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歴史問題(11)(「ヒトラーの国ドイツ」を生んだビスマルクを賢人と評価する理由 「国際政治の本質」を理解しているか、敗戦をヒトラーのせいにした「戦車将軍」のウソ 誇張と自己弁護で巨大化した「伝説」、なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか 戦車将軍 フランス全土を駆け回る) [世界情勢]

歴史問題については、昨年12月11日に取上げた。今日は、(11)(「ヒトラーの国ドイツ」を生んだビスマルクを賢人と評価する理由 「国際政治の本質」を理解しているか、敗戦をヒトラーのせいにした「戦車将軍」のウソ 誇張と自己弁護で巨大化した「伝説」、なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか 戦車将軍 フランス全土を駆け回る)である。

先ずは、本年2月27日付けPRESIDENT Onlineが掲載した国際政治アナリストの伊藤 貫氏による「「ヒトラーの国ドイツ」を生んだビスマルクを賢人と評価する理由 「国際政治の本質」を理解しているか」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/33125
・『ドイツ統一という偉業を成し遂げ、さらにドイツを「欧州大陸の最強帝国」に育て上げた「鉄血宰相」ビスマルク。国際政治アナリストの伊藤貫氏は、「自助努力を怠る日本は、隷属国となる。日本に必要なリアリズム外交を徹底したのが、ビスマルクだった」という――。 ※本稿は、伊藤貫著『歴史に残る外交三賢人』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです』、「ビスマルク」は有名な割には、日本ではあと1つ具体的なことが知られてないので、勉強する意味は大きい。
・『古代ギリシャ以来、国際政治はアナーキー状態だ  本稿は筆者が尊敬する外交家の中で、リアリズム外交(バランス・オブ・パワー外交)の実践に多大な貢献をしたビスマルクの思考と行動を素描するものである。 ビスマルクは歴史上初めて、常に数十(もしくは数百)に分裂していたドイツ民族を統一した大政治家である。しかし彼は、単にドイツ統一という偉業を成し遂げただけの人ではなかった。彼は建国後のドイツを「欧州大陸の最強帝国」に育て上げて、19世紀後半の欧州外交を牛耳ったのである。 なぜ、リアリズム外交を理解するのに、ビスマルクを知らなければならないのか? 最初に、リアリズム外交の基礎的なコンセプトを説明しておきたい。この外交の重要なポイントは、以下のものである。 (1)国際政治の本質は、古代ギリシャ・ローマ時代から現在まで、常にアナーキー――真の強制執行力を持つ「世界政府」「世界立法院」「世界裁判所」「世界警察軍」が一度も存在しなかった無政府的な状態――であった。 例えば最近の米中露イスラエルのような核武装した軍事強国が、他国や他民族に対して国際法違反の侵略戦争や戦争犯罪を実行しても、国連総会・国連安保理や世界の諸政府は、その侵略戦争や戦争犯罪の犠牲者(例:イラク、シリア、レバノン、パレスチナ自治区、ウクライナ、チベット自治区)を保護する能力を持っていない。2500年前も現在も、強力な軍事国が侵略戦争を始めると、誰もその侵略と戦争犯罪を止められない状態である。 このように無政府的で不安定な国際政治状況を少しでも安定させるため、世界諸国はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の維持に努める必要がある。西洋では17世紀中頃から(19世紀初頭のナポレオン戦争を例外として)第一次世界大戦まで、諸大国の外交家は意図的にバランス・オブ・パワーの維持に努めた。そのため欧州諸国は、大戦争の勃発を防ぐことができた』、国連第一主義などのキレイ事を唱える向きもあるが、現実的には「国際政治の本質は、古代ギリシャ・ローマ時代から現在まで、常にアナーキー」、言われてみればその通りだ。
