参加人口減の一つの要因であるという反省は強い。「射幸性が高くて離脱した人も、今回の新規制を機に戻るのではないか」(平和の高木氏)といった声など、規制を機に「大衆娯楽」として広く遊んでもらえるようにしたいと、業界は期待を寄せている』、「パチンコは個人の技術介入がある点も「賭博」ではない理由となっている」というのは確かにそうだが、「1回に10万円を投じなければ勝つことができない」というのは、射幸心を煽り過ぎていたのだろう。
・『ダイナムの会員のうち50代以上は61%に達している。現在は、地域の情報発信拠点やシニア同士が交流できる場としてリアル店舗の必要性を打ち出しているが、携帯ゲームが日常となっている若年層を店舗に呼び込むことができなければ、業界は先細りとなる。 かつては、新台を入れた時には店外で待つ客のために簡易トイレまで設置した福島市内のパチンコ店も、今はそういうことはないという』、若年層の呼び込みには多くを期待できない以上、業界の先細りは避けられないようだ。
タグ:カジノ解禁 (その6)(カジノより恐ろしい「亡国の依存症」を野党はなぜ糾弾しないのか、カジノ法案 胴元がカネ貸し「2カ月無利子」の危険なワナ、政官財が利権狙い…カジノ管理委は新たな天下り組織になる、パチンコ業界「大衆娯楽」で生き残り カジノと棲み分け) 岸 博幸 ダイヤモンド・オンライン 「カジノより恐ろしい「亡国の依存症」を野党はなぜ糾弾しないのか」 依存症はギャンブル一般に該当する問題です。その観点からは、カジノもさることながら、日本が世界に誇るギャンブルとも言えるパチンコへの依存症がもっと憂慮されるべきではないでしょうか 競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルもまったく同様です 宝くじやサッカーくじなどの公営のくじも、一見ギャンブルには感じられないかもしれませんが、一攫千金を求めて買う人が多いことから明らかなように、立派なギャンブルです IR法案の審議の過程で、野党の政治家が国会などでカジノでの依存症の懸念を声高に叫びながら、その一方でパチンコや公営ギャンブルでの依存症にほとんど触れていないというのは、いかがなものでしょうか ギャンブル以上に、日本のみならず世界中がもっと憂慮しなければいけない依存症が蔓延していると思っています。それは、スマホとソーシャルメディアです 日本人は睡眠を除いた1日17時間のうち3時間強、つまり起きている時間の2割をスマホに費やしていることになります 米国人がスマホに費やしている時間は1日で3.3時間(2017年)と、日本とほぼ同じです スマホ以外のデジタル機器も含めると、ネットに接している時間は5.9時間と非常に長い時間になっています。おそらく日本も、ほぼ同じ状況 米国はもちろん日本でも、かなり多くの人がスマホ依存、ソーシャルメディア依存、ネット依存になっているということです 第一にこの依存症は自然に起きたものではなく、サービスを提供する企業の側が意図的に仕組んだ結果だということです “push-notification” ユーザ―がスマホを頻繁に利用するように仕向けるために開発されたものです ソーシャルメディア サービスを提供する側が、ビジネスモデルに“variable reward”という要素を組み込んでいるからです スマホ依存症、ソーシャルメディア依存症、ネット依存症になると、人の集中力は低下して仕事の質も低下することが、米国のさまざまな研究で証明されています 暇な時間にいつもちょこちょこスマホをいじっていると、それが仕事中も含めた1日の脳や行動のデフォルトパターンになってしまい、また人間の脳の限られたメンタルパワーをネット上のどうでもいい選択に費やし過ぎて、肝心の仕事に集中して使う分がなくなってしまうからです 肝心のことは、スマホ依存症、ソーシャルメディア依存症、ネット依存症に対する対策の筈だが、これからは逃げ、野党批判でお茶を濁すとは残念だ 日刊ゲンダイ 「カジノ法案 胴元がカネ貸し「2カ月無利子」の危険なワナ」 多重債務者を続出させる仕組みが盛り込まれている。賭け金が不足した客に、胴元であるカジノ事業者がカネを貸せるのだ 顧客に無制限で貸し付けができる。返済期間は2カ月以内でナント無利子 返済できなければ、年利14・6%もの違約金が発生 カジノ事業者は、第三者に債権譲渡や回収を委任できるから、ニコニコ貸してくれた事業者ではなく、コワモテの兄ちゃんが取り立てに来かねない 貸金業法の改正 借入残高が年収の3分の1を超える場合は、新たな借り入れはできなくなった そんな法の歯止めも、カジノ場に一歩入れば“治外法権”。正常な判断を失ったギャンブラーは青天井で借金を押しつけられるのだ 石井は「顧客の利便性のため」と説明 「政官財が利権狙い…カジノ管理委は新たな天下り組織になる」 「カジノ管理委員会」を内閣府の外局に新設 カジノ事業免許の審査や違反行為時の免許取り消しといった行政処分の権限を持ち、事業者の監督などを行うわけだ こうした委員会で度々、問題視されるのが、天下りと多額の交付金(税金)投入の問題 カジノ管理委員会の委員長や委員は衆参両院の同意を得て、総理大臣が任命 カジノ法案を成立させ、運用していくには官僚の協力は不可欠。そのためにつくられる『天下り団体』と言ってもいい。カジノは利権の裾野が広く、将来、『カジノ振興センター』などの名称で関連の天下り団体ができる可能性もあります ロイター 「焦点:パチンコ業界「大衆娯楽」で生き残り、カジノと棲み分け」 2016年のパチンコ参加人口は940万人。07年の1450万人から35%も減った 利用客の高齢化も進み、需要は右肩下がりが続いている 今年2月に導入された新規制だ。今回の規制のポイントは、パチンコの出玉の上限をこれまでの3分の2にするなど、射幸性が抑えられた点にある 規制変更で、短期的にはパチンコホールの収益は落ちる。ホールの収益が落ちると設備投資も下がるので、プラスに働くイメージはない 17年のパチンコホールの倒産(負債1000万円以上)は29件で、3年ぶりに前年を上回った 21年1月までに全ての台が新規制に対応した機種へ入れ替えられることになる。パチンコ台は1台40―50万円。収益力が落ちたホールはこうした投資に耐えられないということも考えられ、3年後のタイムリミットに向けて、中小ホールの一段の廃業も視野 ダイナムジャパンホールディングスの事業会社ダイナムは業界最大手ながら、展開店舗は約450店舗、パチンコ店舗網に占めるシェアは約5%に過ぎない すでに業界では、中小を買収して規模を大きくする動きが活発になってきている カジノは「Game of chance」、パチンコは「Game of skill」 パチンコは個人の技術介入がある点も「賭博」ではない理由となっている 1回に10万円を投じなければ勝つことができない 射幸性が高くて離脱した人も、今回の新規制を機に戻るのではないか 携帯ゲームが日常となっている若年層を店舗に呼び込むことができなければ、業界は先細りとなる
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電気自動車(EV)(その5)(中国巨大電池メーカー「CATL」の実力を垣間見る テスラしのぐ世界最大の生産能力へ、英ダイソン EVの電池革新でトヨタに挑戦 自動車産業の秩序を壊す新星の登場、テスラは苦境から脱出できるか マスク氏は「名経営者」に非ず) [科学技術]

電気自動車(EV)については、3月1日に取上げた。今日は、(その5)(中国巨大電池メーカー「CATL」の実力を垣間見る テスラしのぐ世界最大の生産能力へ、英ダイソン EVの電池革新でトヨタに挑戦 自動車産業の秩序を壊す新星の登場、テスラは苦境から脱出できるか マスク氏は「名経営者」に非ず)である。

先ずは、日経BP出身でオートインサイト代表の鶴原 吉郎氏が3月13日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「中国巨大電池メーカー「CATL」の実力を垣間見る テスラしのぐ世界最大の生産能力へ」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/264450/031200087/
・『現在、世界最大の自動車用バッテリー工場は、米テスラがパナソニックと共同で米ネバダ州に建設中の「ギガファクトリー」である。一部が完成し、2017年1月からバッテリーの生産が始まったが、その生産能力は最終的に年間35GWhという膨大なものになる予定だ。これがどのくらいの規模かというと、例えば2017年10月に日産自動車が発売した最新のEV(電気自動車)「リーフ」用の電池なら、87万5000台ぶんに当たる・・・2010年に初代が発売されて以来のリーフの累計生産台数は2018年1月に30万台に達したということで、これは世界のEVで最も多い。ギガファクトリーの生産能力は、この累計生産台数の3倍近いリーフ向け電池を1年で造ってしまうことになる・・・小型セダンの「モデル3」の量産を軌道に乗せるのに現在テスラは苦しんでおり、2020年に計画どおりの生産が可能かどうかは、なお流動的だ』、『ところが、CATLが現在進めている生産能力の拡張は、このギガファクトリーを上回るものだ。ロイター報道によれば、2020年のCATLの生産能力は、合計で50GWhに達するという。これまで中国の自動車用バッテリーメーカーで最大だったのは中国BYDだったが、2020年にはCATLがBYDを抜き、現在世界最大の韓国LGも凌いで世界最大の自動車用バッテリーメーカーに躍り出るとBloombergの報道は伝えている』、なるほど(なお、GWhとは100万KWH=10億WH)。
・『中国は断トツのEV大国 このBloomberg報道によると、2020年における自動車バッテリーメーカーの上位10社のうち5社、上位5社に限れば3社を中国メーカーが占めるようになる。世界の自動車用バッテリー生産量の、実に3/4を中国が占めるようになると予測されているのだ。この背景にあるのが、中国における電動車両の急速な増加である。日本ではあまり知られていないことだが、中国はここ数年で世界最大のEV大国にのし上がった。その生産・販売台数は桁違いで、2017年にはEVとPHEVの販売台数の合計が、実に77.7万台に達した。同じ年の欧州での販売台数はEVとPHEV(プラグインハイブリッド車)の合計で27.8万台・・・、米国での販売台数は約20万台で、中国は断トツの世界最大市場である。ちなみに日本国内のEVとPHEVの販売台数の合計は約5万6000台で、中国の1/14程度に過ぎない。 中国は世界最大の自動車市場であり、年間の自動車の販売台数は2017年で2887.9万台(中国汽車工業協会調べ)と、同年の日本の523.4万台の5.5倍もある。それにしても、販売台数全体に占めるEV+PHEVの比率は日本が1%程度なのに対して、中国では2.7%程度と日本の3倍近い。しかも、上海や北京といった都市部での販売台数比率は・・・2016年で7%前後に達している。EVやPHEVといった先進的な環境車両の販売台数比率が日本よりも大幅に高いということに驚く読者も多いのではないだろうか』、私も恥ずかしながら驚かされた口である。
・『その原動力になっているのは中国が推し進める「新エネルギー車(NEV)」政策である。中国はEV、PHEV、FCV(燃料電池車)を新エネルギー車と位置付け、都市部でNEV専用のナンバープレートを割り当てたり、通常のエンジン車だとオークションが必要なナンバープレートをNEVでは無料にしたりして、通常は困難な新車の購入がNEVなら可能になる特典を持たせている。 また、EVやPHEVは中国でも通常のエンジン車より割高だが、NEVに対しては中央政府および地方政府から多額の補助金を支給することによって、購入を後押ししている。その補助金の額は、EVの場合で航続距離により2万~4万4000元(1元=16円換算で32万円~70万4000円)、PHEVの場合で2万4000元(同38万4000円)に上る』、確かに優遇ぶりは突出している。
・『2025年には700万台の新エネルギー車を販売へ こうした措置を講じた結果、NEVの販売台数は2015年以降急速に伸び、それまで世界最大のEV市場だった米国をあっさり抜いて2015年以降は世界最大のEV大国になった。しかし、これはまだ序章に過ぎない・・・中国は2020年には新エネルギー車の販売台数を200万台、2025年には700万台、そして2030年には1000万台に引き上げるという非常に野心的な目標を掲げている』、他にも公共事業など財政圧迫要因があるなかで、多額の補助金政策をいつまで続けてゆけるのだろうか。
・『中国がこのように野心的な目標を掲げている狙いは何か・・・単に大気汚染を解決したいのであれば、工場やトラックから排出される有害物質の規制を強化すればいいはずだ。また乗用車についても、一足飛びにEVに行くのではなく、日本ではすでに広く普及しているHEVを中国でも拡大すれば、排ガスの量は減り、クルマに使われる燃料も少なくて済む。 それでも、HEVを拡大する政策を中国が採らないのは、HEVの土俵で勝負しても、先行する日本には勝てないと悟っているからだ。そこで、日本や欧州でもまだ量産化してから日の浅いEVの土俵であれば日本をはじめ欧米など自動車先進国に勝てる可能性があると踏んでいるのだ。中国がHEVを新エネルギー車の対象としなかったのにはこういう背景がある』、『中国は、2025年までの自動車産業の育成計画として「自動車産業の中長期発展計画」を2017年4月に公表した。この計画では現在の中国を「自動車大国」ではあるがコア技術やブランド力はまだまだ弱いと分析している。これを10年間かけて技術力を向上させ、「自動車強国」に躍進させるとしている。 そして自動車強国になるためのコア技術としてパワートレーン、変速機、カーエレクトロニクスといった従来からの技術に加えて、電池、モーターなどの分野で2020年に世界の先端レベルに達するように世界トップ10の新エネルギー車メーカーを数社育成すると表明している。つまり新エネルギー車政策をテコにして技術力・ブランド力でも世界一流の自動車強国へと発展させることを政策目標として掲げているのだ。EVは、環境問題解決の手段としてよりも、自動車産業を発展させるためのキーテクノロジーとしての意味合いが強い』、さすが計画経済色が残る中国だけあって、やることが極めて戦略的だ。
・『もともとは日本の技術  CATLは、もともとはAmperex Technology(ATL)という香港のリチウムイオン電池メーカーが自動車用電池部門を別会社化したものであり、そのATLは、TDKが2005年に買収して電池生産子会社化したものだ。製造しているリチウムイオン電池も、TDKが開発したリチウムポリマー電池をベースにしている。つまり、CATLの電池技術は元をたどっていくとTDKに行き当たるわけだ。 ただし・・・同社が使っている技術はリチウムポリマー電池ではなく、正極に低ニッケル濃度の低い3元系材料(ニッケル、マンガン、コバルトの酸化物)、負極にグラファイトを用いるという標準的な構成のものだった。もっとも、中国の自動車用電池は、正極にリン酸鉄を使ったものが多いので、そういう意味では日本的な材料といえるかもしれない。 ここから先はやや専門的になって恐縮なのだが、Liang氏の講演のテーマはこれからの電池材料トレンドということで・・・2025年にはマンガン・ニッケルの酸化物にリチウムの酸化物を混合した正極材料と、シリコン+グラファイトの負極を組み合わせることで、現在のリチウムイオン電池が4V程度などを5V程度に高電圧化してエネルギー密度を現在の1.6~1.7倍にまで向上させたい意向だ。電圧を5Vまで高めると現在使われている電解液は分解してしまうので、新たな組成の電解液が必要になるが・・・「どんな材料なのか?」という会場からの質問は「トップシークレットだ、それを言ったらクビになる」とユーモアを交えながらかわしていた。 今回発表した材料系自体は特に目新しいものではなく、例えば先に紹介した5Vのリチウムイオン電池の考え方についても、日本ではすでに5年以上前から開発発表の例がある。トヨタ自動車が2020年代前半の実用化を目指していると言われる全固体電池についても、Liang氏の発表では実用化時期を2030年以降としており、発表を聞いた限りではあるが、日本はまだ5年程度はリードしているという印象を受けた』、リチウムイオン電池はもともとは日本の技術とのことだが、日本はまだリードしているというので、一安心した。
・『ただ中国は先に紹介したNEV政策の中で、中国製の電池を搭載していないNEVは事実上NEVとして認定しないと見られており、内外の完成車メーカーは中国国内の電池メーカーから電池を購入すべく、その選定を急いでいる。CATLは、日欧のメーカーが電池購入を検討する際の有力候補の一つで、大工場の建設も今後の需要増をにらんでのことだ。日欧の完成車メーカーとのやりとりを通して、その技術力は今後急速に高まっていくと考えられる』、中国が国産優先策を採るのであれば、CATLの競争力は市場規模の巨大さと相俟って、日本メーカーを大きく引き離す可能性が強いと思われる。こんな不公正な競争を強いられる日本メーカーはたまったものではないだろう。

