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バブル崩壊(日本の銀行に未来はあるのか――バブル崩壊からポスト平成へ 30年を振り返る、平成金融危機で大手銀行が破綻した3つの理由 元日銀幹部が語る、大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」いまだからウラ話を明かそう!) [金融]

バブル崩壊については、2018年12月9日に取上げた。久しぶりの今日は、(日本の銀行に未来はあるのか――バブル崩壊からポスト平成へ 30年を振り返る、平成金融危機で大手銀行が破綻した3つの理由 元日銀幹部が語る、大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」いまだからウラ話を明かそう!)である。

先ずは、昨年2月15日付けYahooニュースが掲載した元銀行員で作家の江上 剛氏による「日本の銀行に未来はあるのか――バブル崩壊からポスト平成へ、30年を振り返る」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1230
・『平成の30年間に大きく変化した業界はさまざまあるが、銀行は最たるものだろう。地価がピークを迎える中で平成に入り、株価もピークを迎えたが、バブルはまもなく破裂。「失われた20年」へと進んだ。その後、銀行は大規模な再編を余儀なくされた。銀行を内外から見てきた作家の江上剛氏が、銀行がたどってきたこの30年を振り返る』、興味深そうだ。
・『売った買ったというだけで、数億円の儲け  1989(平成元)年は12月に史上最高の日経平均株価3万8915円を記録した年です。このころ、大手の都市銀行で何が行われていたか。第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に在籍していた私が思い出すのは、土地転がし(転売)です。当時、行員の多くは、土地を購入するお客さんのための融資(貸出金)の申請書ばかり書いていました。 内実はひどいものでした。「20億円」という貸し出しの稟議書が回ってきても、行内を右から左に流し、中身の精査をしない。お客さんはその融資で得た資金で土地を買ったかと思うと、その1週間後にはもう転売している。売った買った、売った買ったというだけで、数億円の儲け。 何かおかしなことが起きている。でも、そのときには、まだ多くの人は、それが破裂するような「バブル(泡)」だとは思っていない。そもそも平成元年には「バブル」という言葉はまだ使われていなかったのです。 作家・江上剛氏は平成の始まりをそう振り返る。江上氏が第一勧銀に入行したのは1977(昭和52)年。1989(平成元)年から2003(平成15)年までの15年間を本店や支店で過ごし、退職後の15年間は、作家として小説で銀行や企業のドラマを描いてきた。 一方、その30年間で銀行は大きく姿を変えていった。1989(平成元)年には13の都市銀行が存在したが、現在メガバンクと呼ばれる3行に統合された。1989年当時はあぶくのように膨れ上がる「株価」と「地価」に対応するように、多くの銀行が膨大な額を日々貸し出しては、経済を動かしていた。そのピークが1989年12月29日(大納会)で、翌1990年以降、2003年4月まで株価は下がり続けていく。平成の始まりこそが「バブル崩壊」であり、「失われた20年」と呼ばれるデフレの始まりでもあった。江上氏は、そのバブルの責任は平成が始まる数年前の銀行にあったという。 私が入行したころの銀行はどこの都銀でもやっていることに変わりがなく、大蔵省(現・財務省)銀行局の指導のもと、いわゆる「護送船団方式」で経営をする体制でした。 ところが、80年代半ば、関西に主な基盤を置く住友銀行(現・三井住友銀行)が融資部門と営業部門を一体化したような業務本部体制という仕組みをつくって、ものすごく業績を上げだした。要は、融資に伴う審査を簡素化して、貸し出しやすくした。その好業績で関東にも住友銀行の店舗は広がりだした。これを見て、他の銀行も「大変だ」となって同じようなこと──ゆるい審査での融資をしだした。それがバブルの始まりでした』、「住友銀行」による「融資部門と営業部門を一体化」が「バブルの始まり」というのは確かだ。
・『「これはもうあかん」  1990(平成2)年以降、都銀が絡んだ不正事件が複数明らかになっていく。 1991(平成3)年9月の富士銀行(現・みずほ銀行)赤坂支店で起きた不正融資事件。同事件では、赤坂支店の課長が架空預金証書を発行し、それを担保に不動産業者27社などが15社のノンバンクから総額7000億円以上の額を引き出していた。あるいは、同年8月に発覚した大阪の料亭の女将に2兆円以上が融資された巨額詐欺事件、同年7月のイトマンという中堅商社に住友銀行が3000億円以上を融資したにもかかわらず、闇に消えたイトマン事件。 だが、とりわけ銀行員たちをおびえさせたのは殺人事件だ。1994(平成6)年9月14日早朝、住友銀行名古屋支店の支店長が何者かによって射殺された。江上氏もあの事件は衝撃だったと語る。 それまでにも兆候として、危ない事件は起きていました。頭取の家に銃弾が撃ち込まれたり、大阪本店のロビーに首を切った鶏が投げ込まれたり……。でも、この名古屋の射殺事件で融資に関わっていたような暴力団が表で動きだし、ついに被害者が出た。「これはもうあかん」と思いました。一方で、銀行員による犯罪も次々と増えていった。銀行員の一人として、「バブルが崩壊した」と実感したのはこのころでした。 私自身は1990(平成2)年に本店人事部、1994(平成6)年には広報部に配属されたため、銀行内で起きている不祥事はいや応なく知ることになる。それまで聞いていたのは印紙代をごまかすような数千円台のささやかな不正だったが、人事部に来てみたら、幹部クラスが「浮き貸し(職員が地位を利用して、勝手に貸し付けること)」などをしているのがわかる。パワハラも多かったし、業務で追い込まれて失踪したり、自殺したりというケースもあった。毎日のように不祥事がありました』、確かに「人事部」や「広報部」では、「不祥事」対応に追われたのだろう。
