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バブル崩壊(山一證券問題)(山一證券の「消滅」から20年、山一證券の極秘報告書を入手!実名で暴かれた「本当の悪」 自主廃業から20年目のスクープ) [金融]

今日は、バブル崩壊(山一證券問題)(山一證券の「消滅」から20年、山一證券の極秘報告書を入手!実名で暴かれた「本当の悪」 自主廃業から20年目のスクープ)を取上げよう。

先ずは、昨年11月16日付け闇株新聞「山一證券の「消滅」から20年」を紹介しよう。なお、闇株新聞は本年7月7日から休刊になっている。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-2123.html
・『まだ少し時間がありますが、山一證券が「消滅」した1997年11月24日からちょうど20年となります。そこで今もあまり明らかになっていない山一證券「消滅」の裏側について書いておきます。破綻とか倒産ではなく「消滅」としている理由も出てきます。 日経平均は最近の上昇でバブル崩壊後の高値を更新しましたが、その高値とは1996年6月16日の22666円(終値)だったため、その1年半後には山一證券が「消滅」したことになります。そしてその前段が三洋証券と北海道拓殖銀行の破綻でした。 バブル期に巨大なトレーディングルームを江東区塩浜に建設するなど積極経営を続けていた中堅の三洋証券は、バブルが弾けるとたちまち経営不振に陥っていました。とりわけノンバンク子会社の「三洋ファイナンス」への債務保証が大きくのしかかり、1992年3月期から1997年3月期まで6期連続の赤字決算となっていました。 1994年に大蔵省主導で大株主の野村證券が200億円の第三者割当増資を引き受け、生保各社も200億円の劣後ローンを提供したものの、三洋証券はその劣後ローンの期間延長でやっと自己資本比率200%を維持する状態が続きました。劣後ローンは返済期限が近づくと自己資本に算入できなくなるからです。 しかしその劣後ローンも1997年10月末をもって延長されず、三洋証券は同年11月3日に会社更生法の適用を申請し、翌4日に資産保全命令が出ます。ところがそこで三洋証券が群馬中央信用金庫から調達していた10億円の無担保コールがデフォルトしてしまいました。金融機関同士の信用で成り立っているインターバンク市場における最初のデフォルトとなりました』、命綱の劣後ローンが延長されないのが当局は分かっていた筈で、僅か10億円の無担保コールをデフォルトさせ、システミック・リスクの引き金を引いた当局の罪は重い。
・『その余波はたちまちコールなどインターバンク市場を直撃し、綱渡りで運転資金をやりくりしていた都市銀行の北海道拓殖銀行が11月15日に破綻し、11月24日には巨額簿外損失を抱えていた山一證券が「消滅」し、さらに翌1998年には巨額の不良債権を抱える日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻する本格的な金融危機となりました。 このコール市場の「たった」10億円のデフォルトが、すべてのきっかけだったとは言いませんが、そこから山一證券の「消滅」に至る背景には、もっと恐ろしい旧大蔵省の「思惑」が働いていたようです。 当時の首相は橋本龍太郎で、その最大の政策は行政改革でした。しかしそこで掲げる「財政と金融の分離」は、当時の旧大蔵省にとって絶対に潰したいものだったはずです。 1997年11月14日の夕方、大蔵省の長野証券局長を訪ねた山一證券の野沢社長に対し、長野局長はハッキリと「山一證券は三洋証券とは規模が違う」と支援を約束していました。この時点では山一證券の抱える巨額簿外損失も長野局長に詳しく説明してあったはずです。 ところが同じ1997年11月14日に橋本首相が小村大蔵省次官に「財政と金融の分離」を最終通告したため、そこで旧大蔵省の態度が一変しました。 