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東京都の諸問題(その15)豊洲以外の問題7(小田嶋氏:「言い訳にすぎない」と言えるのは、自分だけ) [国内政治]

昨日に続いて、東京都の諸問題(その15)豊洲以外の問題7(小田嶋氏:「言い訳にすぎない」と言えるのは、自分だけ)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋隆氏が10月19日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「言い訳にすぎない」と言えるのは、自分だけ。」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/101800163/
・『今週のはじめ、ツイッターのタイムラインに不思議な画像が流れてきた。 バドミントンのラケットを持つ女性の写真を中央に配し、その上に 障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ。 という二行のキャッチコピーが大書してある。 写真の右側には 「バドミントン/SU5(上肢障がい) 杉野明子」と、写真の人物のプロフィール情報が記されている。 東京駅に掲出されていたポスターで、制作は東京都だという。 一見して困惑した。 五輪パラリンピックを主催する自治体である東京都が、公的機関による障害者雇用の水増しの問題がくすぶり続けているこの時期に、あえてこの内容のポスターを制作して世に問うた狙いが、どうしてもうまく飲み込めなかったからだ。 本題に入る前に、「障害」「障がい」というふたつの表記について、私なりの基準を明示しておきたい・・・簡単に言えば、「害」という文字に悪い意味が含まれているからという理由で、その漢字をひらがなに開いて表記するタイプの問題のかわし方は、私の好みに合わないということだ。 ご存知の通り、漢字は表意文字だ。 一文字ごとに漢和辞典を引いてみればわかることだが、われわれがよく知っているつもりでいる文字にも、時に意外な意味が隠れていたりする。たとえば日本経済新聞の「経」には「首をくくる」という含意がある。だからといって、私は「日けいビジネスオンライン」とは書かない。そんな対応をしていたら、日本語の書物はひらがなだらけになる。 もうひとつ言えば、「障害」は、厚生労働省のホームページの中で使われていることでもわかる通り、明らかな害意が証明されている表記ではない。「障害者総合支援法」という法律の名称にもそのまま「障害者」の文字が使われている。 したがって、当稿では、引用文については引用元の書き手の表記法を尊重するが、私自身の文責で書くテキストに関しては、法律がそうしている通りに「障害」「障害者」という表記を採用する。 以上、表記についての説明はこれまで。話を戻す』、私も漢字2字の熟語として定着しているのに、わざわざ「障がい」と表記するとは、こざかしい馬鹿げたことだと思う。
・『ポスターを見た後、私はツイッター上に《活躍する障害者を持ち上げるのは大いに結構だと思う。でも、一握りの例外的な成功者をこういう形で利用(←「ハンディキャッパーも自己責任で頑張れ」的な突き放し言説を補強するサンプルとして)するのはどうなんだ? しかもそれをやっているのがパラリンピックを招致する自治体だし。》《「障害を言い訳にするな」も「死んだら負け」も、当事者による自戒の言葉だからこそ意味を持つのであって、同じ言葉を他人が言ったら、その言葉はそのまま障害や希死念慮を持つ人への迫害になる。で、その「迫害」が、いま、当事者の言葉をオウム返しにする形で拡散されている。》という2つのツイートを書き込んで、とりあえずその日は寝た。 翌朝、毎日新聞社から当該のポスターについての感想を問う内容の電話があった。記者さんの話によると、東京都は各方面からのクレームに対応する形で、15日の夜にポスターを撤去しているということだった。 私がお答えしたコメントは、以下の記事の中にある。 ポスターのキャッチコピーとして採用された杉野明子選手の元発言は、以下のインタビュー記事の中のものだ。「それまで健常の大会に出ているときは、障がいがあってもできるんだという気持ちもあれば、負けたら“障がいがあるから仕方ない”と言い訳している自分がありました。でもパラバドでは言い訳ができないんです。シンプルに勝ち負け。負けたら自分が弱いだけ」 私がこの発言を要約してポスターのキャッチコピーにするのだとしたら、「パラバドでは障がいは言い訳にできない」と書くと思う。 