・『相次ぐ金融機関の破綻  平成最初の10年の終わりが来るころ、銀行・証券会社などが相次いで破綻しはじめる。1997(平成9)年、都市銀行だった北海道拓殖銀行が経営破綻、四大証券の山一證券が自主廃業した。翌1998(平成10)年には金融再生法が成立し、公的資金での一時国有化などが制度化されると、破綻した日本長期信用銀行や日本債券信用銀行は外資系ファンドなどに譲渡されることになった。こうした銀行・証券会社の連鎖的な破綻は日本中に衝撃を与えた。 1995(平成7)年には、個人向け住宅ローンを扱うノンバンクの住宅金融専門会社(住専)7社が抱え込んだ負債に6850億円の公的資金の注入が閣議決定された。銀行マンとして、江上氏も他人事とは思えなかったという。 私のいた第一勧銀では総会屋事件という大きな問題がすでに火を噴いていたんです。だから、他社の破綻は「対岸の火事」と単純に切り分ける気持ちにはなれなかった。 と同時に、こういう状況の金融機関をどこまで助けるべきなのかと疑問にも思っていました。それまでは自分たちの業績を上げることだけに狂奔して、その結果バブルを招いた。ところが、それらが不良債権化した段階になって、公的資金(税金)で助けてくれと言いだした。それは都合のいい話だろうと。 昔から銀行は「社会の血液」という言い方があり、社会的使命があるとされてきました。しかし、振り返ってみれば、本当に銀行は社会的使命を担っていたかと問われると疑問があります』、「本当に銀行は社会的使命を担っていたかと問われると疑問があります」、同感である。
・『効率化で利益を出すように  平成が10年を超えた1999(平成11)年以降、銀行をめぐる環境の変化は深まっていく。都銀は膨大な不良債権の処理を視野に、コスト削減や規模の経済性を目して、合併・再編を進めていく。第一勧銀は富士銀行や日本興業銀行とともにみずほ銀行とみずほコーポレート銀行(2002年)、旧財閥の三井系さくら銀行と住友銀行は三井住友銀行(2001年)など、最終的には3行のメガバンクに統合されていった。 そうして合併などで外形を変える一方、内部の営業活動としては、銀行は「貸し渋り」(新規融資を拒否)、「貸し剥がし」(融資の返済を求め、他行に頼るよう要請)など自社を守る営業行為が横行し、問題視されていた。銀行もまた、自らが生き残ることだけで精いっぱいだったと江上氏は振り返る。 バブルまでの銀行は、企業への貸出金で競争し、その利息で利益を上げるという方法でした。ところが、それからの銀行は合併して、リストラして、効率化することで利益を出すようになった。ただ、これは銀行の役割が変わっていったという感じはありました。 私自身、2000(平成12)年に高田馬場支店長、翌2001(平成13)年に築地支店長と転じていたら、その第一勧銀が統合されてみずほ銀行となった。私は合併には賛成していなかったんです。不良債権処理もそうだし、内部の年次主義の見直しなど、やるべきことはまだ山積みでした。そうした問題を宿したまま合併に逃げてしまうと、きっと合併する3行の中でも問題が起きると思った。そうしたら案の定、みずほでは開業初日にオンラインでのシステム障害が起きました。 でも、なにより問題だったのは、(銀行の不良債権処理のために取引先企業に出資を求めて)「奉加帳を回した」こと、つまり、「財務上の課題を一掃するため」という1兆円の増資です。私がいた築地支店で、中小企業は1000社くらいが不良債権で苦しんでいました。にもかかわらず、銀行がお金を集めている。これはどう考えてもおかしい。それで「私は支店長としてできない」と拒否した。それで、銀行も辞めることにしたんです。 江上氏は2003(平成15)年3月にみずほ銀行を退職。まもなく日経平均は当時史上最安値の7607円を記録したが、りそな銀行に1兆9600億円の公的資金が投じられることが決まると、これ以上銀行は潰さないというメッセージと受け取られ、その後、経済は回復していった。 当時、企業再建などの分野では、政府出資の産業再生機構のほか、コンサルティングファームや国際会計企業などが活躍する一方、企業は従来の銀行に依存していた融資という形での間接金融から、社債や株式といった証券市場などの直接金融へと資金調達手法を徐々に変化。さらに内部留保をためて、自前の資金で投資をしていく方向へとシフト。企業の銀行に対する依存度は次第に減少していった。 本来、企業再建などは銀行が指導するという役割があったと思うんです。ところが、当時、銀行はその役目を果たさず、自分の利害得失ばかり主張していた。大規模な企業再建の案件でも、公のために汗を流すのではなくて、結局自分のところの不良債権をどれだけ減らすか。銀行員同士で自分の損をどれだけ減らすかのことばっかりだから、なかなかまとまらなかったものもあるでしょう』、「奉加帳を回した」「1兆円の増資」に反対して銀行を辞めたのは大したものだ。金融庁は「増資」で強引なやり方があれば、処分すると公言していたが、みずほからの働きかけがあったためか、なしのつぶてだ。
・『金融政策の出口戦略がない  しばらく景気がよくなったと思ったら、2008(平成20)年に米国でリーマン・ショックが起きる。そこでまた、日本の市場は収縮してしまう。 その後でいうと、やはり日本銀行のゼロ金利の影響が大きいと思います。銀行にとっては、金利が安くなって資金調達コストが低くなったことで、一時期の景気回復には一定の効果はあったと思うんです。 問題は、そういう政策をとったときに、いつどのようにやめるかという出口戦略ができていないことです。戦争と同じで、どう終わらせるのかが見えていない。だから、それが恒常状態になったら、低収益のまま何をしたらよいのかとなる。 そして、保険や投資信託など目先の手数料が取れるものに行員を走らせている。そうした流れの中で、スルガ銀行は不動産融資に注力し、不正行為まで働いて貸出金を増やした。これも不正が発覚する前は、当時の金融庁長官はスルガ銀行を持ち上げるような発言をしており、むしろ評価される話だった。いわばバブルを招いた大手銀行と似たようなことが行われていたわけです』、日銀の緩和政策は、「出口戦略ができていない」だけでなく、その後、異次元緩和という未踏の政策にまで踏み込んでいる。「当時の金融庁長官はスルガ銀行を持ち上げるような発言」、金融庁もいかに見る目がないかを露呈した。
