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随筆(その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに) [文化]

随筆については、1月18日に取上げた。今日は、(その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに)である。

先ずは、1月12日付け現代ビジネス「養老孟司「おもしろい発見」が生まれる、記録のススメ 人生最高の10冊」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69514
・『飼い犬のごまかし  まず、動物を題材にした面白い本ということで、『人イヌにあう』を紹介します。 著者のローレンツは「動物行動学」という動物の行動を研究する学問を切り開いた人物で、ノーベル生理学医学賞も受賞しています。これは研究書ではなく、身近な犬を題材にしたエッセイですが、さすがの観察眼というか、面白い発見がたくさんあるのです。 ローレンツの飼っている犬が、彼が帰ってきたら変なやつが侵入してきたと吠え出した。少し近づいたら、主人だと気づいて、今度は全然関係ない方向に吠えた。つまり、別な人に吠えていたんだという、ごまかしをしているわけです。犬にもこんな側面があるんだと、笑いながらその内容の豊かさに驚かされます。 『ファーブル昆虫記』は言わずと知れた虫の観察記録です。まず、単純な虫の習性に魅了されます。ひとつはタマオシコガネ。糞を丸めるという習性があるんですけど、そのきれいな丸さにびっくりします。ほとんど芸術に近い。そういった驚きには事欠きません。 「記録する」ことの重要性も痛感させられます。日本人はよく日記や手記を書きます。たとえば戦争で、兵士の遺体から日々を綴ったメモが出てきたりもする。ただ、「記録する」ことは、日本人はうまくない。事実の記述よりも、まず感想が先に来るんです。 欧米圏では、より記録が重視されます。それは民族というより言語の問題ですけど、この本には「記録」の面白さがたくさんあります。 ファーブル自身もまさに「記録」の人で、一日中、畑のわきでずっとハチを見ている。朝、近所のおばさんたちがそばを通って、夕方に戻ってきてもまだ見ていて、笑われたりもする。そんなファーブルだからこそ発見できたものの大きさを実感します』、「飼い犬のごまかし」には微笑んでしまった。犬は自尊心が強いので、大いにありそうなことだ。「欧米圏では、より記録が重視されます。それは民族というより言語の問題ですけど」、「民族というより言語の問題」、やや抽象的過ぎて、分かり難い。
・『脳みそが騙される  『脳のなかの幽霊』は脳の仕組みや働きについて探求する一冊です。ひとつには幻肢痛です。たとえば、事故や戦争でなくした手の「痛み」を訴える患者さんがいます。問題は脳にあります。 実際に手がなくなっていても、脳のデータには手が残っていて、混乱が起こる。脳は面白いことに、自分の具合がおかしいという信号を出せず、なくなったはずの手が「痛い」という信号を出すんです。 では、治療のためにはどうすればいいか。この本で書かれているのは、患者さんの残っている手を、ある箱に入れて動かしてもらう方法です。 中に鏡があって、手がふたつあるように見える。つまり、両手があって動いているように見えるのですが、脳はこれで安心し、不調がおさまるのです。単純なようで意外な発見が、この本にはたくさん詰まっています。 『夜と霧』は精神科医のフランクルが、自らのナチス強制収容所体験を綴った一冊です。文字通り、想像を絶する体験でした。フランクルは奥さんや子ども、両親を失い、また自身もいつ死んでもおかしくないような状況にさらされます。 しかし、『夜と霧』は単に戦争の悲劇について語る作品ではありません。人間そのものについての思索を巡らせる作品なんです。 何の理由もなく収容所に放り込まれて、毎日のようにまわりの人が殺されていく。なぜ、監督官たちはこのような残忍な仕打ちを平気でできるのか。収容者たちはなぜ死ななければならないのか。ひいては、なぜ人間はこの世界に存在するのか。 極限の状況だからこそ、問いかけは真摯で切実なものにならざるを得ない。その書き手の真摯さ、またそこから生み出された思惟の深さに打たれるんですね。 『モモ』は「時間が奪われる」ことをテーマとしたファンタジーです。時間をきっかけにして、本当の豊かさとは何かについて論じている。この本は、今だからこそ響くものがあると思います。 今は、「現在」はあっても「未来」がない。半年後までにこの仕事を終わらせるとか、現在の延長線上で先のことをとらえていて、不確かな、だからこそ豊かな「未来」がなくなっているんです。 特に子どもへの影響は大きい。いい学校に行くために予定をぎっちり決めるとか、これからの豊富な「不確かさ」こそが子どもにとって最大の財産なのに、それが奪われている。 本作では、奪われた時間を取り戻すのがモモという大人の論理に染まっていない少女なんですが、そのことも象徴的だと思います。 本は、机に向かってではなく、電車での移動中とか、暇つぶしに読みます。ただ、これまでずっとそばにいたという意味では、やはり私の人生のかけがえのない友ですね』、「幻肢痛」は知っていたが、治療方法は知らなかった。ただ、二回目、三回目となると、「脳みそが騙され」なくなるのではなかろうか。『夜と霧』は、子供時代に映画で観て、ショックを受けた記憶がある。
