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日本の政治情勢(その38)(小田嶋氏2題:小さなウソを容認すると起こること、12月3日を「日本語が死んだ日」に) [国内政治]

昨日に続いて、日本の政治情勢(その38)(小田嶋氏2題:小さなウソを容認すると起こること、12月3日を「日本語が死んだ日」に)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が11月22日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「小さなウソを容認すると起こること」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00045/?P=1
・『「ニューオータニの宴会場で800人の立食パーティーをやって、一人アタマ5000円で済むのか」という話題が、この1週間、様々な場所で行ったり来たりしている。 バカな話だと思う。 私の感覚では、無理に決まっている。これが無理でないのだとすると、この世界に「価格」というスタンダードがあること自体がおとぎ話になってしまう。 どんなに優秀な幹事を立てたところで、きょうび都内の一流ホテルで料理と飲み物を出すパーティーが、一人アタマ1万円以下の会費でペイできる道理はない。聞けば、当日は有名寿司店の寿司がふるまわれたというし、名前の知れたシャンソン歌手が歌う場面もあったのだそうだ。だとすれば、なおのこと5000円という会費はあり得ない。完全に不可能だとまでは断言しないが、近所のコンビニで売っている120円のシュークリームひとつで丸1週間食いつなぐことが困難であるのと同じほどにはバカげた話だと思う。 仮にこの会費でニューオータニのパーティーに誘われたら、私は参加しない。会費の安いパーティーには、若い頃からひどい目に遭っている。たしか高校2年生の時だったか、100平米の雀荘をハコにパー券を300枚売りさばくタイプの暴走族主催のディスコパーティーに引っかかったことがある。あれはキツい経験だった。集結した面々がレディースとツッパリ坊限定だった点もさることながら、狭い雀荘の会場に入るためには、階段越しに 「お前どこのもんだ?」てな調子でスゴんでいるチンピラ諸氏の面通しを突破しなければならなかった。 私にはその関門の先に待っている不機嫌なレディースを待望する理由がなかった。それ以上に、階段の前に陣取っているテカテカのリーゼントに対峙するだけの度胸を持っていなかった。だから、1500円のガリ版刷りの薄紅色のパー券をその場に捨てて、静かに板橋駅に引き返した。いまでも賢明な判断だったと思っている。 もう少し年をとって、ほんの少しだけ賢くなった頃にも、ネットワークビジネスのカモ誘引会場にまんまと間抜け面を晒したことがあった。あの時も、自分の価値観の浅はかさを心から呪ったものだった。だから、このトシになって、いまさら安いパーティーはお断りだ。ごめんこうむる。まあ、高いパーティーにしたところで願い下げではあるのだが。 話を整理しよう。 ニューオータニで5000円のパーティーが可能だろうかなどという話は、本来なら大の大人が大真面目に議論すべき話題ではない。そういうことだ。 「ウソに決まってるだろ」という決まり文句で一蹴すべき案件だ。 とはいえ、読者の中には 「ウソに決まってるじゃないか」だけでは納得しない半端者が必ず含まれている。 そういう少数者のために、外堀を埋める意味で、「ニューオータニ5000円パーティー」の開催不可能性について、以下、やや子細に検討してみる。 仮に、会費5000円でパーティーを開いたことが事実だったのだとすると、ホテル側に支払った実際の金額と、パーティー参加者から徴収した会費の総額との間に「差額」が生じる。と、当然、この「差額」ないし「損失」を誰かが補填しなければならない。そうでないと話が前に進まない』、確かに「本来なら大の大人が大真面目に議論すべき話題ではない」が、頭の体操をしておく意味はある。
