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幼児(児童)虐待(その2)(小4女児死亡事件 「個人情報」の”法令遵守”が市教委の対応の誤りを招いた、「親の苦情と戦えない」小さな命を救えなかった虐待現場の叫び、(必読)千葉小4虐待死「最悪の結末」児童相談所はなぜ誤った判断をしたのか 悲惨な事件を繰り返さないために) [社会]

幼児(児童)虐待については、昨年7月9日に取上げた。今日は、(その2)(小4女児死亡事件 「個人情報」の”法令遵守”が市教委の対応の誤りを招いた、「親の苦情と戦えない」小さな命を救えなかった虐待現場の叫び、(必読)千葉小4虐待死「最悪の結末」児童相談所はなぜ誤った判断をしたのか 悲惨な事件を繰り返さないために)である。事件についての散発的な報道では疑問が多く残っていたが、3つの記事ともこれを解きほぐしてくれた。特に、3番目は必読である。

先ずは、元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎氏が2月3日付け同氏のブログに掲載した「小4女児死亡事件、「個人情報」の”法令遵守”が市教委の対応の誤りを招いた」を紹介しよう。
https://nobuogohara.com/2019/02/03/%E5%B0%8F4%E5%A5%B3%E5%85%90%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%80%81%E3%80%8C%E5%80%8B%E4%BA%BA%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%B3%95%E4%BB%A4%E9%81%B5%E5%AE%88-%E3%81%8C/
・『千葉県野田市の小学4年女児(栗原心愛さん)が自宅で死亡し、父親(栗原勇一郎容疑者)が傷害で逮捕された事件に関して、市教委が、女児が父親からの「いじめ」を訴えたアンケートのコピーを栗原容疑者に渡していたことで、厳しい批判を浴びている。 この問題は、市教委が、アンケートの記載内容を「個人情報」ととらえ、個人情報保護に関する法令・条例等の「法令上の判断」に偏りすぎた対応をした結果、女児の生命を守ることができなかったと見ることができる。その意味では、法令に基づく対応、つまり「法令遵守」ではなく、子供の生命を守るという「社会的要請」に応えるための対応に徹するべきだったと言える』、郷原氏の有名な自論だ。
・『15年程前の2004年、桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センターを設立し、本格的にコンプライアンスに関する活動を始めて以来、ずっと強調してきたのが、「コンプライアンスを“法令遵守”ではなく“社会的要請に応えること”ととらえなければならない」ということであった。とりわけ、「個人情報保護」に関する「法令遵守」は、人の生命に関わる重大な場面において、「社会的要請に反する事態」を引き起こす。 コンプライアンス研究センターの設置直後に発生した、戦後最大の鉄道事故、福知山線脱線事故の際に起きた「個人情報保護法」の「法令遵守」の事例について、【「法令遵守」が日本を滅ぼす】(新潮新書:2007年)で、以下のように述べている。法令規則の方ばかり見て、その背後にどんな社会的要請があるかということを考えないで対応すると、法令は遵守しているけれども社会的要請には反しているということが生じるわけです。その典型的な例が、JR福知山線の脱線事故の際に、被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して、医療機関側が個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶したという問題です。個人情報保護法が何のためにあるのかということを考えてみると、その背景には、近年の急速な情報化社会の進展があります。今の社会では、情報は大変な価値があります。それを適切に使えば、個人に非常に大きなメリットをもたらしますが、逆に、個人に関する情報が勝手に他人に転用されたり流用されたりすると、本人にとんでもない損害を与える恐れがあります。ですから、個人情報を大切にし、十分に活用するために、情報が悪用されることを防止する必要があります。そこで、個人情報を取扱う事業者に、情報の管理や保護を求めている、それが個人情報保護法です。 あの脱線事故の際、電車が折り重なってマンションに突っ込んでいる悲惨な事故をテレビで目の当たりにして、自分の肉親が電車の中に閉じ込められているのではないか、病院に担ぎ込まれて苦しんでいるのではないかと心配する家族にとって、肉親の安否情報こそが、あらゆる個人情報の中でも、最も重要で大切なものではないかと思います。ですから、事故後の肉親の安否問い合わせに対して、迅速に、的確に情報を伝えてあげることこそが、個人情報保護法の背後にある社会的要請に応えることだったのです。 しかし、あのとき多くの医療機関の担当者の目の前には「個人情報保護法マニュアル」があったのでしょう。そこには、個人情報に当たる医療情報は他人には回答してはいけないと書いてあったので、その通りに対応し回答を拒絶したのです。担当者には、「法令遵守」ということばかりが頭にあって、法の背後にある社会的要請など見えていなかったのです』、その通りで、個人情報保護法の絶対視は困ったものだ。
