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パンデミック(新型肺炎感染急拡大)(その3)(全国民困惑の休校要請 場当たり的で五月雨式の極み 新型コロナの感染拡大は安倍政権の弔鐘となってしまうのか、コロナ対応で決定的に ネット民の「安倍離れ」が進んでいる、専門家を軽視し 不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと 「不安の政治化」とは何か、小田嶋氏:人の不安を笑うな) [国内政治]

パンデミック(新型肺炎感染急拡大)については、2月18日に取上げたばかりだが、事態の急速な展開を受け、今日も、(その3)(全国民困惑の休校要請 場当たり的で五月雨式の極み 新型コロナの感染拡大は安倍政権の弔鐘となってしまうのか、コロナ対応で決定的に ネット民の「安倍離れ」が進んでいる、専門家を軽視し 不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと 「不安の政治化」とは何か、小田嶋氏:人の不安を笑うな)である。

先ずは、国際政治学者の舛添 要一氏が2月28日付けJBPressに掲載した「全国民困惑の休校要請、場当たり的で五月雨式の極み 新型コロナの感染拡大は安倍政権の弔鐘となってしまうのか」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59515
・『まったくなっていない。新型コロナウイルスの感染に対する政府の対応は、後手後手である。 専門家会議が設置されたのが2月14日であるが、前日に神奈川県の80代の女性が新型肺炎で死亡しており、それで慌ててこしらえたような感じであった。初会合は2月16日。この時点ですでに、日本で初めて患者が出た日(1月15日)から、1カ月も経っていた』、政府の「後手後手」の対応には呆れ果てる他ない。
・『いま必要なのは感染症対策だけでなく日本全体の危機管理  感染源が不明なケースが日本列島各地で続出するに及んで、ついに政府は2月24日に専門家会議に諮って、25日に基本方針をとりまとめた。 その基本方針によれば、まず現状認識については、一部地域で小規模な集団発生があるが、大規模な感染拡大ではないとしている。そして、水際対策から国内対策に重点を移し、流行の規模とスピードを落とし、重症者を減らしていく。また、経済への悪影響を減らすことも謳っている。 また症状については、普通の風邪とあまり変わらないが、特徴としては、37.5度以上の熱が4日以上続くことを挙げている。 国民に対しては、感染防止のために「せきエチケット」を守ることや手洗いの励行を求めた。そして、風邪症状のときは安易に職場へ行かず、密閉空間での濃厚接触を避けること、また、イベントも自粛することを要請している。 この基本方針の取りまとめが行われた日の翌26日に開かれた対策本部の会合で、今度は安倍首相が直々に、大規模なスポーツ・文化イベントについては「2週間の自粛」を求めた。 それを受けて、PerfumeやEXILEは当日26日夜の公演を中止した。また、プロ野球もオープン戦の全72試合を無観客で実施することを決定。このように各種イベントが次々と中止に追い込まれている。) また基本方針では、医療体制について、地域で患者数が大幅に増えた状況では、一般の医療機関で感染が疑われる患者も診療できるようにするが、症状が軽度のときは、自宅での安静・療養を原則とすると明記されている。 2009年に新型インフルエンザが発生したときは、その時期が5月の連休と重なったため、やはり各種イベントが中止になり大混乱に陥った。関西では修学旅行が中止になり、観光業界を含め経済界に甚大な被害が出て、厚労大臣の私の許にも京都や大阪から数多くの陳情が寄せられた。政府全体で補助金などの対策を講じたが、感染症対策と経済活動の維持のバランスをどうとるかというのは、難しい課題である。これは感染症の専門家が解決できる問題ではなく、それこそ政治指導者の出番なのである。 ところが25日の基本方針では、大規模イベントの自粛を決めながら、具体的判断基準すら示さなかった。そこを批判されたからなのか、翌日になると突然、「2週間」という期間を示した。だが、これは危機管理としては失格である。どの程度の規模を「大規模」というのか、どれくらいの期間の措置なのか、本来は最初から決めておかなければならないのだ。 また、専門家会議に感染症の専門家を集めるのは当然であるが、基本方針の策定に当たっては、大規模イベント業界の専門家、商工業界の代表、教育現場の代表など、基本方針が影響を及ぼす分野の専門家の意見を広く聴取すべきなのだ。日本国全体の危機管理が問題なのであって、感染症対策のみを行っているのではない』、「日本国全体の危機管理が問題なのであって、感染症対策のみを行っているのではない」、正論である。
・『イベントや活動自粛のツケは全て国民が負担するのか  安倍政権の対応ぶりを見ていると、大日本帝国陸海軍を思い浮かべてしまう。戦時中の大日本帝国軍には大戦略がなく、小手先の戦術のみで、無能な司令官が朝令暮改の指示を与えたため、討ち死にする兵隊が続出した。クルーズ船の地獄絵はまさにこれに瓜二つである。司令官であるべき橋本岳副大臣が乗船して失笑ものの写真をSNSで発信し、しかも感染の疑いで自ら隔離されることになる。このような愚を繰り返してはならない。 本来は、感染源の不明な感染者が出始めた2月13日頃には大規模イベントの中止を決めるべきであった。結局、ここでも決定が遅すぎ、後手に回ってしまった。 しかもイベント自粛要請そのものも、その後の補償や業界の救済などについては一切念頭に置かずに、決定してしまった。これでは、収容先も決まっていないのに、武漢までチャーター機で飛ばしたのと同じである。そのため、「チャーター機で帰国した人々はホテルで相部屋」という信じがたい措置をとり、世界を唖然とさせてしまった。 今回も、後出しで26日午前中に「大規模イベントの2週間自粛」を決めたために、その日の夜のイベントが中止されるという異常事態になった。公演のチケットは払い戻されるだろうが、日本全国からイベントのために集まった人々の悲しみと、会場までの交通費や宿泊費の負担をどう考えているのだろうか。まさに国民の目線を忘れてしまった政権の奢りがここに表れている』、「国民の目線を忘れてしまった政権の奢り」、とは言い得て妙だ。