つまり山一證券が破綻して(今から考えると北海道拓殖銀行の破綻も同じ理由だったはずですが)財政出動となるなら、金融政策も一体として旧大蔵省が主導権を取らなければならないという理屈です。 また旧大蔵省は橋本首相が主導した金融ビックバンも、金融危機が発生する懸念を無視した軽率なものであり、それが三洋証券を破綻させてコール市場のデフォルトを引き起こしたと批判したかったようです。 つまり三洋証券破綻・コールのデフォルト・北海道拓殖銀行破綻・山一證券「消滅」は、すべて橋本行政改革とくに「財政と金融の分離」を潰すための旧大蔵省のクーデターだったことになります。橋本首相の秘書官だった江田憲司氏もそうおっしゃっています』、3社破綻は「旧大蔵省のクーデター」だったとは、頷ける話だ。
・『そして運命の1997年11月22日、行政改革に向けた集中審議の最終日であり審議が翌23日未明までずれ込み、橋本首相が記者会見を行っていた午前3時20分に日経新聞が「山一證券、自主廃業へ」との第一報を打ちます。その段階で行政改革も「財政と金融の分離」も消し飛んでしまいました。 日経新聞の報道はもちろん旧大蔵省のリークで、一番驚いたのは当の山一證券の野沢社長だったはずです。つまりこの時点の山一證券は債務超過にはなっておらず、したがって巨額簿外損失の相談なども受けたことがなく、ただ山一證券が自主的に廃業したとして見事に梯子を外してしまいました。 山一證券はあくまでも「自主廃業」となったあとに巨額簿外損失が見つかり破産に追い込まれたことになっています。山一證券はそのままでもすぐに破綻していたはずですが、そうなる前に旧大蔵省の責任逃れと橋本行政改革とりわけ「財政と金融の分離」を潰すために「消滅」させられたことになります』、「山一證券、自主廃業へ」が旧大蔵省のリークだったとは、悪辣なやり方だ。
・『しかしここまでして潰した「財政と金融の分離」は、たった数か月後の1998年3月に検察庁が過剰接待で旧大蔵省のキャリア官僚を逮捕したため、結局旧大蔵省は財務省と金融庁に分離されて現在に至ります。官邸の圧力をはねのけた旧大蔵省は、同じ官僚組織(検察庁)に足元を掬われた(すくわれた)ことになります。 20年も前の山一證券「消滅」など、もう世間の関心を引くこともないと思うので、このタイミングで記事にしました』、当時の雰囲気を思い出すことが出来た。

次に、元読売新聞記者でノンフィクション作家の清武 英利氏が昨年12月11日付け現代ビジネスに寄稿した「山一證券の極秘報告書を入手!実名で暴かれた「本当の悪」 自主廃業から20年目のスクープ」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53653
・『野澤正平社長(当時)が涙の記者会見をしてから20年。だが、最後まで山一證券に自浄作用が働くことはなかった。それを示す「極秘報告書」について、『しんがり』『空あかり』の著者が真相を明かす。 不正は「公然の秘密」  もし、その報告書が公表されていれば、日本の企業社会に痛烈な教訓を残していただろう。20年前に経営破綻した山一證券の法的責任判定委員会が作成し、封印された2つの報告書のことである。 東芝の不正会計や日産の検査不正、神戸製鋼所の検査データ改竄など、組織ぐるみの不正が横行する大企業にあって、その「不正の協業」に対する責任追及はいかに行われるべきなのか、報告書は大きな道標になった――はずだった。 2つの文書は、日本企業に共通した組織的不正の構造をえぐり出しただけではない。 日本企業では、出世と引き換えに、〝背信の階段〟を登る多くの社員が生まれるということ、そして、彼らの協業が不正を長く隠蔽させ、遂には会社を窮地へと導くことを、多数の関与者の実名を挙げて告発していた』、極秘報告書が封印されたのは、かえすがえすも残念だ。
