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メディア(その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく) [メディア]

メディアについては、2月19日に取上げたばかりだが、今日は、(その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく)である。

先ずは、やや古いが、コラムニストの小田嶋 隆氏が昨年9月28日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「編集」が消えていく世界に」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/092700160/
・『前回の当欄で話題にした雑誌「新潮45」をめぐる騒動は、同誌の休刊(9月25日に新潮社の公式サイト上で告知された→こちら)をもって一応の決着をみることとなった。 「一応の決着」という言葉を使ったのは、私自身、休刊が本当の決着だとは思っていないからだ。もちろん、マトモな決着だとも思っていない。というよりも、こんなものは決着と呼ぶには値しないと思っている。 現時点で感じているところを率直に開陳すれば、私はこのたびのこのタイミングでの新潮社による休刊という決断にあきれている。理由は、休刊が一連の騒動への回答として不十分であり、「杉田論文」が引き起こした問題を解決するための手段としても、的外れかつ筋違いであると考えるからだ。こんなものが説明になるはずもなければ、事態を打開する突破口になる道理もないことは、多少ともメディアにかかわった経験を持つ人間であれば誰にだって見当のつくはずのことで、休刊は、言ってみれば「説明をしないための手段」であり、責任ある立場の人間が事態に直面しないための強制終了措置であったに過ぎない。叱られた小学生が積み木を蹴飛ばしているのと、どこが違うというのだ?』、「小学生が積み木を蹴飛ばしている」との比喩はさすがだ。
・『とはいえ、そう思う一方で、私は、今回の「休刊」という関係者にとって極めて重い選択が、結果として無責任な野次馬を黙らせる結果をもたらすだろうとも思っている。 つまり、「休刊」は、問題の解決には貢献しないものの、事態の沈静化には寄与するわけだ。してみると、これは、実にどうも、日本の組織によくある事なかれ主義の結末としては極めて必然的な、ほかに選ぶ余地のない余儀ない選択だったのかもしれない。 新潮社が自社の名前を冠した月刊誌を葬り去ることを通じて世間に伝えようとしたのは 「自分たちはもうこれ以上この問題にかかわりたくない」  というメッセージだった。 新潮社の上層部は、今回の一連の騒動に正面から対処するのがめんどうだった。であるからこそ、彼らは、不愉快なトラブルを爆破するついでに赤字部門をひとつ整理してしまおうではないかと考えた、と、私個人は、今回の行きがかりを、そんなふうに受け止めている。 いつも取材する側としてトラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ、看板に落書きされる立場に追い込まれたのであるからして、動転してしまった気持ちはわからないでもない』、「トラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ・・・」の比喩も傑作だ。
・『でも、安易に休刊という選択肢を選んでしまったことで、混迷に陥っている事態を正常化させるための機会はほぼ永遠に失われることになった。それ以上に、失われた名誉を回復するための時間とチャンスが完全に消滅してしまった。これは、雑誌にかかわっていた当事者にとって返す返すも残念なことだったと思う。 今後、「新潮45休刊」というこのむごたらしい事態は、事態解決の手段としてではなく、左右両陣営の党派的な人々によって自分たちの論拠を補強するためのカードとして利用されることになるはずだ。 すなわち、杉田氏を擁護する立場の人々は、「新潮45」の休刊を 「ポリコレ棒を振り回すパヨクならびに似非人権派による言論弾圧の結果」 であると決めつけて、反日サヨク陣営の暴走を訴えて行くのであろうし、反対側の陣営は陣営で 「商売のために陋劣低俗な駄文を掲載した伝統ある雑誌が自滅した一方で、その当の駄文の書き手たちは今後も右翼論壇で活躍するのであろうからして、まったく世も末であることだよ」 てな調子でネトウヨの跳梁跋扈を嘆いてみせるに違いないわけで、結局のところ、「休刊」は、党派的な人々に党派的に利用されるばかりで、杉田論文騒動の直接の被害者である性的マイノリティーの人々には、何の解決も、安堵も、慰安ももたらさないのである』、確かに被害者のことが忘れ去られているのは事実だ。