・『「小中高校の休校」で日本全体が困惑  さらに27日夕方には、驚くべきニュースが日本列島を駆け巡った。安倍首相が、3月2日から全国の小中高校を春休みまで臨時休校に入るように要請したのだ。これには全国民がびっくり仰天したに違いない。 こうなると、イベントの自粛とはわけが違う。こういう措置をとるときには、たとえば共働き家庭の支援などの措置も同時にとらないと、家庭と仕事の両立ができなくなる。期末試験、進学進級、卒業などをどうするのか? 子供の面倒を見るために職場に出られない母親たちはどうするのか? 彼女たちの戦力を失った企業や組織は営業を続けられるのか? そういうこともきちんと考えずに、このような手を打つと日本全国が大混乱に陥る。場当たり的、五月雨的な政策を連発するようでは、感染症対策にも経済活動の維持にも失敗する。政策を決めるときは、副作用などその結果にも責任を持たねばならないのである。 日本は「村八分」社会であり、全員が「右へならえ」になってしまう。異論を許さない社会における内閣総理大臣の発言の重さを再認識したほうがよい。そして、問題は、この危機的状態において、首相が、役人の書いた紙を、下を向いて朗読するのみだということである。正面を向いて、紙など見ずに自らの言葉で語らなければ、国民には通じないし、説得力もない。嫌々ながら新型肺炎対策を行っているようにしか見えず、弱々しい印象しか与えない。 アメリカのトランプ大統領は、ペンス副大統領とCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の責任者を従えて会見し、副大統領をヘッドとするチームに最高の人材を集め、全力をあげて新型コロナウイルスの感染阻止に取り組むことを、自らの言葉で正面を向いて国民に訴えている。これが感染症対策の危機管理における政治指導者がとるべき態度だ。だから、安倍首相の会見の様子は世界に発信しないほうがよい。また世界が失望するからである。 首相の判断が常に最善とはかぎらない。だから、せめて内閣を構成する閣僚が異論を差し挟むことができるようでなくてはならない。果たして現状はそうなっているだろうか。 自民党内も安倍一強で、首相に諫言する者がいない。野党が分裂して弱体化しているおかげで安倍政権は安泰であるが、今のような危機管理を行っていれば、政権の命運は遠からず尽きることになるだろう』、「小中高校の休校」の要請には、私も「殿ご乱心」と感じた。「首相が、役人の書いた紙を、下を向いて朗読するのみ」、情けない限りだ。
・『この調子では安倍政権の命脈尽きることにも  今や中国や日本以外でも、イタリアとイランで急速に感染が拡大し、ヨーロッパや中東の周辺国にも感染が広まりつつある。アフリカでは、エジプトに次いでアルジェリアで、また南米でもブラジルで感染者が確認されている。これで5大陸すべてに感染が広まったことになり、WHOがパンデミックを宣言するのは時間の問題だ。 そのような状況の下で、東京五輪が予定通り開催されるのかどうか、世界から心配する声が高まっている。 私は2月22日付のJBpressの記事で、「五輪中止のシナリオを用意せよ」と書いた。(参考記事)新型コロナ終息せず、五輪中止のシナリオも用意せよ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59449 だが安倍政権の目線の先には、今夏のオリンピック開催は絶対に成し遂げたいという思いが先立っているようにしか見えない。だからこそ、IOCの委員から五輪開催に疑問符を付けるような発言が飛び出したらびっくりし、急遽、小中高校の休校を要請したのではないか。 IOCのパウンド委員(カナダ)は、東京五輪開催か中止かの判断は今から3カ月以内、つまり、5月25日頃までには決定せねばならないということを明らかにした。これは、日本政府が言うようにIOCの公式見解ではないものの、IOCが中止のシナリオを書き始めたことを意味する。そして、世界の世論の動向を探るためのアドバルーン(観測気球)をあげたと考えてもよい。 私も都知事のときに、IOCと何度も交渉を行ったが、開催地が東京であっても、最終決定権を握っているのはIOCであり、何度も苦い思いをさせられた。実際にIOCは、マラソンと競歩を札幌に移すことを、小池都知事など蚊帳の外において決めたことは記憶に新しい。 すべては、新型コロナウイルスの感染の状況次第であるが、私は五輪は開催か中止かしかないと思う。秋に延期という選択肢は、テレビ放映権の問題があるから、まずない。また、ロンドンなどで代替開催ということもない。これは5月のロンドン市長選を前に与野党の候補者が人気取りに思いつきの提案を行っただけであり、今や選手村もマンションになっており、メインスタジアムも縮小されている。事実上、ロンドンでの開催は無理だ。 パウンド委員は、来年延期案を示唆しているが、それが実現可能かを決めるのは容易ではない。 新型肺炎の感染が止まる時期にもよりけりであるが、クルーズ船が拡散した日本のマイナス・イメージは選手も観客も東京から遠ざけることになってしまうだろう。東京五輪はまさに正念場を迎えつつある。 いずれにせよ、今のような感染症対策を続ける限り、五輪より前に安倍内閣が幕を閉じることになるだろう』、「東京五輪」について、IOCのバッハ会長は、2月27日に「予定どおり開催するため全力で準備を進めていく」と発言したようだが、まだ予断は許さないとみるべきだろう。「今のような感染症対策を続ける限り、五輪より前に安倍内閣が幕を閉じることになるだろう」、鋭い指摘で、その通りなのだろう。

