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終末期医療(その2)(1000人の看取りに接した看護師が伝える:(人は「死に時」を自分で選んでいる と思う訳、たった一言が 幸せなご臨終に変えてくれます、「老衰が理想的な死」と言える訳)、看取りに接する医師と看護師が伝える、医療者まかせの看取りが怖い訳) [社会]

終末期医療については、昨年11月22日に取上げた。今日は、(その2)(1000人の看取りに接した看護師が伝える:(人は「死に時」を自分で選んでいる と思う訳、たった一言が 幸せなご臨終に変えてくれます、「老衰が理想的な死」と言える訳)、看取りに接する医師と看護師が伝える、医療者まかせの看取りが怖い訳)である。

先ずは、正看護師でBLS(一次救命処置)及びACLS(二次救命処置)インストラクター・看取りコミュニケーターの後閑愛実氏が1月5日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「1000人の看取りに接した看護師が伝える、人は「死に時」を自分で選んでいる、と思う訳」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/188823
・『人は自分の死を自覚した時、あるいは死ぬ時に何を思うのか。そして家族は、それにどう対処するのが最善なのか。 16年にわたり医療現場で1000人以上の患者とその家族に関わってきた看護師によって綴られた『後悔しない死の迎え方』は、看護師として患者のさまざまな命の終わりを見つめる中で学んだ、家族など身近な人の死や自分自身の死を意識した時に、それから死の瞬間までを後悔せずに生きるために知っておいてほしいことを伝える一冊です。 「死」は誰にでも訪れるものなのに、日ごろ語られることはあまりありません。そのせいか、いざ死と向き合わざるを得ない時となって、どうすればいいかわからず、うろたえてしまう人が多いのでしょう。 これからご紹介するエピソードは、『後悔しない死の迎え方』から抜粋し、再構成したものです。 医療現場で実際にあった、さまざまな人の多様な死との向き合い方を知ることで、自分なら死にどう向き合おうかと考える機会にしてみてはいかがでしょうか』、一般人が殆ど知ることのない世界を紹介してくれるとは、興味深い。
・『人は「死に時」を選んでいる  たまにお見舞いに来ては、意識のないお母さんに文句を言っている息子さんがいました。 「お母さん、いつまで生きてるんだよ。お母さんの入院費のせいで、俺たちの生活大変なんだからね」 私はそれを、「そんなことをよく言うな」と半分あきれながら聞いていました。 ですが、その日は、息子さんのかける言葉がいつもと違いました。息子さんはお母さんに向かってこう言ったのです。「母さん、わかったよ。俺たち頑張るから、もう好きなだけ生きていいよ」 その夜、お母さんは亡くなりました。 それまで病状に全然変化がなかったのに、突然のことでした。 きっとこのお母さんも、それまでは死んでなるものか、と思っていたのかもしれません。 でも、この日の息子さんの言葉を聞いて、もういいかなとでも思ったのでしょうか。 けれど、この息子さん、悪態をついていたのは、実は逆の意味だったのかもと思うことがあります。 人前で優しい言葉をかけるのは気恥ずかしいし、悪態をつけば、もしかして言い返すためにお母さんが起き上がってくるんじゃないかとひそかに期待していたのかもしれない、とも思えるのです。 なぜなら、この息子さん、ちょくちょくお見舞いに来ています。 それだけで十分、お母さんを気にかけていることがわかります。 現実には、お見舞いにも来ないご家族のほうが多かったりするものです。 ですから、来るたびにいくら悪態をついていようと、きっとお母さんのことが大好きだったのでしょう』、普段は悪態をついていたのに、優しい言葉をかけた日に亡くなったとは、いささか驚かされた。