・『外交に「普遍的正義」や「好き嫌い」はいらない  (2)過去3000年間の国際政治において、世界中の国に共通する文明規範や価値判断や道徳基準は、一度も存在しなかった。アフリカのマサイ族、中央アジアのアフガン人、アラスカのイヌイット、極東の日本人等の価値判断基準は、まったく別のものである。 どの民族、どの文明の価値判断が正しいのか、ということを判断できるのは「神」や「仏」のみであり、自民族中心的な思考のバイアスから逃れられない人間には、不可能な行為である。 したがって諸国は、自国(自民族)の思想的・宗教的・文明的な「優越性」や「普遍性」等を口実として、他国に対して内政干渉したり軍事介入したりすべきではない。そのような行為は、国際政治におけるバランス・オブ・パワーの維持を困難にするだけである。 国際政治に、American Universalism(「アメリカ人の価値判断は、世界中で普遍的なモデルとなるべきだ」と考えるアメリカ中心主義)やグローバリズム、マルクス主義、イスラム原理主義、「國體こくたいの大義」「八紘一宇」「中華文明の優越性」等の独善的な理念を持ち込むべきではない。リアリズム外交に聖戦的・十字軍的な「普遍的正義」や「好き嫌い」の情緒は不要である』、「リアリズム外交に聖戦的・十字軍的な「普遍的正義」や「好き嫌い」の情緒は不要である」、その通りなのだろう。
・『国際政治をするのは「国民国家」それ自体  (3)諸国の統治者は、国際法、国際組織、国際的な紛争処理機関、軍事同盟関係、集団的安全保障システム等の信頼性と有効性は、限られたものであることを常に意識して行動すべきである。国際政治の行動主体はnation‐state(国民国家)なのであり、国際機関や同盟関係ではない(つまり、日本の外交と国防の主体は日本政府なのであり、アメリカ大統領のクリントンやオバマやトランプではない。もっともらしい外交理論を並べたてる国連安保理やワシントンDCの政治家の行動が、日本というnation‐stateによる主体的な行動の代用品になるわけではない)。 自助努力(自主防衛の努力)を怠る国家(=戦後の日本のような国)は、いずれ国際政治の急変事態において脱落国や隷属国となる運命に遭遇する。 以上の三点が、リアリズム外交(バランス・オブ・パワー外交)の重要なコンセプトである。 筆者が本稿において採り上げるビスマルクは、1871年にドイツ統一を達成し、ドイツ帝国初代宰相となった。軍事力によるドイツ統一(「鉄血政策」)を成し遂げ、その後ヨーロッパ外交の主導権を握り、ヨーロッパの平和維持に手腕を発揮したビスマルクは生涯、上記1~3のリアリズム外交を実践した人物であった』、「国際政治の行動主体はnation‐state(国民国家)なのであり、国際機関や同盟関係ではない」、究極的にはそうなのかも知れないが、いまや「国際機関や同盟関係」の重要性も増しているのではなかろうか。
・『「鉄血宰相」は「慎重で柔軟で反戦的」に変身した  「ドイツ建国の父」ビスマルクは、不思議な人物であった。矛盾の塊であった。彼の複雑な思考と矛盾した性格は、多くの人に誤解・曲解されてきた。そのため過去150年間、彼に対する毀誉褒貶きよほうへんは激しかった。ドイツ嫌いの傾向がある欧米のリベラル派やユダヤ系言論人にとって、ビスマルクは「不寛容で権威主義的なドイツ独特の国家主義を作った張本人」であり、「ヒトラーのような独裁者を生み出したドイツの不安定なポリティカル・カルチャーを作った男」であった。 その一方で、保守派の言論人や国際政治学者にはビスマルクを絶賛する人が多かった。戦略家のジョージ・ケナン、ヘンリー・キッシンジャー、ケネス・ウォルツ(国際政治学ネオ・リアリズム学派の創立者)等は、ビスマルクを「リアリズム外交の天才」と絶賛している。 1860年代のビスマルクは、大胆・冷酷・狡猾な外交政策により近隣のデンマーク・オーストリア・フランスを次から次へと軍国プロイセン(プロシア)と戦争せざるを得ない立場に追い込んでいった非情で好戦的な外交家であった。しかしこれらの三戦争に勝利してドイツ統一に成功したビスマルクは、あっという間に「慎重で柔軟で反戦的(避戦的)な現状維持派」に転身したのである。 過去五世紀の国際政治史において、これほどまでに鮮やかに大変身した外交家は他にいない。プロイセン宰相期(1862~70年)のビスマルク外交と、ドイツ帝国宰相期(1871~90年)のビスマルク外交を比べると、まったく別の人物が外交・軍事政策をやっているかのような印象を受ける。それほどまでに際立った変身であった』、「プロイセン宰相期」と「ドイツ帝国宰相期」では状況が変わった以上、「変身」は賢明な策なのだろう。
・『無節操なオポチュニストか、冷酷非情なマキャベリストか  欧米諸国において未だにビスマルクに対する毀誉褒貶が激しいのも、そのせいである。多くのリベラル派にとって、ビスマルクは「無節操なオポチュニスト」であり、「冷酷非情なマキャベリスト」である。しかし保守派(特に国際政治学のリアリスト派)にとって、彼は「軍事力を使うべき時と使うべきでない時を明瞭に峻別する能力があった、稀まれに見る理性的なリアリスト」なのである。 過去五世紀間の国際政治をバランス・オブ・パワー(勢力均衡)外交の視点から見るリアリスト派と、政治的なイデオロギーの立場(国際政治を、自由主義と権威主義の闘い、民主主義と軍国主義の闘い、社会主義と資本主義の闘い、といった「主義」によって判断する立場)から見るリベラル派とでは、ビスマルク外交に対する評価が正反対になってしまう』、評価軸が違えば、「評価が正反対になってしまう」のはやむを得ない。
