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歴史問題(10)(元CIA局員たちへの取材で炙り出された 日米の諜報活動の実態、戦後日本にCIAスパイを送り込んだ 日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命、28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした) [国内政治]

歴史問題については、8月20日に取上げた。今日は、(10)(元CIA局員たちへの取材で炙り出された 日米の諜報活動の実態、戦後日本にCIAスパイを送り込んだ 日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命、28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした)である。

先ずは、9月18日付けNewsweek日本版が掲載した国際ジャーナリスト 山田敏弘氏へのインタビュー「元CIA局員たちへの取材で炙り出された、日米の諜報活動の実態」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/cia-24_1.php
・『<CIAのスパイを養成していた日本人女性キヨ・ヤマダの人物伝『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した山田敏弘氏は、これまで各国の諜報機関関係者に取材してきた。山田氏に聞く、日本にもあるというCIAの養成学校の存在と、元CIA局員が指摘する日本のJICAとCIAの類似性とは> またひとつ、埋もれていた歴史が発掘された。 このほど発売された新著により、戦後、アメリカのCIA(中央情報局)に日本に送りこむスパイを育成していた日本人女性がいたことが分かったのだ。 その女性の名はキヨ・ヤマダ。日本で生まれ育った生粋の日本人で、1954年に渡米し、1969年に46歳でCIAに入局。日本語インストラクターとしてCIA諜報員に日本語や日本文化を教えていた人物だ。日本のメディア関係者をスパイにするための工作に関わったり、企業にCIAスパイを送り込む工作にも従事していたという。 国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、米マサチューセッツ工科大学(MIT)に安全保障問題の研究員として留学中の2015年にキヨ・ヤマダについて取材を始め、今年8月に『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した。 そこに記されているのは、1922年に東京で生まれたキヨが戦後、日本を捨てるようにしてアメリカに移り住み、CIA局員として対日工作に関わりながら2010年12月27日に88歳で他界するまでの波乱に満ちた人生だ。 山田氏はこれまでにも、CIAだけでなくイギリスやイスラエル、インドやパキスタンなど世界の諜報機関の取材を続けてきた。今回もCIAが極秘扱いにしていたキヨの身分や任務を炙り出す過程で、複数の元CIA局員から直接話を聞いたという。 取材を通して見えてきたキヨ・ヤマダという元CIA局員の姿と、現在の日米の諜報活動の実態について聞いた(Qは聞き手の質問、Aは山田氏の回答)。
・『Q:キヨ・ヤマダはどのような経緯でCIAに入ったのか。 A:キヨは戦後3年間、神奈川県藤沢市にあった湘南白百合学園で英語の臨時講師を数年務めていたが、もともと家族との関係が悪かったことと、戦前から西洋文化への憧れがあったことからフルブライト奨学生制度に応募し、合格してアメリカに留学した。 だが念願叶ってアメリカに渡ったものの、「敗戦国」から来た彼女が米空軍に勤務するアメリカ人男性と結婚して家庭に入り、夫の仕事で基地を転々とする生活が続けていくうちに自分を見失う。それでも日本で教師として培ったものを生かしてCIAに入り、アメリカに自分の居場所を探しながら生きていく』、「フルブライト奨学生制度に」合格するほど優秀だったようだ。