・『このようにいうと、個人情報保護法に詳しい内閣府の担当者や弁護士さんから、「何条何項但書には、そのような場合には提供してもいいということが書いてある。単なる勉強不足だ。」と言われるかも知れません。しかし、そういう法律の勉強をしていないと適切な判断ができないことなのでしょうか。大切なことは、細かい条文がどうなっているなどということを考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。そうすれば、社会的要請に応えることができるはずです。 本来人間がもっているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です』、「本来人間がもっているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です」というのは、痛烈な「法令遵守」主義批判だ。
・『「いじめ」のアンケートでの父親から虐待を受けていた女児の「先生どうにかなりませんか」という“叫び”を、「個人情報」の問題と考えてしまったところに、市教委の対応の根本的な誤りがあった。 1月31日付け朝日記事【「父の恫喝に屈した」市教委がアンケート渡す 小4死亡】や、翌2月1日に野田市が公表したアンケート内容などを総合すると、アンケートのコピーを父親に渡すまでの経過は、以下のように整理できる。
(1)2017年11月6日、(冒頭に「ひみつをまもりますので、しょうじきにこたえてください」と書かれている)「いじめ」に関するアンケート調査に、女児が「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり、起きているときにけられたりたたかれたりされています。先生、どうにかできませんか」と記入し、「父親によるいじめ」を訴える。
(2)女児は、約50日間、児童相談所(以下、「児相」)に一時保護された後、12月27日に両親の元へ返される。
(3)2018年1月12日、父親と母親とが、学校、市教委指導課が今後の対応を話し合った際、父親が、アンケートのコピーを渡すよう強く要求。
(4)それに対して、市教委は「個人情報であり、本人の同意がない」との理由で拒否。
(5)1月15日に、父親と母親が「子供の字で書かれた同意書」を持参して、アンケートのコピーを渡すよう要求。
(6)女児に確認せず、市教委担当課長の判断でコピーを渡す。
(7)アンケートには自筆の書き込み以外に、担任だった女性教諭が聞き取りした「なぐられる10回(こぶし)」「きのうのたたかれたあたま、せなか、首をけられて今もいたい」「口をふさいで、ゆかにおしつける」「おきなわでは、お母さんがやられていた」といった内容も書き込まれていたが、この教諭の書き込みは消して渡した。
 上記朝日記事は、この経過に関して、以下のように述べている。この頃、学校は保護者への情報開示などを求める念書も要求され、栗原容疑者に渡していた。心愛さんは18日に市内の別の学校に転校。2回あったアンケートでいじめを訴えることはなかった。矢部課長は「(12日の面会で担当者が)大きな声で恫喝され、威圧的な態度に恐怖を感じ、強い要求に屈してしまった。その後、どのような影響が出るか、心にひっかかりながらも渡してしまった」と話した。その後、関係機関が参加する2月20日の「要保護児童対策地域協議会」の実務者会議でコピーを渡したことを報告する資料が配られたが、市の担当課も柏児相も特に対応を取らなかった。市や市教委の幹部は事件後に知ったという。市は情報公開条例に違反する恐れがあるとして、関係者を処分する方針だ』、市教委が「威圧的な態度に恐怖を感じ、強い要求に屈してしまった」というのは情けない限りだが、ありそうな話ではある。
・『個人情報保護の問題なのか  (3)の父親と母親の女児のアンケート回答の開示要求に対して、市教委の当初の対応は、(4)の「個人情報」を理由に拒否するというものだったが、その拒絶理由に対しては、(5)で両親が「本人の同意書」を持参したために、「個人情報」を理由に拒絶できないと考え、父親にコピーを渡すという(6)の事態に至った。しかも、上記朝日記事によれば、現時点においても、野田市は、市教委の対応が「情報公開条例に違反する恐れがある」と判断しているようだ。 しかし、そもそも、女児のアンケートの記述は、「個人情報保護」の問題なのだろうか。個人情報保護に関する法令上の対応を行おうとしたこと自体が間違いだったのではないか。 アンケートは、学校内での「いじめ」について行われたものであり、一般的には、アンケート中の「いじめ」記載については、その子供の親は、「被害者側の立場」だ。アンケートが目的としている学校内での「いじめ」の問題について、子供の親に対して、子供の回答を見せるよう要求されて拒絶することは、もともと想定されていない。ところが、問題のアンケートの記述は、女児の「父親によるいじめ」を内容とするものであり、父親は加害者の立場だ。「個人情報」だからではなく、そもそも、その女児の記述内容の性格上、父親は、絶対にその事実を開示してはならない相手方だったはずだ。「訴訟を起こす」とまで言って開示を強く要求してきた父親に対して、「個人情報」を理由とする以外に拒絶する理由がないと判断したこと自体が間違っていたというべきだろう』、いくら「子供の字で書かれた同意書」があるからといって、加害者に開示するとは、信じられないようなお粗末な対応だ。
・『今回の問題は、アンケートに女児が書いた「父親の虐待」についての「情報」について、それがどのような意味を持ち、どのような方向で活用されるべきものなのか、ということを考えるべきだった。「父親から虐待を受けていることの叫び」としての「情報」を社会としてどのように受け止め、どのように対応すべきなのかという視点から考えるべきだったといえる。それを、個人情報の一般的取扱いに関する「情報の提供や公開」ついての法令・規則に基づいて判断したことに根本的な問題があった。まさに「悪しき“法令遵守”」の最たるものである。市教委としては、アンケートの目的からして、そもそも開示すべきではない情報と判断をして開示を拒絶すべきだった』、説得力溢れた主張で、その通りだ。
