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歴史問題(12)(“神か悪魔か…”さまざまな証言に見る元陸軍参謀・辻政信の「生への執着」、終戦後も国内潜行生活を続けた元日本陸軍参謀が国会議員になった理由、古賀茂明「終戦記念日に考えたい日本の罪」、日本政府は国民を守らない…「原爆は怖くない」ウソだらけの安全神話) [国内政治]

昨日は世界史的な歴史問題を取上げたが、今日は日本史的な歴史問題(12)(“神か悪魔か…”さまざまな証言に見る元陸軍参謀・辻政信の「生への執着」、終戦後も国内潜行生活を続けた元日本陸軍参謀が国会議員になった理由、古賀茂明「終戦記念日に考えたい日本の罪」、日本政府は国民を守らない…「原爆は怖くない」ウソだらけの安全神話)である。

先ずは、5月30日付けFNNプライムオンライン「“神か悪魔か…”さまざまな証言に見る元陸軍参謀・辻政信の「生への執着」 FNSドキュメンタリー大賞2019」を紹介しよう。
https://www.fnn.jp/articles/-/47171
・『東南アジア屈指の大都市、タイの首都・バンコク。 仏教への信仰が厚いこの地には、日本とゆかりの深い施設も点在している。 80年以上の歴史がある、日本人納骨堂もそのひとつで、堂内の一角にいつ誰が描いたのかもわからない肖像画がある。 肖像画に描かれる男性の正体は、バンコクで終戦を迎えた元日本陸軍参謀・辻政信氏。 戦時中、幾多の激戦地で活躍し、“作戦の神様”と評される一方で悪評も絶えない。「無謀な作戦で多くの犠牲を出した」「現場の指揮官に自殺を強要した」などと、耳を疑うものばかりだ。 さらにシンガポールでは反日ゲリラ活動を防ぐためとして、数千人の虐殺を指揮したとされている。 昭和の歴史を綴った作家たちは、「地獄からの使者」「絶対悪」などと辻氏をこき下ろした。 その辻氏は戦後に突然行方をくらませ、アジア各国に潜伏し、戦犯としての追及を逃れる。 再び世に出た辻氏は国会議員になり、防衛力の強化を訴え、“第三次大戦を起こしかねない男”と噂された。そして最後は、出張先の東南アジアで失踪。多くの謎を残したまま、人知れずこの世を去った。 激動の時代に、非難と脚光を浴びながら生きた男。その姿は今を生きる人々にどう映るのか。前編では、辻氏の戦時中の活躍と、戦後の海外での潜行生活を追う』、戦後史の謎の1つは解き明かされるのだろうか。
・『元日本陸軍参謀・辻政信  辻氏の地元・石川県で文房具店を営む、おいの辻政晴さんが取材に応じてくれた。 「中佐(政信)が、ノモンハン事件の一番上に立って、『お前、これやれ』って言えるわけがないです。板垣征四郎とか、大将や中将が指揮官だった。本来、指揮官が一番悪いっちゃ悪い」と話す政晴さん。 政晴さんの妻・美惠子さんは「一回だけ知り合いから、『悪魔ってわかっている政信さんの親戚の家ってわかって嫁に行ったのか』と言われて。正直、あんまり詳しく知らなかった。親は当然知っていたと思うんだけど」と当時を振り返った。 政晴さんの長男・克憲さんは、こう語る。 「小さい頃は、祖父や祖母に『国のために頑張った方なんや』と言われて、それだけを信じて成長してきたんですけど、大きくなったら良いのか悪いのか、いろんな情報が入ってくる。そこで自分なりに『政信さんにもひょっとしたら、こういう面があったのか』みたいなことも感じ取ったんです。 (番組ディレクターの)山本さんは、(辻政信の)いい面をなるべく見てくれていると思うのですが、他の方から直に『正直、政信さんのここ、よくないですよね』って聞いたことがないので教えていただきたい」 問われた山本ディレクターは答える。 「僕もご本人にお会いしたことはないので、否定する立場にはないんですけれども。“悪”だという方の意見としては、やはり軍人時代、参謀として多少暴走したり、失敗したりそこを見ていると思うんです。ですけど、当時は軍隊という大きな組織の中で、たったひとりの決断で彼が悪だと言えてしまうのかというのは、非常に大きな疑問です」』、Wikipediaの記事は不正確らしいが、一読すると、相当のワルという印象を受ける。「番組ディレクター」の見方は立場もあって甘いようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1
・『エリートでありながら自ら前線に出ていた辻  1939年、旧満州国とモンゴルとの国境地帯・ノモンハンで、日本軍と旧ソ連軍との軍事衝突が勃発。両軍とも2万人近い死傷者を出す惨劇となった。 この戦いで参謀を務めた辻は、本部からの指示に背く作戦を強行。多くの犠牲に繋がったとして非難を浴びた。 当時の辻氏の手記には、「ノモンハンの罪人となると、昨日までの友が赤の他人となり、手のひらを返したようになる」とある。 元帝京大学教授で歴史学者の戸部良一さんは、上司も一目置いた辻氏の特性をこう指摘する。 「彼は、積極果敢に何でもやる、そして率先垂範。部下に丸投げするのではなくて、自分からやる。それから、生命を顧みずに組織の使命のために尽くす、ということをやったので、その部分は当時の人たちから、評価されていたのでしょう。 