・『Q:彼女は日本で生まれ育ってからアメリカに渡り、CIAで働くことを決めた。そこに、「母国」を裏切っている、というような気持ちはなかったのだろうか。 A:おそらく一つ大きいのは、CIAで働くことに決めたときには日本にもう家族がいなかったということ。あと自分の取材から見えてきたのは、「日本」を過去のものとして、アメリカに渡った、というイメージだ。 実際に、母親が亡くなったという報告が来ても日本に戻らなかったし、家業を継いでくれと言われても戻らなかった。そのままアメリカで生活していくなかでだんだん自分もアメリカ人になっていくのだが、それでも自分の居場所はぐらついたままだった。 アメリカに住んだことがある人なら誰しも分かると思うが、外国人がアメリカに住むと、自分がメインストリームには入れないという疎外感がある。だから同じ人種の人たちでコミュニティーを作り、かたまりやすくなる。長く住んでいる人でもそうだ。キヨも、いつまでたっても自分の居場所がないと感じていたのではないか。 本来なら夫が自分にとって一番身近な存在であるはずだが、キヨはアメリカ人の夫が黒人を差別する姿などを目の当たりにしてきた。アメリカ人も、もともとはみな移民なので、自分たちの立場を守ろうとするあまり排他的になってしまうところがあったりするのかもしれない。そんななか、CIAのような国家の中枢機関で国策に貢献できる仕事をすることで、キヨはアメリカに自分の居場所を見つけていく。 本にも書いたが、キヨは晩年、自分の身の回りの世話をしてくれていたアイルランド人のアンジェラという女性にこう語っている。「私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの」、と。 おそらくキヨは、CIAで働くことでやっと居場所を見つけた。だから自分がしてきたことに誇りに思っていたし、晩年になって、自分がCIAで働いていたことを周囲に打ち明け始めたのだろう』、「私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの」、との述懐は、当時は真珠湾攻撃をした日本人に対する反感も強かったなかでは、痛いほどよく分かる。
・『Q:取材を始めるに当たって、キヨ・ヤマダという人物に興味があったのか、CIAに興味があったのか。 A:そもそも諜報機関に対する興味が長年あって、ずっと取材をしてきている。イギリスやイスラエルなど、現役の諜報員は難しいが、以前働いていた人などは機会があれば取材をしてきた。今は中国の諜報力がすごいという人もいるが、CIAは予算も人員も影響力も歴史も含めて大きな組織だ。特にCIAに関心を持っていたなかで、日本人でCIAに関わっていた人がいると知人から聞き、それは面白いと思った。 CIA局員は仕事柄、自分の身分も任務も周囲に明かすことはないが、キヨが日本語インストラクターをしていた当時の教え子、つまり対日工作にかかわった元スパイに話を聞けるかもしれないとなり、これはぜひ本にしたい、と思った』、守秘が厳しいCIA元局員について取材する上では、多くの困難があったのではないか。
・『Q:CIAという組織とその任務は、今も拡大しているのか。 A:実際のところの細かい人員数や予算は、機密情報なので分からないようになっている。ただおそらく、人材の質は変わっていたとしても、規模は変わっていないのではないか。いま諜報活動は過渡期にあって、デジタル化が進み、ハッキングなどが非常に重要になっている。 昔は人を尾行していたが、今はその必要もない。かつてはウォーターゲート事件じゃないが、ビルに入り込んで情報を盗むということをやっていたが、今はその必要もない。 例えば、イスラエルのネタニヤフ首相は昨年、イランが核兵器を開発していると言ってイスラエルの国防省で会見を行った。その証拠がこんなにあると、イランから盗んできたという資料を大量に提示した。たぶん盗んだものをヘリにでも乗せて逃げて来たのだろうが、今はその必要がない。 物理的に持ち出して、逃げてくるのは大変だしリスクが伴う。いかにデジタル化して盗むことができるか、という技術力のほうが今は重要になっている。スパイ活動も変わりつつある。 Q:CIAはハッカーを養成しているのか。 A:CIA専門のハッカーはいる。ハッカーなどを扱っていた元CIA幹部を知っているが、局員以外でも協力者や契約職員としてハッカーを囲っている。