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部活動問題(ブラック部活動)(その2)(日本のパワハラ・頑張りすぎ社会を生み出す「ブラック部活」の弊害、ブラック部活の裏に潜む「教師間いじめ」 教育研修の場で目にした衝撃的な場面とは 学校ハラスメントの実態(1)、 「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?) [社会]

部活動問題(ブラック部活動)については、2018年3月7日に取り上げたままだった。久しぶりの今日は、(その2)(日本のパワハラ・頑張りすぎ社会を生み出す「ブラック部活」の弊害、ブラック部活の裏に潜む「教師間いじめ」 教育研修の場で目にした衝撃的な場面とは 学校ハラスメントの実態(1)、 「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?)である。

先ずは、ノンフィクションライターの窪田順生氏が昨年4月25日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「日本のパワハラ・頑張りすぎ社会を生み出す「ブラック部活」の弊害」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/200985
・『過度な部活の見直しが進んでいない。背景には、「休まず頑張る」ことが人間にとって何よりも大切だという、信仰にも近い思い込みがある。教育現場でこの信仰を身につけた人は、社会に出ても心身が悲鳴をあげるまで働いてしまう。ブラック部活こそが、日本企業に蔓延するパワハラや、頑張りすぎを生み出しているのだ』、興味深そうだ。
・『ブラック部活を後押しする保護者も少なくない現実  今週末からいよいよ10日間の大型連休がスタートする。と言っても、「ごく普通に仕事だよ」とシラけている人も多いことだろう。テレビがお祭り騒ぎするように、海外旅行だキャンプだと浮かれことができるのは、ほんの一握りの人なのだ。 そんな風にシラけているのは社会人だけではない。中高で部活に燃える子どももそうだ。連休中には大会などのイベントが催されるため、いつもより忙しいという部活も多いのである。それがうかがえるのが、4月23日の「上毛新聞」の「10連休 部活休めない 保護者や指導者悲鳴 総量規制徹底されず」というニュースだ。 ご存じの方も多いかもしれないが、実は近年、子どもや教師への負担増から、部活を見直すべきという動きが進み、全国的に練習時間を制限するなどの「総量規制」が行われている。 群馬県もしかりで、2018年度から「総量規制」がスタートした。が、記事によるとそれが現実にはまったく守られず、この10連休も7日間朝から晩まで練習漬けの部活が多く存在しており、手弁当で関わる指導者や保護者が悲鳴をあげているというのだ。 背景には、先ほども触れたように、連休中に「大会」や「試合」が集中することもあるが、一部の保護者への「忖度」がある。部活の練習時間が短かったり休日が多かったりすると、「休みすぎる」「やる気がない」とクレームを入れる”体育会系保護者”がいるというのだ。 こういう話を聞けば聞くほど、日本の体罰、パワハラ、長時間労働からの過労死という一連の「ブラック労働カルチャー」というのは、「部活動」というシステムが底支えしているのだなあ、とつくづく感じる』、「全国的に練習時間を制限するなどの「総量規制」が行われている」、とは初めて知ったが、空念仏のようだ。「部活の練習時間が短かったり休日が多かったりすると、「休みすぎる」「やる気がない」とクレームを入れる”体育会系保護者”がいる」、これは学校全体として保護者に、粘り強く訴えていく必要がありそうだ。
・『「自ら頑張る」人の胸の内とは?  企業のリスクを扱うという仕事柄、過労やいじめで心身を病んでしまった方やそのご家族、そして加害者として訴えられる上司や企業とお話をさせていただく機会があるのだが、この三者の関係は、部活動にのめり込む子ども、家族、教師の関係と丸かぶりだ。 まず、瓜二つなのが「当事者」のメンタリティだ。部活に燃える子どもも、壮絶な長時間労働の末に病院に担ぎ込まれる人も共通しているのは、「自分がやりたいからやっている」という強い「自主性」である。 もちろん、中には嫌々ながら部活を続けさせられているという子どももいるかもしれないし、脅迫まがいのことを言われて会社に縛り付けられて無理に働かされるという人もいるかもしれない。