・『山一破綻から20年を迎えたのを機に、私は元山一社員の再起の物語を改めて取材して歩いたが、いまなお怒りを秘めた人のなんと多かったことだろう。 山一を見限った元課長は「社内各所に含み損が隠蔽されていることは公然の秘密だった」と語る。 自ら組織不正に加わっていたと証言する者、「内部告発を生かす企業社会に」と主張する元社員……私が出会った元社員の声と、〝幻の報告書〟を支えに、日本企業の病理を改めて検証してみよう。  四大証券の一つだった山一證券は、1997年11月24日、金融不況のさなかに約2600億円の債務隠しが発覚して、自主廃業に追い込まれた。簿外債務の事実を知らされず、失職した役員や社員は激怒し、新旧経営陣の追及を始める。 だが、その不正は法人部門で「公然の秘密だった」と、「レコフ」(東京・麹町)社長の稲田洋一は語る。 いま、東芝や日産、神戸製鋼所で繰り返される日本企業の「不正協業」の構図である。稲田は山一破綻の3年前、山一事業法人第一部課長の職を投げ打ち、日本のM&Aビジネスの草分けであるレコフに飛び込んでいる。 「山一本社では、法人営業のエリートと言われる営業マンたちが飛ぶ鳥を落とす勢いでした。会社の容認、黙認のもとで、(不正な)利回り保証をしてファンドを集めてくる。そんな専門家が綺羅、星のごとくいて、その人たちが『特A』評価を受けていた。それが損失を生んでいるのに、誰も何も責任を取らないし処罰もされない」 証券会社では嫌なことも感覚をマヒさせることも起きる。だとしても、それはあまりに不条理で許せない、と稲田は思っていた。彼は'93年夏、米国留学から帰ってきた。 「そのころ、飛ばしの末に、とてつもない含み損が各所に存在していて、それが隠蔽されていました」と稲田は言う。 彼はその金額が1兆円を超えていて、処理不能だろうと考える。それ以上に深刻だったのは、経営陣の対応だった。 「分かっていて、目をつぶり問題を拡大し、完璧に隠蔽した。まさか(辞めて)3年でつぶれるとは思いませんでしたが、いずれこの会社はだめになるということには、ほぼ100%の確信がありました」』、米国留学から帰ってきたばかりの稲田氏にとっては、大きなショックだったに違いない。
・『野澤社長が「封印」した理由  山一の元女性社員によると、債券部には怪しげな伝票が回ってきていた。それは、当日の取引が終了した後のことで、課長が「これ、頼むよ」とさらりと伝票を出してくる。 書き込まれた金額は50億円や100億円という単位で、とても説明がつかなかった。担当者は言われた通りにそれに判子を押していたが、内心では疑っていた。 ――あれは不良債務を海外へ飛ばすカラクリの一端だったのではないか。 総務部長だった永井清一は、破綻の半年前から毎朝、ポストに新聞を取りに行くのが怖かったという。 17年間、大手企業の増資や社債発行を担当する引受業務に従事し、法人顧客への損失補填や「飛ばし」の実態を認識していたからである。いつか、破綻の日が来るのではないか、と恐怖心に揺れていたのだった。 永井の不安や元女性社員の疑問、そして稲田の指摘――それらを裏付ける2つの報告書がある。 冒頭でも述べたが、その1つが1998年6月に記された「法的責任判定の第一次報告書――国内の簿外債務発生の責任について」(13ページ、通称「第一次報告書」)、2つ目が同10月にまとめられた「法的責任判定の最終報告書」(130ページ、通称「最終報告書」)である。 いずれも最後の経営陣から依頼された3人の弁護士と公認会計士の計4人による「山一證券法的責任判定委員会」(委員長・渡邊顯弁護士)が作成したものだ。 社長だった野澤正平らに報告されたが、公表されず、特に最終報告書は「まとめられたことさえ明らかにできない」という姿勢を、野澤らは貫いた。 これらが封印されたのは、要するに委員会の渡邊や國廣正らの指摘が精緻、峻烈で、野澤らを役員に抜擢した旧経営陣にとってあまりに都合の悪い内容だったからだ。彼らは株主などからの訴訟を控えていた』、いくら訴訟を控えていたとはいえ、わざわざ作成させた報告書を封印した野澤社長の罪は重い。これでは、彼の「涙」の価値も消し飛んでしまう。
