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「あいちトリエンナーレ2019」問題(その2)(伊東 乾氏の3題:「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条、トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資、「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引 膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費) [外交]

「あいちトリエンナーレ2019」問題については、8月7日に取上げたばかりだが、今日は、(その2)(伊東 乾氏の3題:「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条、トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資、「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引 膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費)である。なお、タイトルから「日韓慰安婦問題(その5)」は削除した。

先ずは、作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督で東大准教授の伊東 乾氏が8月7日付けJBPressに寄稿した「「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条」を紹介しよう。同氏の寄稿は8月7日のこのブログに続くものである。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57247
・『あいちトリエンナーレ「表現の不自由展 その後」の中止を巡って「何が起きていたか」式の解説を複数目にし、ただただ、ため息をついています。 というのも、この展示やその中止も「政治的」でしたが、その収拾や解説も徹頭徹尾「政治的」な文脈からなされており、およそ「国際芸術展」としての本道から外れたものしか見当たらないからです。 (芸術の立場に立つ希少な例外があればご教示いただきたいです。またアート系メディアが誤った「表現の自由」程度の話で道に迷わないように、とも思っています) ジャーナリストを芸術監督に据え、「男女平等」など芸術そのものの内容とは別の切り口でのPRが奏功し、事前チケットも2倍の売れ行きであったことが報じられています。 つまりこれは「動員ありき」であって、タレント性のある有名人を「芸術監督」に選び、一日駅長相当で営業成績を稼いだことが分かります。 一芸術人としてこうした動きに早い時点から疑義を呈してきました。 大学などでも、全く門外の人が突然「芸術」を言い出し、素人万歳といった風潮が存在します。しかし、リスクを評価できないのでヒヤヒヤさせられるものが少なくない。今回は実際に、最悪の展開になってしまった。 かつ、その「何が」最悪であるかのポイントが、「政治的な説明」ではスルーされている。それを補いたいと思います。 ちなみに「情をもって情を征する」といったことは、単に脳認知に照らしておかしな空想と前稿に記しました。 京都アニメーション事件を巡って週刊文春に中村カズノリさんというカウンセラーの方の「怒りを因数分解する」テクニックが紹介されていました。 参考までにリンクします(https://bunshun.jp/articles/-/13240)。 興奮している人には何らかの意味で水をぶっかけて正気に戻す。感情の火に別の油を注いでまともな話になるわけがありません。 アートとは、形にならない人間の情動ではなく、素材や音という客観的な実在によって表現する人智の方法、ars(https://en.wiktionary.org/wiki/ars)を謂うものです』、「「情をもって情を征する」といったことは、単に脳認知に照らしておかしな空想と前稿に記しました・・・興奮している人には何らかの意味で水をぶっかけて正気に戻す。感情の火に別の油を注いでまともな話になるわけがありません」、津田芸術監督や主催者のお粗末さには、改めて驚きを禁じ得ない。
・『芸術監督の仕事は「危機管理」 今回すっぽりと抜け落ちたもの  報道やネットのリアクションには「政治家や公権力の<表現の自由>への介入」といった切り口があふれ、また、展示を中止された人々からも、何の説明もなくいきなり中止を通告されたと怒りを露わにする抗議文が公表されています。 しかし、こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要があるでしょう。 というより、こうしたことを収拾するために、プロフェッショナルのキュレーターや職業人としての芸術監督という職掌が存在しているのにほかなりません。 アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。 では、本来プロフェッショナルの芸術監督であれば何をしておくべきだったのでしょうか? もし私がその任にあったとしたら、 1 展示コンテンツ事前告知の徹底 2 国際情勢の緊迫を念頭に、公聴会の開催、ないしパブリック・コメントの募集と検討 3 8月1日以降の事態急変に際しては、あらゆる関係者と対面での綿密な打ち合わせ(足を運んでの調整)。 調整不能の場合は引責辞任と、残余期間案分相当の報酬返納、それによる危機管理プロフェッショナルの雇用の申し出など これらを必ず行っていたと思います。またこの3点とも、いまのところ十全に行った報道を目にしません。 本稿はドイツのミュンヘンで記しており、情報の不足でもし瑕疵がありましたら、どうか編集部までご指摘を寄せていただければ幸いです。 「表現の不自由展」という元来の展覧会は、東京都練馬区の小さな古美術ギャラリーで開かれたものです。 このギャラリーは、私が中学高校時代を送った江古田という町にあり、私が在学していた頃は存在しませんでした。 手作りで心ある展覧会を継続していると聞き、母校に足を運ぶ折、立ち寄ったことがあります。全くのプライベート・ギャラリーで、官費がどうした、税金で開催といった話が出るところではありません。 ここは芸術の自由が確保された場所といって構わないと思います。内容のいかんを問いません。 翻って「あいちトリエンナーレ」は、神田真秋弁護士が愛知県知事選の公約として掲げて当選、発足した、最初から官費ありきの、極めて公的性質の高い国際展です。 そのコンテンツの選定は(あくまで一義的には芸術監督以下の判断が重視されますが)そこでの分別ある選定が当然ながら求められることになります。 主催は「あいちトリエンナーレ実行委員会」実行委員長は大村秀章・愛知県知事ですが、大村知事は農水官僚出身の元自民党代議士で、芸術に関するいかなる判断も下すことはありません。 ここまで押さえたうえで、具体的に今回の失態を検討してみましょう』、「アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です」、というのは手厳しい批判だ。「今回の失態を検討してみましょう」、というのは興味深い。