なぜというに、杉野選手の発言の主旨はあくまでも「健常の大会では、自分の障がいを言い訳にしていた私も、(同じ障がい者同士が戦う)パラスポーツの世界では、障害は言い訳にすることはできない」ということだからだ。 ところが東京都が作ったポスターでは、 「パラバドでは」という前提条件が省略されている。 しかも、「障がいは言い訳にできない」という杉野選手自身の言葉を 「障がいは言い訳にすぎない」と、一段階強い言い方に改変している。 なんとも不可解な「翻訳」だ。 もうひとつ不可解なのは、普通の読解力を持っている日本人なら、誰であれ一見して炎上が予想できる「障がいは言い訳にすぎない」というキャッチコピーが、制作段階でチェックされずに制作→印刷→掲出にまで至ってしまった点だ。 この種のPRにかかわる制作物は、通常、ラフ案の検討から最終版下の下版に至るまでの制作過程の各所で、様々な立場の人間の目による複数のチェックを通過して、はじめて完成に至ることになっている。 ということはつまり、誰が見ても炎上しそうなこのコピーが、最後まで無事にチェックを通過したこと自体が、極めて例外的ななりゆきだったと申し上げねばならない。 しかも、あらかじめ炎上上等の鉄火肌で業界を渡り歩く覚悟を決めているやぶれかぶれの集団ならばいざしらず、当該のPRポスターの制作主体は、炎上やクレームを何よりも嫌うお役所である東京都だ。 どうして、こんなトンデモなブツが刷り上がってしまったのだろうか。 私のアタマで考えつく範囲のシナリオとしては、当該のコピーが「上から降りてきた案件」だった可能性くらいだ。 たとえば、組織委員会なり、都庁なり、あるいは競技団体なりのボスかでなければその側近、あるいはさらに上の人あたりが、このコピーの発案者であるのだとしたら、これはもう、現場の人間は誰も口を出せない、という状況もありえるだろう。 ともあれ、ポスターは制作され、掲示され、撤去された。制作過程で何があったのかは、どうせわれわれには明かされない。 私もこれ以上は詮索しない』、「上から降りてきた案件」というのは、最も説得力のある説明だ。本人はさぞかし、きまり悪い思いをしていることだろう。なお、タイトルの「東京都の諸問題」の範囲に入るのはここまでで、以下では、その範囲から大きく外れていく。
・『ただ、「障がいは言い訳にすぎない」なる文言を大書したポスターが掲出されるにふさわしい空気は、五輪招致決定以来、東京都内に蔓延しはじめているとは思う。 どういうことなのかというと、アスリートを前面に押し出して「頑張る人を応援する」という一見前向きなメッセージを発信しつつ、その実、 「頑張らない人」や「甘えている人間」や「現状に安住している市民」を攻撃する言説を広めようとしている人々が、各所にあらわれはじめているということだ。 冒頭の部分で紹介したツイートの中で、私が今回の「障がいは言い訳にすぎない」というポスターの案件をさるコメディアンがテレビ番組の中で発した「死んだら負け」発言と一括りに扱った意図もそこのところにある。 つまり、私個人は「障がいは言い訳にすぎない」と「死んだら負け」という、この2つの文言は深いところでつながっているひとつの思想の別の一断面だと考えているということだ』、ここまで深く掘り下げる小田島氏の姿勢は、いつもながら感心させられる。
・『ついでに申せば、先日来、様々な場面で蒸し返され続けている「生産性のない人たちに税金を投入するのは間違いだ」と言った国会議員の署名記事とも、根っこは同じだと思っている。 「死んだら負け」発言についてざっと振り返っておく。これは、吉本興業所属のお笑いユニット「ダウンタウン」の松本人志氏が、14日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」の中で漏らした言葉だ。 以下、記事を引用する。《 -略- 松本人志(55)は、今回の裁判に「こういう自殺の話になったときに、原因をみなさん突き止めたがるじゃないですか」とした上で「正直言って、理由なんて自殺、ひとつじゃないと思うんですよ。いろんな複合的なことが重なって、許容範囲を超えちゃって、それこそ水がコップからあふれ出ていっちゃうんだと思うんです。これが原因だからってないんです。ないから多分、遺書もないんです」と自身の見解を示した。 さらに「これは突き止めるのが不可能で、もちろん、ぼくは事務所が悪くないとも言えないですし、言うこともできないんですけど、我々、こういう番組でこういう自殺者が出てこういうニュースを扱うときになかなか亡くなった人を責めづらい、責めれないよね。