・『今回の騒動が勃発して以来、私のツイッターアカウントには、「常々右派論壇を揶揄嘲笑していながら、その右派論壇に接近しつつあった『新潮45』に唯々として寄稿していたオダジマのダブスタにはまったくあきれるばかりだ」「仕事にあぶれたロートルが休刊に発狂してて笑える」「自分がカネもらって原稿書いてたくせに、他人事みたいに編集長をクサしてるのは、オダジマが少なくとも恩知らずのクソ野郎だということだよな?」といった調子の攻撃のツイートが多数押し寄せている。 雑誌の休刊に類する破局的な結末は、ある種の人々を興奮させる。 もう少し実態に即した言い方をするなら、雑誌の休刊や著名人の転落にエキサイトするような人々がネット社会のある部分を支えているということだ。 彼らの共通項は、既存のメディアを憎んでいるところにある。 おそらく、公式非公式を含めた新潮社のチャンネルには、私のところに寄せられたのよりもさらに辛辣かつ残酷なツイートやメールが殺到していることだろう。 だが、その種のクレームや中傷や非難や嘲笑は、結局のところ、問題とするには足りない。 というのも、メディア企業に粘着するアカウントの多くは、つまるところ、自分自身がマスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」(注)であり、同様にして、ライターやコラムニストに直接論争を挑んでくるのも、その大部分はライターやコラムニストになりたかった人たちだからだ。 彼らは、メディアの中で発言している有象無象の低レベルな論客よりも、自分の方が高い能力を持っていると思っている。にもかかわらず自分に発言の場が与えられていない現実に不満を感じている。だからこそ、彼らは何かにつけて突っかかってくる。 実際、私のツイッターアカウントやメールアドレスには 「たいして根拠もないことを書き飛ばしてカネを貰えるんだから、コラムニストっていうのは楽な商売だな(笑)」という定番のツッコミが、定期的に寄せられる。 私は、たいていは無視しているのだが、ときどき、「コラムニストは楽な商売なので、あなたも転職すると良いですよ」だとか 「たしかに、才能のある人間にとってコラムニストほど楽な商売はありません。毎度ありがとうございます」という感じの回答を返してトラフィックの増加に寄与することにしている。』、((注)ワナビー(wannabe)とは、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる(Wikipedia)) これまで小田嶋氏のコラムに突っかかる人々のことが謎だったが、マスコミ関連でもワナビーがかなりいることを知って謎が解けた。。
・『彼らは恐るるに足りない。むしろ私が恐れているのは、何も言ってこない人々だ。 何も言ってこない人々というのは、つまり、メディアにも表現者にも憧れを持っていない多数派の、とりわけ若者たちのことだ。 現在のインターネット全盛時代に先立つ何十年かの間、メディア企業で働くことと、表現にかかわる仕事に就くことは、多くの若者にとっての憧れだった。 いわゆるマスコミの社員は、高給取りでもあれば合コン市場での勝ち組でもあり、就活戦線でも無敵の人気就職先だった。 高給取りで狭き門だったから憧れの対象になったのか、憧れの対象だから好遇されていたのか、起こっていたことの因果の順序は不明だが、ともあれ、20世紀の間、メディアは花形の職場だった。 それが、現在は、そうでもなくなっている。 高給の設定は、すでに裏切られつつある。昇給率はより確実に反故にされる見込みだ。 つまり、昔みたいに黙っていてもどんどん昇給して行く夢のような生活はもう二度と再現されないだろうと、誰もがそう感じているのが現状のメディア業界人の共通認識だということだ。 で、中の人たちのそうした悲観的な見込みを反映した結果なのか、就職戦線における優位にも影が差している。 就職希望者が減っているのはもちろん、内定者がすんなり入社せずにほかの業界を選ぶ傾向も年々高まっている。 つまり、現役の就活生たちは、マスゴミを敵視して突っかかって来ているワナビーの人々よりもさらに手厳しい人々なわけで、彼らはそもそもマスコミを第一志望の入社先として選ばなくなっているわけなのだ』、就活生のマスコミ離れは、業界の苦境からすればやむを得ないだろう。
