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日中関係(その3)(小田嶋氏:安倍首相の静かな訪中と読書録、本の紹介:中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界) [外交]

昨日に続いて、日中関係(その3)(小田嶋氏:安倍首相の静かな訪中と読書録、本の紹介:中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋 隆氏が11月2日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「安倍首相の静かな訪中と読書録」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/110100165/?P=1
・『安倍晋三首相が中国を訪問した。 様々なメディアのそれぞれの立場の書き手やコメンテーターが、何度も繰り返し強調している通り、日本の首相が中国を訪問するのは、実に7年ぶりのことだ。これは、安倍さん自身が、現政権では一度も中国に足を踏み入れていなかったことを意味している。してみると、今回の訪中は、私たちが思っている以上に重大な転機であったのかもしれない。 産経新聞は、《安倍晋三首相は平成24年12月の首相再登板以降の約6年間で延べ149カ国・地域を訪れたが、中国に2国間の枠組みで赴くのは今回が初めてだ。---略---》という書き方で今回の訪中の意義を強調している。 今回は、中国の話をする。 というよりも、ありていに言えば、中国についての面白い本を読んだので、その本の感想を書きたいということだ。 冒頭で安倍訪中の話題を振ったのは、前振りみたいなものだと思ってもらって良い。 いずれにせよ、今回の訪中に関して多言するつもりはない。 個人的には、なにはともあれ、先方に足を運んだことだけでも大手柄だったと思っている。というのも、中国に関しては、とにかく、こちらから顔を出すことが何よりも大切だと、前々からそう思っていたからだ』、「朝貢」の伝統があるからなのだろうか。
・『彼の地でどんな話をして何を約束するのかといったようなことも、もちろん重要だが、それ以前に、とにかく行って顔つなぎをしてくることに意味がある。まずは、自身の訪中という困難な決断を果たした安倍さんに敬意を表したいと思う。 ところが、世間の評価は意外なほど冷淡だ。少なくとも私の目にはそう見える。 ここで言う「冷淡」というのは、「評価が低い」というのとは少し違う。扱いが小さいというのか、思いのほか大きな話題になっていないことを指している。 実際、ニュース枠のトップ項目の中では、安田純平さんの帰国の話題の方がずっと扱いが大きかった。 不思議だ。どうして安倍訪中は軽視されているのだろうか。 私自身は、「対中国包囲網」であるとか「地球儀俯瞰外交」みたいな言葉を使って、しきりに中国への警戒心や対抗心を煽ってきたように見える安倍さんが、ここへ来て一転自ら協調路線に踏み出したことには、大きな歴史的転換点としての意味があると思っている。であるからして、今回のニュースについては、さぞや各方面で侃々諤々の議論が展開されるに違いないと考えていた。 ところ意外や意外、主要メディアの扱いは、いずれもさして大きくない。蜂の巣をつついたような騒ぎになるはずだったネット界隈も静まり返っている。 なんとも不気味な静けさだ。 日中関係の専門家や外交に詳しい人たちは、今回の首脳会談の成果を、現時点で軽々に判断してはいけない、というふうに考えているのかもしれない。それはそれで、おおいにありそうなことだ。実際、会ったということ以上の具体的な話は、何もはじまっていないわけだから。 でも、それにしても、一般の人たちの反応の乏しさは、これはいったいどうしたことなのだろうか。 以下、私の勝手な推理を書いておく。 安倍さんの政治姿勢を評価しない一派の多くは、安倍政権のこれまでの対中強硬策に強く反対していた人々でもある。とすれば、彼らはこの度の訪中を評価しても良さそうなものなのだが、そこはそれで、反安倍の人たちは、心情的に安倍さんを素直に褒めることはしたくないのだろう。 一方、安倍さんのシンパを自認する人たちは、同時に中国との安易な友好路線を拒絶している面々でもある。 とすれば、今回の安倍さんの訪中は彼らにとって裏切りに近い態度であるはずで、当然、反発せねばならないところなのだが、ここにおいてもやはりそこはそれで、安倍支持者は、たとえ安倍さんが自分たちの意に沿わぬ動き方をしたのであっても、それを即座に指弾するようなリアクションは避けたいのであろう。 てなわけで、アンチとシンパの双方が微妙に口ごもっている中で、メディアや専門家もとりあえず様子見をしているというのがおそらく現状ではあるわけで、してみると、この訪中の評価は、なお半年ほど先行きを見ないと定まらないのだろう。 ということで、この件はおしまいにする』、「アンチとシンパの双方が微妙に口ごもっている」とはなかなか上手い表現だ。