が、ほとんどは自らの意思で進んで、ハードな環境へ飛び込んでいるのだ。 と聞くと、「そうなんだよ、自分で望んでいることなのだから外野が口出しすることじゃない」という人がいるが、この「自主性」が危ないのだ。 長時間の拘束は辛い。体も悲鳴を上げている。今日もいかなくちゃいけないのかと足が重い。でも、だからといって休んだら「みんな」に迷惑がかかる。やりたいと始めたことなのだから、休まずに頑張らないと――。なんて感じで、誰に命じられたわけでもないのに、どんどん自分自身を追い込んでいくのだ。 「それが部活をやる意義だろ!そういうチームへの献身やガッツが人生の財産になるんだ!」という体育会おじさんも多いかもしれないが、このような「休まず頑張る」という価値観が、どれほど対策をしても是正されない長時間労働や、ブラック企業問題を引き起こしているという現実も忘れてはいけない。 中高生の場合は3年生の夏の大会などで一応、この「ひとりブラック企業」状態は強制終了されるが、社会人は終わりがない。「休まず頑張る」と歯を食いしばっているうちにある日、心や体がポキンと折れてしまう。そして悲しいことに、休んだことで組織に「迷惑」をかけた自分の不甲斐なさが許せないと、自ら「死」を選んでしまうような方もいるのだ』、「中高生の場合は3年生の夏の大会などで一応、この「ひとりブラック企業」状態は強制終了されるが、社会人は終わりがない」、確かに深刻な問題だ。
・『家族も休まず頑張る姿を疑問に思わないのはなぜか  そして、この「休まず頑張る」が、人間として何をおいても重要である、という「休まず頑張る至上主義」ともいうべき価値観は、部活に燃える生徒や、過労で心身を病んでしまう方のご家族にも当てはまる。 例えば、ブラック企業の被害者のご家族とお話をして、「何か異変に気づきませんでしたか?」というよう質問をすると、たいがいこのような趣旨の答えが返ってくることが多い。 「ちゃんと休まずに会社へ行っているので、大丈夫だと思っていました」 「休む」というのが「異常のシグナル」であって、「休まず頑張る」を続けていたので問題なしだと思っていたというのである。断っておくが批判をしているわけではない。ご自分の大切な家族を身を案じる人であっても、「休まず頑張る至上主義」に知らぬ間に囚われており、このような無意識が、人々に「休む」ことに対する強烈な罪悪感、後ろめたさを植え付けていると言いたいのだ。 「先生、連休中もウチの子を休みなしで、ビシビシ鍛えてください」と訴えるような保護者も全く同じである。このような方たちからすれば、休みの日に家で子どもがゴロゴロしていることが「異常」であって、「部活で休まず練習する」ことが子どもの幸せに繋がる、と信じて疑わないのである。 もちろん、この「休まず頑張る至上主義」は、部活の顧問や指導者、そしてブラック企業のそしりを受ける企業やパワハラ上司に頭の中にもビタッと刷り込まれている。そして、それがパワハラや体罰、あるいはイジメにつながっている。 実は、部活改革が進んでいる背景には、教師が部活という「時間外労働」で疲弊しているということも大きい。2003年、東京八王子市で34歳の教師が帰宅後、お風呂の中で亡くなった。水泳部とバトミントン部などを掛け持ちで顧問をしていたため、41日間休みなしで授業と部活を繰り返した。その前には95日間も休まないこともあった、と「読売新聞」(2003年3月18日)が報じている』、「休まず頑張る至上主義」といった「無意識が、人々に「休む」ことに対する強烈な罪悪感、後ろめたさを植え付けている」、「部活の顧問や指導者、そしてブラック企業のそしりを受ける企業やパワハラ上司に頭の中にもビタッと刷り込まれている。そして、それがパワハラや体罰、あるいはイジメにつながっている」、確かにその通りだ。
・『パワハラで育った人は自身もパワハラを繰り返す  こういう壮絶なブラック労働が明らかになっても、教師の労働環境は変わらなかった。2012年、大阪市立桜宮高校バスケ部で顧問教師が生徒に体罰をし、その後生徒が自殺する事件が起きた際、宮城県が県内の教師にアンケートを行ったところ、78%が「部活指導に負担を感じる」と答えた。当たり前だ。自分の大切な家族との時間を犠牲にして、子どもたちと朝から晩まで過ごしても待遇が上がるわけでもない。 「教育」を掲げればなんでも許されるという、究極のブラック労働である。 そこで想像してほしい。