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新元号問題(その2)(安倍官邸は逆ギレ「令和=命令と平和」英訳まねいた不手際、小田嶋氏:好きなものは好きな名前で呼びたい) [国内政治]

昨日に続いて、新元号問題(その2)(安倍官邸は逆ギレ「令和=命令と平和」英訳まねいた不手際、小田嶋氏:好きなものは好きな名前で呼びたい)を取上げよう。

先ずは、4月3日付け日刊ゲンダイ「安倍官邸は逆ギレ「令和=命令と平和」英訳まねいた不手際」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/251065
・『「安倍政権の国粋主義を象徴している」――。新元号「令和」を巡り、海外メディアがこう報じたことに、安倍官邸がカンカンになっている。ナント、「令和」の英訳について、外国人記者にメールで反論したのだ。 1日付の米紙「ニューヨーク・タイムズ」(電子版)によると、官邸の石垣友明国際広報室長がメールで、「令和」が<order and peace>(命令と平和)と訳されていることについて、「意図した意味ではない」と指摘してきたという。 安倍官邸は、「令和」が「命令」を意味するとセンセーショナルに報じられていることに、かなり過敏になっているようだ。しかし、そもそも、海外メディアが<order and peace>と訳したのは、政府の対応が不誠実だったからだ。 官邸からのメールを受け取ったある外国人記者は、「新元号を世界に発信するなら、事前にちゃんとした英訳資料をつけるべき」と憤っていたが、まさにその通り。海外メディアの“英訳”にイチャモンをつける前に、官邸がきちんとした英訳を用意していればよかったのだ』、英訳版も用意せずに、やむなく翻訳した外国メディアに反論するとは、とんでもない大失態だ。昨日は官邸スタッフの発表時の演出を褒めたが、こんなことがあっては、評価はマイナスだ。
・『加えて、安倍官邸の不手際は他にもある。 外務省が「令和」の発表に伴い各国の在日大使に送ったとみられるFAXには、肝心の「令和」の意味が一切記されていなかった。オーストラリア放送協会の特派員は、自身のツイッターにFAXのコピーを載せ、こう投稿している。<新元号を各国大使に通知するFAX。「令和」の意味について何の記載もないけど……> 外務省はきのう、慌てて「令和」が「beautiful harmony」(美しい調和)を意味すると発表したが、時すでに遅し。米メディア「デーリー・ビースト」のジェイク・アデルシュタイン記者がこう言う。 「新元号の発表を巡って、安倍政権には、海外への対応が悪かった点が2つあります。まず、エープリルフールに発表したこと。ウソをついてもよいとされる日に国の重大事を発表するのは、国際的にマズイでしょう。さらに、きちんとした英訳資料を用意しなかったせいで、『令』を『冷』と誤解した結果、『令和』を『クールジャパン』と思った外国人記者もいました」 外国人記者の間では、政府による「令和」の説明を額面どおりに受け取ってもいいのか、不信感が広がっているという。 ウソつき政権を信じられなくて当然である』、官邸には外務省の官僚もいる筈だが、事前の情報統制が厳しかったためか、こうしう不手際を生んだのだろう。官邸内の官僚では経産省や警察が幅を利かしているので、外務省出身者は遠慮したのかも知れないが、とんだ失態である。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が3月29日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「好きなものは好きな名前で呼びたい」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00013/?P=1