・『児童相談所との関係  しかし、日常的に法令に基づいて業務を行うこととされている市教委という公務員の立場からは、「法令遵守」的対応に陥って、かえって、「社会の要請」に反してしまうということは、官公庁や自治体において、しばしば起きる問題である。児童虐待問題に対して、「社会の要請に応える」という方向での十分な対応が行えなかったことについて、市教委の担当者を一方的に非難批判することが適切とは思えない。 上記朝日の記事に書かれている2月20日の「要保護児童対策地域協議会」の実務者会議で何の意見も出されていないということも、市教委の担当者個人の問題ではないことを示していると言えよう。 そこで重要なことは、(1)のアンケートの自由記述での女児の「いじめの訴え」と、教師が聞き取った虐待の事実が児相に通報され、それによって、(2)の一時保護の措置がとられた時点から、少なくとも、この児童虐待問題は「児相マター」になっているということだ。12月27日に一時保護は解除になっているが、それは児相のどのような判断によるものだったのか。「虐待の危険性が低下した」と判断したのだろうか。しかし、いずれにしても、児相としては、その後も、父親による女児に対する虐待の有無を引き続き注意深く見守っていく必要があったはずだ。 (2)の児相の一時保護のきっかけとなったのは(1)の女児のアンケートへの記述だったわけだが、それが、何らかの事情で父親が知るところとなり、だからこそ、年明けから、父親は(3)の開示要求の行動を起こしたと考えられる。なぜ、アンケートのことが父親に知られてしまったのか。 そして、(3)~(5)に至る父親からの執拗なまでのアンケートの開示要求を、児相は把握していたのだろうか。市教委の側は、コピーを渡す判断をする際に、児相に相談をしなかったのだろうか。上記の「要保護児童対策地域協議会」には、児童相談所の関係者も参加していたのではなかろうか。そこで女児の父親にコピーを渡したことを報告する資料が配られたのに意見が出なかったのは、その時点では、コピーを渡すことが特に問題はなかったとの判断を児相側も共有していたということではないか。 本来、個別の児童虐待への対応に関して専門的な知見を持っているのは児童相談所であり、既に「児相マター」になっている今回の虐待問題については、児相が積極的に対応することが何より重要だったはずだ。市教委の対応に問題がなかったとは決して言えないが、児相の対応と切り離して市教委側の対応に焦点を当てて一方的に非難することが適切とは思えない。 市教委の対応に関しては、公表されたアンケートの内容の中に教師が聞き取った「虐待」の具体的内容が書き込まれていると報じられる一方で、父親にコピーを渡す際に、その部分は消して、女児自身が書いた自由記述だけにして渡したことはほとんど報じられていない。そのため、女児が教師に訴えた虐待内容も含めて、父親に開示したように認識されている。 女児が児相に一時保護された直接の理由となったのは、教師の聞き取りで女児が「虐待」について話したことだったはずだ。その点を隠して開示したというのは、市教委側の一応の配慮と評価する余地もある。教師が聞き取った虐待の具体的事実も含めてアンケートのコピーを渡したかのように誤解される報道は適切ではない』、市教委の対応よりも児相の対応により問題がったとする郷原氏の判断は、妥当だ。
・『アンケートのコピーを渡したことの虐待への影響  もう一つ重要なことは、アンケートのコピーを渡したのは、昨年の1月のことであり、女児が死亡したのは1年後の今年1月だということだ。しかも、現時点の父親の逮捕罪名は「傷害」であり、虐待と女児の死亡との因果関係も明らかになっていない。アンケートのコピーを渡したことが、その後、父親の虐待にどのような影響を与えたのかは、現時点では明らかになっていないのである。 コピーを渡す行為が適切ではないとの評価が変わるものではないが、それが重大な結果につながったのかどうかは、逮捕された父親の刑事事件の裁判の中で明らかになることだ。市教委の対応の拙さだけに注目するのではなく、「子供の生命を守る」という社会の要請に応えるために、虐待を受けている子供の叫びを、関係機関がどのように受け止め、どのように連携して対応すべきかを、改めて考えるべきだ。 今回のアンケートのコピーの問題に関して、野田市には、1日800件を超える抗議の電話が殺到していると報じられている。 しかし、今回の市教委の対応は、「法令遵守」による対応で「社会的要請」に反してしまった典型例であり、官公庁、自治体が陥りがちな「コンプライアンスの誤り」と言える。児相等の対応と切り離して、市教委の対応だけに焦点を当てて非難するのは適切ではない。ましてや、市教委の対応によって女児の命が奪われたかのような短絡的なとらえ方をすべきではない。むしろ、今回の問題を、自治体としての取組みを抜本的に見直す契機とすべきだ』、郷原氏らしい冷静な主張で、全面的に賛成だ。

次に、児童相談所の立場から心理カウンセラーで元児童心理司の山脇由貴子氏が2月17日付けironnaに寄稿した「「親の苦情と戦えない」小さな命を救えなかった虐待現場の叫び」を紹介しよう。
https://ironna.jp/article/11907?p=1
・『千葉県野田市の小学4年、栗原心愛(みあ)さんが自宅浴室で死亡し、両親が傷害容疑で逮捕される事件が起きてしまった。この事件の経過を分析すると、「事件を防ぐことができた」「救える命だった」と私は確信する。本稿では、今後二度と同じような事件が起きないためにも、今回の事件での児童相談所や学校、教育委員会など各機関の問題点を検証したい』、より現場に密着したレポートも貴重だ。
