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驕る国会議員の暴走(その5)(小田嶋氏:「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか、原田 隆之氏(犯罪心理学):「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理) [国内政治]

今日まで更新を休むと予告したが、今日は、驕る国会議員の暴走(その5)(小田嶋氏:「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか、原田 隆之氏(犯罪心理学):「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理)を取上げよう。なお、このテーマは8月13日に取上げた。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が9月21日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/092000159/?P=1
・『「新潮45」の特集記事がまたしても炎上している・・・以下、炎上に至った事情を簡単にまとめておく。  今回の騒動の前段として「新潮45」8月号に、自民党の杉田水脈衆議院議員が寄稿した記事(「生産性のない」LGBTへの優遇が行き過ぎであることや、LGBTへの税金の投入を控えるべきであることなどを訴えた小論、タイトルは「『LGBT』支援の度が過ぎる」)が各方面から批判を浴びた件がある。これについては、7月の時点で小欄でも記事を書いているので参照してほしい(こちら)。 「新潮45」今月発売号(10月号)が、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という「特別企画」を組んで計6本、総ページ数にして37ページ分の擁護記事を掲載した。 この特集記事に各方面から批判が集まった。  新潮社の出版部文芸の公式ツイッターアカウントが、「新潮45」発売日である9月18日の直後から、同編集部への苦言や、杉田論文批判への反論記事への批判を次々とリツイートしはじめる(こちら)。 新潮社の公式アカウントの行動に、岩波書店、河出書房新社などのツイッターアカウントが連帯の意図を表明し、さらに波紋が広がる(こちら)。 現時点で私が把握しているのは、こんなところだ』、新潮社も公式アカウントはまともなようだが、統一した行動を採らないのは、いかにも雑誌社らしい。
・『私の個人的な立場を説明しておく。基本的な感想は、7月27日更新の記事に書いた内容とそんなに変わっていない。杉田論文が「論外」で、「お話にならない」という見方に変更はない。前回の記事中で私がとりあえずの結論として提示した「杉田論文が陋劣かつ凶悪であることはもちろんだが、それ以上に自分を絶望的な気持ちにさせているのは、杉田議員が論文の中で展開してみせたのと同じ『生産性』を至上とする市場的な人間観を抱いている日本人が、決して少数派ではないように見えることだ」という認識も基本的には変わっていない。大切なのはこの点だ』、なるほど。
・『問題は杉田論文が陋劣で邪悪で低レベルなことではない。主たる問題点は、杉田論文が大変に人気のあるご意見であるというところにある。つまり、真の脅威は、杉田論文ではなくて、論文の背景にある巨大な勢力だということだ。 おそらく、「新潮45」の編集部には、「杉田議員の論文に共感した」「あの記事には間違いなんかない」「周囲の雑音にひるまずに今後も思うところをまっすぐに主張してほしい」といったような電話やメールがそれなりのボリュームで寄せられたはずだ。 だからこそ、編集長は、批判への反論特集などという無謀極まりないガソリン散布企画を発案するに至った……と、おそらく、事情は、そういうことだ。 実際、ネット内をちょっと巡回してみれば、杉田論文の正しさを訴える言説はいまだに衰えていない。 それほど、彼女の主張には根強い人気がある。 というよりも、杉田水脈氏があの論文の中で開陳していた世界観ならびに人間観は、現代の日本人のマジョリティーの意見でこそないものの、一方の声を代表する典型的な見解ではあるわけで、つまるところ、われわれはそういう国の国民なのである』、「ガソリン散布企画を発案するに至った」事情の解明はさすがだ。