・『私が読んだ本というのは、『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著:日経BP社刊)というタイトルの、この10月に出たばかりの書籍だ。「スジの日本、量の中国」というサブタイトルが示唆している通り、ものごとを「スジ」すなわち「理屈」や「筋道」、「原理」「建前」から読み解いて判断しようとする日本人と、「量」すなわち「効果」「現実的影響力」「実効性」を重視する中国人との間に起こる行き違いやトラブルを、豊富なエピソードを通じて考証した好著だ。 これまで、中国の歴史や文化、ないしは政治的・経済的な交渉相手としての重要さについて書かれた書物はたくさんあったし、その中には必読の名著も数多い。ただ、「中国人」という生身の人間を題材にした書物で、これほど画期的な本はなかなか見つからないと思う。 善悪や好き嫌いの基準は別にして、市井の一人ひとりの中国人の内心を誰はばかることなく明らかにした本書は、この先、日中両国がのっぴきならない隣国として交流するにあたって、必ず座右に置くべき書籍となるはずだと確信する』、いつもは謝に構えて冷静な小田島氏にしては、珍しい褒め方だ。
・『『スッキリ中国論』は、冒頭で触れた安倍さんの訪中を機会に、なにかの参考になればと思ってパラパラとめくってみた本のうちの一冊だった。で、これが、実に目からウロコの書籍だった。それでこの原稿を書いている。 もっとも、本文中の記事のうちのいくつかは、ウェブ上に記事としてアップされた時点ですでに読んでいるものだった。 書いてある内容についても、すべてがこちらの予断に無い新鮮な知見だったわけではない。前々からなんとなくそう思っていたことが言語化されていたという感じの記述もあれば、ほかの誰かから聞いていたのと似たエピソードもある。 ただ、こうして一冊の書籍という形でひとまとめに読了してみると、個々のエピソードを知ったときとは、まったく別の印象が立ち上がってくる。 なんというのか、バラバラに見えていた挿話がひとつにつながって、巨大な物語が動き出す驚きを味わうことができる。自分の中で、長い間打ち捨てられていたいくつかの小さな疑問が、「そういうことか」と、いきなり生命を得て動き出した感じと言えば良いのか、とにかく、上質のミステリーの謎解き部分を読んだ時の爽快感を久しぶりに思い出した』、ここまで推奨されると、読んでみたくなる。
・『私の世代の者は、もともと中国と縁が深い。 というのも少年期から青年期がそのまま高度成長期で、さらにバブル期が働き盛りとぴったりカブっていた世代であるわたくしども1950~60年代生まれの人間は、中国出張を命じられることの多いビジネスマンでもあれば、取引の相手として中国人とやりとりせねばならない個人事業主でもあったからだ。 じっさい、自分の同世代には、「中国通」が少なくない。 直接の知り合いの中にも、中国人と結婚することになったケースを含めて、中国に5年駐在した記者や、中国各地を訪問して工場の移転候補地を探して歩いた経歴を持つ男や、一年のうちの2カ月ほどを中国各地で過ごす生活をこの10年ほど繰り返している嘱託社員などなど、中国と深いつながりを持っている人々がいる。 それらの「中国通」たる彼らから、これまで、幾度となく聞かされてきた不可思議なエピソードや謎の体験談に、このたび、はじめて納得のいく解答をもたらしてくれたのが、本書ということになる』、なるほど。
・『何年か前に、あるメディアが用意してくれた枠組みで中国から来て30年になるという大学教授の女性に話をうかがう機会があった。 その時に彼女が言っていた話で印象的だったのは、「日本人の中国観は良い意味でも悪い意味でも誇張されている」「しかも、その中国観は驚くほど一貫していない」「理由は、日本人の中国観が、多くの場合、その日本人が交流している特定の中国人に影響されているからで、しかも、その当の中国人は、立場の上下や貧富の別によってまるで別の人格になり得る人々だからだ」ということだった。 つまり、どういうカウンターパートと付き合っているのかによって、日本人の中国人観はまったく違うものになるということらしい。 上司が中国人である場合と部下が中国人である場合は話が逆になるし、貧しい中国人と付き合うことと富裕層の中国人との交流も別世界の経験になる。 であるから、ボスとしてふるまう時の中国人と部下として仕える中国人を同じ基準で考えるのは間違いだということでもあれば、中国人の金銭感覚は、貧乏な中国人と金持ちの中国人の両方を知ったうえでないと把握できないということにもなる』、これは、多かれ少なかれ、どこの国でもあ得る話だ。
