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驕る国会議員の暴走(その3)(ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ、小田嶋氏:杉田水脈氏と民意の絶望的な関係) [国内政治]

驕る国会議員の暴走については、2016年2月24日に取上げた。今日は、これまでタイトルにつけていた「自民党」を外して、(その3)(ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ、小田嶋氏:杉田水脈氏と民意の絶望的な関係)である。

先ずは、6月19日付け日刊ゲンダイ「ここがおかしい 小林節が斬る! 特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/231444/1
・『国会議員の職務の本質は、本来的に利害の対立と矛盾が存在する全国民の間に国家権力を用いて国家の有限な資源を強制的に配分する作業に参加することである。だから、議員を選出するシステムは全ての国民にとって「公平」であることが求められている(憲法14条、44条)。 そういう観点から、特に自民党内に多数存在するいわゆる「世襲」議員が法の下の平等に反するのではないか? と問題にされてきた。それに対して、世襲議員にも参政権はある(憲法15条)し、現に選挙で当選し民主的正当性があるとして、「逆差別」であると反発する向きもある。 しかし、世襲議員が不当な存在であることは明白である』、根拠は以下の2点。
・『まず、選挙とは、事実として、莫大な費用と人力が必要な事業である。だから、志と能力はあっても無名の新人が立候補(人権行使)をしようと考えても、落選した場合の経済的・社会的損失を考えたら、容易に立候補できるものではない。その点、世襲議員は、いわゆる「地盤」(集票組織)、「看板」(知名度)、「鞄」(選挙資金)が先祖伝来で揃っており、ほぼ確実に当選できる上に、落選しても生活は守られている。だから、世襲議員は、大きな権力を共有する地位を容易に入手・維持できる特権的な立場にある。つまり、憲法が禁じる「門地」(家柄)による差別(14条、44条)である』、なるほど。
・『さらに、世襲議員にはもうひとつ本質的な問題がある。それは、世襲議員の「貴族」化である。中世、近代の階級社会の悲惨な体験を経て、人類は、階級のない社会に到達して現在に至っている。人間の平等と民主政治である。そこで、議会は当然に多様な国民各層の公平な縮図でなければならない。ところが、世襲議員は代々の特権階級の中で育った人間になってしまっており、これは公知の事実である。 多くの世襲議員と近くで接して痛感することは、彼らは庶民の感覚が分からない……という致命的な事実である。国民の最大多数の最大幸福を追求すべき議会の構成員の多数が庶民感覚を欠いていては、議会が正しく機能するはずがない』、「世襲議員の「貴族」化」とは言い得て妙だ。現実には世襲議員が自民党でかなりの勢力を占めているので、法律面での規制は望み薄だ。頼りない選挙民の良識に期待するしかなさそうだ。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が7月27日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「杉田水脈氏と民意の絶望的な関係」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/072600152/
・『今回は、自民党の杉田水脈衆議院議員が「新潮45」に寄稿した文章と、その記事がもたらした波紋について書くつもりでいる・・・ツイッターを眺めながらあれこれ考えていた内容を、なるべく考えていた道筋通りに書き起こすことができればよろしかろうと考えている。というのも、当件に関する私の見解は、必ずしも一本道の結論に沿ったクリアな言説ではなくて、いまもって揺れ動いている現在進行系のカオスだからで、私としては、自分のアタマの中にある混乱した言葉は、できる限り混乱をとどめた形のままでお伝えした方が正直な原稿になると愚考している次第なのだ』、なるほど。
・『最初に、ツイッター上でやりとりされている論争をひと通り眺めて、例によって議論が空回りしている印象を持った。なので、手元にある「新潮45」の当該記事をあらためて読んでみた・・・読了してはじめに抱いた感触は「なるほどね」という感じの、シラけた気分だった。 人権感覚を欠いた内容に驚愕した……と書いても良いのだが、正直なところを申し上げるに、私は驚かなかった。 なぜというに、「新潮45」8月号に掲載されていた杉田水脈議員の小論は、あまりにもカタにハマった差別意識と偏見の寄せ集めで、この種のご意見は、少なくとも2ちゃんねる(いまは5ちゃんねると言うらしいですね)の周辺をウロウロしてきた人間にとっては、20年来さんざん見せつけられ続けてきた定番の文言以上のものではないからだ』、その通りなのだろう。