・『死ぬ時間さえ、本人が選んでいるのではないかと思うことがあります。 長く入院している患者さんなどは、私たちが忙しい時間を避けて亡くなってくれているとしか思えないことがあります。 こちらの思い込みにすぎないのかもしれませんが、食事の時間や、朝の排せつケアが重なる忙しい時間帯に亡くなる方は少なく、「絶対、避けてくれたよね」と思うことがあります。長く入院していれば、自然と看護師の動きもわかっているはずだからです。 また、患者さんにも、好きな看護師、苦手な看護師がいるものです。 夜勤に行って、「看護師の後閑です。今日は夜勤なので、よろしくお願いします」と患者さん一人ひとりに声をかけていくと、「あ、今日はあなたが夜勤なの。よかった」と言ってもらえることもあります。 「よかった」と言ってもらえれば、うれしいものです。 看護師の間ではよく、こんなことが言われます。 「この患者さんは、あの看護師さんが好きだから、亡くなるなら絶対にこの人が夜勤のときだと思う」 すると、本当にそうなったりするから不思議なものです』、「死ぬ時間さえ、本人が選んでいるのではないか」というのは、確かにあり得る話かも知れない。
・『「死に時」といえば、他にもこんなことがあります。 それまで横柄だった患者さんが、これまでとは打って変わって急に優しくなったりすると、「もしかして、そろそろかも」と思ってしまうことがあります。 「あの人が、ありがとうって言ったよ」そう看護師の間でうわさになることもあります。 おそらく最期は、いちばん弱っている時期なので、どんな人でも他人の優しさを感じやすくなるものなのでしょう。 だから、「ありがとう」と素直に口にしてくれるのかもしれません。 ですから、最期まで嫌な感じの人だったという患者さんの記憶が思い当たらないのです』、最期は「どんな人でも他人の優しさを感じやすくなる」というのには安心した。ただ、「ありがとう」と感謝の念を伝えるには、口が使える状態であることが条件になりそうだ。

次に、同じ後閑愛実氏による1月23日付け「1000人の看取りに接した看護師が教える、たった一言が、幸せなご臨終に変えてくれます」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/191541
・『幸せな死を迎えるために思い出を語ろう  100歳の女性の看取りのとき、息を引き取った枕もとで三人のお子さんたちが思い出を語っていました。 長女さんが、「母さん、女手ひとつで私たち三人を育てて、本当に頑張ったよね。ありがたかったよね」 続けて長男さんは、「そういえば、100歳の誕生日のときに、看護師さんが母さんを車椅子に乗せてくれて、みんなで写真を撮ったんだよ」 「俺、そのときの写真持っているよ」そう次男さんが言うと、 「その写真、見せてよ」と長女さんが言うといった、ちょっと和気あいあいとした会話の空気がその場にできたのです』、お子さんたちといはいえ、70歳前後の老人たちが、こんな雰囲気になったというのは素晴らしいことだ。
・『この雰囲気は、もともとこのごきょうだいの仲がよかったからというのもあるのでしょうが、次男さんが初めに、ある魔法の言葉を口にしていたから起こった雰囲気だと思います。  その言葉とは、「ありがとう」です。 「母さん、ありがとう! 俺たちもう大丈夫だよ」そう次男さんは言ったのでした。 もしここで、「家に連れて帰れないでごめんね」で終わっていたら、「ごめんね」と思う理由を探し出し、「女手ひとつで子育てを頑張らせてごめんね」「家に帰らせてあげられなくてごめんね」などという話が出るようになってしまっていたかもしれません。 けれど次男さんが、「ありがとう! 俺たちもう大丈夫だよ」と言ってくれたおかげで、みんなでありがたい理由を探し出して語り合うことができたのです。 別れは悲しいものですから、どうしてもそこにだけに目がいってしまうのですが、人生はそれだけではないと思うのです』、確かに別れの一言がその場の雰囲気を形成してしまうことは、大いにあり得る。「ありがとう」とは大事な言葉だ。ただ、残念ながら、私の場合は「遅きに失した」。