・『杉田論文のどの部分がどんなふうに間違っていて、どのように有害であるのかについては、7月の記事でもある程度書いたし、私以外のたくさんの優れた論客が様々な場所で、完全に論破し去っていることでもあるので、ここでは、あえて蒸し返さない。 杉田論文への批判に再反論してみせた小川榮太郎氏の記事をはじめとする「新潮45」10月号の特集企画の中の記事群が、どれほどちゃんちゃらおかしくて馬鹿げているのかについても、あえてくだくだしく論じようとは思っていない。 理由は、それらが「反論が論敵の利益になる」ほどに、馬鹿げた議論だからだ。 以下、「反論が論敵の利益になる」事情について解説する。「反論さえもが論敵の利益になる」議論の例として、たとえば、「ホロコーストは存在しなかった」という定番のデマがある。この種の、立論の根本のところが完全な虚偽で出来上がっている話題では、発信力のある人間が論争に巻き込まれること自体がホロコースト否認論者の利益になる。というのも、論争をしているということがそのまま「ホロコーストの存在には議論の余地がある」ことの宣伝として利用され得るからだ。 なんというのか、本来議論の余地などひとっかけらもありゃしない問題について論争してしまっている時点で、「そこに議論の余地がある」ことを認めていることになるのである。この罠にハマってはならない。 ホロコースト否認論者や、関東大震災後の朝鮮人虐殺の存在を否定する人々は、機会をとらえてはフォロワーの多いアカウントに議論をふっかけてくる。この種の煽りに乗せられるのは、愚かなリアクションだ。 彼らにしてみれば、相手を論争に引っ張り込むことができさえすれば、たとえ完膚なきまでにやりこめられる結果になろうとも、一定の利益を享受できる。なぜというに、論争を眺めている見物人の中には、あっさりやりこめられている側に共感するタイプの人間もいれば、容赦なく他人を論破する論者に反発を感じるアカウントもそれなりには含まれているもので、そういう人々を幾人かでも味方に引き入れることができれば、はじめから論争が起こらないよりはずっとマシだからだ』、「反論が論敵の利益になる」とはさすが深い読みだ。
・『ともかく、そんなわけなので、杉田論文を擁護している程度の低い論客を相手に議論をすることは、なるべくなら避けたいのだが、それでも、小川榮太郎氏の記事には、一言だけ反応しておく。理由は、単純な話、腹が立つからだ。いくらなんでも、ここまで低劣だと、読んでしまった人間の感情として黙って通り過ぎるわけにはいかないということだ。全編を通じて、性別や染色体や性指向などなど、高校の生物の授業以前の事実誤認がちりばめられていることもさることながら、この人はなによりもまず「性的指向」と「性的嗜好」というLGBTを語る上での、最も基礎的な概念について、きちんとした区別がついていない。 あるいは、LGBTの人々をあえて「変態性欲」のレッテルのもとに統合するべくこの2つの概念を混同してみせているのかもしれない。 いずれにせよ、あまりにもレベルが低い。特に以下の引用部分はとてつもなくひどい。《---略--- LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものだというのなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。ふざけるなというヤツがいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからです。満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保証すべきではないのか。触られる女のショックを思えというのか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどのショックだ。精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。---略---》・・・この部分は、説明抜きで、そのまま引用してみせるだけで、そのひどさが伝わるパラグラフだと思う。性的指向と、性的嗜好の区別がついておらず、さらには性的嗜好と変態性欲を意図的に同一視し、おまけに、LGBTと痴漢を同じカテゴリーの概念として扱い、かててくわえて、性的にマイノリティであることを意図的な犯罪者と同一視している。 さらに言えば、女性が痴漢に触られた時に感じる被害感情を、小川氏がLGBTが論壇の大通りを歩いている風景を見る時に感じる「死ぬほどのショック」とやらと同列に並べている。 あまりにもひどすぎて論評の言葉が見つからない。こういうものは、ひどさを伝えるためには、ただ、虚心に読んでもらうのが一番良い。だから、これ以上は何も言わない』、小川榮太郎は、民主党政権下で、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を結成、安倍を総理に復帰させる戦略を大局から細目へと立案した20ページほどの戦略プランを立て、下村博文を通じて安倍に渡ったと話している(Wikipedia)、ほどの右派的言論人である。それにしても、お粗末な論理だ。