次に、3月20日付け日経ビジネスオンライン「英ダイソン、EVの電池革新でトヨタに挑戦 自動車産業の秩序を壊す新星の登場」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/032000807/
・『独創的な掃除機やドライヤーで知られる英ダイソンがEV(電気自動車)に参入することを表明した。切り札は現在のEVで主流のリチウムイオン電池の弱点を克服する画期的な「全固体電池」。だが、全固体電池には実用化に向けた課題があった。電池としての基本性能であるエネルギー密度や出力密度がリチウムイオン電池と比べて低いことだ。EVに搭載した場合に高い性能を発揮できないなら、リチウムイオン電池を置き換えるのは難しい。  そんな全固体電池で先行し、画期的な成果を生み出しているのがトヨタ自動車と東京工業大学だ。共同研究において、一般的なリチウムイオン電池の2倍のエネルギー密度と3倍の出力密度を実現できる全固体電池を試作。試作品は安定性が高く、実用化されている電池並みの高い耐久性を備えているという。この電池をEVに搭載した場合、わずか3分程度で充電できる可能性がある。  さらに東工大は液体の電解質に匹敵する高いイオン伝導率を持つ新たな固体電解質の材料も発見。固体電解質は、高価なゲルマニウムの代わりに、安価で汎用的なスズとケイ素を使って実現できるという。  7月上旬、これらの成果が米科学誌に掲載され、全固体電池への関心が一層高まった。7月下旬には「トヨタが22年にも全固体電池を搭載するEVを発売する」と報じられた。本誌の取材に対し、トヨタ自身も「20年代前半の実用化を目指している」と認める。同電池の開発ではトヨタ自動車が先行するが、ダークホースの登場が業界を揺るがしている。「家電ベンチャーのダイソンがEVへの参入を決めたのには驚いた。とりわけ(同社がEVに搭載する予定の)『全固体電池』に強い関心を持っており、実現できるなら本当にすごいことだ」。こう話すのは日本のある自動車メーカーの経営トップだ。 2020年までにEVを発売する・・・英ダイソンが大胆な計画を明らかにした。同社の16年12月期の売上高25億ポンド(約3750億円)に迫る20億ポンドを投資。自動車業界の出身者を含む400人以上の専門チームを結成して、すでに開発を進めている』、あのダイソンまでが本格参入とは面白くなってきた。
・『同社がEV向けに革新的な電池も開発している・・・全固体電池。現在、世界で販売されているEVの大半が搭載するリチウムイオン電池が抱える様々な課題を解決する「夢の電池」として期待されている。 まず安全性が高い。現在のリチウムイオン電池は、正極から負極の間のイオンの通り道となる電解質に可燃性の液体を使う。このため液漏れが起きると発火しやすく、安全を確保するために厳重な対策を施す必要がある。 これに対して、全固体電池は電解質に固体を使うため液漏れが起きない。揮発成分はほぼないため、発火しにくい。さらに固体電解質は硬いため、短絡(ショート)が起きる可能性も低い。 満充電まで数分程度・・・現状のEVは、日産自動車の「リーフ」を例に取ると、家庭用の200V電源で満充電まで8時間、急速充電器で約80%の充電までに30分程度かかる。これが全固体電池の場合は数分程度に短縮できるとされる。さらに固体であるために設計の自由度が高く、高温や低温で出力が低下しないという利点もある』、なるほどまさに「夢の電池」だ。
・『だが、全固体電池には実用化に向けた課題があった。電池としての基本性能であるエネルギー密度や出力密度がリチウムイオン電池と比べて低いことだ。EVに搭載した場合に高い性能を発揮できないなら、リチウムイオン電池を置き換えるのは難しい。 そんな全固体電池で先行し、画期的な成果を生み出しているのがトヨタ自動車と東京工業大学だ。共同研究において、一般的なリチウムイオン電池の2倍のエネルギー密度と3倍の出力密度を実現できる全固体電池を試作。試作品は安定性が高く、実用化されている電池並みの高い耐久性を備えているという。この電池をEVに搭載した場合、わずか3分程度で充電できる可能性がある。 さらに東工大は液体の電解質に匹敵する高いイオン伝導率を持つ新たな固体電解質の材料も発見。固体電解質は、高価なゲルマニウムの代わりに、安価で汎用的なスズとケイ素を使って実現できるという。 7月上旬、これらの成果が米科学誌に掲載され、全固体電池への関心が一層高まった。7月下旬には「トヨタが22年にも全固体電池を搭載するEVを発売する」と報じられた。本誌の取材に対し、トヨタ自身も「20年代前半の実用化を目指している」と認める』、出力密度の低さの問題をダイソンがどう乗り切るのか、については説明がないが、なんらかの解決策を開発中なのだろう。
・『「リチウムイオン電池は量産技術が確立されており、大規模な投資により生産効率が高まっている。まだ量産が始まっていない全固体電池の生産性を評価するのは難しい」(自動車産業と車載電池に詳しいコンサルタント) 今年1月、米EVメーカーのテスラはパナソニックと共同で巨大なリチウムイオン電池工場「ギガファクトリー」を稼働させた。米ネバダ州にある同工場は、1カ所で15年時点の世界中のリチウムイオン電池の生産量に匹敵する生産能力を実現する。 生産する電池は、EVだけでなく、家庭、オフィス、工場向けの蓄電池にも供給。規模のメリットを追求することで、調達コストを低減し、生産性を向上させる。テスラは同様の巨大な電池工場を世界各地で10~20カ所建設する考えだ。 EVの心臓部の電池を巡り、激化する覇権争い。新興ベンチャーと業界の盟主が火花を散らす構図は過去の常識にとらわれていては競争を勝ち抜けない時代を象徴している』、面白い時代になったものだ。なお、今日に日経新聞は、「パナソニックがギガファクトリーでリチウムイオン電池と並んで生産する予定の太陽電池については、テスラへの独占供給やめ外販へ」と報じた。

