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日本の構造問題(その10)(山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解くシリーズ:日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由、戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?、日本では なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?) [社会]

日本の構造問題については、昨年12月26日に取上げた。今日は、(その10)(山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解くシリーズ:日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由、戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?、日本では なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?)である。

先ずは、ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表の鈴木博毅氏が1月11日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由」を紹介しよう。ただ、注は省略する。
https://diamond.jp/articles/-/189198
・『仲間内で独立しようと話が盛り上がっても、ある人が「先立つ資金がない」と水を差せば、とたんにその場の空気は消えてしまう。しかし、時間がたてば、また同じような空気が生まれる。生まれた空気にいくら水を差しても、再び空気が現れるのはなぜか。 日本のあらゆる組織に表れる空気という妖怪。現代でも、日本人は空気に突き動かされると不可解な暴走をしてしまうが、日本人が空気に水を差せない謎を、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解く。新刊『「超」入門 空気の研究』から内容の一部を特別公開』、思い当たるところが多そうだ。
・『空気に対して「水を差す」ことは本当にできるのか?  これまで「空気」という妖怪の危険性について解説してきましたが、一方で日本には、その場の空気を壊す「水を差す」という表現があります。「水を差す」の一般的な意味は、うまくいっていることを邪魔するなどです。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 山本七平氏は、『「空気」の研究』の中で、空気と対峙する「水」の存在についても詳しく解説しています。 山本氏が青年時代、出版仲間で自分たちが出版したい本の議論をしたときのこと。話がどんどん具体化していき、相当に売れそうだという気持ちになっていく。 「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同ではじめるか」という段階まで空気が過熱するも、誰かが「先立つものがネエなあ」と一言いうと、一瞬でその場の空気は崩壊してしまいます。つまり、資金問題という現実に直面して、空気が雲散霧消してしまったのです』、こんなことが確かに若い頃にはあったようだ。
・『空気の暴走を食い止める「水」と「雨」  山本氏は、「雨」を、「水」が連続したものと定義しています。 われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば“現実”であって、しとしとと降りつづく“現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。 水と雨について、山本氏の記述から次のような関係性を導くことができます。 ●水と雨の違い +「水」とは、最も具体的な目前の障害 +「雨」とは、水の連続したもの、すなわち日本社会の常識や通常性(文化・習慣) 私たち日本人は、空気に突き動かされたとき、非現実的な行動を誘発しがちです。それを防止する役割を果たすのが現実的な障害を意味する「水」、水の集合体としての日本社会の通常性、すなわち「雨」と指摘されているのです』、空気が盛り上がっている時に「水」を差されると、頭にくることもあるが、確かに暴走を防ぐ重要な役割もあるようだ。
