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メディア(その11)(小田嶋氏2題:加害者に「親密」な人たち、カフェラテ150円の罪の大きさ) [メディア]

メディアについては、1月8日に取上げた。今日は、(その11)(小田嶋氏2題:加害者に「親密」な人たち、カフェラテ150円の罪の大きさ)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が1月11日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「加害者に「親密」な人たち」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/011000175/?P=1
・『扶桑社が発行する「週刊SPA!」編集部が、同誌に掲載した記事について、このほど、謝罪のコメントを発表した。 以下、経緯を説明する。 「週刊SPA!」は、昨年12月18日発売分(12月25日号)の同誌誌面上で、《ヤレる「ギャラ飲み」》というタイトルの特集記事を掲載した。「ギャラ飲み」とは、同誌によれば、「パパ活」に続いて頻繁にその名を聞くようになっている昨今流行のコミュニケーション作法のひとつらしい。もともとは、「タク飲み」という一緒に飲んだ女性にタクシー代として5000円から1万円を支払う飲み方から発展した習慣で、男性が女性に一定額の「ギャラ」を支払う飲み方なのだそうだ。 その「ギャラ飲み」について、特集記事では、カネを払って女の子と飲みたい男たちと、他人の支払いで酒を飲みたい女性を結びつけるスマホ用のマッチングアプリ4例を紹介しつつ、「ギャラ飲み」の実際をレポートしているわけなのだが、問題となったのは、同誌が、インターネットマッチングサービス運営者の見解として、「ヤレる女子大学生ランキング」として実在する首都圏の5つの大学名を掲載した点だ。 当然、批判が殺到した。 朝日新聞の記事によれば、《ネット上の署名サイトでは4日に「女性を軽視した出版を取り下げて謝って下さい」と呼びかけがあり、7日までに2万5千人超の賛同が集まっていた。》のだそうだ。 そんなこんなで、冒頭でお伝えした通り、「週刊SPA!」編集部が、この7日に謝罪のコメントを発表したというのが、これまでの流れだ』、「ギャラ飲み」とは初めて知った。ガールズバーなどより安くて済むのだろうか。
・『コメントは以下の通り。《本特集は「ギャラ飲み」という社会現象について特集したものです。ギャラ飲みの現場で何がおき、どういったやりとりが行われているのかを一般大衆誌の視点で報じております。その取材の過程で、ギャラ飲みの参加者に女子大生が多いということから、ギャラ飲みのマッチングアプリを手掛けている方にも取材を行い、その結果をランキングという形で掲載したものです。そのなかで「より親密になれる」「親密になりやすい」と表記すべき点を読者に訴求したいがために扇情的な表現を行ってしまったこと、運営者の体感に基づくデータを実名でランキング化したこと、購読してくださった読者の皆様の気分を害する可能性のある特集になってしまったことはお詫(わ)びしたいと思います。また、セックスや性にまつわる議論については、多種多様なご意見を頂戴しながら、雑誌として我々にできることを行ってまいりたいと思っています。》』、「ヤレる女子大学生ランキング」とはいくら三流週刊誌とはいえ、やり過ぎだ。
・『「週刊SPA!」は、私自身、現在に至るまでなんだかんだで10年以上寄稿している週刊誌でもある。基本的なかかわりかたは、2週か3週に一度のタイミングで、短い書評のコーナーを担当しているだけなのだが、時々コメント取材に応じたり、インタビュー記事に付き合ったりすることもあって、編集部とはそこそこの付き合いがある。なので、今回の出来事については、まったくの他人事というふうには受け止めていない。責任を感じているというほどのことはないにしても、応分に心を痛めている。 騒動の火元になった記事は、初出の段階では読んでいなかった。 自宅に送られてきているバックナンバーを読んだのは、ツイッター上での炎上がひとまわりして、編集部がお詫びのコメントを出した後のタイミングだった。 率直な感想としては、「失望」という言葉が一番よく当てはまると思う。 