SSブログ

幼児虐待(その6)(目黒事件3題:なぜ4歳女児は死んだのか?目黒事件「マスコミが報じなかった真相」 目黒女児虐待死事件の「真相」(1)、若き妻が 娘と自分に暴力をふるう夫から離れられなかった理由 目黒女児虐待死事件の「真相」(2)、立派な父親に憧れた男が、娘を凄まじい「虐待死」に追い込むまで 目黒女児虐待死事件の「真相」(3)、野田事件:「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場) [社会]

幼児虐待については、昨年6月30日に取上げた。その後も、目黒や野田で悲惨な事件が発生していることを踏まえた今日は、(その6)(目黒事件3題:なぜ4歳女児は死んだのか?目黒事件「マスコミが報じなかった真相」 目黒女児虐待死事件の「真相」(1)、若き妻が 娘と自分に暴力をふるう夫から離れられなかった理由 目黒女児虐待死事件の「真相」(2)、立派な父親に憧れた男が、娘を凄まじい「虐待死」に追い込むまで 目黒女児虐待死事件の「真相」(3)、野田事件:「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場)である。なお、タイトルから(児童)は削除した。

先ずは、ノンフィクション作家の石井 光太氏が昨年10月27日付け現代ビジネスに掲載した「なぜ4歳女児は死んだのか?目黒事件「マスコミが報じなかった真相」 目黒女児虐待死事件の「真相」(1)」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68057
・『「ままもう パパとママにいわれなくても しっかりと じぶんからきょうよりかもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします もうおなじことはしません ゆるして」 2018年3月、東京都目黒区で、船戸結愛ちゃん(当時5歳)の虐待死事件が起きた。 親が毎日午前4時に起こして勉強を強いたり、感情にまかせて顔面を殴ったり、冷水を浴びせかけたりするといった凄惨な虐待の末に、栄養失調がもとで敗血症を起こすなどして死亡したのである。そんな結愛ちゃんが残したのが冒頭のメモだった。 2019年9月から10月にかけて行われた公判では、父親の雄大が、妻の優里にDVを行って精神的に支配し、実子が生まれた後に妻の連れ子だった結愛ちゃんを虐待したとされた。 だが、これはあくまで公判において示された図式であり、実際に一家の傍にいた友人ら関係者によれば、実像は大きく異なるという。本連載では、3回にわたって報道や裁判では明らかにされてこなかった真相をつたえたい』、「実像」はどうだったのだろう。
・『雄大が受けた壮絶な虐待  船戸雄大は、1985年2月に岡山県で長男として生まれた。妹とは8歳離れていたこともあって、一人っ子のように育てられた。 小学2年の夏、父親の仕事で一家は千葉県へ引っ越し、小学5年の夏には北海道へ移り住んだ。この体験によって雄大は人にどう見られているかを気にする性格になったと言われているが、裁判で触れられなかった重要な事実がある。この時期、父親から激しい暴力を受けていたのである。 大学時代の友人は語る。「雄大は父親から無茶苦茶な暴力を受けていたって言ってました。何かで一緒に風呂に入っていた時だったと思うんだけど、雄大が自分の頭を指さして『俺は頭蓋骨が変形するくらい親父に殴られて育ったんだ』って明かしたんです。虐待というより、しつけとして暴力をふるわれていたっていう感じでしたね」 これが事実であれば、雄大は親から壮絶な虐待を受けて育ったことになる。 思春期になってからはバスケットボールに熱を上げ、高校は北海道札幌白石高等学校へ進学した。バスケ部が有名で、新入部員だけで30名もいたという。 このバスケ部時代の友人によれば、雄大は非常にプライドが高く、自分を良く見せようとするタイプだったそうだ。自分より上だと思った相手にはヘコヘコするが、下だと思ったら横柄になり、必要以上に自分を良く見せようとしたりする。 同級生たちはそんな雄大を陰で笑い、「しゃみ将軍」とあだ名をつけた。北海道の言葉で「しゃみ=しょぼい」を意味していて、自尊心が高いくせに実態が伴っていないところからつけられたという。 雄大がバスケ部を辞めたのは、高校2年の時だった。見下していた同級生にレギュラー争いで負けたことがきっかけで、友人数名とともに去ったのだ。プライドの高い彼にとってレギュラーになれなかったことは屈辱だったのだろう。バスケを失った彼は、他校の不良たちと付き合うようになる』、「雄大は親から壮絶な虐待を受けて育った」、にも拘わらず、自分が親になったら虐待する側に回ってしまうというのは、恐ろしいことだ。
・『自尊心の高さ  帝京大学経済学部に進学後、雄大は再びバスケサークルに入り、バスケットボールをはじめる。 サークル内では群を抜いてうまく、周りからは一目置かれていたそうだ。それが楽しかったのだろう、彼は大学を卒業して就職してからもサークルのメンバーに高校のバスケ部の仲間を加えて、社会人バスケサークルを結成した。 メンバーの一人は語る。「他県のチームと闘うようなちゃんとしたサークルで、雄大はキャンプテンをしていました。あいつ、プライドは高いけど、そのぶんリーダー的な要素はあって、練習場とか飲み会の会場とか、全部自分で調べていましたね。付き合いもすごく良かったし、酒が飲めないのに合コンにも必ず来た。メンバーにとっては『いい奴』っていう印象だったと思います」 後の事件で、雄大は優里と結愛ちゃんに「ダイエット」という名の異常な減量を強いたが、この頃からモデルのような細身の女性が好きだったという。彼が大学時代に3年間付き合っていた女性は優里にそっくりだったらしい。雄大の好みは「細くて、気が弱く、意見を言わないタイプ」だったようだ。 友人の言葉である。「雄大は自分より弱い子を守ってあげたいみたいなヤツなんです。だからメンヘラみたいな弱い子が好きだった。北海道に帰った後のことですが、ある女性が小樽で自殺しようとしたんです。雄大はそれを聞きつけて札幌から車を飛ばして助けに行っていました。依存されるのも好きだったんだと思います」 雄大の自尊心の高さは、港区のレインボーブリッジやお台場の花火が見える高級マンションの10階に住んでいたことからもうかがえる。このマンションが自慢だったらしく、よく友人を呼んでは「今度は車を買うつもりだ」などと言っていたそうだ』、「社会人バスケサークルを結成・・・他県のチームと闘うようなちゃんとしたサークルで、雄大はキャンプテンをしていました」、よほど「バスケ」が好きだったようだ。「港区のレインボーブリッジやお台場の花火が見える高級マンションの10階に住んでいた」、親の仕送りなどがあったのだろう。