アメリカにはNSA(国家安全保障局)があるので、そこには米国でトップの数学者やハッカーたちが揃っている。 NSAは軍寄りなのでCIAとはあまり仲が良くないと言われるが、作戦になると一緒に活動する。例えばアフガニスタンにドローンを飛ばす指揮はCIAがとるが、どこに敵がいるかをハッキングや盗聴などで調べるのはNSAなどの組織だ。 Q:日本にCIA工作員はどれくらいいるのか。 A:分からない。だが1つだけ言えるのは、日本からも欲しい情報はあるということだ。日本の中枢にいるような人たちで、日本版の国家安全保障会議(NSC)とか、内閣情報調査室とか、ああいう情報関係の人たちはCIAとつながっているだろう。これらで働く人たちは、部下たちからすぐに情報を集められる。 情報の世界は絶対にギブ・アンド・テイクなので、ギブだけというのはあり得ない。テイクしないといけないので、おそらく日米もある程度はギブ・アンド・テイクでやっている。当然、提供できない情報はあるだろうが、日米間で「協力」というのは常にやっていると思う。 日本の場合はアメリカから情報を盗まれても致命的になるほどではないのではないか。ただ、それが経済問題や民間企業の場合は、知的財産などが盗まれることになる。例えば名古屋にもCIAの協力者が実際にいたと聞いている』、「CIAの協力者」であれば、東京には大勢いる筈だし、「名古屋」にいるのは、明らかにトヨダなどの製造業がターゲットなのだろう。
・『Q:山田さんはこれまで諜報関係者に数多く取材をしてきているが、彼らはなぜ取材に応じてくれるのか。彼らにとって、取材に応じることによる「テイク」は何か。 A:彼らが今やっている仕事にプラスになると考えているのではないか。CIAを辞めた後に民間企業に入る人はとても多い。コンサルタントのようなことをしていたり。 そういう人たちが、(記者である自分と)繋がっていたほうがいいと思うからしゃべってくれるパターンはあるだろう。もしくは、こういう話があると伝えると、ここまでだったら話してもいいと、自分との関係性の上で話してくれる人もいる。 だが今回の取材で一番大きかったのは、答えてくれた人たちがキヨのことを尊敬していた、ということだろう。キヨの人生がこういう形で、歴史には記録されないまま終わっていくということを、自分たちも同じ仕事をしているので知っている。 そんななかで、もうキヨは亡くなっているし、彼女がやってきたことを歴史の一部分として、完全に匿名でという条件でなら話してもいいと応じてくれた。彼女が生きたということを遺したいという私の意図に乗ってくれたのだと思う。 Q:CIAで働いていた日本人はキヨだけではなかったのか。 A:日本人がいたのかはわからない。日本語を教えていたのはキヨだけではなく、日系人はいた。キヨよりも後の世代の日系人で、取材に応じてくれなかった人もいた。 Q:著書の中に、CIAを養成する学校が日本にもある、というくだりがある。そこでは何人くらい養成しているのか。 A:CIA以外にも、いろいろな立場の人が入り混じっていて、何の組織かよくわからなくなっている。それ以上、詳しいことはここでは言えないが(笑)。ちなみに、日本国内の各国大使館に、それぞれの国の諜報職員を紛れ込ませているというのは有名な話だ。 Q:日本にCIAのような組織はあるのか。 A:しいて言えば内閣情報調査室だが、内調は基本的には国内のことをメインに扱っているだろう。日本の組織のなかで海外の諜報活動をしているところはほぼないと言っていい。 だが警察関係のなかに、海外に行って動いている人たちはいる。とは言えその人たちも、国外で集めているのは日本人に関する情報だ。そういうことも含めて考えれば、日本にはCIAと同じような組織はないと言える。 おそらくどこの国にもCIAのような、国外で自国の国益になるような情報を拾う、もしくは自国に危険が及ばないように情報を収集する組織はあるのだが、日本にはない。それだと日本を守れないので、日本版CIAを作った方がいいのでは、という話は政府関係者の中でも聞かれる』、在外公館にいる各省から派遣された大使館員はそれぞれ情報収集が主要任務なので、「日本版CIA」は不要だろう。