事実、読み終わってしばらく不機嫌になった。 告白すれば、私は、自分が寄稿しているにもかかわらず、この雑誌をもう何年も開いていない。理由は、失望したくなかったからだと思う。読めば確実に失望することが内心わかっていたからこそ、私は毎号送られてくる最新号を、ビニール外装の封印を解くことなく、単に玄関先に積み上げていた。で、半年ほど積み上げて熟成させた後、ヒモで縛って廃棄する手続きを粛々と繰り返してきた次第だ。 今回、あらためて読んでみて、やはり失望した。 ネット上を漂っている自称業界人の「こんなことでいちいち謝っていたのでは雑誌なんか作れやしないぞ」 という感じのコメントにも、別の意味でうんざりしている。 雑誌は、もしかしたら業界ごと腐っているのかもしれない。 そう思うと少しさびしい』、寄稿していながら、読んでなかったというのは、「失望する」というより、コラムニストとして「恥ずかしくなる」ためだったのではなかろうか。
・『ネット上で殺伐とした言葉をやりとりしている業界周辺の人々の言い分を要約すると 「フェミやらクレーマーやら人権屋やらの正義派ぶったツッコミにいちいち真正直に対応していたら、男性向け娯楽雑誌はじきに聖歌隊の歌集みたいなものになるぞ」「お上品な雑誌が読みたいんなら自分でノートの裏にでも記事書いてろよ」てなお話になる。 つまり「リアル」で「ぶっちゃけ」な「男の本音」を率直に反映した誌面を作るのであれば、無遠慮な下ネタを避けて通ることは不可能なのであって、むしろ問題なのは、本来男が読むべき雑誌を、想定読者ではないある種の女性たちがわざわざ眉をひそめるために読んでいるその異様な読書習慣のほうだ、と、彼らは言いたいようだ。 もちろん、私とて、最新号の雑誌を陳列する書店の書棚が、上品で奥ゆかしい5月の花園みたいな場所であることを期待しているわけではないし、すべての雑誌が清らかなピューリタンの魂を体現すべきだと考えているのでもない。 とはいえ、「週刊SPA!」の当該の特集に対して投げかけられた非難の声が不当に大きすぎるというふうには、まったく思っていない。また、今後あの種の企画が萎縮することでわが国の雑誌出版文化が危機に瀕するだろうとも考えない。当然だ。あれは、なんの取り柄もない、どうにもならない正真正銘のクズ記事だった。 下品だからダメだと言っているのではない。 不謹慎だからこの世界に生き残るべきではないと主張しているのでもない。 個人的な見解を述べるなら、私は、書き方に多少下品な部分があっても、内容が面白いのであれば、その記事は掲載されるべきだと思っている。また、本文中に不謹慎な断言をいくらか含んでいるのだとしても、全体として洒脱なテキストであるのなら、その文章は必ずや印刷されて読者のもとに届けられなければならないと考えてもいる。 雑誌は、多様であるべきものだ。 その意味で、雑誌の記事は、不謹慎であっても面白ければOKだし、不真面目に書かれていても参考になればオールライトだ。ダサくても真面目なら十分に許容範囲だ。つまり、どこかに欠点があっても、ほかの部分になにがしかの魅力が宿っているのであれば、雑誌記事は、生き残る資格を持っているものなのだ』、雑誌記事に対する考え方は穏当だ。
・『12月25日号に掲載された「ギャラ飲み」特集の特集記事は、そういう長短を併せ持ったテキストではなかった。 バカがカッコつけたあげくにスベってみせただけの、ダサくて下品で、おまけに差別的で、だからこそ批判されている、どこをどう拾い上げてみても擁護できるポイントがひとつも見当たらないゲロ企画だった。 ということは、あんなものはツブされて当然なのである。 毎週毎月大量に発行され、印刷される雑誌の記事の中に、価値のないパラグラフや、焼き直しの凡庸なフレーズが含まれているケースは、実のところ珍しくない。というよりも、雑誌の主要な部分は無価値なフレーズと焼き直しのアイディアで出来上がっている。それはそれでたいした問題ではない。 ただ、今回のあの記事は、単に無価値であるのみならず、確実に暴力的で差別的な言葉を随所に散りばめることで、明らかな被害者を生み出していた。その点が大きな問題だった』、「明らかな被害者を生み出していた」のであれば、確かに問題だ。