・『ツイッター上で話題の焦点は、すでに記事の内容のひどさを離れて、「新潮45」編集部の掲載責任の如何に移っている。 たしかに、記事の凶悪さと醜悪さは、もはや誰が指摘するまでもない水準にある。とすれば、むしろ、こういう記事を載せてしまった編集部の責任を問う動きは当然の反応として出てくるはずだ。 ただ、私は、今回の騒動の焦点は、編集部が差別的な記事を載せたことそのものとは、少し違う場所にあるのではないかという気がしている。 「新潮45」の8月号に杉田論文が掲載された時、さるTV番組にコメンテーターとして出演していた同誌の元編集長でもある女性が、論文の掲載について意見を求められて、おおよそ以下のようなコメントを残している。「杉田議員の発言はとんでもないと思うが、議員の発言を批判することと雑誌を問題視するのは別問題で、筋違いだと思う」「雑誌というのはもともと雑多な意見を載せて、議論の場を提供する役割を担っているものだ」 私は、この名物女性編集者の見解を、必ずしも全面的には支持しない。ただ、この人の言っていることが、多くの雑誌関係者がそう思っているに違いない現場の本音であることは理解する。 雑誌は、そもそも雑なものだ。掲載したテキストについていちいち責任を問われたのでは、編集者はやっていられない。そういう部分はたしかにある。 事実、杉田論文はひどい文章だった。今回の擁護の記事群も輪をかけてひどい。 ただ、単に「ひどい」とか「差別的」だという話をするなら、ひどい記事は、これまでにもたくさんあった。その気になって探せば、他誌の中にも差別的な記事はゴロゴロ転がっている。 一例を挙げれば、「新潮45」よりもはるかに発行部数の多い「週刊新潮」で連載中の「変見自在」という1ページコラム(筆者は高山正之氏)は、毎度毎度杉田論文並みに乱暴だし、時には小川榮太郎記事も真っ青な差別的文言を撒き散らしている。 2年ほど前だったか、同コラム内に「帝王切開で産まれた子は人格的におかしくなるという説がある」という話から始まるとんでもない記事が載ったのを覚えている。この時は、さすがに同じ雑誌内で別のコラムを連載している川上未映子さんが、真正面から批判記事を書いていた。ただ、この時は、川上さんが誌上で取り上げて、幾人かのツイッターユーザーがそれを話題にした程度で、たいした炎上にはならなかった。 ことほどさように、差別的な文章が、必ず炎上しているわけではないことを思えば、今回の杉田論文が特別に炎上したことを、雑誌の関係者が素直に受け止めきれずにいることには、ある程度仕方がない部分がある』、なるほど。
・『では、どうして杉田論文はあれほど大きく炎上したのだろうか。また、それを擁護した小川榮太郎記事は、さらに大きく炎上しているのだろうか。以下、私の考えを述べる。杉田論文はなるほど差別的だった。ただ、誤解を恐れずに言えば、あの程度の差別的テキストは、そこいらへんの雑誌を丹念にめくってあるけば、そんなに珍しくない頻度で遭遇する程度のものでもある。 その、標準的に差別的な原稿が炎上したのは、まず第一に、書き手が国会議員だったからだ。実際、同じ差別的言辞でも、そこいらへんの頑固親父ライターが署名連載コラムの中で書き飛ばすのと、国会議員が月刊誌に寄稿するのでは発信する情報の意味あいが違う。 しかし、それだけでもない。ここから先が、杉田案件の肝だ。結論を述べる。私は、杉田論文があれほどに燃えたのは、あれが「総理案件」だったからだと考えている。つまり、あの論文を書いたのが、安倍晋三首相のお気に入りの女性議員で、一本釣り同様の経緯で地方ブロックの比例第一に配せられた特別扱いの議員だったことこそが、見逃してはいけない背景だということだ。 杉田議員は、様々な場所で総理の内心を代弁する役割を担ってきた議員だった。だからこそ、あれを読んだ勘の鋭い読み手は、行間に見え隠れする総理の顔に、慄然とせずにおれなかったのである。「もしかして、安倍さんって、こんなことを考えてるわけなのか?」と直感的にそう感じた人々が、ある意味過剰反応した、ということだ。 経緯を振りかえってみるに、あの論文がさんざん批判されて問題視された直後、自民党内の反応は、何かを恐れているみたいに異様に鈍重だった。二階幹事長が「この程度の発言で、大げさな」とすぐに擁護したのも、杉田議員が首相のお気に入りであることを踏まえた反応だと思うし、永田町の自民党本部前まで抗議に訪れたLGBTの団体の抗議声明を手渡そうとした時に、なぜなのか、担当の事務員が文書の受け取りを拒絶したことも、いまになって考えてみれば、当件が、ただの抗議事案ではなくて、「総理案件」だったからだと考えると辻褄が合う(こちら)』、杉田議員が「安倍晋三首相のお気に入りの女性議員で、一本釣り同様の経緯で地方ブロックの比例第一に配せられた特別扱いの議員だった」というのは初めて知ったが、筋が通る話だ。