・『ある高齢の男性患者さんが亡くなったあと、私は息子さんにこう声をかけました。「お父さん、笑うと、とってもかわいらしい人でしたね」 すると、息子さんは驚いたように言いました。「親父は入院中に笑うことがあったんですか」 「よく笑ってましたよ。歯が1本しか残ってないから、笑うと、にたっという感じになって。かわいらしい人でしたね」そう私が答えると、息子さんは目を潤ませました。 「親父の入院生活は、つらくて苦しいだけじゃなかったんですね」 ときに、高齢者は環境が変わるだけで、「せん妄」という症状が出て、混乱することがあります。 じつは、そのお父さんは他の病院から転院してきた方だったのですが、転院してきたばかりの頃、混乱してしまったのでしょう、「なんで俺はこんなところにいるんだ」と言っては、看護師を殴ったりしていました。 その様子を見ていた息子さんですから、「親父は、家に連れて帰らない自分を怒っている」と思っていたようです』、「せん妄」で「看護師を殴ったり」とは、しょうがないとはいえ、そんなことにはなりたくないものだ。
・『この息子さんは、家ではお母さんの介護をしていました。 ですから、お父さんとお母さん二人の介護はさすがに家ではできないということで、お父さんを入院させていたのです。 そのため、息子さんはずっと、お父さんに負い目を感じていました。 「だから、なかなかお見舞いにも来られませんでした。でも、親父の入院生活は、つらくて苦しいだけじゃなかったんですね。その言葉を聞いてほっとしました。救われました」 環境変化が原因のせん妄状態は、そんなに長く続くものではありません。何日かすると、もともとの穏やかな性格に戻ったりするものです。 このお父さんも、最初の1週間は看護師が何かしようとするたびに殴りかかっていましたが、やがて環境に慣れてくると、笑うようにもなっていきました。 ですが、「親父は怒っている」と思い込んでいた息子さんはそのことを知らずにいたのです。 私が「笑ってかわいらしい人でしたね」と声をかけることがなければ、息子さんは、お父さんはつらくて苦しい入院生活の中で亡くなったのだと、きっと思い続けてしまっただろうと思うのです。 ですから、ご家族にも幸せな死を迎えたと感じてもらうために、私は患者さんのよき思い出を語るようにしています』、この看護師の一言がなければ、息子さんは一生、自分を責め続けていた筈で、看護師ら医療関係者とのコミュニケーションの大切さを改めて思い知らされた。

第三に、同じ後閑愛実氏による2月28日付け「1000人の看取りに接した看護師が教える、「老衰が理想的な死」と言える訳」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/194917
・『なぜ老衰が理想的な看取りなのか  先日、「点滴の量を減らしましょう」と医師から提案されたご家族が、こう言いました。 「点滴しなかったら、弱っていくんですよね。老衰じゃかわいそう……」 みなさんはどうお考えですか。 このご家族と同じでしょうか。 看護師として言わせていただくと、このご家族の考え方は、「正解とは言いがたい」です。本来は、「老衰じゃないとかわいそう」なのです。老衰が最も楽な死であり、理想的な看取りとは、「老衰に近づけること」だからです。 老衰とは、年を取って亡くなることではなく、細胞や組織の能力が全体的に衰えて亡くなることをいいます。すべての臓器の力がバランスを保ちながら、ゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していくので、患者さんはそれほど苦しくありません。ちょっとおかしな表現になるかもしれませんが、気がついたら死んでいたというのが、老衰による亡くなり方です』、確かに私も含め世間一般では誤解も多いようだ。
・『世の中で「大往生でしたね」「天寿をまっとうしましたね」といった言い方をされる“死”は、たとえ死亡診断書には「虚血性心疾患」「大腸がん」などと記されていたとしても、老衰死でもある場合が圧倒的です。この老衰こそが理想的な死なのです。 実際、現代の医療では、どんな病気だとしても、最期は老衰を目指して治療やケアをしていきます。 老衰のどこがいいかというと、すべての臓器の力がバランスを保ちながらゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していくと、本人は苦しさをあまり感じないのです。どこか身体の一部が衰えて他に元気な部分があるから苦しいのです。 例えば、高齢の肺がんの患者さん。肺の機能が落ちているのに他の器官が正常だとバランスが取れていないので苦しいのです。 だったら肺の機能を上げればいいじゃないかと思うかもしれませんが、老化によって一度弱った機能は上がりようがありません。 脳の機能に異常があって寝たきりになってしまったけれど、心臓は衰えていないので寝たきりのまま延々と生き続ける……。 それと裏表の関係にあるのが老衰なのです。 治療というのは本来、いちばん弱いところに合わせておこなうべきです。 それがいちばん元気なところに合わせようとするから、本人がつらい思いをしてしまうのです。 元に戻らないものを戻そうとするから、患者さんが苦しむのです。 元気なところに合わせる治療というのは、極端に言うと、50年前にオリンピックでメダルを取った人に、当時と同じトレーニングを課すようなものなのです』、なるほど、説得力がある。
