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パンデミック(経済社会的視点)(その7)(新型コロナ感染への不安に負けない心のコツ 精神科・産業医が勧めるコロナとの付き合い方、鴻上尚史氏 自粛警察生んだ日本の同調圧力は戦時下と同じ、小田嶋氏:うっかりマスクを忘れた人は「加害者」か) [国内政治]

昨日に続いて、パンデミック(経済社会的視点)(その7)(新型コロナ感染への不安に負けない心のコツ 精神科・産業医が勧めるコロナとの付き合い方、鴻上尚史氏 自粛警察生んだ日本の同調圧力は戦時下と同じ、小田嶋氏:うっかりマスクを忘れた人は「加害者」か)を取上げよう。

先ずは、8月12日付け東洋経済オンラインが掲載した精神科医・産業医の奥田 弘美氏による「新型コロナ感染への不安に負けない心のコツ 精神科・産業医が勧めるコロナとの付き合い方」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/368335
・『6月末からPCR検査数の大幅な拡充(3月、4月の約10倍)に伴って東京を中心に、全国で新型コロナのPCR陽性者数増加が報告されています。PCR検査数の急増にはあまり触れずに、その陽性者数の増加を「新規感染者の増加」として強調する報道が多く、中には恐怖をあおることが目的のようなものも散見されます。日々不安に思っている人も多いと思います。 私は東京都の企業約20社で産業医としての業務を行っています。「コロナの感染がどんどん広がっていて大丈夫でしょうか?」と動揺した社員さんから質問されることがしばしばあります。 そのたびに、「東京では検査数が春の10倍以上に増えているのだから、今まで隠れていた感染者が見つかるのは当たり前。3月、4月にこれぐらいの数を検査していたら、もっとたくさんの陽性者数が見つかった可能性が高いですよ」「ほとんどは無症状者か軽症者です。3月、4月には検査が受けられず、風邪として治癒していたような軽症の感染者が、今は検査が受けられるようになったので次々と判明しているだけです」「死亡者は微増で、ウイルスが変異して強毒化したというわけではありません」と説明しています。そうすると、多くの人はほっとした顔で落ち着かれます』、テレビでは「コロナの感染」の深刻さを煽るような報道も目立つ。
・『すでに多くの人が感染、無症状・軽症で済んでいる  私がそのように説明するのには根拠があります。 例えばソフトバンクが6月9日に行った大規模な新型コロナウイルス抗体検査において、PCR陽性者の約14倍の人が、抗体を保持していたことがわかっています。新型コロナウィルスに対して抗体を持っているいうことは、当然ながら過去に感染したことを示す証拠です。この抗体検査では被験者4万4066人のうち陽性者数は191人、陽性率は平均0.43%(医療者のみでは1.79%、非医療者だけでは0.23%)でした(ソフトバンクグループ「抗体検査結果速報値等について」6月9日付)。 この陽性率を単純に日本の全人口1億2373万人に当てはめると、53万2000人(非医療者の陽性率だと28万4000人)がすでに新型コロナウイルスに感染していたという計算となります。一方、日本で今までPCR検査を経て感染が判明した人は、累計でもわずか4万7466人のみ(8月8日現在)です。すでに多数の隠れた感染者がいても不思議ではありません。 「地方と東京は人口密度も感染状況も違うからその抗体陽性率で単純に計算できないのでは」というご意見もあるかと思いますので、東京都のみに当てはめて計算しますと、人口1400万人で抗体陽性率0.43%とすると約6万人、非医療者の抗体陽性率0.23%を適用したとしても約3万人と推計できます。東京都の公表しているPCR検査の累計陽性者数1万5536人(8月8日現在)の約2倍から4倍です。多くの方が知らないうちにコロナに感染して治癒しているということが類推できます。 ちなみに最新のコロナ抗体調査では、ソフトバンク調査より高い数字が出ています。神奈川県・横須賀市が無作為に抽出した2000人の市民を対象として7月3日~15日に調査した結果、検査を受けた964人中10人に抗体があり、抗体保有率は1.04%でした。この抗体保有率を東京都の人口に当てはめると、約14万5000人がすでに感染していることになり、現在判明している陽性者数の約10倍ということになります。 こうした抗体検査の結果から類推される患者数から考えても、検査数が増えれば増えるほど、コロナ陽性者がどんどん掘り起こされていく可能性は非常に高いです。西村康稔経済再生担当大臣(兼新型コロナ対策担当大臣)は、東京都の検査数を1万件まで上げると明言されていますから。そんな中で、一部のマスコミの「感染者数だけ」で危機をあおる報道に踊らされていては、不安にさいなまれてメンタルがもたなくなってしまいます。しかし、ほとんどは無症状か軽症で終わってしまうのです。 そこで、心を安定させながら仕事に向かい、生活を送るための「心のコツ」を2つ提案したいと思います』、「ソフトバンク調査」を「東京都のみに当てはめて計算しますと」、「抗体陽性者」は「PCR検査の累計陽性者数1万5536人(8月8日現在)の約2倍から4倍」、「横須賀市」の「抗体保有率」を「東京都」に当てはめると、「現在判明している陽性者数の約10倍」、とすると、「検査数が増えれば増えるほど、コロナ陽性者がどんどん掘り起こされていく可能性は非常に高い」。「一部のマスコミの「感染者数だけ」で危機をあおる報道に踊らされていては、不安にさいなまれてメンタルがもたなくなってしまいます」、同感だ。