第三に、元銀行員で法政大学大学院教授の真壁昭夫氏が7月31日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「テスラは苦境から脱出できるか、マスク氏は「名経営者」に非ず」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/175966
・『テスラの財務内容と マスク氏の言動には問題がある 4月1日、ある経営者のつぶやきが市場参加者を驚かせた。テスラのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)が、エープリルフールで“テスラが経営破綻した”とツイートしたのである。 昨年末頃から、ニューヨークの株式市場では同社の経営不安が高まっている。背景にあるのは、同社の新型セダン“モデル3”の生産の遅れやモデルSのリコール発生から、同社の財務内容が悪化するとの懸念だ。 7月に入り、テスラの経営不安はさらに高まっている。特に、テスラが部品会社に返金を要請したことは、同社の資金繰り悪化への懸念を高めた。完成品メーカーがサプライヤーに値下げを要請することはある。しかし、すでに支払った代金の返金を求めることは前代未聞だ。 市場参加者の間では、テスラがサプライヤーに“寄付”を求めなければならないほど、経営が行き詰まっているとの見方もある。経営の持続性への懸念は日増しに高まっている状況だ。当面、テスラの資金繰り悪化への懸念は高まりやすいだろう』、今日の日経新聞夕刊では、マスクCEOの株式非公開化についてのツイッター発言で、同氏を米国証券取引委員会(SEC)が召喚したと伝えた。エープリルフール発言は大目にみたとしても、これは許せなかったのだろう。それにしても、部品会社への返金要請とは、資金繰り危機とみられてもいたしかたない。
・『冷静に考えると、テスラには大きな可能性がある。高性能の電気自動車の実用化や、高速地下交通システムの実現に向けた取り組みなど、新しい発想を実現して成長を目指すマスク氏の発想は、多くの注目を集めている。 問題は、同社の財務内容とマスク氏の言動だ。 同氏はアナリストからの質問を「クールじゃない」と一蹴し、不興を買ったことがある。経営に不安を感じる市場参加者に冗談を飛ばすのも、苦し紛れのごまかしに見えてしまう。マスク氏が経営トップの座に居続ける間、同社の経営は一段と厳しさを増すと考える専門家もいる』、その通りだ。
・『科学的な技術などを実用するための方法、手段を用いて、従来にはない、新しいモノやサービスを生み出してきた。この点で、マスク氏は希代のイノベーター・・・といえるだろう。 マスク氏が生み出してきた企業を見れば、同氏がテクノロジーの実用化への“野心”に駆られていることがよくわかる。 1998年、同氏は、オンライン決済大手ペイパルの前身となるX.comを創業した。2002年には、宇宙への輸送を可能にするスペースX社を設立した。翌年には、テスラが創業された。 こうした起業のヒストリーを見ると、同氏は新しい発想を実践してより大きな価値の創造に駆られた人物と評することができる。その発想は成功や成長への野心や血気を意味する“アニマルスピリッツ”を体現している。まさに、マスク氏は起業家だ。 中でも、テスラは社会に大きなインパクトを与えた。 なぜなら、同社の電気自動車が従来の自動車にはない満足感を人々に与えたからだ。初期のモデルである“テスラ・ロードスター”は英ロータス社の車体にバッテリーを搭載した電気自動車だ。その、化石燃料を用いないクリーンさや加速性能が人々に評価され、テスラ・ロードスターはヒットした。 これは、従来の自動車の車体とバッテリーをはじめとするテクノロジーを結合させた“イノベーション”の良い例だ。環境負担の軽減などを理由に、各国で電気自動車の開発が注目されてきたこともあり、パナソニックやトヨタがテスラとの提携に乗り出した。 こうした動きは、マスク氏の発想を抜きにして考えることはできない。同氏が新しい発想を用いて従来にはないモノやコンセプトを実現したいという野心が、テスラの設立につながった。それが、各国の大企業をも巻き込んだバッテリーや電気自動車の開発につながっている。マスク氏の発想こそがテスラの成長を支えてきたのである』、確かにマスク氏は“アニマルスピリッツ”の塊りのような稀有の人物だ。
・『ロードスターに続いてテスラが発表したのがセダン型の“モデルS”だ。同社にとって想定外だったのは、2018年3月に、パワーステアリング系の不具合によって、モデルSのリコールが発生したことだ。その上にモデル3の生産の混乱、遅れが重なり、経営悪化への懸念に拍車がかかっている。 マスク氏はIoTの技術を使い、モデル3の生産を自動化しようとした。しかしこれが思うように進んでいない。テスラは方針を修正して人手を確保し、生産を軌道に乗せようとしているが、これも思うようにいっていない。完成車が作れない以上、収益は確保できない。その状況が続くと、テスラのキャッシュ(およびその同等物)は枯渇するだろう。 資金繰りの悪化が続くと考える市場参加者は増えている。 なぜなら、テスラの技術への不安が残っているからだ。自動運転技術も含め、問題の再発防止策がどのような状況であるかは不透明な状況にある。その中で、新型モデルの生産が混乱をきたしている。この状況では、金融機関も融資などに慎重にならざるを得ないだろう。 特に、22日、米紙報道でテスラが部品メーカーに支払った代金の一部の返還を求めていることが明らかになったことは、テスラの資金繰りが想定以上に悪化しているとの見方を高めた。そのため、多くの市場参加者がテスラ株を格好の空売り銘柄として扱っている。 要は、マスク氏は経営判断を誤った。それがテスラの経営不安の最大の原因だ。同氏の中で、成長を求める気持ちが先走り過ぎたのだ。モデルSのリコールはパワーステアリングのボルト腐食という、基本的かつ致命的な問題だ。それだけに、後続モデルの性能への不安も根強い。生産の混乱も発生する中でモデル3にどれだけの需要があるか、同社の経営に不安を感じる株式の専門家は多い。 見方を変えれば、マスク氏は、問題解明よりも、自らの野心に基づいてモデル3の生産を優先した。マスク氏は生産が進まないことにいら立ち、エンジニアを怒鳴りつけているとの報道もある。テスラの経営に混乱が生じていることは明らかだ。その結果、生産プロセス確立のためのコストが増え、キャッシュフローが圧迫されている』、問題点の指摘は的確だ。
・『イノベーターは名経営者とは同義ではない マスク氏は電気自動車を用いた高速の地下移動システムを考案するなど、新しい取り組みへの野心を燃やしている。それは、付加価値を生み出し、企業と社会の発展には欠かせない要素だ。問題は、実力のあるイノベーターであるマスク氏が、優れた経営者であるとは限らないことだ。ヒット商品を生み出す能力と、経営者に求められる資質は異なる。 一般的には、テスラ株の急落は、資金繰りへの懸念に影響されたとの指摘が多い。  踏み込んで言えば、その状況をもたらした原因は、マスク氏の意思決定、言動だろう。・・・企業は社会の公器だ。経営者には、従業員や消費者、株主など、さまざまなステークホルダーの満足度を高めることが求められる。それは、自分のこだわりや野心に基づいて、新しいテクノロジーの実用化を目指すこととは異なる。大局観を持って、組織全体が進むべき方針を示すことは、経営者に欠かせない資質である。この認識がマスク氏には欠けているように感じる。 マスク氏に求められることは、自らの率直な物言いを改め、ステークホルダーからの信頼感を高めることだ。果たしてそれができるか。長くしみついた自らの行動様式を改めることは、口で言うほど容易なことではない。 これまでの言動を同氏が続けるのであれば、テスラの経営不安は高まるだろう。その結果、同社の信用力が低下し、資金繰りはさらに悪化するかもしれない。組織の士気を高めるためにも、生産管理の専門家の意見などを仰ぎ、モデル3の生産計画を軌道に乗せることが必要だ。 その意思決定を下すことができるか否かが、マスク氏の評価を分けるだろう。突き詰めて言えば、マスク氏は技術などの開発に専念し、マネジメントは経営のプロにゆだねる選択肢もあるだろう。テスラの経営不安を払拭し、経営を安定させるためには、それくらいの決断があって良い』、「マネジメントは経営のプロにゆだねる」ことが出来ればいいが、ワンマンのマスク氏には難しいのではなかろうか。サウジなどからの資金で株式を非公開化(いわゆるマネジメント・バイアウトMBO)しようとの苦肉の策は、市場から注文をつけられなくなるだけに、居心地はよくなるかも知れない。しかし、資金調達はテスラが通常の生産活動にも重大な問題を抱えているだけに、容易ではない可能性がある。米SECの召喚まで出てきては、さらにこじれる懸念もある。当面、目が離せない状況が続くのではなかろうか。
タグ:リチウムイオン電池は量産技術が確立されており、大規模な投資により生産効率が高まっている。まだ量産が始まっていない全固体電池の生産性を評価するのは難しい 真壁昭夫 ダイヤモンド・オンライン エープリルフールで“テスラが経営破綻した”とツイート 「テスラは苦境から脱出できるか、マスク氏は「名経営者」に非ず」 電気自動車 EV (その5)(中国巨大電池メーカー「CATL」の実力を垣間見る テスラしのぐ世界最大の生産能力へ、英ダイソン EVの電池革新でトヨタに挑戦 自動車産業の秩序を壊す新星の登場、テスラは苦境から脱出できるか マスク氏は「名経営者」に非ず) 鶴原 吉郎 日経ビジネスオンライン 「中国巨大電池メーカー「CATL」の実力を垣間見る テスラしのぐ世界最大の生産能力へ」 世界最大の自動車用バッテリー工場は、米テスラがパナソニックと共同で米ネバダ州に建設中の「ギガファクトリー」 年間35GWh 生産能力は、この累計生産台数の3倍近いリーフ向け電池を1年で造ってしまうことになる 「モデル3」の量産を軌道に乗せるのに現在テスラは苦しんでおり CATL 2020年のCATLの生産能力は、合計で50GWhに達するという 中国は断トツのEV大国 2020年における自動車バッテリーメーカーの上位10社のうち5社、上位5社に限れば3社を中国メーカーが占めるようになる。世界の自動車用バッテリー生産量の、実に3/4を中国が占めるようになると予測 2017年にはEVとPHEVの販売台数の合計が、実に77.7万台 欧州 27.8万台 米国での販売台数は約20万台 日本国内 約5万6000台で、中国の1/14程度 その原動力になっているのは中国が推し進める「新エネルギー車(NEV)」政策 EV、PHEV、FCV(燃料電池車)を新エネルギー車と位置付け 「新エネルギー車(NEV)」政策 TDKが2005年に買収して電池生産子会社化 2025年にはマンガン・ニッケルの酸化物にリチウムの酸化物を混合した正極材料と、シリコン+グラファイトの負極を組み合わせることで、現在のリチウムイオン電池が4V程度などを5V程度に高電圧化してエネルギー密度を現在の1.6~1.7倍にまで向上させたい意向 日本はまだ5年程度はリードしているという印象 中国がこのように野心的な目標を掲げている狙いは 日本や欧州でもまだ量産化してから日の浅いEVの土俵であれば日本をはじめ欧米など自動車先進国に勝てる可能性があると踏んでいるのだ 自動車産業の中長期発展計画 10年間かけて技術力を向上させ、「自動車強国」に躍進させるとしている コア技術としてパワートレーン、変速機、カーエレクトロニクスといった従来からの技術に加えて、電池、モーターなどの分野で2020年に世界の先端レベルに達するように世界トップ10の新エネルギー車メーカーを数社育成すると表明 もともとは日本の技術 中国製の電池を搭載していないNEVは事実上NEVとして認定しないと見られており、内外の完成車メーカーは中国国内の電池メーカーから電池を購入すべく、その選定を急いでいる CATLは、日欧のメーカーが電池購入を検討する際の有力候補の一つで、大工場の建設も今後の需要増をにらんでのことだ 「英ダイソン、EVの電池革新でトヨタに挑戦 自動車産業の秩序を壊す新星の登場」 英ダイソンがEV(電気自動車)に参入することを表明 「全固体電池」 実用化に向けた課題があった。電池としての基本性能であるエネルギー密度や出力密度がリチウムイオン電池と比べて低いことだ トヨタ自動車と東京工業大学だ。共同研究において、一般的なリチウムイオン電池の2倍のエネルギー密度と3倍の出力密度を実現できる全固体電池を試作 新型セダン“モデル3”の生産の遅れやモデルSのリコール発生から、同社の財務内容が悪化するとの懸念 テスラが部品会社に返金を要請したことは、同社の資金繰り悪化への懸念を高めた マスクCEOの株式非公開化についてのツイッター発言 同氏を米国証券取引委員会(SEC)が召喚 テスラには大きな可能性 新しい発想を実現して成長を目指すマスク氏の発想は、多くの注目 問題は、同社の財務内容とマスク氏の言動 マスク氏は希代のイノベーター テクノロジーの実用化への“野心”に駆られている スペースX社 同氏は新しい発想を実践してより大きな価値の創造に駆られた人物 テスラは社会に大きなインパクトを与えた テスラ・ロードスター パナソニックやトヨタがテスラとの提携に乗り出した マスク氏の発想こそがテスラの成長を支えてきたのである モデルS” リコールが発生 モデル3の生産の混乱、遅れが重なり、経営悪化への懸念に拍車 資金繰りの悪化が続くと考える市場参加者は増えている テスラが部品メーカーに支払った代金の一部の返還を求めていることが明らかになったことは、テスラの資金繰りが想定以上に悪化しているとの見方を高めた 格好の空売り銘柄 マスク氏は経営判断を誤った 問題解明よりも、自らの野心に基づいてモデル3の生産を優先した マスク氏は生産が進まないことにいら立ち、エンジニアを怒鳴りつけているとの報道もある イノベーターは名経営者とは同義ではない ヒット商品を生み出す能力と、経営者に求められる資質は異なる 企業は社会の公器 マスク氏は技術などの開発に専念し、マネジメントは経営のプロにゆだねる選択肢もあるだろう 株式を非公開化 マネジメント・バイアウトMBO
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今日、明日は更新を休むので、明後日の16日にご期待を!

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驕る国会議員の暴走(その3)(ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ、小田嶋氏:杉田水脈氏と民意の絶望的な関係) [国内政治]

驕る国会議員の暴走については、2016年2月24日に取上げた。今日は、これまでタイトルにつけていた「自民党」を外して、(その3)(ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ、小田嶋氏:杉田水脈氏と民意の絶望的な関係)である。