・『関係者にぜひ正しく認識してもらいたいのは、「週刊SPA!」のあの記事が「面白いんだけど言い過ぎてしまったテキスト」や、「トンガッている分だけ毒が強すぎた企画」ではなくて、「調子ぶっこいたバカがあからさまな性差別を振り回してみせただけの救いようのないゴミ記事」だったということだ。 ところが、どうしたものなのか、21世紀のネット社会では、この種の不祥事→お詫び案件が発生すると、ほとんど反射的に「詫びさせた側」「クレームをつけた人々」を叩きにまわる人々が、どこからともなく湧いて出て一定の役割を果たすことになっている。 今回の場合だと 「シャレのわからない赤縁メガネの学級委員長タイプがコメカミに青筋立ててキャホキャホ言い募ったおかげで、なんだか世にも凶悪な性差別記事だったみたいな話になっちゃってるけど、実際に読んでみれば、なんのことはないよくあるナンパ指南のテキストですよ」みたいな語り口で事態を説明したがる逆張りの人々が、加害記事の制作者を応援している。 振り返れば、財務省を舞台としたセクハラ事件でも伊藤詩織さんが告発したレイプ疑惑でも、最後まで加害者の側に立って、被害者の態度に非を鳴らす人々がSNSに盤踞していた。 彼らは、炎上の原因を、記事そのものの凶悪さにではなく、クレーマーの狂気やフェミの人権意識の病的亢進に求めるテの論陣を張りにかかる。 でなくても、そういう人々は、今回の記事の欠点を 「『ヤレるギャラ飲み』というタイトルの付け方が行き過ぎだった」「『お持ち帰りできる女子大生ランキング』にしとけばセーフだった」という程度にしか受け止めない』、ネット社会で、「「詫びさせた側」「クレームをつけた人々」を叩きにまわる人々」というのは不思議な存在だ。ネット右翼の一派なのだろうか。
・『冒頭近くで引用した「週刊SPA!」編集部のコメントも、もっぱらに「言葉の使い方の不適切さ」を詫びることに終始していた。 《 −略− そのなかで「より親密になれる」「親密になりやすい」と表記すべき点を読者に訴求したいがために扇情的な表現を行ってしまった −略− 》と彼らは言っている。 要するに、編集部は、今回の騒動の主たる原因を、「ヤレる」という書き方が下品で扇情的だった点にしか認めていない。逆にいえば、彼らはその部分を「親密になれる」と言い換えていればOKだったと考えている。ということは、企画意図自体の凶悪さを認めていないわけだ。 9日になって5大学が抗議文を発表したことを受け、扶桑社は同日夜に公式サイトで「女性の尊厳に対する配慮を欠いた稚拙な記事を掲載し、多くの女性を傷つけてしまったことを深くお詫びいたします」などとする謝罪文を掲載した。 しかしネット上のコメントの中には、編集部を擁護する声が多数ではないが蔓延している。 代表的なのは、「ホイチョイの『東京いい店やれる店』がヒットしたのは、1994年だったわけだけど、あれから四半世紀で、日本の空気はすっかり変わってしまったわけだな」「思えば遠くへ来たものだな」「もう、『ヤレる』なんていう言葉を含んだ企画は二度と編集会議を通らないんだろうな」的な述懐だ。 彼らは、記事の劣悪さそのものよりも、むしろ凶悪な記事が許されなくなった世間の風潮の変化を嘆いている。「窮屈でかなわないぜ」というわけだ。 念のために解説しておくと、彼らの分析は根本的に的を外している。 今回の経緯をどうしても「お上品ぶった腐れリベラルだとか、何かにつけて噛み付いてくる狂犬フェミみたいな人たちのおかげで世界が窮屈になっている」というストーリーに落とし込みたい向きは、「1990年代には、『東京いい店やれる店』が大ヒットしていたのに、2019年には、同種の雑誌企画がいきなり謝罪に追い込まれている」という感じの話に逃げ込みたがる。 でも、それは違う。 第一に、「東京いい店やれる店」がピックアップし、紹介し、ランキング化していたのは、「店」であり「デートコース」だった。 ということは、あのヒット企画は、タイトルに「ヤレる店」という下品な表現をフックとして用いてはいたものの、その内容はあくまでも「おすすめのデートコースと評判のレストラン」をガイドする、東京のレストランガイドだった。その意味で、今回の「週刊SPA!」の企画記事を同一線上に並べられるものではない。 今回の「週刊SPA!」の記事がランキング化しているのは、ズバリ「女子大学生」という生身の人間だ。 しかも、その都内の女子大学生たちは「ヤレるかヤレないか」という一点に沿って序列化され、評価され、名指しでまな板に上げられている。 「ヤレる店」をランキング化する企画にしたところで、そりゃたしかに上品な話ではないだろう。 でも、「ヤレる女子大生」を実在の大学名そのまんまでBEST5まで表にして掲出してしまう感覚とは比較にならない。いくらなんでも、「ヤレる店」の企画は、そこまで凶悪ではない』、「ホイチョイの『東京いい店やれる店』」との相違まで、調べた上で明確に指摘するとは、さすがだ。