・『ただ、この取材で会った元CIA局員から面白いことを言われた。「日本はJICAってあるでしょう。あれって、ほぼCIAみたいじゃないか」と。「かなり色々な情報を収集して、政府関係者などにもかなり食い込んでいるでしょう」と言うのだ。 世界中にオフィスを持つJICA(国際協力機構)やJETRO(日本貿易振興機構)は各国で莫大な資金を使ったプロジェクトを行っているので、その国の中枢で働く人や省庁の役人たち、もっと言えば大統領などともつながることができる。信頼もされているだろうし、ああいう人たちは全部CIAにできますよね、と冗談っぽく言われた。 CIAも、局員のやっていることの多くはペーパーワークで、あとは現地のスパイたちに情報を集めさせたりしている。集まった情報を局員がまとめて上にあげる。JICAで働く人たちが既にやっているようなことだ。JICAはコバートアクションと呼ばれる秘密作戦や工作はやらないが、情報収集に関しては既に行っている。 彼らはどちらかというと現地寄りなので転換は必要だし、そもそもJICAの職員は途上国支援などといった志があるので情報収集を仕事にはしようとはしないだろうが、彼らの持っている情報網はCIAのような情報活動に近い、というとイメージしやすいかもしれない。 Q:著書の中で、日本のジャーナリストも実際にCIAにリクルートされたという話が出てくる。今でもそういうことはあるのか。 A:CIAに限らず、いるでしょうね。名前は言えないが。ただ、例えばイギリスの諜報機関が「協力者」を使う場合、使われているほうは自分が協力者に仕立て上げられていることを知らない場合がある。普通の会社員が、知らない間に諜報工作に手を貸している場合はある。 Q:山田さん自身は、リクルートされた経験はあるか。 A:一切ない。誤解されやすいのだが(笑)』、「ジャーナリスト」を「協力者に仕立て上げられている」、大いにありそうな話だ。

次に、上記に出てきた国際ジャーナリストの山田敏弘が9月28日付けNewsweek日本版に掲載した「戦後日本にCIAスパイを送り込んだ、日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/cia-25.php
・『<諜報活動という裏社会に身を投じて居場所を見出したキヨの葛藤は、現代女性にも通じるものがある> 筆者の知人が、アメリカ留学中だった10年ほど前に在米の日本人主婦らが集まった小さなホームパーティーに参加し、そこで「興味深い女性」の話を聞いたという。 その人物の名前は「キヨ・ヤマダ」。戦後間もなく渡米してアメリカ人と結婚した彼女は、その後に世界最強の諜報機関であるCIA(米中央情報局)に入局。スパイに日本語や日本文化を教えていたが、少し前に他界してワシントンのアーリントン国立墓地に眠っているらしい――そんな話だった。 この話を聞いた筆者は、キヨのことがずっと気になっていた。そしてワシントンへの出張の折、アーリントン国立墓地に立ち寄ってみたところ、肩書きに「妻」とだけ書かれたキヨの墓を発見する。そこには彼女が国家のために働いたという形跡は一つもなかった。その後、いろいろな文書などにも当たって調べてみたが、彼女のキャリアは完全に世の中から消されていた。 一体、キヨ・ヤマダとは何者なのか。彼女に対する好奇心が止まらなくなり、彼女の人生を掘り起こす取材を始めた――。 キヨが生まれたのは、1922年(大正11年)9月29日。東京市深川区深川東大工町(現在の江東区白河)に暮らす非常に裕福な家庭に、3人きょうだいの末っ子として生まれた。幼稚園から東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水大学)付属に通うような裕福な家庭に育ちながらも、封建的な社会制度のなかで家庭内の居場所を探し続けた。そんな中で、キヨは英語などの教育専門家となる目標を見据え、海外留学を目指す。日米の間に立ち、架け橋になりたいと考えていたという。 そして戦時中に、東京女子大学や東北大学、東京文理科大学(現在の筑波大学)で学んだ後、湘南白百合学園で英語教師を経験。程なく奨学金を得て、ミシガン大学の大学院で英語教育を学ぶために渡米する』、「アーリントン国立墓地」に埋葬されるとはやはりCIAの活動が高く評価されたのだろう。墓碑に「「妻」とだけ書かれた」、のはCIA局員の宿命だろう。