・『展示の告知は十分だったか?  今回の経緯、こんな事態に炎上・発展してしまった段階で「セキュリティの観点から」大村知事が「中止」と判断を下されても、職掌に照らして妥当なことです。 さらに大村知事は、名古屋市長からのコンテンツ内容に関する指摘に「憲法違反の疑い」という、極めてピシッとした折り目で対処しており、プロフェッショナルの措置として、まずもって完璧です。 大きなリスクがある。だから留保する。以上。 芸術サイドに返す言葉は本来ないというのが、一芸術人として常識的に考えるところです。むしろ、そこまで徒手していた監督サイドの瑕疵を指摘し、今後は決してこうしたことの再発がないよう、努めるべきと思います。 まず、あいちトリエンナーレは、目玉のコンテンツとして「少女像」が展示されることを広くポスターなどで告知していたでしょうか? 地下鉄の中づりなどに、カラーのオリジナル「少女像」のグラビアが出たりしていたのか?  在外で、実情は現地の方に確認したいと思いますが、実のところ「蓋を開けてみたら<慰安婦像>があるではないか!」という「市民の抗議電話」などが殺到したという報道からして、十分なコンテンツの告知がなされていたとは言えないように思われます。 本稿は8月4日に書きましたが、校正時点の5日になって、「事前トーク?」と思われる津田「芸術監督」の音声動画を目にしました。 「みんな気がついてないんですけど、これがおそらく一番<やばい>企画」といった風情の、芸術監督業に責任を負ってきた観点から見れば率直に言って不謹慎、興味本位で面白半分な、キュレーションをおもちゃにする様子と見えたのは大変残念でした。 「2代前の天皇なら、歴史上の人物で燃やしても問題ない・・・」云々と報道されている動画などを確認しましたが、内容以前に、こうした「隠し玉」を準備して「炎上」させる意図があった時点で、官費執行に責任を持つ芸術監督としての大前提に瑕疵があったと指摘せねばなりません。 実際、社会ルールに照らして必要な措置は何であったか、を考えてみましょう』、「大村知事が「中止」と判断を下されても、職掌に照らして妥当なことです。 さらに大村知事は、名古屋市長からのコンテンツ内容に関する指摘に「憲法違反の疑い」という、極めてピシッとした折り目で対処しており、プロフェッショナルの措置として、まずもって完璧です」、と大村知事の判断を評価しているのは同意できる。「内容以前に、こうした「隠し玉」を準備して「炎上」させる意図があった時点で、官費執行に責任を持つ芸術監督としての大前提に瑕疵があった」、というのもその通りだ。
・『官費執行行事としての責任ある対処  日韓関係がかつてないほど冷却、悪化しているいまの状況下、もし芸術の場に「本籍」のある人が、日韓双方のアーティストや芸術文化、友好発展に責任と自覚をもっているならば、このタイミング、つまり「ホワイト国外し」といった議論に発展している渦中に、このようなコンテンツを展示すること、その波及効果について、思いを巡らさないわけがありません。 まして「隠し玉」として炎上を狙うなど、芸術の母屋に両足の着かない、無責任な野次馬の発想で、クリエーターの一人としてはただただ言葉を失うのみです。 ちなみに私はアムステルダムやミュンヘン、ベルリンで日常的にホロコースト・サバイバーと音楽の仕事をしていますが、関連の政治状況と演奏会本番との関係を常時意識しています。 下手なタイミングでめったなことをすれば、仲間に実害の影響が出かねません。 また大学では韓国や中国からの留学生に責任をもっており、アポリティカル=非政治的であることを徹底しています。 最近は、大学に職位を持つことを明示して公職選挙に立候補するなど、かつての国立大学では考えられないセキュリティ・ホールもあるようですが、大学は原則、完全にアポリティカルな場でなければなりません。 例えば、学内で教員が留学生を対象にヘイトなど絶対にあってはならないことで、発見次第、学窓を去るべきものと判断されます。 学生たちには「政治状況の変化によって、芸術や学術、文化には一切の影響はない」こと、あなたたちの安全や研究・創作の自由は指導教官の私が責任をもって守ること、学内は一切心配しなくていいが、新宿などでは暴漢が出たなどという話もあり、くれぐれも気をつけるように、といった注意を、私は日常的に送っています。 あるいは、京都アニメーション第1スタジオの焼け跡には、国と国との間には緊張があるけれど、私にとっては京アニの作品が大切と、花をもって訪れる韓国や中国などのファンが多数存在することも報じられていました。 それが芸術や学問という独立した地平の本来の在り方で、政治の具に堕してしまうなら、それは一過性のプロパガンダにすぎません。 たとえ両国間が戦火を交えていても、それと一切無関係に、信頼と友好を土壌に、常に落ち着いた円卓を準備できるのが、学問や芸術のネットワークというものです。 端的にいって台湾と中国はどのように対立していても、ITや半導体、AIやセンサーを巡る国際会議には普通にメンバーが同席します。 あるいは原爆開発を準備していた米国側に亡命したアインシュタインやニールス・ボーアと、欧州なかんづくナチスドイツにとどまったマックス・プランクやハイゼンベルクは、戦時中も常に落ち着いた和平に向けての建設的な議論に道を閉ざすことはありませんでした。 これとアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッペルスらが指導する政治や戦争とは、完全に分離され、ケジメされている。是は是、非は非です。 「学術外交」=学問・芸術は常に人と人の間に回路を開き続けます』、最後の部分はなかなか味わい深い表現だ。
・『ビエンナーレ/トリエンナーレ 人道と文化の「芸術オリンピック」  人道と信頼、友好、平和のためのチャンネルの確保し続けることに重要な意味があります。 1895年、最初に「ヴェネチア・ビエンナーレ」が創設されました。近代オリンピック同様、芸術が人道および文化の面で全人類に貢献することが謳われて発足した背景があります。 これを追う形で第2次世界大戦後、全世界で開かれるようになったトリエンナーレのような国際同時代芸術展には、単に税金を使っているという以上に、オリンピックと同様の品位をもって、同時代を生きる芸術作家が友好と信頼に照らして、コスモポリタンとしての道義的責任をもって固有の仕事を全世界に発信する場として設けられたという強い特徴があります。 こういう当たり前の基本、今回の関係者は役所含め1の1から分かっているのでしょうか? 日本では主催自治体のお役人からして地域振興以上のことを考えていないことがあるのは、かつて「横浜トリエンナーレ」の準備に短期間コミットした際、私自身も痛感させられました。そういう了見で開催するような行事では本来ありません。 さて、こうしたオーソドックスな観点から、現下の文在寅政権との間の政治的緊張を念頭に、百年のスパンで日本と韓国、朝鮮半島の人々との、真に深い相互理解と芸術文化への相互尊重に資する形で出品作品とコンテンツの妥当性が事前に十分吟味されたといえるでしょうか? 全く、言えるわけがありません。 国内のごく一部で内輪受けする程度の「芸術」判断基準と、地域振興動員数向上あたりに照準を当てたお役所との利害が変に一致して、グローバルな人道と文化を感じ考える芸術のオリンピックが、弄ばれていたのではないか? 「あいちトリエンナーレ」の展示作品が「決定」して以降も、国際関係は悪化の一途をたどり、「ホワイト国指定解除」など事態は急変しました。 先月にはソウルで日本製品を燃やす報道などもあった。この間、芸術監督の職掌にある者が、オリンピック同様の芸術の配慮をもって、コンテンツの妥当性に細心の注意を払っていたか?』、津田芸術監督からはこうした反省の弁を聞くことはなかった。