こんな辛い思いをして歯を食いしばりながら部活の指導をしている教師や指導者が、練習に身が入らない生徒や、少しくらい叱り飛ばしたくらいでやる気をなくすような生徒を見たらどう思うか。 「ふざけるな」と怒りがこみ上げるに決まっている。中には、その怒りが制御できず、手や足が出てしまう者もいるはずだ。 これが、教育現場で「体罰禁止」が延々と叫ばれているにもかかわらず、「指導」の名目での体罰やイジメが横行している理由だ。なぜそんなことが言い切れるのかというと、大学運動部などのアマチュアスポーツの体罰、企業内の暴行やパワハラも、これと全く同じ構造で発生しているからだ。 女子選手の横っ面を叩くような体罰指導者や、新人をネチネチといびり倒すパワハラ上司というのは、自分の暴力的な振る舞いを正当化する時、たいていこのような釈明をする。 「自分も若い時はそのように厳しく指導されてきたので、それが当たり前だと思ってしまった」 要は、自分もやられたので、やりましたというのである。このあたりは、日本中の居酒屋で、おじさんたちがこんな風に愚痴っているのでピンとくる話だろう。 「あれくらいでパワハラなんて、俺が新人の時はもっとひどかったぜ」「俺らが子どもの時は、教師からボコボコにされるなんて当たり前だったよな」』、「パワハラで育った人は自身もパワハラを繰り返す」、こうした再生産プロセスはどこかで止めないと、無限に続いてしまう。
・『「休まず頑張る」が強迫観念になっている日本人  人は自分が受けた暴力やハラスメントを正当化する傾向がある。これらを全く無駄で意味のない行為だったと認めるのは辛いからだ。そのため、部活動の壮絶なシゴキも、新人時代に受けた上司からの理不尽なパワハラも、ロールプレイングゲームでレベルアップに必要な「経験値」のようにありがたいものと錯覚をするのだ。 もちろん、自分の人生なので、何をどう解釈をしても勝手なのだが、問題はこういう人が教師やスポーツ指導者、管理職などになると「信頼関係があれば、ある程度の体罰もアリだ」とか「若いうちは家に帰れないとか休日出勤なんて当たり前」などと、自分がやられたパワハラや暴力を忠実に「下」へ再現してしまうことにある。 このような「ハラスメントの再生産」が日本社会では延々と繰り返されている。そして、そのスタート地点になっているのが「部活」なのだ。 ということを言うと、「人生にかけがえのないことを教えてくれる部活をディスるなんて許せない!」と怒り狂う人もいるかもしれないが、部活自体が悪いのではない。 好きなスポーツや活動を、子どもたちが集まって好きなようにやることは何の問題もない。その中で、勝利を目指したいなどの目標ができれば、そこへ向けて努力をするのも素晴らしいし、本人たちの気が済むまでやればいいと思う。 では何が悪いのかというと、そのように本来は子どもたちの意志に任せた活動であるはずなのに、いつの間にやら「教育」という余計な意味合いを乗っけられている点だ。やれ努力は必ず報われるとか、困難を乗り越えたら人間として成長できる、みたいな軍隊のような精神主義や根性論が上乗せされ、「休まず頑張る」という強迫観念が植え付けられているのが問題なのである。 「部活」というものに、そういうおかしなものがつけ加えられているのは、戦後教育の歴史を振り返れば明白だ。よく言われることだが、今のように子どもも親も教師も一丸となって部活にのめり込むなんてカルチャーは戦前にはなく、戦後急に盛り上がったニューウェーブなのだ』、「本来は子どもたちの意志に任せた活動であるはずなのに、いつの間にやら「教育」という余計な意味合いを乗っけられている点だ。やれ努力は必ず報われるとか、困難を乗り越えたら人間として成長できる、みたいな軍隊のような精神主義や根性論が上乗せされ、「休まず頑張る」という強迫観念が植え付けられているのが問題なのである」、本質を突いた鋭い指摘だ。
・『学校教育の現場で軍隊風しつけが復活した背景  では、そんな新習慣がなぜ、全国の教育現場でこんな一気に広まったのかというと、国が「集団教育」を推進したからだ。今でこそ、日本の小中学生は刑務所の囚人のようにキビキビと整列して動くと世界から驚かれているが、戦後間もないころの子どもはバリバリの個人主義だった。敗戦の反動で、戦前教育を全否定していたからだ。 例えば1963年、神宮第二球場で催された「スポーツの日」というイベントに出てきた子どもたちの行進を見て、瀬尾弘吉文部大臣(当時)は「だらしないな…」とつぶやいたという。新聞にもこんな感じで冷やかされる始末だ。 「校庭に集まるのも三々五々。