・『その後、多方面からの苦情や抗議がさらに殺到したが、党の執行部は杉田議員を一向に処分しようとしなかった。つい2日ほど前、安倍首相は、石破茂氏とともに出演したテレビ番組の中で、自らの言葉で杉田議員を擁護する姿勢を明確にしている。首相は、番組の司会者の「(杉田氏は)謝罪も撤回もしてませんよね? そして党としても処分していない」という問いかけに対して、こう答えている。《私の夫婦も残念ながら子宝に恵まれていません。だからと言って「生産性がない」というと大変辛い思いに、私も妻もなります。政治家というのは、自分の言葉によって人がどのように傷ついていくかということについては、十分に考えながら発言をしていくべきなんだろうと思います。私たち(は同じ)自民党ですから「あなた、お前、もうやめろ」というわけではなく、まだ若いですから、そういうことをしっかり注意しながら仕事していってもらいたいと、先輩としてはそういう風に申し上げていきたいと思います。》(こちら) 首相は、「自分たち夫婦も大変に辛い思いをしている」と、被害者のポジションに立ってみせつつも、最終的には杉田議員の不注意な発言をかばっている。 理由は、彼女が「まだ若いですから」ということにしているが、杉田水脈議員は現在51歳である。比較的年齢層の高い議員が多いと言われる自民党の中でも、特段に若手というわけではないと思う。それでも、「若い」からと、安倍さんがなんとか杉田議員を擁護したのは、つまるところ、彼女が、自分自身の内心を代弁する存在だから切るに切れないのではないか。 「新潮45」の編集長が、世間からの圧倒的な逆風をものともせずに真正面からの反論企画掲載に打って出た理由も、結局のところ、杉田論文が「総理案件」であることにある程度気づいていたからで、要するに、編集長氏は、この反論企画が必ずや首相に気に入られることを知っていたはずなのだ。特集の執筆陣も同様だ。小川榮太郎氏は、肩書こそ文芸評論家ということになっているが、ググるなりウィキペディアを閲覧すればわかる通り、そもそも安倍首相の関連書籍が仕事の大半を占める書き手だ。 ということはつまり、このお話ははじめから最後まで総理案件で、反発している人たちが騒いでいる理由も、単に差別的だからという理由でもなければ、掲載責任や出版人としての良心がというお話でもなくて、この薄気味の悪い生産性差別物語の背後に、一貫して総理のご意向が見え隠れしていたからなのだ、と考えられる。 私自身、差別的なライターが差別的な文章を書いた程度のことで、いちいち驚いたりはしない。700人からいる議員の中に、明らかな差別思想を抱いているらしい人間が幾人か混じっていることにも、いまさら驚かない。ただ、もし仮に、総理大臣の職にある人間が、杉田論文を問題視しない考えの持ち主であったのだと考えると、やはり平静ではいられない。 とはいっても、やや長めのため息を吐き出す程度のことだ。息を吐いた後は、大きく息を吸う。私は大丈夫だ。目は泳いでいない』、「この薄気味の悪い生産性差別物語の背後に、一貫して総理のご意向が見え隠れしていた」というのは、その通りなのだろう。最後の部分は、微笑んでしまった。

次に、心理学の観点から、筑波大学教授(犯罪心理学)の原田 隆之氏が9月21日付け現代ビジネスに寄稿した「「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理 議論によって正すのは難しいが…」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57600
・『杉田水脈議員の「『LGBT支援』の度が過ぎる」という記事を掲載した雑誌「新潮45」が、激しいバッシングに対抗すべく、今度は杉田擁護の特集を組んだ。 当の雑誌が発売になるや、ネット上ではさまざまな批判があふれ、私のところにも早速「読みました?」というメールやSNSのメッセージがいくつも寄せられた・・・新幹線の車内で目を通してみた。一言でいうと、論評にも値しないような、くだらない記事の寄せ集めだった。 聞いたこともないような評論家や、存在するのかどうかも怪しいような匿名の「LGBT当事者」などが、好き勝手殴り書きをしたかのようなお粗末な内容であった。 「新潮45」は、何をそんなに必死になって杉田議員を擁護するのか。いろいろ憶測できることはある。たとえば、最近の日中、日韓、果ては日朝までもが雪解けムードのなか、自民党のコアな支持層である右派の人々が政権に対する不満を募らせているところ、そのガス抜きとして、あるいは鉄砲玉のような存在として、杉田議員の存在はそれなりに重宝なのだろう。 いささかキワモノではあるが、「一部」の世界ではそれなりの支持を集めていたと聞く。 