・『パブリック・ミーティング パブリック・コメント  公聴会を開くことも可能だったと思います。もし真剣に展示したいと思うなら 「これは「慰安婦」ではない・・・平和の少女像を巡る<あいちトリエンナーレ>プレイベント・パブリックミーティング」 といった行事を開くこともできたでしょう。むしろその方が、賛否双方、議論百出し、展示するにせよ、実物展示を控え映像などに代替するといった方法を取るにせよ、開かれた公衆の注意を呼び、結果的に「動員数」も稼げた可能性があるでしょう。 そうした決断を唯一下せたはずであったのが、芸術監督職でした。 「そんな会を開いたら、危険があるかもしれない」と言われる向きには、ネット上のスカイプ討論会でも有効でしょう。 実名匿名で多くのコメントが寄せられるようにしておき、さらには展示作品や作家とも音声動画でつなげて、開かれた場できちんとした議論を共有する。ほとんどコストなどかかりません。真剣に考えていさえすれば、120%実行できます。 仮にこうした「開幕前事前報道」が8月1日以前に事前になされていたなら、ここまで酷い、というか、明らかにビエンナーレ/トリエンナーレの同時代芸術史に汚点を残す前例には成らずに済んだと思います。 そのことを、いまだ関係者を含め多くの人が自覚していない様子ですが、今回の仕儀は芸術やアートのオリンピックを棄損している、そのことを明記したいと思います。 それに比べればドメスティックな話ですが「税金を使った」に対しても芸術監督はきちんと打つべき手がありました。 官費執行という観点ではパブリック・コメントを取ることができたはずです。仮にパブリック・コメントを通じて「この展示案は妥当ではない」という意見が多数を占めたなら、芸術監督としてそれを踏まえて「展示しない」という決断を下すことも可能だったでしょう。 そのうえで責任を問うことは、常識的に考えて困難です。 また「パブリック・コメントで支持された作品」ということになれば、いまのような事態に対して、根拠をもって反論できたはずです。そういうものが一切なかった。 「隠し玉」という悪ふざけみたいな発想で止まっていた可能性があります。「芸術監督」の続投は無理でしょう。実際にここ数日起きたことは、何だったのでしょうか?』、「今回の仕儀は芸術やアートのオリンピックを棄損している」、というのはその通りで、国際的にも恥ずかしい限りだ。
・『実行委員会「中止」決定時点で芸術監督は辞任すべきだった  十分な事前告知を行わず、パブリック・コメントなど官費執行に関する手続きも踏まぬまま、「隠し玉」炎上狙いの素人了見で8月1日に蓋を開け、現下の国際緊張状態のなか、アルコールランプと思っていたら、ガソリンにマッチを投じてしまった。アマチュアの浅い考えです。 実際に「大炎上」してから、つまり保守系の政治家がクレームをつけたり、襲撃予告と解釈できる(といっても多くは愉快犯で、本当のリスクは別のところにあると思いますが)匿名連絡があったりすれば、国家公務員出身の政治家・知事の「実行委員会」委員長としては、憲法にも照らして状況を精査のうえ、純然と安全性の観点から中止という判断を下さないわけにはいかない。 当たり前のことです。この段に至って「表現の自由」などというのは、トリエンナーレが人道と文化、平和の芸術五輪である原点を考えるとき、議論にならないことがお分かりいただけるかと思います。 さて、その渦中で芸術監督は何をしたか? 一緒になって「中止」する側に回ってしまった。これが最低最悪と思います。察するに、公務員としても政治家としてもプロの大村知事の盤石の説明の前で「納得」させられ、うなづいて帰ってきたのではないかと思います。 それでは、ただの坊やにすぎません。芸術監督が守るべき一線は別に厳然と存在したわけですが・・・。 さらに、その「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。 彫刻家本人はもとより「表現の不自由展その後」の当事者とも、十分な話し合いがなされていないように報じられています。 一方で、愛知県の大村知事と津田大介さんは直接対面して確認をとったとの報道も目にしました。 もし、これらがすべて事実であるとするならば、さらに加えて津田さんは芸術監督の任ではないと言わねばなりません。 芸術監督にとっては、コンテンツの総体そのものが「作品」として彼・彼女の見識と品位を問われます。出たとこ勝負で出したりひっこめたりする、じゃんけんの掌のようなものではありません。 一つひとつの作品には作家があり、五輪同様に、海外からの参加には最大の尊重と敬意を払う必要があります。 前回稿の冒頭にも記しましたが、もし展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません。 本来なら、足を運び、土下座でもなんでもしてやることは山のようにあるわけで、ただ徒手していただけなら、意味のない素人ということになる。 テレビ番組名ではないですが「ガキのつかい」にもなっていません』、「「ガキのつかい」にもなっていません」、とは言い得て妙だ。
・『芸術監督として取るべき所作は  「実行委員長から、展示中止との意向を受けた。この展覧会は、あらゆる出品作家に<わたし>という芸術監督が依頼して成立したものであり、一点の瑕疵も認められないので、芸術監督として私は、これを受けることができない。その職を辞するとともに、残りの実施期間で案分して自分の俸給相当分を返納するので、これをもとに危機管理スペシャリストを充て、事態の迅速な収拾にあたっていただきたい」といった身の処し方になるはずです。 ところが実際には、作家や当事者と最低限のコンセンサスも取らぬまま「監督としての責任をもって、最後まで運営に邁進したい」と記者会見で述べているのを読み、その後、「昭和天皇は2代前だから」という動画を見、本稿を校正しています。 アマチュアが現場で責任など取れるわけもないことは、この事態が起きた時点で明らかで、私が第一に想起したのは吉本興業の社長の保身記者会見であったことは、前稿にもすでに記した通りです。 「表現を不自由」に禁止する側に、芸術監督自身が回ってしまった。 もうこれは、通用する話ではありません。権限だけの認識だったのだと思いますが、トリエンナーレは子供もおもちゃではありません。 さて、ここに至るまで、まだ一切、私が「平和の少女像」という作品への是非に、一切触れていないことにご注意いただきたいのです。 「ある作品に反対だ!」と言ったとして、それに火をつけたり壊したりしたら、普通に器物破損で刑事司法の適応対象になる。これは芸術以前、当たり前のビジネス・ルールを記すものにすぎません。 そういうレベルで云々するのが素人というより、冷徹な仕事の土俵に上がることができていない証拠になっている。 官費も出動して公が主催する国際美術展、大規模なトリエンナーレに海外から作家を招き、作品を展示するということの意味、芸術監督として最低限持たねばならない責任を理解していない。 「ジャーナリスト」などというより、なぜか権限をもってしまった傍観者として、予想を超えた騒ぎの前で右往左往しているだけ、というのが現状と思います』、手厳しい批判で、正論だ。
・『個人攻撃は問題の所在をあいまいにする  重ねて、私は津田大介さんという個人を責めようと全く思いません。逆で、津田さんへの個人攻撃のように誤解されることを、一番恐れます。 現実には<撤去>後に“発見”された「2代前の天皇を燃やす」云々の音声動画が拡散したことで、彼が任期を全うする可能性は激減したかもしれません。 しかし、彼がそういう経緯で辞任したとしても、また別の素人が来てかき回せば、やはり混乱をきちんと収拾することなどできないでしょう。 私が全面否定するのは「プロの職責に素人が紛れ込んで引き起こされる、必然の失敗」セキュリティー・ホールそのもので、個人には興味がありません。 アート側の人間は訥弁の人が多い。いまだ多くの意見が出て来ていないと思いますが、「平和の少女像」という個別作品への意見の是非とは別に、本質的に作家と作品を愚弄する行為であるという点では、意見は一致すると思います。 これ以上、出たところ勝負の民間療法で、傷口を広げないようにというのが、落ち着いた分別から投げてあげられる「タオル」と思います。 あまりに作家や作品、いや「芸術」というもの、ビエンナーレ・トリエンナーレの理想そのものに対して、失礼です。 加筆校正で紙幅を超過したため、参考として記した私自身のかつての経験、「横浜トリエンナーレ」関連以降は稿を分けることにします。(つづく)』、この後、続きを2本紹介しよう。