・『最後に「女衒」についても一言触れておきたい。 「週刊SPA!」の当該のこの企画は、三部構成で、第一部が「アプリ」紹介、第二が「飲みコンサル」、第三部が「女衒」となっている。内容は、それぞれ、「ギャラ飲みアプリの紹介」「ギャラ飲みマッチングサービスを主宰する人々によるギャラ飲みイベントの紹介」「女衒飲みの紹介」だ。問題は第三部の「女衒飲み」なのだが、私は、当初、「女衒」からの被害をブロックするためのお話だろうと思って読んでいた。当然だ。 なぜというに「女衒」というのは、女性が性的商品として人身売買されていた時代の職種で、現代にあっては反社会的組織の人間が担っていると考えられる犯罪的な役割であり、明らかな蔑称だからだ。女衒と呼ばれて喜ぶ人間はいないはずだし、女衒に近づきたいと考える人間も普通はいない。 ところが、最後まで読んでみるとどうやら様子が違う。というのも、この記事の文脈の中では、「女衒」は、蔑称ではないからだ。蔑称ではないどころか、一定のリスペクトを持って「女衒の人との接触に成功」(週刊SPA!12月25日号p56)というふうに書かれていたりする。 見出しでも「実はコスパ○(マル)。女衒ギャラ飲みはかわいくて安い」(同p56)となっているし、本文でも「アプリでは時間ごとにどんどん料金が加算されていくが、女衒に紹介してもらった場合は、明確な時間制限はないのがありがたい」「女衒飲みの条件として、女衒が指定した店で飲む必要があるが、細かいルールは少なく、あくまで”大人のやり取り”になる」などと、記事中では「女衒」を肯定的な存在として持ち上げている。 私は、「女衒」という言葉をこれほどまでにポジティブに運用している現代の文章をほかに知らない。 彼らはいったいどうしてまた、女衒なんかを持ち上げているのだろうか。 ともかく、これを読んで、ちょっと謎が解けた気がしている。 この記事は、単なるナンパ指南であるようでいて、もう少し不吉な何かを示唆している。 書き手は、同誌の想定読者に対して「おまえら、しょせんヤリたいわけだろ?」という感じの思い切り上から侮った問いを投げかけている。 さらに、「ギャラ飲み」に集う女性たちに向けては「君らはアレだよな? どうせオンナを武器に世渡りするほかにどうしようもないわけだろ?」的なこれまた著しく侮った決めつけを適用している。 その一方で、女衒にはあからさまな憧れの感情を表出している。 「運営側」に対する無条件の憧憬。 他人をコントロールすることへの強烈な欲望。 まるっきりな権力志向じゃないか。 これはいったい何だろう? いわゆる中二病だろうか? 単に悪ぶってみせているということなのか? とりあえず、ここで結論を出すことはせずにおく。 ただ、「週刊SPA!」の周辺に 「真面目なヤツらはカタにはまっててどうしようもない」という気分を共有している人たちが集まっている気配はずっと前から感じていた。 あるいは、私はその空気がイヤであの雑誌を開かなかったのかもしれない。 結論を述べる。 カタにハマっているのは、実は不真面目な人たちだ。 真面目な人たちは、自分の人生に真面目な態度で臨んだことの結果として、良い意味でも悪い意味でも厄介な個性を手に入れることになる。 不真面目な人たちはその境地に到達することができない。だから、半端な見栄を張ったり他人をランク付けしたりする。なんと哀れな人間たちではないか。 いっそスパっと(以下略)』、「カタにハマっているのは、実は不真面目な人たちだ。 真面目な人たちは、自分の人生に真面目な態度で臨んだことの結果として、良い意味でも悪い意味でも厄介な個性を手に入れることになる。 不真面目な人たちはその境地に到達することができない」という逆説の意外さには感服した。

次に、同じ小田嶋氏による1月15日付けの「カフェラテ150円の罪の大きさ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00002/?P=1