しかし、そういう存在としての杉田を擁護したいという目的があったにせよ、集まったのはスカスカで中身がないばかりか、さらに批判や嫌悪を呼び起こすような論文(?)ばかりで、果たしてこれで目的が達せられるのか、逆効果じゃないかと思えるほどだ。 また、炎上商法が目的だったとすれば、相当タチが悪い。目的のためには手段を選ばずというのを言論機関がやってよいものなのか。 とはいえ、この程度の筆者、この程度の記事しか集まらなかったところに、本は売れたとしても、その負け戦は如実に表れている。 一方、新潮社の文芸部が、「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という創立者の言を引きながら、各方面からの批判的ツイートをリツイートしていることには心を動かされた。  そもそも、醜悪なヘイトスピーチとも取れる偏見に満ちた文章を垂れ流すのは、言論の自殺行為だ。それに対する内部からの批判は、真っ当な自浄行為である。 私は、杉田議員の発言には「現代ビジネス」上で批判をしながらも、その発言を封殺するような行き過ぎたバッシングには警鐘を鳴らした・・・しかし、当の杉田議員は、騒動の後、まったくといっていいほど表舞台には現れず、何の発言もしていない。言いたいことだけを一方的に放言しそのあとはほとぼりが冷めるまで引きこもっているというのは、国会議員として無責任な態度であるし、姑息である。そしてこの再びの騒動で、彼女の無責任な引きこもりは、ますます長くなるだろう』、新潮45が炎上商法を狙ったとは、大いにあり得る話だ。
・『偏見に満ちた特集記事  中身のない文章の寄せ集めとは言ったが、どの記事にも「偏見」があふれていることだけは確かである。 たとえば、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤田信勝副会長は、杉田の用いた「生産性」という言葉に批判が集まっていることを取り上げ、杉田氏は「子どもを持たない、もてない人間は『生産性』がない」などとはどこにも書いていない。杉田氏は「子供を持たない、もてない人間」一般のことなど論じていない。と述べている(物書きならば、漢字表記くらい統一してほしいものだ)。そして、そのすぐ後に、LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置づけられる、というだけのことだ。と書いている。もう何が何だか支離滅裂だ。「杉田は生産性がないなど言っていない」と述べながら、そのすぐ後に「杉田は生産性がないと言った」という引用をしているのだから、わけがわからない。それに、もちろん誰も杉田は、「子どもを持たない人一般」のこと論じているなどとは思っていないし、子どものない人々一般を貶めたといって批判されているのではない。「LGBTには生産性がない」と言ったことが批判されているのだ。このピンボケぶりには呆れるほかない。さらに、「『生産性』という言葉は、マルクスも上野千鶴子も使っている。デモ隊は上野の事務所にも回らなければならなかったはずだ」などという幼稚な議論に至っては、子どもの喧嘩かと思うほどの論理の粗雑さだ。 しかし、これでもまだましなほうで、ネット上でも恰好の「ネタ」にされているのは、小川榮太郎という人(文藝評論家と書いてある)の記事だ。そこでは、「テレビで性的嗜好をカミングアウトする云々という話を見る度に苦り切」ると述べながら、その本人が「私の性的嗜好も曝け出せば、おぞましく変態性に溢れ、倒錯的かつ異常な興奮に血走り、それどころか犯罪的であるかもしれない」などと、聞きたくもない「カミングアウト」をしている始末である。まず、彼の記事は基本的な無知にあふれており、たとえば「性には生物学的にXXの雌かXYの雄しかない」(XXYやXYYもある)、「(トランスジェンダーについて)こんなものは医学的、科学的概念でもなく、ましてや国家や政治が反応すべき主題などではない」(れっきとした医学的、科学的概念である)、「ましてレズ、ゲイに至っては!全くの性的嗜好ではないか」(この人の変態趣味とは違って、これらは嗜好ではなく「指向」、生物学的な方向性であり、生き方の問題でもある)、など数え上げればきりがない。 素人がいい加減な知識を基に書くからこうなるのであって、一言でいえば、醜悪な偏見の寄せ集めである。 また、ウケを狙ったつもりなのかどういうつもりか、次のようなことも書いている。LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。満員電車に乗ったときに女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。(中略)彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。 面白くもなんともない。レトリックにもなっていない。ただただ不快でしかない。性的指向や同一性の問題と性犯罪を同列に扱って、揶揄するところに、彼の深刻な偏見があからさまになっている。 あまり、長々と引用しても馬鹿らしいので、これくらいにするが、一事が万事この調子である』、確かにこんなお粗末な文章が月刊誌に堂々と掲載されたことに、驚かされる。