・『バイロンやシェイクスピアを愛好するインテリ  『歴史に残る外交三賢人』ではこの複雑な外交家ビスマルクを、七つに分けて解説した。それらは、①ビスマルクと明治日本、②厄介な「ドイツ問題」を創り出したビスマルク、③ビスマルクの生い立ちと性格、④無軌道で放埓な青年期、⑤冷徹鋭利な外交官に変身、⑥果敢な武断主義者としてドイツを統一、⑦慎重で避戦的な勢力均衡主義者として西欧外交に君臨、の七項目である。 「傲岸な鉄血宰相」ビスマルクは、実は教養レベルの高いインテリであった。彼はバイロンやシェイクスピアを好み、ウィットに富んだ会話の最中にバイロンの詩やシェイクスピア劇の台詞を原語で(流暢な英語で)巧みに引用して、周囲の人たちを楽しませた談話の名人であった。そして、そのビスマルクの人生自体がByronic でShakespeareanな「激情と苦悶とパラドックスに満ちた壮大な歴史ドラマ」だったのである。 19世紀後半期のヨーロッパに突然、ビスマルクという国際政治の巨人が出現したため、その後の欧州史は根本的に変化してしまった。1860年代から1890年までのビスマルク外交を理解しなければ、20世紀前半期のヨーロッパ外交の悲劇(二度の世界大戦)も理解できない。その意味においてビスマルク外交を理解することは、過去一世紀半の間の国際政治を理解するために不可欠な事項なのである』、「彼はバイロンやシェイクスピアを好み、ウィットに富んだ会話の最中にバイロンの詩やシェイクスピア劇の台詞を原語で(流暢な英語で)巧みに引用して、周囲の人たちを楽しませた談話の名人であった」、典型的な欧州の教養人だ。「ビスマルク外交」と「二度の世界大戦」がどうつながるのか、機会があれば考えていきたい。

次に、3月26日付けPRESIDENT Onlineが掲載した現代史家の大木 毅氏による「敗戦をヒトラーのせいにした「戦車将軍」のウソ 誇張と自己弁護で巨大化した「伝説」」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/33783
・『ドイツ装甲部隊の父、そして「電撃戦」の生みの親と呼ばれる、ナチス・ドイツの将軍がいる。現代史家の大木毅氏は「『戦車将軍グデーリアン』の自叙伝を鵜呑みにしてはいけない。事実とは異なるところがある」という。彼自身の作りあげた虚像とは――。 ※本稿は、大木毅『戦車将軍グデーリアン「電撃戦」を演出した男』(角川新書)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『ナチス・ドイツを支えた「戦車将軍」のセルフ・イメージ  第2次世界大戦におけるドイツ国防軍は、その能力のほとんどが作戦・戦術次元にとどまっていたとはいえ、優れた指揮官を輩出した。北アフリカで縦横無尽の活躍をみせ、「砂漠の狐」の異名を取ったエルヴィン・ロンメル元帥などは、典型的な実例であろう。 この、ドイツ軍のスーパースターであるロンメルにはかなわないまでも、ハインツ・グデーリアン上級大将(ドイツ軍には、元帥と大将のあいだに「上級大将」という階級がある)といえば、少なからぬ人が、聞いたことがあるとうなずくはずだ。 自ら育て上げたドイツ装甲部隊を率いて東西に転戦、大戦果を挙げた「電撃戦」の立役者にして、ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦の先鋒。のちには、装甲兵総監や参謀総長代理として、敗勢にあるナチス・ドイツを支えた「戦車将軍」というあたりが、その最大公約数的イメージであろう。 かかるグデーリアン像は、100パーセント間違いというわけではない。しかしながら、過去四半世紀の軍事史研究の進展は、彼の実態をしだいにあきらかにしつつある。 結局のところ、ここで示したような姿は、グデーリアン本人が広めたセルフ・イメージにほかならず、ロンメルや「ドイツ国防軍最高の頭脳」エーリヒ・フォン・マンシュタインの場合同様、多くの誇張や虚偽が混じり込んでいるのである』、「多くの誇張や虚偽が混じり込んでいる」、避けられないことのようだ。
・『回顧録『電撃戦』によるグデーリアンの虚像  グデーリアンの回想録『電撃戦』(原題は、『一軍人の回想』。原書初版は1951年刊行)である。『電撃戦』は、イギリスの軍事思想家バジル・H・リデル=ハートのプロデュースによって英訳され(英語版タイトルは『パンツァー・リーダー』)、世界的に知られるようになった。 ドイツ語よりもはるかに話者が多い英語に訳されることによって、グデーリアンの回想、あるいは、彼が事実はこうであったと思わせたかった記述は、一躍、第二次世界大戦の基本史料の地位を獲得したのである。 その結果、多くのグデーリアン伝や研究書も、イギリスの軍事史家ケネス・マクセイの著書のような例外もあったとはいえ、おおむね『電撃戦』が打ち出した解釈に沿って書かれていく』、『電撃戦』は戦史上、衝撃的だっただけに、影響力が大きくなるのは当然だ。