1932年の第一次上海事変の時にも、第七連隊にいた辻は上海に出征して、そこで怪我もしています。前線に出ているのでよく怪我をする。前線を知っていることが彼の強み。 そうすると、司令部にいて、コマだけ動かしている幕僚たちではかなわない。しかも彼の持っている軍事知識は、優秀だと言われるだけあって、当時の陸軍の中で群を抜いていたでしょうから。そうすると、みんな彼の弁舌にどうしても太刀打ちできないということだろうと思います。まあ、(彼は)はっきり言ってやりすぎなんです。 なんらかの意味で、当時の価値というものに合致しているんですが、それは陸軍の中で通用する価値であって、一般社会や普遍的な価値にそのまま合致したとは思われない。でも、誰もそれを止めることはできなかったんでしょうね」 ノモンハン事件での失敗で辻は一度左遷されるが、その後、マレー半島やシンガポールへの進撃に参加。今度は一転“作戦の神様”として評価された』、「前線に出ているのでよく怪我をする。前線を知っていることが彼の強み。 そうすると、司令部にいて、コマだけ動かしている幕僚たちではかなわない。しかも彼の持っている軍事知識は、優秀だと言われるだけあって、当時の陸軍の中で群を抜いていたでしょうから。そうすると、みんな彼の弁舌にどうしても太刀打ちできないということだろうと思います」、「エリートでありながら自ら前線に出ていた」とは立派だ。しかし、「ノモンハン事件での失敗」は本来、致命的だが、積極的な攻撃姿勢が裏目に出たのだろう。
・『辻の逃亡生活の始まり  太平洋戦争の開戦後、日本軍は欧米の植民地だった東南アジアの大部分や、太平洋の島々を制圧。しかし、アメリカやイギリスの逆襲を受け、勢力は一気に縮小する。 そして、1945年8月15日の終戦時、バンコクに赴任していた辻氏は、シンガポール華僑静粛事件などに関わったとして、イギリスから目の敵にされた。 戦犯として捕まるのはもはや時間の問題だったが、辻氏は奇策に出る。僧侶出身の部下7人と留学僧に扮し、バンコクで身を潜めると決めたのだ。 その部下のひとり、矢神邦雄さんは今でも、当時着ていた僧衣を大切に保管している。 「佐々木教悟という、留学生の坊さんがバンコクのワットスタットという寺にいて。その人を呼びつけて、辻政信が『俺を弟子にせよ』と言ったらしい。『そんな偉い方を坊主にできません』と言ったら『それなら納骨堂に入る手続きをとってくれ』って。それで私らに『(一緒にタイの)坊主にならんか?』と聞かれた」 終戦から2日後、辻氏はバンコク市内の寺にある日本人納骨堂へ。イギリスの追及から逃れるため、「遺書を残して死んだことにしてほしい」と上官に依頼。靑木憲信を名乗る僧侶に身分を変えて逃亡生活を始めた』、「シンガポール華僑静粛事件」では、虐殺に反対して中止を進言した河村参郎司令官と、やはり虐殺に反対した大石隊長の2名、が現場の指揮官としての虐殺の責任をとられて戦犯として処刑(Wikipedia)。しかし、逃亡生活を送ったとは卑怯だ。
・『「生きること」への強い執着  “前代未聞の逃亡者”のルーツをたどっていく。 1902年、石川県旧東谷奥村、現在の加賀市で生まれた。家は貧しく、小学校を出た後は家業の炭焼きを継ぐはずだった。 しかし、頭脳明晰な辻氏は、教師に勧められ、1917年に名古屋陸軍地方幼年学校に入学。1931年には軍のエリートを養成する陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、数々の激戦に関わった。 エリートにもかかわらず、自ら最前線へ繰り出し、部下からは慕われた一方、道理に反することは上官でも容赦なく非難し、煙たがられる存在でもあった。 「(辻は)あちこちに弾の傷痕があるらしい。それを見せてくれたけどね。急所ははずれてる。なんとなしに、立派な方だからこの人についていこうかなと思った」(矢神さん) 納骨堂での生活を始めて2カ月あまり。辻氏を追うイギリス軍は、ついに僧侶を含めた民間人にも捜査の手を伸ばす。 ともに潜伏した部下7人を、辻氏は守ってくれるようなことはあったのだろうか? 矢神さんは「守ってくれた。『生きることが一番大事だ』と。『とにかく病気をしちゃだめだ』『倒れちゃだめだ』と重々言われた」と当時を振り返る。 捕まれば処刑は免れない中、辻氏は生きることに執念を燃やした。 辻氏の著書『潜行三千里』には、「死中に活を求めるには、ただ死に向かって全身を叩きつけるにある。死神を辟易させる突進力のみが、生への進路を開拓することができる」とある。 「(辻は)中国に行くと言っていた。蔣介石の部下と心やすくしているので会いに行くと。五族協和(日・漢・満・豪・朝の五族が協同し、新たな満州国の建設に当たる理念)ということを言っていたね」と矢神さんは明かした。 7人の部下と別れた辻氏は、1945年11月に僧侶から華僑に姿を変えてバンコクを脱出。その後、現在のラオスやベトナムを経て中国へ。約1万キロの旅の末、南京にたどり着く。 イギリス軍の追求が及ばないこの地で、辻氏は蒋介石率いる中国国民党の職員として2年近く過ごす。中国への脱出劇が成功したのは、参謀としての辻氏の活躍が蒋介石に知られていたためと言われている』、「南京」で「中国国民党の職員として2年近く過ごす」とは強運だ。