・『今回の休刊は、この傾向(つまり、若い人たちがメディアを忌避する傾向)に拍車をかける理由になるはずだ。 具体的な次元では、今回の休刊は、雑誌が「マネタイズできないメディア」であることを自ら証明してみせたのみならず、出版が衰退しつつあるビジネスであり、活字関連企業が斜陽産業であることを内外に広く知らしめるアドバルーンとして機能しつつあるということだ。 今回、個人的に強い衝撃を受けたのは、9月21日の社長声明の中で、新潮社の佐藤隆信社長が、《今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分》に関して《あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現》が見受けられた旨を断言していたことだ。(こちら) たしかに、小川榮太郎氏の文章は、私の目から見ても、明らかに「常識を逸脱」したどうしようもない駄文だった。 しかし、一読者である私がそう思うのと、掲載誌を出版している社長がそれを言うのとでは意味が違う。 私の抱いている認識では、新潮社や文藝春秋といった雑誌系の出版社は、昔から「安易に頭を下げない」ことで、その看板を保ってきた会社だった。 念のために補足しておけば、ここで言う、「安易に頭を下げない」というのは、必ずしも、被害者に対する無責任さや利害対立相手に向けてのツラの皮の厚さを指摘するための言い方ではない。 どちらかといえば、どんなことがあっても身内の人間を守る心意気を称揚する気持ちをこめた言い方だ。 もっとも「身内を守るためには命を落とすことも辞さない」「仲間のカタキはどんなことをしてでも必ず討つ」というのは、近代人の倫理コードや企業人の行動原理というよりは、どちらかといえば、より端的に「やくざ」ないしは「任侠」の人々の「仁義」ではある。 が、雑誌にかかわる人間の内心に、いまなおこの種の「仁義」が共有されていることもまた事実だ』、最後の部分には驚かされた。
・『その文脈からして、新潮社の社長が、自社の雑誌に寄稿した人間の文章をああいう言葉で切って捨てたことの意味は大変に深刻だ。 編集部が原稿を受け取って、活字の形で世間に流通させた以上、文責は編集部にある。 それを、社長が「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と言い切ってしまったのではどうしようもない。 書き手は、ハシゴを外された形になる。 編集部としても、社長にこんな言い方をされたのでは、仕事のすすめようがない。 なんとも悲しい話だ。 雑誌が消滅することは、単に書店の書棚から書影が消えるだけの話ではない。 月刊誌が消えることは、月刊誌への執筆機会を積み重ねることで筆力を養っていたノンフィクションライターの卵たちが壁にぶつかって潰れるということでもあれば、月刊誌が提供してくれる取材費を糧に関心領域への地道な地取りを続けていたライターが廃業を余儀なくされるということでもある。新聞やテレビがあまり扱わない、調査報道に費やされるべき人員と予算が雲散霧消することでもある。 ついでに言えば、週刊誌が衰えることは、事件取材の層が薄くなることでもあれば、人間の手足と目と口でとらえた現場の空気が読者に伝わらなくなることでもある。 いずれにせよ、雑誌の死は、単に紙の上の活字が消えるだけの変化ではない。 それは、読者たるわれわれが世界に対峙する視野が少しずつ狭くなることを意味している』、「雑誌の死」がそんなに深い意味を持っているとの指摘は、なるほどと納得した。