・『多角的な情報を集めて自分で判断する  その1は、「多角的な視点からコロナ情報を集めて、自分でしっかり考察する」ことです。テレビやネットでセンセーショナルに報道される「コロナ恐怖系情報」ばかりを見ずに、自分でさまざまなコロナ情報を集めて、しっかり考察することが大切です。 現在、新型コロナウイルスの正体については、多くの方がデータを多角的に解析して新たな知見を次々と発表しています。 例えば日本総合研究所からは枩村秀樹調査部長による「新型コロナ感染が再拡大、本当の脅威は何か?」と題した興味深いデータ解析レポートが出されています。その主な内容は東洋経済オンライン記事「政府は『新型コロナの恐怖』政策を見直すべきだ」で読むことができます。 一読をお勧めしますが、産業医の視点から特に次のポイントに注目してご紹介しておきましょう。それは「若年・壮年者にとって新型コロナは脅威でない」という冷静なデータ分析です。 「まず、新型コロナへの恐怖感を拭い取り、国民に安心感を与えることが必要である。死亡率データから言えるのは、日本では欧米諸国より死亡率が大幅に低いこと、なかでも若年・壮年の死亡率がゼロに近いことである。若年・壮年者にとっては、決して世間で喧伝されているような『恐怖のウイルス』ではない」という一文は力強く感じられるのではないでしょうか。 産業医として面談をしていると、ワイドショーなどでセンセーショナルに誇張して放映される画像を見て、「自分もコロナにかかったら死ぬのではないか?」と恐れおののいている若い社員さんに時々出会います。ですが、枩村氏の指摘のとおり、新型コロナウイルスは基礎疾患を持たない健康な若者・壮年者にとってはインフルエンザ以下の毒性であることが明らかになりつつあります。 また、高橋泰・国際医療福祉大学大学院教授(公衆衛生学)も東洋経済オンラインのインタビューにて「日本国民の少なくとも3割程度がすでに新型コロナの暴露を経験したとみられる」「新型コロナウイルスは、初期から中盤までは、暴露力(体内に入り込む力)は強いが、伝染力と毒性は弱く、かかっても多くの場合は無症状か風邪の症状程度で終わるおとなしいウイルスである」と解説されています(『新型コロナ・日本で重症化率・死亡率が低いワケ』7月17日公開)』、「新型コロナウイルスは基礎疾患を持たない健康な若者・壮年者にとってはインフルエンザ以下の毒性である」、のはその通りだが、それをいいことに「健康な若者」が夜の街で遊びまくり、発症しない感染者となって、高齢者に移しまくるというのも困ったものだ。
・『「第2類感染症の指定から外すべき」との提言も  また7月30日に首相官邸で開かれた未来投資会議では、大木隆生・東京慈恵会医科大学教授(外科統括責任者・対コロナ院長特別補佐)から、新型コロナウイルスと共生するという考え方で画期的な提言が出ています。 この提言では、「これまで実施された一般を対象とした抗体検査(0.1~8%)、PCR 検査(1~3%)から日本にはすでに数百万人単位の感染者がいたことになるが、それこそ多数の無症候性患者がいる事の証明である。したがって死亡率は季節性インフルエンザと同程度の 0.02~0.04%前後」「7 月に入って全国的に感染者数が増えたが、それは PCR 検査実施数が増えたので PCR 陽性者も増えた事が主因であり、死亡者増、医療崩壊など実害は出ていない」と明確に述べられています。 また今後の具体的対策案も多数提案されています。 「高齢者施設や病院での院内感染による死者数が全体の 20~40%を占めているのでこれら弱者を守ることで死亡率をさらに下げることができる。そこで公費負担で入院する患者と共に、施設・病院従事者に対して毎週1回程度の PCR を実施すべき」「新型コロナは第2類感染症に指定されているので PCR 陽性と判定されたら隔離等が必要となり、これが保健所も医療も無駄に圧迫している」「結論として、新コロナは日本人にとって怖くない。国民にそれを啓蒙し、実害のない『新規陽性者数』に一喜一憂せず、経済的に新コロナ対応病院を援助し、第2類感染症指定をはずすことで医療崩壊は防げる」 このような次々と発表される新たな知見に触れれば、「コロナ感染が拡大してきた、自分や家族が感染すれば死ぬかも!」と盲目的に恐怖に支配されることもなくなりますよね。 まずは陽性者数のみを強調して恐怖をあおるテレビ報道に踊らされずに、現在次々と解析され判明してきている新型コロナウイルスに関する正しいデータと知見、冷静な専門家の意見にも積極的に触れてみると、メンタルを平静に保ちながら日々を過ごすことができます』、「このような次々と発表される新たな知見に触れれば・・・」を素人に求めるのは酷だ。やはり「テレビ報道」の姿勢を正すことが先決なのではなかろうか。
・『コロナ感染を恐れず、ある程度許容する  2つめとして提案したい心のコツは、「コロナ感染を恐れず、ある程度許容する気持ちを持つ」ことです。 私たち現役世代は「自分も周りの同僚も、いつかコロナに感染する可能性がある」と考えたほうがいい。いくら職場で感染対策を万全にしていたとしても、インフルエンザより広がりやすいことがわかってきた新型コロナウイルスに、今後もずっと罹患しないでおくのは至難の業です。たとえワクチンができたとしても、インフルエンザワクチンがそうであるように、100%コロナ感染を予防することはできないのです。 過剰な報道を背景に、地方を中心として、「新型コロナウイルスに感染することは、悪である」「感染した人は責められるべき」といった理不尽な偏見や嫌悪が日本社会に蔓延しています。そのために新型コロナウイルスそのものへの恐怖よりも、近隣の他者の目や風評被害を恐れるあまりに、過剰なゼロリスク対策を自分自身や周りにも強要する風潮になっています。そしてお互いに監視し合うという戦時中の隣組のような息苦しい雰囲気に日本の社会全体が包まれています。 そんな中で、筆者は新潟県見附市役所のFacebook公式ページの素晴らしい投稿に出会いました。見附市公式レポーターである村上徹さんが、7月14日、フェイスブックに、数コマの漫画とともに次のような言葉をつづっていらっしゃいました。 【安心して感染したい】物騒なタイトルですが…。丁寧に補強説明すると《もし新型コロナウィルスに感染しても、安心して治療に専念できる見附であって欲しい》ということなんです。―(中略)―仮に見附市で最初の感染者になっても、市民が口を揃えて「一日でも早く完治するといいね!」