・『養老孟司さんのベスト10冊
第1位『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房 1500円 「フランクルは、他者が“生きる意義”を見つけることへの手伝いに、自分の使命を見出した人であると感じています」
第2位『人イヌにあう』コンラート・ローレンツ著 小原秀雄訳 ハヤカワ文庫NF 800円 「犬に対する、動物学的な考察の深さはもちろん、ローレンツの犬に対する愛情の深さにも心を打たれる一冊です」
第3位『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー著 山下篤子訳 角川文庫 920円 「脳は、自分の不調を体のほかの部分のせいにする。たとえば腰痛も、多くは脳が原因であると言われています」
第4位『完訳 ファーブル昆虫記』(全20冊)ジャン=アンリ・ファーブル著 奥本大三郎訳 集英社 3600円(第一巻・上) 「SNS時代ではみんな“感想”を口にするけど、まず“記録”の大切さをここで学んでほしい」
第5位『積みすぎた箱舟』ジェラルド・ダレル著 セイバイン・バウアー画 羽田節子訳 福音館文庫 入手は古書のみ さまざまな苦難と驚きに満ちた、英領時代のカメルーンにおける野生動物収集の記録
第6位『モモ』ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳 岩波少年文庫 800円 少女モモと時間泥棒との戦い。「“不確かさ”を愛することの喜びと意義を教えられます」
第7位『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』オリヴァー・サックス著 吉田利子訳 ハヤカワ文庫NF 940円 「脳神経科医の著者と個性的な患者たち。色覚異常の画家のエピソードは特に面白い」
第8位『呪われた町』(上・下巻)スティーヴン・キング著 永井淳訳 集英社文庫 入手は古書のみ 「キングの初期のヒット作。まだ作風は確立していない頃ですが、これも十分に怖い」
第9位『めぞん一刻』(全10巻)高橋留美子著 小学館文庫 各600円 「ノスタルジック。'80年代の下宿が持っていた、人情味あふれる感じがよく出ています」
第10位『イタリアン・シューズ』ヘニング・マンケル著 柳沢由実子訳 東京創元社 1900円 「人生のどこかで、必ず過去のつけは回ってくる。なかなか“世捨て人”にはなれません」
さすが養老先生が選んだだけあって、濃い内容のものばかりのようだ。図書館で借りて読んでみたい。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が2月14日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「「はまらなかった」ピースの悲しみに」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00057/?P=1
・『先週末以来、体調がよろしくない。定期的な治療を受ける身になってみると、投薬のタイミングやら検査のあれこれでカラダのコンディションが変わりやすくなる。と、その変化に呼応して、気分や人生観がわりとカジュアルに変わってしまう。これはもう、どうすることもできない。 そんなわけで、病を得てからこっち、自分が、思考の主体である前に、まず生き物であるという事実に直面している次第だ。 生き物である限りにおいて、ものの考え方や感じ方は、外的な客観状況よりは、ほかならぬ自分自身の健康状態や体調に、より端的に左右される。そういう意味で、いま私がとらわれている憂悶は、あまりマトモに取り合うべきではないのだろうとも思っている。 とはいえ、本人にしてみれば、アタマで思うことよりはカラダで感じることのほうが切実でもあれば現実的でもあるわけで、ということはつまり、うんざりした気分の時に、啓発的な原稿を書くみたいなうさんくさい仕事ぶりは、技術的に困難である以上に、作業として胸糞が悪いので、取り組む気持ちになれない。 