・『この話を聞いたときに、少しだけ謎が解けた気がした。 というのも、それまで、私が中国人について聞かされる話は、どれもこれも白髪三千丈のバカ話にしか聞こえなかったからだ。 「要するに彼らは◯◯だからね」という断言の、◯◯の部分には、様々な言葉が代入される。 「ケチ」「いいかげん」「自分本位」「忘れっぽい」「やくざ」などなどだ。 かといって、その種の断言を振り回している人間が、必ずしも中国人を憎んでいるわけでもないところがまた面白いところで、中国通の人々は、中国人を散々にケナし倒しながら、それでいて彼らに深い愛情を抱いていたりする。そこのところが、私にはいまひとつよくわからなかったわけなのだが、とにかく、大学教授氏の話をうかがって、われわれが聞かされる「中国人話」の素っ頓狂さの理由の一部が理解できたということだ。 つまり、「中国人は、われわれの想像を超えて振れ幅の大きい人たちで、しかもその振れ幅は、個々人の持ち前の人格そのものよりは、相互の立ち位置や関係性を反映している」ということだ。 とはいえ、そう説明されてもわからない部分はわからない。「まあ、実際に中国で3年暮らさないとわからないんじゃないかな」と、中国通は、そういうことを言う。 私にはそういう時間はない。ということは、オレには、あの国の人たちのアタマの中身は一生涯理解できないのだろうか、と思っていた矢先に読んだのが、『スッキリ中国論』だ。 この本を読んで、そのあたりのモヤモヤのかなり大きな部分がスッキリと晴れ渡る感覚を抱いた』、ますます読んでみたくなった。
・『たとえば本書で紹介されているエピソードにこんな話がある。《2018年1月、成田空港で日本のLCC(ローコスト航空会社)の上海行きの便が到着地の悪天候で出発できず、乗客が成田空港で夜通し足止めされるという事態が発生した。航空会社の対応に一部の乗客が反発、係員と小競り合いになり、1人が警察に逮捕された。そこで乗客たちは集団で中国国歌「義勇軍行進曲」を歌って抗議した。》(スッキリ中国論 P098より) この奇妙な事件の小さな記事は、私も当時何かで見かけて不可解に思ったことを覚えている。「どうしてここで義勇軍行進曲が出てくるんだ?」と思ったからだ。私の抱いていた印象では、中国人は、海外で国歌を歌う人々ではなかった。であるから、成田での彼らの国歌斉唱は、どうにも場違いでもあれば筋違いにも思えて、つまるところ薄気味が悪かった。 で、この小さな事件は、私の中では不気味な謎のまま忘れられようとしていたのだが、本書での説明を得てはじめて得心した。 本文にはこうある。《空港で国歌を歌った中国の人々が言いたかったのは、「われわれ中国国民の安全で快適な旅行を保証するのは中国の統治者の責任である。その中には航空会社や外国の政府に圧力をかけて必要な措置を提供させることも含む。それをただちに実行せよ」ということである。クレームの相手は中国政府なのだ。》 なんとも、日本で暮らしている当たり前の日本人であるわれわれには到底了解不能な思考回路ではないか。 こういうことは、実際に中国人と日常的にやりとりしている人間でなければわからない』、「クレームの相手は中国政府」なのに、成田空港で歌うとは私も了解不能だ。
・『この国歌のエピソードだけではない、本書では、中国の人々の自我のあり方や、社会と個人の関係についての考え方、あるいは、為政者への期待や秩序感覚といった、ひとつひとつ順序立てて説明されなければ到底理解のおよばない話が、実例つきで紹介されている。 さまざまな意味で、勉強になる本だと思う。 安倍さんにもぜひ読んでほしい。 あるいは、今回の訪中で伝えられている言動を見るに、すでに読んでおられるのかもしれない。 いずれにせよ、今回、安倍さんがとりあえず習近平氏の面子を立てておく選択肢を選んだことは事実で、してみると、首相の周辺には、優秀なアドバイザーがいるのだろう。 不愉快な助言をもたらすアドバイザーを大切にしてほしい。 これは私からの助言だ』、同感である。

次に、上記の本について、著者のコンサルタント BHCCパートナーの田中 信彦氏が11月5日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界 「スカウター」のように相手の「強さ」を読み合う」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/041100064/103100011/?P=1