でも、そうなんやけど、ついついかばってしまいがちなんだけど、ぼくはやっぱり死んだら負けやっていうことをもっとみんなが言わないと、死んだらみんながかばってくれるっていうこの風潮がすごく嫌なんです」と持論を展開した。「勉強、授業でも死んだら負けやぞっていうことをもっともっと教えていくべきやと」と訴えていた。-略- 》(出典はこちら) 以上の発言には、SNSや掲示板を通じて、賛否の声が多数寄せられたかに見える。 で、それらの反応を受けて、松本氏は、17日に、自身のツイッターアカウントから、《自殺する子供をひとりでも減らすため【死んだら負け】をオレは言い続けるよ。。。》という言葉をツイートしている。 松本氏に悪気がないことはわかっている。 彼は、自分の発言に悪気がないことを自覚していて、しかも、自らの主張に自信を抱いているからこそ、あえてツイッターで同じ言葉を重ねたに違いない。 しかし、問題は「悪気」の有無ではない。「害意」や「差別意識」や「攻撃欲求」の有無でもない。 われわれは誰であれ、日常的に悪意のない言葉で他人を落胆させ、追い詰め、悲しませ、失望させている。 ましてテレビで発言する有名人の言葉は、本人の意図とは別に、単独のフレーズとして独り歩きをする。 彼を擁護するファンは「発言の一部を切り取って批判するのは卑怯だ」という主旨の言葉を繰り返している。 これは問題発言を指摘された側の定番の反論なのだが、実際、一理ある主張でもある。 言葉を切り取られた側が心外に思うのは当然の反応だ。 とはいえ、もともと言葉は、切り取られることによって拡散するものでもある。 とすれば、知名度を持った人間は、公の場所でなにかを言うにあたって、自分の言葉が切り取られた先の結果に、あらかじめ思いを馳せておくべきだということになる。「こういう言い方をしたら、相手はどういう受け止め方をするだろうか」と、いちいち考えるのは、たしかに著しくめんどうくさいことだ。が、言論というのは、結局のところ、めんどうくささそのものを指す言葉なのだ。 松本氏の一連の発言のうち「自殺の原因は簡単には決められない」という部分については、私自身も、おおむねその通りだと思っている。 「死んだらみんなかばってくれるっていう風潮がすごく嫌なんです」という指摘も、鋭いところを突いていると思う。 実際、WHOがリリースしている自殺報道のガイドラインの中でも、自殺者を過剰にエモーショナル(感情的)に扱うことや、希死念慮を抱いている人間に向けて「死をもって訴えること」が大きな効果を持っているかのような情報を与えることを強くいましめている。 現状の日本のテレビの自殺の扱いは、松本氏が「嫌なんです」と言っている通り、自殺者を聖人扱いにしたり、「自らの死と引き換えに」伝えたメッセージを過剰に劇的に演出する傾向が強い。 ただ、決めのフレーズとして持ち出した「死んだら負け」というこの言葉は、松本氏の意図どおりに受け止められないだろう。 いじめなりパワハラなり経済的困窮なり病苦なりで苦しんでいる人たちが自殺を思い浮かべるのは、「勝ち負け」を意識しているからではない。というよりも、自殺という結末のつけ方がアタマから離れなくなるほどに追い詰められた人間は、そもそも「勝ち負け」という発想そのものを忌避するはずだ。さらに言うなら、「勝ち負け」に代表される競争的な設定にほとほと疲れ果てた結果として死に誘引されている人も少なくないはずなのだ。 とすれば、「死んだら負けだ」は、希死念慮を抱いている人間を鞭打つ結果になりかねない。 もちろん「死んだら勝てる」と思って死を意識している人間がいないとは限らない。そういう人間だって、いるかもしれない。そういう例外的な心の強い自殺志願者には、「死んだら負けだ」という言葉がハマるかもしれない。が、そんなケースはあくまでも例外にすぎない』、「WHOがリリースしている自殺報道のガイドライン」まであるとは初めて知った。小田島氏の見解は説得的で、その通りだ。