・『私がむしろ当惑を感じたのは、議員の文章に対してよりも、雑誌の編集姿勢についてだった。 具体的に申し上げるなら、当該の発売号をパラパラとめくりつつ 「おいおい、『新潮45』は、ついにこのテの言論吐瀉物をノーチェックで載せる媒体になっちまったのか」と、少しく動揺せずにはおれなかったのである。 というのも、「新潮45」は、私自身が、2012年以来なんだかんだで7年にわたって連載陣に名を連ねている媒体で、言ってみれば慣れ親しんだ自分のホームグラウンドでもあるからだ・・・私自身、2年ほど前から、同誌の目次に並んでいる文言が、月を追って異様さを加えていく変化の様相に気づいていなかったわけではない。毎度毎度、いったいどこまで行くものやらと、不安を感じていた。 で、手をこまねいてうじうじ心配しているうちにここまで来てしまったわけです。 今回、ことここに至ってあらためて感じるのは、活字に関わる人間であるわれわれの無力さと、世間を吹く風の凶暴さについてだ。 この10年ほどの間に、私がかかわっていた紙の雑誌のうちの半数以上は、すでに廃刊に追い込まれている。なんとか生き残っているかに見える媒体の多くも、ページを開いてみると、5年前とは別の出版物に変貌している。「新潮45」について申し上げるなら、私の目には、同誌が目指している未来は、雑誌という媒体が生き残ることを許されない社会であるように見える。どうして自らの死を目指すのか、その理由は私にはわからない。 が、ページを作っている人たちにしてみれば、雑誌を殺した先に何らかの未来が見えている、ということなのかもしれない。どっちにしても、行き着くところまで進んでみないと答えは出ないのだろう』、確かに「新潮45」の最新号を見てみると、もはや小田島氏が登場する余地がないほどの右傾ぶりだ。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/
・『杉田議員は、8月号の記事の58ページから59ページにかけて、こう書いている。《例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要綱を発表するたびにもてやはすマスコミがいるから、政治家が人気取り政策になると勘違いしてしまうのです。》 ネットの反応では「一読してあきれた」「論外の主張」「ナチスと変わらぬ優生思想そのもの」という感じのコメントが大勢を占めている。有識者と呼ばれる人々も、異口同音に、杉田議員の「生産性」発言の非人道性に苦言を呈している。 私も同感だ。 そもそも、生きている人間に対して「生産性」という言葉をあてはめにかかる用語法自体がどうかしている。 生産性というのは、工業製品の生産管理の場面で使われるべき言葉であって、生きた血の流れているものには、たとえ犬や猫に対してでさえ決して適用してはいけない言葉だ』、正論である。
・『杉田議員の場合、生産管理用語を人間にあてはめていることだけでも人権感覚を疑われてしかるべきところなのだが、彼女はさらに「生産性のないLGBTには、税金を使うべきではない」という意味のことを書いてしまっている。つまり、彼女は、LGBTの人々に対して「生産性」という尺度で異端視するだけでは足りず、税金の費消先から排除するべきである旨を宣告してしまっている。 論外。完全にアウトですね。  こんな人物が現職の国会議員であって良いものなのだろうか……というタイプのお話は、きりがないのでこのへんでおしまいにしておく。 8月号に載っている彼女の原稿を逐語的にここに引用して、いちいち反論・・・今回はそれはしない。 理由は、空しいからだ。 杉田議員の主張は、たしかに、一から十まで間違っている。人権感覚は皆無だし、差別意識を隠そうともしていないし、なにより自分と相容れない人間を理解しようとする姿勢があまりにも乏しい』、なるほど。
・『私が今回、この話題を取り上げようとしたのは、杉田議員の主張を論破するためではない。彼女を叱りつけるためでもない。 むしろ逆かもしれない。 私は、杉田水脈氏の考え方が、「異様」で「異例」で「極端」で「他に例を見ない稀有な思想」なのかというと、実はそうでもないのだと思っている。 同じような考えを持っている日本人は、残念ながら少なくない。 であるから、私が当稿の中で読者にお伝えしようとしているのは、むしろ、杉田水脈議員が「新潮45」に寄稿した記事中で展開しているどうにも酷薄で低次元で短絡的な優生思想丸出しの前近代的な主張にシンパシーを感じている日本人は、決して少数派ではないのですよということだったりするのだ。 彼女が常日頃繰り返しているスパルタンな主張のうちの少なくとも一部分について 「じっさいその通りだよね」という感想を抱いている日本人ののべ人数をカウントしたら、おそらく、多数派になるはずだ。 だからこそ、自民党の二階俊博幹事長は24日の記者会見で 「人それぞれ政治的な立場、いろんな人生観、考えがある」と述べて、彼女の発言を問題視しない旨を明らかにしたのである。 二階幹事長のこの措置について、「国民を舐めている」「適当にお茶をにごしていれば、じきに沈静化すると思っている」「人権侵害の内容があまりにもひどすぎるので、かえって問題にできずにいる」 などと言っている人たちがいるが、私は違うと思っている。 