・『福岡県内のコンビニエンスストアで、コーヒー用の100円のカップを購入した62歳の男が、そのカップの中に150円のカフェラテを注いだ窃盗の疑いで逮捕された のだそうだ。 第一報はツイッターのタイムラインに流れてきた「NHKニュース」の公式ツイッターの RT を通じて知った。 リンク先で紹介されているニュースの動画では、現地のコンビニの駐車場に立った若い記者がこう言っている。 「こちらの白いカップが100円のコーヒー用カップ。そしてこちらの茶色いカップが150円のカフェラテ用カップです。男はこちらの白い100円のカップに150円のカフェラテを入れたということです」 なるほど。 再生を終えた後、しばらく考え込んでしまった。 「要するに違うカップにカフェラテを注ぐことで50円分の代金をチョロまかした62歳の男(←オレと同い年だ)がいました、ということなんだろうけど、これは『ニュース』なのだろうか」「たしかに法律を厳格に適用すれば100円の代金で150円の商品を手に入れたこの男の行為は、差し引き50円分であれ窃盗は窃盗なのだろう。とはいえ、こんなセコいゴマカシで逮捕されるなんてことが現実にあり得るものなんだろうか」「逮捕されたことが事実であるのだとして、それでは、この差額50円の窃盗による逮捕劇を全国ネットのニュースで伝える判断を下したデスクは、いったいこのニュースのどの部分にニュースバリューを認めたのだろう」「2年ほど前にオレは、考え事をしながら西友のセルフレジを精算せずに通過したことがある。で、100メートルほど歩いた時点で気づいて店に引き返したのだが、このオレの素敵な正直さはニュースにならないのか?」「50円チョロまかしたおっさんの不心得がニュースになるのなら、嫁さんに暴言を吐いた男や、散歩中の飼い犬が路上に残した排泄物を放置した飼い主の不行跡だって、ニュースにされておかしくないと思うぞ」 大げさに言えばだが、私は、この程度の逸脱が全国ニュースとして報じられてしまう国で、この先、自分が、無事に天寿をまっとうできるのかどうかに不安を感じはじめている。カタクチイワシの群れみたいな相互監視社会を作り始めているこのわれわれの国では、右旋回のタイミングがほんの少し遅れれば、そのまま群れから取り残されて永遠に排除されることになっている。62歳の私は、ボタンを押し間違えることが不安で、この先、二度とコンビニのコーヒーを買えなくなることだろう』、こんな些細な事柄を全国ニュースで流すNHKのセンスには呆れ果てた。と同時に、「100円のカップに150円のカフェラテを入れた」なんてことが可能だとすれば、それは自動販売機(?)の設計のお粗末さこそが問題で、「50円チョロまかしたおっさんの不心得」などは取るに足らないことではないかと感じた。
・『NHKのニュースサイト「NHK NEWS WEB」にアップされているニュースの放送原稿では、事件の概要を以下のように説明している。《−略− 警察によりますと「100円のコーヒーカップに150円のカフェラテを注いでいる」という情報が常連の客から店に寄せられ、店が警戒していたところ、男がカフェラテを注いでいるのを確認しました。 このため店のオーナーが問いただしたところ、男は「ボタンを押し間違えただけだ」と説明していましたが、警察の調べに対し、容疑を認めているということです。 −略− 》 率直に申し上げて、高校の放送研究会がパロディで作る嘘ニュースのシナリオに見える。というのはつまり、それほど「バカなネタを大真面目に作っている」ということだ。パロディの要諦は、「バカなネタを大真面目に作ること」だ。 で、NHKのこのニュースは、まさに、「バカなネタを大真面目に作る」というパロディの作劇法そのままの手法で作り込まれている。 その結果、本物のニュースでありながら、最終的には「ニュース」という存在そのものに対する見事なパロディに仕上がっている。 おそらく、このニュースフィルムを作っている間、NHKのスタッフは、自問自答せずにいられなかったはずだ。 「なあ、このニュース、このカタチのままで流して大丈夫なのか?」「これ、ヘタすると、定時ニュースの権威をクソまみれしちまうぞ」 80から90年代にいくつか列席したテレビ業界関係者の結婚披露宴では、「新郎が新婦を誘拐した」とか 「容疑者新郎Aが共犯者新婦Bと共謀して計画的な職場放棄(新婚旅行)を画策している」みたいな見立てで作られた記者レポート風のVTR作品が上映されて、大いに参加者の喝采を集めていたものだった。 