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道徳教育(その4)(中学初の道徳教科書と問われる文科省、道徳を「教科化」してもいじめは減らない!? きれい事ばかり並ぶ残念な中身) [社会]

道徳教育については、2017年5月11日に取上げたままだった。久しぶりの今日は、(その4)(中学初の道徳教科書と問われる文科省、道徳を「教科化」してもいじめは減らない!? きれい事ばかり並ぶ残念な中身)である。なお、従来のタイトルには、教育(そのX)を付けていたが、これは削除した。

先ずは、昨年3月29日付けNHK時論公論「中学初の道徳教科書と問われる文科省」を紹介しよう。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/293434.html
・『今年の小学校に続き、来年春から中学校で教科となる道徳の初めての教科書検定が終わりました。奇しくも物事を広い視野から多面的・多角的に考え、生き方についての考えを深めるという「考える道徳」の実現に向けて教育現場の理解を得なければならないはずの文部科学省にとって、現場の信頼を失いかねない事態が起きています。 初の中学校道徳教科書検定の内容と問題点に加え、前川前事務次官が中学校で行った授業への文部科学省の対応を通して、道徳教育のあり方について考えます』、安倍首相をはじめとする文教族の国会議員は、道徳教育に異常なまでにこだわるが、モリカケ問題などの不祥事を引き起こしておいて、道徳教育とは聞いてあきれる。
・『小中学校の道徳は、教科外の特別活動などと同じ位置付けでしたが、文部科学省はいじめ問題への対策などを理由に特別の教科に格上げすることを決め、小学校はこの4月から、中学校は来年4月から実施されます。教科になるにあたって、文部科学省は「読み物道徳」と揶揄されてきた状況を改めて、「考える道徳」「議論する道徳」といった問題解決型の道徳に変えることを目指しています。教科になれば検定を受けた教科書を使い、成績を付けることになります。中学校の道徳の教科書は、今年度文部科学省の検定を受けていて、その内容が公表されました。どんな特徴があるのでしょうか。 今回の教科書検定には、出版社8社が申請しました。そのうち7社は去年、小学校の道徳の教科書も出版していて、純粋な新規参入となるのは1社だけです。いずれも記述を修正した上で合格になりました。 小学校の道徳の教科書では、文部科学省が教科化を見据えて配布してきた文部科学省版の教科書とも言える「わたしたちの道徳」と共通する教材を取り上げた出版社が多く、総じて横並び感や画一的な印象が指摘されました。こうした傾向は、中学校でも現れていて、中学校向けの文部科学省版教材から多くの教材を取り上げたものが目立ちました。一方で、こうした教材にほぼ頼らない形で教科書を編集した老舗の出版社もあり、差別化を図ろうという動きも見られます』、殆どの教科書は文科省のタネ本「わたしたちの道徳」を下敷きにしているらしい。
・『では、中学校の道徳の教科書検定で付いた意見には、どんなものがあるのでしょうか。 特徴的なのは、3つの出版社の教科書に「内容全体」を対象に「学習指導要領に示す内容に照らして、扱いが不適切である」という意見が付いたことです。どういうことなのか。道徳の学習指導要領には「節度、節制」「思いやり、感謝」「友情、信頼」など22にわたる項目が示されていて、教科書ではこれらの項目を必ず取り上げることになっています。これらの項目にはさらに細かく要素が示されています。例えば「節度、節制」では、「望ましい生活習慣を身に付け、心身の健康の増進を図り、節度を守り節制に心掛け、安全で調和のある生活をすること。」となっています。 ある出版社の1年生の教科書は、「節度、節制」のうち、「安全で調和のある」の部分が扱われていないという理由で、教科書の内容全体が不適切とされたのです。この出版社は、「中村久子~ヘレン・ケラーが抱きしめた女性」という検定意見の付かなかった教材を載せるのを止めて、自転車で小学生にぶつかりそうになり、急ブレーキをかけて自分が大けがをおった「曲がり角」という交通安全の教材に差し替えることで修正が認められました。体裁を整えるため、問題のない教材が押し出された形です。交通安全は大事ですが、発達段階を考えればこの教材への差し替えがふさわしいのかとの疑問も浮かびます。学習指導要領のたがを一言一句はずさない方針が、意見が付かない子どもたちの探究心を育む教材を差し替えることにつながる可能性を示しています』、「道徳の学習指導要領には・・・22にわたる項目が示されていて、教科書ではこれらの項目を必ず取り上げることになっています。これらの項目にはさらに細かく要素が示されています」、何とがんじがらめの押し付け教育なのだろうか。