・『大麻や危険ドラッグの使用  2014年5月、30歳になった雄大は東京を離れ、両親の暮らしている札幌にもどることになる。公判では、会社の仕事に疲れてうつ気味になり、脱毛も激しくなって辞職したと語られていた。 だが、友人たちは真っ向から否定する。薄毛は大学時代からであり、毎月バスケの練習や試合には参加し、合コンにも来ていて、うつ病なんて一言も聞いたことがないそうだ。その代り、友人らが指摘するのは大麻や危険ドラッグの使用だ。 「雄大は大学2年の時に海外旅行で大麻を覚えて、ちょくちょくやってました。頻繁に見かけるようになったのは、社会人になったからですかね。家で大麻を大切そうに持ってましたし、脱法ハーブ(現・危険ドラッグ)はしょっちゅうやっていました。俺たちが家に行っても普通にやっている感じです。何が入ってるかわからないから止めろよ、と言ってもやりつづけていた。東京にいる最後の頃はちょっと変な感じになっていて、友人の結婚式をすっぽかすとかもありました」 さらに、東京から札幌へ帰った理由も公判の話とは大きく異なる。 友人らによれば、当時は、父親が北海道で別の仕事に手を出して母親と妹が大変な状況になっていた。雄大はそこから母親と妹を苦境から救うために、転勤願いを出して札幌の支部に異動させてもらったというのだ。つまり、自分を虐待した父親から、母親や妹を守るために北海道に帰ったというのである。 北海道にもどった後、雄大は家庭の問題を解決してから会社を辞め、札幌の歓楽街「すすきの」のキャバクラで黒服として働く。高校時代に付き合っていた不良たちがすすきのに出入りしていたことから、夜の世界に憧れを抱いたのだろうと友人らは推測している。 すすきので数ヵ月間働いた後、雄大は香川県へ移る。これは、ある女性の誘いがきっかけだった。東京にいた頃、大学時代の友人が香川県高松市のキャバクラでホステスをしていた女性を雄大に紹介したことがあった。ホステスは東京へ遊びに行く度に、雄大の港区のマンションに泊まらせてもらっていた。雄大は北海道に帰った後、そのホステスから、高松市内のあるキャバクラ店が人材不足で困っているという相談を受ける。それで雄大は店を助けるために香川県へ引っ越したのだ。 高松市にあるこのキャバクラ店で、雄大は黒服として働きはじめる。同じ店でホステスをしていたのが、後に妻となる優里だった』、「大麻や危険ドラッグの使用」で「友人の結婚式をすっぽかす」とはかなり重症だったようだ。「自分を虐待した父親から、母親や妹を守るために北海道に帰った」のはいいとしても、「家庭の問題を解決してから会社を辞め、札幌の歓楽街「すすきの」のキャバクラで黒服として働く」、以降は道を踏み外していたようだ。
・『母親に結婚を猛反対された  優里は香川県善通寺市で生まれ育った。4人きょうだいの末っ子だった。父親は自衛隊で働いていたが、近隣住民の話では親族が大麻で逮捕されていたり、交通刑務所に入っていたりするなど、決していい家庭環境ではなかったようだ。 高校卒業後、優里は19歳で結婚して結愛ちゃんを生んだ。だが、同い年の夫からのDVがあったことなどから22歳で離婚。シングルマザーとして結愛ちゃんを育てるため、キャバクラで働きはじめる。地方の小さな町には、高卒のシングルマザーに十分な収入を保障してくれるところはほとんどなかったのだ。彼女は23、4歳にして将来の見通しが立たない、暗い生活に迷い込んでいたと言えるだろう。 同僚の話では、優里は店に入ってから、何人かの黒服と関係を持ったという。寂しさや、異性にすがりつきたい気持ちもあったのかもしれない。そんな中で出会ったのが、8歳年上の雄大だった。 雄大は東京の大学を卒業し、全国的にも名の知れた企業に勤めていたことを自慢げに語っていた。実際に仕事もできて店長からの信頼も厚かった。折に触れて、海外旅行の話など知らないことを話してくれる。優里は雄大に対して「年上で幅広い知識を持っていていろいろと教えてもらいたい」と思うようになっていった。 二人を良く知る友人の言葉である。「優里は雄大にベタぼれで、『ドストライク』だって言ってました。彼女から猛アタックして付き合いがはじまったんです。雄大の方は、どちらかといえば年の離れた彼女の面倒をみてやっているみたいな感じでした」 雄大にとって、年下の優里は自尊心を高めてくれる相手だったにちがいない。雄大は結愛ちゃんのこともかわいがり、週末には公園やテーマパークへつれて行って肩車をするなどスキンシップをしてかわいがった。結愛ちゃんも雄大のことを「お兄ちゃん」と呼んで懐いていたという。 そんな中、優里が雄大の子を妊娠した。雄大は迷うことなく「責任」を取って結婚することを決める。この時、雄大は出産が終わって落ち着いたら、東京へ引っ越そうと話していたようだ。優里にしてみれば、大好きな相手と家庭を持てる上、地方の不安定な生活から抜け出せるという期待を抱いていただろう。 雄大は地元の食品会社へ転職して生活環境を整える。ところが、雄大にとって大きな誤算が起る。これは法廷でもメディアでも一切語られてこなかった事実だが、雄大は母親に結婚を猛反対されたのである。実家とも付き合いのある友人の話である。「雄大が北海道の母親に結婚することを話したら、猛反対されたそうです。年の離れたバツイチのホステスで、さらに連れ子までいるわけじゃないですか。そんな女との結婚は認めないみたいな感じになり、勘当寸前だったんです。それでも雄大は優里と結愛ちゃんとの結婚をした。そういう責任感はあるヤツでした」 2016年4月、雄大は反対を押し切って結婚をし、結愛ちゃんを養子として迎え入れる。 この時の彼には、「明るい理想的な家庭」をつくりたいという意気込みがあった。結婚に反対した母親を見返したいという気持ちもあったはずだ。逆に言えば、そうすることが母親との和解の道だった。 しかし、新婚生活は雄大の理想とはかけ離れたものだった。優里は若くして母親になったことも影響していたのか、日常生活から人付き合いにいたるまで様々なことに常識を欠いているように感じるところが多々あった。2歳の結愛ちゃんに好き放題甘いものを食べさせたり、ママ友と上手に付き合えないといったことだ。 友人は、一例として雄大一家とバーベキューをした時のことを語る。「優里の周りにいたのは変な女たちばかりでした。バーベキューに来たのは、みんなシングルマザーのキャバ嬢で酒飲んでべろべろに酔って、自分の子供に『うるせえんだよ、死ね』とか『黙れよ!』とか怒鳴るような感じ。優里自身はそこまでひどくなかったけど、雄大からすれば、そういう友達との付き合いや言動に不安を覚えたのは当然だったと思います」 雄大の理想と現実に大きな溝があったのである。 さらにこの頃、彼が気にしていたのは「養父」という自分の立場だ。結愛ちゃんを養子にする手続きをした際、書類に自分が「養父」と記されているのを見てショックを受けたのがきっかけだった。理想の家庭を目指していたからこそ、「養父の家庭」というふうに見られるのだけは耐えられなかった。 今の状況を改善したい。雄大のそういう考えが、「しつけ」という名の虐待のはじまりだった』、「優里が雄大の子を妊娠した。雄大は迷うことなく「責任」を取って結婚することを決める」、「母親に・・・猛反対された」が、「反対を押し切って結婚をし、結愛ちゃんを養子として迎え入れる」、責任感はあるようだ。「理想の家庭を目指していたからこそ、「養父の家庭」というふうに見られるのだけは耐えられなかった。 今の状況を改善したい。雄大のそういう考えが、「しつけ」という名の虐待のはじまりだった」、さすが石井氏の解説は深く鋭い。