次に、この続きを、8月9日付けJBPress「トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57265
・『「表現の自由」水かけ論より問われる財政規律:開幕3日目で中止となった「表現の不自由展 その後」で揺れる「あいちトリエンナーレ2019」。 8月7日には「うちらネットワーク民がガソリン携行缶もって館へおじゃますんで」とファクスを送った犯人が検挙されました。他方で企画展示の中止に抗議する署名も2万人を超えるとも報じられています。 日頃、「アート」に興味のない人も発言している様子で、メディアに乗る批評家のコメントなどが混乱を極める観があります。 さて、こういうとき、芸術ガバナンスのプロが守るべき鉄則が一つあります。それは「価値中立的」であるということです。 特定の表現を取り上げて良いとか悪いとかいう感想や主張を、ガバナーがしてはなりません。今回が3本目になりますが、私の記述も徹底して「価値中立的」であることにお気づきいただけると有難く思います。 明らかに正面から対立する意見が国民、市民、納税者の間いだに見られる、これが客観的な事実であって、そこで確認されねばならないのはプロセス、本稿に即して要点を先に記すなら「帳簿と執行の決定経緯」を洗い直す必要があります。 政府発表も「補助事業採択の経緯確認」とありました。補助金が関わるということは、つまり、帳簿が問われるということです。 もし仮に、という話ですが、官費を原資とする芸術展の選考を、例えば飲酒しながら、何となく気分で決めていた、などという経緯があれば、当然是正される必要がある。当たり前のことを言っているのにすぎません。 もしも、仮に、展示期間途中から、明らかに警備費用増額の恐れがあったり、防弾チョッキなどの必要があるとあらかじめ分かるコンテンツを意図的に含むようなことがあれば、当然ながら遡及的にその責任が追及されることになると思います。 これは「芸術上の責任」でも「表現の自由」でもない、税を原資とする財務管理と安全な行事に責任を持つ職掌に問われる、全くドライでシビアな追求です。 ツイッターなどで質問を受けたりもするなかで、前稿まで私が当然の前提にしていた事柄が、必ずしも読者と共有できていない可能性に気づきました。 例えば「芸術監督」という職種は「芸術家」のそれではありません。 その人(監督さん)の「作品」が展示されるとは限りません。もちろんアーチストが芸術監督を兼務して、自分の作品を含めたキュレーションを行うということはあり得ます。 しかし、基本的にアーチストと芸術監督=アーティスティック・ディレクターは全く別の仕事です。でも、こんな入口で混乱している人も少なくないようです。まずそこから話を始めましょう』、そもそも論から説明してくれるとは有り難い。
・『芸術監督は「管理職」  「芸術監督」というのは「管理職」です。これに対して、アーチストはものづくりをする「職人」です。 いろいろな現場には職人出身の管理職もいるでしょうし、現場を知らないキャリアがやって来ることもある。 今回に関しては、現場経験のないホワイトカラーが、メイン・スポンサー・サイドから要請を受け、派遣されて着任という構図と思います。 ちなみに私自身は畑違いですが、オペラの伴奏助手を振り出しに副指揮者などスタッフとして数年働いたのち、30歳前から芸術監督として公演全体の責任を持つようになった、ノンキャリの「職人」積み上げからスタートして、30代から「管理職」仕事にも、ここ四半世紀ほど携わっています。 今回の「あいちトリエンナーレ」個別の契約詳細は分からないこともあり、ずれがありましたら謹んで修正しますが、以下極めて一般的に「芸術監督」とはどういう職掌であるか、基本から確認してみましょう』、筆者が「「管理職」仕事にも、ここ四半世紀ほど携わっています」、道理で詳しい訳だ。プロとして仕事をしてきた立場から見ると、今回のお粗末さに我慢がならないのだろう。
・『「ひと・もの・かね」を掌握 「芸術監督」の絶大な権限  「芸術監督」は一般に、以下の3つに責任を持つ管理職です。あるアーティスティックなプロジェクトについて、芸術面から 1 予算の管理 2 進行の管理 3 リスクの管理 これらに全責任を負い、管理する「マネジメント」の仕事、それが芸術監督の職掌です。 個別の作品を作る「アーチスト」とは、明らかに別の仕事であることがお分かりいただけますか? 今回の騒ぎは「企画展中止」という「計画変更」が、開会3日目で発生したというものです。「変更」があった場合、プロジェクト・マネジメントの観点から立ち戻るべき基本はどこにあるでしょう? とりわけ官費が関わる場合は「財務会計」が絶対的な答えになります。理由は明快、税金が原資だから使途が変更になったら改めてチェックされねばなりません。あらゆる役所がやっていることです。 計画変更時点でいったん締めた「あいちトリエンナーレ」の財務会計・中間報告こそ、一番に共有されるべきと思います』、さすがプロらしい指摘だ。
・『「表現の自由」は水かけ論にしかならない  メディアでは「政治家がコンテンツの内容にクレームした」といった話題を目にしますが、そういうことでお茶が濁されてはいけない「あいちトリエンナーレ」の財務会計こそ、未来に禍根など残さないためにも、現場的には最大の問題だと私は思います。 政治家の発言は、そもそもトリエンナーレの外の人たちの言うことであるのに加え、「税金を使って<慰安婦像>を展示していいか?」とか「公金で天皇を燃やす動画を映写するなどけしからん」といった批判はそもそも無理筋。 つまり、愛知県知事も言う通り「違憲の可能性が非常に高い」話で、何ら決着など着くことはないでしょう。 また「税金」と言いながら、スローガン以上定量的な議論に踏み込むものを目にしません。これでは意味がない。 いったい、いくら税金から出しているのかを厳密に問うことから始めねばなりません。 「公的補助金はどれだけ?」「企業協賛金や広告収入等は??」「事前販売のチケット収入は???」 そうした収入の部の具体と、逆に企画展示の「制作経費」から「広告費」などに至る支出の部、ここで確認される中には「芸術監督報酬」も含まれるでしょう。 それらの金額をすべて隠れなく並べたうえで、変更後の計画を根拠をもって吟味し、公開情報として説明責任を果たすこと。 すべて隠れなくガラス張りの明るみに示すのが、こうした事業を運営する1の1です。財務会計を透明にしなければなりません』、「「表現の自由」は水かけ論にしかならない」、というのもその通りだろう。
・『「計画変更」は、財務会計のチェックから  先に「芸術監督」は「予算」「進行」と「リスク」を<管理>する、と書きましたが、別の表現を採るなら Ⅰ 芸術的な観点から「予算の配分の権限を持つ」立場であり Ⅱ 芸術的な観点から「制作進行決定の権限を持つ」立場であり、かつ Ⅲ 芸術的な観点から「リスクに対処する権限を持つ」立場である ことにほかなりません。 このうちⅢ、つまり危機管理に関しては、今回全くその職能を全うせず、そのため今回の事態を出来している。 関係自治体、議会や地域納税者は、いったい何が起きていたのか、正体不明の水かけ論ではなく、数字とともに厳密なチェックを行うのが筋道です。 これは企業でもどこでも同じ、当たり前のことで「芸術」だからと言っておかしな雲や霧で覆うことは許されません。 職業芸術人はそういう現実をよく知っています。「アート」に曖昧な印象を持つ部外の人が、本来いちばん重要であるべき決定プロセスをいいかげんにスキップしている恐れがあれば、一点の曇りなく確認するのが1の1と思います。 何らかの事業の「計画変更」があった場合、最初にチェックすべきものは「財務会計」。ない袖は振れないし、仮に収支見通しが変わってくれば、それこそさらなる「計画変更」が必要になるかもしれません。 