・『レコードがCDになり音楽ファイルになり、配信コンテンツに変貌して行く過程で、レコードショップが消滅し、プレス工場が更地になり、アナログの楽団やその演奏者が失業し、巨大なスタジオがビルの1室にまるめこまれたように、また、写真が紙焼きから画像ファイルに身を落とすたった15年ほどの期間の間に、フィルムメーカーが倒産し、現像所が消え、日本中の街角から写真館とDPEの窓口が消失したのと同じように、雑誌が活字として紙に印刷される形式から液晶画面上の画素の明滅にとってかわられることになれば、それらは、順次刷られなくなり、配本されなくなり、手売りされなくなる。そしてこれらの変化は、編集、印刷、製本、取次、配本、小売、という活字にまつわる一大産業が裾野の部分からまるごと消滅することを意味している。 「コンテンツとしての文章は不滅なんだし、人が文章を読むという行為そのものが消滅することはあり得ないのだから、そんなに心配する必要はないよ」 と言っている人もいる。 もちろん、大筋において、彼の言っていることに間違いはない。 ただ、雑誌なり新聞なりという「形式」を成立させていた営為は、その形式が消えれば自動的に消滅するはずで、私は、その部分に大きな危機感を抱いている。 このあたりの機微は、ちょっとややこしい。 なんというのか、われら出版業界の人間が20世紀の雑誌の世界でかかわっていた「文章」は、単なる個人的なコンテンツではなくて、もう少し集団的な要素を含んでいたということだ。 で、そのそもそもが個人的な生産物である文章をブラッシュアップして行くための集団的な作法がすなわち「編集」と呼ばれているものだったのではなかろうかと私は考えている次第なのである。 してみると「編集」は、一種の無形文化財ということになると思うのだが、その「編集」という不定形な資産は、この先、文章というコンテンツが単に個人としての書き手の制作と販売に委ねられるようになった瞬間に、ものの見事に忘れ去られるようになることだろう。 書き手がいて、編集者がいて、校閲者がいて、そうやってできあがった文字要素にデザイナーやイラストレーターがかかわって、その都度ゲラを戻したり見直したりして完成にこぎつけていたページは、ブロガーがブログにあげているテキストとは別のものだ。 ここのところの呼吸は、雑誌制作にかかわった人間でなければ、なかなか理解できない。 で、その違いにこそ「編集」という雑誌の魔法がはたらいていたはずなのだ。 取材についても同様だ』、私には本当のところは理解できないが、そんなものなのだろう。
・『レコードショップが消えても音楽配信サイトがあれば、結果としてコンテンツとしての音楽は流通するし、人々の耳に届くことができる。 ただ、音楽業界の人間に言わせれば、レコード・CDの時代に積み重ねられてきた古い音楽の制作過程や流通経路が滅亡する中で、失われてしまったものが確実にあって、それらは、一度失われると二度と復活できないものでもあるらしいのだ。そういう話が、さまざまな世界にころがっている。 おそらく、文字を紙に印刷して書店で売ることをやめて、出来上がった文章を直接読者がファイルなりストリーミングなりで受け取る形にすれば、中間過程で費やされていた余計な経費や時間や手間はすっかり不要になる。 それは、経営的には間違いなく効率的なはずだ。 しかしながら、事態を逆方向から眺めてみればわかる通り、これまで新聞社が世界中に支局を持ち、雑誌社がボツネタのためにも記者を派遣し、出版社がほとんど売れる見込みのない書籍のために労力を割いていたのは、読者が新聞を定期購読し、電車に乗り降りする度に雑誌を買い求めていたからであり、つまるところ、無駄な本を作るための無駄な労力と無駄な中間経費のための代金を支払っていたからだ。 ここのあたりの事情をもう少し詳しく説明すると、出版物の制作過程から無駄を省き、経費を節減し、中間過程を省略すると、空振りの取材や、ボツネタのためのアポや、書かない著者が編集者を待たせる待ち時間がまるごと消滅して、結果として、取材時間や、取材人員や、企画を考えるための空き時間が現場から消えることになる。 と、その種の無駄な時間と手間を原料として生成されていた雑誌の魔法は、次第に効力を失っていくはずなのだ。 早い話、私の知っているある週刊誌の編集部は、1990年代と比べて3分の1の広さになっている。 スペースだけではない。かかわっている人間の数や予算はもっと減っている。 無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。 そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている』、そんなものなのかも知れない。
