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歴史問題(13)(「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に、「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要、大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ) [国内政治]

歴史問題については、8月9日に取上げた。今日は、(13)(「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に、「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要、大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ)である。

先ずは、8月15日付け文春オンラインが掲載したノンフィクション作家の高木 俊朗氏による「「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に 『全滅・憤死 インパール3』より #1」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/39659
・『第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。 インパールを知らぬ世代、必読! シリーズ第3弾『全滅・憤死 インパール3』より、インパール盆地の湿地帯に投入された戦車支隊の悲劇を描く「全滅」の冒頭を一部紹介する』、「従軍」経験のある「作家」の手によるだけに、興味深そうだ。
・『早々に過半の兵力を失う状況下で流れた噂  それまで勇将として畏敬されていた将軍が、暴将とか狂将といった評価に急変した。  ビルマ方面の日本軍を指揮した、第15軍司令官・牟田口廉也中将である。 昭和19年3月、多くの反対を押し切って、牟田口軍司令官がインパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。 しかし、今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、3週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦なので、多くの困難が予想されていた。 果して4月の下旬までに、第15軍の3個師団は、それぞれに損害が多く、攻撃が挫折した。3週間の予定で、食糧を3週間分しか持って行かないから、まず食糧が不足してきた。また、急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった。 インパールを目ざして、3方面から進んだ第31師団、第10五師団、第33師団はいずれも悪戦苦闘となり、早くも過半の兵力を失う惨状となった。 このころ、第一線には、牟田口軍司令官についての噂がひろがった。それは、作戦開始後、3週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かないでいるというのである。今度のような重大な作戦の場合、軍司令官は前線指揮に適した場所に、戦闘司令所を進めるべきである。 だが、軍司令部が動かないのは、メイミョウがシャン州の高原地帯にある、ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居が いる。その一つは軍司令部の将校専用であり、軍司令官、各参謀、幹部将校は、それぞれに専属の芸者をもっている。彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く』、「3週間の予定で、食糧を3週間分しか持って行かない」、「急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった」、よくぞ大本営はこんなずさんな作戦を認めたものだ。「作戦開始後、3週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かないでいる」、「メイミョウが・・・ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居が いる・・・彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く」、第一線の辛苦をよそに「芸者」遊びとは、呆れ果てた。
・『催促に催促を重ねて  前線では、連合軍の激しい攻撃にさらされ、将兵が傷つき、倒れ、あるいは飢えと病いに苦しんでいる時である。牟田口軍司令官に対して憤激したのは、第一線部隊だけではなかった。第15軍の上級司令部である、ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促した。 シンガポール攻略の勇将には、たえがたい不名誉である。だが、牟田口軍司令官は動かず、督促は再三に及んだ。そして、ついにメイミョウを出ることになったが、急進急追しなかった。そればかりでない、シャン高原をおりて、イラワジ河を渡ると、中間基地のシュウェボでとまってしまった。そこには、料理屋が新しくできていて、軍司令部と前後して芸者、仲居がメイミョウから出てきた。 方面軍司令部は、さらに督促を重ねた。その結果、牟田口軍司令官は幕僚と共に、チンドウィン河を西に越えて、インダンジーに戦闘司令所を置いた。昭和19年4月20 日である。通称名を弓と呼ぶ、第33師団がインパール作戦を開始した3月8日から数えて44日目であった。牟田口軍司令官の計画による予定の3週間は、遥かに過ぎていた。 すでに戦力を半減した三個師団のうち、通称名を烈と呼ぶ第31師団は、インパールの北コヒマで膠着して動けず、通称名祭の第15師団は、師団司令部が襲撃されて、再三、逃げて移動していた。 弓第33師団はインパール盆地の西側の山地に進出したが、ビシェンプール一帯の強大な防御陣地に阻まれていた』、「ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促」、「中間基地のシュウェボでとまってしまった・・・料理屋が新しくできていて・・・芸者、仲居がメイミョウから出てきた」、「方面軍司令部は、さらに督促を重ねた。その結果、牟田口軍司令官は・・・インダンジーに戦闘司令所を置いた・・・インパール作戦を開始した3月8日から数えて44日目・・・牟田口軍司令官の計画による予定の3週間は、遥かに過ぎていた」、無茶な計画を部下に押し付けて、「芸者」にうつつを抜かしていたとは・・・。
・対立していた師団長を更迭  こうした状況に対し、牟田口軍司令官は憤激し、4月29日の天長節(天皇誕生日)を期して、インパール攻略を命令した。 その天長節も過ぎて、各戦線はますます困難を加えた。その上、5月になると、インド、ビルマは雨季に入り、連日の降雨となる。ことにインパールのあるマニプール州、 その西のアッサム州は豪雨地帯で、年間雨量は世界一である。 牟田口軍司令官はあせり立って、あくまでもインパール攻略の決意を変えず、第33師団のビシェンプール方面に攻撃の重点を形成しようとした。そのため、方面軍から増強された各種の部隊のことごとくを、第33師団に配属することにした。 さらに、軍戦闘司令所を弓の第一線に進め、牟田口軍司令官もそこにいて督戦に当ることにした。 そればかりでなく、弓の師団長、柳田元三中将を更迭することにし、その処置をとった。柳田師団長は、この作戦の当初から失敗を予測し、中止することを進言して、牟田口軍司令官と対立していた。 5月11日、牟田口軍司令官は参謀長・久野村桃代中将を伴い、護衛兵をつれて、20名あまりが自動車に分乗して、インダンジーを出発、弓師団方面に向った』、作戦中に「師団長」を「更迭」するとは、驚かされた。
・『《いっそ牟田口を殺して、自分も自決する》  5月12日、一行はインパール南道上の部落チュラチャンプールに到着した。そこに は弓の輜重兵第33連隊の本部があった。連隊長・松木熊吉中佐は牟田口軍司令官に状況を報告したあと、軍需品について増強を要請したところ、激しくどなりつけられた。 「第33師団は、軍の補給が遅れているから前進出来んというのか。インパールに突入すれば、食糧なんかどうにでもなる。前進の遅れた責任を軍に転嫁するのはもっての外だ。弓がぐずぐずしておるので、じっとしておられんから出て来たんだ」 牟田口中将は顔を赤くして怒った。 「補給を急ぐなら、夜ばかりやらんで日中にやれ。俺だって日中堂々走って来たが、攻撃されなかった。師団輜重は意気地がない。今日から日中もやらせろ」 松木連隊長は、連合軍の飛行機の襲来の激しいなかで、自動車輸送ができないことを説明しても、どなりつけられるだけだった。 何をいっても受付けようとしない牟田口中将の態度は、狂人のようにも見えた。連隊副官の逸見文彦中尉は、このような男が軍司令官かと怒りながら、松木連隊長を気の毒に思って、近づいて、用件らしいことをいって連れだしてきた。 牟田口中将の言動に許しがたいものを感じた将校がほかにもいた。それについて、逸見副官は後年の手記に、次のように記した。 《軍司令官がチュラチャンプールに突然姿を現わされた時のことである。一将校が痛憤した。こんな軍司令官に指揮されていては、いくさに勝てない。いっそ牟田口を殺して、自分も自決する。 将校は、手榴弾を持って、軍司令官の幕舎に飛び込もうとした》 牟田口暗殺未遂の話は、これだけではない。インパール作戦が無残な敗北に終り、悲惨な状況となったなかで、牟田口の暴愚を怒って暗殺を計画した話は幾つかある。それらは確証を欠くので、真実を見きわめがたい。しかし、逸見副官の手記にあることは事実といえよう。手記は、次のように結んでいる。 《このような将校さえあったのであるが、本人も帰還しておられるし、十分後悔もしておられると思うので、本文には記さなかった》 第二次世界大戦中の屈指の惨戦、インパール作戦は、このような軍司令官によって強行された』、部下による「暗殺計画」が相次いだのも、頷ける。
・『「いよいよインドの土を踏むのですな」  大隊長の瀬古三郎大尉はうなずいて、 トラックは暗夜の山道を走りつづけた。かどをまがると、斜め下のやみのなかを、明るい光の輪が点々とつづいてくるのが見えた。後続車の前照灯の光である。運転台の小山幸一中尉は、その数をかぞえた。 「みんな、ついてきています」「この調子なら、朝までに印緬(インド=ビルマ)国境を越えられるな」「いよいよインドの土を踏むのですな」大隊副官の小山中尉が答えた。 前照灯の光のなかを白い霧が流れた。それが次第に濃くなって行った。かなり高い山脈であるらしく、寒冷の気が肌にしみた。小山副官は運転兵に注意した』、「インパール作戦」については、これまでも多くの本や雑誌を読んできたが、「牟田口軍司令官」の無能さ、それを放置した大本営のお粗末さを再認識した。なお、この続き2回の紹介は省略するが、リンク先の上の#2、#3をクリックすれば読める。