・『今回は、単行本『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』の中から「面子(メンツ)」について触れた部分を、ウェブ用に編集してお送りします。中国人を理解する上で重要な概念の「面子」ですが、日本にも同じ単語があるために、正確に理解することがかえって難しい概念かもしれません。コメント欄でも触れていただいた方がいました。「スジと量」で、面子を読み解くとどうなるでしょうか』、興味深そうだ。
・『『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』  「中国人と言えば『面子(メンツ)』を大事にするそうだ。面子と『量』はどのように関係しているのか?」 中国社会を知り、日本社会と比較するフレームとして「量」と「スジ」をご紹介してきたが、こんな疑問を抱いた方もいるだろう。「中国人が面子を重視する」ことはよく言われるし、まったくその通りで、彼らを理解するキーワードでもある。そして、その底にはやはり「量」の思考が存在する。だが、「量」の話をする前に、まず「面子」について詳しく説明しておこう。日本で言う「メンツ」とは意味がかなり異なるからである』、どう異なるのだろう。
・『日本語の「面子」とは意味も重さも違う  中国語でよく使われる言い回しに「面子が大きい 」という言い方がある。 「あの人は本当に面子が大きいね」とか「私は彼ほど面子が大きくないから……」といった使い方をする。 「面子が大きい」という言い方は日本語ではなじみがないが、要するにこれはその人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。つまり「他の人にはできないことが、その人にはできる」ことである。 例えば、普通ではなかなか入れないような幼稚園や学校に、その人に頼むと、(さまざまな方法で人を動かして)何とか入れてしまう。正面からのルートではとても会えないような著名人に、その人に頼めば面会できてしまう。そういったようなケースで、「あの人は面子が大きい」ということになる。もっと生臭い話でいえば、正式には競争入札によって受注企業が決まるはずなのに、「面子の大きい」人に頼めば有利に取り計らってもらえるとか、有利な条件で国の持つ土地の使用権を譲ってもらえるとか、そういったことも当然、含まれる。 これは(日本人が好む)「スジ」的に言えば「なんといい加減な社会だ、不公平だ」ということになるのだが、よい悪いではなく、現状がそうなのだから止むを得ない。普通の人々に広く適用されているルールや常識的な相場観のようなものが存在するにもかかわらず、その人物が出てくると、その枠を飛び超えて、異例な取り計らいが実現してしまうような人が「面子の大きい人」である』、日本社会では余りないことなので、ここまで説明されて漸く納得できた。
・『「誰よりも優れている」という、最大級の褒め言葉  中国社会において、このような「面子の大きい人」は極めて便利で、かつ大きな利益をあげられる可能性を持つ。それは時として便利や利益というレベルを超え、自分や家族の安全すら確保してくれる人である可能性がある。 だから普通の中国人にとって、「面子の大きい人」とは、非常に頼りになる、どうにかしてお近づきになりたい人である。というより、「面子の大きい」人が近くにいないと安全・快適な生活を実現するのは難しい。だから「あの人は面子が大きい」という表現は、中国社会では最大級の褒め言葉である。周囲から尊敬と羨望のまなざしで見られる人物を意味する。そして誰もが自分も何とか自分の面子を大きくしたいと考える。「面子が大きい」と世間から言われるような人になりたい、と思うのである。 このように考えてくると、中国社会における面子の本質とは、その人が「他人には不可能なことができることが明らかになる」とか、その人が「他人より優れていることを周囲の人が認める」“状態”であることがわかる。 周囲は「あの人は他の誰にもできないことができる。すごい人だ」と称賛する。本人は「自分は他の人にはできないことができる。自分は他人より優れている」と周囲から認められ、自尊心が満たされる。こういう状態が中国人にとっての、日本語で言う「面子が立っている」状態である。逆に「面子がない」「面子がつぶれる」状況とは、「自分は他人より優れていない」ことが公衆の面前で実証されてしまう事態を指す』、なるほど。
・『ルールや組織といった「スジ」が頼りにならず、「面子の大きい」人や権力者の腹一つで状況がいかようにも変化するサバイバル社会で、中国の人々は自らの力を恃(たの)んで生きている。 そこでは常に「自分は大丈夫だ。やっていけるのだ」という自信、言ってみればある種の自己暗示のようなものが不可欠である。根拠は少々薄弱でも、「自分は他人より優れている。大丈夫、勝てる」と自らに常に言い聞かせているようなところがある。 これは想像だが、おそらく日本の社会でも自営業の皆さんやプロスポーツ選手、芸能人、職人さんなど、自分の腕一本で世の中を渡っている人たちは似たようなマインドを持っているのではないかと思う(私も自営業だ)。「自分のようなものはダメかもしれない」などと思っていたら、とても競争に挑んでいくことができない』、確かに、その通りだろう。