と心強い励ましを送ってくれるんであれば、安心出来ますよね。―(中略)―無知から生じる誤解や、ねじ曲がった噂が広まり、自分の家族や友人までを傷つけるような事態だけは避けたいからです。明日、自分が感染していないと自信を持って言える人は一人もいないからこそ互いを想い合う空気をまずは自分から創って行きたいと思います。 さに私自身が書きたいと思っていた言葉で、思わず膝を打ち大きく何度も頷いてしまいました。地域社会でも会社でも、「絶対にコロナに感染してはいけない」とガチガチにゼロリスク対策を求めるのではなく、これからは「万が一コロナに感染しても、安心して治療に専念し復帰できる」という温かい雰囲気を皆が意識して作っていく必要があると思います。 もちろん新型コロナウイルスに感染すれば重症化しやすいリスクのある基礎疾患を持つ患者さんや高齢者に対しては、ワクチンができるまで、引き続き厳重な感染予防対策が継続できるように、社会的にサポートし、手厚い保護をしていく必要があります。 例えば家庭内や街中では、ハイリスクの人たちとは極力ソーシャルディスタンスがとれるように過ごす。ハイリスクの人たちが集団での食事や会合に参加しなくても済むように配慮する。職場ではハイリスクの人たちにはリモートワークを優先して適用する、どうしても出勤が必要な場合は十分に距離の取れる場所で就業してもらうなどの工夫を積極的に行いましょう。また、マスクや手洗いを励行しつつ、「発熱以外にも、咳や倦怠感など何らかの風邪症状を感じたら、早めに休む」ことも職場で徹底していきましょう。 こうした感染対策を行いながらも、低リスクで健康な壮年・青年・子どもたちについては、「自他ともにコロナ感染を許容しながら、お互いに支え合って、社会活動を積極的に継続していく」という寛容な意識改革が、必要だと考えています。 新型コロナの死者は流行から6カ月あまり経った8月8日現在で1042人です。ちょっと視野を広げてみると、私たちは新型コロナより死者数が多いインフルエンザ(2018年約3000人死亡)に対してもお互いに感染を許容し合ってきました。また新型コロナと同等の扱いをされている結核(毎年約2000人程度死亡)が職場で発生しても、保健所が消毒にきて濃厚接触者についてX線検査や血液検査を行いますが、差別や偏見を持たずに冷静に対応してきたではありませんか』、「新型コロナウイルスそのものへの恐怖よりも、近隣の他者の目や風評被害を恐れるあまりに、過剰なゼロリスク対策を自分自身や周りにも強要する風潮になっています。そしてお互いに監視し合うという戦時中の隣組のような息苦しい雰囲気に日本の社会全体が包まれています」、これは大いに問題だ。「インフルエンザ・・・に対してもお互いに感染を許容し合ってきました」、「結核」も「差別や偏見を持たずに冷静に対応してきた」、「コロナ感染を恐れず、ある程度許容する」、同感だ。
・季節性インフルエンザより死者数が少ない  新型コロナもインフルエンザや結核と同様に扱う寛容な心を持たなければ、このウイルスと人間社会の共存は永遠に成り立たないでしょう。 私がこれまで産業医・精神科医として接してきたさまざまな職種の人たちにおいても、今回ご紹介した2つのコツを心がけている方々は、過剰な不安にさいなまれることなく落ち着いて仕事に取り組み、日常生活でもコロナ前の穏やかさを次第に取り戻しています。 まず、経営陣がこうした広い視点と心を持つことが必要ですし、そうした人たちの下では社員たちも伸び伸びと元気に働いているように感じます。本コラムがわずかでも読者の皆さんの心の平和に役立てれば幸いです』、「まず、経営陣がこうした広い視点と心を持つことが必要ですし、そうした人たちの下では社員たちも伸び伸びと元気に働いているように感じます」、その通りなのだろう。

次に、9月14日付け日刊ゲンダイが掲載した劇作家・演出家の鴻上尚史氏による「鴻上尚史氏 自粛警察生んだ日本の同調圧力は戦時下と同じ」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/278549
・『「空気を読め」「和を乱すな」――。日本社会で日常的に使われる言葉が、コロナ禍によって他人への「暴力」につながる。日本人の「同調圧力」を冷静に分析し、それに屈しない戦い方を提示し続けているのが、この人だ。コロナ禍であぶり出された日本人の「正体」とは何か。息苦しさとどう向き合うべきなのか。ざっくばらんに聞いた(Qは聞き手の質問、Aは鴻上氏の回答)。 Q:なぜこのタイミングで新著「同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか」(講談社現代新書)を出したのでしょう。 A:新型コロナウイルスの登場によって人々は抑圧的な生活を余儀なくされ、それによって生じる不安や苛立ちは、この先の未来が見えないことによって倍化しています。日本独特の社会システムである「世間」が凶暴化し、“自粛警察”を筆頭とする同調圧力を増大させています。このような状況を目の当たりにし、「今、出版しないといけない」と思ったのです』、「日本独特の社会システムである「世間」が凶暴化し、“自粛警察”を筆頭とする同調圧力を増大させています」、極めて的確な捉え方だ。