・『空気と対比される「水」とは一体何なのか  これまで、空気とは「ある種の前提」だと定義しました。では、水の定義はどうなるのでしょうか。山本氏の定義を再度確認してみましょう。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 この文面から、本書では「水」を次のように定義します。 「水」=現実を土台とした前提 これまでの連載で解説したように、「空気(=ある種の前提)」は何らかの虚構を誘発する存在でした。理由は、前提を絶対化する過程で、矛盾する現実を無視させる圧力となるからです。 空気の場合は、願望や希望に近い形で現実を無視させる方向性を持ちます。 一方の水は、現実を土台とした前提として機能し、「そんなことは無理だよ」「お前の今の成績では難関大学は合格できないだろう」などの発言に代表されます。 小さな企業が著名な巨大企業との契約を得ることも「たぶん無理だろう」と誰かが言えば、それは願望に対するブレーキとして「水を差す」ことになるでしょう。 水の場合は、現実を土台とした前提として未見の可能性を無視させるのです。 もう少しやわらかい例で考えてみましょう。 例えば、模試の判定がD(悪い)の高校生が、それでも名門の難関大学を受験したいと主張した場合。「絶対に合格するぞ!」と自分の中で空気を盛り上げることは、模試のD判定という足元の現実を無視しています。これは「やればできる」という“願望としての前提”が学生の中にあるわけです。 一方で、「この成績では絶対に合格は無理だ」と周囲が水を差すことは、一般的な大学受験の合格率という“現実に即した前提”を基に、生徒がこれから驚くほど努力して、受験前に成績を大きく伸ばす可能性を無視しています。 空気と水はともに「前提」ですが、その方向性と無視させる対象が違うのです』、最後の部分はあと1つピンとこないが、下の方まで読めば分かるのかも知れない。
・『水があるのに、どうして空気の猛威が消えないのか  出版仲間と独立するか、という山本氏の話には重要なポイントがあります。資金がないという「水」を投げかけられても、同じ空気が繰り返し起こったことです。 私は何度か、否、何十回かそれを体験した。 必ず成功するという空気(前提)が盛り上がる度に「水」を差しても、なぜ独立の空気がまた盛り上がるのか。戦艦大和の出撃の議論と同様、「独立する」はダミーの目標だからです。 ●出版仲間で独立する話が盛り上がる理由 「空気(願望の前提)」=必ず売れそうな本(だからみんなで独立して出版しよう) 「水(現実を土台とした前提)」=資金がなければ独立はできない 「隠れた本当の動機」=今の会社員生活は、不自由や不満が絶えない つくりたい本、仲間と独立して成功したいなどの気持ちは、実際は現在のサラリーマン生活が、不自由で待遇に不満があるという隠れた願望の裏返しかもしれません。 そうであれば、資金があるか否かという現実の障害とは関係なく、独立願望は何度も立ち上がります。サラリーマン生活が不満、不自由だという空気には水を差していないからです。 「水」の基本は「世の中はそういうものじゃない」とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」とかいう形で、経験則を基に思考を打ち切らす行き方であっても、その言葉が出て来る基となる矛盾には一切ふれない』、論議のなかで、「隠れた本当の動機」を見極めるのは実際には容易ではなさそうだ。
・『水を差しても空気が消えない理由  戦時中にあった、戦艦大和の特攻の是非についての議論を再度考えてみましょう。この議論における水(現実を土台とした前提)は、沖縄特攻の成功確率がほとんどゼロということでした。これはまさに「現実を土台とした前提」です。 しかし、沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした。これこそが「言葉が出て来る基になる矛盾」なのです。 資金がないのに独立する、という発想はある種の無茶です。同様に、作戦の成功確率がほぼゼロなのに、戦艦で特攻するのも無茶なのです。 なぜ、この「無茶」が出てくるかを、水は一切洞察することなく否定します。本来は、なぜ「無茶」が出てくるのか、その出発点こそ探り、解体すべきなのです。 ダミーの目標に水を差しても、真の動機に水を差さない限り、沖縄特攻や独立話のように、無茶で無謀な空気が何度も立ち上がってくるのです』、「沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした」というのは確かにその通りなのだろう。しかし、真の動機を明かす訳にはいかないので、一旦、作戦として立案されると、表面的なもので走り出してしまったのだろう。

次に、上記の続きを、1月15日付け「戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189929
・『戦時中、日本では竹槍でアメリカの爆撃機B29を落とそうとする訓練が行われていたという。物理的に考えれば届くはずがないのに、多くの人はこの竹槍訓練を行っていた。勇気ある人が「B29には届かない」と言ったとき、その人は一体どうなったのか。日本国民の多くが竹槍で戦う「空気」に縛られたとき、そこに「水を差す」人に対する恐るべき対応とは? 日本人が次第に「常識」に縛り付けられていく精神性の謎を読み解いた、日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をダイジェストで読む。新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開』、これもなかなか興味深そうだ。