・『「理想的な家族」をつくりたかった  入籍して間もなく、雄大はだんだんと優里に対して厳しくあたるようになる。仕事が終わってから毎日1時間、日によっては深夜まで、優里の日常の些細な言動や、結愛ちゃんに対する育児、それに性格のことまで執拗に注意するようになる。理詰めで追い込み、優里が言い訳をすると、こう言った。 「育児もできないくせに、口出ししてくるな!」 優里はもともと寡黙で、友人の家に遊びに行ってもまったくしゃべらないことさえあった。言葉のDVによる精神支配ということも加わって、雄大に反論するより、自分のために叱ってくれていると受け取り、説教の後は毎回LINEで「貴重な時間をつかって怒ってくれてありがとうございました」と送っていた。 時を同じくして、雄大は結愛ちゃんへのしつけも厳しくするようになった。生活の細かなことだけでなく、読み書きなどを教え込み、やる気がないと見れば声を荒げ、殴る蹴るの暴行を加えたり、家の外へ出したりすることもあった。さらに、優里にも「子ども扱いするな」と言って結愛ちゃんを甘やかしたり、抱きしめたりすることを禁じた。 9月、二人の間に長男が誕生するが、その後も雄大の妻子に対する厳しい態度はつづいた。これまでメディアの中には、雄大が実の子を授かったことで、連れ子である結愛ちゃんへの愛情を失って虐待をはじめたという論調で報じたところもあった。 だが、前後のことを踏まえれば、雄大は息子の誕生とは別に、雄大は結婚に反対した母親を見返すために「理想的な家族」をつくりたいという気持ちから、優里の生活習慣を注意したり、結愛ちゃんに勉強を強いたりしたと考えるのが自然だろう。 実際、友人たちによれば、この時期雄大は口癖のように「(家族の中で)まともなのは俺しかおらん」とか「優里がちゃんとしないから俺がやらなきゃダメだ」と語っていたという。自分の行為がDVや虐待であると認識しておらず、自分が家族を立て直さなければならないという思いを膨らましていたのだろう。 同情の余地はないが、雄大が自分のしていることをあくまでも「しつけ」だと思いつづけていた背景には、彼自身が父親から「頭蓋骨が変形するほどの暴力」を受けていたが影響していたと推測される。知らず知らずのうちに、父親同様に暴力で妻子を抑え込んでしまっていたのだろう。 こうした日々を送る一方で、雄大は度々岡山にある祖父母の家に家族をつれて遊びに行った。そして、結愛ちゃんがどれだけ勉強をできるか、礼儀正しく振舞えるかを自慢げに見せて、褒められると心から喜んでいた。北海道の母親の代わりに、祖父母に「理想的な家庭」を誇示していたのだろう。それが彼の身勝手な自尊心を満たす方法だったのではないか。 だが、雄大の行為はまぎれもない虐待であり、やがて児童相談所がそれを発見することになる。それについては次回詳しく述べたい』、「雄大は息子の誕生とは別に、雄大は結婚に反対した母親を見返すために「理想的な家族」をつくりたいという気持ちから、優里の生活習慣を注意したり、結愛ちゃんに勉強を強いたりしたと考えるのが自然だろう」、「知らず知らずのうちに、父親同様に暴力で妻子を抑え込んでしまっていたのだろう」、石井氏の深い読みには完全に脱帽だ。

次に、この続き、10月27日付け現代ビジネス「若き妻が、娘と自分に暴力をふるう夫から離れられなかった理由 目黒女児虐待死事件の「真相」(2)」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68058
・『目黒区女児虐待死事件の連載第2回。前回につづいて、今回は虐待がはじまったところから話をつづけたい』。
・『「結愛が嘘をつく」  香川県で暮らしていた時、船戸雄大と優里の子供である結愛ちゃんは、2度にわたって児童相談所に保護されている。 最初の一時保護は、結婚から8ヵ月目の2016年のクリスマスだった。 この日、雄大は、結愛ちゃんが家にあったお菓子を勝手に食べすぎたことに激怒して手を上げて、外へ放り出した。真冬に4歳の子供が外に出されていれば、近隣住民が不審に思って通報するのは当然だ。やってきた警察が結愛ちゃんを保護したところ、父親に叩かれたという証言を得たので児相へ引き渡した。 児相は、優里と雄大を呼び出して事情を聞いた。当初、雄大は手を上げたことは認めたものの、虐待ではないと主張した。だが、担当の児童福祉司がくり返して子供への暴力は虐待になるのだと説明したところ、渋々「手を上げたことは悪かった」という言葉を発した。だが、反省の色はなく、このように言い訳をした。「結婚するまで(優里が結愛ちゃんに対する)しつけをしていなかったから、自分が(代わりにしつけを)やっている。ここまで結愛ができるようになったのは自分がしつけをしたからだ」 あくまで自分のしたことは正しかったという姿勢を崩さなかったのだ。児童福祉司が結愛ちゃんの何が問題なのかと尋ねると、雄大はこうつづけた。 「結愛が嘘をつく。何回注意しても直らない。それと食べることに執着して食べ過ぎてしまう」 結愛ちゃんにしてみれば、理不尽なことを押し付けられ、手を上げられるので、身を守るために嘘をついただけなのだろう。雄大はそれを理解しておらず、さらに結愛ちゃんが怯えて敬語をつかってくることにも距離を感じていら立ちを覚えていた。 児童福祉司はくり返し暴力をふるわないように説得した。雄大も優里も、それを受け入れなければ結愛ちゃんを返してもらえないことをわかっていたため、今後はやらないと約束をする。こうして児相は2月1日に一時保護を解除。結愛ちゃんを自宅に返し、その後はカンファレンスや家庭訪問で見守ることにした。 だが、雄大は自分のしたことをまったく悪いと思っておらず、帰ってきた結愛ちゃんに再び手を上げるようになった。ただ、雄大は雄大なりに、結愛ちゃんが思い通りにならないことに悩んでいたらしく、友人に度々悩みを打ち明けている。 友人の一人は語る。「雄大は育児に悩んでいて、『娘が全然言うこと聞かんのや』ってつぶやいていました。それで罰として家の外に出してるってことも言ってましたから、本人には虐待っていう意識はまるでなかったんだと思います。 ただ、結愛ちゃんは3、4歳ですよね。そもそもイヤイヤ期や、大人の言うことを聞かない年齢でしょ。そこにもって、本当の父親でもない男からあれこれ言われたら反抗するのは当然じゃないですか。雄大はそこらへんを理解してなくて、自分がちゃんとしなきゃという思いを募らせていったんだと思います」 雄大が悩んでいら立ちを募らせれば、間に立つ優里も結愛ちゃんに言うことを聞くように強いる。だが、結愛ちゃんも言われれば言われるほど反発したのだろう。優里も周りに「(結愛に)歯磨きをさせたいが言うことを聞かない」と相談するようになった。 理想的な家庭を目指して立派な父親になろうとする雄大、暴力を受け義父に懐けない結愛ちゃん、夫も娘も愛しながら適切な対処が取れない優里。このように親子三人の関係がバラバラになっていたのだ』、「イヤイヤ期」などは全く理解していなかったのでろうが、「児相」もどこまで無理なしつけの問題点を説明していたのだろう。