・『「量」の思考法が強いる、他人との比較  さて、この面子と「量」の思考はどのような関係にあるのか。 「量」で考える基本思想について、この連載の冒頭でこう述べた。 「(中国人は)『あるべきか、どうか』の議論以前に、『現実にあるのか、ないのか』『どれだけあるのか』という『量』を重視する傾向が強い」 量とは、大きさや重さ、多さ、高さを測る言葉だが、それは「強さ」と言い換えることもできる。大きいものは強い。そして、「量」を判断の基本に置くということは「現実に、目の前の相手より、自分は強いのか、弱いのか」を、常に意識しながら生きていく、ということでもある。ここで面子と「量」がつながる。 別の言い方をしよう。中国人は、誰かと向き合った時、人の「個性の差」よりも、相手との「力関係」を意識する傾向が強い。例えば、日本社会では「貧しいけれども立派な人」「貧乏だけど希有(けう)な趣味人」といった概念はごく普通に成り立ち得る。人には個性があるもので、みんな違う。その「違い」を認識することが人間関係の前提になっている。 しかし中国社会では、事の当否は別として、お金持ちか否か、権力・権限を持つ人かどうか、社会的な影響力を持つ(自分の意見を通せる)人物かどうか、そういった、その人物の「大きさ」「力の強さ」を重視する傾向が強い。つまり周囲との関係を「違い」ではなく「上下」「強弱」で、言ってしまえば「闘ったら勝つか負けるか」の価値観で理解する傾向が強いということだ。面子は、その強弱、勝ち負けそのものを指す概念と言っていい。いわば「量の勝負」=面子、なのである。 だから、中国社会の面子は非常に重い意味をもつ。 日本人にとっては「面子が立たない」という言葉は、ちょっと無礼なことをされたくらいの感覚で、そこに「上下」「勝負」の要素はあまりない。だが、中国人にとっての「面子」は、自分という人間が人格を肯定されるか否定されるか、くらいの意味をもつ。ここを軽く見てはいけない。「面子を立てるなんて簡単だ、失礼がなければいいんだろう」程度の気持ちでいると、相手のプライドを深いところで傷つけてしまいかねない』、中国人との付き合いは日本人にとっては、ひどく「疲れる」もののようだ。
・『「量で比較する」ことが発想や行動を強く支配するゆえに、「面子」が絡むと対人関係が「勝ち負け」になってしまう。これは中国社会のモチベーションの源泉であると同時に大きな問題でもある。 大小、上下、高低、強弱、言い方はさまざまあるが、詰まるところ評価の軸が事実上、1本しかない。そこで勝てればいいが、負けることは耐えがたく、許されない。やや極端に言うと、社会的な評価方法にバラエティが乏しく、誰もがステレオタイプの基準で相手を判断しようとする。皆が「相手に見くびられたら商売にならない」と思っていて、かく言う私も中国で暮らしている間に、そういう考え方にかなり強い影響を受けていることを自覚するようになった』、「評価の軸が事実上、1本しかない」とは、自分としては住みたくない社会だ。
・『国民全員独立自営、全ては人と人の相対取引  日本でも自営業の皆さんやスポーツ選手、職人さんの世界の発想はこれに近いものがあるかもしれないと書いたが、要は中国人は全14億の国民が、全て独立自営で生きている、くらいに思った方がいい。本人が実際には企業や政府機関などの組織に所属していようが、現実には全部、個人間の相対(あいたい)取引=人vs人の勝負、なのである。 そこではまずお互いが「自分のほうが強い」とツッパリ合い、双方が値踏みし合う。その段階では笑顔も見せず、決して譲らない。しかし中国人は、会話や態度の端々から、素早く「(腕っぷしではなく、先の『面子の大きさ』を比較して)どちらが強いか」を察知する。「こいつとケンカして勝てるのか、勝ったとして得なのか」をお互いが瞬時に判断し、どちらか、もしくは双方がほぼ同時に矛を収める。その感覚は非常に鋭敏である。というのは、本当は相手の方が「強い」のに、読み誤って下手に突っ張ったら、とんでもないことになるからだ。 非常に疲れる話ではあるが、これはある意味、非常に割り切ったサバイバルのための知恵でもある。世界のどの社会でも、弱者を保護するタテマエやそのための仕組みは存在しているが、突き詰めて言えば「強いほうが強い」のが現実だ。そして、負けるのは嫌だといっても、誰もが世界一強くなれるわけはない。常にケンカし続ける訳にもいかない。 だから結局のところは、強者と弱者の間に一定の均衡が生まれて妥協が成立する。弱者は自分が弱者であることを暗黙に認めるが、一定の尊厳は与えられる。強者は利益を得るが、(相手が自分のことを尊重する限り)弱者に一定の配慮をして、叩き潰すことはしない。相手に利用価値があれば、優遇さえもする。そして何事も「誰が最高権力者なのか」という問題が決着しないと話が始まらないが、一度力関係を認めてしまえば、後は話が早い』、「会話や態度の端々から、素早く「・・・どちらが強いか」を察知する」というのは、欧米と共通点があるようだ。「国民全員独立自営」というのが、中国で有力ベンチャー企業が育った一因なのかも知れない。