・『この場合、差額分を支出していたのが安倍さんの後援会事務所だったのだとすると、相当にマズい。支出をきちんと計上していなかったということにでもなれば、いきなり政治資金規正法違反になる。この先、後援会が帳簿の体裁を整えるつもりでいるのだとしても、差額として支出した金額をどういう名目で処理するのかは、会計担当者にとって、厳しい試練になるはずだ。いったいどうやって申し開きをするつもりなのだろう。 差額の出どころが、「桜を見る会」のための予算であった場合、これはこれでまた別のスキャンダルになる。公の税金を私的なパーティーのために費消していたわけだから、「公私混同」と言われても仕方がない。おそらく、会計的にも問題が残るはずだ  以上の事例とはまったく別に、会費の差額のために官房機密費が充当されていたのだとしても、それはそれで大変によろしくない。このケースが一番ヤバいかもしれない。官房の「機密」が、首相個人の後援会の慰安であるのだとしたら、国家機密そのものが私物化されていたことになる。だとすれば、この国はもはや未開の蛮国にすぎない。 とにかく、5000円という破格の会費でパーティーを開催することで選挙区の支援者を慰撫していたのであれば、安倍さんは、無事では済まない。 最後の可能性として、ホテルニューオータニ側が、会費5000円でのパーティー開催という破格の条件をそのまま飲み込んだ可能性も理屈の上では残されている。 その場合、「ホテル側はどうしてそんな非常識な条件をのんだのか」という疑問に答えなければならない。 で、その答えのひとつとして、「同じクライアント(安倍首相ないしは日本政府)による別の取引機会において、当面の損失を補ってあまりある利益が期待できるから」というプロットがある。 なるほど、ありそうな話だ。 実際、去る10月23日、首相夫妻の主催による天皇皇后両陛下のご即位を祝う晩餐会が、各国の首脳を招いた中で盛大に開催されたわけなのだが、その会場は、実に紀尾井町にあるホテルニューオータニだった。 これは偶然だろうか。 ホテル側からしてみれば、天皇即位のための晩餐会の会場として選ばれる栄誉と実益の大きさに比べてみれば、800人の立食パーティーの会費をどれだけ値引きしたところでものの数ではない。 あるいは、安倍さんの側は、ここのところの権威勾配(というのか「威圧」)につけこむカタチで、不当なディスカウントを迫ったのであろうか。というよりも、首相サイドがあからさまに強要するまでもなく、値引きは、ごく自然に受益者から権力者に向けて「提供」されていたのかもしれない。 してみると、これは、権力なり政府の権威なりを背景とした、「令和の代官&越後屋ストーリー」になる。 この場合も、政府から支払われることになる晩餐会の巨額支出を、自分の後援会事務所主催のパーティー費用とバーターにして値引き交渉をしていたのであれば、より巨大な公私混同案件と見なされるはずだし、直接的に権力の威圧で値引きを勝ち取っていたのだとしても、それはそれでまた政治家としての振る舞い方を批判される理由になる。どっちにしても無事では済まない。 もちろん、私がここで並べ立てている臆測は、取材に基づくファクトや根拠があって言っていることではない。 「そう考えればそう考えることもできる」というだけの、言ってみれば言葉のアヤみたいなものだ』、「ホテル側からしてみれば、天皇即位のための晩餐会の会場として選ばれる栄誉と実益の大きさに比べてみれば、800人の立食パーティーの会費をどれだけ値引きしたところでものの数ではない」、大いにあり得る話だ。なお、ニューオータニと安倍家の関係については、「「安倍家を取り仕切る “ゴッドマザー” こと洋子さん(91)と、ニューオータニの大谷和彦社長(73)は、E塾という経営コンサルティング会社を通じて、古いつき合いがある」(11月27日付けLlivedoor NEWS)との報道もある。
・『ただ、「ニューオータニによる会費5000円でのパーティー会場提供が事実であったとするなら」という条件から考えると、それこそ、バーター案件としてご即位奉祝の晩餐会でも持ってこないと話が合わないぞということを言ったまでのことだ。 思うに、最重要な問題は、これほどまでにあからさまなウソごまかしであっても、首相の口から出た言葉だからという理由で、最大限に尊重せねばならなくなっているわが国のメディアの奴隷根性だ。 メディア側は、最後の最後まで真実である可能性を勘案した上で、首相の発言を取り扱わなければならないと思い込んでいるわけで、結局のところそれほどまでに、ファクトチェックの基準を政府の側に譲り渡してしまっている。 朝日新聞のデジタル版(asahi.com)が、11月20日11時38分に配信のweb版で《安倍首相、招待者選定「意見言うことあった」一転認める》という記事を配信している。 紙の方の新聞では、21日付の朝刊で 《首相、接待関与認める 桜を見る会 昭恵氏も推薦》という見出しのもと、ほぼ同内容の記事を掲載している。 気になるのは、時間的により遅い(つまり最新の)段階で制作されている紙版において、首相の「答弁の修正」(←個人的には「虚偽答弁」の線でたたかうべきだと思っている)を責めるニュアンスが弱まっている点だ。 