次に、3月1日付けNEWSポストセブン「コロナ対応で決定的に ネット民の「安倍離れ」が進んでいる」を紹介しよう。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E3%81%A7%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%9A%84%E3%81%AB-%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E6%B0%91%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%9B%A2%E3%82%8C%E3%80%8D%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B/ar-BB10z932
・『報道各社の世論調査で「安倍内閣の支持率」が軒並み低下している。小中高校の全国一斉休校要請など場当たり的な新型コロナウイルス対策や桜を見る会問題に有権者が厳しい目を向けるなか、じわりと浸透しているのが「ネット保守層の安倍離れ」だ。 「ネット選挙解禁から7年間にわたってネット保守層をウォッチしてきましたが、これほど安倍政権への失望が際立つようになったのは初めてです。森友問題でも加計問題でも安倍首相を擁護してきた人たちの離反が続いています」 そう指摘するのは、言論サイト「アゴラ」編集長の新田哲史氏。ネットを中心に保守的な意見を表明して安倍首相を応援する「ネット保守層」は現政権の強力な支持母体のひとつとされるが、最近は安倍離反の動きが見られるという。目下、新型コロナ対策で“安倍離れ”が顕著になっているが、その兆候は昨年から出ていたようだ。 「昨年からネット保守層は、香港やウイグルなどで市民への圧政が取り沙汰されている中国の習近平国家主席を今年4月に国賓招待することに反対していました。また“反緊縮財政”をモットーにするネット保守層は、大規模な財政出動と反消費税を掲げる藤井聡・京都大学教授が2018年末に内閣官房参与を退任したことにも強い不満を抱いていた。そうした下地があったところに『あの事件』が起きたのです」(新田氏) ターニングポイントとなった「あの事件」とは、昨年10月の臨時国会で、国民民主党の森ゆうこ参議院議員が、同年6月に毎日新聞が報じた内容をもとに、政府の国家戦略特区ワーキンググループ座長代理の原英史氏について、「国家公務員だったら、あっせん利得、収賄で刑罰を受ける」と発言したことに端を発する。 森議員が取り上げた毎日新聞の記事は、原氏が特区提案者から金銭を受け取ったと読み取れる内容だったが、森議員が国会で取り上げた時点ですでに原氏はこれを事実無根として毎日新聞社を提訴していた(現在も係争中)。 原氏は森議員に対しても謝罪と訂正を求めたが聞き入れられなかったため、12月2日、山東昭子参院議長に森議員の懲罰を求める請願を提出した。しかし、議院運営委員会の理事会で「保留」になり、本会議で審議すらされなかったのである。 大手メディアで報じられることのほとんどなかったこの出来事が、多くのネット保守層を失望させたと新田氏は指摘する。 「何より問題は、自民党が請願に賛成せず保留に回ったことです。安倍さんがその気になれば賛成できたはずなのに、自民党は請願を握りつぶした。しかも原さんは安倍首相が主張する規制改革を引っ張ってきたキーマンです。功労者の人権を蔑ろにするような安倍首相のふるまいに多くのネット保守は憤り、改革への本気度を疑うようになりました」(新田氏) 実際に新田氏にはネット保守層から、〈安倍総理及び自民党議員は、この問題を過小評価していると大きな間違いを起こす〉といったリプライが多数送られた。 「森議員や野党に対する怒り以上に、安倍首相と自民党への不信感が目立ちました。霞が関の働き方改革の頓挫や大学入試改革の中止なども重なり、何も決められない政治に愛想をつかし始める保守層も現れた。一部の動きではありますが、不満を持つ人のなかには、より先鋭的な政策を掲げる『NHKから国民を守る党』や『れいわ新選組』を支持する者も出てきました」(新田氏) こうして支持層の不満がぐつぐつと煮えたぎるなか、今年に入っても安倍政権の失策はとまらなかった。 自民党の河井克行・杏里夫妻に常識外れの選挙資金1億5000万円を提供しながら選挙違反疑惑を追及せず、厚労省の大坪寛子審議官と“不倫コネクティング出張”をした和泉洋人首相補佐官の責任も問わない。これまでには考えられない杜撰な対応にネット保守層は安倍首相の変質を感じ取り、現政権への失望を隠さなくなった。 それに拍車をかけているのが、政府の新型コロナウイルス対策への不信だ。たとえば、2月26日の衆院予算委員会で立憲民主党の枝野幸男議員が行った質疑について報じた記事へのネットの反応は象徴的だった。クルーズ船乗客への対応の不手際やPCR検査の体制不備などを質し、政府全体の危機意識のなさや当事者意識の欠如を指摘した枝野氏に同調するコメントが多数寄せられた一方で、これまでなら一定数はあった安倍首相シンパの“カウンターコメント”がほとんど目立たなかったのだ。 政府の対策には、これまで安倍首相を支持してきた産経新聞や百田尚樹氏ら保守層も異論を唱えるようになった。憲政史上最長を記録した安倍内閣が、その求心力を取り戻すことはもう難しいかもしれない』、「ネット保守層」だけでなく、「政府の対策には、これまで安倍首相を支持してきた産経新聞や百田尚樹氏ら保守層も異論を唱えるようになった」、というのは象徴的だ。舛添氏の予言が裏付けられた形だ。

第三に、名古屋大学准教授の日比 嘉高氏が3月2日付け現代ビジネスに掲載した「専門家を軽視し、不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと 「不安の政治化」とは何か」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70755