メディア業界の人間は、自分たちの業界のセルフパロディを好む。のみならず、時には、本業での制作物に対する時よりも大きな情熱を傾けてパロディの制作に注力する。 で、彼らが余興や忘年会や仲間内の結婚式で上映する自虐パロディの映像作品の中には隠れた傑作が少なくないわけなのだが、今回のNHKニュースの作風は、その種のパロディニュースのそれとほとんど区別がつかない。 この種のパロディニュースの勘所は +大真面目なニュース原稿の文体 +真剣な表情のレポーターの現地レポート +緊迫感を演出する手持ちカメラ映像 +下からアオる感じの大仰なカメラワーク という、安ワイドショーニュースならではの堅固な形式を固持しつつ、それでいてテーマの部分では +どうにもあほらしい犯罪(はんぺんの下にちくわぶを隠すことでおでんの会計をごまかしたとか)を告発するといったところにある。 要するに、ニュースの中身をどこまでも空疎にしておくことで、世間の信じている「ニュース」なるものが、いかに外形的な要素に依存した形式的な制作物であるのかを天下に知らしめることが、パロディに与えられている使命だということだ』、ということであれば、同じ時間帯でもっと重大で政権に不都合なニュースがあったので、その重大さを薄める効果を狙っていたのでは、とさえ深読みしたくなる。
・『私自身、ずっと昔、「ASAHIパソコン」というパソコン情報誌で、「藍亭長屋」という用語解説パロディの連載を持っていたことがある。 藍亭長屋という架空のお江戸下町コミュニティーに住むご隠居さんが、「ユビキタス」「脆弱性」「コンパチブル」「アンドゥー」「パケ死」といったIT用語について長屋の住人相手に解説をカマすという落語仕立てのコラムだった。 必ずしも成功した連載ではなかった(というよりも、わりと盛大にスベってました)のだが、この時心がけていたのは、 「落語の形式と文法は最大限遵守すること」「落語としてそのまま成立する口舌の冴えとオチの鮮やかさを目指すこと」「ネタは落語からなるべく遠ざかること」の3つだった。 つまり、パロディは「形式は完璧に、内容は空疎に(あるいは「異質に」)」という構えで作られているからこそ、パロディたり得るわけで、形式の作り込みが甘かったり、内容が変にもっともらしくなってしまったら、パロディとしては焦点のボケたものになってしまうということだ。 「藍亭長屋」シリーズの連作は、結果的にはニセモノの落語の領域にさえ到達できない半端なパロディに落着した。のみならず、IT用語解説としてもたいしてわかりやすくない困ったテキストでもあった。 ただ、読者にとっては価値の低い読み物であっても、書き手にとっては、あれを書いたおかげで落語への愛情と理解が深まることになったありがたいコラムだった。書かせてくれた媒体や、許容してくれた編集部や読者にはいまでも感謝している。ついでに言えばだが、あの連載を何年か続けたことで、私は、パロディと現実の距離について少しだけ敏感になれたと思っている。まあ、怪我の功名に過ぎないといってしまえばそれまでだが。 最近の例では、ネット上で時々話題になる「虚構ニュース」がパロディの文法をよく踏まえていると思う。 内容のバカバカしさといい、文体模写の見事さといい第一級のパロディに仕上がっている作品が多い。 で、この度のカフェラテのニュースだが、実際、「虚構ニュースの映像版」と言われて見せられたら、私は信じてしまったかもしれない。 それほど完成度が高い。 ということはつまり、それほど形式のみが完成されていて中身がバカげているということだ。 こんなことが起こるのは、もしかして、ニュース制作の現場で、「きちんとした中身(内容)のあるニュースを配信する」ことよりも、「形式として完成度の高いニュースを制作する」ことが重視されているからなのかもしれない。 記者さんやデスクさんたちは、ニュースの中身の信頼性やニュースバリューの重さをあれこれ考えることよりも、ただただ右から左に作っては流すニュースの形式としての完成度ばかりを気にかけている。だから、ニュースバリューはゼロでも、形式としてニュースらしかったり、扇情的な素材として視聴者のアイキャッチに貢献する素材であれば、そのままニュース項目として合格点をつけてしまう。実にありそうな話ではないか』、記者やデスクがそこまで落ちぶれていることはないと信じたいが、本件のニュースの扱いは確かに解せない。
