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日本の政治情勢(その30)(小田嶋氏:忖度テレパシージャパンが実現する前に、冷泉氏:桜田大臣の辞任問題に関する3つの違和感) [国内政治]

昨日に続いて、日本の政治情勢(その30)(小田嶋氏:忖度テレパシージャパンが実現する前に、冷泉氏:桜田大臣の辞任問題に関する3つの違和感)を取上げよう。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が4月5日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「忖度テレパシージャパンが実現する前に」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00014/?P=1
・『塚田一郎国土交通副大臣の発言が物議を醸している……というこの一行目を読んで 「また政権批判かよ」「いちゃもんをつけることしかできないのかなあ」「この自称コラムニストはいったい自分をナニサマだと考えているんだ?」と思った皆さんのために、原稿のテーマをあらかじめご説明しておく。 私の意図は、塚田国交副大臣が政権がらみの利益誘導案件に関与したことをあげつらって、それを攻撃するところにはない。 塚田氏が、党の集会で 「総理と副総理を忖度した」旨を放言したことを問題視して大騒ぎすることが本テキストの目的であるわけでもない。 また、その塚田氏が、党集会での上記の発言を論難されて 「大勢が集まる会だったので、我を忘れて誤った発言をした」という、世にも愚かな弁明を並べ立てた事実をとらえて、彼の政治家としての資質にダメ出しをしたいと考えているわけでもない。 いや、本心をお伝えするなら、すべて、そう思っている』、問題点を挙げた上で否定したので、オヤと思っていたら、最後で一転して肯定したので納得した。
・『国交副大臣という容易ならざる立場に置かれた政治家が、公の場で、総理ならびに副総理の名前を出した上で、自分がその彼らの選挙区への利益誘導のために骨を折った旨を、悪びれもせずにえへらえへらと述べ立てた態度は、万死に値する軽佻さであると評価している。 本当に利益誘導に加担したのだとすれば、国政を担う政治家として完全にアウトだし、そうではなくて、実際のところは地元への利益に貢献していないにもかかわらず、手柄顔で成果をアピールしていたのだとすれば、それはそれで、卑怯千万な振る舞い方ということになろう。 あるいは、最終段階で彼が並べ立てたあの不可思議な弁明が実は真相で、塚田氏が、大勢の人間の前に出ると、身も世もなく動揺したあげくに、我を忘れて心にもないデタラメを思わず知らず口外してしまうタイプの愉快な粗忽者なのだとしたら、それはそれで、国会議員として、明らかに資質を欠いている。 ただ、塚田氏が、蒙昧で薄っぺらで卑劣陋劣下品下劣な上に一人前のオトナとしての通り一遍の弁明すら満足に提供できない極めつきの能無しであるのだとしても、問題はそこではない。そんなことは誰もが知る事実でしかない。 私は、塚田副大臣の行状や人格や来歴や資質を主題に原稿を書こうとしているのではない。 私が今回読者の皆さんにお伝えしたいと考えているのは、 「どうして21世紀の日本人は、こんなにも言い争いを忌避しているのだろうか」という問題についての私なりの解答だ。 当たっているのか外れているのかは自分でもよくわからないのだが、とにかく、オダジマがこんなふうに考えているという、そこのところを汲み取っていただけるとありがたい』、「言い争いを忌避」に話題が飛んだ理由を説明してくれるのだろう。
・『つい2~3日前、ツイッター上に「令和」という新元号をからかう趣旨のつぶやきをいくつかツイートしたところ、大量のリプライを頂戴することになった。 新元号を強く支持する愛国者の皆さんが、オダジマの不謹慎な言いがかりに対して満腔の怒りを込めて攻撃を仕掛けてきたのかというと、必ずしもそういう話ではない。 もちろん、怒っていた人もいるし、罵倒を投げつけて来るアカウントも10人や20人ではなかった。 ただ、最大多数のリアクションは、 「どうしてそういうことを言うのですか」という素朴な慨嘆とも忠告とも取れるリプライだった。 「せっかくみんなが新しい時代の元号の決定をお祝いしているのに、あなたはなにゆえにそういう空気に水を差すような言葉を浴びせているのですか?」という感じの「苦言」が、私の不謹慎ツイートに対して寄せられたご意見のうちの大勢を占めていたということだ。 