・『日本独特の「世間」が息苦しさの要因  Q:「世間」とは一体、何でしょうか。 A:自分の知っている人たちによってつくられた集団と定義しています。その反対語は「社会」。自分の知らない人たちでつくられている世界です。同調圧力は、「世間」から生まれます。自分の世界、すなわち「世間」から異物を排除し、「世間」を乱そうとする「社会」の人を激しく攻撃するのです。 Q:「世間」はどのように形成されてきたのでしょう。 A:日本では、異なる言語を話す民族に一度も蹂躙されていない分、村という「世間」がずっと続いてきました。年貢は個人単位ではなくて、村単位だったので、村全体で何百俵単位の米を出すことが至上命令でした。村落共同体という「世間」が、日本人のDNAに残っているといえるでしょう。 Q:村の同調圧力といえば、村八分が象徴的です。 A:なぜ、村八分が起こるのか。村にとって、水が一番大事だからです。川から田んぼに水をどう引くかが、村にとって死活問題でした。もし誰かが、途中で自分の田んぼに水を多めに引いたら、日照りの夏は他の田んぼが干上がる可能性がある。だから、ルールに背いたものは、村八分にされる。葬式と消火の「二分」は村人が手伝いますが、これは決して優しさではありません。火事は急いで止めないと村全体が燃えてしまうし、葬式を挙げて遺体を埋めないと、腐敗してウジが湧き、疫病が広がってしまう。村を守るために、最低限のことは手伝うしかなかったのです』、「同調圧力は、「世間」から生まれます。自分の世界、すなわち「世間」から異物を排除し、「世間」を乱そうとする「社会」の人を激しく攻撃するのです」、「世間」と「社会」を分別しているようだ。「ルールに背いたものは、村八分にされる。葬式と消火の「二分」は村人が手伝いますが、これは決して優しさではありません。火事は急いで止めないと村全体が燃えてしまうし、葬式を挙げて遺体を埋めないと、腐敗してウジが湧き、疫病が広がってしまう。村を守るために、最低限のことは手伝うしかなかったのです」、「村八分」の意味が漸く深く理解できた。
・『二度と会わないかもしれない人との会話が大事  Q:村という「世間」を守るために、掟を破った「異物」を排除した。 A:異物を排除しようとする人は別に悪人でもなければ、冷たい人でもない。掟を破った人を無視することと、自分の「世間」を守ることはイコールだからです。例えば、隣の家からコロナ感染者が出たとする。その感染者との間に何も関係性がない場合、その感染者は「社会」の人です。守るべき「世間」の人ではないから、その感染者には「許しがたい」という感情しか湧かない。岩手県の感染者第1号は名前と顔と住所を特定され、勤務先には「おまえらの監督が不行き届きだからコロナになるんだ」などの抗議電話が殺到したといいます。これと一緒です。 Q:今の状況について「戦時下と同じ」という言葉を使っていますね。 A:異物に対する排除の強さが当時とすごく似ているような気がします。例えば、昭和15年の「七・七禁令」。何円以上のメロンやイチゴ、スーツや腕時計といった“高級品”を買ってはいけないという省令です。そのルールを破っていないかどうか、隣組や国防婦人会などが見て回った。今も行政の要請に応じて自粛しているか、東京から帰省した人がいるか、他県ナンバーの車が通るかなど、SNSの発達によって昔と同じ厳しさになったと思います。 Q:戦時下の日本人のマインドと変わっていない。 A:戦時下と今がソックリだということを知らせることで、愚かな過ちを繰り返すのはやめようと思う人を少しでも増やしたいと思います。国防婦人会は派手な服装やパーマを当てている人を捕まえ、隣組は「お宅からすき焼きのにおいが漂ってますけど、このご時世にすき焼きを食べるんですか」などと監視した。コロナ感染者の名前や顔、住所を特定し、勤務先に抗議電話をすることと一緒です。はっきりしているのは、みんなコロナそのものの怖さより、「あいつコロナになったぜ」と後ろ指をさされる方が怖いのだと思う。病気になった上に、何をウワサされるか分からなくて、引っ越しをせざるを得なくなるとか、どう考えてもおかしい。 Q:どうしたら、そんな息苦しさを和らげることができるのでしょう。 ひとつは、緩やかな「世間」をつくることです。会社という「世間」しか持っていない状況で、いつも上司から抑圧を受けたり、罵倒されたりしたら、どこかに文句の電話もしたくなるだろうし、ネットで誹謗中傷を書きたくなると思う。絵画教室に行って絵を描いて没頭する時間をつくるとか、とにかく緩やかな「世間」をいくつか持つことが肝心です。もうひとつは、「社会」の人たちとつながる言葉を見つけることです。 Q:具体的にはどんなことでしょう。 A:例えば、会社という「世間」で上司からボロクソに言われて、むしゃくしゃしている。誰にも相談できないと思った時、帰宅途中で普段は行かないレストランへ寄り道して、店員さんと「おいしかったです」と言葉を交わすとか。何でもいいんですけど、犬を連れている人と思わず犬の話で盛り上がるとか。二度と会わないかもしれない人と会話をすることで、自分の焦りや不安を少しは解消できるんじゃないかな』、現在の自粛警察は「隣組や国防婦人会」と確かに同じだ。「緩やかな「世間」をいくつか持つことが肝心です。もうひとつは、「社会」の人たちとつながる言葉を見つけることです」、確かに有効なのかも知れない。
・コロナ禍が突き付けた「お任せ」の限界  Q:コロナ禍の終息は見通せず、経済的にも精神的にも不安が募る一方です。 A:新型コロナは人類が初めて直面する、未曽有の事態です。だから、判断を間違うことはあります。間違っていたら、合理的に考えてやり直せばいい。太平洋戦争の日本人の死者といわれている310万人のうち9割が、昭和19年以降の死者です。昭和19年といえば、敗色濃厚の時期。その時にやめておけば、実は9割の人は死ぬことはなかったのです。軍も当時はどうやって講和するかしか考えていなかったけれど、結局、ズルズル引きずった。日本人はどこか、破滅するまで止まらないみたいな、「世間」に身を任せる特徴があります。変化を嫌うというか。 Q:まるで「一億玉砕」です。 料理の頼み方でも、日本人特有の「お任せ」というのがあるでしょう。海外の人からすると、お店で「お任せ」なんて言っても、余りものしか出てこないから、料理長の自慢の一品や高級な食材が出てくるなんて信じられない。日本人は料理も含め、あらゆることを「お任せ」してしまう。昭和19年以降、おかしいと思いつつも、「世間」に「お任せ」して玉砕しました。コロナ禍でも、「なんかおかしい」と思っている間に「お任せ」して破滅する可能性をはらんでいます。 Q:ひと昔前は、「親方日の丸」なんて言葉もありましたね。 A:コロナ禍は嫌なことしかないけど、ひとつ前向きなことを教えてくれたとすると、自分の頭で考えなければいけないということです。