・『1980年代の後半から1990年代にかけて、雑誌はまさに黄金時代だった。 私自身、20代から30代になったばかりで、いまから比べれば無理のきく年頃だったが、同じ世代にはもっと勢いのあるライターがいくらもいたものだった。編集者もおしなべて若かった。そんなこんなで、業界全体に勢いがあった。 当時行き来のあった書き手は、現在、ほとんど残っていない。 私のように、30年以上同じ仕事をやっているライターは数えるほどだ。 ただ、私は、自分が生き残ったというふうにはあまり思っていない。 原稿を書く仕事から離れて、ほかの分野で成功している人が少なくないことから考えても、むしろ、目はしの利く人間や、ほかに芸のある書き手は早めにこの仕事から撤退したということなのかもしれない。 ともあれ、90年前後の雑誌黄金期にライターをやっていた人たちは、皆、きらびやかで優秀だった。 最近は、自分は逃げ遅れたのではないかと思うことが多い。 「新潮45」は、表向き「休刊」という言葉をアナウンスしている。 つまり「廃刊」という最終的な言葉は使っていないわけだ。 ということは、理屈の上では、復刊の余地はあるのだろうと思っている。 10年後くらいに「新潮75」あたりの名前で復刊することがあるのであれば、ぜひ寄稿したいと思っている』、雑誌業界についてのノスタルジー溢れる「弔文」だ。

次に、同じ小田嶋氏による本日付け日経ビジネスオンライン「われわれは笑いながら奴隷になっていく」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00009/?P=1
・『国会議員の不祥事が伝えられている。 話題の主は、比例代表の東海地区で選出されている自民党二階派の三回生議員、田畑毅氏(46)だ。 共同通信社が配信している記事によれば、田畑議員は、昨年まで交際していたとされる名古屋の女性に準強制性交の容疑で告発されている。 報道によれば、女性は昨年12月24日夜、田畑氏と食事し、酒を飲んだ。その後、2人で女性の自宅へ行き、寝ている間に乱暴されたと主張し、今月、愛知県警に告訴状を提出した。 なお、田畑氏の携帯電話には女性の裸を撮影した画像が保存されていたため、女性は軽犯罪法違反容疑でも被害届を提出したという。 第一報の後、テレビの情報番組などで、被害女性と田畑議員の電話での会話(←全裸の被害者を撮影した画像をめぐるやりとり)が公開されたこともあって、騒動はいまだに尾を引いている。 田畑議員は、当該の告訴事案が大々的に報道される以前の2月15日の時点で、既に自民党に離党届を提出している。27日には衆議院に議員辞職願を提出している。 時事通信社の記事によると、辞職願は週内にも受理される見通しで、田畑氏の辞職に伴い、2017年衆院選の同党比例名簿に従い、元職の吉川赳氏が繰り上げ当選することになる。 今回は、この事件の話をする』、被害者が「昨年まで交際していた」とは初めて知った。
・『といっても、事件の詳細に踏み込むことはしない。 裁判すら始まっていない事件の報道をネタに、国会議員をいきなり断罪するつもりはない。 この事件を利用して政権批判を展開する気持ちも持っていない。 理由は、当該の事件についての細かい事情については、現時点では、まだはっきりしていない部分が多いからだ。仮に時間が経過したところで、報道の結果を見ているだけの私が把握できるのは、どうせ事件の全体像のうちのほんの一部分に過ぎない。 思い切り白々しい建前論を申し述べるなら、交際女性に告訴状を提出されたからといって、その時点でただちに告発された人間の有罪が確定するわけではない。 少なくとも裁判が結審して判決が確定するまでの間は、議員には推定無罪が適用されることになっている。 もっとも、国会議員の職責の重さから考えて、法律的にはともかく、道義的・社会的な責任は免れ得ない。 その意味で、離党ならびに議員辞職は妥当な結果だろう。 ただ、動機や背景を含む事件の保つ意味については、司法の場で判決が出てからあらためて考えても遅くはない。 少なくとも、私がここであれこれ憶測を並べても仕方がないことだけははっきりしている』、妥当な判断だ。