・『自分のしつけの正当性を信じていた  2度目の一時保護は、結愛ちゃんが家に帰ってからわずか1ヵ月半後の3月19日だった。 警察がパトロールをしていたところ、家の外に結愛ちゃんが出されているのを発見した。警察は前回のことがあったため、すぐに結愛ちゃんを児相に引き渡した。結愛ちゃんは雄大から虐待を受けていると話し、身体を調べると下唇とお腹にはアザが、両膝に擦過傷があった。 児相は再び7月30日まで結愛ちゃんを保護し、雄大や優里と面談を重ねる。この間、一時保護所が満員だったため、児童養護施設に預けられた。結愛ちゃんは施設の生活を「遊園地にいるみたい」と話して、他の子とも仲良くやっていた。雄大から離れられるのが嬉しかったのだろう。 雄大はそんな結愛ちゃんの態度が気に入らなかったようだ。施設で雄大と結愛ちゃんの面接が行われた際、こんなやり取りがあった。 雄大「家に帰りたいのか帰りたくないのか」 結愛「帰りたい」 雄大「なんで帰りたい」 結愛「オモチャがあるから」 雄大「この施設にもあるけど、どっちがいいんだ。本心なのか。本当はどう思うのか」 雄大は結愛ちゃんに「家に好きなお父さんとお母さんがいるから帰りたい」という答えを望んでいたと思われる。だからこそ、距離を置いて表面的な回答をする結愛ちゃんにいら立ちをぶつけるような言葉を投げつけたのだろう。 児相は結愛ちゃんを児童養護施設へ入れることも提案したが、雄大はそれを拒否して引き取ることを主張した。施設に入れれば月々の入所費用がかかるし(所得に応じて負担金が必要)、施設での生活がつづけば結愛ちゃんがよりだらしなくなると考えたのだ。この場に及んでも、自分のしつけの正当性を信じていたのである。) 児相は両親から同意を得られなかったことから、結愛ちゃんを家に帰す代わりに、次の五つの条件を守るようにつたえた。 (1)幼稚園へ通わせる。(2)週末を祖父母の家で過ごさせる。(3)病院の外来を受診させる。(4)定期的な結愛ちゃんの面接。(5)暴力の禁止  雄大は、このうち(1)と(2)を拒絶した。(1)については他の保護者も一時保護のことを知っているために優里のストレスになることと、来年には東京へ行くことが決まっていることを理由として挙げた。(2)については祖父母宅へ預けられれば余計に甘やかされると語った。後者は、連載第1回で述べたように、雄大にしてみれば優里の実家の家庭環境は決して良くないという考えが根底にあったものと思われる。 児相は、(1)(2)を諦める代わりに、(3)(4)(5)を守ることを約束させ、結愛ちゃんを自宅へ帰した』、ここまでの「児相」の対応はまずまずだ。
・『なぜ雄大は体重にこだわったのか  7月30日、雄大一家4人の生活が約3ヵ月半ぶりにスタートした。 優里は児相からの注意を受けて、自分が面倒をみるからと言って、雄大に結愛ちゃんと距離を置くように頼んだ。雄大も育児に手を焼いていたこともあって提案を受け入れ、優里に任せることにした。 優里は児相との約束通り、結愛ちゃんを連れて定期的に病院の外来を受診した。医師は虐待を専門にしている女医であり、結愛ちゃん、優里の双方から現状を聞きながら、生活上の問題点を改善しようとしていた。 女医によれば、結愛ちゃんは雄大を怯えていて「パパが怖い」「怒らないでほしい」などと言っていたものの、優里のことは大好きで甘えていたという。優里の方も結愛ちゃんをかわいがっていた。ただ、優里はしつけについて悩んでいたという。 女医が公判で述べた言葉である。「診察の最中に、(優里から)『食事は食べさせすぎか』『ごはんじゃなく、コンニャクを食べさせるべきか』と訊かれました。ご飯の量についてはかなり気にしていたようです。私からは子供に対して食事制限をする必要はないことを説明して、栄養士の指導を受けてもらいました」 優里が結愛ちゃんの食生活のことで悩んでいた背景には、雄大が家族に課していた食事制限のことがある。 入籍後、雄大は連日のように優里に対して生活上の注意をしていた。雄大が折に触れて口にしたのが、優里が太りすぎだということだった。優里は20代前半の女性としては、ごく普通の体型だが、雄大はそれでも太っていると考えており、ことあるごとに説教をした。そのせいで、彼女は夫の前ではキャベツしか食べられなくなり、隠れて炭水化物を取っては下剤を飲んだりしていたのだ。 雄大の食事制限は優里だけでなく、結愛ちゃんも及んでいた。結愛ちゃんが食べすぎると方々に悩みを打ち明け、家では厳しく制限をしていたのだ。そのため、優里は結愛ちゃんに何をどれくらい食べさせていいのかわからなくなっていたのである。 なぜ雄大はここまで体重にこだわったのか。友人らの話では、雄大が細身の女性を好きだったことはたしかだが、体格そのものに過剰なほどの執着があったわけではなく、「体重の増加=生活習慣がだらしない」という固定観念があり、そこについて言及することが多くなったのではないかということだ。 雄大のことが大好きで結婚した優里にしてみれば、女として体重のことを言われれば傷つき、過度なダイエットに取り組むのは当然だろう。そして、同じことを娘にも強いていたのだ。 なぜ優里は雄大の説教で摂食障害にまでなっているのに傍にいつづけたのだろうか。公判ではDVによって支配下に置かれていたという意見もあったが、当時一緒にいた友人は少しちがう意見を持っている。 友人の言葉である。「俺の知る限り、優里はずっと雄大のことをめちゃくちゃ愛していました。DVもあったんだと思いますよ。でも、それ以上に優里の女としての恋心みたいなものが大きかったというのもあった。だから、つらい状況になっても、やっぱり傍にいたいとなったんじゃないでしょうか」 大きな恋心に、DVによる精神的支配が加わったことで、優里は雄大の傍に留まりつづけたのだろう』、女医が「子供に対して食事制限をする必要はないことを説明して、栄養士の指導を受けてもらいました」、「優里」にではなく、「雄大」こそ対象にすべきだったのだろう。