今までは日本政府という「親方」に「お任せ」していたけど、政治的な立場を超えて一人一人が自分の頭で考えざるを得なくなった。例えば、介護士や保育士など2万人にPCR検査を無料で行う「世田谷モデル」に賛成なのか反対なのか、Go Toキャンペーンに東京を含めるかどうかをどう考えるか、とか。 Q:「自己責任」が強まっている? A:責任というより、「決断」でしょう。自分がまずどう考えるかという段階にやっと来た。例えば、この状況で「よし沖縄へ行こう!」と決断したとする。で、感染してしまった場合に、「政府のGo Toに乗っかって行ったのにさぁ」と責任をなすり付けるか、「自分の決断で行ったんだから、この感染は自己責任」と考えるかは、決断を下した後の段階。たくさんの人に「世間」のルールやカラクリを知ってもらい、「世間」が生む同調圧力や息苦しさと戦ってもらえたらいいですね。(鴻上氏の略歴は省略)』、「日本人は料理も含め、あらゆることを「お任せ」してしまう。昭和19年以降、おかしいと思いつつも、「世間」に「お任せ」して玉砕しました。コロナ禍でも、「なんかおかしい」と思っている間に「お任せ」して破滅する可能性をはらんでいます」、「今までは日本政府という「親方」に「お任せ」していたけど、政治的な立場を超えて一人一人が自分の頭で考えざるを得なくなった」、「「世間」が生む同調圧力や息苦しさと戦ってもらえたらいいですね」、こうした前向きな動きが出てくることを期待したい。

第三に、9月11日付け日経ビジネスオンラインが掲載したコラムニストの小田嶋 隆氏による「うっかりマスクを忘れた人は「加害者」か」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00085/
・『先日、ある場所で開かれた会合で久しぶりにタバコの煙にさらされた。 タバコの煙を身に浴びた程度のことをいまだに覚えているのは、過剰反応であったと、わがことながら反省している。コロナ禍の影響は多方面に及んでいる。私たちが「他人」から受けるささいな「迷惑」を容認できなくなっていることもそのうちのひとつだと思う。じっさい、私はコロナ禍以来、タバコの煙に敏感になっている。 ソーシャルディスタンスに慣れたわれらコロナ下の日本人は、「他者」への違和感をエスカレートさせるステージに突入している。であるからして、おそらく、アンダー・コロナのゆとりある通勤電車に慣れたビジネスパースンの中には、仮に新型コロナウイルスが収束したのだとして、あの満員電車の距離感に戻れなくなる人々が一定数現れるはずだ。 私自身の話をすれば、私はすでに30年以上前から、朝夕のラッシュの時間帯の電車には乗れない。そういうカラダになってしまっている。 もっとも、自分が満員電車に乗れない体質である旨を明言する態度は、それはそれで高飛車な特権顕示(あるいは最近の言い方で言えば「マウンティング」)であるのかもしれない。 じっさい、親しい間柄の人間は、「おまえはナニサマなんだ?」という率直なリアクションを返してくる。 「忠告しとくけど、満員電車が苦手だとか、ふつうの勤め人の前では言わない方がいいぞ」「なんで?」「毎日満員電車に乗って出勤しているあなたがた庶民は奴隷か何かなんですか、と言ってるみたいに聞こえるからだよ」「奴隷じゃないのか?」「オレはいま面白い冗談として聞いてやってるけど、とにかく一般人の前ではそういうまぜっ返しは禁物だぞ」なるほど。 「満員電車に乗れないとか、このオッサンは何様のつもりなんだろうか」と思って私の話を聴いてくれていた若い人たちには、あらためてこの場を借りて謝罪しておく。私は「オレ様」だったのかもしれない。 ともあれ、このたびのコロナ生活を通じて、身近な他者と容易に打ち解けない「オレ様」の数は、確実に増加しつつある。それが良いことなのか悪いことなのかは、一概には言えない。ただ、一人ひとりの日本人が個人としての独立自尊の境地に到達するためには、他者をうとましく感じる段階が必要ではあるはずで、その意味からすると、満員電車に乗ることのできないオレ様な日本人が増えることは、わが国が国際社会のマトモなメンバーになるためには、通過せねばならない一過程なのではあるまいか。 タバコの話に戻る。 煙を浴びた当日、打ち合わせをしている室内にタバコの煙が漂っていることを、私がリアルタイムで不快に感じていたのかというと、それほどまでのことはなかった。 「この部屋にはタバコを吸う人が二人いるのだな」と、そう思っただけだ』、「このたびのコロナ生活を通じて、身近な他者と容易に打ち解けない「オレ様」の数は、確実に増加しつつある・・・一人ひとりの日本人が個人としての独立自尊の境地に到達するためには、他者をうとましく感じる段階が必要ではあるはずで、その意味からすると、満員電車に乗ることのできないオレ様な日本人が増えることは、わが国が国際社会のマトモなメンバーになるためには、通過せねばならない一過程なのではあるまいか」、やや強引過ぎる印象もあるが、面白い。
・『あらためてタバコの被害に思い至ったのは、帰宅して着替えながら、自分の着ているシャツにタバコの匂いが染み付いていることに気づいた時だ。 「ああ、このシャツは早速クリーニングに出さないとダメだな」 と思うと、腹が立った。というのも、そのシャツは、ちょっと前に倒産が伝えられたレナウンのブランドのもので、個人的なお気に入りのひとつだったからだ。で、自分が感情を害していることへの意外さとうしろめたさから、あれこれ考え始めたのが、今回の執筆のきっかけになったわけだ。 タバコの周辺にはいくつかの困った逆説がある。 そのうちのひとつは、喫煙の被害が減れば減るほど、その迷惑さが顕著になっていることだ。 私はいま、あえてわかりにくい書き方をしている。 というのも、これは、直感的に飲み込みにくい話で、喫煙者、非喫煙者双方にとって、理不尽な展開でもあるからだ。 街なかにタバコの煙が蔓延していた昭和の時代、喫煙は「嗜好」であって「迷惑」ではないと考えられていた。