・『なぜこんなことが起きるのか。 背景にあるのは、道徳特有の検定の難しさです。教科書検定では、基本的に学術的な根拠に基づいて事実関係などに誤りがないかを判断し、必要があれば検定意見が付けられます。しかし、道徳の場合は、学術的な基盤が定まらない事柄が多く、何を根拠に検定意見を付ければいいのかがはっきりしないため、当初から検定に馴染まないという声が文部科学省の教科書検定審議会の委員の間からも上がっていました。教科書の編集に長年携わって来た出版関係者の1人は「1つの細かな事由で全体が不適切というのは、道徳以外では例がないのではないか」と指摘します。学習指導要領の項目に当てはめることが目的化しているようでは「考える道徳」への足かせになるだけです』、その通りだ。
・『今回合格した教科書には、もう一つ、気になる点があります。すべての教科書に道徳の授業について振り返って学んだことや自分の成長を記録する欄が設けられている中で、5つの出版社の教科書は生徒自身が自らの理解度を3段階から5段階といった方法で評価するようになっていることです。道徳の教科化に伴い、もっとも議論となったのが成績をどうするのかという問題でした。教科となる以上、付けざるを得ないという結論になったものの、子どもたちの内面に点数を付けることはできないとして、段階別や点数での評価はしないことになった経緯があります。文部科学省は「先生が点数で評価するわけではなく、生徒の自己評価であれば問題ない」との立場です。しかし、道徳教育に関する文部科学省の調査に中学校の先生の43%が「指導の効果を把握することが困難だ」と答えています。そこに数値があれば、利用したくなっても不思議はありません。文部科学省はもう1度、成績のあり方について学校現場に周知する必要があります』、「生徒の自己評価であれば問題ない」との文科省の姿勢は、評価の問題から逃げているだけの無責任なものだ。甘くつける生徒と、厳しくつける生徒の間の衡平をどうするのだろう。
・『教科書はできましたが、「考える道徳」の実現に向け課題は多く残されています。 そうした中、文部科学省と学校現場の信頼関係を崩しかねない事態が明らかになりました。前川前事務次官を授業の講師に招いた中学校にその理由や授業の内容の報告を求めていた問題です。この問題では自民党の文部科学部会の部会長と部会長代理の2人の国会議員が、文部科学省が学校にメールで報告を求める前に問い合わせを行っていたことも明らかになっています。メールの内容が、前川氏が天下り問題で辞任していたことや、出会い系バーの店を利用していたことを指摘するなど、個人への中傷とも取られかねないおよそ道徳的とは思えない内容が含まれていることにも批判があります。前川氏が行った授業というだけで法令違反でもないのに詳細な質問をすること自体、現場の萎縮や忖度を生むおそれがあり、行きすぎだという声が教育関係者の間にも広がっています。当初、文部科学省は授業が行われたことを地元紙の報道で知ったと説明していましたが、国会議員からの指摘でわかったと説明を変えたり、議員の指摘で学校への質問内容を修正したりしたことも明らかになり、釈明に追われています。およそ道徳教育を司るにふさわしいとは思えない対応にはあきれるばかりです。文部科学省と各地の教育委員会や学校との関係がぎくしゃくすれば学校教育全体がゆがむことにもなりかねません。影響を受けるのは子どもたちだと言うことを忘れてはならないと思います。 道徳の教科化にあたっては、戦前の教育勅語体制下の「修身」の復活につながるという根強い批判があります。学習指導要領の型にはまった窮屈な教科書や学校現場の萎縮を生むような文部科学省の対応がそのことを想起させるようなことはあってはなりません』、前川氏の授業への介入問題を引き起こした自民党の文教族と、これに従った文科省の対応は、お粗末の一言に尽きる。「およそ道徳教育を司るにふさわしいとは思えない対応にはあきれるばかりです」とは言い得て妙だ。

次に、3月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した教育評論家の森口朗氏へのインタビュー「道徳を「教科化」してもいじめは減らない!? きれい事ばかり並ぶ残念な中身」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/196826
・『2018年度から小学校で教科化された「道徳」。文部科学省は、道徳教科化の目的として、いじめ問題の対応を第一に挙げているが、はたしてどのような効果が期待できるのだろうか。著書『誰が「道徳」を殺すのか』(新潮新書)がある、教育評論家の森口朗氏に話を聞いた』、「いじめ問題の対応」は口実に過ぎず、「道徳教科化」を虎視眈々と狙っていたのだろう。