・『きっかけは、心愛さんの通う小学校が2017年11月6日に実施した、いじめに関するアンケートだ。心愛さんは、氏名を記入した上で「お父さんにぼう力を受けています。先生、どうにかできませんか」と答え、父親からの虐待を訴えたのである。 学校は翌日、当時の担任が心愛さんから聞き取りした上で千葉県柏児童相談所に通告、通告を受けた児童相談所も一時保護を決定した。ここまでは良い対応だったといえる。 問題はその後だ。一時保護した児童相談所は今年1月28日に記者会見しているが、17年12月27日に行った一時保護解除の判断について「重篤な虐待ではないと思い込んでいた」と述べている。児童相談所はなぜ「重篤な虐待ではない」と判断したのだろうか。 アンケートには、本人の訴え以外にも、担任が聞き取ったメモ書きが残っていた。そこには「叩かれる」「首を蹴られる」「口をふさがれる」「こぶしで10回頭を叩かれる」といった内容が書かれており、明らかに重篤な虐待といえる。 さらに、児童相談所は一時保護中に、心愛さん本人からも虐待について聞き取りしていると考えられる。加えて、心理の専門家が心愛さんの「心の傷」の度合いなども検査しているはずだ。 学校で虐待について話すことができた子供だから、児童相談所で話していないとは考えづらい。その内容について一切公表されていないが、「重篤な虐待ではない」という判断から分かるのは、「心愛さんの訴えをなかったことにした」ということである。結局、児童相談所は、最終的に父親からの恫喝(どうかつ)に負け、心愛さんを帰してしまったのだろう。 私も、児童相談所に児童心理司として勤務していたころ、虐待を受けて来た子供に対して、聞き取りや心理テストを数多く行ってきた。子供からの聞き取り内容は最優先であり、子供が「父親が怖い」と言えば、会わせることはしなかった。 今回の事件では、心愛さんを児童相談所が一時保護した際に、医師が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあると診断していた、という報道もある。虐待によって心に傷を負った子供を、家に帰すことなんて考えられるはずはない』、児童相談所の対応の真相はいまだ不明な点が多い。
・『17年12月、児童相談所が一時保護を解除した際に、父方の親族に帰すことを条件にしたのも問題の一つだ。自宅ではないといえども、父方である以上、父親の味方である可能性が高い。その場に心愛さんを帰せば、すぐに父親の所に戻されることは容易に想像できる。 実際、児童相談所は会見で「2カ月程度で自宅に戻す予定だった」と述べている。しかし、その戻し方も問題だ。 昨年2月26日、児童相談所は親族宅から自宅に戻すかどうか判断するために父親と面談したとき、父親から心愛さんが書いたという手紙を見せられている。だが、文面を見て「おそらく父親に書かされたのだろう」と認識しながらも、父親が心愛さんを家に連れて帰るのを許してしまったのである。 そもそも、父親は一貫して虐待を認めていない。前述の通り、「重篤な虐待ではない」と判断して一時保護を解除し、父方の親族宅に帰した時点で不適切である。ましてや、父親の要求に従って自宅に戻すなど、絶対にあってはならないことだ。虐待だけでなく、ドメスティック・バイオレンス(DV)もある家庭だったからである。 この時、父親は児童相談所に対して「これ以上引っかき回すな」と言っており、児童相談所による今後の関わりを一切拒絶している。児童相談所の役割とは、虐待再発を防ぐために、定期的に家庭訪問し、親子の様子を確認しながら、学校訪問も重ね、子供の本心を聞くことにある。 その児童相談所の指導に「従わない」と父親は言っているのだから、父親の要求の全てを、児童相談所は拒絶しなくてはならなかったのだ。だが実際は、父親との面会以降、児童相談所は自宅訪問せずに、心愛さんを「放置」している』、説得力ある正論である。
・『心愛さんが自宅に戻った後の昨年3月19日、児童相談所は学校で心愛さんに会い、手紙は「父親に書かされた」と打ち明けられ、自分の意思で書いたものではないことを確認している。ただ、この時に、本人からの虐待の訴えがなければ、一時保護は難しいだろう。 しかし、それでも児童相談所は定期的に会いに行かなければならなかった。もし叩かれているのなら、「今度は必ずあなたを守る」「絶対に家に帰さない」と心愛さんに伝え続け、そして訴えの機会を待ち、保護すべきだった。 厚生労働省は児童相談所運営指針で、児童相談所が親の同意なく子供を一時保護する権限を有するという方針を掲げている。とはいえ、同意もなしに学校や保育園から子供を保護するわけだから、親が激高するのも当然だ。私も親権者から「訴えてやる」と何度も言われたり、「つきまとって人生滅茶苦茶にしてやる」と脅されたこともある。 時には親と敵対してでも子供を守るのは児童相談所の責任だが、職員も人間である以上、脅しや恫喝に恐怖を感じるのは無理からぬ話だ。私自身も「全く怖くなかった」と言えば嘘になるし、恐怖心を抱いたことは多々あった。本当に後をつけられているのではないか、と家への帰り道に不安になったこともある。 それでも戦わなくてはならないのだが、経験の浅い同僚の児童福祉司が親との面談で恐怖心を抱き、本当に辞めようかと悩んでいた姿を見たことがある。激しい攻撃をしてくる親と「もう関わりたくない」「あの父親には二度と会いたくない」と思ってしまう福祉司もいた。 一度でもそのように思ってしまうと、子供に会って、虐待が再発していないかどうか確認をすることもためらわれてしまう。児童福祉司は裁量が大きい分、心理的な負担も大きい。その負担の大きさもこの事件の原因の一つと言えるだろう』、児童福祉司の仕事がこんなにも大変というのを、初めて知った。