・『80代後半の男性患者のミズノさんは、肺がんの末期を迎えていました。とてもかわいらしいおじいちゃんで、よく笑い、よく食べ、酸素ボンベを転がしながらよく病棟を散歩していました。このミズノさん、徐々に病気が進行し、眠っている時間が増えていきました。ご飯も食べられなくなりましたが、経管栄養も点滴もしませんでした。ご家族の希望は「自然なまま生かしたい」だったので、延命のための治療はしませんでした。ご本人も、「苦しいのは嫌だから、延命なんてしないでおくれ」と口ぐせのようによく言っていました。 やがてミズノさんは、心臓のポンプとしての機能も低下し、全身の臓器に必要な量の血液を送ることもできなくなりました。 以前は身体に水分が溜まって全身がむくんでいましたが、飲んだり食べたりができなくなったので、しだいに身体がしぼんでいきました。 ベッドの上で丸まって眠っているミズノさんの表情は穏やかで、無垢な赤ちゃんのようでもあり、すべてを悟った仏さまのようでもありました。 飲まず食わず、点滴もせずで、ミズノさんは自然なまま、それから10日間生きました。 食べたり飲んだりできなくなったら、「もつのは長くて10日間くらい」と言う先生もいますので、ミズノさんはぎりぎりまで頑張ったと言っていいでしょう。 では、末期がんのミズノさんがどうして限界まで頑張れたのでしょう。 何もしなかったからです。自然であったからこそ、穏やかにすごせたのです。あの状態で点滴をしていたら、痰が増えて苦しんだことでしょう。穏やかな表情ですごせなかったのは間違いありません。 とくに肺というのは、全身の中でいちばん弱いところです。体内の水分が少しでも多いと肺に水が染み出し、痰が増えて苦しくなってしまうのです。 結局、ミズノさんは10日間眠り続けたあと、病室に奥さんと娘さん、お孫さんがいるときに亡くなりました。 病室は個室でしたが、そのとき、窓際の二人掛けのソファーに奥さんと娘さんが座り、丸いパイプ椅子にお孫さんが座って、女性だけで仲良く話が盛り上がっていました。 ご家族はミズノさんが眠っていると思っていましたが、気がついたときにはミズノさんの呼吸は止まっていたということです。その場に居合わせた家族が誰も気がつかなかったほど、穏やかな亡くなり方だったということです。よい死とは、時にあまりにもあっけないものなのです』、私も延命治療はしないよう家族には申し渡しているが、こんなにも樂な老衰による死があるとは知らなかった。ただ、ケースバイケースではないかとの疑問も僅かながら残る。

第四に、同じ後閑愛実氏が外科医の中山祐次郎と対談した1月12日付けダイヤモンド・オンライン「看取りに接する医師と看護師が伝える、医療者まかせの看取りが怖い訳」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/190346
・『今回は、『後悔しない死の迎え方』の著者で看護師の後閑愛実(ごかんめぐみ)さんと、『医者の本音』の著者で外科医の中山祐次郎(なかやまゆうじろう)先生という二人の医療者による対談を収録しました。 看護師、医師という2つの視点から、患者さん、あるいは家族が死とどう向き合っていってほしいかを語ってもらいます』、医師との対談とは興味深そうだ。