なにをやらしてもダラダラ、バラバラ、戦後の子どもに集団性と規律がないというのは定評のあるところだ」(読売新聞 1963年7月1日) そこで戦前の子どものように規律正しい行動ができるようにしよう、ということで東大教授の宮坂哲文氏を中心として結成されたのが、「集団主義教育」の普及を目的とした「全国生活指導研究協議会」。これがあれよあれよと勢力を伸ばし、1963年には会員が2000人を突破した。 そしてこの年、軍隊っぽいとして禁止されていた「気をつけ」と「休め」について、文部省が設けた集団行動指導の手引き指導委員会が「復活」を検討。その翌年には、「集団行動の統一スタイル」(読売新聞 1964年5月25日)として全国の小学校に徹底させたのである。 このあたりから「部活」はグーンと白熱する。翌年には、千葉県の中学校のバスケ部で現代にもよくあるおなじみの現象がスタートする。 《こんどは中学生がしごき 下級生袋叩き 千葉「練習さぼり生意気だ」》(読売新聞1965年6月3日) つまり、日本の「部活」は戦後教育で「集団主義」を推進する中で、それを子どもに叩き込むカリキュラムの一つとして普及していくのだ』、「集団主義教育」にそんな歴史があったとは初めて知った。「部活」がその推進の一翼を担っているとは、いやはや。
・『働き方改革をしたいなら部活から改革すべき  もちろん、子どもはもともと無秩序な生き物なので、当然こういう風潮に逆らう。そこで1970年あたりから校内暴力が盛んになるのだが、これが逆に「部活」の地位向上に繋がる。子どもはスポーツに打ち込ませると、校内暴力をやめて真人間になる、という意見が教育現場でどしどし出始めたのだ。 このトレンドは1980年代に入っても続き、1984年には「俺は今からお前たちを殴る」の名セリフで知られる伝説のスポ根ドラマ『スクール☆ウォーズ』が放映される。これらの作品に共通するのは、「スポーツをやれば問題児はスコーンと更正する」、「暴力も愛があれば問題なし」という戦後教育の二大理念であることは言うまでもない。 実際、本物の教師もみんな、その思想にとらわれた。例えば、1986年に日教組の教育研究機関「国民教育研究所」が、全国の小、中、高の教諭6171人を対象に調査を行なったところ、45%が「体罰は指導法の一つ」として回答した。特に、生徒数が1000人以上という大規模校になると、59%とその割合は高くなった。また1988年、「読売新聞」に、部活動がスパルタすぎるという投書が寄せらて紙面で議論が白熱すると、69歳の元教員という方が、こんな反論をしている。 「部活動の活発な学校ほど、学校全体に活気があり、問題行動もなく、学業面でもいい結果を出していることも事実である」(読売新聞1988年10月22日) ここまで見てもわかるように、日本の戦後教育は「集団主義」を、言ってもわからない奴には体でわからせる、というスタンスで延々とやってきた、という動かしがたい現実がある。こういう教育を効率的に、そして大義名分を持って進められるように、「部活」というものが利用されているのが、問題だと申し上げたいのだ。 どんなに「働き方改革」が叫ばれ、企業に様々なルールを押し付けても、日本人労働者の働き方が一向に変わらないのは、この問題の本質が「教育」にあるからだ。 実は我々の「病」は、小学生や中学生の頃にはすでに発症していて、社会に出る頃にはもう手の施しようがないほど重症化している。そんなタイミングで、「もっと休め」「辛くなったら逃げろ」なんて説教をしても誰も聞く耳を持たない。それどころか、「休まず頑張る」こそが正しいと叩き込まれているので、自分の心と体が壊れる瞬間まで、努力や我慢が足りないと自分を責め続けるのだ。 国は働き方改革を本気で進めたいのなら、「部活」と「教師」を改革すべきだ』、説得力溢れる主張で、全面的に賛成したい。「実は我々の「病」は、小学生や中学生の頃にはすでに発症していて、社会に出る頃にはもう手の施しようがないほど重症化している」、ここまで「病」が進んでしまうと、治療するとしても、極めて長い年月が必要なのだろう。

次に、6月1日付けAERAdot.が教育社会学者・内田良氏の著書を紹介した「ブラック部活の裏に潜む「教師間いじめ」 教育研修の場で目にした衝撃的な場面とは 学校ハラスメントの実態(1)」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/dot/2019051700029.html?page=1