二階幹事長が杉田議員の発言を大筋において容認しているのは、「彼女の見解こそが自民党支持者の大勢を占めるサイレントマジョリティー層の総意だから」だ。 認めたくない事実ではあるが、杉田水脈議員の発言は、あれは、「民意」なのである。 それゆえ、もし仮に自民党の執行部が、杉田議員を処分なり追放するなりしたら、かえって自民党は「民意」を失うことになりかねないと、かように考えて、二階幹事長は彼女をお咎めなしのまま放置しているのだ。 彼女のような議員は、自民党支持者の中にかなりの割合で含まれるあるタイプの人々の内心を代弁する存在として、それなりに貴重なのだと思う。今回の失言にしても、多くの党員ならびに議員はそもそも問題視すらしていないはずだ』、二階幹事長発言の意味がようやく理解できた。ここまで深く掘り下げて考察するとは、さすがだ。
・『杉田議員の「生産性発言」が炎上している同じ頃、ツイッターのタイムラインに 《6歳の日本人を22歳にする16年間にかける予算より、75歳の日本人を91歳にする16年間にかける予算のほうが大きかったらどうしよう。》というツイートが流れてきた。 このツイートを発信したのは、杉田議員よりはずっと知的で穏当なアカウントで、ふだんから偏見を垂れ流しているような人ではない。 ツイート自体も、直接に老人の「非生産性」を攻撃しているわけではない・・・全体としては、一種の「思考実験」であって、特定の主張を言い募るアジテーションではない。 だから、私は、このツイートを発信したアカウントを批判しようとは思っていない』、なるほど。
・『ただ、個人的には、このツイートの底に流れている思想は、杉田水脈議員がLGBTの「生産性」について言及した記事の中の思想とそんなには違わないものだとも思っている。いずれも人間を「生産」なり「経済活動」なり「労働力」なりといった社会的な尺度に沿って「測定」することを前提としたものの言い方で、根底には「コストパフォーマンス」「費用対効果」「歩留まり」といった、生産管理思想に結びつく視点が含まれている。 そして、この種の片言隻句は、だからこそ人気がある。 私たちが暮らしているこの国には、病弱だったり老齢だったり性的に少数派だったり思想的に異端だったりするいずれにせよ「普通でない人たち」が駆逐されたり、排除されたり、隅に追いやられたりすることを、人権侵害や弱者への迫害とは考えず、むしろ「社会の健全化に寄与する行動」ないしは「正しい淘汰の過程」と考える人たちが一定数存在している。 あるいは、彼らは、「人権」や「社会的包摂」を言い立てる人たちに比べて多数派であるのかもしれず、だからこそ、「人権」という言葉を口にする人間がいろいろな場所で煙たがられる空気が広まっているのかもしれない。 ともあれ、この子供と老人への予算配分ついて考察したツイートは、原稿執筆時点で5921回RTされており、9845件の「いいね」がつけられている。 それだけ多くの人々が、高い評価を与えたということなのだと思う。 このツイートの背景には、おそらく、21世紀になってから流行語のようになっている「経営者目線」という言葉の影響がある。 経営者目線という言葉に込められているのは、おそらく、個人の近視眼的なものの見方を離れて、「マクロ」な視点からものを見ることの大切さを訴える思想なのだと思う。 で、経営者目線で、自分の身の回りを捉え直すことを学習している人々は、「マクロで」ものを見ている自分の視点を、「個人的なエゴから離れた」公正な観察であり、さらに言えば、ベタついた感傷を排した「冷徹」な評価であると自負していたりするのだろう』、言われてみれば、「経営者目線」的な見方は確かに広がっているようだ。
・『それが間違っているというのではない。 ただ、「経営者目線」は、結局のところ 「そんなこと言ったって、みんなが定時で帰ったらうちの会社はどうなると思う?」「全員が定時退社して経営が傾いたら、それこそワークライフバランスだのを言う以前に、オレら全員失業者になっちまうんじゃないのか?」 といった「個」をかえりみない上からの目線の強制に落着しがちなもので、運用次第では 「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」式の国策標語精神とそんなに遠いものではなくなる。そこのところに私はうんざりしている・・・結論を述べる。杉田議員の主張は、言葉の使い方こそ無神経ではあるものの、日本の「民意」を代表する言説のひとつだ。だからこそ、私は、絶望している』、「「経営者目線」が「個」をかえりみない上からの目線の強制に落着しがちなもので、運用次第では 「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」式の国策標語精神とそんなに遠いものではなくなる」との指摘は、目からウロコだ。確かにそうした危険性があることは否定できないので、これから心してゆきたい。
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