先ずは、6月19日付け日刊ゲンダイ「ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/231444/1
・『国会議員の職務の本質は、本来的に利害の対立と矛盾が存在する全国民の間に国家権力を用いて国家の有限な資源を強制的に配分する作業に参加することである。だから、議員を選出するシステムは全ての国民にとって「公平」であることが求められている(憲法14条、44条)。 そういう観点から、特に自民党内に多数存在するいわゆる「世襲」議員が法の下の平等に反するのではないか? と問題にされてきた。それに対して、世襲議員にも参政権はある(憲法15条)し、現に選挙で当選し民主的正当性があるとして、「逆差別」であると反発する向きもある。 しかし、世襲議員が不当な存在であることは明白である』、根拠は以下の2点。
・『まず、選挙とは、事実として、莫大な費用と人力が必要な事業である。だから、志と能力はあっても無名の新人が立候補(人権行使)をしようと考えても、落選した場合の経済的・社会的損失を考えたら、容易に立候補できるものではない。その点、世襲議員は、いわゆる「地盤」(集票組織)、「看板」(知名度)、「鞄」(選挙資金)が先祖伝来で揃っており、ほぼ確実に当選できる上に、落選しても生活は守られている。だから、世襲議員は、大きな権力を共有する地位を容易に入手・維持できる特権的な立場にある。つまり、憲法が禁じる「門地」(家柄)による差別(14条、44条)である』、なるほど。
・『さらに、世襲議員にはもうひとつ本質的な問題がある。それは、世襲議員の「貴族」化である。中世、近代の階級社会の悲惨な体験を経て、人類は、階級のない社会に到達して現在に至っている。人間の平等と民主政治である。そこで、議会は当然に多様な国民各層の公平な縮図でなければならない。ところが、世襲議員は代々の特権階級の中で育った人間になってしまっており、これは公知の事実である。 多くの世襲議員と近くで接して痛感することは、彼らは庶民の感覚が分からない……という致命的な事実である。国民の最大多数の最大幸福を追求すべき議会の構成員の多数が庶民感覚を欠いていては、議会が正しく機能するはずがない』、「世襲議員の「貴族」化」とは言い得て妙だ。現実には世襲議員が自民党でかなりの勢力を占めているので、法律面での規制は望み薄だ。頼りない選挙民の良識に期待するしかなさそうだ。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が7月27日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「杉田水脈氏と民意の絶望的な関係」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/072600152/
・『今回は、自民党の杉田水脈衆議院議員が「新潮45」に寄稿した文章と、その記事がもたらした波紋について書くつもりでいる・・・ツイッターを眺めながらあれこれ考えていた内容を、なるべく考えていた道筋通りに書き起こすことができればよろしかろうと考えている。というのも、当件に関する私の見解は、必ずしも一本道の結論に沿ったクリアな言説ではなくて、いまもって揺れ動いている現在進行系のカオスだからで、私としては、自分のアタマの中にある混乱した言葉は、できる限り混乱をとどめた形のままでお伝えした方が正直な原稿になると愚考している次第なのだ』、なるほど。
・『最初に、ツイッター上でやりとりされている論争をひと通り眺めて、例によって議論が空回りしている印象を持った。なので、手元にある「新潮45」の当該記事をあらためて読んでみた・・・読了してはじめに抱いた感触は「なるほどね」という感じの、シラけた気分だった。 人権感覚を欠いた内容に驚愕した……と書いても良いのだが、正直なところを申し上げるに、私は驚かなかった。 なぜというに、「新潮45」8月号に掲載されていた杉田水脈議員の小論は、あまりにもカタにハマった差別意識と偏見の寄せ集めで、この種のご意見は、少なくとも2ちゃんねる(いまは5ちゃんねると言うらしいですね)の周辺をウロウロしてきた人間にとっては、20年来さんざん見せつけられ続けてきた定番の文言以上のものではないからだ』、その通りなのだろう。
・『私がむしろ当惑を感じたのは、議員の文章に対してよりも、雑誌の編集姿勢についてだった。 具体的に申し上げるなら、当該の発売号をパラパラとめくりつつ 「おいおい、『新潮45』は、ついにこのテの言論吐瀉物をノーチェックで載せる媒体になっちまったのか」と、少しく動揺せずにはおれなかったのである。 というのも、「新潮45」は、私自身が、2012年以来なんだかんだで7年にわたって連載陣に名を連ねている媒体で、言ってみれば慣れ親しんだ自分のホームグラウンドでもあるからだ・・・私自身、2年ほど前から、同誌の目次に並んでいる文言が、月を追って異様さを加えていく変化の様相に気づいていなかったわけではない。毎度毎度、いったいどこまで行くものやらと、不安を感じていた。 で、手をこまねいてうじうじ心配しているうちにここまで来てしまったわけです。 今回、ことここに至ってあらためて感じるのは、活字に関わる人間であるわれわれの無力さと、世間を吹く風の凶暴さについてだ。 この10年ほどの間に、私がかかわっていた紙の雑誌のうちの半数以上は、すでに廃刊に追い込まれている。なんとか生き残っているかに見える媒体の多くも、ページを開いてみると、5年前とは別の出版物に変貌している。「新潮45」について申し上げるなら、私の目には、同誌が目指している未来は、雑誌という媒体が生き残ることを許されない社会であるように見える。どうして自らの死を目指すのか、その理由は私にはわからない。 が、ページを作っている人たちにしてみれば、雑誌を殺した先に何らかの未来が見えている、ということなのかもしれない。どっちにしても、行き着くところまで進んでみないと答えは出ないのだろう』、確かに「新潮45」の最新号を見てみると、もはや小田島氏が登場する余地がないほどの右傾ぶりだ。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/
・『杉田議員は、8月号の記事の58ページから59ページにかけて、こう書いている。《例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要綱を発表するたびにもてやはすマスコミがいるから、政治家が人気取り政策になると勘違いしてしまうのです。》 ネットの反応では「一読してあきれた」「論外の主張」「ナチスと変わらぬ優生思想そのもの」という感じのコメントが大勢を占めている。有識者と呼ばれる人々も、異口同音に、杉田議員の「生産性」発言の非人道性に苦言を呈している。 私も同感だ。 そもそも、生きている人間に対して「生産性」という言葉をあてはめにかかる用語法自体がどうかしている。 生産性というのは、工業製品の生産管理の場面で使われるべき言葉であって、生きた血の流れているものには、たとえ犬や猫に対してでさえ決して適用してはいけない言葉だ』、正論である。
・『杉田議員の場合、生産管理用語を人間にあてはめていることだけでも人権感覚を疑われてしかるべきところなのだが、彼女はさらに「生産性のないLGBTには、税金を使うべきではない」という意味のことを書いてしまっている。つまり、彼女は、LGBTの人々に対して「生産性」という尺度で異端視するだけでは足りず、税金の費消先から排除するべきである旨を宣告してしまっている。 論外。完全にアウトですね。  こんな人物が現職の国会議員であって良いものなのだろうか……というタイプのお話は、きりがないのでこのへんでおしまいにしておく。 8月号に載っている彼女の原稿を逐語的にここに引用して、いちいち反論・・・今回はそれはしない。 理由は、空しいからだ。 杉田議員の主張は、たしかに、一から十まで間違っている。人権感覚は皆無だし、差別意識を隠そうともしていないし、なにより自分と相容れない人間を理解しようとする姿勢があまりにも乏しい』、なるほど。
・『私が今回、この話題を取り上げようとしたのは、杉田議員の主張を論破するためではない。彼女を叱りつけるためでもない。 むしろ逆かもしれない。 私は、杉田水脈氏の考え方が、「異様」で「異例」で「極端」で「他に例を見ない稀有な思想」なのかというと、実はそうでもないのだと思っている。 同じような考えを持っている日本人は、残念ながら少なくない。 であるから、私が当稿の中で読者にお伝えしようとしているのは、むしろ、杉田水脈議員が「新潮45」に寄稿した記事中で展開しているどうにも酷薄で低次元で短絡的な優生思想丸出しの前近代的な主張にシンパシーを感じている日本人は、決して少数派ではないのですよということだったりするのだ。 彼女が常日頃繰り返しているスパルタンな主張のうちの少なくとも一部分について 「じっさいその通りだよね」という感想を抱いている日本人ののべ人数をカウントしたら、おそらく、多数派になるはずだ。 だからこそ、自民党の二階俊博幹事長は24日の記者会見で 「人それぞれ政治的な立場、いろんな人生観、考えがある」と述べて、彼女の発言を問題視しない旨を明らかにしたのである。 二階幹事長のこの措置について、「国民を舐めている」「適当にお茶をにごしていれば、じきに沈静化すると思っている」「人権侵害の内容があまりにもひどすぎるので、かえって問題にできずにいる」 などと言っている人たちがいるが、私は違うと思っている。 二階幹事長が杉田議員の発言を大筋において容認しているのは、「彼女の見解こそが自民党支持者の大勢を占めるサイレントマジョリティー層の総意だから」だ。 認めたくない事実ではあるが、杉田水脈議員の発言は、あれは、「民意」なのである。 それゆえ、もし仮に自民党の執行部が、杉田議員を処分なり追放するなりしたら、かえって自民党は「民意」を失うことになりかねないと、かように考えて、二階幹事長は彼女をお咎めなしのまま放置しているのだ。 彼女のような議員は、自民党支持者の中にかなりの割合で含まれるあるタイプの人々の内心を代弁する存在として、それなりに貴重なのだと思う。今回の失言にしても、多くの党員ならびに議員はそもそも問題視すらしていないはずだ』、二階幹事長発言の意味がようやく理解できた。ここまで深く掘り下げて考察するとは、さすがだ。
・『杉田議員の「生産性発言」が炎上している同じ頃、ツイッターのタイムラインに 《6歳の日本人を22歳にする16年間にかける予算より、75歳の日本人を91歳にする16年間にかける予算のほうが大きかったらどうしよう。》というツイートが流れてきた。 このツイートを発信したのは、杉田議員よりはずっと知的で穏当なアカウントで、ふだんから偏見を垂れ流しているような人ではない。 ツイート自体も、直接に老人の「非生産性」を攻撃しているわけではない・・・全体としては、一種の「思考実験」であって、特定の主張を言い募るアジテーションではない。 だから、私は、このツイートを発信したアカウントを批判しようとは思っていない』、なるほど。
・『ただ、個人的には、このツイートの底に流れている思想は、杉田水脈議員がLGBTの「生産性」について言及した記事の中の思想とそんなには違わないものだとも思っている。いずれも人間を「生産」なり「経済活動」なり「労働力」なりといった社会的な尺度に沿って「測定」することを前提としたものの言い方で、根底には「コストパフォーマンス」「費用対効果」「歩留まり」といった、生産管理思想に結びつく視点が含まれている。 そして、この種の片言隻句は、だからこそ人気がある。 私たちが暮らしているこの国には、病弱だったり老齢だったり性的に少数派だったり思想的に異端だったりするいずれにせよ「普通でない人たち」が駆逐されたり、排除されたり、隅に追いやられたりすることを、人権侵害や弱者への迫害とは考えず、むしろ「社会の健全化に寄与する行動」ないしは「正しい淘汰の過程」と考える人たちが一定数存在している。 あるいは、彼らは、「人権」や「社会的包摂」を言い立てる人たちに比べて多数派であるのかもしれず、だからこそ、「人権」という言葉を口にする人間がいろいろな場所で煙たがられる空気が広まっているのかもしれない。 ともあれ、この子供と老人への予算配分ついて考察したツイートは、原稿執筆時点で5921回RTされており、9845件の「いいね」がつけられている。 それだけ多くの人々が、高い評価を与えたということなのだと思う。 このツイートの背景には、おそらく、21世紀になってから流行語のようになっている「経営者目線」という言葉の影響がある。 経営者目線という言葉に込められているのは、おそらく、個人の近視眼的なものの見方を離れて、「マクロ」な視点からものを見ることの大切さを訴える思想なのだと思う。 で、経営者目線で、自分の身の回りを捉え直すことを学習している人々は、「マクロで」ものを見ている自分の視点を、「個人的なエゴから離れた」公正な観察であり、さらに言えば、ベタついた感傷を排した「冷徹」な評価であると自負していたりするのだろう』、言われてみれば、「経営者目線」的な見方は確かに広がっているようだ。
・『それが間違っているというのではない。 ただ、「経営者目線」は、結局のところ 「そんなこと言ったって、みんなが定時で帰ったらうちの会社はどうなると思う?」「全員が定時退社して経営が傾いたら、それこそワークライフバランスだのを言う以前に、オレら全員失業者になっちまうんじゃないのか?」 といった「個」をかえりみない上からの目線の強制に落着しがちなもので、運用次第では 「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」式の国策標語精神とそんなに遠いものではなくなる。そこのところに私はうんざりしている・・・結論を述べる。杉田議員の主張は、言葉の使い方こそ無神経ではあるものの、日本の「民意」を代表する言説のひとつだ。だからこそ、私は、絶望している』、「「経営者目線」が「個」をかえりみない上からの目線の強制に落着しがちなもので、運用次第では 「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」式の国策標語精神とそんなに遠いものではなくなる」との指摘は、目からウロコだ。確かにそうした危険性があることは否定できないので、これから心してゆきたい。
タグ:「ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ」 驕る国会議員の暴走 (その3)(ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ、小田嶋氏:杉田水脈氏と民意の絶望的な関係) 日刊ゲンダイ 議員を選出するシステムは全ての国民にとって「公平」であることが求められている(憲法14条、44条) 世襲議員が不当な存在であることは明白 世襲議員は、いわゆる「地盤」(集票組織)、「看板」(知名度)、「鞄」(選挙資金)が先祖伝来で揃っており、ほぼ確実に当選できる上に、落選しても生活は守られている。だから、世襲議員は、大きな権力を共有する地位を容易に入手・維持できる特権的な立場にある 憲法が禁じる「門地」(家柄)による差別(14条、44条)である 世襲議員の「貴族」化 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「杉田水脈氏と民意の絶望的な関係」 「新潮45」 杉田水脈議員の小論は、あまりにもカタにハマった差別意識と偏見の寄せ集め 20年来さんざん見せつけられ続けてきた定番の文言以上のものではない 当惑を感じたのは、議員の文章に対してよりも、雑誌の編集姿勢 『新潮45』は、ついにこのテの言論吐瀉物をノーチェックで載せる媒体になっちまったのか 杉田議員 彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです 生きている人間に対して「生産性」という言葉をあてはめにかかる用語法自体がどうかしている 「生産性のないLGBTには、税金を使うべきではない」 杉田水脈氏の考え方が、「異様」で「異例」で「極端」で「他に例を見ない稀有な思想」なのかというと、実はそうでもないのだと思っている 自民党の二階俊博幹事長は 彼女の発言を問題視しない旨を明らかにしたのである 二階幹事長が杉田議員の発言を大筋において容認しているのは、「彼女の見解こそが自民党支持者の大勢を占めるサイレントマジョリティー層の総意だから」だ 認めたくない事実ではあるが、杉田水脈議員の発言は、あれは、「民意」なのである 《6歳の日本人を22歳にする16年間にかける予算より、75歳の日本人を91歳にする16年間にかける予算のほうが大きかったらどうしよう。》というツイート このツイートの底に流れている思想は、杉田水脈議員がLGBTの「生産性」について言及した記事の中の思想とそんなには違わないものだとも思っている。いずれも人間を「生産」なり「経済活動」なり「労働力」なりといった社会的な尺度に沿って「測定」することを前提としたものの言い方で、根底には「コストパフォーマンス」「費用対効果」「歩留まり」といった、生産管理思想に結びつく視点が含まれている このツイートの背景には、おそらく、21世紀になってから流行語のようになっている「経営者目線」という言葉の影響がある 個人の近視眼的なものの見方を離れて、「マクロ」な視点からものを見ることの大切さを訴える思想 経営者目線で、自分の身の回りを捉え直すことを学習している人々は、「マクロで」ものを見ている自分の視点を、「個人的なエゴから離れた」公正な観察であり、さらに言えば、ベタついた感傷を排した「冷徹」な評価であると自負していたりするのだろう 「個」をかえりみない上からの目線の強制に落着しがちなもので、運用次第では 「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」式の国策標語精神とそんなに遠いものではなくなる 杉田議員の主張は、言葉の使い方こそ無神経ではあるものの、日本の「民意」を代表する言説のひとつだ。だからこそ、私は、絶望している
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日本のスポーツ界(その16)(結局 大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした「悪質タックル問題」が問いかけるもの、日大問題 第三者委報告書に格付け委がメス「責任、詳述していない」 田中理事長の更迭必要との意見も、山根会長 田中理事長…「強面のドン」たちが五輪に群がる理由、腐敗進むアマスポーツ界 日本に五輪開催する資格あるのか) [社会]

昨日に続いて、日本のスポーツ界(その16)(結局 大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした「悪質タックル問題」が問いかけるもの、日大問題 第三者委報告書に格付け委がメス「責任、詳述していない」 田中理事長の更迭必要との意見も、山根会長 田中理事長…「強面のドン」たちが五輪に群がる理由、腐敗進むアマスポーツ界 日本に五輪開催する資格あるのか)を取上げよう。特に、3番目は面白い見方で、必読である。