・『修正され始めた脚色された「自画像」  日本においても、旧陸軍軍人が『電撃戦』を訳出刊行し、これをもとにして戦史記事などを発表したから、グデーリアンが演出したイメージが、いよいよ流布されることになった。 『電撃戦』の訳者、本郷健元陸軍大佐の評価は、その典型であろう。 「グデーリアン将軍は、ひたむきで情熱的、創造的な想像力に恵まれた真の意味におけるプロフェッショナルな軍人であった。軽易に就かずあえて難局に挑戦しようとする積極果敢な資質の持主であり、みずからに課された職務を全うするためには猪突猛進する……そこには地位や名誉を追い求める野心などみじんも感じられない」(『電撃戦』訳者あとがき)。 史料的・時代的制約を思えば、このような理解がなされたのも無理からぬことではあった。だが、世紀が変わる前後から出てきた新しい研究は、かかるポジティヴなグデーリアン像に疑問を投げかけている』、「訳者」も翻訳本の価値を高めるため、誇張してしまうのだろう。
・『「ドイツ装甲部隊の父」の1人にすぎない  まず、アメリカの軍事史家ロバート・チティーノが、その著作『電撃戦への道』(1999年)において、グデーリアンの輝かしい実績は認めるとしても、ドイツ軍装甲部隊創設・育成の功績は、けっして彼一人に帰せられるものではないことを実証している。 回想録の『電撃戦』では、ごく簡単にしか触れられていないが、グデーリアンの上官であり、自動車戦闘部隊総監を務めたオスヴァルト・ルッツ装甲兵大将こそ、もう一人のキーパーソンだったと指摘したのである。 ルッツは、グデーリアン以前に、戦車の独立集中使用や奇襲的投入などの発想を得ており、いまだ懐疑的な軍首脳部を粘り強く説得して、その思想の実現をはかっていた。機械化戦のドクトリンを最初に文書化したのも、ルッツだった。 つまり、グデーリアンはドイツ装甲部隊の創設者の一人ではあったけれども、彼自らが描いたようなオンリーワンではなかったと主張したのだ。 ついで、2006年には、やはりアメリカの軍事史家であるラッセル・A・ハートが、グデーリアン伝を著し、事実と照らして、いわば彼の自画像であった従来のイメージに修正を迫った』、確かに『電撃戦』のような画期的戦略は、「グデーリアンの上官であり、自動車戦闘部隊総監を務めたオスヴァルト・ルッツ装甲兵大将こそ、もう一人のキーパーソンだった」、大いにあり得る話だ。
・『貧窮するグデーリアンと名声を望むリデル=ハートの協力  また、グデーリアンは、戦後になってから、自分は早くよりイギリスの軍事思想家であるバジル・H・リデル=ハートの著作に注目し、これを咀嚼して、ドイツ装甲部隊の指揮と運用に応用したと主張している。 だが、こうした議論は、第二次世界大戦後のグデーリアンとリデル=ハートの協力関係から来る後付けの誇張であると指摘された。 この問題について、イスラエルの軍事史家アザー・ガットが、リデル=ハートの要請によりグデーリアンが、『電撃戦』英訳版に加筆した部分があることをあきらかにしたのだ。 むろん、そこでは、ドイツ装甲部隊の成功にリデル=ハートの思想が寄与していたことを、実際以上に強調していたのである』、「貧窮するグデーリアンと名声を望むリデル=ハートの協力」、こんなことまであるとは、心底驚かされた。
・『続々と明らかになった誇張や「不都合な事実」  さらに、『電撃戦』の実戦指揮に関する記述にも、事実と異なる部分が少なくないことが指摘された。 オーストラリアの戦史家で、スモレンスク戦(1941年)を独ソ戦の転回点として捉える画期的な研究書を著したデイヴィッド・ストーエルが、グデーリアンの書簡などの一次史料にあたり、『電撃戦』の誇張や恣意的記述を暴露したのである。 ストーエルによれば、『電撃戦』に圧勝として描かれているいくつかの戦闘のあいだも、グデーリアンは実際には悲観と苦渋をあらわにしているというのだ。 同様に、グデーリアンの私文書を含む一次史料を博捜したドイツの歴史家ヨハネス・ヒュルターも、グデーリアンは自らが提示したような非政治的軍人ではなく、ナチスの東方征服を支持する存在であったことをあきらかにした』、「ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦の先鋒」に任じられた背景には、「ナチスの東方征服を支持する存在であった」ためだったようだ。