・『中国での滞在は戦犯逃れのため?  辻氏の次男・毅さんが、南京滞在中の父から届いたノート6冊に及ぶ手記を見せてくれた。 「いわゆるの父の自叙伝で、子どもに対する遺書でございます」と毅さんが話す手記には自身の生い立ちから軍人としての歩み、そして終戦直後、生きる道を選ぶまでの葛藤が記されていた。 「自分の利益、自利のためでさえなければ、この生を選ぶことは天地に恥ずるものでない」(手記より) 毅さんは、手記を見ながら「(父は)自殺も考えたんです。責任をとるならそれでもいいんですけど、日本のために、陛下のために働きはできないかという一心から、蔣介石をはじめとする政府とうまくやっていけるような対策を取ろうと。その間の経緯がずっと書いてあります。潜行中どういう形で中国との折衝、あるいはいろんな対応に臨んでいったか、書かれております」と話す。 一方、元帝京大学教授の戸部さんの分析は違う。 「中国に協力するために重慶に行こうと考えたというんですが、2通り考え方があります。辻さんの言ったことをそのまま受け取る考え方と、イギリスの戦犯追及から逃れるためだという考え方。 私は“戦犯追及から逃れる”という動機の方が大きかったんではないかなと思います。 シンガポール攻略の立役者で、それに付随する忌まわしい事件の責任者という捉え方もありましたので、当然ながらイギリス側としては問題視したでしょうし、復讐心があって当然です。 軍人であれば当然ながら、(辻は)本能的にやられるな、と思ったでしょう。逃れようとしたのは、それなりに合理的な判断だったかもしれません。本来、軍人としては責任を取るべきですから、逃げるのはまかりならん、軍人らしくないという批判は当然ありえたでしょうね」 中国での内戦が激化し始めた1948年、辻氏は日本への帰国を決意。約6年ぶりに祖国の地を踏んだ。 しかし、それは再び戦犯として追われる身になることを意味していた。当時、日本では警察やイギリスなど連合国側の憲兵が辻氏の帰国に備えて張り込みを行っていた。 一度は東京に戻るものの、追手の多さを悟った辻氏は、かつての部下に案内され、兵庫県の山あいに身を隠す。 後編では、この後潜伏をやめ国会議員への道を進む辻氏の姿を追っていく』、「後編」が楽しみだ。

次に、この後編、5月31日付けFNNプライムオンライン「終戦後も国内潜行生活を続けた元日本陸軍参謀が国会議員になった理由 FNSドキュメンタリー大賞2019」を紹介しよう。
https://www.fnn.jp/articles/-/47174#:~:text=%E6%A4%9C%E7%B4%A2-,%E7%B5%82%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%82%E5%9B%BD%E5%86%85%E6%BD%9C%E8%A1%8C%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%82%92%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%9F%E5%85%83,%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%90%86%E7%94%B1&text=%E6%88%A6%E6%99%82%E4%B8%AD%E3%80%81%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%8F%82%E8%AC%80%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6,%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%B4%A0%E9%A1%94%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F
・『戦時中、陸軍参謀として前線に出ていた辻政信氏。 “作戦の神様”とも呼ばれ、多くの戦地で活躍したとされる辻氏だが、一方で悪評も絶えず、“悪魔”と呼ばれる面もあった。 真逆の評価をまとう男は、どんな素顔だったのか?激動の時代に、非難と脚光を浴びながら生きた男の姿は、今を生きる人々にどう映るのか。 前編では辻氏の戦時中の活躍と、戦後の海外での潜行生活に迫った。後編では、辻氏の国内での潜行生活と、国会議員となってからの歩みを追う』、最後は「国会議員」にまでなったというのは驚きだ。