・『「最終報告書」は、①山一には、簿外処理による粉飾決算という無法地帯が広がり、②山一エンタープライズなど、関連企業というアンタッチャブルな伏魔殿も存在していた――と指摘したうえで、不正関与者は「皆偉くなった」と次のように述べる。〈(不正は)山一證券の役員の誰かが単独に出来る筈はなく、特金口座の維持管理、貸債の流れに応じた事務処理、法的形態に応じた資金の授受及び現先の実行とその事務処理まで、幅広く複数の部門とその部門の責任者による有機的なチームワークが必要であった。それこそ山一證券の社風である一糸乱れぬ見事な協業体制があった。 関与部門の各責任者は、何故この取引がなされなければならないかを当然に知っており、しかも口外出来ない性格のものであることを承知で粛々と事務処理を担当していた』、不正行為がこれだけ組織的に粛々と行われていたのは、山一證券の社風の「素晴らしさ」を物語っている。通常であれば、組織の効率を高めるが、組織が誤った方向に向かうと暴走するリスクを孕んでいるようだ。
・『「秘密サークル」が出世する  そして、不正の主な関与部門として、財務本部、債券本部、法人営業本部を挙げる。山一の簿外債務事件で刑事責任を追及されたのは、元会長の行平次雄と元社長の三木淳夫の2人だけだが、実際の債務隠しには14人の取締役や監査役が関与したとして、その実名を記した。 さらに、彼らが秘密を共有するにつれて昇進し、何十、何百人という部下を巻き込んでいった経緯と、年度順に追った〝出世一覧表〟(関与取締役一覧)を掲載して、次のように結論付ける。〈このいわば会社の恥部を知った、秘密サークルに属している部門の責任者が会社の重要なポストを占める様になっていた〉 正富芳信は、その秘密サークルの端にいた。事業法人部で破綻までの6年間、財テク企業として名を馳せた鉄鋼商社「阪和興業」を担当し、「飛ばし」を続けている。法人営業本部や事業法人本部の関与者がいまだに取材拒否を貫くなかで、彼は堂々と今回の取材に応じた。 拙著『空あかり 山一證券〝しんがり〟百人の言葉』の中で、破綻後に同期の仲間から「A級戦犯」と呼ばれた苦しい日々を振り返っている。 「紙に書いた(裏の)契約書があったんです。役員の名前が書いてあって、向こうの社長の名前、いくら預かったか、落とし(利益)はいくらか、期間はいつかと、そういう確定利回り何%で金額はこうなりますという内容です。 ニギリをした会社は、阪和興業ばかりではなく、そういう紙がすべてにあったんですよ。念書みたいに必ず一筆書いています。監査が入って見つかるとヤバいので、みんな自宅に持ち帰っていました」 山一の内情を調べあげた最終報告書は、こうも指摘している。〈関与部門の役員レベルのみではなく、それ以下の相当の職位の部下も携わっていた。極端な場合には、取引の伝票に関する起票者から承認まで全関係者が事実関係を部分的ではあるにせよ知っていたと考えられる〉 飛ばしの末に山一が破綻すると、事業法人部門の社員は次々と再就職を決め、会社に来なくなった。だが、正富は'98年3月に全員解雇されるまで残り、担当した会社を回って頭を下げた。求人情報を聞き取っては、山一社内の「再就職掲示板」に求人票を掲示していったという。 「A級戦犯の自分としては、自分だけさっさと再就職するわけにいかなかった。そこまでしないと同期社員に対して顔が立たなかった」と彼は言う。 大企業の同調圧力は、こうして若い社員まで不正に染め上げ、苦しめる。山一の元海外事務部長だった福原恒夫は「日本の企業は隠蔽体質を簡単には変えられないのだ。自浄作用もほとんどない」と指摘する。 「だから、早い段階での内部告発も必要だ。それは、内部で不正一掃を言い出せない時、膿を早く出し、結果的に企業や社員を救うための良策ではないか」 哀しいことに、社長の野澤ら最後の経営陣は、破綻後もなお、旧経営陣とその取り巻きを厳しく指弾できなかった』、「日本の企業は隠蔽体質を簡単には変えられないのだ。自浄作用もほとんどない」との指摘は、いまだに日本型組織の通弊のようだ。