なお、現時点(11月21日17:00頃)では、web版の方でも、紙版の朝刊とほぼ同じ内容に修正した11月21日05:00更新分の記事が掲載されている。 紙版、web版(第一報)ともに、まずリードの部分で 《国の税金を使い、首相が主催する「桜を見る会」をめぐり、安倍晋三首相は20日午前の参院本会議で、招待者選定について「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」と自らの関与を認めた。会前夜の夕食会は、自らの後援会が主催したことも明らかにした。》 と、首相が国会答弁の中で招待者選定への関与を認めた発言を紹介しているのだが、本文に入ると文章のトーンが変わる。 web版(の第一報である20日11:38配信分)が 《―略― 首相は8日の参院予算委員会では「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と説明していたが、修正した。 ―略―》 と端的に首相が発言を修正した旨を伝えているのに対して、紙版(ならびに21日05:00更新の記事)では、 《―略― 首相は8日の参院予算委員会で「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と述べていた。20日は「私は、内閣官房や内閣府が行う最終的な取りまとめプロセスには一切関与していない」と軌道修正。「先日の答弁が虚偽だったとの指摘はあたらない」とも述べた。 ―略―》 と、8日の発言が虚偽答弁にはあたらないという首相の発言を紹介するフォローの一文が書き加えられている』、「最重要な問題は、これほどまでにあからさまなウソごまかしであっても、首相の口から出た言葉だからという理由で、最大限に尊重せねばならなくなっているわが国のメディアの奴隷根性だ」、辛辣なメディア批判だ。
・『首相が、虚偽答弁をしたのかどうかは、今後、与野党ならびにメディアを含めた議論の中で争点になる部分なのだろう。 そういう意味では、新聞の見出しで、いきなり「虚偽答弁」と、決めつけるのはむずかしいことなのかもしれない。 とはいえ、首相は、8日の国会答弁で 「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と断言している。 でもって、20日には、前言を翻して 「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」と言っている。 要するに「意見を言うことはあったが、そのことがすなわち招待者の取りまとめに関与したことにはならない」という理屈なのかもしれないが、そんなことが通用するものだろうか。 こういう露骨な言い逃れを 「発言を修正した」という伝え方で記事にして、朝日新聞の中の人たちは、そんなことで新聞の役割をまっとうできると考えているのだろうか。 単純な話、首相が国会答弁を修正したのであれば、メディアの側の人間は、修正する前の発言と、修正後の発言の間の整合性を執拗に追及する役割を果たさなければならないはずだ。 「つまり8日の答弁は虚偽だったということですか?」「虚偽ではないのだとすると、事実誤認をしていたということですか?」「事実誤認をそのまま口にしていたのだとして、どうしてそのような事実誤認をしていたのか、その間の事情を説明してください」「勘違いや言い間違いなら、どうして8日の答弁で間違った事実を述べたのかについても教えてください」と、いくらでもツッコミどころはあるはずだ。 そこを「首相が答弁を修正しました」という記事を書いて、はいおしまいにするのだったら、小学生の学級新聞と同じではないか。 「修正しました」「あ、そうですか」では、メディアの役割を果たしたことにはならない。 ただの政府広報だ』、「「首相が答弁を修正しました」という記事を書いて、はいおしまいにするのだったら、小学生の学級新聞と同じではないか。「修正しました」「あ、そうですか」では、メディアの役割を果たしたことにはならない。 ただの政府広報だ」、「小学生の学級新聞」や「政府広報」とは言い得て妙だ。