・『なぜブラック部活はなくならないのか? 実はその裏に、教師から教師への「ハラスメント」が潜んでいた……。教育社会学者・内田良氏が著書『学校ハラスメント』(朝日新書)で明らかにした「教師間いじめ」。その一端を紹介する』、興味深そうだ。
・『同僚から攻撃の言葉  学校の先生方との意見交換の場に参加するなかで、私が出会った、もっとも忌まわしい記憶の一つをご紹介しよう。 とある教員研修の場において、十名程度からなるグループで、「部活動のあり方」について議論が交わされた。一人の若手教員が、か細い声でこう嘆いた――「私は、○○科の教員です。教員採用試験を勉強して、○○を教えるために教員になりました。でも毎日、そして土日も部活で時間がつぶれます。自分はやったこともない競技を指導しなきゃいけないし、本当にしんどいです」。 それを受けて、別の教員が手をあげてこう言い返した――「それは一部ですよ! 全部の部活がそんなふうに思われては困ります。僕自身は、たしかに部活がしんどいときもありますが、楽しんでやっています」。さらには、それにつづいて何人かの教員が部活動のすばらしさを語り、援護射撃をつづけた。 私にとっては、本当に衝撃的な場面であった。 教員は教科を教えるために教員になったのであり、部活動というのは教員にとっては付加的な業務にすぎない。教員は、素人ながらに指導に従事し、多くの時間をそこに費やしている。 2019年1月に中央教育審議会が策定した「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」もこういった現状を問題視しており、「部活動指導は必ずしも教師が担う必要のない業務である」「教師の本務は授業であり、限られた時間の中で授業準備がおろそかになるほどまでに部活動に注力することは適切ではない」ことが明記されている』、「中央教育審議会」の「答申」に盛り込まれたのは、遅きに失したきらいがあるとはいえ、望ましい方向だ。
・『「一部」ならよいのか?  平日の夕刻はもちろんのこと、土日までもが、部活動に費やされる。そして自分の専門であるはずの、教科指導の準備時間がほとんどとれないまま、日々を過ごす。自分の専門性を発揮するための時間をとることができず、自分がやったこともない活動に時間が奪われる。これが、部活動指導の現状である。 教科指導が嫌で仕方がないというならば、これは一刻も早く教壇を去ったほうがよいだろう。だが部活動指導が苦しいというのは、教科指導の専門家として、しっかりと尊重されるべき意見である。労働者としても、時間外労働というかたちで、土日を含めて毎日数時間が費やされる部活動指導を問題視するのは、まっとうな主張である。ところが「それは一部」にすぎないと、同僚たちから反論される。 そもそも「ブラック企業」もまた、どこか一部の企業のことである。もっといえば、いじめや不登校、台風、震災、原発など、ほとんどすべての教育問題・社会問題は、一部の人や場所に限定された課題にすぎない。それを、みんなで考えるのが、教育問題・社会問題というものだ。 「それは一部」であるのは当然の事実であり、何も説明していないに等しい。そこから見えてくるのは、「それは一部」と過小評価し、「だから聞くに値しない」と一蹴する姿勢である。きわめて危険な態度である』、「「それは一部」と過小評価し、「だから聞くに値しない」と一蹴する姿勢である。きわめて危険な態度である」、その通りだ。
・『教師間いじめの見えにくさ  きっとすべての教員は、いじめや不登校については、「一部」だといってフタをすることはないはずである。みんなでどう考えていくべきかという問いを、立てるだろう。 集団全体で物事を進めるというのは、教員がもっとも得意とすることの一つである。だが当の指導に熱心なあまりに、批判の声を聞くと、つい「それは一部」とフタをしたくなってしまう。同僚は助けてくれるどころか、むしろ攻撃をくわえてくる。 この事例に限らず、教員が教員に対して怒鳴ったり、脅したりするというケースを耳にする。暴言だけではなく、会っても挨拶されない、集団で無視される、陰口を言われる、子どもたちがいる前で同僚から大声で叱責されるなど、教員の間にも程度の差こそあれ、さまざまなハラスメントがある。 これら「教師間いじめ」のケースは、教員の愚痴や嘆きとして、近しい立場の者が耳にすることはあっても、それが公に語られたり、調査が実施されたりすることは、ほとんどない。教師間いじめの現実は、教師=聖職者という幻想のなかで消える化していく。 誤解を恐れずに言うならば、教員だって人間である。