・『祖国でも引き続き潜伏生活を余儀なくされる  1948年に日本へと帰国を決めた辻氏だが、一度は東京に戻るも、追手の多さを悟り、かつての部下に案内され兵庫県豊岡市三原地区へとやってきた。 「誰も住んでいない古い寺を貸してほしい」と訪ねてきたのは、大学教授・本田正儀を名乗る辻氏だった。 当時、辻氏に直接会った住民・谷岡善一さんは今も健在だ。「(大学教授の本田を名乗る辻が)家にお願いに見えて。(寺で)本を書きたい、執筆したいということで、部落の総会もして『よかろう』ということはありました」と当時を振り返る。 寺は2007年に建て替えられたが、広々としたつくりは以前とほぼ同じだ。 教授に扮した辻は、ここでいつしか身につけた僧侶の務めを行っていた。 「朝晩のお経の務めをしなさった。無住の寺ですから、木魚を叩く音が10年もないわけです。それが朝晩の勤めをしはった。『ああ、木魚をたたいてもらえる』『鐘の音がする』って(地区の)年寄りも尊敬して。それから駐在さん(警察)も寄っているんです。駐在さんも世間話をして、(辻と知らずに)何も言わんで帰しとるんです。そこらへんは、今思えば我々では想像できん度胸ですね」(谷岡さん) 晴れた日には、近くの小川で釣りを楽しみ、質素ながらも豊かな生活を送っていたが、それも長くは続かなかった。 「息子さん(辻の長男)が、豊岡までの切符を買って(父に会いに来た)。豊岡までの切符を買ったことで足がついちゃった。辻が豊岡の周辺におるということが東京の方にばれた。本当に気を許して4カ月おられたと思うんです。息子さんさえ来られなかったら、もっとおられたと思うんです」(谷岡さん)』、「無住の寺」で「4カ月」も「朝晩のお経の務めをしなさった」とはさすが多才だ。
・『自らを「卑怯者」としながらも潜行し続けたのは?  豊岡の生活に別れを告げた辻氏は、親交のある仲間を頼って全国を回る。滞在先は、石川県の実家を含め10カ所以上。なりふり構わぬその足取りに、生きることへの執念がにじむ。 元帝京大学教授で歴史学者の戸部良一さんはその頃をこう分析する。 「辻さんという人は、若い時から戦場で危険なところにも自ら飛び込んで行った人なので、自分の命が助かる、それだけを望んでいたとは限らないだろうなと思います。あるいは、生きてもっと何かやるべきことがあると考えたのかもしれません。 しかしそのためには、普通にやっていたのでは捕まって活動の停止を余儀なくされる。死刑にだってなりかねないですので、それから逃れようとしたのしょう。 辻さん個人としては、自分たちが戦った戦争を、なんらかの形で後世に伝えようと思ったんじゃないですかね。伝えるためには、自分が生きていかなくちゃいけないということなのかもしれませんが、命を助かりたいと思う気持ちと、何か伝えたいという気持ち、どちらが勝っていたのかはわからないです。両方あっただろうと思いますが…」 1年半余りに及ぶ国内潜行の果てに、辻氏は東京都奥多摩町旧古里村の別荘にひとり身を寄せた。 取材スタッフは辻氏のおい、辻政晴さんとその別荘を訪ねるため、「石材会社の近くだった」という口コミを頼りに、辺りを探していく。 タクシーの運転手や近隣住民に、別荘の写真を見せて話を聞いた。 すると、近隣の住民から「建物はもう壊しちゃったけど、この向こう。この向こうに橋がある。橋の左側。東京から宮大工が来て作った家だった。天井なんかすごいよ。この辺にはないような家だった。何年か前に壊しちゃったんだよな」と記憶をたどる。 取材スタッフが手にする本を指し「これ、辻政信の本?ここにいたらしいっちゅうことだけで見たこともないし、噂だからわからない」と話してくれた。 同じ都内の自宅までわずか数10キロだったが、捕まればすべてが終わる立場を辻氏は忘れていなかった。 政晴さんは別荘があった辺りを見回し、「川沿いだね。警察が来たらバッと逃げられるところを、結構おじさんは選んでいるから。川の方にさっと逃げれば」とこぼした。 辻氏が逃亡を続けた約4年半の間、国内外では900人を超える日本の元軍人が戦犯として処刑された。 著書「ガダルカナル」で、辻はこう記している。 “私は追放の身であり、民族を悲劇的戦争に巻き込んだ大罪人であり、当然戦犯として絞首刑を受くべきでありながら逃避潜行した卑怯者である。その罪の万一をも償う道は、世界に先駆けて作られた戦争放棄の憲法を守り抜くために、貪ってきた余生を捧げる以外にはないと信じている”』、自ら「卑怯者」としたが、「その罪の万一をも償う道は・・・」は言い訳だろう。
・『戦犯解除、そして家族との再会  連合国軍はついに辻の戦犯指定解除を決定し、再び世に姿を現した辻氏の存在は、大ニュースとなった。1950年4月11日の毎日新聞朝刊には、こう書かれている。 “【問】今後何をするつもりか。  【答】追放の身が今更大きな顔をして新しい日本の表面に立つべきことでもなし。また、その資格もない。その意味で、また私はあなたたちの前から姿を消すであろう” 自宅へ戻った辻は、貧しい暮らしを耐え抜いた妻、そして5人の子どもと7年ぶりに再会した。 辻氏の次男、毅さんはそのときのことをこう語る。 「7歳のときに朝起きたら、隣に変なおじちゃんが寝ている。キャーッと飛び出した。それが父との初めての出会いでした」  一家団欒は手にしたものの、戦犯から逃れた男の家族には苦難が続いていた。 「学校の先生から、うちの姉たちもいじめられました。小学校時代に。『お前のお父さんはこんな悪いことをやった人間だ』と。先生からのいじめに遭いました」(毅さん) 辻の著書「潜行三千里」には、“罪なき妻や子に、後ろ指をささせるのはこの夫であり、この父である。ただ神に謝し、妻子に詫びた”とある。 それから辻氏は潜行中の記録をしるし、ベストセラー作家に。その知名度をひっさげて、 戦犯解除から2年、1952年に辻氏は地元・石川で衆議院議員選挙に出馬する。自分の国は自分で守るべきとして、アメリカに頼らない軍備が必要と訴えた。非難の声も上がる中、軍人時代の仲間も後押しし、当選を果たした』、「連合国軍はついに辻の戦犯指定解除を決定」、した背景には何があったのだろう。