・『このほか、首相や官房長官の説明を時系列に沿って検討してみると、矛盾点はいくらでも出てくる。 たとえば、安倍首相は、当初、ぶら下がり会見の中において、5000円という会費が、参加者の大多数がホテルの宿泊者という事情などを総合的に勘案し、ホテル側が設定した価格だと主張していた。 しかしながら、その後の調べで、参加者の中にニューオータニとは別のホテルに宿泊した人々がたくさんいることが発覚すると、それについては、「ホテル側の手違い」という言い方で説明している。 正直な話、ここしばらくの首相とその周辺の人々の弁解は、あまりにもバカバカしくて聞いていられない。 私が心底から驚愕しているのは、ひとつひとつの発言の真偽とは別に、今回の一連の出来事に関する首相の発言が、一から十までウソだらけである点なのだが、さらに深刻なのは、首相という立場にある人間が、あからさまなウソをつき続けている事態に、人々が驚かなくなってしまっている点だ。 ほんの小さなウソであっても、公の場でウソをついた人間は絶対に信用しないというのが、ほんの少し前までの、この国の国民的な常識だった。 それが、震災からこっち、すっかり骨抜きになっている。 われわれは、小さなウソを容認しはじめている。のみならず、バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる。 私たちは、あきらかにどうかしている。 ひとつひとつのウソによる個々の被害や、個別のウソの悪質さが問題なのではない。 真におそろしいのは、人前でウソをつき得る人間をリーダーとして頂くことの危険性なのだ。 一度ウソをついた人間は、何度でもウソをつく。このことを忘れてはならない。 5000円は、人それぞれの経済状態にもよるが、多くの国民にとって、些細な金額だ。 仮に、いまここで自分の財布の中から5000円が消えたのだとして、私は、3日もすれば立ち直れるだろう。いや、1週間ぐらいはかかるかもしれないが、それでも、5000円で人生が台無しになるわけではない。 ただ、5000円の出入りについてウソを言った人間は、5兆円の収支についてもウソを言うはずだ。 そういう人間が国庫を握るようなことになったら、国民は100兆円のごまかしや私物化に直面することになる。 すでに直面しているのかもしれない』、私の考えでは、日本では「清濁併せ吞む」ような政治家が実力があるとされ、政治家の嘘には鷹揚な面があるのではなかろうか。財政収支や年金財政は国家ぐるみの嘘の固まりのように思える。

次に、同じ小田嶋氏による12月6日付け日経ビジネスオンライン「12月3日を「日本語が死んだ日」に」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00047/?P=1
・『「桜を見る会」の名簿データが消去された話を聞いて、私は、一も二もなく「データの一滴は血の一滴」という言葉を思い浮かべた。 で、早速そのフレーズをタイプした勢いで原稿を書き始めた次第なのだが、冒頭の10ラインほどに到達したところで、 「ん? なんだかこのテキストは、むかし書いたおぼえがあるぞ」ということに思い当たった。 原稿執筆中にデジャブに襲われるのは、実のところ、そんなに珍しいなりゆきではない。 たとえば、武者小路実篤先生の晩年の作品には、同じフレーズや描写が、かなりの頻度で登場する。 武者小路先生ご自身が、自分でわかっていて自己模倣をやらかしていたのか、それとも無意識のうちに同じ文章を繰り返し書く症状を獲得するに至っていたのかは、いまとなっては誰にもわからない。 ともあれ、ある程度年齢の行った書き手は、いつしか、昔書いたのと同じ文章を書いている自分自身に遭遇することになっている。そういうものなのだ。 さいわいなことに、21世紀の書き手は、検索機能を備えたパソコンを所持している。おかげで、あからさまな二度ネタは、なんとか事前に回避することができる。もっとも、二度ネタを回避できるのは、本人が自分の堂々巡りに気づいたケースに限られるわけだが。 旧原稿のフォルダ内をワード検索してみた結果、2017年の6月付で当欄にアップしたテキストにたどりついた。 読んでみると、私が今回声を大にして訴えようとしていた内容が、ほとんどそのまま書き記されている。 時間に余裕のある向きは、当稿を読みはじめる前に、できればリンク先にある2年半前の拙稿を参照してみてほしい。 読者はおそらく、いま現在「桜を見る会」の周辺で展開されているのとほぼまったく同じ出来事が、ちょうど2年半ほど前に、いわゆる「モリカケ」関連のスラップスティックコメディー(注)としてすでに演じられていたことに、驚かされるはずだ。 私たちは、2年半前の時点から、一歩も前に進んでいない。 この国の人間たちは、前回と同じ追及と言い逃れのプロットを行ったり来たりしながら、一向に代わりばえのしない廃棄と隠蔽のストーリーをなぞったあげくに、例によっていつか来た道筋の半ばで不揃いなステップを踏んでいる。 なんということだろう』、「2017年の6月付で当欄にアップしたテキスト」のURLは https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/060800097/