先ずは、同志社大学教授の佐伯 順子氏が7月14日付け現代ビジネスに寄稿した「結局、大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした「悪質タックル問題」が問いかけるもの」を紹介しよう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56378
・『「悪質タックル」問題は、狭義のスポーツという枠組みをこえ、広汎な社会的関心をよんでいる。 学生スポーツを抱える関西私学の一教員としても、日本の私立大学、ひいては大学全体の教育やガバナンスを考える上で看過できない問題としてうけとめている。 あれから2ヵ月が経つ。いまだ語られない論点からこの問題を考えてみたい』、どんな新たな論点を出すのだろうか。
・『「メディア・イベント」と化した学生スポーツ 今回の件が投げかける社会的問題は多様である。 まず、学生スポーツとはそもそも何のためにあるのかという、本来の原点に返っての議論が必要である。 大学のスポーツ活動がプロ・スポーツと一線を画すのは、勝利至上主義ではなく、心身の鍛錬、知・徳・体の備わった文武両道の社会人を養成するという点にあろう。 ところが、近年著しいのは、この原点を見失った勝利至上主義、なりふりかまわなくていいから、"勝ってなんぼ"という発想である。その背景には、大学間競争の激化がある。 大学全入時代といわれ、少子化時代にいかに安定的に学生を獲得するかは、全国の大学の課題となってきた』、大学のスポーツ活動の変質は、その通りだが、いまや常軌を逸した段階にありそうだ。
・『大学という教育機関においてもブランド・イメージを強固なものとし、いかによい学生を集めるかが死活問題としてとらえられている。 そんな時代に、「スポーツの日大」が試合に負けることは許されず、全国の若者に向けて魅力ある私学であることをアピールするためには、関西のブランド大学に負けるわけにはいかない、何としても勝たねば、という思いが背後にあったと思われる。 箱根駅伝の常勝校となった青山学院大学のように、スポーツでブランド・イメージをあげた成功例もあり、箱根駅伝自体、大学スポーツという枠組みをこえて、新年の国民的な「メディア・イベント」と化している。 駅伝も・・・いまや予選までがニュース・バリューを認められる全国区のスポーツ・イベントとなり、アナウンサーにとっての憧れの仕事とも言われるまで、メディア業界でも存在感をまして今日に至っている。 スポンサー企業とともにドル箱スポーツ・イベントといってもよい商業効果が期待される箱根駅伝は、同時に、新年に自校ののぼりをたてて全国放送してもらえる、大学の認知度をあげる絶好のPRイベントとも化している』、駅伝がアナウンサーにとっての憧れの仕事になったというのは初耳だが、ありそうな話だ。商業主義化がもたらす大学のガバナンスの歪み(ブランド力という用語が端的に示すように、商業化の波にさらされた大学が営利機関のようになってしまえば、ガバナンスの面でも、教員よりは実務経験のある職員が優位に立つ結果を招く。 "世間知らず"で"学者馬鹿"の研究者ではなく・・・職員、特に、現場経験のある職員に経営を任せないと、大学がつぶれる――そんな危機意識が一部の大学をして、職員主導へと舵を切らせてしまう。 しかし、その結果、"学問の府"であるはずの組織において、研究には素人の職員が意思決定のトップにたつという状況がエスカレートし、本来はあくまでも"学"が主であり、副次的活動であったはずのスポーツが、位置づけを逆転させ、スポーツのために大学に入るかのような本末転倒が生じる。 結果として、教育の場としての大学の社会的信用は失われ、自らの首をしめることになる。 日本の大学教育において、私立大学と国公立大学は、それぞれの特質を有することで、若者に多様な教育の選択肢を与え、特に私立大学はそれぞれの"建学の精神"を打ち出すことで個性をうたってきた。 だが、近年はそれが、前述のようにコマーシャリズムと融合し、なりふりかまわぬ宣伝戦略に大学人をはしらせ、"聖職"であるはずの教育という本来業務がなおざりにされる危険性がある』、未だに教育を"聖職"と捉える見方は、余りに学者サイド偏重の見方なのではなかろうか。
・『私立大学にとってスポーツチームの強化は大学のポジティブな社会的イメージの構築という意味で、経営戦略にとっても不可欠な要素と化しており、実質プロというべき若者を、奨学金等で海外から獲得する傾向は、アメリカン・フットボールに類似したコンタクト・スポーツであるラグビーでも指摘される』、確かにテレビ中継では、外国人留学生が目立つようになった。
・『学生スポーツにおけるアマチュアリズムの精神が希薄化し、勝利によるメディア露出がもたらす"宣伝効果"が期待されるのは、ひとり日本大学のみならず、日本の私立大学全体が直面している問題なのである。 かつて平尾誠二選手を擁した同志社ラグビーが、いまや勝ちあぐねているのは、学業優先、"文武両道"を堅持しようとする学生スポーツが、勝利至上主義においてはどうしても不利になってしまう現状の明らかな反映である。 アマチュアリズムを堅持している一部の大学と、実質プロレベルという次元の違う戦いとなりがちである現代の大学スポーツにおいて、今回の出来事はいつどこの大学でもおきかねない事態だったともいえる。 この事件が、少子化時代における私立大学の苛烈な生き残り戦略という社会的背景の産物であることを正確に理解したうえで、日本の大学スポーツ全体が、本来のアマチュアリズムの精神や"文武両道"の原点に立ち返らなければ、類似の出来事が再発する危険性は決して否定できない・・・日大学長の最初の会見においては、系列校の全国展開、学生、生徒数の多さを暗に誇るかのような発言が含まれ、キャンパスの大きさや学生数においては比較的小規模な関西私学に対する"物量作戦"によるマウンティングがうかがえた。謝罪の機会さえ、関学をけん制し、自学宣伝に利用するしたたかさがにじみでていた。 熾烈な首都圏の私立大学間競争のなかで、「スポーツの日大」のブランド力を堅持するために、勝利が至上命題となってしまった結果、いわば学生が"犠牲者"となったのが今回の案件である』、関西の私学のやっかみ的発言を別にすれば、その通りだ。ただ、アマチュアリズムを見直す必要もありそうだ。
・『商業主義化がもたらす大学のガバナンスの歪み ブランド力という用語が端的に示すように、商業化の波にさらされた大学が営利機関のようになってしまえば、ガバナンスの面でも、教員よりは実務経験のある職員が優位に立つ結果を招く。 "世間知らず"で"学者馬鹿"の研究者ではなく・・・職員、特に、現場経験のある職員に経営を任せないと、大学がつぶれる――そんな危機意識が一部の大学をして、職員主導へと舵を切らせてしまう。 しかし、その結果、"学問の府"であるはずの組織において、研究には素人の職員が意思決定のトップにたつという状況がエスカレートし、本来はあくまでも"学"が主であり、副次的活動であったはずのスポーツが、位置づけを逆転させ、スポーツのために大学に入るかのような本末転倒が生じる。 結果として、教育の場としての大学の社会的信用は失われ、自らの首をしめることになる』、これは長い目で学生や企業の選択に委ねていく他ない課題だ。
・『そもそも、スポーツマンといわれる人々は、皆が皆本当に潔く、清廉潔白なのか――そんなものは幻想にすぎないという事実が、今回の件で明白になった・・・相撲出身の理事長、アメフットのコーチの言い逃れは、そうしたステレオタイプが欺瞞にすぎないことを白日の下にさらした。  スポーツ経験があろうがなかろうが、根性があり、思いやりある人物は存在するのであり、逆に、学生の体育会やスポーツ業界こそが、上意下達、権力主義的なメンタリティー養成の温床になっているという意見もある。 スポーツ経験者が就職に有利といわれるのは、根性や協調性が期待される面もあろうが、「俺の言うことがきけないのか」といった昭和的な日本企業の体質に適応しやすいという含みもあり、監督に全面服従的なコーチの態度はそうした権力関係の如実な表れにみえた。 そろそろ、そうした日本の組織、社会の保守的体質からして、根本的に見直す時期にきているのではないか・・・体と体が激しくぶつかりあうコンタクト・スポーツにおいては、暴力に対して鈍感になる負の影響があるのではないかと危惧される。 スポーツマンを気取る人物が卑怯な言い訳をしたり、自己保身に走って逃げ隠れしたりするケースは現実には珍しくなく、"自分はスポーツ経験者"という誤ったナルシシズムに由来する過大な自己評価や自己顕示欲が肥大した人物は、むしろ社会の迷惑であることが今回の件で露呈した。 "スポーツマン"の化けの皮をはがしたという意味では、悪質スポーツ経験者・・・に騙されてはならないというよい社会的教訓になったといえる。 大学間競争の激化の弊害、それがもたらす大学ガバナンスの歪み、メディア状況の変容、スポーツマン・イメージのステレオタイプの欺瞞と、多くの問題を社会になげかけた今回の悪質タックル事件が、被害者の立場を尊重しながら、せめては今後の教訓として再発防止につながることを願ってやまない』、その通りだ、特に、「日本の組織、社会の保守的体質からして、根本的に見直す時期にきているのではないか」には、大賛成である。

次に、8月6日付けZAKZAK「日大問題、第三者委報告書に格付け委がメス「責任、詳述していない」 田中理事長の更迭必要との意見も」を紹介しよう。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180806/soc1808060004-n1.html
・『日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックル問題を調査し、最終報告書を作成した第三者委員会・・・に対し、ガバナンス(組織統治)に詳しい弁護士らが批判を突きつけた。報告が大学トップの田中英寿理事長の責任を詳述していないことを問題視したのだ。改革のため、田中氏の更迭を含めた組織改革が必要との意見も飛び出した。「(最終報告では)日大という組織のデタラメなガバナンス体制にメスが入り、理事会や常務理事の存在、理事長が一体何をしてきたのかが俎上に載ると思っていた。ところが、書いてあるのはせいぜい、説明責任を怠ったという話で、ガバナンスについてはほとんど触れていない」・・・これまで神戸製鋼所や日産自動車、朝日新聞社などの第三者委報告書を格付けしてきた「格付け委員会」。日大第三者委の報告書について、8委員のうち7人が、「ぎりぎり合格」に相当するD評価と判断した。だが、田中氏の責任に詳しく触れていない点について、委員らの評価は厳しい』、第三者委報告書も格付けされるので、いい加減な報告書は批判される。ただ、総合評価が「ぎりぎり合格」とは甘い気もしないでもない。
・『個別評価で、田中氏の更迭を含めた人事改革や監査・監察組織新設などの必要性を記した久保利氏は「前常務理事の内田氏より偉い人は理事長しかいない。そう考えると、全体の構造は田中氏がつくったと考えられる。だとすると、理事長を替えないと(改革が)まず始まらない」と指摘した。 日大アメフト部の問題に続き、今度は日本ボクシング連盟でもトップの山根明会長の「私物化」が批判の対象となっている。両者の相似点について聞くと、久保利氏はこう話した。「(ボクシングでは)今回の問題を投げかけた人たちがいる。意見があること自体、日大よりは少し希望が持てるかもしれない」 日大の闇は深そうだ』、しかし、日大はいまのところ「音無しの構え」で、このまま逃げ切りを図ろうとしているのだとすれば、マスコミも含めた世間も甘く見られたものだ。