・『医療者と患者の距離  後閑愛実さん(以下、後閑):医療者の死生観で、患者さんの生き方が右往左往されてしまっているんじゃないかと思うことがあります。中山先生の著書『医者の本音』の中でも書かれていましたが、医師にとって患者さんの死は2.5人称。やっぱり家族と同じにはなり得ないですよね。そうはいっても、3人称、その他大勢の死というほどでもないとは思いますが、家族も本人もすべて医療者まかせということにはしてほしくないと私は思っています。 中山祐次郎先生(以下、中山):説明を足すと、2人称は「あなた」、3人称は「どこかの誰か」。つまり2人称は家族などの大切な人、3人称は見知らぬ人。医者と患者さんの距離ってどれくらいあるんだろうって考えた時に、やっぱり家族にはどうしてもなり得ないし、愛する人でもない。けれどもまったく知らない他人ではない、というところで2人称と3人称の間、2.5人称と私は考えています。 それくらいの距離感が、医師として冷静かつ温かみのある判断ができるのではないかと感じています。 ただ、医者の死生観もさまざまで、それを押し付けるのか押し付けないのか、それとも家族にまかせてしまうのか、まかせるならどれくらいか、8:2なのか5:5なのか。そういうのは人にもよるでしょうし……難しいとこですよね』、医療者と患者の望ましい距離が「2.5人称」とは言い得て妙だ。
・『後閑:近すぎず遠すぎず、ということですね。ちなみに、近すぎたなという例はありますか? 中山:ありますね。医者として若かった頃のことです。 私はその時、研修医だったんですが、医者として大した貢献ができずにいて、だけどどうにかしたいという気持ちがあったから、おそらく私は距離を詰めすぎてしまったんです。 その患者さんの病室に休みでも通ったり、医療と関係ない話もたくさんしました。その患者さんはがんで、その後亡くなられました。私はその方のお葬式に行ったんですよ。お葬式に行って、すごく辛い思いをしました。すごく心が傷ついたので、これがしょっちゅう起きたら、とてもじゃないけど自分の心が持たないと思いました。 後閑:私もお葬式に行ったことがある患者さんがいます。 その患者さんは90代の女性でした。経鼻経管栄養で最期まで生かされ、痰も多かったのでよく吸引したりしましたし、体がむくんだりもして辛い思いをさせてしまった患者さんでした。 90代のご主人と息子さんがよくお見舞いに来ていました。最期は夜中の0時くらいに、もう呼吸が止まりかけてると思ったのでご家族を呼んだんです。ご主人と長男さんご夫婦がすぐに駆けつけてくれました。患者さんは、ご家族が来たらちょっと元気になって、目を開けてご主人を見ていたんです。 長男さんは私たちスタッフの分までジュースを買ってくれて、患者さんを囲んでみんなでそのジュースを飲みながら、思い出話とか患者さんのことを話したりしていました。 朝方6時くらいになって、それこそ仲直りの時間だったんですけど、患者さんが持ち直したように見えたんです。すると、今度は高齢のご主人のほうが心配になったので、「いったん帰られて、休まれたほうがいいんじゃないですか。私たちが見ていますから」と提案しました。長男さんも、自分が残るからと言ってくれて、ご主人とお嫁さんは一度家に帰って休み、お昼頃にまた来ます、ということになったんです。 けれど、二人が帰って30分後に患者さんは息を引き取られました。あの時、帰っていいなんて言わなければよかったという思いが私に残ったんです。 長男さんは、自分がいたから最期を穏やかに看取ることができたと言ってくれたし、ご主人も急変を連絡するとすぐに来てくれたので、息を引き取る瞬間に立ち会うことはできなかったけれど一晩一緒にいられたからよかったと言ってくれたんですが、それでもちょっと心につっかえるものがあって、お葬式に行ったということがありました。 けれど、こうしてその人だけを特別視していいのだろうか、じゃあ他の人はどうなの、これはやっぱり続けられないから、少しだけ距離をとろうと思いました。以来、近づきすぎず、ちょっとだけ距離をとるということを意識しています』、医者も看護師も近すぎる距離をとった反省から、「2.5人称」になった経緯が理解できた。