・『水(雨)は、あなたを別の形で拘束している  「空気」は、何らかの不都合な現実に対する対極的な世界観として、日本人を拘束してきました。 一方で、「水を差す」などの表現にある、現実を土台とする前提の「水」、その連続としての「雨」は、ネガティブな方向、あれもダメ、これもできないという萎縮の拘束です。 加熱した空気を崩壊させる「水」は、一見したところ私たち日本人を、「空気」の拘束から解放してくれる自由への道具だと思われました。 しかし、無謀な空気を現実に引き戻す一方で、一般常識や現実的な視点に、私たちを拘束する別の鎖でもある。これでは、自由を求めていたはずの日本人は、希望を失わざるを得ません』、なるほど確かにその通りなのだろう。
・『水はやがて日本人を「常識」に縛り付ける  水の集合としての雨は、日本の文化的な常識(通常性)とも言えます。 「おじぎ」という奇妙な体型をとれば相手もそれとほぼ同じ体型をとるという作用が通常性的作用(中略)信号が赤になれば、田中元首相の車も宮本委員長の車も、反射的にとまるであろう。これが空間的通常性。 しかし、山本氏は恐ろしい指摘もしています。水と雨が、実は対極であるはずの「空気」を醸成する基盤になっていることです。 われわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう。 対極であるはずの水が、その通常性ゆえに、日本人を拘束する「空気」に変容する。これは一体、何を意味しているのでしょうか』、俄かには理解し難いので、次を読んでみよう。
・『水は「世の中そういうもの」という通常性をぶつけてくる  「水=現実を土台とした前提」は、通常性を基にして判断させようとします。理想や夢を高く掲げると、「世の中そんなに甘くない」とすぐに水を差す人が現れます。これは現実を土台とした否定的な前提を突き付けているのです。 もし声高に主張すれば、理不尽なことも通ってしまうなら、空気と水はどうなるか。 「この理不尽な前提を受け入れさせてやろう!」=異常性を押し付ける「空気」 「常識的にそんな勝手が通っていいはずがない」=異常性に反論する「水」 「世の中そんなものですよ、残念ながら」=通常性としての「水」 空気(願望的な前提)に、現実的な視点を提示し続ける(水を差す)と、次第に「これまでどおりで行くべきなのかな」となってきます。異常性に「通常性で」反論すると、最後は日本社会の慣習的な姿になるからです。前例主義のように、「水」が現状のゆがみも通常性として引き継ぐ悪循環に陥るのです。 「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである。 現実を土台とした前提の「水」は、やがて日本社会の通常性に戻る作用を発揮します。その一つが「資本の論理」や「市民の論理」など、ムラが複数存在する情況倫理の世界です。そうなると、ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです』、「「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである」、「ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです」などというのは、確かにその通りなのだろう。
・『「竹槍ではB29を撃墜できない」と言った者と現代日本   竹槍戦術の練習は、現代の日本人には信じがたい戦争中の出来事の一つでしょう。敗戦直前には、上陸する米兵(人形)を婦人が竹槍で刺し殺す訓練までありました。 さらに一部には、竹槍でB29爆撃機を撃墜するポーズの練習まであったのです。B29は米軍の開発した長距離戦略爆撃機であり、竹槍で落とすなど不可能です。ライフルを持つ米兵を、婦人や子どもが竹槍で殺傷することも、できるはずもありません。 『「空気」の研究』の第2章では、「竹槍で醸成された空気」という言葉が出てきます。勇気ある一人の人が「それはB29にとどかない」と言ったと山本氏は述べています。 「それはB29に届かない」との指摘は、現実を土台とした前提という意味でまさに「水」です。現実的な前提である「水」を差されたとき、戦時中の日本ではどうなったか。 そのような指摘をする者を“非国民”だと糾弾し、物理的な現実を無視させ続けたのです。 本人がそれを正しい意味の軍国主義(ミリタリズム)の立場から口にしても、その行為は非国民とされて不思議でないわけである。これは舞台の女形を指さして「男だ、男だ」と言うようなものだから、劇場の外へ退席させざるを得ない。 ウソを集団に共有させて、現実を指摘した者を、弾圧するか村八分にして孤立させる。虚構の共有は、舞台のような芸術分野であれば、趣味趣向として意味を持ちます。しかし高度1万メートルを飛ぶ爆撃機は、人間を殺す爆弾の雨を降らせます。 にもかかわらず、共同体の情況(物の見方)に現実を投げかけた者を“非国民”と呼びました。物理的に間違っていることを認めたら、虚構がすべて崩壊してしまうからです』、「“非国民”」とは確かに恐ろしいレッテルだ。虚構を維持するためのものであったとしても。