・『突然の発表  カミュの『ペスト』が売れている。文庫版の版元である新潮社は、急遽4000部の増刷を決めたという。ペストの感染拡大によって封鎖されたアルジェリアの都市オランを舞台に、医師とその仲間たちが閉鎖環境の中で苦闘するというノーベル賞作家のこの小説が、新型コロナウイルスの感染拡大におびえる人々の不安と共振しているのだろう。 広がり続ける感染という現実を前に、私たちは抑えようのない不安にさらされている。専門家の知見は、市民の不安に応えられるのか。そして政治は、社会に広がる不安に対しどのように対処しようとしているのか。 2月27日の夕刻、安倍総理大臣が全国の小中高等学校などに対して、春休みまで臨時休校とするよう要請する方針だというニュースが流れた。方針の決定過程を検証した記事によれば、安倍晋三首相は今井尚哉首相補佐官らの提案を受け、菅義偉官房長官にも相談することなく、萩生田光一文科相と文部科学省担当者の反対をも押し切って、これを決めたという。 この判断のプロセスには疑問が残る。しかしいっそう問題なのは、首相の決断が、〈新型コロナウイルスの拡大を押さえ込むためには一斉休校が有効だ〉というような専門家の提言に基づいてはいなかったという事実である。驚くべきことに、安倍首相は、確たる根拠もなく47都道府県すべての小中高などに対し、休校を要請していたのである。 現場の学校や自治体、教育委員会は大きく混乱し、突如として平日の昼間に子供の面倒を見なければならなくなった親たちはうろたえ、影響は給食業者へ、学童保育業者へ、親たちの勤める企業へ、就業期間を失う非常勤職員たちへと玉突き的に広がっている。そして、その代償に得られるはずの感染の抑え込み効果は、不明確なのである』、「安倍晋三首相は今井尚哉首相補佐官らの提案を受け、菅義偉官房長官にも相談することなく、萩生田光一文科相と文部科学省担当者の反対をも押し切って、これを決めた」、「確たる根拠もなく47都道府県すべての小中高などに対し、休校を要請」、安部首相は何をそんなに焦っているのだろう。
・『専門知軽視の風潮  アメリカでも日本でも、専門家の知見への軽視は大きな議論の的になっている。『専門知は、もういらないのか──無知礼賛と民主主義』の著者で国家安全保障問題の専門家であるトム・ニコルズは危機感を隠さない。 専門的な知識に敬意が払われなくなり、専門家と政治家、そして市民の間の信頼が崩壊したとき、民主主義や共和制に死が訪れ、衆愚政治が始まる、とニコルズは警告する。ステレオタイプの弊害、反ワクチン思想、歴史修正主義など次々と例証を挙げていくニコルズの指摘は、日本の状況にもよく当てはまる。 ただ、今回の新型コロナウイルスへの対処から見えてくるのは、現政府の専門家に耳を貸さない姿勢が、単に専門家軽視の問題には止まらないということである。 専門家の知見が市民の不安を必ずしも鎮めないことは、新型コロナウイルスの検査方法をめぐる議論がまさにあきらかにしている。異見もあるようだが、軽症である罹患疑いの人まですべて検査するのは不要もしくは弊害が大きい、というのが疫学の専門家の見解のようである。 一方、素朴な市民の感覚としては、仕事に行くにしても家庭にいるにしても、体調が崩れている自分ないし家族が新型コロナウイルスにかかっているのかどうかは、はっきりさせたい。 また、「この一週間から二週間が感染拡大の山場」であるから外出や大規模な集会を控えよと言われても、現実には何をどこまで自粛すればいいのか判断に迷う。私の身近でも集会や会合のキャンセルが続いているが、中止や延期の増加自体が、人が集まること、集まる場所への不安を高めている。 人々の不安が、事態の鍵を握っている。不安には、何段階かの閾(しきい)がある。漠然とした不安から、行動を起こさずにいられない明確な危機感へ、さらに恐慌を伴う恐怖へ』、日米での「専門知軽視の風潮」は、「民主主義や共和制に死が訪れ、衆愚政治」へとつながるとの「ニコルズ」氏の警告は重く受け止めるべきだろう。
・『政治が不安に「スイッチ」を入れる  不安が閾を越えるときには、引き金となる事件や合図がある。私の感覚にもとづいて言えば、首相が全国一斉休校を「要請」したとき、日本社会の不安を一段階押し上げるスイッチが入った。 夕方のニュースで、当惑気味のキャスターによって突如読み上げられたこのニュースに、私は心底驚き、なんらかの行動を起こさなければならない切迫した状況──小学生の息子をどうするのか──に、自分がいきなり置かれていることを発見した。そしてこの驚きと変化はおそらく私一人のものではなかった。Twitterを中心としたネットの反応の沸騰や、トイレットペーパーを買いだめに走った人々の狼狽が、その証左となるはずである。 政治権力には、社会的な不安のトリガーを引く力がある。政治権力は、日常を「例外状態」へと変えることができる。ドイツの思想家・政治学者のカール・シュミットは、著書『政治神学』において、「主権者は、現に極度の急迫状態であるかいなかを決定すると同時に、これを除去するためになにをなすべきかをも決定する」ことができると述べている。つまり、政治権力は緊急事態かどうかを自分で決めることができ、そして決めた上で何を行うかも決めることができるというわけである。 さらに興味深いのは、シュミットが続けて、このような「例外状態」を作り出す際、権力は現行の法的秩序の内側にいると同時に外側にもいると述べていることである。一読しただけでは意味がわかりにくいが、例を挙げれば難しいことではない。「非常事態」がその事例である。「非常事態」を宣言した権力は、法秩序の中から出発しながら、その法秩序を越えることができる。 そう、これはまさにいま──微温的な形ではあれ──日本で起こっていることである。北海道の鈴木直道知事は「緊急事態宣言」を出し、安倍首相は小中高等学校などの全国一斉休校を要請した(いずれも法的な根拠はない「お願い」や「要請」であるから、その強制力は弱いはずである。にもかかわらず、ここまでの効果を発揮してしまうこと自体に、我々の社会の抱える問題の根深さを感じるが、ここではこれ以上展開しない)』、「政治権力には、社会的な不安のトリガーを引く力がある。政治権力は、日常を「例外状態」へと変えることができる」、安部首相にはそんな自覚はなかったろう。「「非常事態」を宣言した権力は、法秩序の中から出発しながら、その法秩序を越えることができる」、恐ろしいことだ。