・『道徳の「教科化」 きっかけは壮絶ないじめ事件  道徳が教科になったとはいえ、授業時間は1年生から6年生までずっと、週1時間であることに変わりはない。では、これまでと何が違うのかというと、大きく2つある。 1つ目は、文部科学省の検定を受けた教科書を使って、授業が行われるようになること。これまで道徳は、教科外の活動とされていたため、各学校で内容がバラバラだった。そこで、学校現場でしっかりと学習指導要領に沿った内容の教育を行なうことが義務づけられたというわけだ。 2つ目は、通知表で評価が付くようになることだ。ただ、評価といっても、数値化するのではなく、生徒1人1人の道徳性の発達を見て、記述による積極的評価を付けることになっている。 なぜ教科外だった道徳が、このタイミングで教科化することになったのか。森口氏はこう説明する。 「2011年10月11日、滋賀県大津市立皇子山中学校で2年生の男子生徒が自殺した事件が直接のきっかけです。この事件は、男子生徒の手足をハチマキで縛り、口を粘着テープで塞ぐほか、トイレや廊下での暴行、万引の強要、ハチの死骸を食べさせるなど、あまりに凄惨ないじめだったため、社会的に大きな注目を集めました。この事件で明らかになったのは、教師や教育委員会がいかに信用できないのかということ。その表れが道徳の教科化に結びついたというわけです」(森口氏、以下同)』、大津市の悲惨ないじめで問題になったのは、「教師や教育委員会」の対応だった筈なのに、「道徳の教科化に結びついた」とはすり替えもいいところだ。マスコミも一体、何をしていたのだろう。
・『道徳教育を本格化させてもいじめの認知件数は増える理由  森口氏は、学校現場がまったく信用できないからこそ、国は道徳を教科化することに踏みきったと語る。ただ、いじめに関する行政の統計データがデタラメであるため、道徳教育といじめ問題を関連づけて、効果を論じることは難しいとも指摘している。 「たとえば、全国のいじめ認知件数を公表しているのは文科省ですが、この数字は市町村の教育委員会が学校に調査を依頼し、学校から報告を受けたデータを積み上げているだけ。教育行政も『いじめは本来あってはならないものだが、起きたらしょうがないからきちんと報告しなさい』というスタンスから、『いじめは起きるものだから、気づいたらすぐ正直に報告しなさい』と、考え方をシフトしたため、報告しやすくなっている。つまり、これから道徳教育を開始しても、いじめ認知件数は増えていく可能性が高いのです」 2015年度の統計によると、小中高の児童生徒1000人あたりのいじめ発生数が最も多かったのは京都府で96.8件。反対に最も少なかったのは香川県の5.0件と、約20倍の差が出ている。 森口氏の言うように、文科省が公表するいじめ認知件数は、学校の正直度を表す調査にすぎないともいえるのだ』、文科省が「香川県の5.0件」のような不自然な報告をノーチェックで集計するとは、「いじめ認知件数」の信頼性を貶めるものだ。
・『道徳教科書は大丈夫か!? 具体性を欠く内容  とはいえ、道徳教育が無意味だというわけでは決してない。森口氏も、むしろ今回の教科化には大賛成だという。ただ、現在採択されている教科書の内容には問題があると指摘する。 たとえば、森口氏が問題とするのは、小学校6年生向けの道徳教科書に掲載されている。『青の洞門』という物語だ。 簡単に物語のあらすじを説明すると、ささいなことをきっかけに主人・中川四郎兵衛を殺してしまった武士・福原市九郎という男がいた。罪滅ぼしのために僧になり、名を禅海と改め、何か村人の役に立てないかと交通が不便だった場所に洞門(トンネル)を掘り始める。 25年間も掘り続けたある日、禅海が殺した中川四郎兵衛の息子・実之助が、父の敵を取るために姿を現す。すると、禅海は「洞門を掘り終わるまで待っていただけないだろうか」と懇願。ボロボロになりながらも、必死に頑張る姿に心を打たれた実之助は了承してしまう。 それから5年後、洞門がついに完成。禅海が「もう思い残すことはない。さぁ、お斬りなされ」と首を差し出すと、実之助は固く握手を交わしただけで、その場を去っていくという話だ。森口氏は、この物語を道徳の授業で扱うことに苦言を呈す。 「常識的に考えれば、『人を殺すことは絶対にやってはいけないこと』とまず教えないといけないはず。ですが、この話は人殺しよりも高い道徳があることを教えているようなものです。これははっきり言って、反道徳教育と言い切ってもいいでしょう」 森口氏によれば、道徳の教科書の内容は、物語中心になっているが、その前に、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ人をいじめてはいけないのか」など、人として誰もが守らなければならない道徳律(ルール)をまずは教えなければならないはずと、強調する。 ほかにも、「なぜ法律を守らなければいけないのか」といった順法精神や、現実に起こったいじめの事件を教材に取り上げることなど、現状の道徳教育の内容はまだまだ改善の余地があると、森口氏は語る。 2019年度からは中学校でも同様に、道徳教科化がスタートする。道徳教育がどのような成果を上げるのか。長い年月がかかるが、しっかりと注視する必要があるだろう』、「道徳律(ルール)をまずは教えなければならないはず」、というのはその通りだが、ということは、何ら体系だった内容にはなっておらず、単なるエピソードの寄せ集めになっているのだろう。これでは、全く時間の無駄だ。
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