・『偏見の心理  それにしても、人はなぜこうも差別的で、平気で人を傷つけたり、貶めたりできるのだろうか。これらの醜悪な記事を読んで、心理学者としての私の興味関心はそこに至る。 その名も『偏見の心理』という心理学の古典的名著を著した心理学者、オルポートは、「偏見とは、基本的にパーソナリティの問題である」と述べている。また、ナチスになびいた人々のパーソナリティを研究したアドルノは、「権威主義的パーソナリティ」がその根本にあったと分析した。権威主義的パーソナリティとは、伝統主義、権威主義、弱者への攻撃性、強者への服従を特徴とするパーソナリティである。マイノリティを貶め、体制におもねる人々の姿は、まさに権威主義的パーソナリティそのものである。 最近の理論では、ダキットによる「偏見の二重プロセスモデル」がある。これは、パーソナリティだけでなく、社会的態度というものを介して偏見が作り上げられるプロセスを説く。そこで焦点が当てられる社会的態度には、「集団的優越感」「集団的凝集性」「集団的安心感」といったものがある。日常的な言葉に置き換えると、マジョリティ集団に属している自分に優越感を抱き、その集団にすがることで安心感を得ているため、マイノリティや革新的な人々は、自分の安心・安全を脅かす者ととらえ、偏見を抱くだけでなく、攻撃的になる。これが偏見のプロセスである。しかしその実、「集団」にしか自分の拠りどころのない彼らは、「個」としての自律性がなく、個人的なアイデンティティが未熟である。たとえば、「私は日本人である」「私は男である」「私は普通である」などというアイデンティティは、いずれも集合的なアイデンティティである。このように、ある集団に属していることでしか自分を定義できない者は、その集合的アイデンティティに優越感を抱くことでしか自分に自信を持てない。 したがって、ことさらにその集合的アイデンティティを強調する。そして、その集団に属さない人々、上の例だと外国人や女性、「普通でない人」などを貶めたり、攻撃したりする。ただ、個人では何もできないし、何も自分を定義するものがない』、さすが心理学者らしい。「集団的優越感」「集団的凝集性」などは、日本人に起こり易く、特にネット右翼の中国や韓国に対する態度にも当てはまりそうだ。
・『最新のデータからわかること  さらに新しい研究として、シブリーとダキットは、現代パーソナリティ理論のなかで最も支持を集めている「ビッグファイブ・モデル」を用いて、膨大なデータをもとに偏見の心理を分析している。ビッグファイブ・モデルとは、人間のパーソナリティを5つの次元の組み合わせで説明しようとするもので、その5次元とは「神経症傾向」「外向性」「開放性」「誠実性」「協調性」である。 神経症傾向:ストレスに過敏で、不安や緊張が高い。神経質。外向性:興味関心が外の人や物に向けられている。積極性、社交性、陽気さ。開放性:新しい経験にオープンで、新しいものを取り入れる。好奇心、想像力。誠実性:真面目で計画的。責任感がある。勤勉、自己規律的。協調性:利己的でなく、他者のことを思いやれる傾向。やさしさ、共感性。 偏見を抱きやすい人は、開放性と誠実性が低く、神経症傾向が高いという傾向が共通していたという。つまり、因習的で、新しいもの、奇抜なものに対して不寛容で、それは神経質で不安定な彼らの不安や緊張をかきたてるからだ。また、他者に対しても不寛容で、想像力や共感性を欠いている。これは、膨大な研究データをもとにした「一般的傾向」であり、個別に誰がどうだということではない。マイノリティに対する不寛容や攻撃傾向を示す人のすべてがそうだというわけでもない。しかし、このような理解をすれば、たとえば小川が「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」などと平気で放言できるのも、わかる気がする(心理学的にわかるというだけで、同意しているわけではないので、念のため)。 自分の精神的苦痛を声高に言う一方で、そこには相手の精神的苦痛などを思いやる共感性のかけらも見られない。また、「(同性婚について)これは全く論外であり、私は頭ごなしに全面否定しておく。結婚は古来、男女間のものだ」などというところは、共感性の欠如だけでなく、因習的で開放性の欠如が如実に表れている』、心理学でここまで社会風潮が見事に分析できるとは、興味深い。