・『むろん、不適切な対応だったのは児童相談所だけではない。昨年1月15日に野田市教育委員会が、心愛さんが虐待を訴えたアンケートのコピーを父親に渡してしまったのも大きな問題だ。同市は、情報公開条例違反に当たり、関係者の処分を検討しているという。 だが、それ以前にアンケートを渡してしまえば、虐待が再発・エスカレートすることは、当然予測できたはずだ。それなのに、市教委の担当者は「威圧的な態度に恐怖を感じた」と述べており、つまりは父親の攻撃に屈した、ということだ。自分の身を守るために、心愛さんを「犠牲」にしたということになる。クレーム対応の知識がなさ過ぎるとしか言いようがない。 しかしながら、学校も児童相談所と同様、親との信頼関係を維持しなくてはならないため、「クレームに断固として戦う」という慣習がないのも事実である。私も、児童心理司時代に、学校から「親のクレームに困っている」という相談を何度も受けたことがある。 本来、学校や教育委は一時保護に関するクレームを引き受ける必要はない。一時保護の決定を児童相談所が行うのは、児童虐待防止法で定められている通りだ。 そこで私は、「一時保護に対する不満は児童相談所に言ってください」と学校から親に伝えてもらうようにお願いすることで対応していた。学校や教師を児童相談所が守らなければ、学校は虐待に関する通告をためらってしまうかもしれない。 そして、学校と児童相談所の連携が不十分だったことも大きな問題だ。心愛さんは冬休み明けの今年1月7日から小学校を欠席し、父親から学校に「沖縄の妻の実家にいるために休む」と連絡があったという。 父親の虐待が疑われる子供に対しては、夏休みや冬休み、長期休暇後の欠席を絶対に放置してはいけない。長期休暇中は、虐待がエスカレートするリスクが非常に高いからである。 「欠席の理由は傷やあざを隠すためかもしれない」と常に疑いの目を持つことが必要だ。子供が長期休暇明けに欠席した場合、学校は直ちに児童相談所に連絡すべきであり、児童相談所はすぐに姿を確認しなければならない。 もし、父親から「沖縄の母方親族の所にいる」と言われたら、児童相談所は沖縄の児童相談所に心愛さんの確認を依頼すべきだった。「親族宅にいる」「親族の具合が悪い」というのは虐待加害者が子供の姿を見せないために使う常套(じょうとう)句である。その言葉を疑い、沖縄での確認、そして家庭訪問を行っていれば、心愛さんの命は助かったかもしれない』、児童福祉司の経験豊富な筆者ならではの説得力ある指摘だ。
・『この事件は、児童相談所も学校も市教委も、全ての組織が父親の攻撃に屈し、言いなりになってしまったために起こった事件といえるだろう。学校や市教委にも問題はあるが、子供を虐待から守る権限は児童相談所にしかなく、その責任は重い。 同様の事件を繰り返さないように、児童相談所の改革は必須の課題だ。特に求められるのが児童福祉司の育成だ。警察や国税専門官、家庭裁判所調査官のように、年単位の研修期間を経て、児童福祉司として児童相談所に配属されるシステムを作る必要がある。 虐待する親の心理をはじめ、親との面接や子供からの聞き取りスキル、攻撃してくる親への対応を丹念に学ぶ。さらに、先輩福祉司の面接や訪問に同行し、失敗も成功も全て目の当たりにしながら、現場での判断の仕方を学んだ上で、現場に立つ。 子供の命、そして家族の人生の責任を負う仕事だから、専門家としての育成は急務である。また、福祉司本人にとっても、最初の着任前に知識とスキルが身に付いていれば、負担も減るはずだ。 また、現在の児童相談所は、子供を親から強権的に保護する役割と、親との信頼関係を築きながら子供を家に帰す役割、という矛盾する業務を行っている。しかも、この二つの役割を一人の児童福祉司が担当している。 そこで、虐待の再発可能性を疑い続けるチームと、親との信頼関係をもとに話し合いを続けるチームを分ける。自治体によっては既に実施されている役割分担を、全国的に広げることも重要だ。 児童相談所は子供を守るための強い権限を持っている。それでも救えない子供がいる。 安倍晋三首相は、2019年度に児童相談所の専門職員を1千人増員して、5千人体制に拡充する方針を打ち出したが、今まで繰り返されてきた強化策ではなく、児童相談所という組織そのものの変革が必要である。何より、この事件の問題点を丁寧に検証し、幼い命を救うことができるように、全国の児童相談所で共有することが求められる』、「虐待の再発可能性を疑い続けるチームと、親との信頼関係をもとに話し合いを続けるチームを分ける。自治体によっては既に実施されている役割分担を、全国的に広げることも重要だ」というのは、極めて重要で実効性ある提言だ。ただ、NHKニュース9では、この点が取り上げられ、登場した児童相談所所長は、チームを分けても、親とのコミュニケーションにはハードルが高く、円滑化にはかなりの年月が必要で、決して万能薬ではない旨を説明していた。確かに、これといった万能薬などはないのかも知れない。

第三に、筑波大学教授(臨床心理学・犯罪心理学)の原田 隆之氏が2月11日付け現代ビジネスに寄稿した「千葉小4虐待死「最悪の結末」児童相談所はなぜ誤った判断をしたのか 悲惨な事件を繰り返さないために」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59827
・『繰り返される児童虐待  千葉県野田市で小学4年生の栗原心愛(みあ)さんが、今年1月父親からの虐待で死亡したことが報じられた。この事件で、父親ばかりか母親までもが逮捕された。 そしてこの問題は、国会でも取り上げられただけでなく、一連の虐待事件を受けて、国連子どもの権利委員会からも児童虐待対策の強化が勧告されるまでの事態に至っている。 小さな子どもが真冬のさなかに冷水を浴びせられ、死亡に至るほどの暴行を受けたという事実だけでも言いようのない怒りと悲しみを覚えるが、毎日のように「新事実」が報道されるたびに、嫌というほど暗澹たる気持ちにされられる。 たとえば、心愛さんが被害を訴えた「アンケート」を教育委員会が父親に見せたこと、親が虐待の様子を動画で記録していたこと、さらには肺の中から水が検出されたことなど、次から次へと痛ましい事実が明るみに出ている。 こうした一連の「新事実」のなかで、私がとても気になっているのは、児童相談所の杜撰な対応とその判断の決定的な誤りについてである。 児童相談所は、当初心愛さんを家族から離して一時保護をしていたが、その後措置は解除され、いったんは親族の元で暮らしていた。そして、昨年2月に父親のいる自宅へと戻されている。 その際、児童相談所が実施した「リスクアセスメント」では、虐待のリスクが上昇していたにもかかわらず、児相は父親の元に戻す判断をしていたという。 なぜこのような誤った判断をし、その結果、心愛さんを死に至らしめるという最悪の結末となってしまったのだろうか』、まず児童相談所の対応を問題視したのは、さすがだ。