つまり 「右派対左派」であるとか、 「政権支持層vs政権不支持層」であるとか、あるいはまた 「アベガー人種vsシンゾーユーゲント(注)」みたいな対立の構図よりも、 「とにかく揉め事や言い争いや強い調子の言葉のやりとりに忌避感を抱く人々」こそが、実のところこのたびの「令和」をめぐるすったもんだの中で、最大多数を占めていたボリューム層だったわけで、その穏当で奥ゆかしい人々が、敵意むき出しで喚きあっている人々をたしなめている的な絵柄が、平成最後の4月のタイムラインを形成していたということだ。 21世紀の日本人は、言い争いを嫌う。 これは、ずいぶん前から私が不思議に感じている傾向だった』、「21世紀の日本人は、言い争いを嫌う」というのは、私にとっても不思議でならない。
(注)アベガーとは、何でも安部首相のせいにして攻撃する左派を右派が揶揄した言葉らしい。シンゾーユーゲントとは、森友学園が幼稚園児に「安部総理ガンバレ!」と言わせていたのを左派が、ヒットラーユーゲントにもじって批判した言葉。
・『平成に先立つ長い昭和の時代、当時若者だった現在の中高年層であるわれわれは、何かにつけて不平を鳴らし、異議を唱え、反駁し、罵倒を投げつけ、論争を繰り広げている人々だった。 学校の教師の中にも、小学生に向かって 「疑問を持ちなさい」「自分の考えをまっすぐに主張しなさい」「安易にイエスと言ってはいけません」という趣旨の不可思議かつ不穏当な説教をカマす無邪気な扇動者が少なからず混入していた。 それゆえ、われら昭和の若者たちは、議論し論争することは、硬直しがちなこの世界を、より民主的な場所として再生させるために不可欠な過程であると、半ばそう信念しながら、あらゆることにいちゃもんをつけていたのである。 ところが、いつの頃からなのか、他人の言葉に反駁したり、与えられている状況に疑問を呈する態度は、人として「はしたない」マナーであるというふうに見なされるようになった』、昭和の若者たちと現代の若者たちには、全体的にみれば確かに違いがあるが、昭和の若者たちのなかにも議論や論争を回避するノンポリもいた。ここでは論点をクリアーにするために、あえて単純化しているのだろう。
・『以前、どこだか(ここかもしれない)に書いたことがあると思うのだが、筑紫哲也さんがキャスターを担当していた「ニュース23」というニュース番組には、「異論・反論・オブジェクション」というコーナーが設置されていて、その企画コーナーの立ち上がりには「イロン・ハンロン・オブジェクショーン!」という英語っぽいアクセントのアナウンス(効果音?)がカブることになっていた。 何を言いたいのかというと、少なくとも「ニュース23」を支える結界の中(あるいは筑紫さんのアタマの中)では、「異論」や「反論」や「オブジェクション」は、カッコいいものと仮定されていたということだ。 実際、英語風のカッコつけたコーナータイトルが物語っていたように、視聴者の多くも、人々が異論と反論をぶつけあって論争することは、素敵で知的で開明的で民主的なしぐさだというふうに理解していた。 もっとも、日本中の善男善女がそう考えていたわけではない。 現実には、そんなことを信じていたのは、筑紫さんとその周辺、あるいは深夜帯のニュース番組を視聴するジャーナリストワナビーのスカした大学生だけだったのかもしれない。 とはいえ、それでも、そう思っている人々が現実に存在していたことは事実だった。 その、「異論・反論・オブジェクション」は、しかし、「ニュース23」が終了する頃には、すっかりスベったコーナーになっていた。で、論争忌避の構えは、さらに極端化して現在に至っている』、「異論・反論・オブジェクション」がなくなったのは、確かに論争忌避の流れを反映しているのだろうが、個人的には残念だ。
・『ともあれ、私が今回、塚田副大臣に関連する話題を取り上げようと考えて、中途でそれを断念したのも、私自身が、論争忌避に似た心情にとらわれたことの結果ではある。これは私が対立的な立場の人間たちとの言い争いに疲れてきているということでもあれば、また、その種の試みが効果を持たないことに徒労感をおぼえ始めているということでもある。 政権支持派や安倍総理応援団がオダジマの言説に反発することだけが問題なのではない。  むしろ私のような書き手にとって悲しいのは、多数派の日本人が「物議」みたいな言葉を発見した瞬間に、その文章を読む気持を失う人々である点だ。 私のツイッターでも、タイムライン上で論争が勃発するとあからさまにフォロワー数が減る。 毒にも薬にもならない身辺雑記風のツイートを垂れ流している限り、フォロワーは自然増なのにもかかわらず、だ。 