・『国会議員になり、中立な国づくりを目指す  辻氏は何を思い、国会議員となったのか。 その事情を知るのは、藤力(ふじ・つとむ)さん。20代の頃、知り合いに頼まれて辻氏の議員秘書を務めていた。辻氏について、記憶に残っていることはあるのだろうか。 「いろいろと世間では批判も出ていましたが、昔の兵隊時代のことを私は知りません。戦後については、非常に国を思い、国を良くしようという熱意に燃えて、そのためにいろいろなことをおやりになった。だから、そういう仕事の面については、素晴らしいと思いますね」 国会議員となった辻氏は、各国の要人と会談。日本が二度と戦争に巻き込まれないようにと、中立な国づくりを目指した。 その背景には、第二次大戦後の世界を分断したアメリカと旧ソ連の対立があった。 「その頃、アメリカとロシア(旧ソ連・共産圏)との対立が非常に厳しい時代でした。だから何でもアメリカに追従して、アメリカと一緒にやるのではなくて、日本は日本の立場を守って中立で行かなきゃならんと、そういう思いが強かったんじゃないですか」(藤さん) 1958年、衆議院内閣委員会で辻氏は、「アメリカと運命を共にされるのか、それとも両陣営につかないでいこうとされるのか。あるいはソ連圏とも仲良くしようとされるのか。もう踏み切るときに来ておるのであります。曖昧な態度は許されません。あまりに甘すぎる、ものの見方が。世界情勢は厳しいのでございますよ」と物申している。 藤さんは辻氏が岸首相の退陣要求をしていたことにも触れ、「(辻は)気性も激しいし、自分の思ったことを推し進めていくというような感じだったんじゃないですかね」と話す。 1959年、所属していた自民党のトップを攻撃し、辻氏は除名処分になった。なおも軍備による自衛中立を訴えると、周囲から“第三次大戦を起こしかねない男”とささやかれる。 さらに、辻氏のもとには軍人時代の責任を問う声がいくつも寄せられ、アジア各国で起きた残虐な事件は辻氏が計画したとして、軍の元上官から告発された』、「自民党のトップを攻撃し、辻氏は除名処分になった。なおも軍備による自衛中立を訴える」、さすが硬骨漢らしい。
・『ラオスにて行方不明になるも、真相は謎のまま  1961年4月4日、無所属の参議院議員となった辻は、公務で40日間の東南アジア出張に出かけた。目的は、ベトナム戦争を食い止める和平工作とみられている。 東京を経って2週間余り。ラオスを訪れた辻氏は、僧侶に扮した姿で写真に収まった後、行方が分からなくなった。 そのラオスから、辻氏が秘書の藤氏に送ったはがきには、暗号のような言葉が並ぶ。 はがきには「何とかできる見込みです。まだ誰にもわかるまい。ご安心を乞う。留守宅の連絡を頼む。蘭を枯らさないように。池、伊藤さんによろしく」と書かれ、藤さんは「『池』というのは池田(勇人)総理大臣。その秘書が伊藤さんという人やった」と明かす。 無所属の辻氏は、池田首相と連絡を取っていたのだろうか。 藤さんは「池田さんと直接(連絡を取ること)もありますけど、伊藤さんもずっと手伝いをしていた」と話す。 辻氏はなぜ失踪したのか…さまざまな憶測が飛び交った。 辻氏の行方を知る手がかりを当時、ラオスで兵士の指導をしていた赤坂勝美さんがこう証言している。 「私の教え子(ラオス人兵士)の話によると、ちょうど辻先生がビエンチャン(ラオスの首都)をたってから約1年後に、先生がジャール平原のカンカイというところに現れて、当時の政府が先生を軟禁というか監禁というか、どこかにとどめておいて、いろいろ調べた結果、おそらくその兵隊の言うには、先生がスパイだと疑われたんじゃないかと。彼は上官に命じられて3人で先生をジャール平原の一角で銃殺した、と」 しかし、辻氏の行方をめぐっては、他にも有力な説がある。アメリカが2005年に公開した辻氏に関する文書の中に、中国語で書かれた差出人不明の手紙が入っていた。 ラオス訪問から1年半後、辻氏は中国で生きているという内容だ。 この文書を研究した早稲田大学の有馬哲夫教授は、辻氏がラオスで銃殺された可能性は低いと話す。 「彼はあの(内閣官房長官・副総理などを歴任した)緒方竹虎や、(第52~54代総理、自民党初代総裁)鳩山一郎らの軍事顧問で、いろんなアドバイスをしていたんです。自衛隊が何人ぐらいの規模で、どういった装備が必要なのか、というのを考えなければいけないわけです。 ソ連がもう一度戦争する気があるのか、その場合に戦力にどのぐらい割けるのか、中国はどうか。日本列島に兵員輸送できるのか、潜在敵国になり得るのか、アジアの情勢はどうか。 辻は意識していないんですけども、辻が与えたそういった情報はアメリカにも流れていて、アメリカは非常に評価していた。ですから、アメリカから見ると大物スパイになってしまうわけですよね。 アメリカと敵対した中国から見ると、ベトナム戦争も近いので、ここに入っていろんな情報を辻に発信してほしくないということで、前からマークしていた辻がいよいよ中国の勢力圏・ラオスに入ってくる。 あのCIA文書によると、辻はラオスのエンチェン(ビエンチャン)で拉致されて、そのまま(中国)雲南省に連れて行かれたのだと思います」』、「公務で40日間の東南アジア出張」中に「ラオス」で「行方不明」とは絵に描いたような波乱万丈の人生だ、