・『「非常事態」に慣らされていく  専門家とその知見は、権力が力を振るう際にブレーキをかけたり、後押ししたり、力の向きや強さを調整したりする役割を負っている。今回の場合で言えば、休校が「全国一斉」である必要があったかについては、慎重な疫学的判断が必要だった。 小中高等学校などを大規模に休校させる際にも、教育の実務家と専門家たちの知見とノウハウが必要だった。だが残念ながら専門家には、権力が耳を傾けない場合において、権力を止める力までは備わっていない。 一斉休校は支持率低下を受けた安倍首相の苦し紛れの策だという解説ニュースを読み、実際政局的にはかなりの悪手だったと私も見ているが、政局などは短期的な問題に過ぎない。より長期的に問題なのは「非常事態」に私たちが慣らされていくことである。 そしてさらに押し進めて言えば、「非常事態」において強い強制力を発揮する権力を、我々自身が求めるようになってしまうことである。実際、今でも政府に「自粛の基準を決めてくれ」と求める声が聞こえるし、「決められた以上はやるしかない」とあきらめ受け入れる声が聞こえるのである。 カミュは『ペスト』でこう書いている。「だが、ペストや戦争がやってくるとき人々はいつも無用意な状態にあった。」 カミュの生きた20世紀にはそう言えたかもしれない。しかし21世紀の政治で、ペストや戦争は向こうからやってこない。現代のペストや戦争は、人々の不安が、自ら社会のうちに招き寄せるのである。 不安は、人々の非理性的な思考や行動を誘発する。実際には払底しないトイレットペーパーの買い占め程度であれば笑い話で済むが、感染への恐怖は「感染者」もしくは潜在的可能性をも含めた「感染源」への深刻な忌避や差別を生むことがある。日本の国内でも国外でも、中国人やアジア系の人々──海外ではここに日本人も含まれる──に対する差別の言動が見られる。 また、今回新型コロナウイルスのPCR検査で陽性とされた人々は、周囲から差別や攻撃を受けはしないだろうか。不安は敵を作り出し、敵を排除することで人はその不安をなだめようとする。そして不安を払拭しようとする人々の一部が、より強く、強硬な権力を求めるという道筋も、存在するのである。 私たちはいま、「不安の政治化」の危険の中にいる。新型コロナウイルスにおびえる私たちの不安は、政治的に利用されうる資源であることを忘れるべきではない。そして専門家は、不安の政治利用を防ぎ、社会の危険な分断を回避するためにも、人々のおびえを和らげるべく知恵を絞る必要がある』、「一斉休校は支持率低下を受けた安倍首相の苦し紛れの策だ」、その通りだろう。「不安を払拭しようとする人々の一部が、より強く、強硬な権力を求めるという道筋も、存在する」、大いに気をつけるべきことだ。

第四に、コラムニストの小田嶋 隆氏が2月28日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「人の不安を笑うな」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00059/
・『新型コロナウイルスによる肺炎が、実際のところ、どの程度蔓延しているのか、私は、正確な情報を持っていない。幾人かの専門家が、現時点でのおおまかな推測を語ってくれているのだが、ひとくちに専門家といっても、いろいろな立場の人がいて、言っていることの内容もピタリと一致しているわけではない。感染者を多めに見積もっている人もいれば、軽めにアナウンスする人々もいる。なので、どちらに信を置くのかによって、私のような素人の見方は、かなり大幅に変わってしまう。 対策についても同様だ。 こまめな手洗いうがいを心がけて、不要不急の外出を控えるといったあたりの対処法に関しては、ほとんどの専門家の意見が一致しているものの、その先の対応(発熱、咳などの症状が出た時に、どんなふうに対処すべきなのか、あるいは、重症者以外への検疫の是非などなど)をどうするのかということになると、彼らの間でも様々に見解が分かれている。 と、自前の知見や独立独歩の思考力を持っていない一般人たるわれわれは、結局のところ「どの専門家のどの意見を鵜呑みにするのか」の選択肢を持て余すばかりで、事実上、どうすることもできない。 今回は、新型肺炎周辺の話題について書こうと思っている。 当然のことながら、読者に向けて未知のウイルスへの正しい対処法を伝授するつもりはない。 私は、読者を啓蒙するに足る知識を持っていないし、それだけの見識も備えていないからだ。 というよりも、私自身、どう対処して良いのやらわからずにいる。 そんな人間が、他人に説教を垂れることができてたまるものか、と、そんなわけなので、ここでは、対処法以前の話として、「不安」をどう扱うべきなのかについてあれこれ考えるつもりでいる。 自分自身の不安にどうやって対峙すべきなのかも重要だが、それ以上に、むしろ、他者の不安をどうやって受け止めるのかについて真剣に考えなければならないと思っている。ここが大切なポイントだ。 どうしていまさらこんなことを言い出しているのかというと、個人的に、今回の新型肺炎騒動を通じてはっきりしつつあることのひとつに、わたくしども令和の日本人の多くが「不安」ならびに「恐怖」という感情を、軽視しているということがあると思っているからだ。 不安に駆られている人々を、われわれは適切に扱うことができない。 また、自分が不安をかかえてしまった場合でも、私たちは、その自分自身の不安を適切に処理することができない。 なぜこんなことになってしまったのだろうか』、「令和の日本人の多くが「不安」ならびに「恐怖」という感情を、軽視している」、言われてみればその通りなのかも知れない。