・『だが大学院卒業後は、米兵と結婚。アメリカやドイツなど各地を転々とする生活を続け、46歳まで専業主婦として軍人の夫を支えた。ただ彼女の気持ちの中で、キャリアを目指す思いは消えてはいなかった。そしてその年齢で、ふとしたきっかけからCIAに入局することになる。 CIAでは日本に送られる諜報員を養成する言語インストラクターとして働いた。その一方で、日米を頻繁に行き来しながら、工作活動やリクルート活動にも深く関与していた。 日本人であるキヨは、CIAで対日工作を行うことに、罪悪感はなかったのか。新著『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社刊)では、キヨのこんな心情を紹介した。 「キヨは晩年、アイルランド人のアンジェラに、過去のいろいろな話をした。アンジェラによれば、キヨはあるときこんなことを言ったという。『私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの』」 戦後の日本を抜け出し、アメリカ暮らしとなった彼女が見つけた安息の地はそこにしかなかったのだろう。そしてCIA退官時にはメダルを得て表彰されるほどの実績を残している。彼女にとってCIAが唯一の輝ける場所だったのかもしれない。 表向きには消されてしまった彼女の人生には、戦後を駆け抜け、アメリカに居場所を見出し、諜報活動という裏社会に身を投じた日本人女性の物語があった。キャリアや結婚に思い悩みながら生き方を模索したキヨの葛藤は、女性がキャリアの様々な局面で障害に直面する今の時代にも通じるものがあるのではないだろうか』、「彼女にとってCIAが唯一の輝ける場所だったのかもしれない」、苦労もあっただろうが、「輝ける場所」があったというのは幸せなことなのではなかろうか。それにしても、凄いスーパーウーマンがいたものだ。

第三に、ジャーナリスト、編集者の大塚 玲子氏が12月8日付け東洋経済オンラインに掲載した「28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/318225
・『中国残留孤児――太平洋戦争が終わったとき、当時の国策により満州に渡っていた日本人たちが命からがら帰国する際、やむなく現地にのこしてきた子どもたちのことです。その多くは、中国人の養父母に育てられました。 日中の国交が回復した1972年以降、徐々に引き揚げが進み、これまで約6700人の孤児・婦人等(家族も含むと約2万1000人)が帰国していますが、日本に帰ったのちも困難は続きました。多くの人が中国語しか話せず、日本の文化にもなじみがないため、大変な苦労をすることになったのです。(厚生労働省「中国残留邦人の状況」より) 「中国残留孤児だった祖母とともに、5歳のときに日本に来た」と連絡をくれたのは、28歳の女性、荻原むつきさん(仮名)でした。祖母が当事者ですから、むつきさんは「中国残留孤児3世」ということになります。 当たり前のことですが、彼女の見た目から、その希有な身の上は想像もつきません。むつきさんは日本に来て、どんな子ども時代を過ごしてきたのでしょうか』、「中国残留孤児」の問題は戦争が残した深刻な爪痕だ。
・『2間に8人、祖父母に育てられた  いったん、歴史を遡ります。祖母は終戦時、中国北東部の村で、比較的裕福な家に引き取られました。よほど能力が高かったのでしょう、大人になってからは、当時女性ではかなり少なかったであろう、ある専門職に就いていました。 祖母が自分が残留孤児であることを知ったのは、結婚したときでした。育ての親から渡された書類には日本の苗字が書かれていましたが、両親がどこにいるかはわからなかったそう。出身地は九州だろうと政府からは伝えられたものの、結局いくら探しても親族を見つけることはできませんでした。 日本に戻ったのは60歳近くなってからです。支援法が整備され、日本政府がいよいよ本格的に調査に乗り出したことがきっかけでした。祖母には「日本で子どもや孫を生活させたほうが、将来的にいいのではないか」という思いもあったといいます。 1996年、日本での生活は、2間の住まいで始まりました。同居したのは、祖母と祖父、父の姉夫婦とその子ども、むつきさんと父親、父の弟の計8人。夜は「布団をぎっしり敷いて」寝ていたそう』、生活保護や公営住宅への斡旋はなかったのだろうか。