週に一遍やってくる原稿執筆の機会を、私は、客観的であることよりは正直であることに重心を置きつつ、粛々とこなしていきたいと考えている。ありていに言えば、気分次第で書きっぷりが変わってしまうことを、自分の側からコントロールするつもりはないということだ。 コラムニストは、エビデンスやファクトを材料に思考を積み上げて行くタイプの書き手ではない。 別の言い方をすれば、私の文章は、私の思想や信条よりも、より多く気分や感情を反映しているということでもある。読者には、ぜひそこのところを勘案してほしいと思っている。 「ああ、オダジマは機嫌が良くないのだな」と思ってもらえれば半分は真意が伝わったことになる。 残りの半分はどうでもよいといえばどうでもよろしい。蛇足の残余のおまけの付け足しに過ぎない。 先週末にまず私を失望させたのは、7月に開幕する東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を委ねられている狂言師の野村萬斎氏が、五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏を採用しない旨を発表したニュースだった。 思うに、これは、単に演出上の制約からアイヌの伝統舞踏をプログラムに組み入れることができなかったという筋のお話ではない。 そもそも、アイヌの踊りを開会式の舞台に推す声は、インスタ映えや演出効果とは別次元の要望だ。 アイヌ舞踏の開会式プログラムへの編入は、朝日新聞が3月3日に配信した記事(「五輪開会式でアイヌの踊りを『オリパラ精神にかなう』」で紹介している通り、 《リオデジャネイロやシドニー、バンクーバーなど過去の五輪では先住民が開会式に登場した。》というこれまでの国際社会の取り組みを踏まえた、先住民としての自覚の反映だったといってよい』、当初、「五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏」を使おうとしたのは、誰のアイデアだったのだろう。「過去の五輪では先住民が開会式に登場した」、ので今回もとなったのだろうか。
・『そのアイヌの人々の思いを 「はまらなかった」という浅薄きわまりないコメントとともに不採用とした野村萬斎氏の判断に、私は、失望以前に、ほとほとあきれ返った。 なぜというに、 「はまらなかった」という説明は、説明ではなくて、説明放棄だからだ。 これは、期限内にリポートを提出できなかった学生が、書けなかった理由を質す声に対して 「書けなかった」と回答したに等しい捨て台詞だ。 事情を説明するつもりなら、書けなかった理由を明らかにしなければならない。 「病気で寝ていた」でもよいし、 「実家で不幸があって忙殺されていた」でもかまわない。 とにかく、結果としてリポート不提出の事態に至った理由を相手に伝えないと、誠実に説明をしたことにはならない。 ところが、野村萬斎氏は 「はまらなかった」と言って、それ以上の言及をしていない。これでは 「やる気が出なかった」「どうでもよいと思ったので別段の努力はしなかった」「めんどうくさかったので放置した」と言っているのとなにも変わらない。 このコメントから伝わってくるのは、野村萬斎氏にとって、アイヌの人々の要望が、取るに足らない些事に過ぎなかったのだろうということだけだ。 で、私は、Asahi.comの記事を読んだ直後に 《これ、演出的にはまらなかったのではなくて、「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった、ということではないのだろうか。 五輪開会式、アイヌ舞踊は不採用「はまらなかった」:朝日新聞デジタル - 2020年2月8日0時34分》 《「アイヌ利権」がどうしたとかいったお話を大真面目な顔で拡散しにやってくるアカウントが大量発生しているところから見ても、「はまらなかった」のは、演出上の理由というよりは、政治的な判断だったのだろうね。震災からこっちのたった10年ほどの間に、本当にバカな国になってしまったものだよ。- 2020年2月8日午後2時5分》 《文化的な多様性に配慮しつつアイヌの踊りを「はまるように」演出する力量がないのなら、あるいは、圧力をはねかえすだけの覚悟を持っていないのであれば、はじめから引き受けるべきではなかったのではないか。結果として、少なからぬ人々を失望させ、自分自身も恥をかくことになった。 - 2020年2月8日午後5:20》 という3つのtwを連投した』、「「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった」、などのtwはいい線を突いているようだ。