・『「まるで『ドラゴンボール』の世界ですね」  この話を担当編集者にしたところ、「なんだか、『ドラゴンボール』(作・鳥山明)の世界みたいですね」と言われた。 私はこのマンガを知らないのでピンと来ないのだが、超常能力を持つキャラクターたちがバトルする世界で、「スカウター」と呼ばれる、相手の“戦闘力”を数値化して表示するガジェットが存在する。闘う前に相手と自分とどちらが強いのかがわかるのだという。中国人は確かにそんな感じで、相手の様子を見て“戦闘力”を素早く読み取る。 「ドラゴンボール」はマンガだから、戦闘力が文字通り「桁違い」の相手にも無謀なバトルを挑むし、時には勝てたりもするようだが、もしもドラゴンボールの世界の住人が中国人だけなら、闘いが始まる前に妥協が成立してしまうかもしれない。 それはともかく、「量=大きさ=強さ」であって、「強い=面子が大きい」。面子が大きいことは、14億総自営業モード、人と人の相対取引が基本の世の中で、自分の権利を守って幸福に生きていくために非常に大事なのである。 そんなことだから、中国人の自己アピールは多くの場合、非常に強烈なものになる。 過去のあらゆる経験や知識、学歴・職歴、友人・知人などさまざまな材料を持ち出して自分をアピールする。そのため、もちろん個人差はあるが、多くの場合、中国人の自己評価は異様に高い。背景は別項に譲る・・・が、基本的に「自己評価」が全ての世界なので、ナルシシスト的傾向が強くなる。自分に甘く、他人に厳しい。 俗な例で言えば、身の丈に合わないほどの豪邸に住んだり、高級車に乗ったり、派手な時計をしたり、ブランド品を身につけたりすることを好む人が多いのも、同じ構造に基づく。 そうやって「自分は他の人より優れている(強い)」ことを周囲に常にアピールし、他者からの評価や称賛に執着する。そして、その努力が実って、周囲から「あなたは他の人とは違う。すごい人だ」という認知が得られると、もううれしくてたまらない。俄然、生きる気力が出てくる。もっと称賛を得たい、もっと能力を認められたい、もっと褒められたいと気合を入れて動き始める』、「中国人の自己アピールは多くの場合、非常に強烈なものになる」というのは、むしろ日本人の自己アピールの弱さこそが特筆すべきなのかも知れないと思う。国際機関で働く日本人の少なさにも表れているようだ。
・『中国で暮らしていてつくづく思うのは、中国人とは実に褒められるのが好きな人たちだということだ。もちろんどこの国でも褒められて悪い気のする人はいないが、中国人の「褒められたい願望」の強さはすごい。オフィスなどで若い人をちょっと褒めると、実にうれしそうな顔をする。そして「ボスに褒められた」ことを周囲や家庭で大宣伝する。翌日にはまた褒めてもらおうと思って、「私はこんなことをした」「お客様にこんなことで感謝された」と知らせに来る。うるさいほどである。 逆に「自分は他人より優れていない」ことが明らかになってしまう状況に陥ると、途端にモラルが下がって、どうにも生きる気力がなくなる。そのコントラストが著しい。わかりやすいといえばわかりやすいが、起伏が激しいので時に疲れる。そこでうまくケアする人がいないと、自分が世間に認められないのは「社会が悪いからだ」とか「周囲の人間に人を見る目がないからだ」といった形で、現状を他人のせいにし始める。「自分が悪いのかもしれない」という発想が出てきにくい。これは面子の意識が強すぎることの悪弊といえる』、なるほど。
・『中国人の「面子を立てる」ためには  このように、やや誇張して言うと、中国人という人々は周囲からの称賛というエネルギーを注ぎ込み続けないと、燃料切れで動きが止まってしまうような人たちである。これは詰まるところ、面子の意識がそうさせるのである。 面子は中国人が生きていく上でのエネルギー源のようなものだから、維持するために尋常でない努力をする。自分自身を「面子が大きい」、日本人が言う「面子が立っている」状態に保っておくことに執心するのと同時に、他人の面子に対しても細心に気を配る。 私は月に1~2回程度のペースで上海と日本を往復している。その際、日本から上海に戻る時のスーツケースはさまざまな品物で常に満杯である。中身の大半は中国人の友人たちへの土産物や頼まれ物だ。なぜ毎回、大量の品物を抱えていくかと言えば、それは面子の論理とかかわる。 中国社会で他人に何か贈り物を持っていく、頼まれたことを引き受けることは、それは「私はあなたをこんなに重視していますよ」というメッセージである。単なる「おすそ分け」や「おつきあい」ではない。極めて戦略的な行為である。先に中国人は「褒められたい」「認められたい」という願望が強いと書いた。他人が自分にものをくれる、他人が自分のために動いてくれるということは、すなわちそれだけ尊重されていることを意味する。まして海外からとなれば、評価はさらに高いと考えられる』、「面子は中国人が生きていく上でのエネルギー源のようなものだから、維持するために尋常でない努力をする」で「面子」の重要性を再認識した。