・『中山:看護師さんは医師よりも患者さんと距離が近いですよね。そうすると、やっぱり医者よりも患者さんに感情移入しやすいでしょうし、看取るのは辛いだろうと想像しますが、どうですか? 後閑:今は結構、自分を客観視できるようになった部分もあります。たとえ理不尽な死であったとしても、今は辛いことになっているとしても、それ以前にたくさんの選択をしてきた結果であるわけで、本人やご家族が思ったようになってはいなかったとしても、その選択をした時は最善だと思ったことを選択し続けてきたわけです。なのに今、苦しい思いをしているのは、病気や老化のほうがその一枚も二枚も上手だったというだけです。その人たちが最善と思われることを選択してきたんだと思って、今を否定せずに接するようにしています。 とはいえ、心のバランスをとるのはすごく難しいと思いますね。医療介護職は感情労働ですから、自分の感情をコントロールしないといけない。そんなふうに見えてはいないという方もいらっしゃるかもしれませんが……。中山先生は、どうやってメンタルをコントロールしていますか? 中山:痛く飲むと書いて「痛飲」するという言葉がありますが、僕は本当に文字通り痛飲していて、自傷行為そのものでしたね。すべてを客観視して、他人事にしてこなしていくのは違うと思っています。 毎回落ち込んだり傷ついたりしているのは危ないし、それでは持たないとは思うんですが、それが正しいと僕は思っているんですよ。危険な思想だとは思いますけどね。 後閑:医療者も患者さんの死に対して、家族と同じ悲しみではないけれど、悲しんでいることをわかってもらいつつ、ともに看取りを穏やかな最期へと着地させるためにはどうしたらいいかを考えてほしいと思います』、中山氏がいまだに「自傷行為」と分かっていながら「痛飲」しているというのには驚いた。理想と現実のギャップはやはり大きいようだ。
・『「先生ならどうしますか?」  後閑:医療者と患者さんやご家族には、その思いにギャップがあるんですよね。治療方針を決定する上で、中山先生自身が気をつけていることはありますか? 中山:基本的には、その場で決めないということかな。緊急手術の場合以外は、必ず一週間は開けて、一回持ち帰ってもらって、ご本人に家族と一緒に考えてもらうことにしています。それで改めて集まってもらって話し合う、ということを大事にしていますね。 後閑:中山先生の本『医者の本音』の中で、大腸がんの父親の手術をするのか、人工肛門にするのか、それとも何もしないのかを悩んで、手術を選択したというエピソードがありましたが、このケースも持ち帰って考えてもらったんですか? 中山:あの話に関しては、もう腸閉塞になっていて、放っておけば腸が腐って死ぬという状態だったので、大急ぎでみんなで話して決めました。 最近は風潮として、患者さんに選択を完全に丸投げするという姿勢がちょっと多いように思います。 ABCと選択肢があります、どれがいいですか? というシーンがちらほらあって、安易すぎてプロとして非常に恥ずかしい。やはりある程度、プロとして責任を持ちつつ、自分の医学的な専門性を加味して、さらに経験を加え、せめてオススメを言うべきだと思っています。僕はそれだけは気をつけるようにしています。全部並列して提示して、さあ、どれかに決めてくださいというのは、僕は好きじゃない。 後閑:たしかに、A案B案C案ありますけど、どうですか? と投げて、家族がA案を選択したとすると、面談の後で、「なんであれ選ぶかな?」と口にする先生もいますね。いやいや、先生が提示したからでしょう? みたいなこともあるから怖いんです。私も医者がせめてオススメを言うべきだと思います。 逆に、「先生だったら何をオススメしますか」と聞ていみてもいいものでしょうか?』、「最近は風潮として、患者さんに選択を完全に丸投げするという姿勢がちょっと多いように思います」、というのは困ったことだ。私だったら、やはり「オススメ」を聞いてみたい。
・『中山:そうですね、それは有効だと思っています。 「先生だったら何を選びますか」「先生が私の立場だったら何を選びますか」と聞いてみるのは、すごく大事です。最終的には主治医の判断になるわけですが、私は、この患者さんが自分の親だったとしたら何を選ぶだろうかというように意思決定すると、比較的すっきりとする選択ができるようには思っています。 後閑:私の親も肺がんの手術の後に「抗がん剤をしますか」と聞かれて、「先生だったらどうしますか」って聞いたら、「僕ならしません」と言われてやめました。 中山:その質問は、本当に有効だと思います』、中山氏が「この患者さんが自分の親だったとしたら何を選ぶだろうかというように意思決定すると、比較的すっきりとする選択ができるようには思っています」、というのは素晴らしい考え方だ。