・『新元号の公表を間近に控えて、この3日ほど、テレビ・雑誌をはじめとする商業メディアは、平成を振り返る趣旨の特集企画を文字通りに垂れ流し続けている。 読者各位も「平成最後の」という、年が明けてからこっち、何百回となく繰り返されてきた安直な接頭辞にうんざりしはじめている頃合いだと思う。 こんなことを言っている私自身、実は、出版社発の平成回顧企画に乗っかっていたりする。 具体的には 『街場の平成論』(内田樹編著、晶文社刊)という書籍に、9人の共同執筆者(内田樹、小田嶋隆、釈徹宗、白井聡、仲野徹、平川克美、平田オリザ、ブレイディみかこ、鷲田清一)のうちの一人として寄稿しているのだ。 本書について、簡単に説明しておく。 内容的に統一性はあまりない。相応にバラけている。あるいは、支離滅裂という言葉を使ってもそんなに的外れではないかもしれない。 9人の書き手が、事前の相談もなく、それぞれに思うところを思うままに書いたのだからして、統一がとれている方がむしろおかしい。そんなわけなので、全体として食い違いや矛盾が散見されることについては、多様性の然らしむところであると受け止めて、どうか寛容な気持ちで読み進めていただけるとありがたい。 どんなタイプの読者であっても、最低限5本か6本は関心にこたえるテキストを見つけることができるはずだ。 興味や関心とは別に、役には立たなくても、面白い文章はあるものだし、面白くなくても心を打つ原稿に出会える可能性はある。そういうところにこそ、オムニバスの価値が宿っていると思う』、「「平成最後の」という、年が明けてからこっち、何百回となく繰り返されてきた安直な接頭辞にうんざりしはじめている」にも拘らず、「出版社発の平成回顧企画に乗っかっ」たというのは、「物書き」の宿命なのだろう。
・『紹介ついでに、以下、私が担当した部分の原稿の内容を、箇条書きで要約しておく。新作映画のマッシュアップみたいなものだと思ってください。 1.一人の人間の生き死にを起点に時代の名前を付け替える「元号」という制度の不合理さには、常々強い違和感を抱いている。 2.なので、「平成最後の」という思慮の浅い定型句を並べられると、反射的に「うるせえばか」と思う。 3.その意味で、今上天皇が、ご自身の生死と元号の起動/終了を切り離した決断の明晰さには感服している。 4.平成という時代そのものについて言うなら、経済的には停滞の時代だったと思っている。 5.とはいえ、自分は経済の専門家ではないので、平成の経済事情を語ることはできない。 6.いち雑感コラムニストとして常々疑問に感じているのは、躍進と成長の果実を享受し続けていたはずの昭和後期の日本人が、なにかにつけてデモを組織し、ストライキを打ち、授業をボイコットし、バリケードを築いていたのに対して、低迷する経済と拡大する格差に苦しめられている平成の庶民が、ニヤニヤと自足していることだったりする。 7.公正さのために申し添えれば、平成の日本人は、経済的にはたしかに停滞の底に沈んでいるのだが、一方で、スマホとインターネットを手に入れた彼らは、「情報」と「コミュニケーション」の点では、昭和の人間とは比較にならない恵まれた環境を享受している。 8.交通手段の進歩が地理感覚を更新するように、コミュニケーション手段の高度化は人間関係や世界観の持ち方を根本的な次元で書き換える。 9.てなわけで、スマホを常時携帯しつつ、仲間の意図と自己の相対的位置を四六時中チェックしている平成の日本人は、側線を介して水流と水圧の変化を随時感知しながら、群れの中における自己の位置を永遠に微調整しているイワシに似た生き物に変容しつつある。 10.つまり、私ども日本人は、平成の30年を通じて、単なる個人としての自分自身にではなく、より巨大な集団の中の一員であることにアイデンティティを抱く群生動物に進化したわけですね。 11.なので、社会性昆虫ライクな人類である平成の日本人は、実質賃金が伸び悩んでいるみたいなことにいちいち不満は持たない。なんとなれば、賃金もまたあまたある宿命のひとつに過ぎないから。 12.先のことはわからない。まあ、なるようになるっていうか、なるようにしかならないのだろうね』、なかなか面白そうだ。特に、9.と10.は極めて適格な社会風刺だ。