・『むつきさんが幼い頃に両親は離婚しており、彼女は祖父母に育てられていました。しかし小学校に入るとき、父の姉一家が別の住まいに移ることになり、むつきさんも姉一家と共に暮らすことになります。慣れない生活の中、いとこ同士で同じ学校に通わせたほうが子どもたちにとっていいだろうと、大人たちが判断したのです。 この暮らしは、むつきさんにとって「あまりよくない」ものでした。優しい彼女は言葉を選びましたが、伯母は言葉がきつい人物で、勉強ができる自分の子どもたちとむつきさんをいつも比べたため、ストレスから彼女は夜尿症になってしまいました。 祖父母の元に戻れたのは、小学校3年のときでした。きっかけの1つは「シャチハタ」です。彼女が家にあったシャチハタを見つけ、外に持ち出して遊んでいたところ、「泥棒が入ったんじゃないか」と騒ぎになってしまったのです。言い出せずにいたところを見つかり、ひどく怒られましたが、おかげで祖父母の元に帰れたのでした。 伯母も「日本に来て言葉も通じない、お金もなくテンパっている時期に、弟の子どもの面倒まで見なきゃいけないという状況」で、大変だったろうとむつきさんは言いますが、大人にあたられる子どもだって大変です。 なお、家の中では彼女もいとこも中国語のみの生活をしていましたが、小学校で日本語のみの環境におかれたため(初めはサポート授業も受けられたそう)、2人とも比較的早く、日本語を使えるようになったということです』、「ストレスから彼女は夜尿症になってしまいました」、ありそうな話だ。
・『公立中学入学に8万、つたない日本語で抗議した祖母  元の住まいに戻ってからは、祖父母や叔父と一緒に、公園などに捨てられている電化製品などを拾いにいったことを覚えています。初めはとくにおかしなことと思わなかったのですが、学校で「昨日、テレビを拾った」と話した際の友人たちの反応から、「恥ずかしいことらしい」と学び、それからは「家族の後ろをついて歩くだけ」になったといいます。 それでも当時、自分の家が貧しいという実感はありませんでした。家にモノはありませんでしたが、祖母は「食べものには絶対に困らせない」という考えをもっていたため、「ご飯でひもじい思いをしたことは全然なかった」からです。小学校の友達もみんな仲がよく、いじめられるようなこともありませんでした。 初めて「うちにはお金がないんだ」と自覚したのは、中学に入るときでした。日本の中学校は義務教育でありながら、入学前に制服や体操服、指定のカバンなどを買いそろえなければならず、これがとても高いのです。 店の人から計約8万円を請求され、祖母はつたない日本語で「高いよ、払えないよ」と抗議しましたが、当然値引きはしてもらえません。むつきさんは試着室に立ち「このやり取りを、ただ申し訳なく見ていた」そう。帰り道、祖母は泣いていました。 最近は就学援助制度(経済的に厳しい家庭に、義務教育に必要な費用の一部を自治体が援助するもの)がようやく周知されてきましたが、15年前当時、日本語がわからない祖母には、情報が行き届いていなかったのでしょう。 しかし就学援助の制度があるにしても、憲法で「無償」とうたわれる義務教育において、これほどの私費負担を求めるというのは、どうなのか?ずっと日本で暮らしてきた筆者でも、疑問に感じます。筆者も数年前、子どもの制服その他一式を購入したときは、「高いですね……」と口にせずにいられませんでした。 むつきさんが最もつらかったのは、中学3年のときでした。祖父が病気になり、手術のため祖父母が一時的に中国に戻ることになり、その間、再び伯母の元で暮らすことになってしまったのです。 叔母の家で、彼女はいつも息苦しさを感じていました。学校から帰り、家のドアを開けるときはいつも、「今日は怒られませんように、と祈る気持ち」だったといいます』、「就学援助制度・・・15年前当時、日本語がわからない祖母には、情報が行き届いていなかったのでしょう」、行政ももっと踏み込んだ支援をする必要がありそうだ。