小中高以外の職場でも、たとえば大学教員のなかにも同僚に怒鳴りつける人はいるし、民間企業の従業員の間でもいじめがある。それらと同様に、教員の間でもいじめがある。 とは言え、子どもにいじめ防止を説きながら、同僚の間でいじめが起きているようでは、あまりに不健全である。さらに言えば、同僚間でのいじめが容認される職場において、子ども間のいじめや、教員から生徒へのハラスメントが抑止されるはずもない。学校ハラスメント全体の改善のためには、教師間いじめの見える化と抑制もまた、重要な着眼点である』、この記事は、神戸市の小学校での「教師間いじめ」が報道された10月よりも前である。事件前に、警告した慧眼には恐れ入る。

第三に、ライターの広尾 晃氏が8月25日付け東洋経済オンラインに掲載した「 「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/298496
・『小さなトラブルかもしれないが、筆者には、引っかかっている事件がある。 6月30日、広島東洋カープの緒方孝市監督が、チームの外野手野間峻祥の怠慢プレーに怒って暴力をふるった一件である。仮に野間が被害届を出していれば、緒方監督は罪に問われかねない。そうせよと言っているわけではないが、どのような理由があるにせよ、暴行は加害者に非があるし否定されるべき行為のはずだ。この件は7月24日にNPBに報告され、球団からは「厳重注意」処分が下されたという。 野球界には「暴力容認」の空気がいまだに残っていることは否定できない。日本学生野球協会は、定期的に審査室会議を開き、不祥事があった高校、大学の処分を決めているが、その中には必ず指導者や部員の暴力行為が含まれている』、「スポーツ」界での「体罰」は、前述の「部活動」から連綿と続くものだ。
・『市立尼崎高校で起きた事件  スポーツにおける「暴力」は野球だけでない。日本の体育会系部活の多くに暴力的な体質が根強く残っている。今年4月、兵庫県尼崎市立尼崎高校では、男子バレーボール部のコーチが3年生部員1人の顔を10回以上平手打ちして失神させ、顔面打撲などの怪我をさせた。 暴力行為は練習試合が行われているコートの横で行われたが、コーチは選手が失神しても試合を中断させず、医者にも連れて行かなかったという。高校日本一になったこともある強豪としても知られた男子バレーボール部ではこれも含め過去2年間に計7件の体罰をしたことが尼崎市教育委員会によって確認されている。 筆者は男子バレーの著名な指導者に話を聞いたことがあるが、昔の男子バレーでは監督やコーチが選手に暴力をふるうことがしばしばあったそうだ。別の男子バレー指導者は「今は手をあげることはないが、俺たちは殴られ、蹴られてうまくなった」と語っている。 市立尼崎高校では、硬式野球部も、部長が2017~19年、部員の顔や胸などを強く押したり?をつねったりするなど少なくとも16件の体罰を行っていた。また、部内で1日7合の米飯を完食させることを課し、食べ終えるまでは帰宅させないなどの不適切な指導をしていたという。無理に食事をとらせることが選手の体力、体格向上につながらないことは、医学的に明らかになっている。 市教委は、これら指導者を停職や減給処分にした。また暴力を看過し、事実と異なる報告をした校長と教頭を減給処分とし、市教委事務局に異動させた。また、教育長も給与の一部を自主返納した。6月には市立尼崎高のほかの3つの部活でも暴力、パワハラ行為があったことが明らかになっている。 学校の部活という空間であれば「暴力容認」なのか?筆者はまったく納得できない。 学校以外のほかの場所で、大人が高校生に失神するまで暴力をふるったら、警察に通報され、加害者は逮捕されるだろう。 そして暴力をふるった理由のいかんを問わず、その大人は名前を公表され、暴行罪、暴行傷害罪などの罪に問われるだろう。仕事を持っていれば、解雇されるなど、社会的制裁を受けるはずだ。 しかし、学校という枠の中では「暴力」は「体罰」という言葉にすり替えられ、暴力をふるった当事者も、それを看過した管理責任者も教育委員会内部での処分にとどまり、刑事罰を受けることはない。 尼崎市の稲村和美市長は、学校側が事件を隠蔽したことを厳しく叱責するとともに、暴力行為そのものを「暴行事件というより傷害事件。学校外で同様のことがあれば即逮捕というか傷害罪。そのように認識している」とコメントした。まっとうな市民感覚とはこういうものだろう。 日本は民主主義国家であり、国民の人権は日本国憲法によって保障されている。