どうやら、多数派の人々は、毒にも薬にもならない、何を断言しているわけでもない、誰も傷つけない微温的な言葉に安心感を得ているようなのだ。 今回の塚田副大臣の失言と愚かな弁解について、私がなにがしかの意見を述べれば、おそらく安倍政権に良い感情を持っていない組の読者は喝采を送ってくれることだろう。 他方、政権にシンパシーを抱く立場の人々は、私のコメントに反発を覚えるはずだ。 しかしながら、そういう彼ら(喝采を送ったり腹を立てたりする人々)はどっちにしても少数派だ。 最も数の多いど真ん中の日本人は、そもそも論争的な文章を好まない。書き手がどんな事柄や人物に対してものを言っているのであれ、とにかく誰かを攻撃している趣旨の文章には眉をひそめる、ないしは心を痛めることになっている。 「どうして仲良くできないの?」「私は誰かが誰かの悪口を言っている現場に同席することが苦手です」「尖った言葉を使う人はやっぱり避けてしまいます」という感じの、穏当かつ平均的な日本人は、だから、国会の論戦にも関心を持たないし、新聞の論説欄も読まない』、何故、まるで羊のように飼い馴らされてしまったのだろう、本当に不思議でならない。民主主義の危機であるとすら思える。
・『つい先日、塚田副大臣の「忖度発言」を伝える記事にリンクを張った上で、ツイッターにこんな短文を投稿した。《「政権のメンバーがどんな不祥事を犯しても決して処分しないことで、政権の正当性をアピールする」という裏技を思いついた人間は天才だな》 「安倍・麻生氏の意向忖度」 下関北九州道で国交副大臣、利益誘導認める(西日本新聞) - Yahoo!ニュース… @YahooNewsTopics》 現政権の閣僚が決して正面からの謝罪をせず、政権の中枢にいる人々が不祥事を犯した閣僚をギリギリまで罷免しようとしないのは、おそらく、第1次安倍政権が、度重なる閣僚の失言や不祥事の責任に足元を崩される形で瓦解したことから教訓を得ているからだ。 「国民は謝ったからといって許してくれるわけではない」「むしろ、謝っているのだから悪いことをしたのだろうと思うだけだ」「だとしたら、決して謝らないのが得策だ」と、彼らは考えている。 どんなにひどい不始末をやらかしたのであれ、絶対に謝罪せずにツッパっていれば、少なくとも五分五分(どっちもどっち)に持ち込むことはできる。 どっちもどっちというのは、「そりゃ失言した○○大臣も良くないけど、激越な言葉でそれを罵り続けている野党の態度もどうかと思うよ」みたいな、疑似的な相対化の結果生じるステージのことだ。 論争を嫌い、揉め事を忌避し、言い争いに耳を傾けない事なかれ主義の人々にとって、「どちらが正しいのか」ということは、たいして重要な問いではない。というよりも、彼らは、言い争っている2つの陣営のうちのいずれが正しくどちらに真実があり、どちらの言い分に理があるのかということにそもそも興味を持っていない。 彼らがいるのは、「争うのは良くないよ」という「喧嘩両成敗」の立場だ。 であるから、罪を告発している人間と告発されている人間が言い争っている場面でも、被害者と加害者が互いに自分の立場を主張し合っている局面でも、とにかく 「どっちもどっち」「五分五分」「人を攻撃するのは良くないよ」てな立場にとどまって、自分自身は論争に関わろうとしない。 責任を追及されている当事者や、罪を問われている立場の人間にとって、これほど都合の良い状況はない。 なにしろ、とりあえず正反対の論陣を張っておきさえすれば、「文句ばかり言っている野党」「対案を示さない追及には意味がない」 てな調子の粗雑な決めつけで論争を相対化することができるからだ。 ちなみに申し上げれば、この「喧嘩両成敗」の状況において実現されているのは結果としての「公平さ」ではない。公正さとは正反対の「事なかれ主義」そのものだ。 とすると、「みんな仲良く」ということをより以上に強く内面化することになるであろう令和の時代の若者たちは、おそらく、「右」であれ「左」であれ、あるいは「政権擁護」であれ「反政府」であれ、「政治的」であることそのものを忌避する処世を身につけることになるのだろうね』、私は、「事なかれ主義」という生易しいものではなく、政権に「白紙委任」をしているような危険極まるもので、政権にとって好都合極まりないものだと思う。「みんな仲良く」を強く内面化した若者たちには、「左」や「反政府」はいない筈だ。