・『実は、破綻後の山一には、これら2つの報告書とは別に、業務監理本部長だった嘉本隆正率いる有志によってまとめられた「社内調査報告書」(106ページ)があった。 ▽「会社のため」は認めない(これは、第一次報告書の2ヵ月前に、一部役員の反対を押し切って公表されていた。 常務の嘉本らは破棄される寸前の内部資料を探し出し、100人を超す元幹部からヒアリングを実施したりして、簿外債務の実態と社内の債務隠しチームの存在を突き止めている。 企業の社内調査の前例になる画期的な内容だったが、嘉本も役員の席に連なっていたことから、その後の責任追及は弁護士ら外部識者に委ねざるを得なかった。 そのころには社内調査の有志たちも会社を離れており、社員の怒りの力を結集できなかったことも、2つの報告書の封印を許す一因となった。 別項は「第一次報告書」の概要である。その冒頭に、〈判定委員会は、従来の我が国企業の「常識」から見て許されてきた行為であっても、法の観点から問題ありと認められれば有責と判定することに躊躇しない。「会社のため」という抗弁を認めない〉と宣言し、〈こうした抗弁は「証券四社からの脱落のおそれ」や「経営責任を問われることへの恐怖」を、「会社がつぶれる」という言葉にすり替えているものと思われる〉と断じた。それらの指摘も新旧経営陣の畏怖と抵抗を招いた。 真実の公表は、山一社員や株主、顧客に対する責務だったはずだが、不正の泥沼の中から生まれた経営陣は、結局最後の仕事を果たさなかった。 『空あかり』に登場した元社員の間には、「会社のために生きてはいけない」「ゴマすり人間にだけはなってはいけない」という声が強い。それは会社に――いや、役員や一部のエリートたちに裏切られた一般社員の痛切な企業批判であるように思える』、報告書が封印されたことで、残念ながら、同じ過ちに陥る企業がまた出てくることになるだろう。
・『第一次報告書の概要 〈結論〉 山一證券は「国内の簿外債務の発生」に関し、10名(役職名は'91年12月当時)に対して損害賠償請求の法的手続きをとるべきである。 横田良男(代表取締役会長)、行平次雄(代表取締役社長)、延命隆(代表取締役副社長=故人)、石原仁(代表取締役副社長)、三木淳夫(代表取締役副社長)、高木眞行(顧問・元専務取締役)、小西正純(常務取締役)、白井隆二(常務取締役)、礒守男(取締役)、木下公明(企画室付部長)=このうち木下を除く9人に訴訟が起こされた。 〈損害賠償請求の原因となる経緯〉 山一證券事業法人本部では1987年頃から、顧客企業に対し一任勘定で利回り保証を約した勧誘(ニギリ)で資金導入を図るケースが増加した。  「ニギリ」は、'88年頃から組織的に行われ、損失が生じるものも増加し、損失を先送りする「飛ばし」も行われるようになった。'90年6月頃からファンドの処理に関しては、①客とトラブらない②粛々と引っ張れ③営業担当者の責任にはしない、という方向で、損失補填や「飛ばし」が続けられた。 しかし、'91年夏、証券不祥事が発覚、損失補填が強い社会的非難を浴び、顧客企業からファンド解消の要求が相次ぐようになり、「飛ばし」による先送り方針も維持できない状況に追い込まれていった。 〈行為1〉行平、延命、石原、三木、高木、小西、白井、礒、木下は'91年11月頃から'92年1月頃にかけて、共謀の上、顧客企業との間で引き取りにつき争いになっていた含み損のある有価証券を引き取ることを決定した。この決定に基づき、7社が保有していた含み損のある有価証券を、ペーパー会社に帰属させるというスキームを用いて引き取った。これにより、約1207億円('92年3月末、国内分のみ)の被害を被った。 〈行為2〉会長の横田はこれらの行為を知りうべき立場にあり、取締役としてこれを阻止すべき法的義務(監視業務)を怠った』、旧役員への損害賠償請求は結局されなかったらしいが、理由は不明である。いずれにしろ、裁判を通じた有用な教訓が、監査法人を除いては残らなかったのは残念である。
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