・『ちなみに、上記tw内で引用した、 「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」という麻生太郎副総理兼財務大臣による発言は、後に「お詫びのうえ訂正」されている。 しかし、この時の「お詫び&訂正」は、例によって 「誤解が生じているのならお詫びのうえ訂正する」 という文言を伴ったものだった。 この謝罪マナーは、現政権の閣僚が、失言をした時の毎度お約束の弁明のパターンで、要するに、麻生さんは、マトモに謝ってはいない。というのも、この謝罪語法 「誤解が生じているのなら」という IF~THEN の条件構文を踏まえた、「条件付きの謝罪」に過ぎないからだ。 それ以上に、この言い方は、「誤解」という言葉を持ち出すことによって、暴言被害の原因を被害者の側の読解力の不足に帰責している。言ってみれば 「オレの側には、悪意もなければ差別の意図もなかったわけなんだが、頭の悪いテレビ視聴者や被害妄想にとらわれた一部の新聞読者が記事をヨメば、その文言の中から差別的なニュアンスを嗅ぎ取ることもあり得るので、ここは一番オトコギを出して謝罪してやることにするぞ」と開き直った形だ。 麻生さんの歴史歪曲コメントの真の問題点は、言葉の選び方の無神経さや不適切さで説明のつく話ではない。 「誤解」がどうしたとかいった、コミュニケーション過程で発生した不具合の問題でもない。 麻生さんの発言が問題視され、人々を傷つけ、失望させ、憤らせたのは、彼の思想そのものが差別的で、その歴史理解が根本的な次元において完全に間違っているからだ。ここのところを率直に認めて、自分の言葉で正確に訂正したうえで、今後の生き方をあらためる旨の決意表明とワンセットで謝罪するのでなければ、本当の謝罪にはならない。 ところが、麻生さんは、こころもちふんぞりかえった姿勢で誤解した人間の理解力の貧困を嘲笑してみせたのみで、きちんとした謝罪の態度はいまだに示していない。メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない。 さて、野村萬斎氏が開会式にアイヌ舞踏を採用しない旨を述べた記事が公開されて間もなく、五輪組織委が開閉会式の選手入場時にグラウンドで選手らの出迎えや誘導を行う「アシスタントキャスト」を延べ2200人募集する旨を発表したという記事を確認した。 記事は、野村萬斎氏のコメントとして 《開閉会式の演出を統括する狂言師の野村萬斎さんは「多くの人に参画して頂き、未来につなげていく。個人主義が増える中で、多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」と役割を説明。開閉会式の準備については「骨格はできている。7、8合目までいっているのでは」と述べた。》というやり取りを紹介している。 このコメントにもあきれた』、「メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない」、その通りだ。安部首相も最近は謝罪を一切せずに逃げ回っているようだ。
・『なので 《「個人主義が増える中で、多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」という野村萬斎氏のコメントの意図が心底から理解できない。「多種多様」な世界や生き方を許容するのがつまりは「個人主義」なんじゃないの? 違うの? 「滅私奉公」が多様な世界なわけ - 2020年2月9日午後3時18分》 《「多種多様な世界」てなことを言っておけばとりあえず「動員」臭を緩和できると思ってるとしか思えない。 - 2020年2月9日午後3時21分》 《だからこそ、一方の口で「多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」と言っておきながら、別の口で「個人主義が広がっているなかで」てな調子で、「個人主義」をやんわりとディスることが可能なのだね。- 2020年2月9日午後3時23分》 《五輪に関係している人たちは、なぜなのか、ことあるごとに「個人主義」への疑義を表明しがたる。もしかするとオリンピックへの熱狂を演出しようとしている人たちの心底には、この国に個人主義が蔓延することへの危機感があらかじめ共有されているということなのだろうか。- 2020年2月9日午後3時35分》 という、4つのtwを連投した。 いまさら申すまでもないことだが、アイヌの伝統舞踏を開会式のプログラムから排除することは、普通に考えて「多種多様な世界をみんなで受け止める」態度とは、正反対のスタンスだ。 ところが、野村萬斎氏のアタマの中では、これらが矛盾しない。 というのも、彼にとっての「多種多様な世界」は、「世界中の様々な国から様々な文化を背負った多様な人々がやってくること」を意味していて、それは、「一つに団結した、単一の文化と歴史と民族と王朝を2000年にわたって持ちこたえてきた私たちのニッポン」とは、対極に位置する、まったく別の概念だからだ。 