・『結論を述べる 塚田副大臣が冗談めかして言及した「忖度」は、これから先「異論・反論・オブジェクション」に代わる新時代のコミュニケーション作法として、令和の日本を席巻するだろうと、私は、半ば真剣にそう思い始めている。 「忖度」は、「命令」や「恫喝」や「論争」や「圧力」のような、人間と人間が生身でぶつかり合うあからさまな情報交換への忌避感から生まれたものだ。 私たちは、「言葉」がもたらす「あけすけなメッセージ」や「むき出しの論理」をうとましく思い始めている。とすれば、非言語的コミュニケーションの本命である「忖度」が、次の世代の日本人の主要なコミュニケーションツールになることは、すでに約束されている。 そもそも「忖度」は、交渉相手の意向や本心をいちはやく察して、言葉のやりとり抜きで、相手がメッセージを発信する前にそれを受信する、洗練された組織人のマナーとして、この国で生きる下っ端に長らく推奨されてきたコミュニケーション作法だった。 「少年時代の太閤秀吉は信長の草履をあらかじめ懐で温めている、とても気配りの利く若者でした」みたいな、そういううす気味の悪いエピソードが「美談」として語られているこのテレパシーの国ならではの対人マナーと言ってしまえばそれまでの話だが、私個人は、「忖度」は、最終的には、「論理や意味を超えた」「無言の」交信マナーとして、次世代の日本をドライブすることになるだろうと思っている。 なんと、島国根性の極北ではないか。 いずれにせよ、忖度が高度に発達した未来の日本では、コラムニストは 「言わずもがなのことをくどくど言葉にしている野暮なヤツ」  として軽蔑の対象になるはずだ。 忖度テレパシージャパンが実現する前に天寿をまっとうできたらありがたいことだと思っている』、忖度が「洗練された組織人のマナーとして、この国で生きる下っ端に長らく推奨されてきたコミュニケーション作法だった」というのは言い得て妙だ。「「論理や意味を超えた」「無言の」交信マナーとして、次世代の日本をドライブすることになるだろうと思っている」というのは不気味な予言だ。

次に、在米作家の冷泉彰彦氏が4月11日付けNewsweek日本版に寄稿した「プリンストン発 日本/アメリカ 新時代:桜田大臣の辞任問題に関する3つの違和感」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/04/post-1077.php
・『安倍政権がピリピリしているのは、世論の「長期政権への飽き」を感じているから  桜田義孝オリンピック・パラリンピック担当大臣は、4月10日に行われた高橋比奈子衆院議員(比例東北ブロック)のパーティーにおいて、「復興以上に大事なのは、高橋さんだ。よろしくお願いする」と発言していました。多くの失言を繰り返してきた同氏ですが、さすがに今回の発言は悪質であり、即刻更迭ということになりました。 この人事ですが、言語についてのスキルが低いにしても程度問題で、確かに呆れて物が言えないレベルと思います。言語を使えないということは、行政スキルがないということですから、大臣という職責を全うするのは難しく、更迭というのは当然の判断と思います。 それはそうなのですが、桜田氏が言葉を操れないのは以前から分かっていたことで、今回改めて同氏を叩いても、社会的に意味があるとは思えません。それよりも、この「事件」について、一歩引いて見てみると、何点か違和感を覚えざるを得ないように思います。 まず、安倍政権の「任命責任を問う」という「いつもの批判」があります。ですが、総理にしても「桜田氏が適任だとか、素晴らしい行政スキルがある」という判断で、このポストに据えたわけではないと思います。仮にそうなら、それこそ「人を見る目がない」訳で、総理として心配な状況になります。 問題はそうではないということです。違和感の第一は、こうした人事が起きる風土の問題です。今回の問題ですが、背景には長期政権になると積み残しの閣僚候補にポストを配らないと、党内の力学でしっぺ返しを食らうというシステムがあるわけです。閣僚に推薦している派閥の中でも、当選回数に配慮して閣僚に推薦しないと、文句を言われて困るとか、そうした事情も推察されます。 全く良いことではありません。そこで心配になるのは、企業にも似たような話があると思われることです。能力はない、でもここで本部長にしておかないと、社内で文句を言って面倒だ、というような理由で無能・無知な管理職が降ってくるということは良くあるわけです。その無能な管理職にブリーフィングをしなくてはならない専門職や中間管理職は、一気にブラックな世界に叩き込まれるわけです。 そう考えると、この問題の根というのは、日本社会独特の組織風土にありそうです。そう考えると、今回の事件は全く笑えない話であり、単に「桜田叩き」をしていれば済む話ではないと思います』、能力はなくても本部長に、というのは昔ならあり得たが、現在の企業にはそんあ余裕はないと思うが、社長のお気に入りであれば、あり得るかも知れない。