しかし日本国内にありながら「学校」という特別の枠に入ってしまうと、人権の保障は限定的になり、場合によっては暴力をふるわれても加害者が法的に処罰されない事態が起こりうるのだ。このダブルスタンダードは、かなり恐ろしい。 課外活動とはいえ、学校の部活は言うまでもなく「教育の一環」だ。部活を管理監督する教師、指導者に第1に求められるのは「生徒の生命、安全を守る」ことだ。そのうえで、技術の習得や心身の鍛錬などの指導を行うもののはずだ。 しかるに、一部の部活では「生命、安全を守る」はずの指導者が生徒に暴力やパワハラを加えている。「教育」の名の下に、生徒の人権が侵害されているのだ』、「日本国内にありながら「学校」という特別の枠に入ってしまうと、人権の保障は限定的になり、場合によっては暴力をふるわれても加害者が法的に処罰されない事態が起こりうるのだ」、「一部の部活では「生命、安全を守る」はずの指導者が生徒に暴力やパワハラを加えている。「教育」の名の下に、生徒の人権が侵害されている」、全く不合理極まる慣行だ。
・『熱心さの延長線上に「暴力」はない  日本では暴力やパワハラなどで謹慎処分となった指導者に、卒業生や父母などが赦免を求めて「嘆願書」や「署名」を出すことがよくある。 「あの先生は、熱意のあまり手が出てしまっただけだ」「生徒のことを誰よりも考えているから殴るのだ」 こうした「情」に訴える声が、事態の本質を見失わせる。これらの請願によって指導者の中には「暴力」「人権侵害」という深刻な行為への反省を十分にしないままに現場復帰してしまう人もいるのだ。 ここではっきりさせておきたいが「熱心な指導」の延長線上に「暴力」など存在しない。指導者がどんなに熱意をもって選手に接しても「暴力」をふるってしまえば、それは「指導」でも「教育」でもなくなる。これを「熱心な教育」というような国は文明国ではない。 筆者は昭和中期に成人したが、その当時の学校では「体罰」は日常的に見られた。今の40代以上で、教師や指導者が生徒に暴力をふるうのを1度も見たことがない人はまれではないか。 テレビ漫画「巨人の星」では、星一徹が息子の星飛雄馬を毎週のように殴っていた。それを見ても当時の人は、何とも思っていなかったのだ。 ただし昭和の時代であっても、誰もが暴力をふるっていたわけではない。その当時から生徒を殴るのは一部の教師、指導者だった。しかし当時はその行為を表立って問題視することはなく、校長、教頭や周囲の教師は「やりすぎなさんな」と言って遠巻きにしているものだった。こうした無責任、不作為が一部教師、指導者の暴力体質を醸成していったのだ』、その通りだろう。
・『社会の価値観の変化についていけているのか  教育現場の事なかれ主義的な体質は、おそらく昭和から平成そして令和の時代の学校にも引き継がれている。だから市立尼崎高校のバレー部や硬式野球部で起こった暴力を、校長や教頭は教育委員会に正しく報告せず、厳しい処分もしなかったのだろう。 学校の中の空気が、昭和の時代とさして変わらないままよどんでいるうちに、社会の価値観は大きく変化した。コンプライアンス意識が高まり、これまで許容されてきた問題行為が1つひとつ厳しく指摘されるようになった。所構わずの喫煙や飲酒運転、セクハラ、パワハラ、今問題になっているあおり運転、そして暴力。これまで看過されてきた行為が、ことごとく「不適切」として批判されるようになった。 これによって世の中の風通しはずいぶんよくなったように思う。力の弱いもの、声の小さいものが泣き寝入りをすることは減ったのではないか。 率直に言うが、教育委員会が、生徒に暴力行為やパワハラをしていた教師、指導者を警察に通報せずに、組織内部で処分するのは、結果的にその教師、指導者を「組織で守っている」ことになるのではないか。そして、学校内での「暴力」「パワハラ」体質を教育界が温存することにつながっていないか? 暴力をふるわないと生徒が言うことを聞かないという声もある。しかし一般的に、暴力、パワハラは「指導力不足」だと見なされている。また、暴力をふるう教師、指導者の指導を受けた生徒は、指導者になって暴力をふるう傾向にある。「暴力、パワハラの伝統」は継承されていくのだ。 さらに暴力をふるう教師、指導者がいる環境では、生徒同士の暴力も十分に抑止できない。教育上いいことなど1つもない』、教育界は世の中の流れから大きく取り残され、「学校内での「暴力」「パワハラ」体質を教育界が温存することにつながって」いるのは確かだ。