・『金融の新潮流と銀行の未来  2010年代半ばには、ブロックチェーンやAIを駆使したフィンテック、クラウドファンディングや多種多様な決済サービスの勃興など、金融の世界の新たな潮流が急激に世界的に広がりだす。江上氏はこうした新技術や新サービスの台頭と広がりは、銀行の役割を必然的に変えていくだろうと予想する。 3年ほど前、子ども食堂をやろうとしている団体に取材に行きました。善意の人たちだけど、お金がなく、運営費に100万円を必要としていました。そういう団体が銀行に行って融資をお願いして、銀行からお金を借りられるでしょうか。それはできません。「いくら儲かりますか」「担保はありますか」と聞かれても、団体が答えられるわけがないからです。調達したのは、クラウドファンディングでした。要するに、こうした草の根の融資に限れば、従来の銀行の役割は終わりつつあるということです。 資金需要はさまざまあるんです。自主映画の制作、スタートアップ企業、地方の花火大会……。そうした資金の支援に対しての報酬も、ふるさと納税じゃないけれど、地元のお米や花火大会の招待券といったもので対応していて、お金を出すほうも喜んでいる。あるいは、アジアで広がっているように、少額を出資するマイクロファイナンスのような形態の金融機関も出てきている。日本の銀行が従来の視点でやっているかぎり、そうしたニーズは見えないし、銀行に未来はないでしょう。 平成最後の10年間で広がりだした新しい技術は目下、銀行でも各種導入されはじめている。だが、江上氏は、ただ導入するだけでは意味がないと語る。過去に銀行が引き起こしたバブルを学び、数々の過ちを繰り返さないためには、もっとも基本的な部分──個々の銀行員の活動や倫理的な理解が必要だと指摘する。 フィンテックというと、まったく新しい異次元の技術と構える人も多いでしょう。でも、中身は金融です。金融の原点というのは資金調達であって、その手法が増えたということ。そのうえで、銀行員はもっと自分の足を動かして社会と接するべきだと思います。 銀行の根幹である融資というときに、いまビッグデータやAIを使っていくやり方が重視されています。しかし、そうしたデータは当たり前ですが、すべて過去のものであって、この先のことがわかるわけではありません。今日業績がよくても明日不祥事が起きて、一気に焦げ付いてしまうなんてことは、よくあることです。 ですから、そういう判断はやはり人間、銀行員がすべきことなんです。なによりあらゆる金融機関が同じようなデータを集め、同じようなAIを使っていったら、みんな同じ判断になってしまう。 「この会社の製品・サービスを理解できているか」「この会社の雇用はどんな役割があるか」「この会社の社会的存在はどんなものか」……。そうした高次の判断は銀行員がすべきです。 やはりどんな時代であっても、銀行に倫理や哲学は大事で、それが業務に反映されることが銀行の存在意義につながっていくのだと思うのです。堅苦しいかもしれませんが、平成の30年を振り返ると、そんな基本的な結論に落ち着きます』、「銀行に倫理や哲学は大事で、それが業務に反映されることが銀行の存在意義につながっていく」、同感である。

次に、昨年4月23日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した元日銀幹部でいちよし経済研究所アドバイザーの和田哲郎氏による「平成金融危機で大手銀行が破綻した3つの理由、元日銀幹部が語る」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/200630
・『平成がまもなく終わりを迎える。金融業界の約30年間で最も大きなトピックだったといえるのが「平成金融危機」だろう。大手をも破綻へと導いた深刻な金融危機は、なぜ誰も防げなかったのか。金融危機真っただ中の当時、日本銀行幹部を務めていた和田哲郎氏がその原因を分析し、二度と金融危機を起こさないための教訓を語る』、「和田哲郎氏」の見解とは興味深そうだ。
・『180もの金融機関が破綻 平成金融危機で何が起きていたか  今から20年ほど前、日本は未曽有の金融危機の中にあった。金融危機は国民経済の安寧を脅かすものであり、再び起こしてはならない。 しかしながら、時間の経過とともに人々の記憶は風化しつつある一方、金融環境は厳しくなってきている。本稿は、金融危機の再発を回避するため、金融危機から学んだ教訓をとりまとめたものである。 教訓を語る前に、そもそも金融危機で何が起きていたか、レビューしておきたい。 平成になると、日本でも金融破綻がはじまり(注1)、平成前半に180もの金融機関が破綻した。その数もさることながら、三塚博大蔵大臣(当時)が「つぶさない」と明言していた大手銀行も3行破綻した。大手銀行の破綻は、日本はもとより、海外でも例を見ないものであった。 1997年11月4日、三洋証券のコール市場でのデフォルト(債務不履行、注2)をきっかけに、11月15日に都市銀行(以下都銀)の一角を占める北海道拓殖銀行(以下拓銀)が、11月24日には四大証券の中でも伝統ある山一證券がそれぞれ破綻した。その後長期信用銀行(以下長信銀)の日本長期信用銀行(以下長銀)が1998年10月に、日本債券信用銀行(以下日債銀)が同年12月に、相次いで破綻した。 (注1)1991年7月に東邦相互銀行(本店所在地、愛媛県)が破綻し、初の預金保険機構・資金援助が発動された。なお、本稿では、金融破綻を原則預金保険機構の資金を用いて処理したケースを指す。 (注2)コール市場は、金融機関間で日々の貸借等を行うマーケットで、ほとんどが無担保のオーバーナイトもの。このマーケットは信用を前提としており、同市場でのデフォルトにより、マーケットは大混乱に陥った。 1997年11月の拓銀、山一證券の破綻から2000年前後の大規模な公的出資(注3)が行われるまでの間が、金融危機の最も厳しかった時期であった。