・『偏見に対処するには  いずれにしろ、オルポートが正しいのであれば、このような物言いや傾向は、パーソナリティに根差すものであり、パーソナリティとは安定的な心理や行動の傾向であるから、それを変えることは困難だ。 オルポートはまた、偏見は事実に基づくものではなく、感情的な要素が大きいため、議論によって正すことは難しいとも述べている。 何とも暗澹たる気持ちにさせられるが、シブリーとダキットの論文では、このようなパーソナリティや社会的態度の「原因」となる要因を探究することの重要性が説かれている。そして、それは心理学の重要な使命の1つだろう。 今の心理学は、偏見と闘うにはまだ無力であるかもしれないが、偏見という問題が、深刻な社会病理の1つとして重要な研究テーマであることは間違いない。しかし、なぜ私はそんな無力な心理学などやっているのか言えば、心理学では醜い人間の心理を探究するだけでなく、それと闘う気高い人々の心理に触れる喜びや感動もあるからだ。私の専門は犯罪心理学であるため、多くの残虐な犯罪や憎むべき犯罪者ともかかわってきた。しかし、その反面、過去の過ちを悔い改め、更生しようとする人々の強さや美しさに打たれることも多い。また、それを真剣に支える人々の献身的なサポートにも心を動かされる。 今回のケースでいえば、まさに新潮社出版部文芸(文芸書編集部)の人たちの勇気と行動に、光を見た気がする。そして、記事に対する多くの批判の声や反対の動きを見て、勇気づけられ、われわれの社会の健全さにも気づかされた。安心してはいけないが、暗澹となって悲観するのはまだ早いと思う』、偏見は議論によって正すことは難しいとのオルポートの考え方は、確かに暗澹たる気持ちにさせられる。
・なお、新潮社は先ほど新潮45休刊を発表、「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載」したと謝罪したようだ。雑誌社の良心がまだ失われてないことを意味するとすれば喜ばしいことだ。
https://www.shinchosha.co.jp/news/20180925.html
タグ:この人はなによりもまず「性的指向」と「性的嗜好」というLGBTを語る上での、最も基礎的な概念について、きちんとした区別がついていない 発信力のある人間が論争に巻き込まれること自体がホロコースト否認論者の利益になる。というのも、論争をしているということがそのまま「ホロコーストの存在には議論の余地がある」ことの宣伝として利用され得るから ちゃんちゃらおかしくて馬鹿げているのか 偏見に対処するには 杉田論文があれほどに燃えたのは、あれが「総理案件」だったからだと考えている 「「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理 議論によって正すのは難しいが…」 「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という「特別企画」 偏見を抱きやすい人は、開放性と誠実性が低く、神経症傾向が高いという傾向が共通 (その5)(小田嶋氏:「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか、原田 隆之氏(犯罪心理学):「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理) 「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という創立者の言 ナチスになびいた人々のパーソナリティを研究したアドルノは、「権威主義的パーソナリティ」がその根本にあったと分析 現代ビジネス を掲載 驕る国会議員の暴走 標準的に差別的な原稿が炎上したのは、まず第一に、書き手が国会議員だったからだ 「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」 安倍晋三首相のお気に入りの女性議員で、一本釣り同様の経緯で地方ブロックの比例第一に配せられた特別扱いの議員だったことこそが、見逃してはいけない背景だ 日経ビジネスオンライン オルポートはまた、偏見は事実に基づくものではなく、感情的な要素が大きいため、議論によって正すことは難しいとも述べている 単に「ひどい」とか「差別的」だという話をするなら、ひどい記事は、これまでにもたくさんあった 小川榮太郎氏の記事には、一言だけ反応 「新潮45」今月発売号(10月号) 小田嶋 隆 シブリーとダキット 「集団」にしか自分の拠りどころのない彼らは、「個」としての自律性がなく、個人的なアイデンティティが未熟である 新潮社の文芸部 杉田水脈衆議院議員 炎上商法が目的だったとすれば、相当タチが悪い ビッグファイブ・モデル 首相は、「自分たち夫婦も大変に辛い思いをしている」と、被害者のポジションに立ってみせつつも、最終的には杉田議員の不注意な発言をかばっている 雑誌は、そもそも雑なものだ。