・『一読して、あれこれツッコみたくなった人は、できれば全文を読んだうえで(つまり書籍を購入した後に)反応してくれるとありがたいです。 さて、平成に代わる新しい元号を予想する記事が、1カ月ほど前から、断続的に配信されている。 いずれも、たいした根拠はない。 というよりも、こんな与太話に根拠などあろうはずもないわけで、そもそも商業マスコミの記者ふぜいに予測できるのであれば、元号を変える意味などありゃしないのである。 半月ほど前にちょっと話題になったのは、埼玉県のとある酒販店が、新元号の制定を期に発売するヴィンテージ大吟醸酒のキャンペーンのために、ネット上で募集した新元号予想企画の結果だった。 1月10日段階での集計結果を見ると、トップの「安久」をはじめとして、ベスト10に入った文字列のうちの8個に「安」の字が含まれている。 これが、3月の中旬にテレビやスポーツ紙上で紹介されて、論争を招いたわけだ。 最近では、「東スポWeb」というスポーツ紙のサイトがこんな観測記事を配信している。《新元号候補「安」確定か? ささやかれる根拠》 あれこれ予測する人々が後を絶たないのは、それが彼らにとって安直な娯楽であるからに過ぎない。 当たるか外れるかは、問題外だ。 というよりも、万が一にでも当たる可能性があるのであれば、そんなゲームは許されないのであって、ということはつまり、予測している商業メディアが刺激的な見出しを打つ理由は、注目を引きたいから以上でも以下でもないわけだ。 私個人は、政府が新元号に「安」の字を含んだフレーズを選ぶとは思っていない。 無論、虚心に縁起の良い文字を並べていった結果、その中に「安」の字が含まれている可能性はゼロではない。 とはいえ、李下に冠を正さずという言葉もある。いかに官邸とて、あえて現職の首相の名前を強制挿入したと勘ぐられるような名称をこの期に及んで手づかみで持ち出すほど不用意ではないはずだ。 逆に、総理周辺が本気で「安」含みの元号で中央突破をはかろうとするのだとしたら、新しい時代は、安定や安心とはほど遠い混乱と恐怖の画期になることだろう』、さすがに「安」は使わないだろうとの「読み」は的中したようだ。
・『いずれにせよ、私は、新しい元号の文字面に関心を持っていない。 というよりも、元号予測でオンエア時間を費やしている番組を見る度に、うんざりしてさえいる。 元号は、いずれ役割を終えていく言葉だ。 そもそも、「平成」という言葉自体、「昭和」と比べると、はるかに存在感が希薄だった。 平成の時代を生きた日本人の多くは、自分たちが生きている時代を「平成」とは呼ばず「21世紀」とか「2010年代」とか「90年代」という言い方で区分することを好んだ。 理由は、その方が便利だったからでもあれば、通じやすかったからでもある。 必ずしも「平成」の30年間が冴えない30年間だったから、その言葉が嫌われたということではない。 個人的には、この30年の間に、「元号」ないしは「和暦」に対するわれら日本人の気持が冷めたことが、「平成」という時代名称の使用頻度を低下させたという、わりと単純な話だったのだと思っている。 たとえば、単行本の最後のページに記載されることの多い「著者略歴」の「生年月日」の欄は、私がライターとして文章を書き始めた1980年代(あるいは昭和60年代)当時は、ほとんどの場合元号に沿って表記されていた。 それが、1990年(平成2年)を過ぎた頃から、西暦表記を採用する著者が目立つようになり、2000年を過ぎると、元号スタンダードで著者プロフィールを掲載する書籍はほぼ皆無になった。 そして、現在、いくつかの例外(運転免許証の申請書類、確定申告のための書類などなど)を除けば、われわれの世界はほとんどまったく西暦に沿って動いている。 この流れはもはや誰にもとどめることはできない』、確かに本の著者プロフィールを始め、西暦表記は着実に広がっている。。
・『新しい元号が発表されて、しばらくの間は、メディアも騒ぐだろうし、視聴者や読者も面白がるはずだ。 会社名や商品名でも新元号にあやかったネーミングのブツが誕生することにもなるだろうし、話題性狙いでB級のタレントや下品な界隈の商売が新元号を看板に掲げて顰蹙を買ったりもすることだろう。 でも、2年もすれば多くの日本人は飽きる。 そうこうするうちに、公文書に新元号の記入を強要するような設定も、いずれ改められることになるはずだ。 私自身の話をすれば、私は、この平成の30年間、書類であれプロフィールであれ、元号を書かされる段になると、必ず立ち止まって考え込んでしまう著しくものわかりの悪いオヤジだった。 「えーと、いまは平成の何年に当たるんだっけか」「オレが学校を出たのは1980年だったはずなんだけど、ってことは、そりゃ昭和で言う何年に相当するんだ?」 「えっ? 昭和60年? って、それ西暦では何年だ?」と、西暦と元号のシンクロを求められる場面に遭遇する度に、毎回必ず同じ疑問に突き当たり、毎度まったく同じように検索したり他人に尋ねたりしながら、正しい年号をひねり出さなければならなかった』、西暦に慣れた私も、今回、所得税の確定申告時に、たまたま過去4年分の修正申告もする必要があったため、和暦と西暦の変換は手帳の早見表と首っぴきだった。