バブル崩壊による地価の下落に歯止めがかからず、不良債権は増加の一途をたどり、こうした中で貸し出しの引き当て、償却が多額に上り、自己資本は軒並み減少した。また預金は流出し、資金繰りが悪化した。預金流出については全国レベルで、大手銀行を含め、取り付けが広範化した。資金繰りの悪化は、外貨でも発生し、ジャパンプレミアムが拡大した。 ジャパンプレミアムの推移(リンク先参照) こうした状況の下で、金融機関は企業等に対し、貸し渋り(新規約定、既契約のロールオーバーを行わない)、貸し剥がし(期限前返済を求める)を行うなどクレジットクランチ(信用収縮)が激化した。このため、企業等も設備投資等の支出を抑制したことから、日本経済は長いデフレのトンネルに入っていった。 前述の大規模な公的出資により、金融危機はようやくピークアウトした。その後、システミックリスクへの対応が図られたことで、金融システムの安全策が完成した(注4)。2003年2つの金融機関がその適用を受けた。具体的には、2003年5月りそな銀行の資本増強(公的出資)、同年11月足利銀行の特別公的管理(一時国有化)である。本件処理を最後に金融危機は終焉した。 このように金融危機からの脱却の背景として公的資金の投入が挙げられるが、換言すれば公的資金の投入の遅れが金融危機を招いたのである。 (注3)1999年3月から2002年3月にかけて、早期健全化法に基づき32の金融機関に対し、8兆6053億円の公的出資が行われた。 (注4)2000年5月、預金保険法が改正され、システミックリスク(わが国または地域の信用秩序維持に極めて重大な支障が生じる惧れがある「危機的な事態」)に対応して、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣府特命担当大臣(金融担当)、金融庁長官、財務大臣、日本銀行総裁をメンバーとする「金融危機対応会議」は以下の例外的措置を講じることができることとなった。(預金保険法第102条第1項)。  第1号措置 資本増強  第2号措置 ペイオフコスト超の資金援助  第3号措置 特別危機管理)』、「長銀」や「日債銀」は金融再生法による国有化だったが、「拓銀」は、そうした破綻法制が何もないなかでの破綻処理だっただけに、大混乱を招いた。大蔵省が接待問題で批判されるなかで、大蔵省は自らの力を示すために、わざと手を打たなかったのではとの批判もあった。
・『金融機関を破綻へ導いた3つの事由とは  なぜ平成前半の時代に、大手銀行までもが相次いで破綻するほど深刻な金融危機が起きてしまったのか。金融危機はマクロ的なものであるが、出発点にあるのはミクロの金融破綻である。それでは、大手銀行を中心とする破綻事由と問題を以下で具体的に見ていく 第1に経営者の問題、端的には「ワンマン経営」(同族経営も同様の問題)である。破綻した金融機関には、経営トップが長期にわたって務める、あるいは息のかかった後継者を中心に経営を固めるといった共通点がある。ワンマン経営で問題なのは、行内のコミュニケ―ション不足が進み、情報が均霑しなくなるということである。部下は意見具申を躊躇して指示待ち姿勢になり、経営トップは重要な意思決定を先送りした。こうした中で不良債権は著増した。 拓銀は、もともと大蔵省OBが頭取を務めていた、しかし1977年五味彰氏が生え抜き2人目の頭取になったことを皮切りに、1983年鈴木茂氏、1989年には山内宏氏といったプロパーの頭取が就任。長銀の杉浦敏介氏(日本勧業銀行、現みずほ銀行入行)は、1971年から1989年にかけて頭取、会長を務めた。日債銀は、1969年勝田龍夫氏(日本興業銀行、現みずほ銀行を経て入行)、1982年頴川史郎氏が頭取に就任。足利銀行の向江久夫氏(プロパー)は1978年から1997年にかけて頭取、会長を務めた。いずれもワンマン経営で知られた人物だ。 第2に、収益拡大のための「ボリューム指向」である。経営者のワンマンな手法も手伝って、ボリューム拡大の大号令をかけ、ノンバンク経由を含め、不動産向け融資拡大に傾注した。収益を増やすということは、リスクをとることであるが、右肩上がりの土地神話の下で不動産融資はリスクが低いものと考え、ボリュームを追求した。この結果が、不良債権の山である。 拓銀はもともと不動産向け融資に積極的とはいえない銀行であったが、業容は他の都銀に水をあけられる一方、地銀上位行の追い上げを受けていた。そこで1990年に策定した「たくぎん21世紀ビジョン」に沿って、悪名高きインキュベーター(企業成長・不動産開発支援)を積極的に推進した。 長銀、日債銀は、高度成長期に長期の設備資金等を供給するため、長期信用銀行法に基づき設立された。しかし、低成長期に入り、設備資金需要が後退、また証券市場の発達もあり、制度の歴史的使命は終わっていた。そこで両行は系列ノンバンクをも活用しつつ、不動産融資を拡大した。 足利銀行は元々堅実な銀行であったが、バブル期に系列ノンバンクも活用し、不動産融資を拡大した。 第3に「流動性の急速な枯渇」である。破綻した金融機関はバブル期に融資を大幅に拡大したが、ファンディングは金利が高く、大口の市場性預金等に依存する先も少なくなかった。このため、市場等で経営に関する悪評が立つと、資金繰りが急速に悪化した。外貨調達も厳しく、外貨資産を処分売りするしかなかった。流動性管理は、普段から経営トップが留意すべきテーマである。 拓銀は、1997年9月に北海道銀行との合併破談後、預金が道外を中心に流出した。11月4日に三洋証券がコール市場でデフォルトを起こすと、同行はコールの取り入れが困難化し、同14日準備預金の積み最終日に所要額を積めずに破綻した。 長銀は1998年10月住友信託銀行との合併話が破綻した後、資金繰りが悪化した。加えて、長銀処理の対応が、国会の場で堂々議論が行われたため、長銀の資金流出が加速し、同行の一時国有化に関する法案(金融再生法)が成立した11日後、ついに長銀は破綻した。そして2ヵ月後、日債銀も破綻、長銀と同じく一時国有化された。 足利銀行は1997年秋、取り付けにあっているが、一時国有化の際は、取り付けは発生しなかった。なお、同行は公認会計士から繰延税金資産の過大計上を指摘され、資本不足となって破綻した』、「長銀処理の対応が、国会の場で堂々議論が行われたため、長銀の資金流出が加速」、問題は「資金流出」よりも優良取引先が逃げ出したことで、資産内容が一気に悪化したことである。破綻処理にはスピードも重要なのに、「国会の場で堂々議論」というのは余りに稚拙な金融行政だった。。