・『「非国民」「努力の尊さ」という詐術のメカニズム  「おまえは非国民だ!」の指摘にはもう一つの構造があります。物理的な問題を、感情や心情的な問題にすり替えていることです。 こんなにみんなが努力しているのに、お前はそれを笑うのか、という非難は、いつの間にか、物理的な問題を心情的な問題にすり替えていることがわかります。物理的な視点ではウソがつけないため、集団の情況や心情を持ち出してくるのです。 また、日本人が好む「人の努力は常に尊い」という発想にも危険があります。人の努力が尊いとは、正しいことをしている場合に限って言えるはずです。間違った努力を継続すれば、本人も周囲も社会全体も不幸にするだけです。 相対化とは、命題が正しい場合と間違っている場合を区分することでした。努力も絶対化すれば、不幸を拡散させ悲劇を増大させる悪そのものになるのです。 高高度を飛行するB29を竹槍で落とすポーズは、全滅するまで戦争を継続するという前提から国民を逃がさないための、虚構の一つだったと考えられます。 もし現実だけを見たら、100%敗戦が予測でき、日本国民は意欲を完全に失います。しかし、間違った目標に対して意欲を失うことは、本来正しいことでしょう。 間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です。 ゆがんだ物の見方をムラに強制して、水を差されることへの防御をしているのです。 戦争継続の空気に拘束されて、日本人はまったく勝ち目のない悲惨な戦争をだらだらと続けました。膨大な犠牲を払い、長崎・広島で原子爆弾が45万人の命を一瞬で奪うまで、誰も「敗戦受諾と停戦」を実現できなかったのです。(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)』、「間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です」、我々も大いに気を付けるべきだろう。

第三に、上記の続きを、1月16日付けダイヤモンド・オンライン「日本では、なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189931
・『日本という国には、不思議な「何かの力」が作用している。何か事件があると、講釈師がたくさん現れ、事実をそのまま伝えず、都合のいい解釈を伝える。フェイクニュースが騒がれ、ファクトの重要性が問われる今、私たちは改めて日本に作用する「何かの力」を考えるべきだ。40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する』、これも一読の価値がありそうだ。
・『空気とは結局、支配のための装置 「虚構」だけが人を動かす力である  山本七平氏は、『「空気」の研究』の第2章の最後で、「空気」の最終的な狙いと役割を述べています。 以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。 山本氏が指摘した空気の構造は、支配を目的とした装置なのです。しかし山本氏は、虚構について次のような指摘もしています。 虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。 この世界では、人は未来を正確に予測することはできません。ビジネスで「やればできる」と考えることは、「AならばBである」という意味で、ある種の希望的な前提です。 ある企業が新規事業の計画で全社的に盛り上がることは、空気(前提)で経営陣、多くの社員が動いていることになります。AならばBであるという“希望的な前提”は現実には存在せず、社員の心の中にしかないのです。 一方で、「そんな無謀な計画は無理だ」と考えることは、ネガティブな意味で「AならばBである」という前提がその人や集団の中にあることになります』、「虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない」との山本氏の言葉は含蓄がある。
・『日本という国に作用する不思議な「何かの力」  虚構が「人を動かす唯一の力」だからこそ、山本氏はこう指摘します。 従ってそこ(=虚構)に「何かの力」が作用して当然である。 山本氏は『「空気」の研究』の中で、小谷秀三氏の言葉を紹介しています。小谷氏は戦時中に技術者として日本軍に徴用され、フィリピンで破滅的な戦闘に巻き込まれて九死に一生を得た人物です。 これは軍人そのものの性格ではない。日本陸軍を貫いている或る何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ。(小谷秀三『比島の土』より) 次の引用は戦後30年たった経済立国日本で、スイスの製薬会社の社員による言葉を取り上げた『環境問題の曲り角』(北条誠・著)の一文です。 日本は、実にふしぎな国である。研究室または実験室であるデータが出ると、それを追求するよりも早く、何かの力がそれに作用する……。(スイスの製薬会社社員の言葉) 新たな情報が、まるで何かに取り込まれて統制される姿の描写のようです。小谷氏と北条氏が描いた、日本という国に作用する不思議な「何かの力」とは一体何なのでしょうか』、薄気味悪いが、何なのだろう。