・『『電撃戦』の原案は米軍調査への自己弁護?  加えて、『電撃戦』の上梓は、戦争指導をめぐるヒトラーその他とのあつれきに関して、おのれを弁護する活動の一環であり、さらには収入を得るための手段だったこともわかってきている。 米陸軍歴史局(Historical Branch)は、戦史研究にかつての敵側の視点や情報を取り入れるため、1945年7月より、ドイツ国防軍の元高級将校に対する調査や報告書作成の依頼を行っていた。 やがて、その規模は拡大され、元国防軍高級将校がヒトラーに敗戦の責を押しつけ、自己弁護を唱える場という性格を帯びていくことになる。 ドイツの歴史家エスター=ユーリア・ホーヴェルの研究によれば、グデーリアンは、この米軍による調査に協力的であった。その理由の一つとして、彼が米軍による調査を自己弁護の機会として捉えたとの推測が成り立つであろう。 実は、このグデーリアンの米陸軍歴史局に対する回答が、『電撃戦』の原案の少なからぬ部分を構成しているのである』、「米陸軍歴史局」による「ドイツ国防軍の元高級将校に対する調査や報告書作成の依頼・・・その規模は拡大され、元国防軍高級将校がヒトラーに敗戦の責を押しつけ、自己弁護を唱える場という性格を帯びていくことになる」、戦史研究というのもこうした歪みがあるようだ。
・『隠された蛮行、覆る「軍事テクノクラート」像  しかし、より重要なのは、グデーリアンは、軍人は政治に関わらずという姿勢をくずさぬ、一種の軍事テクノクラートであったとの主張がくつがえされたことだろう。 グデーリアンが、第一次大戦に敗れたのち、「鉄師団」の参謀を務めたことは、1970年代から知られていた。これは、陸海軍の将校や国粋主義的政治家によって募兵され、元下士官兵を中心に編成された私兵集団「義勇軍」の一つである。 「義勇軍」は、敗戦前後にドイツが占領していた地域(ロシア、あるいは講和条約後にバルト三国やポーランドとなる領域)からの撤退を拒否し、白軍とともに赤軍に抗して戦闘を継続、捕虜殺害や住民虐殺など、さまざまな残虐行為を犯していた。 当然、「鉄師団」の参謀だったグデーリアンも、かかる蛮行を見聞していたはずだ。しかし、彼はこの時期のことを『電撃戦』に記していない。 こうした過去、あるいは、プロイセンの名望家の一族に生まれたという出自からすれば、グデーリアンが抱いていた過激な国粋主義は、本来、もっと早くに暴露されてしかるべきだったろうが、先に述べたような賛美の論調から、そうした指摘もないがしろにされがちであった』、第一次大戦後に「編成された私兵集団「義勇軍」の一つ」で「さまざまな残虐行為を犯していた」「「鉄師団」の参謀」、だったとは初めて知ったが、幻滅させる材料だ。
・『ヒトラーに共鳴した“国粋主義者”  さりながら、20世紀の末ごろより、グデーリアンの政治的志向の解明は、著しく進んだ。 グデーリアンは、上層中産階級の人間であることから来る封建的階級認識ゆえに、大衆運動としての側面を持つナチズムとは完全に一致し得なかったにせよ、ヒトラーに共鳴する国粋主義者だったのである。 第一次世界大戦直後、義勇軍に従軍していたころから、ナチ時代、さらには戦後を通じて、彼の政治・歴史観は一貫していた。それは、1948年に捕虜の境遇から解放されてから、1954年に南独シュヴァンガウで没するまでに、発表した諸論考にあきらかである。 そのような議論は、冷戦という時代背景があるとはいえ、強烈な反共主義にみちみちており、彼本来の政治思想をうかがわせるものだった。さらに、今日では、グデーリアンが1950年代に、元ナチスの政治運動に加盟していたことも証明されている』、国防軍はナチスとは別だと思っていたが、「グデーリアン」が「ヒトラーに共鳴した“国粋主義者”」、とはますます幻滅した。
・『「グデーリアンがつくりあげた『仮面』は剥がされた」  このように、今日の歴史学界におけるグデーリアン像は、かつての非政治的な軍事の「職人」といった評価から、作戦・戦術次元の指揮官としては卓越しているが、政治的には素朴な国粋主義者であり、問題を抱えた人物であるとの理解に変わっているとみてよい。 軍事面においても、グデーリアンがドイツ装甲部隊の創設に果たした役割は、もちろん全否定こそされていないものの、割引きされる部分が少なくないのだ。 グデーリアンがつくりあげた「仮面」は剥がされたのである』、歴史を見る際には、こうした「仮面」にも十分気をつける必要がありそうだ。

第三に、この続きを、3月31日付けPRESIDENT Onlineが掲載した現代史家の大木 毅氏による「なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか 戦車将軍、フランス全土を駆け回る」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/33982