・『「地価は右肩上がり」という土地神話こそ、金融危機の根本原因  では一方で、マクロ的に捉えた、金融機関を破綻へと導いた金融危機発生の根本原因は何だったのだろうか。 当時、金融当局は、日本では地価が右肩上がりという土地神話があり、もし地価が下落したとしても一時的で、いずれ戻ると考えていた。地価が戻れば、銀行収益も持ち直すので、銀行への公的資金投入は不要であると結論づけた。 だからこそ金融機関側も、地価はいずれ戻ると考え、不良債権処理を先送りしようとした。また、公的資金投入となると当局の経営への介入が強まるのではないかとして二の足を踏んだのだ。 こうした地価に対する情勢判断や将来への見通しの甘さと、それによる公的資金の投入の遅れが、金融危機を発生させた根本原因である』、ただ、金融機関にはもともとの収益力は高いので、時間をかければ自力で処理可能であったことも事実である。ただ、海外投資家の目がそうした悠長な処理を許さなくなったので、「公的資金の投入」で一挙に整理する必要が出てきたとみるべきだ。
・『平成の金融危機から学ぶ4つの教訓  このような国民生活の安寧を脅かすような金融危機は、今後二度と引き起こしてはならない。平成の金融危機から得られる教訓を、ここでは4つにまとめて記しておきたい。 第1に、地価をはじめとする経済事象については、正確な実態把握と的確な情勢判断および先行き見通しの策定が重要である。そのうえで意思決定を行うべきだ。 データを解析し、何が起きているかを判断し、その背景について検討を行う。次に予測が当たっていたかのチェックである。予測が外れた場合は原因を追求する。その過程で判断ミスの事実とその原因がわかる可能性が高い。 日本の地価については、地価神話は誤りであり、明らかにバブルであった。バブルはいつかは崩壊する。バブルの崩壊であれば、値戻しすること自体わからない。バブルでの値上がりは理屈がないので、上がった分はすベて下がると考えた方がよい(注5)。 地価の推移(リンク先参照) 第2に、有事に備え、対応策の準備をしておくこと。古今東西の研究は不可欠である。日本では昭和恐慌の際「昭和銀行」という受け皿銀行が設立されたほか、県が地元地方銀行に公的出資を行った(注6)。米国では大恐慌の際、FDIC(1933年、連邦預金保険公社―預金保険制度)、RFC(1932年、復興金融公社―公的出資)が設立された。こうした機能等は平成金融危機にすべて取り込まれ、活用された。 また有事対応として、シミュレーションが必要であるが、標準形のみならず、最悪のケースも想定しておくことが重要である。 第3に、行動である。問題先送りはサボタージュと観念する。変化の予兆を感じたら、行動を基本とする。これは、トップが判断することであるが、常日頃から情報、とくに都合の悪い情報がトップに伝わるよう、風通しの良い組織にすることが重要である。 第4に、アカウンタビリティ(説明責任)である。行動は国民、株主、市場等にタイムリーに説明される必要がある。それによって、関係方面の信頼を得られるようになるのだ(注7)。 (注5)地価(公示地価。大都市[東京、大阪、名古屋]圏、商業地)の動向を見ると、1986年から1991年にかけて大幅に上昇(これがバブル)した後、1992年以降2005年まで13年連続して下落した。2006年にようやく上昇に転じたが、2008年リ-マンショックの発生を機に再び下落に転じた。 (注6)群馬銀行、岩手銀行、宮崎銀行では、現在でも県関係の出資が残っている。 (注7)1990年代後半までは、金融機関の経営情報等(引き当て・償却をはじめとする決算、不良債権情報等)は大蔵省のルールに基づき、同省に報告、承認を受ける扱いであった。しかし金融庁が設立され、会計機構、会計基準が民間に移行し、決算承認・償却証明制度が廃止されるなど国民・市場ファーストのコーポレートガバナンス近代化が急速に進んだ』、現在では日本でも「最悪のケースも想定しておく」、ストレスチェックが一般化している。

第三に、本年4月24日付け現代ビジネスが掲載した大蔵省出身で嘉悦大学の高橋洋一教授と共同通信記者出身で名古屋外国語大学教授の小野一起氏の対談「大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」いまだからウラ話を明かそう!」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71463?imp=0
・『かつて銀行員(バンカー)は花形の職業だった。中でも、大蔵省(現・財務省)との折衝を行うMOF担(モフタン)は、エリートバンカーの象徴としてもてはやされた。しかし、そんな銀行員と大蔵省当局との「癒着」が明るみに出たのが1990年代のノーパンしゃぶしゃぶ事件だ。逮捕者まで出す一大騒動に発展した同事件こそが、いまに続く銀行大波乱時代の幕開けとなったのだ。 いまや銀行不要論まで飛び出すまでになった現代、そもそも銀行はどうしてここまで「凋落」してしまったのか。その源流はこの事件にさかのぼることができるともいえる。そこで今回は、当時大蔵省に在籍した元大蔵官僚で、安倍晋三首相のブレーンとしても知られる嘉悦大学の高橋洋一教授と、新作小説『よこどり 小説メガバンク人事抗争』で、メガバンクの実像に独自の切り口で迫った小野一起氏が対談。知られざる「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」のウラ側とメガバンクの未来像を語り明かした――』、興味深そうだ。