いや、非喫煙者の側は「迷惑」に感じていたかもしれないのだが、彼らとて「被害」とまでは断じていなかった。 喫煙者の側は、ほとんどまったく自分たちの喫煙が「加害」であることは自覚していなかった。「マナー違反」とすらほぼ考えなかった。 ところが、路上や駅頭から喫煙者の姿が消えて、喫煙できる公共スペースが限られるにつれて、タバコの煙は、悪目立ちするようになった。 そして、これもまた皮肉ななりゆきなのだが、タバコによる被害が減れば減るほど「加害者」はより特定されやすくなった。 不特定多数の喫煙者(つまり「加害者」ですね)が、あらゆる場所に遍在していた時代は、誰も自分のシャツをクサくした人間を特定することができなかった。それどころか、自分の立ち回り先のあまねく場所にタバコの煙が常にたちこめていたあの時代には、その匂いを「クサい」と感じる感覚自体が育っていなかった。というのも、世界はタバコの匂いで満たされているのがデフォルト設定で、それ以外の世界を思い浮かべることのできる人間は、まだ生まれていなかったからだ。 ところが、街路からタバコが追放されて、喫煙者が札付きの異端者と見なされる世界が到来してみると、タバコの匂いは、明らかな異臭として意識されるようになる。ついでのことに、自分のシャツにタバコの匂いをつけた「犯人」も容易に特定可能になった。 「この不快な匂いは、あの時のあの打ち合わせの席で、やおらタバコを取り出して火をつけていたあのおっさんが吐き出していたあの煙が原因だな」と、現実問題としてタバコの「被害」が、20世紀の喫煙最盛期に比べれば、十分の一以下に激減しているにもかかわらず、被害感情はむしろ増している。もちろん、特定の喫煙者への憎悪も同じように増量している。 これは、タバコに限った話ではない。 マナーにかかわる話はどれもプロットをたどることになっている。逸脱者が減少すればするだけ、彼らはより強く断罪されるようになるのである。 たとえば、教師による生徒への暴力は、私が子供だった昭和40年代にはさほど珍しいエピソードではなかった。 どの学校にも札付きの暴力教師が一人や二人はいて、その彼らは、日常的に生徒を叩くことを自らの信念において敢行していた。 私自身、中学校の3年間を通じて100を超える数の殴打を浴びている』、「タバコの「被害」が、20世紀の喫煙最盛期に比べれば、十分の一以下に激減しているにもかかわらず、被害感情はむしろ増している。もちろん、特定の喫煙者への憎悪も同じように増量している」、確かに逆説だ。私は節煙をして、現在は1日2本程度しか吸わないようにしているが、他人の煙が充満している喫煙室は嫌いで、庭で吸うようにしている。
・『教室内の暴力は、一部の暴力教師に限った話でもなかった。 ふだんは温厚な教師が、年に一度くらいのペースで生徒に手を上げることもよくある話だったし、生徒間の暴力も、私の知る限りでは、現在よりもずっと頻繁に勃発していた。 で、何が言いたいのかというと、学校に暴力が蔓延していた時代は、暴力そのものがさして意識されなかったということだ。暴力は、環境の一部だった。教室にある机や椅子と同じような背景のひとつとして受け止められていた。 ここにも喫煙とその被害の間にある逆説とよく似た逆説が介在している。 多くの教師が多くの生徒を殴っていた時代、殴られた側の生徒が被害を意識することは少なかったし、殴る側の教師が自分の加害を自覚する度合いもずっと低かった。 であるからして、殴られたことを問題視して教育委員会に訴える生徒もほとんど現れなかったし、生徒を殴った教師が職を失うようなこともなかった。 ところが、学校から暴力が追放されて、生徒を殴る教師がほぼ根絶されてみると、教師による暴力は、新聞記事として掲載されるレベルのスキャンダルと見なされるようになった。そして、殴られた生徒の側も、教師による殴打をきっかけに不登校に陥るほどのショックを受けるようになった。 もちろん、これは良い方向の変化の結果だ。 私は、喫煙だの暴力だのについて、昔の方が良かったと言うつもりはない。路上の立ち小便についても同様だ。ああいうことが当たり前だった時代に戻ったところで良い変化はひとつも起こらない。 では、どうして私が 「路上喫煙もカジュアルな暴力も立ち小便も、昔は、たいした問題じゃなかったのだよ」てなことをわざわざ文章として書き起こしているのかというと、年寄りの読者の共感を獲得しようとしているからではない。 私はむしろ、若い人たちに向けて、「君たちが当たり前だと思っている君たちの社会の前提は、ほんの数十年前まではわりと軽んじられていたのだよ」ということを知ってほしいと思って今回の原稿を書いている。 もうひとつ、「多様性」と「加害」と「差別」と「同調」の間に、必ずしも豁然とした線が引けるわけではないということを訴えたい気持ちもある。 ん? わからない? たしかに、これまでの話から、多様性と加害と差別と同調が互いに侵食し合っているという話を読み取るのは簡単ではない。 しかも、この先はさらにわかりにくい話になる。 でも、なんとか書き起こしてみることにする。 わかってくれる人が3割しかいなくても、書いておく価値はある。 というよりも、私のような先の長くない書き手は、3割の読者にしか届かない原稿をこそ、ぜひ書き残しておくべきなのである。 理由は述べない。自分で考えてくれ』、「「多様性」と「加害」と「差別」と「同調」の間に、必ずしも豁然とした線が引けるわけではないということを訴えたい」、全くわからないので、次の展開が楽しみだ。