さて、報道に目を向けると、「企画展中止」に対していろいろ主観的な意見は出てくるのですが、官費で運営されるトリエンナーレの計画変更に当たって、マネジメントを帳簿からチェックし直すという一番シリアスな指摘はほとんど目にしない。 数字がないまま「税金」がどうした、と文字だけ躍っても意味ありません。さらに「税金で<こんな作品を展示して>」などと言っても、それが<良い>とも<悪い>とも、白黒は決してつきません。 互いに180度異なる意見で対立する人たちがいるとしても、いずれも納税者です、ガバナーは特定の納税者の肩を持ったりすることは決して許されない。 価値中立的に判断するのが、芸術ガバナンスの公共性、その1の1であること。大事なポイントですから何度も繰り返して記します。本稿読了の暁には、何がプロフェショナルの仕事であるか、ご理解いただければと思います。 大村愛知県知事が正確に指摘した通り「憲法違反の疑いが濃厚」になるだけで、まともな結論など永遠に出て来るわけがない。意味がないことはここでは捨象します。 逆に、ただちにはっきり出るのが数字、財務です。今回、計画を変更したわけで、関連して明らかに(「電話」だけでも事務がパンクしてしまった様子などは報じられましたし、もし追加の警備などがあれば当然出費が伴うわけで)お金の動きがあるはずです。一般にこうしたコストは(余剰人件費であることが多く)決してバカになりません。 さらに「襲撃予告」などが風評被害を生んでしまい、ファックスを送った犯人は逮捕されても、ことはこれでは終わらない。 いや、逆で、京都アニメーション放火殺人事件で「方法」が周知されてしまった「ガソリン携行缶テロ」という手口の模倣犯が、仮に言葉だけの脅迫であっても出て来る可能性が現実になってしまった。 パンドラの箱はすでに開いており、愛知県内の小中高等学校にガソリン放火との脅迫メールの事実も報道されています。すでに、全く洒落では済まない状況になっている。 言うまでもなくトリエンナーレ全体の来場者数にも変化が出かねず、その場合は露骨に収支に直結するでしょう。 夏休みだ、展覧会に行ってみようか・・・と思っていた家族連れが今回の騒ぎやコンテンツの悪評さらには、おかしな襲撃のうわさに続いて、「ガソリンだ」と称して警官によく分からない液体をかけた男が逮捕されたりすれば、 「やめとこっか」と二の足を踏んで全く不思議でない。 こうしたイベントを役所サイドは「動員数」で測りたがります。税が原資ですから、より多くの納税者に楽しんで頂けた、という説明が一番分かりやすく疑念も挟まれない。 これはまた入場料収入などにも直接跳ね返ってくる数字になります。 そうしたデータに照らして、今明らかに座礁していているわけですから、どのように舵を取り直すか、データに即して合理的に検討し直さなければ、つまり無手勝流を繰り返すなら、同じ隘路に迷い込みかねないのが普通でしょう』、「「計画変更」は、財務会計のチェックから」というのは正論ではあるが、日本ではカネのことを卑しいとする雰囲気があり、軽視されがちだ。
・『問われる財政規律  非常に厳しいことを書いていると思われるかもしれません。しかし、実はこれ、日本全国の学術研究者が科学研究費などを受給する場合、例外なく問われるのと同じルールを記しています。 官費の執行というのは、やや大げさに言えば「財政出動」ですから、その規律は会計検査院の水準で、ガチっと問われるのが普通のことです。 (そこに「アート」が紛れ込んでくると、おかしなことを言う人が元お役人などにも20年ほど前には実はいました。非常に由々しいことだと思っています) 官費のプロジェクトで計画変更があった場合、最初に問われるのは「会計検査院ルール」でチェックに通る徹底した財政規律コントロールです。 私もこの20年数来、莫大と言っても大げさではない時間を1円の狂いも許されないアカウンタビリティ・チェックに費やし、相当に神経をすり減らしてきました。 一般にクリエーター、美術家や音楽家はこうした観点つまりマネジメント、経営収支といったものの見方が苦手です。私も国立大学教官などになる前は、官費執行がここまでうるさいとは知りませんでした。 しかし大学に呼ばれる前から、オーケストラやオペラの指揮者=芸術監督の現場仕事では、常に数字を念頭に置く必要がありました。 以下、イベントの「途中変更」がお金の観点で何を意味するか、分かりやすいと思うので、具体的に書いてみます。 あるリハーサルでアンサンブルが<下手っぴー>なところが出てきたとしましょう。普通にあることです。 そこで「追加練習を組む」という芸術上の決定を指揮台の上で下すとします。これが「計画の変更」。 仕事の現場では「変更」は同時に、必要なリハーサル室の室料からアーチスト謝金の追加、場合により伴奏ピアニストの手配やその謝金、事務局の管理経費などすべて「出費の追加」を意味します。 当然ながら財務会計チェックに相当するソロバンを頭の中で弾かねばなりません。「芸術監督」の<お金の管理>という仕事の分かりやすい一例を記してみました。 あらゆる「変更」は「財政破綻につながるリスク」日々用心、備えよ常に、が芸術監督業の要諦です。 これが仮に「客演指揮者」であれば、ギャラを貰って1回の本番があっておしまい、という仕事で、練習の追加発注の権限などは持っていません。 あらゆる「変更」の折は、直ちに事務局とのシリアスな話し合いが始まります。プロフェッショナル同士の、値引きのない駆け引きの場です』、海外の「芸術監督」は、確かにプロらしい仕事をしているようだ。日本では次に説明があるようだ。
・『アニメのケースで:高畑勲+宮崎駿ペアの分業  もう一つ別の例で考えてみましょう。 亡くなった高畑勲さんがアニメについて奇しくも言っておられましたが、作り手は良いものを惜しみなく追及した方がよい。お金の心配をしながら手心を加えるようなことは本来望ましいことではない。 宮崎駿さんが監督でモノづくりに集中しているときには高畑勲さんが制作統括してお金の面倒を見る。逆に高畑さんがモノづくりするときは・・・という二人三脚は、よく知られていると思います。 「お金の心配」をするのが制作統括つまりプロデューサーの仕事ですが、美術展ではやや言葉遣いが混乱を招きやすい形になっています。 すなわち「芸術監督」がアーチストサイドのプロデューサーで、スポンサー側では主催委員会のトップがプロデューサー、今回なら大村知事ということになります。 大村知事はアートの中身には口も手も出しません。お金と進行、そしてリスクをきちんと管理します。 これに対して芸術監督は、官費を含む予算を正しく執行して、芸術のオリンピックとして世界に問うべき独自のコンテンツ・ラインナップを作る<ひと・もの・かね>の「権限」を委譲されると同時に、適切な「進行管理」にも本来責任を負う立場になる。 そこで、今回の事態はその心臓部の一つ「進行管理」に明らかな失態があった。 さらにリスク管理にも「想定外の事態」を呼び込んでしまい、当然ながら想定外の出費がかさむ可能性がある。 「後になって計算してみたらこれくらい赤字が出ていた、それは地元住民の税で負担・・・」というようなことが許される話ではない。 その都度、財務のチェックが基本で、「表現の自由」も「襲撃予告」対処も、それらを支える「後ろ盾」の予算がなければ話が始まりません。 「脅迫に表現の自由を圧殺させてよいのか?」という議論があります。 「脅しに屈することなく展示を続けてこそ表現の自由ではないか?」 真に美しいマニフェストと思います。 さて、この連載では「ベルリンの中心街、動物園前のヨーロッパ広場のクリスマス市無差別テロ殺人現場」で、脅しに屈することなくフェスティバルを開催し続けている事実を2016年の発生直後から幾度も取り上げています。 それに一体、いくらかかっているか、ご認識でしょうか。本稿はベルリンで書いており、今日の現場の写真を後で取って続稿を記そうと思いますが、莫大な経費がかかっています。 