・『向島で遊んでいた人たち  小野 日本の銀行史を振り返ると、1990年代後半にいよいよ不良債権問題が限界を迎えました。97年には北海道拓殖銀行が破綻、山一證券も自主廃業に追い込まれました。そして98年には日本長期信用銀行の経営破綻、一時国有化されることになりました。 高橋 私の感覚では、私が金融検査をした93年、94年の状況を考えると、よく拓銀や長銀が4年ももったなと感じます。もっと早く潰しとけば楽でした。公的資金の注入額も少なくて済んだはずです。 小野 やはり問題を先送りしたいという構造が、銀行、大蔵省、政治の中にあった。三者一体の先送り構造が、問題を深刻化させましたね。 高橋 不良債権については先送りの意識もあったでしょうが、大蔵省の幹部はただ単に理解不足だったと思います。そもそも私は繰り返し不良債権問題処理のために、銀行に引当金を積み増す必要があることをしっかり説明しましたけど、その当時の銀行局の幹部はちんぷんかんぷんな顔をしていました。 向島で銀行員と一緒に遊んでいるだけで、ちっとも勉強していなかった。せめて、遊んでいる合間に、少しぐらい勉強するのが普通だと思いますけどね。本当に遊んでいるだけだった(笑)。 小野 簡単に儲かるシステムが永続するという風に、銀行員も大蔵官僚も思い込んでいた。というか、思い込みたかったってことでしょうね。 高橋 銀行局の幹部のその後の役人人生はみんな不遇だよね。そりゃそうでしょ。遊んでいるだけだって、バレちゃったから』、「MOF担」は、銀行検査の日程や対象店舗を事前に入手したり、銀行不祥事を銀行局に報告したりするため、青天井に近い予算を使って、接待攻勢をかけるのが主な任務であった。「私が金融検査をした93年、94年の状況を考えると、よく拓銀や長銀が4年ももったなと感じます。もっと早く潰しとけば楽でした。公的資金の注入額も少なくて済んだはずです」、との高橋氏の述懐はその通りなのだろう。
・『ノーパンしゃぶしゃぶ事件の舞台裏  小野 ノーパンしゃぶしゃぶ事件と呼ばれた大蔵省を舞台とする接待事件が明るみに出たのは1998年です。東京地検特捜部に大蔵官僚らが逮捕され、当日の三塚博大蔵大臣や松下康雄日銀総裁が引責辞任する展開になりました。ここで、銀行と大蔵省の癒着構造が暴かれることになったわけです。 これがきっかけで、大蔵省から銀行と証券の関連業務が分離され、金融監督庁(現金融庁)ができ、大蔵省は財務省になりました。大きな転換点でしたね。 高橋 ノーパンしゃぶしゃぶ事件は、ある意味で傑作でした。大蔵省の内部調査で、銀行や証券会社と遊びまくっていた官僚の実態が明るみにでた。私は、接待にはあまり行かなかった方なんですよ。でも、その内部調査が本格的に始まると、いろんな先輩から電話がかかってきた。『高橋くん、何月何日だけど、俺たち、接待されたりしていないよね』って。 そういう確認の電話があった。でも、私からすれば行っただろ〜って(笑)。要は、内部調査に対して、接待されたって言わないでくれってことでしょう。おかしくなっちゃいましたよ。そもそも年中、接待されていた人が、まったく接待されていないっていうウソは無理があります。私が黙っていても、接待漬けにされていた人は内部調査でバレてしまいましたね。 小野 そう言えば証券局総務課の課長補佐の人も逮捕されました。彼は先生の……。 高橋 そうです。彼は私の後任です。 さすがに後任が逮捕されたのはびっくりしました。結局、私と何が違っていたかは興味がありましたね。なぜ、彼が逮捕されて、私はセーフだったのか。どこまで、やったら東京地検に逮捕されるのか。ちなみに彼は独身だった。だから、土日はずっとゴルフの接待を受けていた。その見返りに証券会社に様々な便宜を図ったってことになり収賂罪が成立しちゃった。 私はすでに結婚していました。そんなこともあって、接待の数が全然違うということだったらしい。でも独身だったら同じように接待漬けになっていた可能性もあった。そう考えると人生は、恐ろしいです』、高橋氏の「後任」は「独身だった。だから、土日はずっとゴルフの接待を受けていた。その見返りに証券会社に様々な便宜を図ったってことになり収賂罪が成立」、「人生は、恐ろしいです」、実感がこもった述懐だ。
・『接待の数と金額  小野 それは危なかったですね。省内調査を参考にしながら検察が、接待の数や金額なども考慮して、逮捕まで踏み切るかを判断していたということでしょうか。 高橋 その辺の特捜部の基準は、よく分からないですね。ただ、あの時は、特捜部の狙いは証券局長だと思われていた。だから彼は気楽な気持ちで特捜部に行って事情聴取を受けたのに、帰ってこなかった。『ちょっと行ってきます』って感じで、机の上もそのままだった。かなり衝撃的でしたよ。 小野 当時の証券局長って長野庬士さんですよね。 高橋 そうそう。特捜部は、長野さんを捕まえたいがために、部下の彼から事情を聴こうとした。当時は大蔵省内でそう受け止めた人が多かったですね。彼は総務課企画官なので、長野さんの予定を把握できる立場にあったから捜査線上に浮かんで、そのまま逮捕された可能性もあると思います。 小野 でも一方で、長野さんはスーパー優秀な大蔵官僚だったというイメージもあります。 高橋 それはその通り。長野さんは圧倒的にできる人でした。接待を受ける人って、実はできる人なんです。銀行や証券会社もできない人を接待しても意味がない。長野さんは、仕事をバンバンやる人だった。 小野 だから、97年に山一證券の自主廃業の際には、長野さんが中心になって問題を処理していましたね。 高橋 そうです。ただ、ちょっと別の角度から話をすると、証券会社の破綻処理は、預金がないから気楽といえば気楽なんですよ。証券会社を潰したところで、持っている株券を返せばいい。それだけなんです。株券などの顧客の資産は分別管理されていますから、株券が投資家に戻ってこないことはないです。 小野 それに対して銀行が破綻すると大変です。金融システムが揺らいでしまいますから』、「証券会社の破綻処理は、預金がないから気楽といえば気楽なんです」、その通りだろう。