・『うがった見方をすれば、このニュースは 「コーヒー類飲料の品種ゴマカシ注入の横行にアタマを痛めるコンビニ業界が、警察とマスコミを巻き込んで一罰百戒の逮捕案件ニュースの配信を企画した」結果なのかもしれない。 そう考えると、一応の辻褄は合う。 あるいは、もっと別の陰謀論的な推理を持ち出せば 「厚労省による不適切統計処理や五輪招致に関する贈賄疑惑などなど、政権にとって不利なニュースばかりが並ぶ中で、政権との軋轢を恐れるニュース制作現場が、誰も傷つかない無難なニュースを求めた結果が、ほのぼのローカル軽犯罪ネタの全国ニュース昇格という結果への着地だった」という読み方もできる』、後者は私が2パラグラフ前に指摘した通りで、憶測ではあるが信憑性も高いのではあるまいか。
・『いずれも信憑性は著しく低い。 というよりも、まるっきりの当てずっぽうに過ぎない。 おそらく、真相は、ニュースを配信している現場の人間たちが、ニュースバリューという抽象的で手強くで厄介で神経の疲れる対象についてアタマを絞ることよりも、ニュースの完成度という手慣れた人間には一発でわかる尺度でニュースを選別することを選び続けたことの結果が、ゴミみたいなニュースの配信を招いているということなのだと思う。 雑誌の現場でも似た問題は起こっている。 内容はまるで空疎なのに、なんとなく形式が記事っぽく整っているから通用している」 みたいな記事はたくさんあるし 「本当は面白くないんだけど、面白っぽく書いてあるもんだからついつい笑わされたような気分になるコラム」がいたずらにトラフィックを空費している例だって、たぶん珍しくない。 個人的には、コーヒーの容器にカフェラテを注いだおっさんの小ずるさと、のべ2015万人に対して、雇用保険の支給額など564億円を過小支給していた厚労省の統計不正の深刻さを虚心に比べて見れば、後者の方が数億倍は悪辣だと思うし、ニュースバリューに関しても、後者のニュースの方が少なくとも百倍は重要だと思うのだが、放送時間の方は、せいぜい二倍程度しか割かれていない。 実に不健全な運用だと思う』、後者のニュースの放送時間が「せいぜい二倍程度」ということであれば、やはり不都合なニュースのインパクトを薄めるためという見方が、ますます有力になってきたようだ。
・『この微罪逮捕案件を公共放送が全国ニュースで配信した理由を解明するためには、実は、もうひとつ、有力な仮説がある。 以前、当コーナーでも紹介した「スッキリ中国論」(田中信彦著 日経BP社)の中にその話が出てくる。 以下、本書の56ページ〜69ページの記述の中で詳しく紹介されている内容を簡単に要約する。+刑法学が専門の一橋大学法学研究科、王雲海教授(法学博士)によれば、中国の刑法と日本の刑法には根本的な違いがあって、中国が犯罪の「質と量」を問うているのに対して、日本では「質」のみが重視される。
 +具体的には、日本では無断で携帯の充電をした人間が窃盗罪に問われた例があるのに対し、中国では、ある程度以下の金額の窃盗は捜査されない。
 +中国では違法行為と犯罪は2つの異なった概念である。それゆえ、違法行為であっても「犯情が極めて軽く、危害が著しくない場合は犯罪にならない」
 +他方、日本では、「法律に違反すること」そのものが「犯罪」であり、被害の大きさは犯罪の成否には関係しない。
要するに、「スジ」を重視する日本人の考え方からすれば、たとえ50円でも、あるいは携帯を充電するための数円相当の電気料金であっても、人様のものを勝手にわがものとすればそれはすなわち窃盗であり犯罪になるということだ。 で、この「スジ」が厳格に守られているからこそ、わが国は世界でも珍しいほど治安が良いわけで、これはこれで素晴らしいことではある。 が、一方においてなにかにつけて「スジ」で考える日本人が作っているわれわれの社会は、窮屈だったり、融通がきかなかったりして住みにくい部分を持ってもいる。 中国風と日本流のどちらが悪くてどちらが良いという問題ではない。 この原稿でどちらかを推薦したいと考えているのでもない。 ただ、私が思うに、NHKをはじめとするメディア各社(朝日新聞、日経新聞、読売新聞、毎日新聞、FNNなど)がこの微罪逮捕のニュースを一斉に報じていることから感じられるのは、もともと「スジ」にこだわる傾向の強かったうちの国のメディアの潔癖性の傾向が、さらに極端になってきていることだったりする。 