・『リスクアセスメントとは  児童相談所の業務において、「リスク」のアセスメントは最も重要な専門判断の1つである。つまり、その親や家庭が子どもに虐待をする危険性(リスク)がどれくらいあるのかという判断をすることは、その後の対応や措置の重要な根拠となる。 このような判断を下すには、主に2つの方法がある。 1つは、専門家が養育者や子ども本人などとの面接などを通して得られた情報を基に、専門家としての判断、そして機関における会議の結果によって下される判断である。これを「臨床判断」「コンセンサスに基づく意思決定」などと呼ぶ。 今回も、児童相談所の職員による会議の結果、父親の元に返すという判断がなされたと報じられている。ただし、会議録は杜撰なものしか残されておらず、児童福祉司の意見書も添付されていないという重大な瑕疵があった。 一方、リスクアセスメントツールを用いて、統計的なデータに基づいた判断をする方法もある。 これは、これまでの膨大な研究結果を基にして、虐待に関連のある要因を統計的に導き出し、それをチェックリストのようにした「ツール」を用いるものである。 そして、当該の家庭や養育者、子どもにそれらが当てはまるかどうかを綿密にチェックしながら、リスクスコアを導き出す。 厚生労働省による「共通リスクアセスメントツール」には、「虐待の状況」「子どもの状況」「世帯の状況」「保護者の状況」「その他」の5つのカテゴリーがあり、たとえば「保護者」のカテゴリーでは「虐待の認識」(認めているかどうか、しつけであると正当化をしていないか)、「困り感・改善意欲」などを判断してチェックされる。 いずれも、ほぼ客観的に判断できる項目であるので、一定の訓練を受けてさえいれば、誰が実施しても正確にリスクを判断することができる。 今回の件でも、類似のリスクアセスメントツールが用いられ、その結果以前よりもリスクスコアが上昇していたことがわかったが、先述のとおりその事実にもかかわらず、児相の会議は父親の元に返すという判断をしたということである。つまり、客観的なリスク指標よりも、「専門家の臨床判断」を優先したことになる』、こうした事情を知りたいものだ。
・『専門家の陥穽  最近の心理学では、人間の判断・意思決定における誤りに関する研究が注目を集めている。その嚆矢となったのは、ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンの一連の研究である。 それまで、人間の意思決定はおおむね合理的なもので、感情にかき乱されたり、アルコールや薬物、精神障害などの影響を受けたりしない限り、信頼できると考えられていた。 しかし、カーネマンが明らかにしたことは、人間の意思決定には、系統的なエラーが数多くあるため、それを安易に信頼することは危険だということであった。 よくみられる判断の偏りを「バイアス」と呼び、緻密な分析を経ない「手抜き」の意思決定を「ヒューリスティック」と呼ぶ。 たとえば、代表的なバイアスに「確証バイアス」がある。これは、自分が従前から抱いている考えに見合った情報だけを取り込み、それに反した情報を無意識的にスルーしてしまうことをいう。 今回のケースにおいても、「父親がうるさいから心愛さんを家に帰したい」という気持ちがあれば、それが危険であることを示すどんな情報があっても、それらを無視してしまったということはないだろうか。 また、最も頻繁に起こるヒューリスティックの1つとして、「利用可能性ヒューリスティック」がある。これは、簡単に手に入った情報だけを基にして判断を下すことである。 今回のケースでは、「父親にやや態度の変化があった」「父親が強く要求している」などの表層的な情報だけにとらわれて、その他の多くの情報を考慮に入れることを「手抜き」してしまったのではないだろうか。 このように、思考のエラー、意思決定の誤りは、誰にでも起こりうるもので、もちろん専門家とて例外ではない。「専門家は間違わない」「専門家の判断は正確だ」という考え自体が既に間違っている。 また、専門家の合議による「コンセンサスに基づく意思決定」なら安心かというとそうでもない。とかく集団思考は、これまた「同調圧力」など独特のエラーが起こりやすいことがわかっている。 こうした事実を背景にして、重要な判断や意思決定において、「専門家による臨床判断」「コンセンサスに基づく意思決定」を排して、より正確で間違いの少ない意思決定をしようとするのが「エビデンスに基づく意思決定」である。 これは、客観的なデータ、それも質の高い研究の積み重ねや統計から得られたデータに基づいて、意思決定をしようとするものである。 リスクアセスメントツールによるリスク判断も、エビデンスに基づく意思決定の一形態であるといえる』、「確証バイアス」や「利用可能性ヒューリスティック」、さらに集団思考での「同調圧力」、などは今回の意志決定の不思議さを見事に解きほぐしてくれた。さすが心理学の専門家だけある。