・『銀行がつぶれるとどうなる…?  高橋 銀行が潰れると、決済が止まってしまう。企業や個人で資金のやり取りができなくなる可能性が出てくるわけです。これは、経済活動に影響が出ちゃう。それに、多くの企業が銀行から融資を受けている。日々の資金繰りを銀行からの融資に依存しているから、銀行の機能が停止してしまうとパニックが起こるわけです。 小野 企業の場合は健全な経営をしていていも、銀行が破綻した余波を受けて資金繰り破綻してしまうかもしれない。これは大変な問題です。 高橋 そうなんですよ。連鎖的に企業が潰れちゃう可能性があって、銀行が破綻する場合、政府はより慎重な対応が必要になります。 小野 政府は、金融システミックリスクを考えながら問題を処理しないといけない点に難しさがあります。 高橋 それはそうなんですが、あまりシステミックリスクって言い過ぎるのも問題ですよ。1つの銀行からしか融資を受けていないという企業はあまりありません。だから、多くの銀行が一気に潰れなければ案外大したことはない。 小野 そう言えば、北海道拓殖銀行は、公的資金注入もなく、国有化もなく、そのまま経営破綻してしまいました。 高橋 あれはひどかったですね。 小野 複数の銀行からお金を借りている企業が多いと言っても、北海道においては拓銀の存在感は非常に大きかった。拓銀が潰れたことが引き金となって北海道経済はしばらく低迷が続きました。 高橋 そんなこともあって、ゆっくり処理を進めたのかも知れません。私の感じだと、93年か94年に潰れてもまったく不思議ではなかった。北海道の銀行なのに関西の会社にまで融資をしていた。これはひどい状況でした。経営はガタガタですよ』、「拓銀が潰れたことが引き金となって北海道経済はしばらく低迷が続きました」、その通りだ。
・『金融ビッグバンの「本当の意味」  小野 この時期に不良債権問題が火を噴き、銀行や証券会社の経営が揺らぎ、接待汚職で大蔵省からは逮捕者まで出ました。その一方で1996年に橋本龍太郎首相は、「フリー、フェアー、グローバル」を標ぼうする金融ビッグバンを推進、思い切った金融の自由化に舵を切りました。 高橋 金融ビッグバンは、いずれはやらなければならなかった。金融の自由化を進めて、グローバルな基準に合わせないと日本経済は立ち行きません。ただ本音を言えば、こんなドタバタしている時に金融自由化を進めることもないだろうとも思っていました。 小野 当時、橋本龍太郎首相の秘書官をやっていた江田憲司(現衆議院議員)さんが主導していたという話を聞きました。接待問題で大蔵省が弱体化しているタイミングで、経産省主導で金融ビッグバンが導入された印象もありますね。 高橋 そういう側面もあったかも知れません。大蔵省は金融機関の経営問題で手いっぱいで、金融ビッグバンを考えている余裕はありませんでした。それを江田さんたちがうまく橋本首相を使って実現したという側面もあったでしょう。 小野 産業界からは、グローバルにビジネスをしていく中にあって金融機関の使い勝手を良くするために金融の自由化が求められえていた面もあります。一方で、こうした金融の自由化が銀行の合併などの再編を後押しする格好になりました。 高橋 金融機関のほうももう合併しないと生きていけなくなっていましたよ。あんまり余計なこと言わなくても自然に再編が進むしかなかったと思いますけどね』、「大蔵省は金融機関の経営問題で手いっぱいで、金融ビッグバンを考えている余裕はありませんでした。それを江田さんたちがうまく橋本首相を使って実現したという側面もあったでしょう」、あのタイミングでの「金融ビッグバン」が行われたことの説得力ある説明だ。
・『銀行の「生命維持装置」  小野 98年に、経営破綻した日本長期信用銀行の場合は、一時国有化され公的資金で債務超過の穴埋めをしました。その一方で翌年の99年には、まだ経営破綻していない多くの大手銀行に予防的に公的資金を注入、税金の力で銀行バランスシートの健全性を高める施策を打ちました。 高橋 それは拓銀の経験で、経営破綻は日本経済に与えるダメージが大きいことが学習されていたからでしょう。予防的に公的資金を注入して、銀行が経営破綻するリスクが軽減できるならそのほうが良いという判断ですね。 小野 2008年のアメリカのリーマン・ショックの時にも感じたのですが、結局リーマン・ブラザーズという巨大な証券会社を潰さないとアメリカでも金融機関に公的資金を入れるのは難しかった。なぜ巨大な銀行や証券会社だけが政府に救済してもらえるのかという国民の不満を抑えるのは、政治的には難しいですよ。リーマン・ブラザースが潰れて世界的な経済危機が起きて、『金融機関は公的資金で救済しないと、国民の生活も大変なことになる』という学習と理解がないと金融機関に公的資金はなかなか注入できません。 そういう意味では拓銀や長銀が破綻して大変なことになったという認識があって初めて、その他の大手行に公的資金を注入できたという印象があります。 高橋 率直に拓銀と長銀は潰しやすかったですね。93年か94年の私の資産査定では、すでに破綻状態でしたから。生命維持装置外せば終わるというわかりやすい世界です。  小野 生命維持装置を外して長銀を潰すことで、金融システミックリスクが起こると大変なことになると世論を説得することができたわけですね。 高橋 長銀は長期信用銀行って独特な銀行で、普通の商業銀行とは違うからシステミックリスクは実は大きくないんですよ。長期信用銀行の預金口座で決済している企業もそう多くはなかったと思います。それに長期信用銀行は日本に特有な銀行で、制度的に長く存続できる金融機関でなかったのです。 というのも5年の利金債で調達して、それよりさらに長い期間の貸し出しを企業にしていた銀行なんですよ。こんな銀行は、日本にしかない。金融自由化の中ではとてもじゃないが生き残れない仕組みでした』、「長期信用銀行は日本に特有な銀行で、制度的に長く存続できる金融機関でなかった」、同感である。