・『静かに尊厳を持ってその生を閉じていく  後閑:中山先生は本の中で、「静かに尊厳を持ってその生を閉じていく姿はとても自然なものだったと記憶しています」と書かれていましたが、その時はどう思われたんですか? 中山:その話は、私が初めて治療をしなかった患者さんのことです。 中山:患者さんが食事がとれなくなって、その状況に対して医療には点滴をする、鼻から管を入れる、胃に穴を開けて胃に直接食事を入れるといった3つくらいの方法がありますが、そのすべてをご家族としっかり話し合った結果、どれもやらずに食べられなくなって、そのままだんだんと死に近づいていきました。ああ、こういう終わり方があるんだと、初めて知りました。 しかし、僕の心の中では葛藤もありました。もうちょっと治療したら、1ヵ月、2ヵ月、半年ぐらいは何とか頑張れたかもしれないという医学的な思いと、ある日突然、知らないところから医療従事者という親戚が現れて、「なんで何もやらないんだ、そのせいで死期が早まったんじゃないか!」と怒られ、訴えられるんじゃないかという不安も正直よぎりました。 ですが、その二つの葛藤を飲み込むほど、最期のお看取りのシーンは自然で、神々しいとさえ思えたんです。人間は、こうやって生きて、こうやって死んでいくんだと思いましたし、こうあるべきだと、理解ではなく「感じた」というのが正しい表現です』、延命治療をしないことについて、医師の側にも葛藤があることをよく理解できた。
・『後閑:それはすごく共感できます。私も患者さんが亡くなった後に、その患者さんがすごくおしゃれな方だと聞いていたので、ご家族に「お母さんはすごくおしゃれな人だったと聞いたので、皆さんでメイクをしてもらえませんか」とお願いしたんです。エンゼルケアという身体を綺麗にしたり浴衣を着せたりするのは看護師がやるのですが、最後にメイクだけご家族にやってもらったんです。 家族が思い出話をしながらメイクをしてくれて、お孫さんが「おばあちゃん綺麗だね」って言ったんです。お嫁さんも「ほんとだ、綺麗」、長男さんも次男さんも「母さん、綺麗だ」って。その光景に、人生の最後に家族みんなに綺麗って言われるって、なんて素敵な人生だろうと思いました。そのすべてに、まるで美しい景色を見ているような高揚感を覚えました。尊厳を保ったまま亡くなることができた、生ききったんだ、と感じました。 中山:やっぱり、僕も後閑さんもそういうふうに感じるということは、たぶん多くの人が同じように感じると思うんですよね。そう考えると、ラストシーンに人工的なことが増えるというのは自然ではないんでしょうね。 後閑:本来は、歩けなくなって、食べられなくなって、木々が自然に枯れていくように自然に亡くなっていくんでしょうけれど、医療はそれをひどく遠回しに、より困難にしているように思えることがあるんです。 中山:すごくあちこちに行った結果、僕たちは戻ってきた気さえしますよね』、「自然に亡くなっていくんでしょうけれど、医療はそれをひどく遠回しに、より困難にしているように思えることがある」というのは皮肉なものだ。
・『後閑:本人家族が医療者まかせにしないためにどうしたらいいかという、アドバイスはありませんか。 中山:有事の際に考えるのではなく、普段から家族ともしもの時の話し合いをしておいてほしいということですね。自分の葬式はどうしてほしいとか、意識がなくなったらどれくらい積極的に治療をしてほしいとか、死にまだ遠い時に死について話し合っておくことが大事だと思っています。 その辺の意識は後閑さんと同じだと思っていて、だから僕も以前、『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』という本を書いたんです。元気な時に考えておいてほしいんです。 後閑:本当にそうですよね。私も元気な時にこそ考えておいてほしいという思いがあって、看取りや死について病院の外でトークイベントをしたり、ネットで発信したり、今回、『後悔しない死の迎え方』という本を書いたりしているんですよね。 元気なうちに、自分はどう過ごしたいか、何を大事に思っているのかなどを話し合っておいてほしいですね。「延命治療はしないで」というのでは、話し合ったうちに入りません。なら、延命治療って何ですか? という話になりますし、じゃあ、どうしたらいいのと、結局は医療者まかせとなって不本意な形で生かされ続けたりしてしまうわけです。ですから、どう最期を過ごしたいか、どういう思いを大切に生きていきたいかを、何かの機会で話し合っておいてほしいなと思っています』、「延命治療はしないで」だけでは不十分で、「どう最期を過ごしたいか、どういう思いを大切に生きていきたいかを、何かの機会で話し合っておいてほしい」というのは、大いに参考になった。