・『専門家判断か、エビデンスか  ここまでの話で、「専門家による臨床判断」と「エビデンスに基づく意思決定」とどちらがより正確で、信頼すべきかはおわかりいただけたかと思う。 しかし、これについてもその優劣を主観的かつ安易に判断することは危険である。どちらがより正確かを、データに基づいて知ることが重要である。 児童虐待のリスクについて、専門家判断とエビデンスに基づく判断の正確性を検討した研究は数多くある。そして、そのほとんどが、エビデンスに基づく判断(つまりリスクアセスメントツールの活用)の優位性を明確に示している。 さらに、児童虐待に限定せず、メンタルヘルス分野での過去56年間にわたる研究の蓄積をまとめた大規模研究(メタアナリシス)もなされている。 その結果を見ても、優劣は明白で、統計的手法に頼ったほうが、正確性は最も控え目に見積もっても13%上昇し、専門家判断より有意に優れていた。 一方、専門家判断の正確性は50%を切っており、これは当てずっぽうを言うのより劣るレベルである。たとえば、「虐待をする」「しない」の判断は、当てずっぽうを言っても50%の確率で当たるからだ。 なぜ専門家の判断は当てにならないのか。 これについても、いくつかの研究があるが、そこで明らかになったことは,専門家判断は,専門家が元来有している態度(たとえば、「子どもは家庭で親と一緒に暮らすのが一番幸せである」など)にきわめて影響を受けやすいということであった。これは、カーネマンが言った通りの結果であり、明白な「確証バイアス」である。 今回の一番の問題は、貴重なリスクアセスメントの結果を、わずかな数の「専門家」の会議によるコンセンサスとやらで、軽々と覆したことである。 これは、傲慢もいいところである。専門家であるなら、まず研究とデータの前に謙虚でなければならない。 もちろん、リスクアセスメントツールも100%の正確性を保証するものではないし、機械的に判断することには慎重である必要がある。ツールの穴を埋めるのは、専門家の面接や臨床判断ということになる。 とはいえ、客観的なアセスメントの結果を覆すには、相当の重大な根拠がなくてはならない。父親の脅しなどが根拠にならないのは言うまでもない。 実際、厚生労働省も「子ども虐待対応の手引き」において、以下のように明確に述べている(強調引用者)。 「保護の要否判断については、担当児童福祉司個人の判断であってはならず、所内会議等を通じた機関決定は無論のこと、外部との連携も含め、できる限り客観的で合理的な判断をしなければならない。そのためには、系統的かつ専門的な情報収集と情報整理、そして情報評価が必要である。 具体的には、判断の客観性、的確性を高めるため、あらかじめ用意されたリスク度判定のための客観的尺度(リスクアセスメント基準)に照らし合わせて緊急介入の必要性や緊急保護の要否判断等を行うことにより、対応の遅れや判断の躊躇等を防止し、児童福祉の専門機関としての客観的な判断を定着させなければならない」』、「専門家判断の正確性は50%を切っており、これは当てずっぽうを言うのより劣るレベルである」というのには驚かされた。確かに、専門家が「確証バイアス」の影響を受ければそうなるのだろう。
・『今後のために  相次ぐ悲惨な事件を受けて、政府は関係閣僚会議を開き、児童福祉司の増員や対策の強化を決定した。 しかし、人を増やせばよい、制度が厳格になればよいというものではない。増えた人員でつまらない会議を重ねて、間違った意思決定をするのでは、しないほうがましだ。当てずっぽうの判断のほうがまだ当たるのだから。 専門家はとかく「臨床判断」をするのが好きで、データやツールで「機械的に」意思決定をすることを嫌う。チェックリストのようなもので、簡単にわかってしまえば、自分の存在意義や専門性が脅かされることを恐れるからだ。 しかし、リスクアセスメントツールは、見かけは1枚の紙切れかもしれないが、その背後には何十年にも及ぶ膨大な研究の積み重ねがある。 たった1人や数人の「専門家」が偉そうにしても、到底及びもつかなない知の集積なのだということを忘れてはならない。 ある地方の児童相談所のリスクアセスメントツールのマニュアルには、ご丁寧に「リスクアセスメントの指標の数に頼りすぎないこと」との注釈が付されている。もちろん、機械的にスコアだけを根拠にすることは慎むべきである。 また、自分たちのツールに自信がないのであれば、精度を高めるための研究開発をすべきである。海外のツールには、90%の精度を誇るものもある。 したがって、精度の高いツールを開発したうえで、注釈を付けるならば「リスクアセスメントの指標の数を軽視しないこと」、そして「根拠の薄弱な臨床判断を控えること」とすべきであろう。 児童福祉司が1,000人増えるのは結構だが、やはり人間1人1人の力には限界がある。しかし、ニュートンが述べたように、過去の研究の蓄積を活用することは、「巨人の肩の上に立つ」のと同じで、われわれの限界を超えた大きな視野と力を与えてくれる。 今回はアセスメントに関するエビデンスについて述べたが、これは予防や介入に関しても同じである。 悲惨な事件を繰り返さないために、子どもの福祉に携わる専門家には、ぜひ子どもを守るためのエビデンスを活用し、千人、万人の巨人になっていただきたいと切に願うばかりである』、「ニュートンが述べたように、過去の研究の蓄積を活用することは、「巨人の肩の上に立つ」のと同じで、われわれの限界を超えた大きな視野と力を与えてくれる」というのは、さすがニュートンで、正論だ。児童福祉司もリスクアセスメントツールをもっと重視してもらいたいものだ。