・『人知れず亡くなった政信に祈りを捧げる日本人  失踪から8年が経った1969年6月28日に、辻氏は行方不明のまま法律上、死亡と見なされた(法律上の命日は1968年7月20日)。  2019年3月。タイ・バンコクの日本人納骨堂では年に二回の法要が、今年も開かれ、戦争で亡くなった多くの兵士にも祈りがささげられる。 日本から法要に参加した、僧侶の平岡和子さん。名付け親である辻氏は、大おじにあたる。 「皆さんの英霊・亡くなられた方や政信の霊も、粛々と法要をさせていただく場所で、私も使命としてさせていただく。政信のことに関しましては、人それぞれの事情があると思いますので、私自身はこれ以上のことは、なかなか申すことができませんけれども。ネガティブな意味で捉えられてもはっきり言って仕方がないと思います。 ですけど、やっぱりそれで終わらずに、それを乗り越えてほしいと思います。そのためにも、皆さんご成仏というのは、私の務めだと思うので、それだけはさせていただこうと思っています」(平岡さん) 辻氏は全国的には知る人も少ない“過去の人”。郷土でも偉人として扱われていない。戦犯追及を逃れ、国会議員に転じ、最後は謎の失踪と波乱の生涯を歩んだ辻氏は戦後の日本に何を思い、成し遂げようとしてきたのだろうか』、まさに謎多き人物だ。

第三に、8月4日付けAERAdot「古賀茂明「終戦記念日に考えたい日本の罪」」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/wa/2020080300037.html?page=1
・『毎年8月は太平洋戦争について考えるときだ。 今回は北海道東川町の話を紹介したい。私は、同町の「大雪遊水公園」という大きな公園で、ある立像を発見した。その台座には「望郷」の2文字がある。その上には、遠くの空を望む青年の銅像が立つ。開拓民が、遠く離れた故郷に思いを馳せる姿かと思ったが、全くの見当違いだった。 その碑文を要約して紹介しよう。「戦時中の国策として忠別川(大雪山系石狩川の支流)に水力発電所が建設されたが、その発電用水は14キロメートルのトンネルで導水されるために水温が上昇せず、下流の水田に冷害をもたらした。水を回流させて温度を上げるために遊水池建設が計画され、工事のために1944年(昭和19年)9月に338名の中国人が強制連行された。(真冬に氷水の中でという)劣悪な環境下で過酷な労働が強要され、終戦までの11カ月間に88名が死亡。大半は若人だった。異国の地で故郷の父母や親族のことを瞼にえがきながら斃れていったその無念さを思うと慙悸の念を禁じ得ない。この史実を後世に伝え、なお一層の日中友好の発展と永遠の世界平和を願い、88名の中国烈士の御霊に深甚なる祈りを込めてこの像を建立する。2000年7月7日 東川町長 山田孝夫」 中国語訳と英語訳も並び、中国や世界の人々に、自分たちの犯した罪と恥を認め、「反省」と被害者への鎮魂、世界平和を祈る気持ちを伝えようとする感動的な内容だ。 取材を続けてわかったのは、この恥ずべき「犯罪」行為を多くの関係者が隠そうとしたことだ。終戦後、88名の遺体が適切に葬られていなかったという疑いが生じたとき、何と、建設工事中に中国人労働者を使用した土建会社は、適切に葬ったと偽装するため、偽の遺骨を中国側に返還したことが後にわかった。北朝鮮と同じ行為だ。 今回、この話を取り上げたのは、この銅像が建立された2000年当時には、日本の過去の過ちを堂々と認めることができる政治・社会環境があったということを示したいと思ったからだ。今、この銅像と碑文を残そうとしたらどうなるか』、「338名の中国人が強制連行され」、「11カ月間に88名が死亡」、とは初めて知った。「中国人労働者を使用した土建会社は、適切に葬ったと偽装するため、偽の遺骨を中国側に返還」、というのも悪辣だ。
・『日本中から右翼が集結したり脅迫行為が起きて、東川町民も身の危険を感じ、町長も建立断念を余儀なくされたのではないだろうか。 それほど、日本の社会は変化したということだ。このままでは、我が国は、平和を願うどころか、率先して戦争を始める国になっても不思議ではない。 今、米中対立が激化し、遠くない将来に米中戦争勃発という事態も現実味を帯びてきた。国民の多くが嫌中派に転じ、過去の過ちを完全に忘れてしまえば、政府が米国とともに戦争を始めることを国民が止めるどころか、むしろ後押しすることになるのではないか。そうなれば、戦争の勝敗にかかわらず、数十万、数百万の尊い命が失われる。 今、東川町には、アジアから多くの留学生が集まっている。日本の過去の過ちを正直に認め、世界平和のために努力しようという姿勢は、この町の発展に大きく貢献するだろう。これこそ、日本国憲法が目指す平和国家のお手本ではないか。 終戦記念日までの10日あまり、日本の過去の過ちに思いを致し、二度と戦争を起こさないために何をすべきか。じっくり考える機会にしたい』、全く同感である。