・『東京に移住した理由  一家は秋になった頃から、本格的に東京への引っ越す準備をはじめる。一部のメディアでは、雄大は児相の監視から逃れるために東京に引っ越したというニュアンスで報じられていたが、これはまったく事実とは異なる。連載第1回で述べたように、二人は結婚する時にはすでに東京への移住を考えていたのだ。それは優里の願いでもあった。 とはいえ、まったく児相が関係ないわけではない。狭い町では、児相が結愛ちゃんを一時保護したという噂は広まっていた。そのため、近隣住民は家族に対して厳しい目を向けており、雄大たちは居心地の悪さを感じていた。こうしたことから、雄大は心機一転して新しい生活をはじめるために、前から考えていた東京移住を実現しようと思い立ったのである。 東京へ行くにあたって、雄大には頼る先があった。かつて世田谷区にあるダイニングバーに通っていた時に、仲良くなった知人である。東京へ行く前、知人からはこんな話をもらっていた。「芸能関係の人たちとは仲がいいから、もし東京で仕事がほしければ紹介してあげられるよ」 雄大はこの人物を頼って東京へ行き、芸能関係の仕事をして家族を養おうと考えていた。 4月から結愛ちゃんは小学校に進学することになる。ならば、その前に東京へ行って新しい仕事に就いて、入学準備を整えなければならなかった。 こうして雄大は勤めていた食品会社を辞め、12月に単身で東京の目黒区のハイムへと引っ越しをする。目黒区を選んだのは、このハイムから世田谷区のダイニングバーが近かったためだ。逆に言えば、それほどこの知人を頼りにしていたのだろう。 優里は結愛ちゃんと弟と1ヵ月香川県に残り、1月に東京にいる雄大のもとへ向かうことになっていた。この間、雄大がいなくなったことで、優里は解放されたように結愛ちゃんに対して肉、魚、炭水化物、それに好きなチーズなどをたくさん与えた。結愛ちゃん自身も、東京へ行くことを楽しみにしていたという。 だが、その東京へ引っ越したわずか1ヵ月半後、結愛ちゃんは5歳の短い人生を、虐待によって強制的に閉じられることになるのである――』、「優里は結愛ちゃんと弟と1ヵ月香川県に残り」、この1ヵ月は「結愛ちゃん」にとっては、天国のようなものだったろう。

第三に、この続き、10月27日付け現代ビジネス「立派な父親に憧れた男が、娘を凄まじい「虐待死」に追い込むまで 目黒女児虐待死事件の「真相」(3)」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68059
・『目黒区女児虐待死事件の連載最終回。今回は、香川県から東京へ引っ越してきた一家の中で船戸結愛ちゃんが亡くなるまでの過程について述べたい』。
・『東京での新生活と虐待再開  1月23日、母親の船戸優里は、5歳の結愛ちゃんと一歳の長男をつれて新幹線に乗って東京へ向かった。行先は、1ヵ月前に東京へ引っ越した父親の雄大が待つ目黒区のハイムだった。 優里も結愛ちゃんも東京での新生活を楽しみにしており、香川県で通っていた病院の女医にもそのことを告げていた。東京には、香川県とちがって輝かしい生活が待っていると信じて疑わなかったのだろう。新幹線の車内で撮った写真が、結愛ちゃんにとって最後のものになるとは誰一人として想像していなかった。 目黒区のハイムは、築40年の2階建てだった。最寄り駅から徒歩15分。一家の暮らす部屋は2階の端にある2DKで、ダイニングキッチンの他に4畳と6畳の部屋、それにトイレ兼脱衣場の奥にバスルームがあった。不動産屋のホームページによれば、家賃は9万円前後となっている。 ハイムに引っ越してきた日、雄大は妻子を温かく迎えた。結愛ちゃんが自分に敬語をつかわずに、笑顔で明るくしゃべりかけてくれたことが嬉しかったという。 だが、すぐに雄大は虐待を再開させる。理由は、自分が家族から離れていた1ヵ月の間、優里が教育や食事制限をしっかりとしていなかったからだった。 引っ越しの翌日、雄大は家でじっとしていた優里にこう言う。 「家でゴロゴロしているのが信じられない。俺がいない間に、結愛が太った。俺の努力が水の泡だ。締め直す!」 そして香川にいた頃と同じように優里に長時間の説教をし、結愛ちゃんに対して勉強を強いたり、食事制限をしたりしたのである。 なぜ雄大はこんな些細なことに我慢できずに怒りを爆発させたのだろうか。実は、ここには彼なりの事情があった』、どんな「事情」なのだろう。
・『どんどん精神的に追いつめられ…  東京に来るにあたって、雄大はかつて世田谷のダイニングバーで知り合った人間に仕事を紹介してもらう手はずになっていた。連載第2回で書いたように、芸能関係の仕事を紹介してくれるという話だったのだ。 雄大はそれを当てにして東京にやってきてダイニングバーに近い目黒区に家を借りたのに、肝心の仕事を紹介してもらえなかった。知人に悪意があったのかはわからないが、少なくとも雄大にしてみれば梯子を外された状態になったのだ。 雄大が仕事を辞めてか2ヵ月目になっており、引っ越しでも多額の費用がかかっていたことからすれば、貯金はほとんどなかったと思われる。彼は慌てて別の仕事を探しはじめていたが、なかなか見つからなかった。そんな時に、妻と子供二人がやってきて一家を養わなければならなくなっていたのだ。雄大が小さなことで怒りを爆発させるほど焦燥感にかられていたことは想像に難くない。 東京に暮らす高校時代からの友人は語る。「雄大は東京に来てから事件を起こすまでずっと無職でしたが、友達から誘われれば普通に会って遊んでました。競馬、バスケのゲーム、飲み会などですかね。とはいっても、雄大は金づかいが荒いタイプじゃありません。むしろ牛丼を食べてから合コンへ行くくらいの節約家です。彼が金がないのに遊びに付き合ったのは、プライドがあったからだと思います。彼は昔からプライドが高いので、友人に誘われても『金がないからムリ』とは絶対に言えない。だから普通に金のあるふりをして付き合っていた。俺もそれをわかっていたから金のことは訊くに訊けませんでした」 雄大は金に困っていたにもかかわらず、プライドの高さから友人や家族に相談することができなかった。しかし、貯金はどんどん減っていき、4月からは結愛ちゃんを小学校に通わせなければならない。そうした状況が雄大の精神を追いつめ、今まで以上に余裕を失わせていた可能性は高い。 雄大はその焦りからか、就職活動の邪魔になるので息子をパソコンの傍に近づかせるなと言って、日中は優里に長男を連れて外出するように命じる。一方で、ハイムに残った彼はパソコンで職を探しながら、結愛ちゃんのしつけをすることになった。 この環境が、さらに状況を悪化させる。雄大は密室の中で思うようにいかないいら立ちをぶつけるように結愛ちゃんに次々と無理難題を押し付ける。 「朝4時に目覚ましをかけて自分で起きる」「息が苦しくなるまで運動をする」「九九を覚える」「『アメニモマケズ』の詩を暗記する」「16時には風呂掃除をする」……。密室で二人でいる時間が長かったために、より多くのことを強いることになったのだろうが、5歳の女の子にとっては虐待以外の何物でもなかった』、「芸能関係の仕事を紹介してくれるという話だった・・・それを当てにして東京にやってきてダイニングバーに近い目黒区に家を借りたのに、肝心の仕事を紹介してもらえなかった」、雄大はなんとも考えが甘いようだ。「雄大は金に困っていたにもかかわらず、プライドの高さから友人や家族に相談することができなかった。しかし、貯金はどんどん減っていき、4月からは結愛ちゃんを小学校に通わせなければならない。そうした状況が雄大の精神を追いつめ、今まで以上に余裕を失わせていた可能性は高い」、身から出たサビとはいえ、ここまで追い込まれたとは悲劇だ。