・『第1次大戦では4年経っても倒せなかったフランスを、ナチス・ドイツは1カ月ほどで攻略した。現代史家の大木毅氏は「グデーリアン装甲部隊の進撃はめざましかった。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった」という――。※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです』、第2次大戦の最大の謎の1つで、興味深い。
・『ダンケルクの停止命令が発出された理由  このダンケルクの停止命令は、第2次世界大戦史の重大な転回点だったとされている。それによって、連合軍、とりわけイギリス軍に致命傷を与えるチャンスが失われたのだ。かかる不条理な命令を発したのは、ヒトラーだったとされている。 そのこと自体は間違いではない。が、ヒトラー決定以前から、クライスト、クルーゲ、ルントシュテットらが、グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがっていたことも指摘しておかねばならない。 5月23日、クライスト装甲集団司令官は、麾下部隊が消耗し、分散していることを懸念すると、A軍集団司令部に報告した。 あらゆる快速部隊を指揮下に入れていたクルーゲ第4軍司令官も、そうした不安を共有していたから、快速部隊をいったん停止させ、後続部隊との間隔を詰めるべきだと意見具申する。 ルントシュテットA軍集団司令官も、この進言を容れ、25日の攻撃再開に備えて、クライストとホートの両装甲集団は現在地点にとどまるべしと下命した。つまり、24日の停止命令より前、23日に、諸自動車化軍団は足踏みさせられていたのだ』、「ルントシュテットA軍集団司令官」が「ヒトラー」の「停止命令」の前日に、停止を命じていたとは初めて知った。前線指揮官にとっては、補給面を重視して、「グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがっていた」、大いにあり得る話だ。
・『停止命令は“あらためて”出されたもの  けれども、連合軍撃滅のチャンスが到来していると判断したブラウヒッチュ陸軍総司令官とハルダー陸軍参謀総長は、A軍集団の消極的な措置に怒り、全装甲部隊を握っているクルーゲの第4軍をB軍集団麾下に移す旨の命令を発した。 むろん、より攻撃的なB軍集団に突進を続けさせる企図である。 5月24日朝、ヒトラーが、シャルルヴィルにあったA軍集団司令所を訪れたときの情勢は、このようなものであった。 ルントシュテットから、A軍集団が第4軍を奪われ、脇役に追いやられたことを聞かされたヒトラーは、自分のあずかり知らぬところで、かかる重大決定がなされたことに激怒し、ブラウヒッチュの命令は無効であるとした。 その上で、あらためて装甲部隊を停止させると決定したのである。 はたして、ヒトラーを、かくのごとき誤断にみちびいた動機は何だったのだろうか?』、「ルントシュテット」が「ブラウヒッチュの命令」を心よく思っていなかったのだろうか。
・『ヒトラーを誤断させた8つの動機  1940年の西方侵攻作戦について、今なおスタンダードとされている研究書『電撃戦という幻』(1995年初版刊行)を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、ダンケルク撤退直後から立てられたさまざまな説をもとに、考えられる理由を以下のように列挙している。 ①ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さないと判断した(24日から雨が降りはじめ、地面が泥濘と化した)。 ②以後、フランス全土を占領する作戦のため、装甲部隊を温存すべきだと考えた。 ③連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置しておいた。 ④攻勢第2段階に関心が移っており、ダンケルク攻略は副次的な作戦であるとみなした。 ⑤包囲した敵の規模を過小評価し、さほど重要ではないと思っていた。 ⑥海上撤退作戦などは不可能であると考えた。 フリーザーによれば、この①から⑥は必ずしも強固な論拠を持つものではなく、反駁可能である。 重要なのは、⑦空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅できるとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じたとする説と、⑧イギリスを講和にみちびくため、その面子をつぶすことを恐れて、遠征軍殲滅を避けたとする説であろう』、多くのもっともらしい説があることに、改めて驚かされた。