・『私も中国社会で生きているので、戦略は中国人に学ばねばならない。大切な友人、好きな友人ほど高価で、見栄えのするものを持っていく。当然ながら最も高価なものを渡すのは妻に対してである。まさに「これ見よがし」であるが、面子とは詰まるところ「これ見よがし」なのだから仕方がない。 実録、「面子の連鎖」  例えば、日本の老舗の高価なお菓子を中国の友人に渡すとする。 その際には、いかに有名な店で、○○庁御用達とか、何百年の老舗とか、国際○○賞受賞とか、海外の有名スターも食べたとか、いかに高価なものであるか、さまざまなお話をつけて、ありがたみを増幅して渡す。友人は「田中先生はこんなに私のことを重視している」と喜び、「自分は特別である。私は他人より優れている」と確信を持つ。これが中国人の「面子が立っている」状態である。 この友人はお菓子を自宅に持ち帰り、家族に「このお菓子は日本の○○庁御用達、何百年の歴史があり、国際 ○○賞……」と話して聞かせる。「世界トップ500の大企業経営者を相手にしている日本で最も有名なコンサルタントで、テレビにも頻繁に出演している田中先生が私のために日本から持ってきてくれたのだ」などと、ほとんど荒唐無稽な誇張が加わる。家族はそれを聞いて、まあ全て信じているわけではないが、とにかく「すごいねえ。こんなものが食べられるなんて」と喜び、かくも高名な先生から尊重されている父を称賛する。これで家族も含めて面子が立っている状態になる。 さらに友人の妻はお菓子を自分はほんの少ししか食べず、そのまま実家の母親に持っていく。母親は大切な人だからである。そこで友人の妻は「日本で最も有名なコンサル……、○○庁御用達の……」と口上を述べ、母親は素直に喜ぶ。ここで彼の妻の面子に加え、こんな立派な先生が友人にいる人徳のある亭主がいて、しかも自分は我慢してもお菓子を親のところに持ってくる孝行娘を持った母親とそのご主人の面子は大いに立つのである。 話はまだ終わらない。この友人の妻の母親は、もらったお菓子をほとんど食べず、そのまま老人会の友人たちに持って行く。大事な仲間だからである。そこで母親は「私の娘の亭主の友人である日本で最も有名な……、○○庁御用達……」と語り、お菓子をふるまう。仲間は自分たちが尊重されたことに満足しつつ、「立派な娘婿と孝行娘を持って幸せだねえ」と羨ましがってみせ、友人の妻の母親を称賛する。これで友人たちに加え、友人の妻の母親の面子も大いに立つのである。 このように中国人の間の「面子の連鎖」はどんどん巡っていく。自分も面子を立ててもらうが、それを使って周囲の人の面子も立てる。そうやって「面子の立て合い」をすることでコミュニティは円滑に回っていく。だから中国人は他人からものをもらった時、ご馳走してくれた時などに「なんだ、これ見よがしに、金持ち風吹かせやがって」などとは決して言わない。ものをくれるのは自分が尊重されている証しだと素直に喜ぶ。そして相手を称賛する。それがルールである』、「面子の連鎖」とは社会を円滑にする上手い仕組みだ。
・『面子はモチベーションと不満、両方の源泉  このように中国社会では、面子はコミュニケーションの根幹をなしている。相手に自分のことを好きになってほしければ、まずその相手の面子を立てなければならない。それはつまり相手が「自分は特別な人間である」「自分は他人より優れている」と実感できるようにすることである。 だから有能な中国人は、ある人に対して好感を持ったら、とにかく「あなたは能力がある」「私はあなたを高く評価している」と明確に伝える。そして相手の自尊心を満足させ、自分にも好意を持ってもらえるよう努力する……そんなことを「先払い」の話・・・で紹介したが、そうすることによってたとえ外国人であっても中国人社会にスムーズに溶け込んでいけるし、子細に観察していれば、有能な中国人ほどそうやって相手を自分の「勢力範囲」に取り込んでいく。周囲に尊大な態度を取っている連中にロクな人物はいない(これは日本でも同じだ)。 面子はこのようにポジティブな側面を持つ一方、厄介な面もある。常に「自分は他人より優れている」ことを証明しようと行動しているのだから、分業やチームプレーが得意なわけがない。