・『「パパのいないところに行きたい」  2月になってすぐ、優里にとってショッキングな出来事が起こる。 雄大は結愛ちゃんに時計の読み方の勉強を指示した。だが、結愛ちゃんは言うことを聞かず、布団を引っ張り出して寝てしまった。雄大は激怒し、彼女を浴室につれていって顔面を殴りつけ、さらに、シャワーで冷水を浴びせかけたのである。 優里は別の部屋で息子に授乳させている最中にそれを目撃したが、恐ろしくて何も言うことができなかった。 翌日、結愛ちゃんの目のあたりが青くなって大きく腫れていた。雄大はそれを見て「ボクサーみたいだな」とつぶやいた。優里が「(暴力を振るうのは)止めて」と言うと、雄大は「わかった」とだけ答えた。目のアザは、その後もアザとなって残りつづけた。 結愛ちゃんは優里にこう言う。「パパのいないところに行きたい」 優里は「頑張ろう」と答えたものの、心は揺らいでいた。東京へ来れば何かも変わると考えていたのに、現実は香川での生活と何一つ変わらない。それどころか、実家や友人と離れてしまった分、孤立していた。 傷害事件の日から3、4日後、優里は思い切って雄大に言った。 「離婚したい。結愛と二人で暮らしたい」 雄大が家族を一度に全員失うのを嫌がることは自明だった。ならば、結愛ちゃんだけでもつれて実家のある香川へもどりたいと言ったのだ。 雄大はその場にいた息子に目をやり、厭味ったらしく言った。「お前は母親に捨てられたんだな。かわいそうだな」 雄大はさらにこう言った。「離婚なんてヤクザみたいなこと言うな。おまえは苦しさから逃げているだけだ。おまえに(結愛ちゃんの)育児はできない。これから俺がする」 そして、この日から雄大が結愛ちゃんのことを見るようになり、優里は息子と過ごすことになったのだ。ここから結愛ちゃんにとって最後の1ヵ月が幕を開けるのである』、全てがまずい方向に行ってしまったようだ。
・『虐待は「しつけ」でしかなかった  雄大はしつけを自分がすべてすると宣言して以降、結愛ちゃんを六畳一間の部屋に閉じ込め、日常生活から勉強にいたるまで、より厳格なルールをかした。 特に厳しかったのが食事制限だった。肉や魚、それに炭水化物といったものを与えず、もずくや五目豆といったものを食べさせるだけで、それも日に1回だけということもあった。そして毎日体重計で体重を計り、それを記録させた。 これによって東京へ行く前の1月4日には16キロ以上あった体重が、死んだ時には12.2キロまで落ちるのである。成人の女性でいえば、48キロあった体重が、わずか2ヵ月(実質1ヵ月半)で36キロにまで落ちたのと同じである。結愛ちゃんの体が5歳児の未成熟なそれであったことを考えれば、肉体的にどれだけの負担がかかっていたか想像を絶する。 なぜここまで雄大は体重を減らすことに執着したのか。一部では雄大が結愛ちゃんを「モデルにしたかった」などと報じられてきた。だが、雄大自身はそれを否定した上で、「体型・体格というより、数字にしか着目していなくて、結愛が太っているという認識はなかった」と語っている。就職活動がうまくいかない焦燥感と、自分がしつけをしなければという思い込みで冷静な判断ができなくなり、ひたすら数字を下げることだけに執着していたのだろう。彼自身公判の中で「どうしていいかわからなくなっていた」とこの時の状況を説明している。 優里は、そんな結愛ちゃんを積極的に助けることはしなかった。雄大に隠れてチーズやチョコレートを少しだけ与えることはあったが、ハイムから連れ出したり、人に助けを求めたりすることはせず、むしろ雄大に怒られないようにと日々のルールを紙に書いて部屋中に貼った。〈何かをする時は終わった後に何分かかったか確認する〉〈勉強する前に「結愛は一生懸命やるぞ」と言う〉〈終わった時に「終わったぞ」と言う〉〈うそをつない、ごまかさない、あきらめない、にこにこ笑顔で〉……。このような貼り紙が余計に結愛ちゃんを追いつめることになった可能性はある。 こうした状況下においても、雄大は結愛ちゃんが死ぬとは微塵も思っていなかったという。それは就職活動がうまくいかずに経済的にも困っていた時期に、小学校の入学に備えて高価なランドセルを購入していたことからも裏付けられている。この場に及んでも、雄大にとって虐待は「しつけ」でしかなかったのだ』、「就職活動がうまくいかない焦燥感と、自分がしつけをしなければという思い込みで冷静な判断ができなくなり、ひたすら数字を下げることだけに執着していたのだろう」、「視野狭窄」の典型例だ。「この場に及んでも、雄大にとって虐待は「しつけ」でしかなかった」、「雄大にとって」も悲劇だ。
・『なぜ病院へ連れて行かなかったのか  そんな結愛ちゃんの容態が変わるのは、死の1週間前くらいからだった。2月25日前後から、結愛ちゃんは腹痛を訴えるようになり、少量の食事さえとることができなくなっていく。当初、雄大は「ダイエットにいい」と言っていたが、嘔吐するようになってからは危険を感じはじめ、バナナやおかゆを食べさせたが、いずれもすぐに吐いてしまった。 この時、優里は心配して結愛ちゃんを病院へつれていくことを提案したが、雄大は次のように答えた。「顔のアザが治ったらつれていく」 顔には雄大が殴った時についたアザが残っていて、病院へつれていけば虐待が発覚すると思っていたのである。そのため雄大はネットで対処法を調べ、経口補水液やブドウ糖の飴を薬局で買って与えるなどした。 公判で、雄大と優里は二人してこの場に及んでもなお「(結愛ちゃんが)死ぬとは思わなかった」と語っていた。だが、この時点でさすがにそれが真実とは考えにくい。結愛ちゃんの肌は土気色になり、顔から足の先まで枯れ枝のようにやせ細っていた。そんな中で嘔吐して食べ物を受け付けなければ、命の危険が迫っているのは明白だ。 私は二人が病院へ連れて行かなかったのは、大麻の問題が絡んでいるのではないかと推測する。雄大は事件後に自宅に2.4グラムの大麻を所持していたことで逮捕されている(大麻使用のための粉砕機や秤も押収)。公判で彼は四国へ行く前の東京に住んでいた時に入手したものと語ったが、友人はまったく異なる証言をする。友人の話である。「雄大はドラッグを大学2、3年の頃からやってましたね。初めは大麻。社会人になってからは、危険ドラッグに手を出してました。家で俺ら友達がいても普通にやる感じで、注意しても聞き流されました」 彼は香川にいた時も、東京へ引っ越してきた後も、大麻を使用していた。それを考えれば、ある程度の常習性があったと考えるのが普通だ。また、優里の親族はドラッグ関係の事件で逮捕されているし、彼女も雄大が大麻を吸っているのを見たことがあると語っている。 こうしたことからすれば、雄大が結愛ちゃんを病院へ連れて行かなかったのは、家宅捜索によって違法薬物の使用が見つかることを恐れていたという可能性が否めない。このように、両親が結愛ちゃんを死ぬまで自宅に閉じ込めていた背景には、虐待の発覚以外にも別の要因があると考えられるのである』、「家宅捜索によって違法薬物の使用が見つかることを恐れていた」、大いにあり得るシナリオだ。