・『銀行ビジネスはどんどん細っていく  高橋 実際、理財局時代に私は『長期信用銀行はいずれなくなります』と理財局の幹部に言いました。幹部は目を白黒させていましたがね。 でも、いま歴史を振り返れば長銀も日債銀も潰れたし、興銀も合併してみずほフィナンシャルグループになって、長期信用銀行をやめた。やはり無理だったんですよ。大蔵省は興銀にだけは政府保証債の主幹事で圧倒的な独占的地位を与えていたから、少し長く生き延びられたけれど、長銀と日債銀はあっという間に潰れました。 小野 僕は1989年に社会に出ましたが、その時は興銀や長銀はトップクラスの人気でした。普通の銀行やメーカーに就職する連中とは違うというプライドを持っていましたね。 高橋 長信銀に関わる話で私が大蔵省の中で、褒められた話があるんです。大蔵省は財政投融資の資金でずっと長信銀が出している金融債を買っていたんです。ただ、私が理財局にいる時、この金融債を投資先から外したんです。 あのまま金融債に投資していたら長銀と日債銀が破綻した時に、政府は大きな損失を抱えることになりました。そうなっていたら、大蔵省は相当格好悪かったと思いますよ。 小野 考えてみると社債のようなものを銀行が出して企業に融資をするならば、企業が直接社債を出して資金調達すれば良いという話になりますよね。 高橋 その通りです。金融機関というのは、企業と市場や預金者の間に入って儲けるのが基本です。でも、これは市場化が進むと基本的には儲からなくなりますよ。ビジネスとして成立しなくなる。 小野 インターネットで情報が公開されて、情報の非対称性がなくなり、市場の高度化が進めばどんどんビジネスが細っていきますね。 高橋 そうです。だから、間に入って鞘を抜いて儲ける仲介ビジネスは、いずれできなくなりますよ。これは金融に限ったことではありません、これは、今日のキーワードですね』、「高橋氏」が「私が理財局にいる時、この金融債を投資先から外した」、とは先見の明がある。
・『「3メガバンク」だって安泰ではない  小野 銀行でいえば、かつては金利や店舗が規制された世界で確実に儲けられる仕組みがあった。それが、どんどん規制が外れていくプロセスで、利益が細っているわけですね。 高橋 長信銀がなぜ滅びたのかをきちんと理解すれば、これから中抜きがどんどん進むことを予測できなければいけない。あと銀行の人たちは不良債権問題で危機に陥った時、もっと知恵を出して、どうやって付加価値を生み出すかを考えないといけなかった。私にはいまの銀行員はさぼっているように見えます。 小野 ただ、大手銀行の再編がガーッと進みました。かつては大手20行体制でしたが、今や3大メガバンクとりそなグループ、それに三井住友信託の体制になりました。 高橋 3大メガバンクの体制も危ういと私は思っていますよ。 間に入って鞘を抜いているビジネスをしている限り、これから大変です。それから小野さんの出身業界のマスコミも、同じでしょう。インターネットを通じて、いろんな人が情報発信している。それで新聞や雑誌が売れなくなるのと一緒じゃないですか。 小野 それはその通りです。面白ものを作って、付加価値を生まなければ、マスコミも中抜きされて、将来を描けなくなるでしょうね』、「間に入って鞘を抜いているビジネス」には将来性がないというのは同感だ。「付加価値」をどうつけてゆくのかの勝負のようだ。
タグ:ノーパンしゃぶしゃぶ事件の舞台裏 売った買ったというだけで、数億円の儲け ストレスチェックが一般化 平成の金融危機から学ぶ4つの教訓 「大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」いまだからウラ話を明かそう!」 接待の数と金額 私が理財局にいる時、この金融債を投資先から外した 拓銀が潰れたことが引き金となって北海道経済はしばらく低迷が続きました 奉加帳を回した」「1兆円の増資」 銀行がつぶれるとどうなる…? 銀行ビジネスはどんどん細っていく 「人生は、恐ろしいです」 「後任」は「独身だった。だから、土日はずっとゴルフの接待を受けていた。その見返りに証券会社に様々な便宜を図ったってことになり収賂罪が成立」 和田哲郎 ダイヤモンド・オンライン 「住友銀行」による「融資部門と営業部門を一体化」が「バブルの始まり」 長銀処理の対応が、国会の場で堂々議論が行われたため、長銀の資金流出が加速」、問題は「資金流出」よりも優良取引先が逃げ出したことで、資産内容が一気に悪化したことである 本当に銀行は社会的使命を担っていたかと問われると疑問があります 現代ビジネス 私が金融検査をした93年、94年の状況を考えると、よく拓銀や長銀が4年ももったなと感じます。もっと早く潰しとけば楽でした。公的資金の注入額も少なくて済んだはずです 銀行に倫理や哲学は大事で、それが業務に反映されることが銀行の存在意義につながっていく 180もの金融機関が破綻 平成金融危機で何が起きていたか 金融の新潮流と銀行の未来 まだ多くの人は、それが破裂するような「バブル(泡)」だとは思っていない 「拓銀」は、そうした破綻法制が何もないなかでの破綻処理だっただけに、大混乱を招いた 「日本の銀行に未来はあるのか――バブル崩壊からポスト平成へ、30年を振り返る」 「地価は右肩上がり」という土地神話こそ、金融危機の根本原因 金融ビッグバンの「本当の意味」 当時の金融庁長官はスルガ銀行を持ち上げるような発言 (日本の銀行に未来はあるのか――バブル崩壊からポスト平成へ 30年を振り返る、平成金融危機で大手銀行が破綻した3つの理由 元日銀幹部が語る、大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」いまだからウラ話を明かそう!) 「平成金融危機で大手銀行が破綻した3つの理由、元日銀幹部が語る」 バブル崩壊 効率化で利益を出すように yahooニュース 「これはもうあかん」 第1に経営者の問題、端的には「ワンマン経営」 向島で銀行員と一緒に遊んでいるだけで、ちっとも勉強していなかった 大蔵省は金融機関の経営問題で手いっぱいで、金融ビッグバンを考えている余裕はありませんでした。それを江田さんたちがうまく橋本首相を使って実現したという側面もあったでしょう 向島で遊んでいた人たち 江上 剛 「3メガバンク」だって安泰ではない 銀行の「生命維持装置」 金融政策の出口戦略がない 小野一起氏 高橋洋一 金融機関を破綻へ導いた3つの事由とは 相次ぐ金融機関の破綻
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