・『理由は、思うに、21世紀の時代精神が、不安という感情を軽蔑しているからだ。 われわれは、不安や恐怖を、恥辱として意識するように条件づけられている。 もう少しわかりやすい言い方をするなら、この何十年か、わたくしども日本人は、不安に陥ったり、恐怖に駆られたりする感情のあり方そのものを、理性の敗北ないしは情報収集の失敗と見なすものの考え方にすっかり染まってしまっているということだ。 われわれは、感情一般を軽蔑している。 そして、いま、そのことの報いを受けている、と、私はそう考えている。異論は認める。 「正しく情報を咀嚼していれば、不安を抱く必要はないはずだ」「恐怖に駆られている人間は、正常な思考力を喪失した人間だ」「適切に思考し、十分に情報を取り入れている人間は、不安や恐怖とは無縁だ」というドグマに似たものを、いつの頃からか、われわれは信じ込まされている。 だからこそ、ネット上の人間は、恐怖を語る人間を寄ってたかって攻撃し、不安を漏らす見解をわざわざRTしてまで嘲笑する。 不安な人間を笑うのは、それ自体不安の表れだと思うのだが、笑っている人間はそのことに気づかない。なんとなれば、嘲笑はすべての感情を一時的に浄化する特効薬だからだ。 しかし、ちょっと考えてみればわかることだが、恐怖は思考なんかでは撲滅できない。当然だ。不安も情報収集で消せるようなものではない。もちろん嘲笑でリセットできるものでもない。 こんなことは、20世紀以前の人間であれば、誰もが知っている常識だった。 つまり、不安ほど圧倒的で制御不能な感情はないし、恐怖ほど切実に人間を動かすものはほかにないというのが、前の世紀までに普通に生きている人間にとっては、ごくごく当たり前の人生観だったはずなのだ。それほど、人生は、恐怖と不安に支配され続ける経験だったと言い直してもよい。 とにかく 「理性で不安が消せるだと? 冗談言うなよ小僧」というのが、ちょっと前の時代までの通常人の普通の最終回答だったということだ。 ところが、どうしたことなのか、令和の時代のわたくしたちはその時点から進歩するどころか 「怖がっているヤツはバカだ」「不安とか、なにガキみたいなこと言ってるわけ?」てな調子の、小学校4年生段階の小児マチズモに退行している。 今回は、だから、「正しく怖がる」ことの再学習を試みるつもりでいる』、「わたくしども日本人は、不安に陥ったり、恐怖に駆られたりする感情のあり方そのものを、理性の敗北ないしは情報収集の失敗と見なすものの考え方にすっかり染まってしまっている」、「令和の時代のわたくしたちはその時点から進歩するどころか 「怖がっているヤツはバカだ」「不安とか、なにガキみたいなこと言ってるわけ?」てな調子の、小学校4年生段階の小児マチズモに退行している」、鋭い観察だ。
・『ちなみに「正しく怖がる」というこの言い方は、前の震災以来の、言ってみれば流行語で、私はこの言葉をあまり高く評価していない。 理由は、「正しく怖がる」というこの言い回しの中に、すでにして「正しく認識すること」を「むやみに怖がること」の上位に置く理性万能主義が露見しているように見えて、その理性万能主義の浅薄さに抵抗を覚えざるを得ないからだ。 科学的知見に重きを置くことそのものは悪いことではない。 しかし、たいして賢明でもないそこいらへんのおっさんがファクトだとかエビデンスだとかサイエンスだとかを上位に置くものの考え方を平板に採用すると、その対処法は、人間の感情を軽視し、感情を持った人間を軽蔑し、事態に直面して動揺する人間の精神を踏みにじる結果をもたらす。なので、この言葉は慎重に使わないといけない。少なくとも私は、ゴールデンタイムの教養バラエティーの中で、タレントに転向した学者さんが単純に連呼してよい言葉だとは思っていない。 もちろん、「正しく怖がる」という言葉の指し示すところが 「正しい情報を正しい方法で収集して正しく認識しましょう」「その情報を踏まえて、警戒すべき対象と警戒せずに済ます対象との間にしっかりとした線を引きましょう」「こうすれば、怖いものには近づかずに済むし、怖くないものにおびえる必要もなくなります」と、ざっとこういう話であることは、なんとなくわかっている。 その方針が大筋として、悪くないことも理解している。 実際、この対処法は、相手次第では大変に有効だ。 たとえば、100℃の水を飲んだり浴びたりしてはいけない。やけどをしてしまうからだ。4℃の水で入浴するのも良くない。10分以上つかっていると低体温症で命を落とすかもしれない。 正しく温度を測定して、その温度に合った対処法を正しく認識していれば、40℃のお湯を怖がる必要はなくなるし、60℃の温泉に飛び込んでやけどを負うこともなくなるだろう。てなわけで、水を扱う時に正しい方法で温度を測ることと、その温度ごとの対応を学ぶことは大変に有効な学習だってなことになる。 ただしウイルスは、水の温度ほど簡単ではない』、私はどちらかといえば、「理性万能主義」に毒されているので、どこに問題があるのか、小田嶋氏の考えをもう少しみてみたい。
・『目に見えないウイルスや、暗がりに潜んでいるかもしれない幽霊や、なにかの拍子に転落したら確実に死をもたらすに違いない高所や、いつ飛翔に転ずるかを決して明らかにせずに高速移動しているゴキブリ君の光る背中のような対象は、40℃の湯加減ほど快適なものでもなければきっぱりと数値化できるものでもない。 高所恐怖症をかかえている人間は、「閉じたガラス窓の向こう側から君を外に吸い出すような風が吹くことは絶対にありえない」と何度説明しても、高層ビルの窓際に立つことはできない。理由は、彼が建築に無知だからでも物理学を理解していないからでもない。恐怖というのは、そもそも理不尽なものなのだ。いくら理屈で安全であることを理解していても、怖い人間にとっては怖い。 飛行機恐怖症の人に、誰かが飛行機の安全性を教えたら 「なるほど、飛行機はバスやタクシーよりもずっと安全なのだね」と、その瞬間に恐怖症が消えてなくなるのかというと、そんなことは決してありえない。 当然だ、飛行機恐怖症の患者は、理詰めで怖がっているのではない。とすれば、理屈で納得させたところで、彼の恐怖が消える道理はないのである。 私自身の話をすれば、私は、若い頃、暗いところがひどく怖かった。 30歳くらいになるまでは、一人で夜道を歩く時は、ほぼ全力疾走をしていた。暗い部屋や暗い倉庫には入れなかった。もちろん暗い森だとかは問題外だった。 しかも、思春期から20代にかけて、私は、そのことをとても強く恥じていた。 自分の恐怖を誰にも見破られないように、大変に労していたことを思い出す。 その暗闇への恐怖感は、ある時、ふと気がつくと消えてしまっていたのだが、その時期も理由もはっきりとはわからない。 