たとえばの話、私が20代の若者だった40年前に、これほどまでに軽微な罪を新聞全紙とテレビ各局が伝えた例はなかったはずだ。 罪を犯した者へのこの苛烈さが、われわれは群生動物のマナーを身に付けはじめていることの最終段階を示す兆候でないことを祈って稿をおさめたい。 罪を犯した人間を擁護することよりも、犯罪者を一人でも減らすことに力を注ぐのがコラムニストのあるべき姿ではないのか」という感じの想定コメントに対しては、あらかじめ 「良いコラムニストは、罪薄き違法行為者の側に立つものだ」とお答えしておく。 根拠は特にありません』、微罪逮捕のニュースがNHKだけでなく、主要メディア各社も取上げたというには、心底驚かされた。どうやら、政権の陰謀論の疑いがますます濃くなってきたようだ。
なお、このブログでは、「安倍政権のマスコミへのコントロール」として、昨年9月9日などで8回にわたって取上げているので、参考にして欲しい。
タグ:メディア (その11)(小田嶋氏2題:加害者に「親密」な人たち、カフェラテ150円の罪の大きさ) 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 安倍政権のマスコミへのコントロール NHKをはじめとするメディア各社(朝日新聞、日経新聞、読売新聞、毎日新聞、FNNなど)がこの微罪逮捕のニュースを一斉に報じている 中国が犯罪の「質と量」を問うているのに対して、日本では「質」のみが重視される 後者のニュースの方が少なくとも百倍は重要だと思うのだが、放送時間の方は、せいぜい二倍程度しか割かれていない 厚労省の統計不正の深刻さ 「厚労省による不適切統計処理や五輪招致に関する贈賄疑惑などなど、政権にとって不利なニュースばかりが並ぶ中で、政権との軋轢を恐れるニュース制作現場が、誰も傷つかない無難なニュースを求めた結果が、ほのぼのローカル軽犯罪ネタの全国ニュース昇格という結果への着地だった 品種ゴマカシ注入の横行にアタマを痛めるコンビニ業界が、警察とマスコミを巻き込んで一罰百戒の逮捕案件ニュースの配信を企画 ニュースの中身をどこまでも空疎にしておくことで、世間の信じている「ニュース」なるものが、いかに外形的な要素に依存した形式的な制作物であるのかを天下に知らしめることが、パロディに与えられている使命 バカなネタを大真面目に作っている 差額50円の窃盗による逮捕劇を全国ネットのニュースで伝える判断を下したデスクは、いったいこのニュースのどの部分にニュースバリューを認めたのだろう NHKニュース コーヒー用の100円のカップを購入した62歳の男が、そのカップの中に150円のカフェラテを注いだ窃盗の疑いで逮捕 コンビニエンスストア 「カフェラテ150円の罪の大きさ」 カタにハマっているのは、実は不真面目な人たちだ。 真面目な人たちは、自分の人生に真面目な態度で臨んだことの結果として、良い意味でも悪い意味でも厄介な個性を手に入れることになる。 不真面目な人たちはその境地に到達することができない 女衒にはあからさまな憧れの感情を表出している。 「運営側」に対する無条件の憧憬。 他人をコントロールすることへの強烈な欲望。 まるっきりな権力志向じゃないか 「女衒」 『東京いい店やれる店』 「週刊SPA!」編集部のコメントも、もっぱらに「言葉の使い方の不適切さ」を詫びることに終始 反射的に「詫びさせた側」「クレームをつけた人々」を叩きにまわる人々が、どこからともなく湧いて出て一定の役割を果たすことになっている 21世紀のネット社会 「リアル」で「ぶっちゃけ」な「男の本音」を率直に反映した誌面を作るのであれば、無遠慮な下ネタを避けて通ることは不可能なのであって、むしろ問題なのは、本来男が読むべき雑誌を、想定読者ではないある種の女性たちがわざわざ眉をひそめるために読んでいるその異様な読書習慣のほうだ、と、彼らは言いたいようだ 謝罪のコメントを発表 「ヤレる女子大学生ランキング」として実在する首都圏の5つの大学名を掲載 《ヤレる「ギャラ飲み」》というタイトルの特集記事 「週刊SPA!」 「加害者に「親密」な人たち」
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