いま、はっきり言って素人が選んだ今回のトリエンナーレで、もっぱら安全性の観点から、「その継続のために、いったいいくらの警備費を上乗せすることが妥当か?」は、作品への好悪などと無関係に冷静に検討すべき財務のイシューです。 赤字が出たらどうします? というかアクションすれば出費は100%増えます。名古屋市民や愛知県民の税金で追加補填するのですか? 私は慎重であるべきと思います。芸術家の立場から、良心をもって断言します。警備の強化などを含む、あらゆる対策経費を念頭におく財務チェックを直ちに行う必要があるでしょう。 それが芸術監督、芸術ガバナンスに携わる立場から第一になすべきこと、異論の余地などあり得ません。 「無い袖」は振れない。これはシビアな職業的経営判断です。お金の見通しの立たないこうした計画変更は、税金を原資とする官費投入の現場で許されることではありません。 JBPressは元来イノベーション経済メディアで、私は「京アニ」や「トリエンナーレ」のコラムと前後して日英語で暗号資産の数理モデルなども議論しています(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57206)が、両者に透徹するのが「財政規律」など公共性という経済倫理の大原則にほかなりません。 すべて財務とともに明確な説明が求められます』、「「脅しに屈することなく展示を続けてこそ表現の自由ではないか?」 真に美しいマニフェストと思います」、膨大な警備費用をかけてまで、「表現の自由」を守るというのは、確かに倒錯した理想論だ。
・『磯崎新の「横浜トリエンナーレ」批判  私が生まれて初めて芸術監督を務めたのは1993~95年、28~30歳のとき、福井県武生市主催の松平頼則作曲のオペラ「源氏物語」世界初演公演で、この職責を追いました。 演出=渡邊守章(1933-)バレエ振付=厚木凡人(1936-)という還暦年配の先輩芸術家諸氏を前に、20代の駆け出し指揮者であった私は芸術監督として 1 予算の管理 2 進行の管理 3 リスクの管理 という3つに責任を持ちました。 仮に演出家が「歌手や役者を宙乗りさせたい」と主張したとき保険のかけ金など含め、必要経費がどれだけか、できるだけ早く正確に見積もってゴーサインなのか中止サインなのかを出さねばなりません。 (この時はそういう提案はありませんでした。しかし、後に「題名のない音楽会」の監督時代には、オーケストラの上をロックコンサートみたいにカメラをクレーンで舐めたい、というバラエティのプロダクションディレクターに、必要な「楽器保険」の金額を見せたところ、青くなって黙るといったやり取りはありました) 武生の「源氏物語」では、還暦年配で親子ほども年の違う「偉い」演出家や振付家に、20代の駆け出しである私が「ノー」を言わせていただくこともありました。 財務会計の権限を持っていたから、ない袖は振れないということです。 それらは福井県武生市の議会を通過して承認、終了後も細かな会計検査があり、経理面のプロデューサー、生前の武満徹さんを支えたていた秋山晃男さんが胃を悪くしたのを思い出します。 また20世紀から21世紀への変わり目の時期、「第一回横浜トリエンナーレ」の立ち上げ時にほんの少しだけコミットしかけました。 当時、私は、横浜・井土ヶ谷に本拠を置く美術学校「Bゼミ」で音楽以外のアーチストを含む学生を教えており、また横浜在住の舞踏家・大野一雄さんと建築の磯崎新さん、作曲の先輩である一柳慧さんとのセッションも行っていたため、パブリック・オピニオンを集める会合などに数か月付き合ったのです。 「横浜トリエンナーレ」は桜木町から赤レンガ倉庫あたりのエリアを「アートで再開発」という自治体の文脈が背景にありました。 都市再開発が関わりましたから、話はリアル・エステートが絡み、状況は錯雑を極めていました。 ちょうど音楽実技教官として大学に着任直後でしたので、横浜市の担当課長Iさんに紹介されて、私は学内の工学部都市工学科で助教授を務めておられた北沢猛さん(1953-2009)に「町おこし」の観点から「横浜トリエンナーレ」計画の横顔を教えていただきました。 北沢さんは10年前、50代半ばで惜しくも急逝されましたが、横浜育ちで、東京大学工学部都市工学科卒業後、横浜市に入庁、企画調整局都市デザインチームメンバーから都市計画局都市デザイン室長まで歴任ののち、母校出身学科に助教授で着任、後進の指導に当たりながら全国各地自治体の都市デザインアドバイザーとして活躍された方です。 北沢さんから伺う計画は、当たり前ですが、値引きなしの公共事業であるとともに、あらゆる種類のリスク対策が話の9割がたを占めていました。 この時期、建築の磯崎新さんは、本家本元のヴェネチア・ビエンナーレで建築の「金獅子賞」(1996)などを得ており、日本館のコミッショナーなども務めていました。 その際、磯崎さんは横浜でのトリエンナーレに極めて冷ややかでした。以下、詳細は記しませんが、「音楽の助教授」として何ほどか期待されたかもしれない、この取り組みと、私は距離を置きました。 前稿まで「あいちトリエンナーレ」の現状に示した私なりの見解は、主として「横浜トリエンナーレ」にまつわる北沢猛さんと磯崎新さんの観点を前提に、自分の文責で記したものです。 磯崎さんがヴェネチア・ビエンナーレで最初に責任を持った1996年、私はアーティスト・レジデンシ―で磯崎夫妻(当時のパートナーは彫刻の故・宮脇愛子さん)や作曲の高橋悠治さんと米国フロリダ州のアトランティック・センター・オヴ・アートで50日ほど一緒に生活しました。 このとき、磯崎さんのオリンピック批判やビエンナーレ批判を連日聞かされ、こうした問題をそれ以後考える原点を移譲してもらったと思っています。 つまるところ、今回の「あいち」は、磯崎さんなどが「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」で問うてきた水準の入り口に達していない。 「批判」の射程が短すぎる。 芸術が困難な社会の現状を逆照射し、厳しい現実を突きつける、というようなとき、いま俎上に上がっている程度の議論(「やばい」「炎上」などの表現が端的に示してしまったもの)は、はっきり言って浅すぎる。 皮相な「政治」(未満)のレベルにとどまり、芸術の出発点に立てていない。もしそうでないというなら、どうして「表現の不自由展 その後」の<全体>を十把ひとからげに中止、などという乱暴を「芸術監督の立場」でできるだろうか? 会場の安全管理責任者、という立場では可能なことです。愛知県知事はそれを判断する責任がある。 芸術監督であれば、担当キュレータ―と緊密に打ち合わせながら、脅迫の対象になっていない他の作品の一つひとつ、その作家のひとりひとりに配慮した対案を、仮に形だけであったとしても、一度は卓上に提案するのが、当たり前の義務になります。 もちろん担当キュレータは抵抗するでしょう。一人の作家も欠けてはならない・・・それが芸術をキュレートする1の1というものです。激しいせめぎ合いに、当然なのですが・・・そうしたことが、今回の経緯で、どの程度あったのか? いま目にしている、こういう措置を「連座制」といいます。一族郎党、全員問答無用で撫で切りという最悪の権力者の振る舞い、江戸町奉行並みな「成文法以前」の「お裁き」で、一つの企画展に含まれるアーティストも作品も、全部一蹴してしまった。 私は、一芸術人の観点から、こういうことは許されるべきではないと思います。今日の社会で普通に芸術に責任を追う人は、こういう無法な判断を決して下さないし、下せません。 くれぐれも、安全管理のため、企画展全体を留保するのは、行政として当然の判断です。それはセキュリティという別の物差しでみているから。 しかし、いやしくもアートの立場であるならば、作品も作家も十把ひとからげ、頭ごなしに「中止」と通告する芸術のガバナンスはあり得ません。これは芸術監督業では、ない。 たかだか「この企画が一番政治的にやばい」程度であれば、素人の手なぐさみにしかなっていない。 多分、多くの美術家はこうしたことをまだ発言しにくいと思います。美術にしがらみの少ない楽隊として「王様は裸」と記し、建設的な観点からまともな展開を期待したいと思います。 現状は「まとも」とは言い難い。 まだ70日ほどの会期を残す「あいちトリエンナーレ」が「まとも」な軌跡を描くかどうかは、財政規律のチェックに始まる普通に厳密な「まとも」へのギア・チェンジに始まり、「芸術に襟を正す姿勢」を取れるか、あるいは取れず仕舞いで終わるかに懸かっているでしょう』、伊東氏には芸術祭や芸術監督についての長年の蓄積があったからこそ、今回の問題を短期間で分析できたことがよく理解できた。「一族郎党、全員問答無用で撫で切りという最悪の権力者の振る舞い、江戸町奉行並みな「成文法以前」の「お裁き」で、一つの企画展に含まれるアーティストも作品も、全部一蹴してしまった」、というのは誠に残念なことだ。