・『自己の権力を強調するため?  フリーザーは、⑦については、ゲーリングの発言は23日のことで、ヒトラーの決定に影響力をおよぼした可能性はあるものの、当時ドイツ空軍がかなりの消耗を被っていたことを考えれば(当然、総統の耳にも入っている)、決定的な要因となったとは考えにくいとした。 ⑧に関しても、時系列に沿って検討してみると、ヒトラーが、講和のために手加減したと取れるような発言をしたのは、ダンケルク撤退の成功があきらかになってからのことであり、いわば失態をとりつくろう意味があったと退けている。 かかる議論の末に、フリーザーが到達したのは、装甲部隊のダンケルク突入に熱心だったOKHに、誰が主人であるかを見せつけるために、ヒトラーはルントシュテットらに同調した、つまり、自己の権力を強調するために停止命令を出したとする説だ。 この⑦と⑧、そしてフリーザー説に示されている要因のどれかが決定的だったのかもしれないし、あるいは、そのすべてが複合的にヒトラーの心理に作用していた可能性もあろう』、身近にいる「ルントシュテット」の意見に同調したのかも知れない。
・『孤立無援の連合国軍、大規模脱出を決行  いずれにせよ、英国の守護天使が授けたかとさえ思われるような好機が、看過されるわけはなかった。王立海軍は、商船216隻、スクーツ(喫水の浅い木製船)40隻、海軍艦艇139隻、さらに数百の漁船や小舟艇、全体で900隻以上をかき集め、「ダイナモ」作戦を発動した。 その目的は、包囲されたイギリス遠征軍とフランス軍ほかの連合軍の一部部隊を海路救出することだ。 風前の灯火だった連合軍部隊が脱出していくのを、グデーリアンとその装甲部隊は指をくわえて見ているほかなかった。こうして助け出されたイギリス軍将兵は、重装備こそ失っていたとはいえ、英陸軍再建の土台になっていく。 ドイツ軍に訪れた千載一遇の機会は空費されてしまったのである』、ドイツ軍の手落ちとはいえ、「「ダイナモ」作戦」も見事だった。
・『ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着  5月26日、ルントシュテットより状況の変化についての説明を受けたヒトラーは、ようやく停止命令を撤回した。翌27日午前8時、攻撃が再開されたものの、袋の鼠であったはずの連合軍諸部隊は、ダンケルクのほころびから逃れだしていた。 6月1日、ドイツ軍はダンケルク総攻撃を実施し、4日朝には同市を制圧した。彼らが見たものは、おびただしい数の遺棄された装備や物資であった。イギリス陸軍の中核をなす、訓練され、経験を積んだ将兵は、海峡のかなたに去っていたのだ。 ともあれ、ダンケルク占領によって、西方侵攻作戦は結着がついた。ドイツ装甲部隊が築いた回廊の南には、なお相当数のフランス軍部隊があり、ソンムとエーヌの両河川に拠って抵抗の準備を整えてはいる。 だが、主力を撃滅されたフランス軍が66個師団しか有していなかったのに対し、ドイツ軍は104個師団(ほかに予備として19個師団を控置)を投入することが可能だったのである』、「フランス軍が66個師団」残っていたとは初めて知った。
・『赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生  従って、フランスにとどめを刺すための攻勢、「赤号」作戦(6月5日発動)は、ワンサイド・ゲームの様相を呈することになった。 これに先立つ5月28日、グデーリアンは、あらたな装甲集団を編合し、「赤号」作戦に参加するよう、ヒトラーから命じられる。「グデーリアン装甲集団」の誕生であった。 6月1日にグデーリアンを司令官として発足した、この新装甲集団は2個自動車化軍団を麾下に置いていた。それぞれ二個装甲師団および1個自動車化歩兵師団を有する第39・第41自動車化軍団である。 A軍集団麾下第12軍の指揮下に置かれたグデーリアン装甲集団は、南に向かって突進するように命じられた。スダン南方からスイス国境にかけて展開しているフランス軍の背後に回りこみ、これを包囲することが目的だった。 6月9日、攻勢を発動したグデーリアン装甲集団の進撃はめざましく、たちまちブザンソンを攻略、およそ一週間後の17日にはもうスイス国境に達していた。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった。 「ポンタルリエでスイス国境に着いたと報告すると、ヒトラーは『貴官の報告は誤りで、ポンタイエ・シュル・ソーヌ〔東部フランスの町〕に到達したということだろう』と反問してきた。すぐに『ミスではありません。小官は今、スイス国境のポンタルリエにおります』と回答する。それで、疑り深いOKWも納得した」(『電撃戦』)』、「グデーリアン装甲集団の進撃はめざましく・・・あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほど」、さすがだ。