・『穏やかな最期を迎えるために重要なこと 
(1)医療者も家族や本人とはまた違う苦しみを味わっていると理解する
(2)プロの意見をもらう質問「先生だったらどうしますか?」 鵜呑みにはしないこと。なぜなら医師の死生観に左右されることになるから。 それに自分の人生観をプラスして考えること。
(3)静かに尊厳を持ってその生を閉じていくには、元気な時から話し合いをしておくこと』、この3点を心に留めて穏やかな最期を迎えたいものだ。
タグ:老衰死でもある場合が圧倒的 「ありがとう」と素直に口にしてくれるのかもしれません れくらいの距離感が、医師として冷静かつ温かみのある判断ができるのではないかと感じています せめてオススメを言うべき どう最期を過ごしたいか、どういう思いを大切に生きていきたいかを、何かの機会で話し合っておいてほしいなと思っています 静かに尊厳を持ってその生を閉じていく ダイヤモンド・オンライン 穏やかな最期を迎えるために重要なこと 後閑愛実 医者も看護師も近すぎる距離をとった反省から、「2.5人称」になった経緯 2.5人称と私は考えています 『医者の本音』の著者で外科医の中山祐次郎 最期は、いちばん弱っている時期なので、どんな人でも他人の優しさを感じやすくなるものなのでしょう すべての臓器の力がバランスを保ちながら、ゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していくので、患者さんはそれほど苦しくありません もうちょっと治療したら、1ヵ月、2ヵ月、半年ぐらいは何とか頑張れたかもしれないという医学的な思い 最近は風潮として、患者さんに選択を完全に丸投げするという姿勢がちょっと多いように思います 近すぎず遠すぎず 老衰とは、年を取って亡くなることではなく、細胞や組織の能力が全体的に衰えて亡くなることをいいます 「延命治療はしないで」というのでは、話し合ったうちに入りません 環境変化が原因のせん妄状態 「1000人の看取りに接した看護師が教える、「老衰が理想的な死」と言える訳」 「1000人の看取りに接した看護師が教える、たった一言が、幸せなご臨終に変えてくれます」 「看取りに接する医師と看護師が伝える、医療者まかせの看取りが怖い訳」 看護師を殴ったりしていました (その2)(1000人の看取りに接した看護師が伝える:(人は「死に時」を自分で選んでいる と思う訳、たった一言が 幸せなご臨終に変えてくれます、「老衰が理想的な死」と言える訳)、看取りに接する医師と看護師が伝える、医療者まかせの看取りが怖い訳) 中山祐次郎と対談 プロの意見をもらう質問「先生だったらどうしますか?」 鵜呑みにはしないこと。なぜなら医師の死生観に左右されることになるから。 それに自分の人生観をプラスして考えること 医療者も家族や本人とはまた違う苦しみを味わっていると理解する 「大往生でしたね」「天寿をまっとうしましたね」 「先生ならどうしますか?」 いちばん元気なところに合わせようとするから、本人がつらい思いをしてしまうのです 治療というのは本来、いちばん弱いところに合わせておこなうべきです 静かに尊厳を持ってその生を閉じていくには、元気な時から話し合いをしておくこと なぜ老衰が理想的な看取りなのか 老衰こそが理想的な死なのです 自然に亡くなっていくんでしょうけれど、医療はそれをひどく遠回しに、より困難にしているように思えることがある 「1000人の看取りに接した看護師が伝える、人は「死に時」を自分で選んでいる、と思う訳」 終末期医療 医療者と患者の距離 ある日突然、知らないところから医療従事者という親戚が現れて、「なんで何もやらないんだ、そのせいで死期が早まったんじゃないか!」と怒られ、訴えられるんじゃないかという不安 どこか身体の一部が衰えて他に元気な部分があるから苦しいのです メンタルをコントロール 人は「死に時」を選んでいる 『後悔しない死の迎え方』
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