・『以上の理由から、当稿では、第一報を受けた世間の反応を眺めながら私が感じたことを記録するにとどめる。 具体的には、2月24日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)の中での松本人志氏の発言をご紹介しながら、そのコメントについての私の現時点での感想を述べるとともに、どうして毎度毎度セクハラないしは強制性交関連の話題がテレビで扱われる度に、加害男性を擁護する主旨のコメントが供給されるのかについて考えてみるつもりでいる。 松本人志氏の発言の詳細は、以下のリンク先に詳しい。 彼は、出演者との対話の中で、「ぼくホントに不思議なのは、クリスマスイブに、一応彼女なんでしょ? でまあ、お酒たらふく飲んで……この女性は、どういう感じでいたんだろうなというのは、ちょっと……」と発言している。 話の流れの中で、共演者の堀潤氏が、スウェーデンでは昨年から法律が変わって 「明確な合意を伴わない性行為はレイプとみなされ得る」ことになったという話を紹介すると、松本氏は、「でも、女性って、やっぱり途中で『いやぁーん』って言うやん」とまぜっかえしている。 私自身、年の後半から必ず録画(←この番組は毎週のようにひどい発言が話題になるので、チェックのために昨録画するようにしている)済みの番組を見直して、たしかにリンク先の記事で要約されている通りの発言をしていることを確認している。 で、24日に、さきほどのリンクを紹介したうえで《これ、具体的な当事者がいて、しかも当人が刑事告訴している事件を踏まえたコメントであることを考えると、あまりにも無神経かつ無思慮な発言だと思う。 松本人志、「明確な同意なし性行為は違法」に反論 「途中でイヤァンって言うやん」 https://netallica.yahoo.co.jp/news/20190224-28303120-sirabee #ネタりか 》 というツイートを投稿したのだが、このツイートには、28日現在で、同意、反論も含めて、これまでに170件ほどのリプライ(RTは約3600、FAV(注)は約4300件)が押し寄せている。 私が今回、この話題を取り上げる気持ちになった理由は、率直に申し上げて、自分のツイートへの反応の大きさに驚いたからだ。 ありていに言えば、議員が引き起こしたと言われる準強制性交事件そのものよりも、その事件をめぐる話題から派生した男女間の性行為に関する合意をめぐるあれこれが、人々の熱い関心を集めていることに、あらためて気付かされたということだ。 今回、松本氏が「火薬の匂いがする」「大丈夫か松本」などと、自分の触れている話題が「炎上ネタ」であることを何度もアピールしつつ、それでもなおあえてこの炎上案件について、最も炎上しがちなコメントを供給してみせたのは、テレビタレントとして、ながらく世間の空気を読み取ってきた経験から、この話題の周辺(すなわち男女間の性的合意をめぐる駆け引きや計算)に、巨大な「需要」があることを察知したからなのだと思う。 その点で、彼の見立ては間違っていなかった。 たしかに、この事件ないしは、事件から派生した話題としてのスウェーデンの法律の周辺には、日曜日の午前中のテレビ視聴者を誘引してやまない下世話な需要が渦巻いていた』、((注)FAVとは「お気に入り」Favarites(weblio辞書))。私は個人的には松本人志氏は好きではないが、テレビタレントとしての嗅覚は大したものだ。
・『私のツイートに寄せられた反論は、大きく分けて 1.オダジマは、松本氏の発言の一部だけを切り取って印象操作をしている。あまりにも卑劣だ。 2.松本さんの発言は、議員の女性問題についてのコメントではなくて、あくまでもスウェーデンの法律への感想を述べたものだ。論点をズラすな。 3.お笑い芸人が笑いを取るために言っているネタにいちいちマジレスしているあんたはバカなのか? 4.松ちゃんはおまえなんかより何百倍も女を食っている。ひがむな。 5.おまえ童貞だろ笑  という感じになる。 で、私は、ひとまとめに《1.「番組見ないで批判するな」→録画見たよ 2.「一部を切り取って論評するな」→文脈を踏まえている。 3.「ギャグがわからないのか」→ギャグは言い訳にならない。笑えても免罪なんかされないし、そもそも笑えない 4.「いちいち承認が必要なのか」→必要に決まってる 5.「おまえ童貞だろ」→ギャグか?》 というツイートを返信して一方的に対話を打ち切った次第なのだが、ことほどさように、タイムライン上でやりとりされた話は、はじめから最後まで、まるで噛み合っていない。 おそらく、この分野のこの話題に関して、相容れない主張を展開している異なった立場の人間同士の対話は、永遠に噛み合わない。 噛み合わないこと自体は、かまわない。私は仕方がないと思っている。 私自身、話を噛み合わせるために言葉を発しているのではない。どちらかといえば、どの部分が噛み合わないのかを確認するために原稿を書いている。この点は認めなければならない』、「どの部分が噛み合わないのかを確認するために原稿を書いている」というのは、さすがプロの物書きだ。