・『まず、タバコの例から。 近年、明らかな「加害と被害」の文脈で語られるようになっているタバコの話題は、ほんの30年ほど前までは、「嗜好」の問題として片付けられていた。 それどころかタバコのような嗜好品に関して「加害」であるとか「被害」であるといった言葉を使うことは「野暮」な態度として一蹴されていた。 「人間には固有の声や風貌や匂いがある。そして、それらの個性に対しては別の人間がそれぞれの好悪の感情を抱くことになっている。タバコを吸うか吸わないかということも、髪が長いか長くないかと同じく、個人の個性に属する話であることは論をまたない。で、別の個人が、その他人の個性を不快と感じるか好ましく感じるかの感情を抱いたのだとして、それらの感情はそれを抱いている個々人が甘受すべき試練以上のものではない」 てな感じの理屈が主張されていた。 勘違いしてもらっては困るのだが、私はいまここで、喫煙派の昔の理屈を蒸し返して擁護しようとしているのではない。私は2002年に禁煙して以来、20年近くクリーンだし、他人の煙は迷惑だと思っている。 私は現時点での「常識」で、明らかな「加害/被害」と考えられている喫煙にも、「あまたある多様性のうちのひとつ」と考えられていた時代があったという事実をお知らせしているに過ぎない。 「同調」が進むと、「異端」の排除はより苛烈になる。 私が心配しているのはこのポイントだ。 喫煙や暴力や立ち小便について言うなら、その種の悪弊については寛容さよりも峻厳さで対処した方が良いのだろう。 ただ、モノによっては同調と秩序を求める態度が、社会の多様性を殺すケースもあることを自覚しておかなければならない。 たとえば、ゼノフォビア(外国人嫌悪)の問題は、それを声高に主張する側(外国人への嫌悪を喧伝する人々)のペースで進められてはならない。 面倒なようでも、嫌悪をあらわにする人々を説得する方向で話をせねばならない。で、嫌悪の元となっている外国人を排除するのではなくて、彼らが抱いている嫌悪感の方を絶滅させるべく対策を立てないといけない。 外国人との交流に慣れていなかったり、内心に差別感情をあたためたりしている人たちは、外国人の自然な振る舞いを、習慣や文化の違いとして当たり前に受け止めることができない。 だから、人によっては、外国人が外国語を使うことを 「加害」「迷惑」「日本文化への冒涜」として受け止める。 「店員同士がけたたましい韓国語でしゃべってやがってアタマに来た」「日本語がわからないの一点張りで、話にもなんにもなりゃしないから勘弁しておっぱなしてやった」という感じの武勇伝を開陳されて困惑したことが、私にも何度かある』、「「同調」が進むと、「異端」の排除はより苛烈になる」、「モノによっては同調と秩序を求める態度が、社会の多様性を殺すケースもあることを自覚しておかなければならない。 たとえば、ゼノフォビア(外国人嫌悪)の問題は・・・嫌悪の元となっている外国人を排除するのではなくて、彼らが抱いている嫌悪感の方を絶滅させるべく対策を立てないといけない」、なるほど。
・『彼らには、あるいは悪気はないのかもしれない。 外国人が、外国人として外国人らしく振る舞うことそれ自体を、「キモい」「異様だ」「クサい」「エレベーターが臭うのをなんとかしてほしい」「なんかジロジロこっち見やがった」「ニヤニヤしてやがる」「なに?あのデカい帽子みたいなマフラーみたいなの、なにあれ?」「なんであの人たちって異様に身振り手振りがデカいんだろうな。あと声も」「だよな。バスとかで会うとうるさくて死ぬ」てな調子で感じたままに話しているだけなのかもしれない。 しかし、あなたのその無邪気な雑談が高い確率で差別を含んでいることは、自覚しておいた方が良いと思う。 タバコの煙のようなあれほどはっきりした匂いですら、ほんの30年前までは「クサい」とは思われていなかった。あまたある「街の匂い」のひとつとして等閑視されていた。 それが、「クサ」くなったのは、タバコという商品の匂いそのものが激烈化したからではない。 街が相対的に無臭化したからでもあれば、人々の振る舞い方や体臭が平準化したからでもあり、社会全般が同調の度を高めたからでもある。 外国人への忌避感は、タバコへの嫌悪と同じく、「被害」として自覚されやすい。 じっさい、ゼノフォビアは、自分たちと同じようでない人間たちが、自分たちの社会の中で一定の地歩を占めていること自体を、自分たちの共同体への「攻撃」であると見なす人々によって正当化され、組織化される。 私は、コロナ禍をきっかけに、世界中で人種間の対立や民族間の緊張が高まっていることと、うちの国のような比較的均質性の高い社会で、外国人いびりが表面化しやすくなっていることを、無縁だとは思っていない。同じひとつの出来事の別の側面なのだと思って眺めている。誰によるどのセリフだというふうに特定することは避けるが、この半年ほどの間に、外国人へのいやがらせのコメントやツイートが目立つ傾向にあることはまぎれもない事実だ。 喫煙者への攻撃と直接に関係のある話ではないが、抑圧を感じている人々が不寛容の度を高める展開は、実にわが国らしい話だと思っている。 21世紀の社会は、多様化している一方で画一化している部分はおそろしく窮屈になっている。 私の抱いている感じでは、「多様化」が促進されているのは、商品として提供可能な属性に限られていて、人間の振る舞い方や性質についての決まりごとは誰もが同じように振る舞わないと異端者として排除されるタイプの同調が、どこまでも極端になってきている。 たとえば、うっかりマスクを忘れてエレベーターに乗り込んでしまった時の人々の視線の険しさを3月の段階と9月の時点で比べてみると、体感として3倍くらいにはなっている。われわれは非マスク者を「加害者」と見なして睨み殺す視線を獲得し終えている。 社会の要求水準がより上品になるということは、われわれがそれだけ神経質になるということでもある。 ささいな匂いや騒音や煙に敏感になることは、それだけ社会を清潔に保つために寄与する態度ではあるものの、その一方で、ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。 思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド(注)状態におさえこんでいるからではないか。 というわけで、新型コロナウイルスへの警戒感が、無闇矢鱈な異端者排除の発作に至らないように心がけたいものですね、というのが今回の結論です。 ええ、変な結論ですが。 めんどうくさいのは、反PC(ポリティカル・コレクトネス)の活動に血道を上げている人たちが、例によって寛容さという言葉の関節を逆に取るタイプの論陣を張ってくることだ。 「やれPCだの差別だのとわめきちらしては表現規制や行動制限を求めてやまないのはおまえたち人権屋の方じゃないか」というお決まりの例のアレだ。 議論に巻き込まれるのはごめんなので。ひとことだけ 「うるせえ」と言っておく』、「ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。 思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド状態におさえこんでいるからではないか」、その通りなのかも知れないが、ノーベル賞受賞者の山中教授が、探っている日本での死者数が少ない理由の1つに挙げるには、定性的すぎて無理だろう。