それゆえ、多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる。 書いていて気持ちが萎えてきた。 たぶん、わたくしども日本人は、たやすく一つになることだろう。 そういう時、典型的な日本人と見なされない日本人は、「はまらなかった」という言葉とともに、冷たく排除されることになるはずだ。 私自身、はまることができるものなのかどうか、自分を疑っている。 私はつぶされるかもしれない』、「多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる」、ズバリ本質を突いた鋭い指摘だ。
・『もう一つがっかりしたのは、野村萬斎氏が政権中枢の人々に媚びる文脈の中で個人主義を腐してみせたコメントについて、古典文学や古典芸能にたずさわっている有識者が、一人として抗議の声を上げていない(←私の観察範囲では)ことだ。 お国の補助金で食いつないでいる古典業界(←あえて「業界」という言葉を使わせてもらうことにしました)の人々にとって、政権批判はご法度だと、そういうことなのかと思うと、なんだか生きているのがめんどうくさくなってくる。 実際、ツイッターの中でも、ふだんから古典の話ばかりしているアカウントは、絶対に政治的だったり党派的だったりする話題には絡もうとしない。 つまり、それが彼らの処世なのだね。 古典びいきだから事なかれ主義に終始しているのではなくて、むしろ、論争的で政治的で物議をかもしがちな話題や、現実的で生臭くて世俗的で面倒でアクチュアルな出来事や考え方とは距離を置いて、ひたすらに王朝的で貴族的で浮世離れした、優雅で高踏的な要素に逃避することを願っているからこそ、古典の花園に逃げ込んでいると、そういうことなわけだ。 不機嫌な結論になった。 個人的には、ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだニュースにも毒気を抜かれた。 がっかりしたとか失望したよりも、自分がかねがね抱いていた疑念が、あまりにもドンピシャリに正鵠を射ていたことに茫然自失している。 なんでも、ツイッタージャパンと手に手をとってメディア・リテラシー向上のために活動していく旨を宣言している日本青年会議所が、メディア・リテラシーの啓発を目的として始めたツイッターアカウントは、早速、ジャーナリストの津田大介氏が「発狂している」旨を投稿したのだそうだ。 コメントする気力も湧かない。 本来なら、ツイッターのようなメディアは、多様性と個人主義に足場を置いているということになっている。 それが、どういうことなのか、愚かで短絡的な人たちの玩具になりさがろうとしている。 私個人としては、いまさら発狂する年齢でもないので、身の振り方を真剣に考えなければいけないのだろうと思っている。 「はまらなかった」てなことで、黙って消える末路も覚悟しておかねばならない。 まとまらない原稿になってしまった。 読者にはすまなかったと思っている。 もしかすると、私の書き方が断片的になっているのは、この数年来のツイッター依存と関係があるのかもしれない。 そういう意味では、いっそ縁を切るのも悪くない選択だ。 自分自身の人格が多種多様になっているようなら、そりゃ発狂かもしれないわけだから』、「ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだ」、私も驚かされたが、ツイッタージャパン社がこの程度のものだったと知って、ガッカリした。
タグ:随筆 日経ビジネスオンライン 現代ビジネス 小田嶋 隆 (その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに) 「養老孟司「おもしろい発見」が生まれる、記録のススメ 人生最高の10冊」 飼い犬のごまかし 脳みそが騙される 養老孟司さんのベスト10冊 「「はまらなかった」ピースの悲しみに」 野村萬斎氏が、五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏を採用しない旨を発表したニュース これ、演出的にはまらなかったのではなくて、「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった、ということではないのだろうか メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない 多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだ
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