第三に、ノンフィクションライターの窪田順生氏が8月9日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「山根会長、田中理事長…「強面のドン」たちが五輪に群がる理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/176874
・『「アマチュアボクシング界のドン」こと山根明終身会長が、ついに辞任を表明した・・・ただ、この方がアマチュアボクシング界に多大な貢献をしてきたのも事実である。なぜ誰もが認める功労者が、周囲から腫れ物扱いされる「老害」となってしまったのか。 この問題については、メディアや有識者はこれまでの以下のような指摘をしてきた。「レスリング協会や日大アメフト部にも通じる上意下達の体育会カルチャーが原因では」「本人も悪いが、増長させた取り巻きも同罪」 「自分で“カリスマ山根”などと言ってしまう、自己愛の強さが異常だ」 いずれも「ドンの老害化」を考えるうえで、きわめて重要な視点だと思う一方で、個人的にはもうひとつ大事なポイントが抜けている気がする。』、誰もが認める功労者とあるが、どんな功労があるのか例示しないのは不親切だ。
・『日大田中理事長、森喜朗氏…五輪周辺に巣食う「お騒がせドン」たち  筆者が指摘したいのは、「五輪に関わるドンにスキャンダルが続出している」という近年のトレンドとの関連性だ。  山根会長の前に世間を騒がせた「ドン」といえば・・・やはり「日大のドン」こと田中英寿理事長であろう。 田中理事長といえば、JOC(日本オリンピック委員会)の副会長。実は2014年には、米メディアが広域暴力団トップとのツーショット写真を報じ、この人のせいで、東京五輪は「ヤクザ・オリンピック」になるかもなんて揶揄された過去があるのだ。 田中理事長より前の「お騒がせドン」といえば・・・「五輪のドン」こと、森喜朗氏の顔が思い浮かぶ。 もともと「文教族のドン」として知られた森氏は、国内競技団体の総元締めである日本体育協会会長を長く務め、「日本のスポーツ団体のドン」として君臨。その流れで、五輪組織委員会の会長にもなったわけだが、新国立競技場建設や競技会場のドタバタで批判を浴びたのはご存じのとおりだ』、なるほど。
・『山根氏を巡っても、「五輪」にまつわるスキャンダルがボロボロ出てきている。 ロンドン五輪で村田諒太選手が金メダルを獲得した際、実績のない自分の息子をセコンドにねじこんだことを指摘されると・・・いかにも五輪に「山根判定」があったかのような爆弾発言をして、物議を醸したのはご存じの通りだ。また、五輪を目指す選手たちに必要不可欠な「公認グローブ」を独占販売したのではという疑惑も持ち上がっている。 ここで要点を整理しよう。「五輪」というものに何かしらの形で関与している「ドン」たちに、ことごとくスキャンダルが発覚している。ということは、「ドンの老害化」という問題を読み解く鍵が、「五輪」にあるということではないのか』、これまでの説明では、「五輪」とのつながりがあと1つ見えないが、これから出てくるのだろう。
・『「ドン」の3つの条件が なぜ五輪に必要なのか? さまざまな世界の「ドン」たちが、「ドン」と呼ばれる所以を整理していくと、だいたい以下の3つの条件を満たしていることに気づく。 <1>「逆らったらこの世界では生きていけない」という強面イメージ <2>所属する組織・業界の発展に、疑いようのない実績がある <3>配下や仲間が納得できるよう「利権」を分配・調整する親分肌』、なるほど。
・『<1>は・・・説明の必要がないだろう。 <2>に関しては、「読売のドン」や「球界のドン」として君臨しているナベツネこと、渡邊恒雄氏を思い浮かべていただきたい。独裁者としてヒール的なイメージが強いが、若かりし頃はスクープ連発のスター記者で、経営者となってからも取材で培った人脈と押しの強さで、1000万部という、共産主義国家でしかあり得ないような世界一の発行部数を実現するなど、「ドン」の名に恥じぬ立派な実績があるのだ。 <3>は「食肉業界のドン」といわれた浅田満氏が分かりやすい。自身が会長をつとめたハンナンだけではなく、同和系列の食肉業者の利権も守っていた。自分だけが潤えばいいという人間は、「ドン」になる前に潰される。配下や仲間にも甘い汁を吸わせてくれる親分的な要素がなければ、「ドン」として仰がれないのだ』、確かに「ドン」は圧倒的な力を持っているようだ。
・『さて、このような「ドン」の条件がわかると、なぜ「五輪」というものに「ドン」と呼ばれる人たちが引き寄せられるのかという理由が、なんとなく見えてくる。 東京五輪は、海外メディアなどから「選手だけでなく観客も、極度の蒸し暑さによる熱射病で死亡する」という危険が指摘されているにもかかわらず、開催時期を動かすことはできない。 既に莫大な放映権料が動いてしまっているからだ。この事実からも分かるように、オリンピックが「アマチュアスポーツの祭典」というのはあくまで建前で、現実は「利権の祭典」となっている』、開催時期変更に放映権料が関係しているとはなるほど。
・『招致するだけでも巨額の裏金が動き、招致が成功したら巨大なハコものの建設や、スポンサーの協賛金など、莫大なカネが駆け巡る。 このような巨大利権を「ヨーイ、ドン!」の自由競争で奪い合うとなると、醜い足の引っ張り合いが横行して、最悪、殺し合いが始まってしまう。また、争いに敗れた者がちゃぶ台返しで、ドロドロの舞台裏を世間にぶちまける、なんてリスクもなくはない。誰も得をしないのだ。 では、巨大利権を「平和」に分かち合うためにはどうすればいいかといえば、圧倒的な強権を誇るリーダーをつくればいい。 誰もが文句を言えないような実績があり、逆らった人間は永久追放するくらいの威圧感を兼ね備え、巨大利権をつつがなく仲間内に分配・調整するような親分肌の強いリーダーだ。 ここまで言えばもうお分かりだろう。そう、それこそが「ドン」である。 ホニャララのドンというと、なにやら悪の独裁者のようなイメージがあるかもしれないが、実はもともとは、巨大利権を巡る仲間内での無益なつぶし合いを避け、その世界の人間たちが平和的に利権を分配するために生み出されたシステムなのだ』、利害関係者にとっては合理的なようだ。
・『「ドン」は「利権調整者」であるのと同時に、ルールに従わない者に報復を与える「秩序の番人」の役割を担ってきた。だから、「ドン」と呼ばれる方たちの多くが山根氏のように強面で、「裏社会」とのつながりが囁かれている。「ドン」がナメられてはガバナンスが崩壊してしまう。「逆らったら消される」という恐怖が、裏切り者や内部告発者を出さない抑止力になってきたのである。 だが、このような「ドン」はもはや絶滅危惧種になりつつある』、どんな変化があったのだろう。
・『「ドン」の立ち位置を大きく変えた島田紳介氏引退事件 今の日本で、仲間内で分配・調整するような「巨大利権」と呼べるようなものがなくなってきていることもあるが、何よりもドンの「威厳」の源泉となってきた「裏社会」に対する価値観が変わったことが大きい。 個人的には、暴力団排除条例が施行され、芸能界で絶大な影響力を誇っていた島田紳助氏が、暴力団幹部との交際で芸能界から引退した一件で、潮目が大きく変わったと感じている。 それまでは何やかんや言っても、芸能人だけではなく、一部上場企業の経営者や政治家なども、裏社会の人々をトラブルシューターとして活用していた。何か困りごとが起きると組関係者との関係を誇示して、物事を有利に進めることもたくさんあった。 それがもはや通用しない、ということを、これ以上ないほど分かりやすい形で世間に知らしめたのが、紳助氏だったのだ。 このように「ドン」の弱体化の原因がわかれば、「老害化」の本質も見えてくる。 残念ながら、裏社会とのパイプを誇示して、秩序を維持するという時代ではない。ということは、厳しい言い方だが、もはや「ドン」の存在意義はなくなりつつあるのだ』、恥ずかしながら、島田紳介氏引退の真相を初めて知った。確かに、企業の株主総会も総会屋は出る幕がなくなったり、反社会的勢力に対する風当たりは厳しくなった。
・『その真理に気づいた「ドン」たちは潔く身を引くが、中にはなかなかその事実を受け入れられないどころか、「夢をもう一度」と言わんばかりに、老体にムチ打ってハッスルしてしまう方たちがいる。 なぜ、そんな愚かな勘違いをしてしまうのかというと、「五輪」のせいだ。1964年の東京五輪と、その後の高度経済成長を20〜30代として謳歌した「ドン」たちからすれば、「五輪」は特別な思い入れがある。そんな彼らが、ケタ外れの巨大利権を前にヤンチャな若者のように大はしゃぎをして、「最後にひと花」と山っ気を抑えられないのも無理はないのだ。 平成の世にマッチしない時代錯誤的な「恐怖」や「恫喝」をふりかざせば、反感を持たれるのも当然だ。昭和の時代には抑えられたはずの裏切り者も出るし、内部告発も次から次へと飛び出してくる。 これが「五輪」のまわりの「ドン」たちが、ことごく「老害化」して、スキャンダルが噴出している構図なのではないだろうか。 いずれにせよ、山根会長のような「2020年にはもうひと花」と目論む「ドン」は、さまざまな業界で、時代遅れの強権を振りかざす「老害」として周囲を困惑させている。その中で最も意気軒昂なのが、現在「五輪のドン」として、安倍政権にサマータイム導入を猛プッシュしている森喜朗氏であることは言うまでもない。 アスリートや観客が熱中症でバタバタ倒れたり、「五輪シフト」のムチャ振りで日本中が大混乱になったりと、不安しかない東京2020。さまざまな団体のおじいちゃんたちだけが血色良くて大ハッスルみたいな、「ドンの祭典」にならないことを心から祈りたい』、興味深い見方だ。最後の部分は全く同感である。

第四に、8月11日付け日刊ゲンダイ「腐敗進むアマスポーツ界 日本に五輪開催する資格あるのか」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/235144/1
・『ボクシング連盟の腐敗がよくもここまでバレなかったものだ。「それは、アマチュアボクシングがマイナー競技だからです」というのは、元産経新聞運動部長の津田俊樹氏(国士舘大政経学部非常勤講師)だ。「卓球やバドミントン、水泳といった競技は国内ではメジャー競技ですから、記者もよく取材をするし、内部事情にも詳しい。しかし、アマボクシングは五輪の時以外はほとんど記事にならない。選手強化の助成金にしても、交付したら、『後はお好きにどうぞ』というような状態でチェック機能が働いていない。文科省やスポーツ庁、JOC(日本オリンピック委員会)などは、競技団体が適正に運営されているかもほとんど関与しない。ボクシングに関しては、国際協会の八百長疑惑や協会幹部が犯罪組織との関連を疑われるなどして、東京五輪から除外される危機にある。監督官庁は、『国内のボクシング団体は大丈夫か?』と、誰かしら疑問を持ってもおかしくなかったはずです」・・・ 「7年以上も同じ人間が会長職に居座れば、独裁につながり、不正の温床になるであろうことは容易に察しがつく」と、スポーツライターの工藤健策氏がこう続ける。「連盟会長の任期は公になっている。山根会長が7年目もトップにいること、定款にない終身会長という勝手な肩書で活動していたことは、日本スポーツ協会(旧日本体育協会)やスポーツ庁、JOCも知っていたはずです。監督、監視を怠っていたことが山根会長の独裁、ボクシング連盟の腐敗体制を許してきたと言っても過言ではない。このような事件が起きた以上、競技団体の金銭の出入りや運営体制などの監視を強めるべきです」』、確かに文科省やスポーツ庁、JOCの責任も大きそうだ。
・『今回のボクシング連盟の醜聞以外にも、今年はレスリング協会強化本部長によるパワハラ問題と日大アメフト部の監督、コーチが指示した殺人タックル事件などが起きている。これらに共通しているのが、選手(代表)選考を行う人物が騒動の「主犯」になっていることだ。 「オレの言うことを聞かなければ試合に出さない」「日本代表にも選ばない」 この「脅し文句」は選手はもちろん、選手が所属するチームの指導者に対して最も効果がある。「選考権」を一手に握り、物が言えない体制をつくり上げ、権力基盤を盤石なものにしていくのが、彼らのやり方だ』、「選考権」が権力の背景とはもっともらしいが、選考基準が明確で透明になっていれば、問題ないとも思えるが・・・。やはり裁量の余地が大きいのだろうか。
・『今はアマスポーツの選手でも卓球、水泳、バドミントン、陸上など、人気競技は大会で賞金を稼げる。五輪はプロの参加も認めているので、もはやアマチュアスポーツの祭典ではない。「ところが日本人は、今も五輪は『カネじゃない。清く、正しく、美しく、勝利を求める舞台』と思っている。少なくとも、そういう純粋さを求めているわけですが、それは幻想です。近年はプロよりアマチュアの役員の方が利権やカネで私腹を肥やしている。ボクシングの山根元会長は勝手に終身会長になっていたのですから、もう漫画の世界です。東京五輪が近づいてくれば、代表選びが熾烈になってくる。母国開催の五輪ですから、代表になりたい気持ちはこれまで、これから先の大会とは比べものになりません。また何かしらのスキャンダルが出てくるでしょう。こんな国に五輪を開催する資格はありませんよ」(前出の津田氏)  東京五輪は酷暑ばかりが懸念されているが、それ以上に大きな問題がある』、選考基準の明確化・透明化がますます重要になるようだ。
タグ:、「俺の言うことがきけないのか」といった昭和的な日本企業の体質に適応しやすいという含みも 、「ぎりぎり合格」に相当するD評価と判断 「ドンの老害化」 「格付け委員会」 「腐敗進むアマスポーツ界 日本に五輪開催する資格あるのか」 佐伯 順子 ブランド・イメージ ガバナンス(組織統治)に詳しい弁護士らが批判を突きつけた。報告が大学トップの田中英寿理事長の責任を詳述していないことを問題視 ドン」の立ち位置を大きく変えた島田紳介氏引退事件 実質プロというべき若者を、奨学金等で海外から獲得する傾向 大学のスポーツ活動 日刊ゲンダイ 連盟会長の任期は公になっている。山根会長が7年目もトップにいること、定款にない終身会長という勝手な肩書で活動していたことは、日本スポーツ協会(旧日本体育協会)やスポーツ庁、JOCも知っていたはずです。監督、監視を怠っていたことが山根会長の独裁、ボクシング連盟の腐敗体制を許してきたと言っても過言ではない。このような事件が起きた以上、競技団体の金銭の出入りや運営体制などの監視を強めるべきです スポーツのために大学に入るかのような本末転倒が生じる 学業優先、"文武両道"を堅持しようとする学生スポーツが、勝利至上主義においてはどうしても不利になってしまう アマボクシングは五輪の時以外はほとんど記事にならない。選手強化の助成金にしても、交付したら、『後はお好きにどうぞ』というような状態でチェック機能が働いていない。文科省やスポーツ庁、JOC(日本オリンピック委員会)などは、競技団体が適正に運営されているかもほとんど関与しない 巨大利権を巡る仲間内での無益なつぶし合いを避け、その世界の人間たちが平和的に利権を分配するために生み出されたシステムなのだ それこそが「ドン」である 聖職"であるはずの教育 教育の場としての大学の社会的信用は失われ、自らの首をしめることになる 巨大利権を「平和」に分かち合うためにはどうすればいいかといえば、圧倒的な強権を誇るリーダーをつくればいい。 誰もが文句を言えないような実績があり、逆らった人間は永久追放するくらいの威圧感を兼ね備え、巨大利権をつつがなく仲間内に分配・調整するような親分肌の強いリーダーだ 全国区のスポーツ・イベント 窪田順生 「五輪のドン」こと、森喜朗氏 研究には素人の職員が意思決定のトップにたつという状況がエスカレート 職員主導 商業化の波にさらされた大学が営利機関のようになってしまえば、ガバナンスの面でも、教員よりは実務経験のある職員が優位に立つ結果を招く 大学の認知度をあげる絶好のPRイベント アナウンサーにとっての憧れの仕事 さまざまな世界の「ドン」たちが、「ドン」と呼ばれる所以を整理していくと、だいたい以下の3つの条件 ZAKZAK 、"自分はスポーツ経験者"という誤ったナルシシズムに由来する過大な自己評価や自己顕示欲が肥大した人物は、むしろ社会の迷惑であることが今回の件で露呈した 駅伝 山根明終身会長が、ついに辞任を表明 「日大のドン」こと田中英寿理事長 選考権」 、「五輪に関わるドンにスキャンダルが続出している」という近年のトレンドとの関連性 これらに共通しているのが、選手(代表)選考を行う人物が騒動の「主犯」になっていることだ 「山根会長、田中理事長…「強面のドン」たちが五輪に群がる理由」 スポーツ経験者が就職に有利 最も意気軒昂なのが、現在「五輪のドン」として、安倍政権にサマータイム導入を猛プッシュしている森喜朗氏 「五輪」のまわりの「ドン」たちが、ことごく「老害化」して、スキャンダルが噴出している構図なのではないだろうか 。「五輪」というものに何かしらの形で関与している「ドン」たちに、ことごとくスキャンダルが発覚している また何かしらのスキャンダルが出てくるでしょう。こんな国に五輪を開催する資格はありませんよ 「公認グローブ」を独占販売 五輪はプロの参加も認めているので、もはやアマチュアスポーツの祭典ではない。「ところが日本人は、今も五輪は『カネじゃない。清く、正しく、美しく、勝利を求める舞台』と思っている もはや「ドン」の存在意義はなくなりつつあるのだ 久保利氏 田中氏の責任に詳しく触れていない点について、委員らの評価は厳しい スポーツの日大 大学間競争の激化 招致するだけでも巨額の裏金が動き、招致が成功したら巨大なハコものの建設や、スポンサーの協賛金など、莫大なカネが駆け巡る。 このような巨大利権を「ヨーイ、ドン!」の自由競争で奪い合うとなると、醜い足の引っ張り合いが横行して、最悪、殺し合いが始まってしまう。また、争いに敗れた者がちゃぶ台返しで、ドロドロの舞台裏を世間にぶちまける、なんてリスクもなくはない。誰も得をしないのだ 日大アメフト部の監督、コーチが指示した殺人タックル事件 オリンピックが「アマチュアスポーツの祭典」というのはあくまで建前で、現実は「利権の祭典」となっている レスリング協会強化本部長によるパワハラ問題 <3>配下や仲間が納得できるよう「利権」を分配・調整する親分肌 <1>「逆らったらこの世界では生きていけない」という強面イメージ 近年著しいのは、この原点を見失った勝利至上主義、なりふりかまわなくていいから、"勝ってなんぼ"という発想である 『「ドン」は「利権調整者」であるのと同時に、ルールに従わない者に報復を与える「秩序の番人」の役割を担ってきた。だから、「ドン」と呼ばれる方たちの多くが山根氏のように強面で、「裏社会」とのつながりが囁かれている 心身の鍛錬、知・徳・体の備わった文武両道の社会人を養成するという点 同志社ラグビー その真理に気づいた「ドン」たちは潔く身を引くが、中にはなかなかその事実を受け入れられないどころか、「夢をもう一度」と言わんばかりに、老体にムチ打ってハッスルしてしまう方たちがいる 大学全体の教育やガバナンスを考える上で看過できない問題 「結局、大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした「悪質タックル問題」が問いかけるもの」 ダイヤモンド・オンライン それがもはや通用しない、ということを、これ以上ないほど分かりやすい形で世間に知らしめたのが、紳助氏だったのだ 全体の構造は田中氏がつくったと考えられる。だとすると、理事長を替えないと(改革が)まず始まらない 箱根駅伝の常勝校となった青山学院大学 山根会長のような「2020年にはもうひと花」と目論む「ドン」は、さまざまな業界で、時代遅れの強権を振りかざす「老害」として周囲を困惑させている それまでは何やかんや言っても、芸能人だけではなく、一部上場企業の経営者や政治家なども、裏社会の人々をトラブルシューターとして活用していた 暴力団排除条例が施行 <2>所属する組織・業界の発展に、疑いようのない実績がある 現代ビジネス 「日大問題、第三者委報告書に格付け委がメス「責任、詳述していない」 田中理事長の更迭必要との意見も」 1964年の東京五輪と、その後の高度経済成長を20〜30代として謳歌した「ドン」たちからすれば、「五輪」は特別な思い入れがある。そんな彼らが、ケタ外れの巨大利権を前にヤンチャな若者のように大はしゃぎをして、「最後にひと花」と山っ気を抑えられないのも無理はないのだ そもそも、スポーツマンといわれる人々は、皆が皆本当に潔く、清廉潔白なのか――そんなものは幻想にすぎない 商業主義化がもたらす大学のガバナンスの歪み 山根氏を巡っても、「五輪」にまつわるスキャンダルがボロボロ出てきている 経営戦略にとっても不可欠な要素 日本のスポーツ界(その16)(結局 大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした「悪質タックル問題」が問いかけるもの、日大問題 第三者委報告書に格付け委がメス「責任、詳述していない」 田中理事長の更迭必要との意見も、山根会長 田中理事長…「強面のドン」たちが五輪に群がる理由、腐敗進むアマスポーツ界 日本に五輪開催する資格あるのか)
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日本のスポーツ界(その15)(日本人はなぜ「醜くても勝つ」より「美しく負ける」を好むのか、6歳を炎天下で走らせる 少年スポーツの実情 協会から通達が出ても、現場の大人たちは…) [社会]