タグ:一時保護の措置がとられた時点から、少なくとも、この児童虐待問題は「児相マター」になっている 個人情報保護に関する法令上の対応を行おうとしたこと自体が間違いだった 肉親の安否情報こそが、あらゆる個人情報の中でも、最も重要で大切なものではないかと思います。ですから、事故後の肉親の安否問い合わせに対して、迅速に、的確に情報を伝えてあげることこそが、個人情報保護法の背後にある社会的要請に応えることだった ニュートンが述べたように、過去の研究の蓄積を活用することは、「巨人の肩の上に立つ」のと同じで、われわれの限界を超えた大きな視野と力を与えてくれる 「小4女児死亡事件、「個人情報」の”法令遵守”が市教委の対応の誤りを招いた」 同氏のブログ 郷原信郎 児童 専門家の陥穽 客観的なリスク指標よりも、「専門家の臨床判断」を優先したことになる 法令に基づく対応、つまり「法令遵守」ではなく、子供の生命を守るという「社会的要請」に応えるための対応に徹するべきだった 現代ビジネス 「専門家は間違わない」「専門家の判断は正確だ」という考え自体が既に間違っている この問題は、市教委が、アンケートの記載内容を「個人情報」ととらえ、個人情報保護に関する法令・条例等の「法令上の判断」に偏りすぎた対応をした結果、女児の生命を守ることができなかったと見ることができる 専門家判断か、エビデンスか 学校や教師を児童相談所が守らなければ、学校は虐待に関する通告をためらってしまうかもしれない リスクアセスメントとは 現在の児童相談所は、子供を親から強権的に保護する役割と、親との信頼関係を築きながら子供を家に帰す役割、という矛盾する業務を行っている 児童相談所も学校も市教委も、全ての組織が父親の攻撃に屈し、言いなりになってしまったために起こった事件 「千葉小4虐待死「最悪の結末」児童相談所はなぜ誤った判断をしたのか 悲惨な事件を繰り返さないために」 原田 隆之 集団思考は、これまた「同調圧力」など独特のエラーが起こりやすい iRONNA 統計的手法に頼ったほうが、正確性は最も控え目に見積もっても13%上昇し、専門家判断より有意に優れていた 被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して、医療機関側が個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶 「重篤な虐待ではない」という判断から分かるのは、「心愛さんの訴えをなかったことにした」ということである。結局、児童相談所は、最終的に父親からの恫喝(どうかつ)に負け、心愛さんを帰してしまったのだろう 個人情報保護の問題なのか 山脇由貴子 にきわめて影響を受けやすい 専門家判断は,専門家が元来有している態度 「利用可能性ヒューリスティック」 専門家判断の正確性は50%を切っており、これは当てずっぽうを言うのより劣るレベルである 福知山線脱線事故の際に起きた「個人情報保護法」の「法令遵守」の事例 児童相談所の指導に「従わない」と父親は言っているのだから、父親の要求の全てを、児童相談所は拒絶しなくてはならなかったのだ リスクアセスメント 虐待の再発可能性を疑い続けるチームと、親との信頼関係をもとに話し合いを続けるチームを分ける よくみられる判断の偏りを「バイアス」 虐待 児童相談所は一時保護中に、心愛さん本人からも虐待について聞き取りしていると考えられる。加えて、心理の専門家が心愛さんの「心の傷」の度合いなども検査しているはずだ 「悪しき“法令遵守”」の最たるもの 大きな声で恫喝され、威圧的な態度に恐怖を感じ、強い要求に屈してしまった 父親は加害者の立場だ。「個人情報」だからではなく、そもそも、その女児の記述内容の性格上、父親は、絶対にその事実を開示してはならない相手方だったはずだ 幼児 「エビデンスに基づく意思決定」 児童相談所はなぜ「重篤な虐待ではない」と判断したのだろうか 人間の意思決定には、系統的なエラーが数多くあるため、それを安易に信頼することは危険 アンケートのコピーを渡したことの虐待への影響 「確証バイアス」 児童相談所は定期的に会いに行かなければならなかった 「「親の苦情と戦えない」小さな命を救えなかった虐待現場の叫び」 リスクアセスメントツールを用いて、統計的なデータに基づいた判断をする方法もある ダニエル・カーネマン 「手抜き」の意思決定を「ヒューリスティック」 本来、個別の児童虐待への対応に関して専門的な知見を持っているのは児童相談所であり、既に「児相マター」になっている今回の虐待問題については、児相が積極的に対応することが何より重要だったはずだ 一時保護を解除した際に、父方の親族に帰すことを条件にしたのも問題の一つ 繰り返される児童虐待 つは、専門家が養育者や子ども本人などとの面接などを通して得られた情報を基に、専門家としての判断、そして機関における会議の結果によって下される判断である。これを「臨床判断」「コンセンサスに基づく意思決定」 激しい攻撃をしてくる親と「もう関わりたくない」「あの父親には二度と会いたくない」と思ってしまう福祉司もいた。 一度でもそのように思ってしまうと、子供に会って、虐待が再発していないかどうか確認をすることもためらわれてしまう。児童福祉司は裁量が大きい分、心理的な負担も大きい。その負担の大きさもこの事件の原因の一つと言えるだろう 本来人間がもっているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です 時には親と敵対してでも子供を守るのは児童相談所の責任だが、職員も人間である以上、脅しや恫喝に恐怖を感じるのは無理からぬ話だ 「訴訟を起こす」とまで言って開示を強く要求してきた父親に対して、「個人情報」を理由とする以外に拒絶する理由がないと判断したこと自体が間違っていたというべきだろう (その2)(小4女児死亡事件 「個人情報」の”法令遵守”が市教委の対応の誤りを招いた、「親の苦情と戦えない」小さな命を救えなかった虐待現場の叫び、(必読)千葉小4虐待死「最悪の結末」児童相談所はなぜ誤った判断をしたのか 悲惨な事件を繰り返さないために)
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