・『大国フランスを1ヵ月で降伏させる  一方、独仏国境に展開していたドイツC軍集団もマジノ線攻撃を敢行、突破に成功し、6月19日にグデーリアン装甲集団と手をつなぐ。約50万のフランス軍が包囲されたのだ。 この間、6月14日には、無防備都市宣言を出した首都パリにドイツ軍が入城しており、フランス国民の士気は地に落ちていた。6月22日、パリ近郊コンピエーニュの森で独仏の休戦協定が調印される。 ドイツは、第1次世界大戦で4年余の時を費やして、ついに打倒することができなかった大国フランスを、今度は一か月ほどで降したのである』、「大国フランスを、今度は一か月ほどで降した」、「フランス」のふがいなさにはコメントする気にもならない。 
タグ:赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生 ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着 「ダイナモ」作戦 孤立無援の連合国軍、大規模脱出を決行 自己の権力を強調するため? イギリスを講和にみちびくため、その面子をつぶすことを恐れて、遠征軍殲滅を避けた 空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅できるとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じた 海上撤退作戦などは不可能であると考えた 包囲した敵の規模を過小評価し、さほど重要ではないと思っていた 攻勢第2段階に関心が移っており、ダンケルク攻略は副次的な作戦であるとみなした 連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置 以後、フランス全土を占領する作戦のため、装甲部隊を温存すべきだと考えた ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さないと判断 ヒトラーを誤断させた8つの動機 停止命令は“あらためて”出されたもの グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがっていた ダンケルクの停止命令が発出された理由 「なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか 戦車将軍、フランス全土を駆け回る」 「グデーリアンがつくりあげた『仮面』は剥がされた」 ヒトラーに共鳴した“国粋主義者” 隠された蛮行、覆る「軍事テクノクラート」像 『電撃戦』の原案は米軍調査への自己弁護? 続々と明らかになった誇張や「不都合な事実」 貧窮するグデーリアンと名声を望むリデル=ハートの協力 「ドイツ装甲部隊の父」の1人にすぎない 修正され始めた脚色された「自画像」 回顧録『電撃戦』によるグデーリアンの虚像 ナチス・ドイツを支えた「戦車将軍」のセルフ・イメージ 戦車将軍グデーリアン 「敗戦をヒトラーのせいにした「戦車将軍」のウソ 誇張と自己弁護で巨大化した「伝説」」 大木 毅 バイロンやシェイクスピアを好み、ウィットに富んだ会話の最中にバイロンの詩やシェイクスピア劇の台詞を原語で(流暢な英語で)巧みに引用して、周囲の人たちを楽しませた談話の名人であった バイロンやシェイクスピアを愛好するインテリ 無節操なオポチュニストか、冷酷非情なマキャベリストか 「プロイセン宰相期」と「ドイツ帝国宰相期」では状況が変わった以上、「変身」は賢明な策なのだろう 「鉄血宰相」は「慎重で柔軟で反戦的」に変身した 究極的にはそうなのかも知れないが、いまや「国際機関や同盟関係」の重要性も増しているのではなかろうか 国際政治をするのは「国民国家」それ自体 外交に「普遍的正義」や「好き嫌い」はいらない 国際政治の本質は、古代ギリシャ・ローマ時代から現在まで、常にアナーキー 古代ギリシャ以来、国際政治はアナーキー状態 「「ヒトラーの国ドイツ」を生んだビスマルクを賢人と評価する理由 「国際政治の本質」を理解しているか」 伊藤 貫 PRESIDENT ONLINE (11)(「ヒトラーの国ドイツ」を生んだビスマルクを賢人と評価する理由 「国際政治の本質」を理解しているか、敗戦をヒトラーのせいにした「戦車将軍」のウソ 誇張と自己弁護で巨大化した「伝説」、なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか 戦車将軍 フランス全土を駆け回る) 歴史問題
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