・『消防の記録に残る雄大の声  結愛ちゃんの容態が急変したのは、3月2日の午後だった。 この日、結愛ちゃんは布団に横になってパソコンでアニメを見ていたが、体の動きが遅かった。優里がそれに気づいて、ストレスにならないようにと雄大に息子をつれて外出するよう頼み、声を掛けたりした。結愛ちゃんはトイレへ行きたがったが、足元がおぼつかず、優里が手を引いてあげなければならなかった。 優里は結愛ちゃんを病院へ連れていくわけでもなく、こう語りかけた。「ばあば、じいじが来ているよ。一緒にディズニーランド行こうね。小学校に上がったら、一緒に楽しもうね」 大好きな祖父母が遊びに来ていると嘘をついて励ましたのだ。結愛ちゃんは弱々しく「うん」と言っていたが、17時22分頃、突然口から液体を吐き出して、「お腹が痛い」と訴えた。そして、そのまま目を閉じて心肺停止の状態に陥ったのである。 優里が驚いて声を出したことから、外出先から帰ってきていた雄大が駆けつける。心臓が止まっていることを知り、慌てて119番した。 次は消防の記録に残る雄大の声である。「子供の心臓が止まったかもしれない! 目黒区×××。船戸です。もうすぐ6歳になる5歳児です。救急隊が来るまでどうしたらいいですか。数日前から嘔吐が止まらず、経口補水液を与えていました。救急隊が到着するまで心臓マッサージをした方がいいですか?」 救急車が到着した時、結愛ちゃんはすでにAED(自動体外式除細動器)が作動しない状態になっていた。そして運び込まれた病院で死亡が確認されたのである。死因は栄養失調からくる敗血症だった』、いくら病院に行ったら虐待が発覚するとはいえ、ここまで放っておいたというのは、楽観バイアスが働いていたのかも知れない。
・『「父親」になることを目指していた  これが目黒区女児虐待死事件の全容である。 発生当時、メディアは残忍な(注:「夫」が抜けている)が妻の連れ子である結愛ちゃんを愛せずに虐待死させたという論調で報じていたが、裁判だけでなく、一家の身近にいた知人らの証言を合わせていくと、また別の側面が見えてくるのも事実だ。 2019年10月に行われた公判において、雄大は結愛ちゃんへの気持ちを尋ねられ、号泣しながら次のように答えた。 「私が……親になろうとして、ごめんなさいという気持ちです」 この言葉は、雄大なりの本音だったのだろう。彼は彼なりに「父親」になることを目指していたのだ。 むろん、だからと言って、私は雄大の犯したことに同情すべき余地はないと思っている。雄大には懲役13年、優里には懲役8年の実刑が下されたが、虐待下に置かれて命を奪い取られた結愛ちゃんのことを考えれば、あまりに軽い刑罰だと考える人も少なくないはずだ。 ただし、判決が下された今、私たちがすべきなのは、雄大の残酷な犯罪を他人事として罵倒することではなく、同じような悲劇をくり返さないために事件の流れをきちんと理解して、個人として社会として何をすべきかを考えることではないか。 私はそれが事件の記録を社会に残す意味だと思っているし、結愛ちゃんが生きたことを社会として記憶することの意味だと思っている。 結愛ちゃんのご冥福を心から祈りたい』、表面的なマスコミ報道と違って、真相を探り出した石井氏の努力はさすがだ。多くの要素が悪い方向に傾いたことが悲劇をもたらしたのだろう。残念ながら簡単な解決策がないことは確かなようだ。

第四に、野田事件について、 心理カウンセラー・家族問題カウンセラーの山脇由貴子氏が本年3月3日付けYahooニュースに掲載した「「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamawakiyukiko/20200303-00165838/
・『児童心理司が証言  千葉県野田市で栗原 心愛ちゃんを虐待して死亡させたとして、傷害致死などに問われた父勇一郎被告の裁判員裁判で、当時勤務していた児童相談所の児童心理司が証言しました。 私も児童相談所で働いていた時は児童心理司でした。児童心理司というのは、児童相談所の中で働く心理の専門家であり、子どもに絵を描いてもらったり、様々な心理テストを行うことで、子どもの心の状態を判断します。そして子どもにとって、今後どのような環境で生活すべきか、どのような心のケアが必要か、児童相談所が方針を決定する際に意見を述べます。もちろん、親から離す必要があるか、家に帰して良いかどうかについても、心理の専門家の立場から、意見します。一番大事なのは子どもの心の状態であり、心愛ちゃんはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の疑いがある、と診断されたのですから、家に帰すべきではなかったのです』、野田市の事件も、3月19日に、地裁が 父に懲役16年判決」を下したようだ。
・『父勇一郎被告からの脅し  心理司は父から「心理の資格を持っているのか。証明書を見せろ」と問い詰められ、身分証の職員番号をメモされ「児相ではなく、職員個人として訴える」と脅された、と報じれられいます。児童相談所で心理として、心理テストの結果などを親に伝えると、その内容に不満を抱き、激怒する親はいます。心愛ちゃんのように「トラウマがある」と言われると、自分が虐待していた、と言われているように思えるからです。自分の虐待の事実を否認する為に、心理の結果に逆上するのです。そして、勇一郎被告のように、「個人として訴えてやる」と脅す親もいます。私自身も、「訴えてやる」と言われたり、大声で怒鳴られ、「つきまとって絶対不幸にしてやる」と言われたことがありました。 それでも、児童相談所の職員は、子どもの安全を最優先しなくてはなりません。心理司は、子どもの心の状態を直接みているのですから、その心の状態こそを、最優先しなくてはなりません。だからこそ、裁判で証言した心理司の方も、「私が殺されてもいいから止めたかった。今でも夢に見る」と泣きながら証言したのだと思います。心の底から悔やんでいるのだと思います。今も、苦しみ続けているのだと思います。 そして、児童相談所の職員は、親に対する発言も、業務として行っているのですから、個人で訴えられることに怯える必要はないのです。親が訴えられるのは児童相談所であって、仮に「態度が悪い」「発言が許せない」などの理由で、個人で訴えられたとしても、児童相談所という組織が、職員を守るべきなのです。 そうは言っても、「訴える」と言われれば、怖いのは事実です。千葉県野田市の教育委員会が父親の脅しに屈して、心愛ちゃんのアンケートを渡してしまったように、執拗に脅されれば、いう通りにしてしまいたくなります。子どもを守る児童相談所の職員が、脅しに対して恐怖心を抱いてしまうのは、組織の体制の問題です。私自身も、児童相談所勤務時代は、訴訟保険に入っていました。職員は全員入るように上司から勧められていました。訴訟保険に入って安心な部分もありましたが、逆に「結局最後は自分でどうにかするしかないのか」という思いも抱かざるを得ませんでした。「どんなに脅されても、仮に訴えられても、児童相談所の職員は、児童相談所という組織が絶対に守ります。だから皆さん、安心して働いてください。」と、日々、職員達に上司が伝え、実際に守る体制も作り、悪質な虐待者が出てきたら、担当に任せるのではなく、組織全体で対応する。そして、「訴える」と担当者が言われたら、上司が「どうぞ訴えて下さい」と言って、すぐに弁護士に依頼をする。そんな体制を整えていかなければ、職員は安心して働けず、脅しに対して屈してしまうかもしれないのです』、「児童相談所」が「守るべき」「職員」に「訴訟保険」に入るよう勧めているとは、驚かされた。「児童相談所」としての責任放棄以外の何物でもない。