第四に、8月6日付け現代ビジネス「日本政府は国民を守らない…「原爆は怖くない」ウソだらけの安全神話」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74565?imp=0
・『ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下から75年。アメリカ軍による非道な行為を許さず、その惨状を語り継ぐことは大切である。それと同時に、「日本政府は原爆の被害から国民を守ろうとしたのか」という視点も重要である。史実を掘り起こすと、現在のコロナ対策にも通じる問題点が浮かび上がってくる……。』、どういうことだろう。
・『政府が説く「火の用心」と「手袋」  1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。熱線、爆風、放射線が襲いかかり、町は火炎に包まれて「火の海」になり、放射性物質を多く含んだ「黒い雨」も人々に降り注いだ。 死者は広島市で約14万人、長崎市で約7万人(いずれも推計値)。生き残った人々も、放射線や熱線による被害に苦しみ続ける。たった一発の核兵器がこれだけの被害をもたらす。 戦時中の日本では、こうした被害は隠された。「空襲は怖くない」という情報統制と、「逃げずに火を消せ」という防空法が徹底されていたからである。 新聞記事「防空体制変更いらぬ/怖るに及ばず新型爆弾」(リンク先参照) 内務省防空総本部は、原爆投下直後から新型爆弾への対応策を次々に発表した。新型爆弾の威力は強大であると認めながらも、以下のような心構えと準備があれば新型爆弾も「さほど怖れることはない」と説いている。 *8月8日付 防空総本部 談話より 次の諸点に注意すれば被害を最小限度に止められるから各人は実行しなければならぬ。 +待避壕に蓋がない場合は、毛布や布団をかぶって待避せよ +火傷を防ぐため、手足を露出しない服装にせよ +家屋からの出火を防ぐため、台所などの火の用心をせよ *8月9日付 防空総本部 談話より +軍服程度の衣類を着用すれば、火傷の心配はない +防空頭巾と手袋を着用すれば、手足を完全に火傷から保護できる 毛布で身を守れる、長袖・長ズボンで火傷を防げる、台所の火の用心……。この程度で被害を防げるから安心せよ、と言っているように聞こえる』、原爆の甚大な被害に直面しても、「この程度で被害を防げるから安心せよ」、とはまさに大本営発表だ。
・『「白い下着」と「湿布」で大丈夫  さらに8月11日に、防空総本部は一歩進んだ内容の「新型爆弾への心得」を発表した。 *8月11日付「新型爆弾への心得」より +破壊された建物から火を発することがあるから初期防火せよ +火傷を防ぐためには、白い下着類が有効である +この爆弾の火傷には、油類を塗るか、塩水で湿布すればよい おそるべき安全神話である。爆心地付近の地表面は3,000~4,000℃になり、全身が焼かれて赤黒く変色したり、焼けただれた皮膚が垂れ下がるなどの惨状を政府関係者も知ったはずである。白い下着や湿布があれば大丈夫というはずがない。 しかも、この「心得」は、それまでの談話には明記されなかった「初期消火」という言葉が出てくる。1941年改正の防空法で国民の義務とされた消火活動を、原子爆弾に対しても果敢に実施せよというものである。 (防空法については、過去記事「焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は『東京大空襲』をどう迎えたか」を参照)』、ここまでくると犯罪的な広報だ。
・『原爆の被害を軽んじる新聞記事  こうした政府方針を受けて、報道各社の論調も変化した。投下の2~3日後には「鬼畜米英の暴虐」として原爆投下を批判する記事も多かったが、徐々に「恐れるに足りぬ」として原爆を軽んじる記事が目立つようになった。 新聞記事「案外小さい爆発音/熱線にも初期消火」(リンク先参照) 読売報知1945年8月14日付の「案外小さい爆発音」という見出しの記事は、長崎県庁前で被爆した記者の詳しい体験報告である。原爆投下の瞬間について、次のように述べている。 +青白い光がピカリと光った。中くらいの稲妻くらいで、強いと思わなかった。 +「あっ新型だ」とピンと来たので、私は持参していた書籍を頭上に置いて身を守った。 +2~3秒後に「ドン」と来た。東京で聞いた爆弾の音よりも小さい音だった。 +地震のように大地が割れたと言う人がいたが、あれは嘘である。 いかにも呑気な印象を受ける。当時の長崎県庁(長崎市江戸町)は爆心地から2.5km離れているが、この付近でも爆風で鉄製の扉が湾曲し、火傷を負う人も多くいた。長崎県庁は全焼している。) さらにこの記事は、原子爆弾が怖くないことを力説していく。 +古い家屋は二、三軒ほど倒れたが、しっかりした建物は木造でも大丈夫だった。 +死者や重傷者は爆風によるもので、素早く待避した者は命に別状はない。 +新型爆弾の輻射熱は爆風より恐ろしくない。 +新型爆弾は直接に火災を招くものではない』、新聞までが「「恐れるに足りぬ」として原爆を軽んじる記事が目立つようになった」、とは御用新聞そのものだ。