・『何よりつらかった「だから、あなたも同じ」という言葉  しかしある日、事件は起きました。携帯電話の利用料金が、伯母に決められた額を大幅に超えてしまったのです。当時、中学生にはよくあることかもしれませんが、「グループ内で順番にハブられる」ような状況があったため、彼女も仲間の中でそれなりの位置をキープするのに、当時全盛だったプリクラ代(携帯に画像保存するための利用料)などを出す必要があったのです。 伯母の怒りは、凄まじいものでした。謝っても許されず、追い詰められた彼女は近くにあった棒で自分の手を滅多打ちにしましたが、伯母の怒りはまだおさまりません。離れて暮らしていたむつきさんの父親が、窃盗事件に加担して捕まっていることを突然明かし、「だから、あなたもそうなんだ」と言ったのでした。 父親が罪を犯して捕まっている――それだけでもショックなのに、「だからあなたも同じ」と言われ、どれほど傷つき、悔しい思いをしたか。むつきさんは時折苦笑しながら、でもぽろぽろと涙をこぼし、言葉を詰まらせながら、話してくれました。 一家は来日当初、生活保護を受けて暮らしていましたが、伯母は人一倍努力家で、一族の中で誰より早く生活保護を抜け出し、高額納税者となっていました。そんな伯母にとって、弟の犯罪は許しがたいものだったのでしょう。でも、娘であるむつきさんと無関係であることは、説明するまでもありません。 高校に入ると同時に、むつきさんはめでたく、祖父母の家に戻ります。それからは、学校とアルバイトに明け暮れる日々でした。土日は必ず丸一日、平日も夕方からファストフード店で働いて、月20万円近く稼いでいたといいます。 インターネットが広まったおかげで、幼い頃に父と離婚した母親といつでも話せるようになったのも、うれしいことでした。それまでは数年に1度、夏休みを北京で暮らす母親の元で過ごしていたのですが、高2の頃からはSkypeで大好きな母親と好きなときに話ができるようになり、「精神的にも安定した」のでした』、「Skype」はこうした親子には必須のものだろう。
・『大切なことはみなアルバイトが教えてくれた  英語が得意になったのは、アルバイト先で受けた英語の接客研修がきっかけでした。なんとか例文を覚えようと、携帯でいろいろ調べていくうちに、学校で教わってきた英語と、実際に使う英語がつながったのでしょう。「ああ、そういうことなんだ!」とわかるようになり、以来「英語の成績だけ、すごくよくなった」のです。 バイト先の人たちからも、たくさんのことを教わりました。専門学校生のバイト仲間や、契約社員のお姉さん、店長のおじさんなどからはよく、「将来のことを考えて、今のうちから頑張って」と励まされました。他方では、一流大学の学生たちが「遊び感覚で」アルバイトに来ていたことも、彼女に現実を見据えさせる一因となったようです。 大学は、思い切ってアメリカの州立大学に留学しました。初めは母親のいる中国に留学しようと考えていたのですが、たまたま足を運んだ説明会で奨学金制度があることを知り、アルバイトで貯めたお金でなんとかできそうだとわかったからです。 とはいえ、4年も大学に行くお金はありませんでした。そこでなんとか3年で卒業すべく、ひたすら勉強をして単位を取りまくり、「胃潰瘍になって『もう死ぬ』みたいな感じ」で、日本に帰ってきたということです。 就職は、すぐには決まりませんでした。2012年当時、大卒の就職率は低迷しており、100社に履歴書を送りましたが、すべて不採用とされてしまいます。時々キャバクラで働きつつ就職活動を続けていたところ、2012年5月からようやく、外資系のIT企業で働けることになりました。この会社でキャリアを積んだ彼女は、その後2度、管理職として転職して現在に至ります。 言葉の壁からなかなか定職に就けなかった父親も、ここ数年は事業が軌道に乗り、再婚相手の女性とともに、日々忙しく働いているということです。ちなみにむつきさんは、この父親の再婚相手の女性――「2ママ」(2番目のママ)と呼んでいる――とも仲がよく、また1ママ(北京にいる父親の前妻)と2ママも、非常に仲がいいということです』、「アメリカの州立大学に留学」、「3年で卒業すべく、ひたすら勉強をして単位を取りまくり、「胃潰瘍になって『もう死ぬ』みたいな感じ」で、日本に帰ってきた」、とは大したものだ。