(注)スラップスティックコメディー:観客を笑わせること及び観客の笑いを引き出すことを主目的とした喜劇映画の中でも、特に体を張ったコメディ映画のこと。日本では『ドタバタ喜劇』と訳されることが多いが、厳密には異なる(Wikipedia)
・『私たちは、悪夢のような政権の後を引き継いだつもりでいる間抜けなリーダーが率いるこのケチくさい地獄の真ん中で、いかにも凡庸な悲劇の主人公におさまっている。しかもその役柄に退屈しはじめている。ということはつまり、何日か後に国会が閉会して、このアンチクライマックスの舞台が昔なじみの不潔な思い出に変わる頃には、誰もが負け犬の衣装を身にまとっているのである。 今回の経緯を振り返っておく。 「桜を見る会」の名簿は、すでにシュレッダーで裁断されたことになっている。 奇妙な話だ。 毎年開かれるイベントの招待客名簿を、年ごとに裁断廃棄することは、継続性と一貫性を重んじる行政官僚の所作として、いかにも理屈に合わないやりざまだ。 仮に、個人情報の漏洩を防ぐために名簿の裁断が必要だったのだとしても、普通に考えれば、廃棄のタイミングは、翌年分の名簿が完成した後でなければならなかったはずだ。 なんとなれば、栄誉ある恒例のイベントにおいて、招待客の人選は、前年の実績を踏まえるのが常道だからだ。まして、「桜を見る会」は、総理主催の国家的なイベントであり、その伝統は戦後からこっち50年以上も続いている。とすれば、前例を踏襲しない選択肢は選びようがないではないか。 前年とまったく同じメンバーに宛てて招待状を発送するのではないにしても、当年分の招待メンバーと、翌年の招待客を突き合わせて検討する作業は必ずや必要になる。逆に、年ごとにすべての設定をリセットして、招待客選びを毎回ゼロからやり直すタイプの名簿制作手順は、作業効率からして論外だし、それ以上に、先の敗戦以来、営々として受け継いできた「伝統」の名において到底許されるものではない。 でもまあ、それはそれとして、名簿がすでにこの世に無いことは、残念ながら動かしようのない事実だ。 大変に認めにくい現実ではあるのだが、私たちは、とにかくこの現実を受け入れなければならない。そうでないと話が先に進まない。 官房長官は、たしかに名簿を裁断したと言っている。内閣府のお役人たちも異口同音に既製品の言葉を繰り返している。なにより安倍首相ご自身が、シュレッダー作業に従事した担当者の属性をあえて明らかにしてまで、廃棄作業が確実に遂行された旨を証言している。 とすれば、いち国民としては、お上の言葉を信じるほかにない。 よろしい。名簿は消えた。ここまでは認めよう。 いっそ、名簿なんてはじめから存在しなかったことにしてもかまわない。 さらに言えば、「桜を見る会」自体、開催されたのかどうか疑わしいわけだし、桜にしたところで、そもそも咲いていなかったのかもしれない。要するに、すべては証明不能で、誰も真実にはたどりつけない……というこのポイントこそが、われわれが置かれているありのままの現状なわけだ。ここまではよい。この線までは譲ろう。よろしい。私たちの負けだ。われわれは狂っている……って……いや、間違いだ。取り消す。悪かった。ちょっと言い過ぎた。大丈夫。オレは狂っていない……私は何を言っているのだろう』、「毎年開かれるイベントの招待客名簿を、年ごとに裁断廃棄することは、継続性と一貫性を重んじる行政官僚の所作として、いかにも理屈に合わないやりざまだ」、その通りだ。
・『とにかく、確実に言えるのは、私たちが、記録をないがしろにし、データを消去破棄破壊改ざんする動作を繰り返したあげくの果てに、どうやら言葉というかけがえのないコミュニケーション・ツールを毀損してしまったことだ。だから私は正確な文を書くことができない。とても困っている。 2年半前に書いた原稿の中で、私は、自分たちが、自身の足跡であり人生そのものでもある血の出るようなデータを消去し、改ざんしてしまったことの報いを受けるであろうことを予言した。 そして、その予言は、現在、もののみごとに的中している。 具体的に言えば、私たちは、データを軽んじたことの報いとして、マトモな言葉を喪失しはじめている。 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、今年4月に開かれた首相主催の「桜を見る会」を巡り、招待者名簿の電子データを内閣府が5月上旬に削除した後も一定期間、外部媒体に残っていたバックアップデータについて、「行政文書に該当しない」との見解を示した。 意味がわかるだろうか? 