・『私が、こんな調子の惑乱に見舞われ続けてきた原因は、もちろん、自分のアタマの悪さに求めるべき話ではあるのだろうが、それ以上に、私自身が内心で、「平成」という外部から与えられた時代意識を、自分の中に取り込むことを頑として拒絶していたからなのだろうと思っている。 とすれば、平成についてさえこれほどまでに冷淡だった私が、新元号に対して宥和的であろうはずがないことは、すでにわかりきっている。 じっさい、私は、新元号みたいな見え透いた手練手管で自分の時代意識を左右されてたまるものかと、名称が決まるずっと以前の段階で、そう思い極めてしまっている。新しい元号がどういう文字の並びになるのであれ、私は、自分の時間がその文字の上を流れるとはついに感じないように気を配って暮らすつもりでいる。 もっとも、私が、元号制度をぜひとも廃止に追い込みたいとか、新元号を改革の炎とともに燃やし尽くしたいと思っているのかというと、そんなことはない。そこまでのことは考えていない。 確かに国際的に広く流布している西暦以外に、別建ての暦年の計算方法を持ち続けることは、不合理でもあれば非効率な話だとも思うのだが、時間の数え方や時代のとらえかたも広い意味で言えば文化の一部ではあるわけで、だとすれば、ひとつの独立した言語を持つ独立した文化圏の人間たちが、独自の時代区分を持ちこたえることを不合理の一言で片付けて良いものでもない。 平成と言いたい人は言えば良いし、新しい元号で何かを言い表したい人たちは好きなようにその言葉を連呼すれば良いと思う。 ただ、私としては、お国なりお役所なりが、公文書上で、国民に対して新しい元号の名前を書き込むことを強要するような制度や取り決めは、できれば廃絶してほしいと思っている。逆に言えば、そこのところさえなんとかしてくれるのであれば、新しい元号がどんな文字面になろうとも基本的には受け入れるつもりでいる』、昨日書いたように、私も全く同感である。
・『話を整理すれば、元号を使いたくない人間がそれを使わずに済む権利を保障してくれるのであれば、元号を使いたい人たちが元号を発音してうっとりすることを妨害しようとは思わないということだ。なんとなれば、自分の好きなものを好きな名前で呼ぶ権利は、民主主義が健全に機能するために、わりと大切な条件だと思うからだ。 なので、話はちょっとズレるのだが、新しい元号が動き出すタイミングで、選択的夫婦別姓制度を実現するための条件を整備しはじめてくれるとありがたい。 自分が好きになった人の姓を奪う(あるいは好きになった人のために自分の姓を捨てる)みたいな無慈悲なことを、どうして国が国民に対して強要できるのかが、私にはどうしてもよくわからない。 きれいごとだと思う人がそう思うのはかまわない。 ついでに言えば、私は、他人の言葉をきれいごとだと思う人間がきたない世界で暮らす権利を妨害しようとは思っていない』、「選択的夫婦別姓制度」にまで広がったことに驚かされたが、確かに小田嶋氏の主張には諸手を挙げて賛成だ。最後のオチも秀逸だ。
タグ:(その2)(安倍官邸は逆ギレ「令和=命令と平和」英訳まねいた不手際、小田嶋氏:好きなものは好きな名前で呼びたい) エープリルフールに発表したこと。ウソをついてもよいとされる日に国の重大事を発表するのは、国際的にマズイ 新元号問題 外務省はきのう、慌てて「令和」が「beautiful harmony」(美しい調和)を意味すると発表 日刊ゲンダイ 6.