・『日本を滅ぼす圧力の正体  この連載で空気の分析を進めてきましたが、「何かの力」は次のように考えることが可能です。 【日本に作用する「何かの力」とは】(新たな事実や発見が、醸成している空気に一致しない場合、先んじてその新事実や新発見を取り上げて、「空気に一致する解釈」をつけて大々的に公表する。新たな事実や発見を、空気で日本を支配している側の不利にさせないための行為。 今のマスコミ報道にも似ていますが、何か事件なり問題が起きると、○○の事実はこう解釈するのが正しいのだ、という講釈師が洪水のように氾濫します。 「何かの力」と、紳士は言ったが、その抽象的な表現が、かえって私の心を傷つけた。左様。たしかに、一つのデータ、現象、事件に、日本ではすぐ「何かの力」が作用する。マスコミがとびつく。そして大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる。 先に紹介したように、空気が「支配装置」であるなら、「何かの力」がすぐ作用するのは当たり前の現象でしょう。 例えば、新発見が既存の支配的メーカーなどにとって不都合な技術的発見である場合、社会や大衆がその価値を正しく判断する前に「違う誘導をする」必要があるからです。 そのため「実験室で出たあるデータ」に電光石火で飛びついて、講釈師に都合のいい空気を醸成する目的で記事を書かせ、マスコミに大量配信させて誘導するのです。 体制側に不都合な問題が起こったときも、自分たちにとって都合のいい空気=世論を誘導する力が日本ではすぐに働きます。 虚構は人を動かす力となるゆえに、人を操る道具としても日々利用されているのです』、確かに日本はマスコミによる世論誘導が甚だしい国だ。
・『国民の権利はく奪も空気づくりから始まる  山本氏は、この「何かの力」に関連して、次のような指摘もしています。 「人間の健康とか、平和な市民生活」が起点であるように、かつての日本軍もその発想の起点は、国家・国民の安全であり、その「生活圏・生命線の確保」であり、このことは繰りかえし主張されていた。だが、その「起点」に「何かの力」が作用すると、一切を壊滅さす方向に、まるで宿命のように走り出し、自分で自分を止め得ない。 「何かの力」は、なぜこのような巨大なテーマにまとわりついているのか。 日本軍が「生活圏・生命線の確保」などの巨大なテーマを持ち出したのは、恐らくこの巨大なテーマを持ち出すことで、それ以外の一切を無視しても仕方がないという空気(=前提)をつくり出すためだったのではないでしょうか。 つまり、極度に重大なテーマを意図して掲げるのは、他のことはすべて無視されても、踏みにじられても仕方ないと大衆に思わせる詐術、前提づくりなのです。 山本氏の指摘のように、「国家・国民の安全」を名目に、国民のあらゆる権利をはく奪して、資産をすべて奪い取るのも止むなしという空気の醸成を狙ったのでしょう』、恐ろしいが、確かに現実に起きた話なので、説得力がある。
・『虚構に依存する者の末路  日本では戦争中に、巷で「敗戦主義者」という言葉がありました。 戦争に日本は負けるのではないか、と懸念すると「そういうことを言うやつがいるから敗けるんだ」と、負けるという言葉を発することが、あたかも勝敗に影響を与えるような非難をしていたのです。 日本は戦争に必ず勝つ、この物の見方を共同体に強制するのは明らかに虚構です。集団の情況(物の見方)と現実は一切関係なく、完全に異なるものだからです。 「そう言う者がいるから負けるんだ」という非難には、つくった虚構が崩れると、現実そのものも暗転するような、虚構にすがる、依存する感覚があるのです。 なぜ人や集団、大衆はつくられた虚構に次第に依存していくのでしょうか。行動を始めたきっかけが「ある虚構」ならば、行動を正当化するために、その虚構が正しいことを自ら主張する必要にせまられるからです。 不慣れな道を、地図やナビの矢印を根拠にして進むとき、次第に道が怪しくなったら、その人が自分の行動を正当化するには「地図にそう書いてあった」「ナビがこの方向を示したんだ」となるのではないでしょうか。 会議であれば「みんなが賛成したから可決したんだ!」「みんなが戦争に勝てると言ったから始めてしまったんだ」などの言葉になるでしょう。 これは日本の情況倫理による典型的な意思決定の形です。みんなが同じ物の見方を共有すれば、それが正しい方向だと考えてしまう。 一方で、現実が虚構と食い違い始めると、「私はあのとき反対したんだ」などと言い始める人も当然出てきます。 しかし、ここで振り返りたいのは、重要な議題を決断するために、「みんなが考えていた方向」以外のことを本当に検討したか否かです。 科学的な分析はしたのか、物量、数量、勢力差などの数字は比較したのか。どのような論理や根拠があって、会議の参加者は賛成または反対をしているのか。 みんなで固めた「物の見方(情況)」と違う現実が出現したとき、集団の物の見方をさらに拘束するのではなく、正しい現実の把握が打開の第一歩のはずです。 しかし、甘い夢を見る愚かなリーダー、心の弱い者は虚構に最後までしがみつきます。 そのような者たちは、虚構ではなく現実を知った者を、弾圧して叩きまくるのです。 誰かが空気を醸成して、その結果みんなが同じ物の見方に染められたなら、最重要の決断の根拠さえ、「みんなが賛成したから」以外の理由がなくなります。 表現を換えるなら、「決断の根拠はみんなで共有した虚構です」という意味です。これが空気による集団の操作であり、虚構に依存した人たちの末路なのです』、東芝問題もこの典型だろう。我々も大いに気を付けたい。

なお、明日は更新を休むので、明後日、木曜日にご期待を!
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