正真正銘の行政文書たる名簿データのデジタルな複製であるバックアップデータがまったく同一のデータでありながらそれでもなお同じ行政文書でないというこの官房長官の狂った言明は、普通に聞く限りでは、バックアップの意義そのものをアタマから否定する言い草としか解釈のしようがない。 そもそも、「バックアップデータ」とは、原本のデータが誤って消去されたり、何らかの理由で破壊されたりして読めなくなる事態に備えて用意しておく「非常用のコピー」を指す言葉だ。 とすれば、バックアップデータは、今回のような原本のデータが消去されてしまったケースでこそ活躍しなければならないはずのものだ。 ところが、菅官房長官は、元データを廃棄した後、端末にバックアップデータが残っていたにもかかわらず、その提出を拒絶している。しかも、データの提供を拒絶した理由を「バックアップデータは行政文書ではない」からだという理路で説明している。 なんというのか、「売れない占師は売れない自分を占えなかったから売れない」的な、どうにもスジの悪い詭弁のにおい以外のナニモノをも感じることができない。 菅さんは「バックアップ」の意味をなんと考えているのだろうか。 非常時をバックアップ(支える)するためではないのか?』、「2年半前に書いた原稿の中で、私は、自分たちが、自身の足跡であり人生そのものでもある血の出るようなデータを消去し、改ざんしてしまったことの報いを受けるであろうことを予言した。 そして、その予言は、現在、もののみごとに的中している。 具体的に言えば、私たちは、データを軽んじたことの報いとして、マトモな言葉を喪失しはじめている」、小田嶋氏の「予言」が「もののみごとに的中」、とは政治の世界が狂っていることの表れだろう。菅官房長官が、「データの提供を拒絶した理由を「バックアップデータは行政文書ではない」からだ」、というのには私も唖然とさせられた。
・『たとえばの話、原子力発電所にある「バックアップ電源」は、何らかの理由(津波とか)によって、原発の冷却水を冷やす電源が失われた場合に備えて、自動的に発電して原発を冷却するための非常用電源なのだが、このバックアップ電源を「公式の電源ではない」ってな理由で無効化してしまったら、非常の際、冷却されない原子炉は、そのままメルトダウンするほかにどうしようもない。菅さんはそれでもかまわないというのだろうか。 思うに、官房長官の不可解なステートメントを理解するためには、手順を踏まなければならない。 以下、順を追って説明する。 (1) 原本の名簿データは、紙、電子データともに、5月上旬の時点で削除されている。 (2) 外部の端末に残っていると思われていたバックアップデータについては、5月21日の時点で内閣府の幹部が、「破棄した」と答弁している。 (3) (1)および(2)によって、政府は、野党からの名簿データ提出の要求を拒絶した。 (4) ところが、バックアップデータは、5月21日以降も残っていたことが判明した。 (5) (4)によって、(2)「虚偽答弁」になるはずなのだが、それはともかくとして、(4)の前提に立つなら、5月21日の時点で、政府が野党からの名簿データ提出の要求を拒絶していた理由が成立しなくなる。 (6) (3)を正当化するために、あらためてバックアップデータが(国会議員の要求に従って政府が提出を義務付けられている)行政文書に当たらないという理屈が発明された。 ということになる。 なんだか19世紀のダメな小説家が書いたバカな寓話みたいな話だ。 このほかにも、菅官房長官は、「『反社会的勢力』は様々な場面で使われ、定義は一義的に定まっているわけではないと承知しています」などという、正気を疑わしめるような発言を漏らしている。 これもひどい。 仮に、菅官房長官のおっしゃる通りに「反社会的勢力」が、一義的に定義できない曖昧な存在なのだとしたら、暴対法のもと、警察から「反社」との取引や交際の禁止を厳しく求められている一般企業は、いったい何を基準に自分たちの行動をいましめたらよいというのだろうか。 あまりにもばかばかしい。 12月4日放送の「NEWS23」(JNN系)は、内閣府の幹部によるさらに信じられない発言を紹介している。 これは、マジでひどい。 日本語が死んだ日として、国民の祝日に推薦してもよいくらいだ』、菅官房長官の「バックアップデータは行政文書ではない」、「『反社会的勢力』は様々な場面で使われ、定義は一義的に定まっているわけではないと承知しています」、などの発言は、かつて一刀両断のもとに切り捨ててきた菅官房長官の発言とは思えない酷さだ。それだけ、隠し通せなくなってきたのかも知れない。「日本語が死んだ日として、国民の祝日に推薦してもよいくらいだ」、が大げさとも言えないほどの酷さだ。