かように、恐怖は、説明できない部分を多く持っている。 いま現在、ウイルスへの恐怖に苦しんでいる人たちも、自分の感情が過剰反応であることは重々承知しながら、それでも怖いのだと思う。 そういう人間に向けて、「正しい情報」をおしつけることが、どんなに失礼で思いやりを欠いた行動であるのかということを、この場を借りて強く訴えておきたい。 私自身は、今回のウイルスをほとんどまったく恐れていない。 それは、私が豪胆だからではない。 ファクトに基づいたサイエンティフィックな考え方が身についているからでもない。 単にその方面に関して比較的無神経だからだ。 人は、誰であれ、分野別に特有な恐怖や無神経の傾向を持っている。 食べるものの清潔にやたらと神経を配る人間が、一方において机の整理がまるでできないということもあれば、高いところや暗がりをまるで恐れないおっさんが、小さなテントウムシが肩にとまっただけで気を失わんばかりに取り乱すケースもある。 不安もまた同様で、あらゆる燃料ゲージや保管アイテムをすべて満タンにしておかないと安心して眠れないタイプの青年がいたかと思えば、月のはじめに預金口座がゼロになっていることに、電気を止められてはじめて気づく暢気なお嬢さんが実在していたりもする。 とすれば、市民社会で暮らす常識ある人間は、他人の不安や恐怖を笑うことはもちろん、それらをつかまえて説教をカマすこともなるべく控えるべきだと思っている』、「私は、若い頃、暗いところがひどく怖かった。 30歳くらいになるまでは、一人で夜道を歩く時は、ほぼ全力疾走をしていた。暗い部屋や暗い倉庫には入れなかった」、小田嶋氏にもそんな時期があったとは微笑ましい。「恐怖は、説明できない部分を多く持っている。 いま現在、ウイルスへの恐怖に苦しんでいる人たちも、自分の感情が過剰反応であることは重々承知しながら、それでも怖いのだと思う。 そういう人間に向けて、「正しい情報」をおしつけることが、どんなに失礼で思いやりを欠いた行動であるのかということを、この場を借りて強く訴えておきたい」、その通りだ。
・『結論を述べる。 正しく怖がるというのは、怖がらないことではない。理性的に怖がることでもない。エビデンスとファクトに基づいて科学的に怖がることでもない。 正しく怖がる方法は、人それぞれで違っている。意外に聞こえるかもしれないが、これが本当のところだ。 万人に適用可能な正しい怖がり方は、事実上存在しないと考えるのが妥当だと、少なくとも私はそう考えている。そう考えない人がいることもわかっている。つまり、あなたの考える正しさと私の考える正しさは違っている。正しさというのは、しょせんその程度のものだ。 ツイッターを眺めていると、マスクを買い占めた(と思われる)人々や、満員電車の中で咳をしたご老人を白眼視する乗客たちを揶揄嘲笑攻撃論難する書き込みの多さにげんなりする。 ほかにも、報道に過剰反応してアルコール消毒のウエットティッシュを買いに走る庶民や、保健所に問い合わせの電話をかけまくる市民がネタとして冷笑されている。 危機や混乱にあたって冷静な態度を貫くことそのものは、けっこうなことだ。 ただ、自分の冷静さをアピールするだけではこと足りずに、あわてていたり不安に駆られていたりする人々を間抜け扱いにして笑うのは、21世紀の文明国の市民としてなさけない態度だと思う。私個人は、不安に駆られている人間をバカ扱いにすることも、新型肺炎騒動への過剰反応のひとつだと考えている。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、情報弱者を嘲笑する人間は、素直に悲鳴を上げることができなくなっているという意味で、生物として間違った道を歩み始めているのだと思っている。 そもそも、インターネット言論は、感情を軽蔑している。 これは、私自身、パソコン通信の時代(1980年代後半~1990年代中盤まで)からネット言論に付き合ってきた人間の実体験として、強く実感しているところなのだが、伝統的に、インターネット上のコミュニケーションは、互いに顔(出自や肩書も)が見えないだけに、論理だけがものを言う曲芸じみたやりとりに着地することになっている。 前世紀末に、いわゆる「ネット論壇」なるものが形を整えつつあった頃、その運動を支えていたのはパソコン通信時代から営々と草を生やしてきた草の根BBS(掲示板)や、ニュースグループと呼ばれる投稿システムの中で、文字による対話を繰り返してきた人々だった。そして、その初期のインターネットを支えてきた面々には、少なからぬ確率でメインフレームにぶら下がっている研究者や、市井のオタクである野良パソコン技術者を含んでいた。であるからして、そもそもが理屈っぽい彼らは、議論を好み、論理的な精密さを重視する人々で、その一方で、感情を軽視し、情緒的な言葉を軽蔑する傾きを持っている人々でもあった。 そんな彼らが、ネット上の対話のルールとして、純粋な論理だけに基づくことを掲げたのは当然と言えば当然だった。 というのも、相手の肩書や地位から発する圧力(あるいは「オーラ」)の影響を一切受けることなく、純粋に言葉の力だけで、純論理的なやりとりとしての会話を交わすことは、人類が長い間夢に見ていながら実現できずにいた理想の哲学的環境だったわけで、20世紀までのネット常駐者は、そのソクラテスの時代以来の理想の対話の場に参集した人間としての自覚を持っていたからだ。 現在のネット世論も、多かれ少なかれ、ネット論壇黎明期に活躍した、ソフィストじみた人たちの影響を逃れ得ていない。 で、この殺伐としたSNSの環境を改善するために、大量のポエムなり詩なりがもっとふんだんに供給されるべきだと思っているのだが、今回のこの文章は、あんまり詩的ではなかった。反省している』、「情報弱者を嘲笑する人間は、素直に悲鳴を上げることができなくなっているという意味で、生物として間違った道を歩み始めているのだと思っている」、いくばくかの自省を込めて納得した。「この殺伐としたSNSの環境を改善するために、大量のポエムなり詩なりがもっとふんだんに供給されるべきだと思っているのだが、今回のこの文章は、あんまり詩的ではなかった」、「詩的ではなかった」のみならず、説明不足で私の理解力を超えている。いずれにしろ、他人の不安を嘲笑する傾向は困ったものだ。第三の記事での「不安」と結びつかなかったのは残念だ。