全体の利益を考えるより、自分が評価されることを優先してしまう傾向が強いのは面子の最大の弊害だ。 また、仮にある中国人が「自分は他人より優れている」と信じているとしても、現実にはそうではないケースは多いわけで、その人たちはいつか自尊心と現実の折り合いをつけなければならない。それはつらい作業である。中には折り合いをつけられない人も出てくる。 面子は中国社会のモチベーションの源泉であると同時に、社会に充満する不満の源泉でもある。ものごとを「量の大小」「力の強弱」という評価軸で判断する傾向の強い中国社会の光と陰が「面子」に表れている。日本人的なお気軽な感覚で「面子」をとらえると、認識を誤る。 中国の「面子」とは、「スカウター」を付けた14億人が、いつでもどこでも「量」を巡る真剣勝負をしている国だ、ということなのである』、「お気軽な感覚で「面子」をとらえる」ことのないよう気を付けたい。
タグ:「面子が大きい」 日中関係 (その3)(小田嶋氏:安倍首相の静かな訪中と読書録、本の紹介:中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界) スッキリ中国論 スジの日本、量の中国 日本語の「面子」とは意味も重さも違う 面子(メンツ) 「中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界 「スカウター」のように相手の「強さ」を読み合う」 『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』 「問題解決能力が高い」ことを意味 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 「スジの日本、量の中国」 『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著:日経BP社刊 上海行きの便が到着地の悪天候で出発できず、乗客が成田空港で夜通し足止めされるという事態が発生 なにはともあれ、先方に足を運んだことだけでも大手柄だった 首相再登板以降の約6年間で延べ149カ国・地域を訪れたが、中国に2国間の枠組みで赴くのは今回が初めてだ 「安倍首相の静かな訪中と読書録」 とにかく行って顔つなぎをしてくることに意味 世間の評価は意外なほど冷淡 アンチとシンパの双方が微妙に口ごもっている 成田空港 中国人は、われわれの想像を超えて振れ幅の大きい人たちで、しかもその振れ幅は、個々人の持ち前の人格そのものよりは、相互の立ち位置や関係性を反映している 「中国人」という生身の人間を題材にした書物で、これほど画期的な本はなかなか見つからないと思う どういうカウンターパートと付き合っているのかによって、日本人の中国人観はまったく違うものになるということらしい 自分の中で、長い間打ち捨てられていたいくつかの小さな疑問が、「そういうことか」と、いきなり生命を得て動き出した感じと言えば良いのか、とにかく、上質のミステリーの謎解き部分を読んだ時の爽快感を久しぶりに思い出した 今回、安倍さんがとりあえず習近平氏の面子を立てておく選択肢を選んだことは事実で、してみると、首相の周辺には、優秀なアドバイザーがいるのだろう 田中 信彦 われわれ中国国民の安全で快適な旅行を保証するのは中国の統治者の責任である。その中には航空会社や外国の政府に圧力をかけて必要な措置を提供させることも含む。それをただちに実行せよ 航空会社の対応に一部の乗客が反発 1人が警察に逮捕された。そこで乗客たちは集団で中国国歌「義勇軍行進曲」を歌って抗議 「面子」が絡むと対人関係が「勝ち負け」になってしまう。これは中国社会のモチベーションの源泉であると同時に大きな問題でもある 中国人の「面子を立てる」ためには 「誰よりも優れている」という、最大級の褒め言葉 「量」の思考法が強いる、他人との比較 「面子がない」「面子がつぶれる」状況とは、「自分は他人より優れていない」ことが公衆の面前で実証されてしまう事態を指す 中国人は、誰かと向き合った時、人の「個性の差」よりも、相手との「力関係」を意識する傾向が強い 中国人にとっての「面子」は、自分という人間が人格を肯定されるか否定されるか、くらいの意味をもつ 国民全員独立自営、全ては人と人の相対取引 中国人の自己アピールは多くの場合、非常に強烈なものになる 「面子の連鎖」 面子は中国人が生きていく上でのエネルギー源のようなものだから、維持するために尋常でない努力をする 日本人的なお気軽な感覚で「面子」をとらえると、認識を誤る 面子はモチベーションと不満、両方の源泉
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