日本のスポーツ界については、7月12日に取上げた。最近問題化している日大アメルカンフットボールや日本レスリング協会の問題は、明日取上げるとして、今日は、(その15)(日本人はなぜ「醜くても勝つ」より「美しく負ける」を好むのか、6歳を炎天下で走らせる 少年スポーツの実情 協会から通達が出ても、現場の大人たちは…)である。

先ずは、脳科学者の中野 信子氏が7月10日付け現代ビジネスに寄稿した「日本人はなぜ「醜くても勝つ」より「美しく負ける」を好むのか 日本人の脳に迫る⑤ 」を紹介しよう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56481
・『サッカーのW杯ロシア大会決勝トーナメントでベルギーに敗れ、史上初の8強進出をのがしてしまった日本。結果をどう見るかは意見が分かれるところでしょうが、概ねサムライジャパンの健闘を称え、各選手がプレイ中に見せた輝きに焦点を当てた好意的な報道が多かったように思います。また、日本チームが使用したロッカールームが選手たち自身の手で試合後きれいに清掃され、ロシア語で感謝のメッセージが残されていたこと、加えて、日本チームのサポーターがごみを残さずきれいに会場を後にするという、よく統制された行動をとったことなどにも注目が集まりました。 こうした側面に着目した記事が多くの人の心をとらえる、という現象は非常に興味深いものです。多くのメディアもこのような書き方を好む大衆の性質を知悉していて、「美しい」エピソードをこぞって探しているようにも見えました・・・決勝トーナメントで日本チームの敗退が確定した時、グループリーグの戦いを終えて16強入りが決まった時以上の賛辞がここぞとばかりに寄せられたことは、注目すべき点のひとつです。 美しいエピソードを報じるニュースが支持を得ていることと考え合わせると、勝敗そのものよりも美しく振る舞うことのほうがずっと大事だ、と多くの人が無意識のうちに感じていたことになります』、私にはいささか鼻につく報道だったが、事実としてはその通りなのだろう。
・『ワールドカップ関連のニュース記事やSNSにおける反応は、海外のものも含め、総じて「“汚く”勝ち上がるよりも“美しく”負けるほうに価値がある」というコンセンサスを、人々がごく自然に持ち合わせていることを示すものでした。 無論、こうした暗黙の了解に対して異を唱えるコメントもありましたし、私自身、戦略はどうあれ勝利は勝利であり、ルールに則った勝ち上がり方であるならば基準のよくわからない「美しさ」に反するからといって批判するには当たらない、という考えをテレビ番組などでは表明していたのですが、やはりメインストリームにはこのような“美学”が厳然と存在することをあらためて強く感じさせられる出来事でした。「“汚く”勝ち上がるよりも“美しく”負けるほうに価値がある」というメッセージは、一見すばらしいように見える一方、非常に危険なものです。後に詳述しますが、顔の見えない人々の巨大な集合体からこうしたメッセージが暗黙裡に発せられ、それを変えることは難しい、という点がその危険性をより大きくしていると言えます』、危険性とは穏やかではないが、著者の言い分をもっと見てみよう。
・『歴史上の人物で人気があり、くり返しくり返し物語として語り継がれて行くのは、多くは悲劇的に人生を終えた人たちです。 典型的な例としては、例えば戦国時代ならば大坂夏の陣で敗れた真田幸村(信繁)、幕末なら会津の白虎隊、江戸時代ならば仇討ちを果たして切腹となった赤穂浪士たち、時代をさかのぼればそれこそ「判官贔屓」の語源ともなった源義経が想起されるでしょう・・・ごく一般的な傾向としてはやはりわかりやすい悲劇性を持った人物が人気を集めるようです。 人間のそういった部分に美しさを感じ、肩入れしてしまうという傾向を、私たち人間自身が備えていることの証左と言えるでしょう。 本邦に限らなければ、たとえば三国志であればやはり志半ばで病に斃れた諸葛孔明の人気が日本では高く、圧倒的な強者である曹操が好きだという人はなぜか少数派です。中華文化圏では関羽が絶大な人気を集め、関帝廟という形で祀られたりもしています。やはり非凡な力を持ちながら見果てぬ夢に散る、という姿が多くの人の心をとらえるのかもしれません』、日本人特有の傾向と思っていたが、どうも人類共通の傾向らしい。
・『美しい、美しくない、は脳のどこが判定しているのでしょうか。 美を感じる脳の領域は前頭前野の一部、眼窩前頭皮質と内側前頭前皮質だと考えられています・・・この部分は一般に「社会脳」と呼ばれる一群の領域のひとつで、他者への配慮や、共感性、利他行動をコントロールしているということがこれまでの研究から示されています。 内側前頭皮質はこの近傍のより内側にあり、ここはいわゆる「良心」を司っている領域ではないかと考えられています。自分の行動が正しいか間違いか、善なのか悪なのか、それを識別する部分です。 美しい、美しくないという基準と、利他行動、良心、正邪、善悪等々は理屈の上で考えればまったく別の独立した価値なのですが、脳ではこれらが混同されやすいということが示唆されるのです・・・私たちはごく自然に、人の正しい行為を美しい振る舞いと、不正を行った人を汚いヤツと表現します。それも、日本語に限られた現象ではありません。やはり脳はこれらを似たものとして処理しているようなのです。 こうした利他性、良心、正邪、善悪の領域があるからこそ、私たちは社会生活を送ることができます。これらの領域が「社会脳」と呼ばれるのはこのような理由からです』、「利他行動、良心、正邪、善悪等々は・・・脳ではこれらが混同されやすい」、なるほど。
・『これらの機能は私たち人間では突出して発達しており、それが人間をここまで繁殖、繁栄させた源泉ではないかという考え方もあります。 ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の頭蓋骨格と比較すると、現生人類ホモ・サピエンスの前頭洞は丸く大きく、脳の容量ではネアンデルターレンシスに負けるものの、前頭前野の発達度は比較にならないほど高いのです。 美しい、美しくないを判定する領域も社会脳の一部であるとなると、この機能も社会性を保持するために発達してきたものと考えられます』、『社会性を維持することは、他の生物種と比べて肉体的には脆弱で逃げ足も遅い霊長類にとっては死活問題であり、これを制したわれわれ現生人類が繁栄を享受してきたと言ってもいいでしょう。 社会性を維持するには、各個体の持つ利他性を高め、自己の利益よりも他者または全体の利益を優先するという行動を促進させる必要があります』、なるほど「社会脳」の重要性が理解できた。
・『ただ、ともすれば自分が生き延びるためにはなりふり構わず個人の利益や都合を優先するという生物の根本的な性質に反してまで、利他行動を積極的にとらせるために、脳はかなりアクロバティックな工夫をしているようです。 正邪、美醜、悪という基準を無理やり後付けにしてでも脳に備えつけ、正義、美、善と判定されたときに快楽物質が放出されるようにして、何とか人間を利他的に振る舞うよう仕向けているのです。個人ではなく、種として生き延びるための工夫と言ってもいいかもしれません。 ところが、自分の利益、自分の勝利だけを優先して戦略を立てるという行動は、せっかく備え付けたこの性質に真っ向から反してしまいます。個の都合を優先し、明文化されていないにしても全体の暗黙のルールという社会性を破壊する行為をとるとは何事か、と糾弾されてしまうのです。 これはサッカーに限った話ではなく、不倫であったり“不謹慎”な発言であったりしても同様です。その個体の行動を、社会性の高いものに改めさせようとして、これ(社会性というルール)に従わないとは何事か、と言わんばかりに一斉に攻撃が始まります』、自分の利益を優先するというのは、資本主義の基本だが、アメリカの成金が寄付をするというのは、利他行動の一種なのだろう。
・『自分の利益を追求するという行動を完全に止めてしまうと、今度は個体としての生存が危うくなります。そのため、社会脳の機能にはある程度の柔軟性が付与されています。 わかりやすくいうと、「利他行動を優先しろ」と他者には攻撃しても、自分の利益は優先できてしまう、という程度のゆるさで社会脳は設定されている、ということです』、なるほど自己の甘いのは生存のための設定とは、面白いものだ。
・『最後通牒ゲーム、というよく知られた心理課題があります。これはふたりで行われ、一方がリソースの配分権、もう一方が拒否権を持ちます。配分権を持った側は自由な割合でリソースを配分でき、自分の取り分をどれだけ多くしてもいいのですが、もう一方に拒否権を発動されてしまうとどちらの取り分もゼロとなる、というルールです・・・だいたい落ち着きどころとしては、配分権を持つ側が7割以上の取り分を提示すると、拒否率が8割に跳ね上がるという傾向になるようです。 この課題で、拒否権を発動しやすいのが、実は利他行動を優先し続けるタイプの人たちです・・・「自分は利他行動を優先しているのに、あなたはなぜ利己的に振る舞うのか」「なぜ自分を不当に扱うのか」という心情が働いたのではないかと考えられます。彼らが拒否権を発動するのには、「社会性というルールにあなたも従うべきだ、そうでないならペナルティを負うべきだ」という制裁的な意味合いがあるのです。 興味深いのは、そのペナルティが相手にとってのペナルティになるだけでなく、自分の利益もゼロにしてしまうという点です。 最後通牒ゲームでは、どんなに配分比が悪くとも、ゼロよりは取り分が大きいので、拒否権を発動しないほうが実は常に得になります。合理的な選択をするのであれば、拒否権は行使しないほうが良いのです。 にもかかわらず、拒否権を発動する、ということは、コストをかけてでも、不公正な相手にペナルティを与えたい、という情動が強く働いたということにほかなりません。 拒否権を発動する人たちの脳を調べて見ると、脳のある部分に存在するセロトニントランスポーターというたんぱく質の密度が有意に低いことがわかりました・・・社会性のルールに従わないものはペナルティを負うべきだ、自分を不当に扱うものは許せない、利益を失ってでも制裁を与えたい、という気持ちが強く働く根底には、セロトニントランスポーターが少ない、という生理的な性質が寄与している可能性があるのです』、拒否権を発動する人たちの脳にはセロトニントランスポーターが少ない、というのには驚かされた。
・『日本人はセロトニントランスポーターの少ないタイプが世界でも最も多いというデータがあります。 つまり、日本人は、自分が利益を失ってでも、不正をした(ゲームのルールには実際には則っているのですが……)相手に制裁を加えたい、という気持ちが世界一強い民族である可能性があります。冷静で合理的な選択よりも、熱い気持ちで美しさを賛美したいのです。 もしそうなら、多くのことに説明がつくのではないでしょうか。サッカーで戦略的な負けを選択して決勝トーナメントに勝ち進むという、ポーランド戦のようなやり方が非難を浴びるのも、そのひとつかもしれません。また、社会性というルールを破る不倫という行為がここまでバッシングを浴びるのも、政治家の失言や、有名人の不適切な振る舞いがいつまでも攻撃され続けてしまうのもそうであるかもしれません。 私たちの中に生まれてくる感情は、時には合理的な選択を阻み、勝つことから自らを遠ざけてしまうことがあります。ただそれは長期的に見れば、私たちを種として生き延びさせよう、という天の配剤であるとも言えるのです』、日本人は総じてセロトニントランスポーターが少ないというのも興味深い指摘だ。ただ、日本人の「忘れっぽさ」には触れてないが、これがあるために、安倍首相も随分救われているように思うのだが・・・。