・『問題は、松本氏の果たしている役割だ。あるいは、「松本氏が果たそうとしている役割」と言い直したほうがより正確かもしれない。 私は、わかりにくい話を持ち出そうとしている。 自分ながら、うまく言語化できるかどうか自信がない。が、とにかくやるだけやってみよう。 思うに、21世紀にはいってからこっち、松本人志氏に代表されるお笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている。 昨今の例で言えば、「PC(ポリティカル・コレクトネス)」と「#MeToo」が、彼らの明らかな標的だ。 もう一歩踏み込んだ言い方をするなら、「ワイドナショー」という番組の立ち位置そのものが、「PC」や「#MeToo」に代表される「いい子ちゃんモラル」や「学級委員長的な行動規範」へのカウンターを志向しているということでもある。 これは、21世紀にはいってからテレビのお笑いが変質したというだけの話ではない。 このことはむしろ「お笑い」という文化的営為が、少なくとも日本では、伝統的に「優等生」よりは「不良」の、「常識人」よりは「局外者」の仕事だったことを物語っている。であるからして、お笑いを担う人々は、「建前」よりは「本音」を、「善言」よりは「露悪」を重視せざるを得ない。21世紀にはいって、彼らの活動がより露悪に傾いたように見えるのは、むしろ21世紀のテレビへの規制がさらにあからさまに良い子ちゃん的になったことへの反動と見なければならない』、「21世紀にはいってからこっち、松本人志氏に代表されるお笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている」、との指摘は、鋭く、説得力がある。
・『ついでに言えば、お笑いの世界で敢行されている「反抗」や「異議申し立て」は、あくまでも「良識への反抗」ないしは「定型的なモラリティーへの異議申し立て」であって、決して「権力への反抗」や「規制秩序への異議申し立て」ではない。ここが大切なところだ。芸人は、権力に反抗する気持ちなど昔から持っていなかったし、これからだって決して持たない。園遊会に招かれればマッハ15で駆けつけるだろう。 それゆえ、当然のことだが、お笑いの世界に身を置く人間は、ポリティカリーにインコレクトな立場に立つことを好み、「#MeToo」で告発される側を擁護することに自分たちの存在価値を認めることになる。 どうしてそんな権力べったりのお笑いが生き残るのかというと、テレビのお笑いコンテンツを楽しんでいる多数派のテレビ視聴者にとって、ポリティカル・コレクトネスなる舶来の概念は、いかにも窮屈なお仕着せの外出着に見えるし、「#MeToo」に至っては、ほとんどトウの立った○○○(←PC的配慮により表記不可能)ヒステリーとしか思えないからで、要するに、お笑いの当事者としては、危険をおかして権力を批判するよりは、権力批判をしていい気持ちになっている人間を揶揄する方が能率が良いからだ』、最後の部分は、なるほどと納得させられた。
・『それゆえ、教室内における非優等生的な空気を代弁するキャラクターである芸人一家諸氏は、どうしたって露悪的な言葉を並べ立てざるを得なくなる。 たとえば、教師が 「学生の本分は勉強です」と力説し、教室の前半分に座っているメガネピカピカの優等生連中が「はーい先生。学生の本分は勉強ですね」と唱和しているのであれば、彼らとしては 「ちぇっ、勉強なんかクソくらえだぜ」と、つぶやかざるを得ない。当然の反応だ。 もちろん、勉強がクソをくらって良いはずはない。そんなことはわかっている。ただ、対抗上、そう言わないと形にならないということだ。 「クソという言葉はいけません」と、どうせ教師はそういう方向から見当外れの規制を強要してくる。 では、排泄物を召し上がってくださいと言えば良いのかというとそういう問題でもない。私は何を言っているのだろう。