いち雑感コラムニストとして常々疑問に感じているのは、躍進と成長の果実を享受し続けていたはずの昭和後期の日本人が、なにかにつけてデモを組織し、ストライキを打ち、授業をボイコットし、バリケードを築いていたのに対して、低迷する経済と拡大する格差に苦しめられている平成の庶民が、ニヤニヤと自足していることだったりする 官邸の石垣友明国際広報室長がメールで、「令和」が<order and peace>(命令と平和)と訳されていることについて、「意図した意味ではない」と指摘 自分が好きになった人の姓を奪う(あるいは好きになった人のために自分の姓を捨てる)みたいな無慈悲なことを、どうして国が国民に対して強要できるのかが、私にはどうしてもよくわからない 選択的夫婦別姓制度を実現するための条件を整備しはじめてくれるとありがたい 自分の好きなものを好きな名前で呼ぶ権利は、民主主義が健全に機能するために、わりと大切な条件だと思う お国なりお役所なりが、公文書上で、国民に対して新しい元号の名前を書き込むことを強要するような制度や取り決めは、できれば廃絶してほしいと思っている 私自身が内心で、「平成」という外部から与えられた時代意識を、自分の中に取り込むことを頑として拒絶していたからなのだろう 元号スタンダードで著者プロフィールを掲載する書籍はほぼ皆無になった この30年の間に、「元号」ないしは「和暦」に対するわれら日本人の気持が冷めたことが、「平成」という時代名称の使用頻度を低下させたという、わりと単純な話だったのだと思っている 私が、元号制度をぜひとも廃止に追い込みたいとか、新元号を改革の炎とともに燃やし尽くしたいと思っているのかというと、そんなことはない。そこまでのことは考えていない 逆に、総理周辺が本気で「安」含みの元号で中央突破をはかろうとするのだとしたら、新しい時代は、安定や安心とはほど遠い混乱と恐怖の画期になることだろう いかに官邸とて、あえて現職の首相の名前を強制挿入したと勘ぐられるような名称をこの期に及んで手づかみで持ち出すほど不用意ではないはずだ 10.つまり、私ども日本人は、平成の30年を通じて、単なる個人としての自分自身にではなく、より巨大な集団の中の一員であることにアイデンティティを抱く群生動物に進化したわけですね。 9.てなわけで、スマホを常時携帯しつつ、仲間の意図と自己の相対的位置を四六時中チェックしている平成の日本人は、側線を介して水流と水圧の変化を随時感知しながら、群れの中における自己の位置を永遠に微調整しているイワシに似た生き物に変容しつつある。 5.とはいえ、自分は経済の専門家ではないので、平成の経済事情を語ることはできない。 4.平成という時代そのものについて言うなら、経済的には停滞の時代だったと思っている。 3.その意味で、今上天皇が、ご自身の生死と元号の起動/終了を切り離した決断の明晰さには感服している。 1.一人の人間の生き死にを起点に時代の名前を付け替える「元号」という制度の不合理さには、常々強い違和感を抱いている 『街場の平成論』 私自身、実は、出版社発の平成回顧企画に乗っかっていたりする 「平成最後の」という、年が明けてからこっち、何百回となく繰り返されてきた安直な接頭辞にうんざりしはじめている頃合 2.なので、「平成最後の」という思慮の浅い定型句を並べられると、反射的に「うるせえばか」と思う 「好きなものは好きな名前で呼びたい」 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 きちんとした英訳資料を用意しなかったせいで、『令』を『冷』と誤解した結果、『令和』を『クールジャパン』と思った外国人記者もいました 安倍政権には、海外への対応が悪かった点が2つ 外務省が「令和」の発表に伴い各国の在日大使に送ったとみられるFAXには、肝心の「令和」の意味が一切記されていなかった ニューヨーク・タイムズ 外国人記者は、「新元号を世界に発信するなら、事前にちゃんとした英訳資料をつけるべき」と憤っていた 「安倍政権の国粋主義を象徴している」――。新元号「令和」を巡り、海外メディアがこう報じたことに、安倍官邸がカンカンになっている 「安倍官邸は逆ギレ「令和=命令と平和」英訳まねいた不手際」 海外メディアの“英訳”にイチャモンをつける前に、官邸がきちんとした英訳を用意していればよかったのだ
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