・『教育委員会にも求められる役目がある  日本の部活から本当に暴力を排除したいと思うのなら、教育委員会は内部で処分をするだけでなく、日本の法律に照らして問題がある行為については、警察に通報すべきだ。 身内に甘いといわれる教育委員会だが、そうした指摘を受けないためにも、外部の人々の意見も聞いて、教育委員会の責任で、暴力をふるった指導者を司法の手に委ねる必要がある。 東京五輪を来年に控えて、日本はスポーツ大国であることを内外にアピールしたいはずだ。そのひざ元で、スポーツ指導者が選手の人権を損なうような体質が温存されるのはあってはならない。 「学校の中で生徒に暴力をふるったりパワハラをすれば、罪に問われることがある」という意識が指導者に広がれば、部活の現場は劇的に変わるだろう』、「教育委員会」の「身内への甘さ」は、目に余る。独立性の闇に逃げ込ませることなく、市長など自治体の長や議会がもっと監視してもらいたいものだ。
タグ:部活の練習時間が短かったり休日が多かったりすると、「休みすぎる」「やる気がない」とクレームを入れる”体育会系保護者”がいる 「日本のパワハラ・頑張りすぎ社会を生み出す「ブラック部活」の弊害」 窪田順生 教育委員会にも求められる役目がある 学校内での「暴力」「パワハラ」体質を教育界が温存することにつながって」いる 社会の価値観の変化についていけているのか 熱心さの延長線上に「暴力」はない 一部の部活では「生命、安全を守る」はずの指導者が生徒に暴力やパワハラを加えている。「教育」の名の下に、生徒の人権が侵害されている 日本国内にありながら「学校」という特別の枠に入ってしまうと、人権の保障は限定的になり、場合によっては暴力をふるわれても加害者が法的に処罰されない事態が起こりうるのだ 市立尼崎高校で起きた事件 「 「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?」 東洋経済オンライン 広尾 晃 神戸市の小学校での「教師間いじめ」 教師間いじめの見えにくさ 「それは一部」と過小評価し、「だから聞くに値しない」と一蹴する姿勢である。きわめて危険な態度である」 「一部」ならよいのか? 同僚から攻撃の言葉 『学校ハラスメント』(朝日新書) 内田良 「ブラック部活の裏に潜む「教師間いじめ」 教育研修の場で目にした衝撃的な場面とは 学校ハラスメントの実態(1)」 AERAdot. 実は我々の「病」は、小学生や中学生の頃にはすでに発症していて、社会に出る頃にはもう手の施しようがないほど重症化している 働き方改革をしたいなら部活から改革すべき 軍隊っぽいとして禁止されていた「気をつけ」と「休め」について、文部省が設けた集団行動指導の手引き指導委員会が「復活」を検討 「集団主義教育」の普及を目的とした「全国生活指導研究協議会」 学校教育の現場で軍隊風しつけが復活した背景 本来は子どもたちの意志に任せた活動であるはずなのに、いつの間にやら「教育」という余計な意味合いを乗っけられている点だ。やれ努力は必ず報われるとか、困難を乗り越えたら人間として成長できる、みたいな軍隊のような精神主義や根性論が上乗せされ、「休まず頑張る」という強迫観念が植え付けられているのが問題なのである 「休まず頑張る」が強迫観念になっている日本人 パワハラで育った人は自身もパワハラを繰り返す 部活の顧問や指導者、そしてブラック企業のそしりを受ける企業やパワハラ上司に頭の中にもビタッと刷り込まれている。そして、それがパワハラや体罰、あるいはイジメにつながっている 「休まず頑張る至上主義」 中高生の場合は3年生の夏の大会などで一応、この「ひとりブラック企業」状態は強制終了されるが、社会人は終わりがない 「自分がやりたいからやっている」という強い「自主性」である 「自ら頑張る」人の胸の内とは? (その2)(日本のパワハラ・頑張りすぎ社会を生み出す「ブラック部活」の弊害、ブラック部活の裏に潜む「教師間いじめ」 教育研修の場で目にした衝撃的な場面とは 学校ハラスメントの実態(1)、 「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?) ブラック部活動 部活動問題 無意識が、人々に「休む」ことに対する強烈な罪悪感、後ろめたさを植え付けている 家族も休まず頑張る姿を疑問に思わないのはなぜか ブラック部活を後押しする保護者も少なくない現実 ダイヤモンド・オンライン
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