・『「障がいは言い訳にすぎない」と「死んだら負け」を批判した私のツイートには、私が想定していたよりは多くの反論が届けられた。 反論のツイートのひとつひとつを読みながら、私は、ひと月ほど前の杉田水脈議員の発言を取り上げた原稿の結論部分で抱いていたのと同じ感慨に打ちひしがれていた。 つまり、 《杉田議員の主張は、言葉の使い方こそ無神経ではあるものの、日本の「民意」を代表する言説のひとつだ。だからこそ、私は、絶望している。》と書いた時と同じように、私は「障がいは言い訳にすぎない」が、「勇気ある主張を打ち出した素晴らしいポスター」で、「死んだら負け」が、「そこいらへんの腰の引けた言論人が言わない魂の本音で、しかも、苦しんでいる人たちに本当の意味で寄り添っている温かい言葉」だと思っている人間が、もしかしたら、21世紀の日本人の多数派なのかもしれないことに思い至って、失望しているということだ。 弱っている人間に「死んだら負けだ」という言葉を投げかける松本氏の態度を、あるタイプの人々は、「アルプスの少女ハイジ」の中で、主人公のハイジが脚は治っているにもかかわらず歩き出せない親友のクララに向かって「クララのバカっ! 何よ、意気地なしっ!」という叱咤の言葉をぶつけたあの名場面と同じ感覚で受け止めているのかもしれない。 実際、ふたつのエピソードの外形は似ていなくもない。 ただ、ハイジの言葉は、長らく一緒に過ごしている親しい友人であるクララに向けて、涙とともに発せられた、最後の手段と言っても良いギリギリの言葉だった。 ドラマのクライマックスを演出する中で、一見残酷に見える言葉が、実は必死の情熱の発露であり、その必死の言葉が奇跡を生むというストーリー展開は、あってしかるべきものだろう』、「アルプスの少女ハイジ」まで持ち出すとは、さすがだ。
・『が、現実の世界で、テレビの中の有名人が不特定多数の自殺志願者に向けて、逆説的な励ましの言葉を述べたところで、奇跡が起こる保証はない。 私は、松本氏の言葉が「非人情」だとか「残酷」だと言っているのではない。 「障がいは言い訳にすぎない」のポスターをプッシュしていた人たちが、世にも悪辣な差別主義者だと断じているのでもない。 彼らは、「非情」であったり「残酷」であったりするよりは、むしろ「スパルタン」で「マッチョ」な自己責任論者というべき人々だ。「障害者であれ健常者であれ人間は誰でも、個々人が直面している個人的な逆境に負けることなく、絶えざる努力と克己の精神によってそれらを乗り越えるべきだ」という思想を抱いている、自己超克型の人間なのだと思う。 その彼らの思想が、間違っていると言いたいのでもない。 自己超克もしばき上げも、本人が自分を律する分にはかまわないし、大いに奮闘してもらいたいとも思っている。 ただ、その種の人生観は他人に求めるにふさわしいものではないし、見知らぬ人間に強要して良いものでもない。まして、上の者が下の者に、強いものが弱い者に求めると、単なる迫害になる』、なかでも、「自己超克もしばき上げも、・・・」以下の部分は、本当によく練られた主張で、強く同意する。
・『私自身は、「死んだら負け」みたいな考え方をする人々とは正反対の人生観を抱いている。 いや、「死んだら勝ち」と考えているのではない。 一言で言えば、私は、自分に許される環境の中で最大限に快適に暮らすのが良い人生なのだというふうに考えている。 「それじゃ進歩がないじゃないか」と言う人には 「ないよ」と答えておく。 ただ、進歩や向上が自分にとって快適であるような分野や場面に直面したら、私も自分なりに上を目指すはずだとは思っている。 これまでのところを振り返った部分で話をするなら、私は、自分にとって快適でない環境から逃亡し続けた結果として、現在いる場所にたどり着いたのだと思っている。 もし、私が、置かれた場所で咲くことを至上命令として、逆境の中でたゆまぬ努力と忍耐を傾けるタイプの人間であったなら、私は、12秒台前半で走る陸上選手であったことだろう。 新卒で就職した企業で残業を嫌がらず、慰安旅行を拒絶せずに仕事に励んでいれば、いまごろ私は課長ぐらいにはなっていたかもしれない。いや、もっと頑張ればあるいは役員にのぼりつめていたかもしれない。 でも、逃げてズルけて怠けてグズった結果としての現在の位置に、私はおおむね満足している。 なので、現状に苦しんでいる若い人たちには、この場を借りて「逃げるが勝ちだぞ」ということをお伝えしておきたい』、この結びには違和感を感じた。日本ではいまだに「転職」が多くの場合、ハンディキャップになるケースが多いのも事実だ。「逃げるが勝ちだぞ」は、才能に恵まれ、結果的に「勝ち組」になった小田島氏だからこそ成り立つが、それほどの才能がない多くの若者にとっては、「置かれた場所で咲くことを至上命令として、逆境の中でたゆまぬ努力と忍耐を傾ける」ことが正解である場合も多いのではなかろうか。どちらかといえばリスク回避型の私ゆえの感想なのかも知れないが・・・。
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