第三に、この続きを、8月13日付けJBPress「「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引、膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57293
・『あいちトリエンナーレ「表現の不自由展その後」展示の中止に関連して、「反日」あるいは「表現の自由の侵害」といった指摘がピント外れであることを指摘しています。 愛知県の大村知事は「多くの皆さんに不安を与え」「展覧会の円滑な運営が行えなくなった」ことに関して、早期に「検証委員会」を設置のうえ、証拠に基づいて法的に対処を検討する旨を発表、全く妥当なことだと思います。 同時に「表現の不自由展その後」に作品を出品していた彫刻家で、文化女子大学教授の中垣克久さんさんがインタビューに応じ、事前の作家名や作品名の公開を伏せられたこと、作家として当然抗議したところ「情報が洩れると企画がつぶされるから」といった説明があったことなどに言及していました。 もし、これらが事実であるとすれば、今回の事態は明らかに意図的な「炎上」を狙って発生したもので、運営側の責任が厳しく問われなくてはなりません。 「一番悪いのは、暴力で脅迫した人だ」という意見がありますが、そんなのは当たり前です。 一番も何も脅迫なり放火なりというのは通常法規で禁じられる刑事事件であって、当然取り締まりを受けるべきであり、ただの犯罪です。 今回の「あいちトリエンナーレ」の失敗に固有の本質的問題では全くありません。 今回の「あいちトリエンナーレ」事件が問題になった直後、つまり会期2日目である8月2日の時点で私は 「事前に十分な告知はなされていたか?」「官費を使うので、必要があればパブリック・コメントを」といったポイントを本連載の緊急稿で指摘しました。 果たして翌8月3日、企画展は中止となりました』、「今回の事態は明らかに意図的な「炎上」を狙って発生したもので、運営側の責任が厳しく問われなくてはなりません」、というのはその通りだ。
・『その後ぼろぼろと出てきた事実から、この展示は、公的な国際トリエンナーレであるにもかかわらず本来必要な事前告知を意図的に怠り、「炎上」効果を狙った可能性が高い。 炎上効果が予想以上の規模に広がってしまい、実際に逮捕者も複数出る事態となってしまった。 夏休み中に開催される平和と人道の国際芸術祭であるはずが、危険を避けて来場を手控える人が出るような事態となったことは、ガバナンスそのものの問題です。 表現の自由でもコンテンツの中身の問題でもなく、税金を使って公的な催しを行う最低限の規則が守られていなかった可能性が明るみに出てきてしまった。 これは本質的にインターナショナルなトリエンナーレの開催であったはずなのに、日本国内の「ネット民の反響」程度しか、見ていなかったのではないかと察せられます。 また、ここで「表現の自由」を言う人の中に「暴力に屈することなく、展示を続けるべきだ」といった意味合いの意見を目にしました。 仮にそうだとして、「テロの脅しや暴力に屈しない」ために、どの程度のコストがかかるのでしょうか。お金の見積もりが全く抜け落ちた意見に見えました。 それは素人の妄言であって、財務の後ろ盾のないアイデアは、夢まぼろしにすぎません。少なくとも職業的な責任で芸術事業を監督するなら、安定確実な予算のあてがなくてはできません。 すべて元は税金なんですから、冗談にもならない。 まして主催者側が事前から意図的に「炎上狙い」つまり暴力的な襲撃を誘引するなど、言語道断と言わざるをえません。 意図的に炎上させるつもりなら、今回「わしらネットワーク民」を名乗った容疑者が実際に逮捕されたような事態をあらかじめ想定していなければなりません。 テロを誘発させるなど許されることではないうえに、その際に「テロに屈しない」ために、どれほどのコストがかかるのか、2019年8月8日時点でのベルリンの実例で、お話したいと思います』、「主催者側が事前から意図的に「炎上狙い」つまり暴力的な襲撃を誘引するなど、言語道断と言わざるをえません」、全面的に同意できる。
・『100トン単位のコンクリート塊  まず、以下の写真を見てください。 ものものしい「障害物」 金網に囲まれた何かが、車道と歩道の間に長々と設置されている様子を映してみました。 右の写真(上から2番目)で横に停められている自転車から、断面の一辺が1メートル以上の、かなり大きなものであることが分かるかと思います。 中身は確認し切れていませんが、上部には雨水が溜まっており、その下はコンクリートであるらしいことが見て取れます。 これらは、2016年12月にポーランドで強奪されたトレーラーが「クリスマス市」に突っ込み、11人が犠牲になったテロ現場、ベルリン市内中心部の「ヨーロッパ広場」に、昨年あたりから常設されるようになった「障害物防御壁」にほかなりません。 左は、まさにテロで犠牲者がでた現場そのもの、右は広場の180度反対にあたる「クーダム」繁華街側ですが、エリア全体をぐるりと取り囲んでいます。 テロ直後の2016年暮れも、明けて2017年の年初も、このヨーロッパ広場では一貫して季節ごとの市が立ち、まさに襲撃があったその場所に子供向けの遊具などが置かれて、人の賑わいが絶えることはありませんでした。 「テロに屈せず」を、地で行ったわけですが、ベルリン当局は当初、50センチ×50センチ×1メートルほどの鉄筋コンクリート塊を会場周辺にその都度配置し、終わると撤収し、武装した多数の要員が警戒する中で、それらの作業を行っていました。 正確な分量は知りませんが、5トンとか10トンといった量でないことは一目見ただけで分かります。 数百トン規模の障害物が毎回投入され、万が一10トン級のトレーラーが突入してきても、必ず食い止められるよう、セキュリティを施したうえで「テロに屈せず」の旗をたかだかと掲げている』、さすがドイツ、「テロに屈せず」のために膨大なカネかけているようだ。
・『広く報道されている通り、欧州は各地でテロの被害が出ており、莫大な警備コストを支払いながら、「日常」の秩序を維持し続けています。 以前は毎回、莫大な量のコンクリート塊が搬入、搬出されて2018年の後半頃からだったと思いますが、常設の防御壁が建設されるようになりました。 しかし、現地で友人たちと話して、特に「京都アニメーション放火殺人事件」の詳細を説明すると、そうした「安価」なテロへの的確な防御策がいまだ立てられていないことに言及して、皆一様に恐ろしいことだと答えます。 ちなみに「ドローンを使ったテロ」に対しては、一定の対策が立てられているそうです。しかし「ドローンにガソリン」など積み込まれたら、現状では防ぎようがないのではないか、ガソリン相手に火気(正しくは:火器)は使えないし・・・といったところで議論は止まります。 私の友人は音楽の仲間や映画監督、大学教授などでセキュリティの専門家ではないので、このあたりで止まってしまう。やはりプロの力が必要というところで意見は一致しました』、「京都アニメーション放火殺人事件」もお涙頂戴的記事が多く、如何なる対策を取るべきかといった議論はまだ出てないのは残念なことだ。