・『原爆への対処法を説く意味は…  さらにこの記事は、国民が次のような対処法をとれば被害を防げると説いている。 +新型爆弾が投下されたら、物陰か路上に「伏せ」をすれば身を守れる。 +多少なりとも隠れれば、すぐに人命を奪うということはない。 +爆風の通り道を作って建物の破壊を防ぐために、障子を明け放しておくとよい。 +火傷は肌が露出した部分だけであり、着衣の下は別条はない。 この記事をみた当時の読者は、どのように感じただろうか。 ただ「原子爆弾は怖くない」という感想だけでは終わらない。「被害が大きいというのは嘘である」、「正しい対処をしない人が死ぬ」という論旨が強調され、脳裏に焼き付いてしまう。 実は、それこそが情報統制と防空法の恐ろしさである。「戦争や空襲を怖がる人」は間違った考えの人であり、「原爆で死亡・負傷した人」は間違った対処法をとった人とされてしまう。 こうして、国民の間に、異論を唱えない空気と、被害者を嘲笑する空気が醸成される』、新聞記事によって、「異論を唱えない空気と、被害者を嘲笑する空気が醸成される」、とは現在にも通じる恐ろしい世論操作だ。
・『終戦まで貫かれた政府方針  読売報知だけではない。同じ8月14日付の朝日新聞には「熱線には初期消火」という見出しの記事が載り、「一時噂されたごとき威力を持ったものではなく、防御さえしっかりやれば決して恐るべきものでないことが分かってきた」とある。 家屋が倒壊してから出火するまでに時間がかかるから、初期消火をすれば火災を防げるとも書いている。 猛烈な熱線と爆風で一瞬にして都市が破壊され、人々は全身やけどに苦しむ。町全体を襲う猛火が迫る。そのなかでも逃げずに初期消火せよというのである。 これが、終戦を告げる玉音放送の前日の新聞報道である。「逃げずに火を消せ」という防空法は、終戦前日まで方針変更されずに貫徹されたことが分かる。 陸軍監修のポスター(リンク先参照)』、原爆でも「逃げずに初期消火せよ」、とは記事を書いた記者はどういう気持ちだったのだろう。
・『過去のことと笑ってはいけない  これを過去のことと笑ってはいけない。理由は2つある。 第1に、原子爆弾の被害者は現在も苦しんでいる。「逃げずに火を消せ」という防空法のもとで空襲被害を受けた人々の苦しみも続いている。決して過去のことではない。 第2に、被害の実相が分からず、政府の対処法が正しいか否かを国民が判断できない状態というのは、今のコロナ禍をめぐる日本の現状と共通している。今の私たちが、過去を笑うことなどできないのである。 もちろん今は言論の自由があるから、政府のコロナ対策に対して賛否が噴出して議論が交わされている。戦争反対というだけで逮捕された過去とは同一視できない。 しかし、政府の方針(布製マスクの配布、PCR検査の抑制、不十分な補償など)に対して、「非科学的」とか「国民生活への配慮がない」という批判がなされたときに、政府は十分な根拠を示して国民への説明を果たしているだろうか。 科学的な根拠も示さず、国民の願いや疑問に真摯に耳を傾けないままに、ただ「政府の施策を信用せよ」というだけでは、戦時中と変わらない』、安部政権は、説明責任は果たさず、結論だけを押し付けてくる。
・『国家が国民を守るのか、国民が国家を守るのか  「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」という情報統制と防空法の目的は、国民を守ることではなかった。国民を戦争に協力させ、都市からの人口流出を防いで軍需生産を維持するための国策であった(参照「『空襲から絶対逃げるな』トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした」)。 そこには「国家が国民を守る」という考えはなく、「国民が国家体制を守るために敢闘せよ」という考えが横たわる。国民は政府に要求をできる権利者ではなく、国家の命令に服する義務者とされた。 コロナ対策でも同じことが言える。私たちは、政府に対して生命や生活を守るよう要求できる権利がある。ところが今は、「国民は政府の方針に従って自粛しなければならない」、「コロナ感染拡大を防ぐのは国民の責務である(だから自粛と休業をせよ)」という面ばかりが強調されていないだろうか。 政府の方針は「国民の生命を守るため」のものになっているのか。「生命を軽視してでも経済を維持するため」のものになっていないか。厳しく問いかけていく必要がある。 書籍『逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法』 戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。空襲前夜の空気感を感じ取っていただければ幸いである』、説得力溢れた主張である。
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