とにかく大切なのは、主張の内容そのものよりも、発言者の立ち位置だということを私はさきほど来力説している。 だからこそ、この場では、私も優等生の立場で、モラルの側に寄り添った原稿を書いてみせているのであって、なればこそ「松本」「松ちゃん」とは呼ばずに、あえて「松本氏」という他人行儀な表記を押し通している。 お笑いが、権力に対して反抗的だったというのは、神話に過ぎない。 そういう局面もあったのだろうし、あるいは西洋にはその種の伝統がそれらしく見えた時代があったのかもしれない。 とはいえ、うちの国の伝統からすると、お笑いはほぼ一貫して、アウトローの捨て台詞であり、牢名主の恫喝であり、下っ端役人のひがみだった。ということはつまり、お笑いは権力に抵抗するよりは、むしろ補完する役割を担ってきたのであって、それゆえ、彼らは、権威を相対化することよりは、「正義」や「理想」や「道徳」を嘲笑する作業に従事してきたということだ。 おそらくこの先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ。 われわれは笑いながら奴隷になって行く。 とてもいやな予想だが、私はわりとマジでそう思っている。 マジでというのは、真顔でということで、つまり、私は、笑っていない。 笑いはアタマの健康に良くないと思っているので』、「この先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ。われわれは笑いながら奴隷になって行く」という予想は、不吉で恐ろしい。「お笑い」にこのような効果があるとは、改めて考えさせられた。
タグ:「「編集」が消えていく世界に」 われわれは笑いながら奴隷になって行く 「杉田論文」が引き起こした問題 新潮社 日経ビジネスオンライン 休刊 松本人志、「明確な同意なし性行為は違法」に反論 「途中でイヤァンって言うやん」 無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。 そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている いつも取材する側としてトラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ、看板に落書きされる立場に追い込まれたのであるからして、動転してしまった気持ちはわからないでもない お笑いの世界で敢行されている「反抗」や「異議申し立て」は、あくまでも「良識への反抗」ないしは「定型的なモラリティーへの異議申し立て」であって、決して「権力への反抗」や「規制秩序への異議申し立て」ではない マスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」 最も炎上しがちなコメントを供給してみせたのは、テレビタレントとして、ながらく世間の空気を読み取ってきた経験から、この話題の周辺(すなわち男女間の性的合意をめぐる駆け引きや計算)に、巨大な「需要」があることを察知したからなのだと思う 松本人志氏の発言 お笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている (その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく) おそらくこの先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ メディア 「明確な合意を伴わない性行為はレイプとみなされ得る」ことになった 準強制性交の容疑で告発 事態の沈静化には寄与 「新潮45」 田畑毅氏 「お笑い」という文化的営為が、少なくとも日本では、伝統的に「優等生」よりは「不良」の、「常識人」よりは「局外者」の仕事だったことを物語っている スウェーデン 「休刊」は、党派的な人々に党派的に利用されるばかりで、杉田論文騒動の直接の被害者である性的マイノリティーの人々には、何の解決も、安堵も、慰安ももたらさないのである 「われわれは笑いながら奴隷になっていく」 小田嶋 隆 お笑いの当事者としては、危険をおかして権力を批判するよりは、権力批判をしていい気持ちになっている人間を揶揄する方が能率が良いからだ
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