・『展示の再開コストはいくら?  報道によれば、企画展が「中止」になった後も、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展 その後」の展示会場は封鎖されたままで、作品が撤去などはされていない、とのことでした。 また、「この展示を再開すべき」という署名も、多数集まっているとも伝えられます。 こういうとき、芸術監督や主催者サイドは、何をするべきか? 企画の内容で判断される、あらかじめ「結論ありき」は、検閲と呼ばれるもので、公的機関がこれを行うことは、憲法が禁止しています。 「税金を使って政治的な主張をしてはならない」というお寒い<意見>が開陳されていますが、選挙を考えてみてください。 毎回何十億円という官費、つまり税金が投入されて、およそあらゆる政治的な主張が、あらゆる媒体を使って拡散していますね。これ、違法なことですか? そんなことがあるわけはない。 もちろん「政治的主張」といっても法に触れるような<主義主張>であれば、それは単に犯罪であって、許容されるわけがないことは、すでに記した通りです。 問題は、税金を使って行われる公的行事として、「きちんとペイするものかどうか?」「またそれを納税者は是とするか?」という手続きであって、<表現の自由>は第一には関係してきません。 「表現の不自由展」をもう1回見たいという人が、地元納税者の過半を占めるとすれば、再検討される価値があるでしょう。 ただし、その場合には、すでに「ガソリン携行缶を持ってお邪魔」などと予告する者や、警官に「ガソリンだ」と称して液体をぶちまけた者など、逮捕者が出ているわけで、プロフェッショナルによるセキュリティの計画が立てられ、その見積もりが提出され、議会レベル相当で検討され、承認が得られなければならないでしょう。 仮に多くの納税者が展示再開を望んだとしても、警備など「展示再開コスト」が、全くペイしない金額に上ってしまうなら、再開は現実問題として不可能と判断されるでしょう。 こうした仕儀は、いったいどうして発生してしまったのか? 「県が悪い」という議論を目にしましたが、仮にそうだとすると、県に責任がかかり、最終的に納税者にツケが回ってくる可能性があります。 2004年ギリシャ・オリンピックの赤字を想起してください。濫費は全欧州の経済を危機的状況に追い込みました。そういう判断を下すべきか否か? すべては本質的には納税者が判断すべきで、現実には公職選挙で選ばれたその代表、つまり議会に諮られねばなりません。 「あいちトリエンナーレ2019」は、危機管理が全くできないアマチュアを芸術監督に据えるという明確な失敗を犯しました。 あえて国立大学法人の芸術教員として居住まいを正したうえで明記しますが、こういうことは二度と繰り返すべきではなく、失敗の原因を明らかにするとともに、厳密に再発を防止することを、関係各方面に注意喚起したいと思います。 私は、ビエンナーレ、トリエンナーレや五輪文化行事のような公的イベントのアーティスティック・ダイレクションを、新たな切り口の人材が行うことを決して否定しません。 また一芸術人として、表現の自由は厳密に守られるべきと思います。長年の連載読者はよくご存じのとおり、私は徹底してハト派で、リベラルなスタンスを崩しません。 そのうえで、ですが、公金の扱いがいい加減であるとか、物理的な暴力被害を呼び込むとか、危機管理の予算見積もりができないとかいった表現以前、芸術以前の、当たり前の公務が完遂できないチームの編成は、二度と繰り返すべきではないと思います。 本当の意味での「悪しき前例」の意味を、日本社会はきちんと理解し、学習すべきと思います』、本件ではどうでもいいような論評が殆どで、伊東氏のようなプロの意見は大いに参考になるが、同氏の意見が支配的になる可能性が少なそうなのは、残念でならない。
タグ:「あいちトリエンナーレ2019」問題 (その2)(伊東 乾氏の3題:「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条、トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資、「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引 膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費) 伊東 乾 JBPRESS 「「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条」 「表現の不自由展 その後」 「動員ありき」であって、タレント性のある有名人を「芸術監督」に選び、一日駅長相当で営業成績を稼いだことが分かります 「情をもって情を征する」 興奮している人には何らかの意味で水をぶっかけて正気に戻す。感情の火に別の油を注いでまともな話になるわけがありません 芸術監督の仕事は「危機管理」 展示の告知は十分だったか? 官費執行行事としての責任ある対処 「学術外交」=学問・芸術は常に人と人の間に回路を開き続けます ビエンナーレ/トリエンナーレ 人道と文化の「芸術オリンピック」 パブリック・ミーティング パブリック・コメント 実行委員会「中止」決定時点で芸術監督は辞任すべきだった 芸術監督として取るべき所作は 個人攻撃は問題の所在をあいまいにする 「トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資」 芸術監督は「管理職」 「ひと・もの・かね」を掌握 「芸術監督」の絶大な権限 「表現の自由」は水かけ論にしかならない 「計画変更」は、財務会計のチェックから 問われる財政規律 アニメのケースで:高畑勲+宮崎駿ペアの分業 磯崎新の「横浜トリエンナーレ」批判 一族郎党、全員問答無用で撫で切りという最悪の権力者の振る舞い、江戸町奉行並みな「成文法以前」の「お裁き」で、一つの企画展に含まれるアーティストも作品も、全部一蹴してしまった 「「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引、膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費」 今回の事態は明らかに意図的な「炎上」を狙って発生したもので、運営側の責任が厳しく問われなくてはなりません まして主催者側が事前から意図的に「炎上狙い」つまり暴力的な襲撃を誘引するなど、言語道断と言わざるをえません 「テロに屈しない」ために、どれほどのコストがかかるのか、2019年8月8日時点でのベルリンの実例で 100トン単位のコンクリート塊 「ヨーロッパ広場」に、昨年あたりから常設されるようになった「障害物防御壁」 万が一10トン級のトレーラーが突入してきても、必ず食い止められるよう、セキュリティを施したうえで「テロに屈せず」の旗をたかだかと掲げている 常設の防御壁が建設されるようになりました 展示の再開コストはいくら? 税金を使って行われる公的行事として、「きちんとペイするものかどうか?」「またそれを納税者は是とするか?」という手続きであって、<表現の自由>は第一には関係してきません こういうことは二度と繰り返すべきではなく、失敗の原因を明らかにするとともに、厳密に再発を防止することを、関係各方面に注意喚起したい 、公金の扱いがいい加減であるとか、物理的な暴力被害を呼び込むとか、危機管理の予算見積もりができないとかいった表現以前、芸術以前の、当たり前の公務が完遂できないチームの編成は、二度と繰り返すべきではないと思います
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