・『児童心理司の意見は最終判断にはならないことも  そして児童相談所において、子どもの今後の方針を決定するのは、児童福祉司です。もちろん最終決定は所長を含めた全体の会議で決定されますが、所長などの管理職は子どもに実際に会うことはありませんので、担当の児童福祉司の判断が最終判断となることが多いのです。そこに、児童心理司の意見が反映されている場合もあります。けれど、児童心理司の意見が入ってない場合もあるのです。 それは、まだ日本の児童相談所では、「トラウマ」つまり心の傷が重要視されていないからです。児童相談所が子どもを保護し、家に帰さない基準は、目に見える身体や顔の傷・あざです。心の傷は目に見えないので、親に対する説明としても通りにくく、職員によっては、子どもの心の傷がどれだけ子どもを苦しめているのか、想像が出来ないからです。だから心理司の意見が今後の方針に反映されないことがあるのです。 本来ならば、自分を愛してくれ、守ってくれるはずの親から虐待されたことによって受けた子どもの心の傷は非常に深く、癒されるのにも長い時間がかかります。私の所には、小学生の時や中学生の時に児童相談所で会った子ども達が、大人になった今、20歳、30歳を過ぎても心の傷が癒えない為に、通って来ています。それだけの時間がかかるのです。 心愛ちゃんを司法解剖した医師は「我々の考えが及ばないほどの飢餓や強いストレスがあったのでは」と推測しています。子どもを死に至らしめるほどのストレス。これが心の傷です。心愛ちゃんの事件を通して、子どもの心の傷の重さ、その苦しみを児童相談所職員が学び、今後、心の傷を重要視していかなければ、同じような事件が起きてしまうかもしれません。それを防がなくては。児童相談所の抱える課題です』、「児童心理司の意見は最終判断にはならないことも」、「まだ日本の児童相談所では、「トラウマ」つまり心の傷が重要視されていない」、というのは驚くべき遅れだ。「児童相談所」のあり方自体を全面的に見直すべきだろう。
タグ:幼児虐待 (その6)(目黒事件3題:なぜ4歳女児は死んだのか?目黒事件「マスコミが報じなかった真相」 目黒女児虐待死事件の「真相」(1)、若き妻が 娘と自分に暴力をふるう夫から離れられなかった理由 目黒女児虐待死事件の「真相」(2)、立派な父親に憧れた男が、娘を凄まじい「虐待死」に追い込むまで 目黒女児虐待死事件の「真相」(3)、野田事件:「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場) 石井 光太 現代ビジネス 「なぜ4歳女児は死んだのか?目黒事件「マスコミが報じなかった真相」 目黒女児虐待死事件の「真相」(1)」 雄大が受けた壮絶な虐待 『俺は頭蓋骨が変形するくらい親父に殴られて育ったんだ』 非常にプライドが高く、自分を良く見せようとするタイプ 自尊心の高さ 大学を卒業して就職してからもサークルのメンバーに高校のバスケ部の仲間を加えて、社会人バスケサークルを結成 キャンプテン 雄大の好みは「細くて、気が弱く、意見を言わないタイプ」 港区のレインボーブリッジやお台場の花火が見える高級マンションの10階に住んでいた 大麻や危険ドラッグの使用 大学2年の時に海外旅行で大麻を覚えて 友人の結婚式をすっぽかすとかもありました 自分を虐待した父親から、母親や妹を守るために北海道に帰った 家庭の問題を解決してから会社を辞め、札幌の歓楽街「すすきの」のキャバクラで黒服として働く 同じ店でホステスをしていたのが、後に妻となる優里 母親に結婚を猛反対された シングルマザーとして結愛ちゃんを育てるため、キャバクラで働きはじめる 優里は雄大にベタぼれで、『ドストライク』だって言ってました。彼女から猛アタックして付き合いがはじまった 優里が雄大の子を妊娠した。雄大は迷うことなく「責任」を取って結婚することを決める 雄大は母親に結婚を猛反対された 「明るい理想的な家庭」をつくりたいという意気込みがあった。結婚に反対した母親を見返したいという気持ちもあったはずだ。逆に言えば、そうすることが母親との和解の道だった 今の状況を改善したい。雄大のそういう考えが、「しつけ」という名の虐待のはじまりだった 「理想的な家族」をつくりたかった 雄大は息子の誕生とは別に、雄大は結婚に反対した母親を見返すために「理想的な家族」をつくりたいという気持ちから、優里の生活習慣を注意したり、結愛ちゃんに勉強を強いたりしたと考えるのが自然だろう 知らず知らずのうちに、父親同様に暴力で妻子を抑え込んでしまっていたのだろう 「若き妻が、娘と自分に暴力をふるう夫から離れられなかった理由 目黒女児虐待死事件の「真相」(2)」 「結愛が嘘をつく」 イヤイヤ期 自分のしつけの正当性を信じていた なぜ雄大は体重にこだわったのか 私からは子供に対して食事制限をする必要はないことを説明して、栄養士の指導を受けてもらいました 東京に移住した理由 「立派な父親に憧れた男が、娘を凄まじい「虐待死」に追い込むまで 目黒女児虐待死事件の「真相」(3)」 東京での新生活と虐待再開 どんどん精神的に追いつめられ… 芸能関係の仕事を紹介してくれるという話だったのだ。 雄大はそれを当てにして東京にやってきてダイニングバーに近い目黒区に家を借りたのに、肝心の仕事を紹介してもらえなかった 彼は慌てて別の仕事を探しはじめていたが、なかなか見つからなかった。そんな時に、妻と子供二人がやってきて一家を養わなければならなくなっていたのだ。雄大が小さなことで怒りを爆発させるほど焦燥感にかられていたことは想像に難くない 雄大は金に困っていたにもかかわらず、プライドの高さから友人や家族に相談することができなかった。しかし、貯金はどんどん減っていき、4月からは結愛ちゃんを小学校に通わせなければならない。そうした状況が雄大の精神を追いつめ、今まで以上に余裕を失わせていた可能性は高い 「パパのいないところに行きたい」 虐待は「しつけ」でしかなかった 就職活動がうまくいかない焦燥感と、自分がしつけをしなければという思い込みで冷静な判断ができなくなり、ひたすら数字を下げることだけに執着していたのだろう 視野狭窄 なぜ病院へ連れて行かなかったのか 家宅捜索によって違法薬物の使用が見つかることを恐れていた 消防の記録に残る雄大の声 「父親」になることを目指していた 彼は彼なりに「父親」になることを目指していた 雄大には懲役13年、優里には懲役8年の実刑 野田事件 山脇由貴子 yahooニュース 「「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場」 児童心理司が証言 父勇一郎被告からの脅し 児童相談所 「訴訟保険」に入るよう勧めている 児童心理司の意見は最終判断にはならないことも 児童心理司の意見が入ってない場合もある まだ日本の児童相談所では、「トラウマ」つまり心の傷が重要視されていないからです
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感