タグ:令和の日本人の多くが「不安」ならびに「恐怖」という感情を、軽視している この危機的状態において、首相が、役人の書いた紙を、下を向いて朗読するのみだ 異論を許さない社会における内閣総理大臣の発言の重さを再認識したほうがよい パンデミック 恐怖は、説明できない部分を多く持っている。 いま現在、ウイルスへの恐怖に苦しんでいる人たちも、自分の感情が過剰反応であることは重々承知しながら、それでも怖いのだと思う。 そういう人間に向けて、「正しい情報」をおしつけることが、どんなに失礼で思いやりを欠いた行動であるのかということを、この場を借りて強く訴えておきたい 国民の目線を忘れてしまった政権の奢りがここに表れている 今のような感染症対策を続ける限り、五輪より前に安倍内閣が幕を閉じることになるだろう 政治が不安に「スイッチ」を入れる 舛添 要一 イベントや活動自粛のツケは全て国民が負担するのか 専門的な知識に敬意が払われなくなり、専門家と政治家、そして市民の間の信頼が崩壊したとき、民主主義や共和制に死が訪れ、衆愚政治が始まる、とニコルズは警告する (その3)(全国民困惑の休校要請 場当たり的で五月雨式の極み 新型コロナの感染拡大は安倍政権の弔鐘となってしまうのか、コロナ対応で決定的に ネット民の「安倍離れ」が進んでいる、専門家を軽視し 不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと 「不安の政治化」とは何か、小田嶋氏:人の不安を笑うな) アメリカでも日本でも、専門家の知見への軽視は大きな議論の的に 専門知軽視の風潮 安倍首相は、確たる根拠もなく47都道府県すべての小中高などに対し、休校を要請していた 専門家の提言に基づいてはいなかったという事実 より長期的に問題なのは「非常事態」に私たちが慣らされていくことである。 そしてさらに押し進めて言えば、「非常事態」において強い強制力を発揮する権力を、我々自身が求めるようになってしまうこと Newsポストセブン 「非常事態」に慣らされていく 「小中高校の休校」で日本全体が困惑 「非常事態」を宣言した権力は、法秩序の中から出発しながら、その法秩序を越えることができる いま必要なのは感染症対策だけでなく日本全体の危機管理 一斉休校は支持率低下を受けた安倍首相の苦し紛れの策 新型コロナウイルスの感染の状況次第であるが、私は五輪は開催か中止かしかないと思う JBPRESS 理性万能主義 「コロナ対応で決定的に ネット民の「安倍離れ」が進んでいる」 安倍晋三首相は今井尚哉首相補佐官らの提案を受け、菅義偉官房長官にも相談することなく、萩生田光一文科相と文部科学省担当者の反対をも押し切って、これを決めた 対策本部の会合で、今度は安倍首相が直々に、大規模なスポーツ・文化イベントについては「2週間の自粛」を求めた 安倍政権の目線の先には、今夏のオリンピック開催は絶対に成し遂げたいという思いが先立っているようにしか見えない 政治権力には、社会的な不安のトリガーを引く力がある。政治権力は、日常を「例外状態」へと変えることができる この調子では安倍政権の命脈尽きることにも 突然の発表 「専門家を軽視し、不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと 「不安の政治化」とは何か」 現代ビジネス 政治権力は緊急事態かどうかを自分で決めることができ、そして決めた上で何を行うかも決めることができる 場当たり的、五月雨的な政策を連発するようでは、感染症対策にも経済活動の維持にも失敗する。政策を決めるときは、副作用などその結果にも責任を持たねばならないのである 新型コロナウイルスの感染に対する政府の対応は、後手後手 日比 嘉高 政府の対策には、これまで安倍首相を支持してきた産経新聞や百田尚樹氏ら保守層も異論を唱えるようになった 政府の新型コロナウイルス対策への不信 「全国民困惑の休校要請、場当たり的で五月雨式の極み 新型コロナの感染拡大は安倍政権の弔鐘となってしまうのか」 小中高等学校などを大規模に休校させる際にも、教育の実務家と専門家たちの知見とノウハウが必要だった 自民党の河井克行・杏里夫妻に常識外れの選挙資金1億5000万円を提供しながら選挙違反疑惑を追及せず、厚労省の大坪寛子審議官と“不倫コネクティング出張”をした和泉洋人首相補佐官の責任も問わない 原さんは安倍首相が主張する規制改革を引っ張ってきたキーマンです。功労者の人権を蔑ろにするような安倍首相のふるまいに多くのネット保守は憤り、改革への本気度を疑うようになりました 政府の国家戦略特区ワーキンググループ座長代理の原英史氏について、「国家公務員だったら、あっせん利得、収賄で刑罰を受ける」と発言したことに端を発する わたくしども日本人は、不安に陥ったり、恐怖に駆られたりする感情のあり方そのものを、理性の敗北ないしは情報収集の失敗と見なすものの考え方にすっかり染まってしまっている 情報弱者を嘲笑する人間は、素直に悲鳴を上げることができなくなっているという意味で、生物として間違った道を歩み始めているのだと思っている 森ゆうこ参議院議員 「人の不安を笑うな」 自分の冷静さをアピールするだけではこと足りずに、あわてていたり不安に駆られていたりする人々を間抜け扱いにして笑うのは、21世紀の文明国の市民としてなさけない態度だ 日経ビジネスオンライン 感染症対策と経済活動の維持のバランスをどうとるかというのは、難しい課題 令和の時代のわたくしたちはその時点から進歩するどころか 「怖がっているヤツはバカだ」「不安とか、なにガキみたいなこと言ってるわけ?」てな調子の、小学校4年生段階の小児マチズモに退行している 中国の習近平国家主席を今年4月に国賓招待することに反対 小田嶋 隆 新型肺炎感染急拡大 ネット保守層の安倍離れ
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