(注)スリーパーホールド:後ろから相手の首に腕をまわし、肘が喉の前に来る状態で首を左右から挟むようにして頸動脈を締め上げる技(ピクシブ百科事典)
タグ:新型コロナウイルスは基礎疾患を持たない健康な若者・壮年者にとってはインフルエンザ以下の毒性である (経済社会的視点) 奥田 弘美 すでに多くの人が感染、無症状・軽症で済んでいる 「新型コロナ感染への不安に負けない心のコツ 精神科・産業医が勧めるコロナとの付き合い方」 「第2類感染症の指定から外すべき」との提言も (その7)(新型コロナ感染への不安に負けない心のコツ 精神科・産業医が勧めるコロナとの付き合い方、鴻上尚史氏 自粛警察生んだ日本の同調圧力は戦時下と同じ、小田嶋氏:うっかりマスクを忘れた人は「加害者」か) 多角的な情報を集めて自分で判断する 一部のマスコミの「感染者数だけ」で危機をあおる報道に踊らされていては、不安にさいなまれてメンタルがもたなくなってしまいます 東洋経済オンライン パンデミック 検査数が増えれば増えるほど、コロナ陽性者がどんどん掘り起こされていく可能性は非常に高い ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。 思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド状態におさえこんでいるからではないか 嫌悪の元となっている外国人を排除するのではなくて、彼らが抱いている嫌悪感の方を絶滅させるべく対策を立てないといけない モノによっては同調と秩序を求める態度が、社会の多様性を殺すケースもあることを自覚しておかなければならない。 たとえば、ゼノフォビア(外国人嫌悪)の問題は 「同調」が進むと、「異端」の排除はより苛烈になる タバコの「被害」が、20世紀の喫煙最盛期に比べれば、十分の一以下に激減しているにもかかわらず、被害感情はむしろ増している。もちろん、特定の喫煙者への憎悪も同じように増量している 一人ひとりの日本人が個人としての独立自尊の境地に到達するためには、他者をうとましく感じる段階が必要ではあるはずで、その意味からすると、満員電車に乗ることのできないオレ様な日本人が増えることは、わが国が国際社会のマトモなメンバーになるためには、通過せねばならない一過程なのではあるまいか このたびのコロナ生活を通じて、身近な他者と容易に打ち解けない「オレ様」の数は、確実に増加しつつある 「うっかりマスクを忘れた人は「加害者」か」 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「世間」が生む同調圧力や息苦しさと戦ってもらえたらいいですね 今までは日本政府という「親方」に「お任せ」していたけど、政治的な立場を超えて一人一人が自分の頭で考えざるを得なくなった 日本人は料理も含め、あらゆることを「お任せ」してしまう。昭和19年以降、おかしいと思いつつも、「世間」に「お任せ」して玉砕しました。コロナ禍でも、「なんかおかしい」と思っている間に「お任せ」して破滅する可能性をはらんでいます コロナ禍が突き付けた「お任せ」の限界 緩やかな「世間」をいくつか持つことが肝心です。もうひとつは、「社会」の人たちとつながる言葉を見つけることです 現在の自粛警察は「隣組や国防婦人会」と確かに同じだ 二度と会わないかもしれない人との会話が大事 ルールに背いたものは、村八分にされる。葬式と消火の「二分」は村人が手伝いますが、これは決して優しさではありません。火事は急いで止めないと村全体が燃えてしまうし、葬式を挙げて遺体を埋めないと、腐敗してウジが湧き、疫病が広がってしまう。村を守るために、最低限のことは手伝うしかなかったのです 同調圧力は、「世間」から生まれます。自分の世界、すなわち「世間」から異物を排除し、「世間」を乱そうとする「社会」の人を激しく攻撃するのです 日本独特の「世間」が息苦しさの要因 日本独特の社会システムである「世間」が凶暴化し、“自粛警察”を筆頭とする同調圧力を増大させています 「同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか」(講談社現代新書) 「鴻上尚史氏 自粛警察生んだ日本の同調圧力は戦時下と同じ」 日刊ゲンダイ まず、経営陣がこうした広い視点と心を持つことが必要ですし、そうした人たちの下では社員たちも伸び伸びと元気に働いているように感じます 季節性インフルエンザより死者数が少ない 「結核」も「差別や偏見を持たずに冷静に対応してきた」 に対してもお互いに感染を許容し合ってきました インフルエンザ 新型コロナウイルスそのものへの恐怖よりも、近隣の他者の目や風評被害を恐れるあまりに、過剰なゼロリスク対策を自分自身や周りにも強要する風潮になっています。そしてお互いに監視し合うという戦時中の隣組のような息苦しい雰囲気に日本の社会全体が包まれています コロナ感染を恐れず、ある程度許容する 「テレビ報道」の姿勢を正すことが先決 このような次々と発表される新たな知見に触れれば
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