・『発言は「桜を見る会」のための野党によるヒアリングを収録したVTRの中に収録されている。 11月29日のヒアリングでは、今井雅人議員の 「担当者に(招待番号の)60から63の違いを確認してもらえませんか?」という要求に対して、内閣府酒田元洋官房総務課長が 「承知しました」と答えている。ところが、このヒアリングを受けた12月3日の会合では、 内閣府:「内閣府においてこの情報は保有していない」 議員:「その時の担当者に確認してきて下さいっていいましたよね?」 酒田総務課長:「当時の担当者が特定できるということは申し上げたが、確認をするというところまで確約したかというと記憶にございません」 議員:「は?」 酒田総務課長:「“わかりました”というのはそういう趣旨は理解しましたが、“必ず確認してきます”と承諾したということではありません」という話になる。 より詳しいやりとりは、以下のリンクの記事に詳しい。 この酒田某というお役人の言い分は、自分の言った「承知しました」は "I understand" の意味で発した言葉であって、"Yes,I will" ではないということなのだろう。 構造としては、 《「はい」は、単なる相槌であって、承諾を意味する返答ではありません》という、昔からあるよくある詐欺師の言い草と同じだ。 政府の中枢にいる人間が、こういう理屈を振り回すようになってしまった私たちの国は、この2年半の間に、一歩も前に進んでいないどころか、距離にして2キロメートルほど後ろに下がっている。 それもこれも、みんなしてよってたかって、自分たちの国の言葉を壊してしまったからだ。 適切な言葉がみつからない。 とりあえず、「NO」とだけ言っておく』、「官房総務課長」といえば、NO.1の課長であるが、信じられないような苦しい答弁だ。「みんなしてよってたかって、自分たちの国の言葉を壊してしまったからだ」、確かにその通りだ。
タグ:みんなしてよってたかって、自分たちの国の言葉を壊してしまったからだ “わかりました”というのはそういう趣旨は理解しましたが、“必ず確認してきます”と承諾したということではありません」という話になる 内閣府酒田元洋官房総務課長 日本語が死んだ日として、国民の祝日に推薦してもよいくらいだ 菅官房長官は、「『反社会的勢力』は様々な場面で使われ、定義は一義的に定まっているわけではないと承知しています」などという、正気を疑わしめるような発言 データの提供を拒絶した理由を「バックアップデータは行政文書ではない」からだ 毎年開かれるイベントの招待客名簿を、年ごとに裁断廃棄することは、継続性と一貫性を重んじる行政官僚の所作として、いかにも理屈に合わないやりざまだ 2017年の6月付で当欄にアップしたテキストにたどりついた。 読んでみると、私が今回声を大にして訴えようとしていた内容が、ほとんどそのまま書き記されている 「12月3日を「日本語が死んだ日」に」 日本では「清濁併せ吞む」ような政治家が実力があるとされ、政治家の嘘には鷹揚な面があるのではなかろうか 「首相が答弁を修正しました」という記事を書いて、はいおしまいにするのだったら、小学生の学級新聞と同じではないか。「修正しました」「あ、そうですか」では、メディアの役割を果たしたことにはならない。 ただの政府広報だ 最重要な問題は、これほどまでにあからさまなウソごまかしであっても、首相の口から出た言葉だからという理由で、最大限に尊重せねばならなくなっているわが国のメディアの奴隷根性だ 安倍家を取り仕切る “ゴッドマザー” こと洋子さん(91)と、ニューオータニの大谷和彦社長(73)は、E塾という経営コンサルティング会社を通じて、古いつき合いがある ホテル側からしてみれば、天皇即位のための晩餐会の会場として選ばれる栄誉と実益の大きさに比べてみれば、800人の立食パーティーの会費をどれだけ値引きしたところでものの数ではない 国家機密そのものが私物化 差額のために官房機密費が充当 政治資金規正法違反 ニューオータニの宴会場で800人の立食パーティーをやって、一人アタマ5000円で済むのか 「小さなウソを容認すると起こること」 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 日本の政治情勢 (その38)(小田嶋氏2題:小さなウソを容認すると起こること、12月3日を「日本語が死んだ日」に)
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