掲載したテキストについていちいち責任を問われたのでは、編集者はやっていられない 『LGBT』支援の度が過ぎる」 岩波書店、河出書房新社などのツイッターアカウントが連帯の意図を表明し、さらに波紋が広がる 「新潮45」編集部の掲載責任の如何に移っている 最近の日中、日韓、果ては日朝までもが雪解けムードのなか、自民党のコアな支持層である右派の人々が政権に対する不満を募らせているところ、そのガス抜きとして、あるいは鉄砲玉のような存在として、杉田議員の存在はそれなりに重宝なのだろう パーソナリティだけでなく、社会的態度というものを介して偏見が作り上げられるプロセスを説 ツイッター上で話題の焦点は 原田 隆之 あれを読んだ勘の鋭い読み手は、行間に見え隠れする総理の顔に、慄然とせずにおれなかったのである 新潮45休刊を発表 総理大臣の職にある人間が、杉田論文を問題視しない考えの持ち主であったのだと考えると、やはり平静ではいられない LGBTと痴漢を同じカテゴリーの概念として扱い、かててくわえて、性的にマイノリティであることを意図的な犯罪者と同一視している 関東大震災後の朝鮮人虐殺の存在を否定する人々 オルポートは、「偏見とは、基本的にパーソナリティの問題である」 偏見の心理 新潮社の出版部文芸の公式ツイッターアカウント 「「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか」 編集長は、批判への反論特集などという無謀極まりないガソリン散布企画を発案するに至った… 編集部には、「杉田議員の論文に共感した」「あの記事には間違いなんかない」「周囲の雑音にひるまずに今後も思うところをまっすぐに主張してほしい」といったような電話やメールがそれなりのボリュームで寄せられたはずだ 焦点が当てられる社会的態度には、「集団的優越感」「集団的凝集性」「集団的安心感」といったものがある 杉田議員は、様々な場所で総理の内心を代弁する役割を担ってきた議員 同編集部への苦言や、杉田論文批判への反論記事への批判を次々とリツイート 二階幹事長が「この程度の発言で、大げさな」とすぐに擁護 各方面からの批判的ツイートをリツイートしていることには心を動かされた 新潮社 真の脅威は、杉田論文ではなくて、論文の背景にある巨大な勢力だということだ この薄気味の悪い生産性差別物語の背後に、一貫して総理のご意向が見え隠れしていたからなのだ 「反論が論敵の利益になる」ほどに、馬鹿げた議論 因習的で、新しいもの、奇抜なものに対して不寛容で、それは神経質で不安定な彼らの不安や緊張をかきたてるからだ。また、他者に対しても不寛容で、想像力や共感性を欠いている 痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保証すべきではないのか 杉田水脈氏があの論文の中で開陳していた世界観ならびに人間観は、現代の日本人のマジョリティーの意見でこそないものの、一方の声を代表する典型的な見解ではあるわけで、つまるところ、われわれはそういう国の国民なのである 新潮社出版部文芸(文芸書編集部)の人たちの勇気と行動に、光を見た気がする 自分を絶望的な気持ちにさせているのは、杉田議員が論文の中で展開してみせたのと同じ『生産性』を至上とする市場的な人間観を抱いている日本人が、決して少数派ではないように見えることだ 偏見に満ちた特集記事 醜悪なヘイトスピーチとも取れる偏見に満ちた文章を垂れ流すのは、言論の自殺行為 性別や染色体や性指向などなど、高校の生物の授業以前の事実誤認がちりばめられていることもさることながら 「神経症傾向」「外向性」「開放性」「誠実性」「協調性」 杉田論文が「論外」で、「お話にならない」という見方に変更はない 「新潮45」の編集長が、世間からの圧倒的な逆風をものともせずに真正面からの反論企画掲載に打って出た理由も、結局のところ、杉田論文が「総理案件」であることにある程度気づいていたからで、要するに、編集長氏は、この反論企画が必ずや首相に気に入られることを知っていたはずなのだ なぜ私はそんな無力な心理学などやっているのか言えば、心理学では醜い人間の心理を探究するだけでなく、それと闘う気高い人々の心理に触れる喜びや感動もあるからだ 小川榮太郎氏の記事をはじめとする「新潮45」10月号の特集企画の中の記事群 「ホロコーストは存在しなかった」という定番のデマ 私の個人的な立場 ダキットによる「偏見の二重プロセスモデル」
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