次に、フリーライターの島沢 優子氏が8月2日付け東洋経済オンラインに寄稿した「6歳を炎天下で走らせる、少年スポーツの実情 協会から通達が出ても、現場の大人たちは…」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/231698
・『「重大事故が起きやしないかと、気が気じゃない」そう心配するのは、首都圏で少年サッカーのクラブで指導をしている30代の男性だ。台風がくる前の週末に大会参加したが、目も当てられない光景に遭遇した。 最高気温38度を記録したその日。小学1年生の大会で、スポーツドリンクや塩分タブレットの補給をさせないチームがあった。氷で首や体を冷やす様子もない。聞けば、氷や水を保管するクーラーボックスをチームで持参していないという。気温が38度なら人工芝のピッチの上は40度を軽く超えており、6歳児の体には文字どおり過酷すぎる環境だ。「試合の合間はテントの日陰で過ごさせてはいたが、試合中、ハーフタイムはそのまま子どもは日なたに立たせたまま、ベンチでコーチが話をしていた。相手のチームはテントに戻らせているのに」と男性は憤りを隠せない。「日なたで耐えるほうがすごいのだ」というような昔ながらの根性論に見えたという』、「クーラーボックスをチームで持参していない」のもさることながら、「ハーフタイムはそのまま子どもは日なたに立たせたまま」というのは、信じられないお粗末さだ。
・『同じ日に行われた6年生の大会。男性の教え子が対戦した少年団も同様の「未装備」で、クーラーボックスなし、試合合間の患部冷却ナシ。よって後半に入ると、そのチームの選手はフラフラになり走れなくなった。見るからに熱中症の症状を見せていたが、ベンチに座ったコーチは逆にその子をしかり始めた。「やれないのか!」 怒られた子どもはシクシクと泣き始めた。交替させられたその子のところに飛んで行って氷で体を冷やし始めたのは、なんと対戦相手である男性のクラブのコーチたちだった』、しかるだけだったコーチが、これで反省すればいいのだが・・・。
・『「ボランティアでコーチを引き受けている人たちには頭が下がります。ただ、チーム全体の知識不足を感じる」と率直に話す。 社団法人日本サッカー協会からは各クラブに「炎天下で無理にやらせないよう、熱中症に細心の注意を払ってほしい」といった旨の通達が来ていたそうだ。協会が策定した「熱中症対策ガイドライン」を再度よく読むように、とのことだったというが…… 「(何年、何カ月も前から決まっている)練習や試合の中止を言い出すのは、かなり難しいのではないか。来年からはこの時期の大会は禁止と上(日本サッカー協会)から指示をするなり、会場を貸す側の自治体などが貸しませんと意思表示しないと、変わらないのでは」(前出の男性)』、いくらボランティアでコーチを引き受けているとはいえ、安全性には責任がある筈だ。
・『都内で女子サッカーチームの運営にかかわっていた40代の女性は、夏が来るたびにお父さんコーチと衝突したという。「プロになるとか最初から夢を持ってやる子が多い男子と違って、女子は間口が広い。ちょっとやってみようかなと始める子もいる。だからサッカーの楽しさを感じて続けてほしいのですが、夏に辞める子が1人か2人は必ずいる」 一度でも熱中症になると、それがトラウマになる。「サッカーをしたら、また頭が痛くなったり、息ができなくなる」と怖がって、辞めてしまうのだという。 そのような現実があるのに、コーチらはなかなか経験則を崩さない。 「暑いときにやらないと体力がつかない」「(暑さへの)耐性をつけなきゃ。頑張っていれば、暑くてもプレーできるようになる」・・・口々に反論されたという。自分たちも、似たような環境で頑張ってきたのだから、子どもたちにも強くなってほしいというわけか』、こんな馬鹿なコーチがには、子どもを止めさせるのも親の責任だ。
・『愛知県豊田市で校外学習中に熱射病にかかり死亡した小学1年生の男児は「疲れた」と漏らしてはいたが、ことのほか体調が悪いと訴えてはいなかったという。「その子の『疲れた』は、実は『死にそう』だったのではないか。大人が考えている以上に、子どもは実は我慢している気がする。特にスポーツで大人が子どもを服従させようとする態度であれば、子どもはそれに従おうとする」(前出の女性) 子どもが重要なことを我慢せずに言えるチーム。そうした空気、人間関係を大人たちがつくること。それが、熱中症などの事故を防ぐことにもつながるのだ』、その通りだ。
・『熱中症に関する知識不足は、少年スポーツを引率する大人たちをも危険にさらしている。都内、別のチームで少年野球にかかわる50代の母親は「自分の周囲では子どもが倒れたとは聞かないが、不摂生している大人がよく熱中症になる」と話す。 週末に残業したり、痛飲し、寝不足の体を引きずってグラウンドへ。炎天下で指導するのは体にこたえる。共働きが多いので、母親も同様だ。練習当番のお母さんが救急搬送されたこともある。 その母親の長男は数年前の8月、アメリカで行われた中学生の軟式野球大会に参加した。 「試合はすべてナイターだった。暑いときにスポーツをやるのはクレージーだと言われたそうです。日本の甲子園なんて、アメリカの人には信じられないでしょう」 真夏のスポーツをどうとらえるか。思考転換するときが来ているようだ』、夏の高校野球も含め、伝統とかこれまでのいきさつに囚われず、抜本的な思考転換が必要なようだ。
タグ:日本のスポーツ界 (その15)(日本人はなぜ「醜くても勝つ」より「美しく負ける」を好むのか、6歳を炎天下で走らせる 少年スポーツの実情 協会から通達が出ても、現場の大人たちは…) 中野 信子 現代ビジネス 「日本人はなぜ「醜くても勝つ」より「美しく負ける」を好むのか 日本人の脳に迫る⑤ 」 サッカーのW杯ロシア大会決勝トーナメントでベルギーに敗れ、史上初の8強進出をのがしてしまった日本 「“汚く”勝ち上がるよりも“美しく”負けるほうに価値がある」 顔の見えない人々の巨大な集合体からこうしたメッセージが暗黙裡に発せられ、それを変えることは難しい、という点がその危険性をより大きくしている 歴史上の人物で人気があり、くり返しくり返し物語として語り継がれて行くのは、多くは悲劇的に人生を終えた人たちです 国志であればやはり志半ばで病に斃れた諸葛孔明の人気が日本では高く 中華文化圏では関羽が絶大な人気を集め、関帝廟という形で祀られたりもしています 美を感じる脳の領域は前頭前野の一部、眼窩前頭皮質と内側前頭前皮質だと考えられています この部分は一般に「社会脳」と呼ばれる一群の領域のひとつで、他者への配慮や、共感性、利他行動をコントロールしている 美しい、美しくないという基準と、利他行動、良心、正邪、善悪等々は理屈の上で考えればまったく別の独立した価値なのですが、脳ではこれらが混同されやすいということが示唆されるのです 利他性、良心、正邪、善悪の領域があるからこそ、私たちは社会生活を送ることができます 社会脳 社会性を維持することは、他の生物種と比べて肉体的には脆弱で逃げ足も遅い霊長類にとっては死活問題であり、これを制したわれわれ現生人類が繁栄を享受してきたと言ってもいいでしょう 社会性を維持するには、各個体の持つ利他性を高め、自己の利益よりも他者または全体の利益を優先するという行動を促進させる必要があります ともすれば自分が生き延びるためにはなりふり構わず個人の利益や都合を優先するという生物の根本的な性質に反してまで、利他行動を積極的にとらせるために、脳はかなりアクロバティックな工夫をしているようです。 正邪、美醜、悪という基準を無理やり後付けにしてでも脳に備えつけ、正義、美、善と判定されたときに快楽物質が放出されるようにして、何とか人間を利他的に振る舞うよう仕向けているのです。個人ではなく、種として生き延びるための工夫と言ってもいいかもしれません 自分の利益、自分の勝利だけを優先して戦略を立てるという行動は、せっかく備え付けたこの性質に真っ向から反してしまいます。個の都合を優先し、明文化されていないにしても全体の暗黙のルールという社会性を破壊する行為をとるとは何事か、と糾弾されてしまうのです 自分の利益を追求するという行動を完全に止めてしまうと、今度は個体としての生存が危うくなります 、「利他行動を優先しろ」と他者には攻撃しても、自分の利益は優先できてしまう、という程度のゆるさで社会脳は設定されている 最後通牒ゲーム 拒否権を発動しやすいのが、実は利他行動を優先し続けるタイプの人たちです 興味深いのは、そのペナルティが相手にとってのペナルティになるだけでなく、自分の利益もゼロにしてしまうという点です 合理的な選択をするのであれば、拒否権は行使しないほうが良いのです コストをかけてでも、不公正な相手にペナルティを与えたい、という情動が強く働いたということにほかなりません 拒否権を発動する人たちの脳を調べて見ると、脳のある部分に存在するセロトニントランスポーターというたんぱく質の密度が有意に低いことがわかりました 日本人はセロトニントランスポーターの少ないタイプが世界でも最も多いというデータがあります 日本人は、自分が利益を失ってでも、不正をした 相手に制裁を加えたい、という気持ちが世界一強い民族である 島沢 優子 東洋経済オンライン 「6歳を炎天下で走らせる、少年スポーツの実情 協会から通達が出ても、現場の大人たちは…」 クーラーボックスをチームで持参していないという 6歳児の体には文字どおり過酷すぎる環境 試合中、ハーフタイムはそのまま子どもは日なたに立たせたまま 日なたで耐えるほうがすごいのだ」というような昔ながらの根性論 6年生の大会 見るからに熱中症の症状を見せていたが、ベンチに座ったコーチは逆にその子をしかり始めた。「やれないのか!」 怒られた子どもはシクシクと泣き始めた。交替させられたその子のところに飛んで行って氷で体を冷やし始めたのは、なんと対戦相手である男性のクラブのコーチたちだった 日本サッカー協会 「炎天下で無理にやらせないよう、熱中症に細心の注意を払ってほしい」といった旨の通達 「熱中症対策ガイドライン」を再度よく読むように 一度でも熱中症になると、それがトラウマになる。「サッカーをしたら、また頭が痛くなったり、息ができなくなる」と怖がって、辞めてしまうのだという 愛知県豊田市で校外学習中に熱射病にかかり死亡した小学1年生の男児は「疲れた」と漏らしてはいたが、ことのほか体調が悪いと訴えてはいなかったという 少年野球にかかわる50代の母親は「自分の周囲では子どもが倒れたとは聞かないが、不摂生している大人がよく熱中症になる」 アメリカで行われた中学生の軟式野球大会 試合はすべてナイターだった。暑いときにスポーツをやるのはクレージーだと言われたそうです
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