・『2つ目の違和感は、今回の発言に対するリアクションのあり方です。もちろん今回の「一人の政治家が復興より大切」というのは、復興の進まない被災地に対してはひどい発言であるのは間違いありません。ですが、その一方で、多くの政治家や識者が、「被害者の正義にタダ乗り」して思い切り叩くというのも、それはそれで、そろそろ見苦しいということにした方が健全かもしれません。と言いますか、被災地の実感としては、話題にするのもイヤなレベルの発言ではないかと思うのですが、どうでしょうか』、そうなのかも知れない。
・『3つ目の違和感は、政局への影響という問題です。今回の桜田氏の一件にしても、あるいは塚田元国交副大臣の「忖度しました」発言にしても、非常に個別の事件であるわけです。それにも関わらず、塚田発言の場合は統一地方選で、そして今回の桜田発言の場合には、21日投開票の衆院大阪12区、沖縄3区の両補欠選挙への影響が取り沙汰されているわけです。 これもおかしな話です。こうした失言は、各地方自治体の政策にも、補欠選挙での対立軸とも全く関係がありません。では、どうして自民党はピリピリしているのかというと、世論の中に「長期政権への飽き」を感じているからです。失言問題で、票を失うことを恐れる裏には、この問題があります。 長期政権に弊害が伴うのであれば、「飽き」という直感的な世論がある種のチェック機能として働くということはあるかもしれません。ですが、現在の日本の政局では、政策の選択肢がほとんど見えていないのです。 つまり安倍政権のアベノミクスを批判するのは「結果が悪い」というだけで、では「引き締めや円高」に振って弊害を帳消しにすることが「可能」なのか、わかっている政治家はいないと思います。 外交もそうで、オバマとの相互献花外交にしても、トランプ操縦術も必死でやっている現政権を対米追随と批判するのは簡単ですが、ではアメリカを突き放しつつ経済と安全保障をより安定させる方策を持っている政治家もゼロでしょう。 つまり受け皿も代案もないわけです。そんな中で、「政権への飽き」がマグマのように渦巻き、それを利用して視聴率やビューを稼ぐ動きがあるというのは、あまり健全なこととも思えません。 いずれにしても、桜田発言については「問題外、即時更迭」で良いわけですが、その発言そのものよりも、その周囲で起きていることの方に違和感を感じてしまうのです』、部分的には同意できるが、政権の長期化に伴う「緊張感喪失」はやはり問題が多いように思う。
タグ:(その30)(小田嶋氏:忖度テレパシージャパンが実現する前に、冷泉氏:桜田大臣の辞任問題に関する3つの違和感) 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「忖度テレパシージャパンが実現する前に」 日本の政治情勢 不祥事を犯した閣僚をギリギリまで罷免しようとしないのは、おそらく、第1次安倍政権が、度重なる閣僚の失言や不祥事の責任に足元を崩される形で瓦解したことから教訓を得ているからだ 多数派の日本人が「物議」みたいな言葉を発見した瞬間に、その文章を読む気持を失う人々である点 異論・反論・オブジェクション 論争忌避の構えは、さらに極端化して現在に至っている 最も数の多いど真ん中の日本人は、そもそも論争的な文章を好まない どんなにひどい不始末をやらかしたのであれ、絶対に謝罪せずにツッパっていれば、少なくとも五分五分(どっちもどっち)に持ち込むことはできる 政権に「白紙委任」をしているような危険極まるもの 公正さとは正反対の「事なかれ主義」そのものだ 「喧嘩両成敗」 私たちは、「言葉」がもたらす「あけすけなメッセージ」や「むき出しの論理」をうとましく思い始めている。とすれば、非言語的コミュニケーションの本命である「忖度」が、次の世代の日本人の主要なコミュニケーションツールになることは、すでに約束されている 政権にとって好都合極まりない 島国根性の極北 洗練された組織人のマナーとして、この国で生きる下っ端に長らく推奨されてきたコミュニケーション作法だった 塚田一郎国土交通副大臣の発言 「ニュース23」 どうして21世紀の日本人は、こんなにも言い争いを忌避しているのだろうか 「とにかく揉め事や言い争いや強い調子の言葉のやりとりに忌避感を抱く人々」 昭和の時代 われわれは、何かにつけて不平を鳴らし、異議を唱え、反駁し、罵倒を投げつけ、論争を繰り広げている人々だった 最大多数を占めていたボリューム層 アベガー人種vsシンゾーユーゲント
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