・『「2つの文化」のせめぎ合いを経験する子どもたち  いま日本では外国人の雇用が増え、親に連れられて来日する子どもがとても増えています。これまでの言語が通じない国で、環境変化に戸惑う子どもたちに、何かアドバイスできることはあるか?と尋ねると、彼女はこんな話をしてくれました。 「自分がこれまで持っていた文化と、日本の文化がぶつかり合うときって、必ずあると思うんです。とくに子どもの場合、家ではこれまでの文化、学校では日本の文化に接するから、両者がせめぎ合って、結構悩ましいと思う。挟まれていると、つらくて逃げたくなるんです。学校に行きたくなくなったり、逆に、家族と話したくなくなったりする。 そういうときには、『自分はこうする』と選択をして、かつそれを言葉にしていくことが大事だと思います。『私はこうする』と自分にも周囲にも宣言することで、どちらにも流されないようにできると思うので」 そしてもう1つ、「2つ以上の文化やルーツをもつのは、決して悪いことではなく、自分の人生をさらに豊かにできるすごいことなんだ」ということも、伝えたいそう。 例えば、今むつきさんは「赤」という色が大好きですが、高校生の頃まではずっと「なんとなく避ける色」だったといいます。赤は中国の国旗やお祝い事などに必ず使われる、象徴的な色ですが、彼女は高校生の頃まで「日本に育ったのだから日本人でなくてはいけない」という意識が強かったため、赤を避けていたのです。 しかしその後、アメリカの大学に進学し、さまざまなバックグラウンドをもつ人と交流する中で、むつきさんは中国と日本という2つのルーツをもつ自分を肯定できるようになりました。そこでようやく「赤を好きな自分」を許せるようになったのでしょう。 2つの文化がせめぎ合ったときは、どちらか一方を否定するのでなく「両方いいじゃない」と肯定できるといいのでは。そのうえで「自分が何を選択するか」を、都度決められるといいのかな、というふうに筆者は受け止めました』、その通りだろう。ただ、肝心の「残留孤児」一世の祖母が記事の中心ではなく、中国に戻ってしまったので、残留孤児そのものの苦労が取上げられてないのが残念ではある。
タグ:「2つの文化」のせめぎ合いを経験する子どもたち 大切なことはみなアルバイトが教えてくれた 何よりつらかった「だから、あなたも同じ」という言葉 公立中学入学に8万、つたない日本語で抗議した祖母 2間に8人、祖父母に育てられた 中国残留孤児だった祖母とともに、5歳のときに日本に来た」と連絡をくれたのは、28歳の女性、荻原むつきさん 「28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした」 東洋経済オンライン 大塚 玲子 奨学金を得て、ミシガン大学の大学院で英語教育を学ぶために渡米する 「妻」とだけ書かれたキヨの墓 アーリントン国立墓地 「戦後日本にCIAスパイを送り込んだ、日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命」 日本版CIAを作った方がいいのでは、という話は政府関係者の中でも聞かれる 名古屋にもCIAの協力者が実際にいた 諜報活動は過渡期にあって、デジタル化が進み、ハッキングなどが非常に重要になっている CIA局員は仕事柄、自分の身分も任務も周囲に明かすことはない 「私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの」 CIAのような国家の中枢機関で国策に貢献できる仕事をすることで、キヨはアメリカに自分の居場所を見つけていく 外国人がアメリカに住むと、自分がメインストリームには入れないという疎外感がある 日本のメディア関係者をスパイにするための工作に関わったり、企業にCIAスパイを送り込む工作にも従事していた 日本語インストラクターとしてCIA諜報員に日本語や日本文化を教えていた人物 1954年に渡米し、1969年に46歳でCIAに入局 歴史問題 (10)(元CIA局員たちへの取材で炙り出された 日米の諜報活動の実態、戦後日本にCIAスパイを送り込んだ 日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命、28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした) Newsweek日本版 山田敏弘 「元CIA局員たちへの取材で炙り出された、日米の諜報活動の実態」 キヨ・ヤマダ 『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』
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