次に、8月24日付け東洋経済オンラインが掲載した 立命館大学グローバル教養学部教授の前川 一郎氏など4名の座談会「「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要」を紹介しよう。なお、各氏の略歴は文中にあるが、著書の紹介は省略した。
https://toyokeizai.net/articles/-/369359
・『慰安婦問題や徴用工問題など、日韓間で幾度も繰り返される歴史認識問題。さらには自国に都合よく歴史を捉える歴史修正主義も蔓延している。 これらの歴史問題が炎上する背景には何があるのか。また、アカデミズム、メディア、そして社会は、歴史問題にどう向き合えばよいのか。このたび『教養としての歴史問題』を上梓した、前川一郎、倉橋耕平、呉座勇一、辻田真佐憲の4人の気鋭の研究者による同書の座談会部分を抜粋してお届けする。 第2回は、近現代の歴史を学校で、また学校外でどう教え、伝えるべきかについて議論する』、興味深そうだ。
・『植民地主義を学校でどう教えるのか  前川:ここからは、もう少し未来の話をしてみたいと思います。歴史学の未来や、歴史教育とどう向き合うかといったことや、学知と社会はどういう関係を構築していけるのかといった問題です。 倉橋:いま台湾人研究者のレオ・チンさんが書いた『Anti-Japan』という、東アジア諸国の「反日」についての著作を翻訳しているのですが、そのなかで、チンさんは日本の「SEALDs」と台湾の「ひまわり運動」、香港の「雨傘運動」に参加し活動する学生や若者たちの意識を比較し、台湾や香港の学生に比べ、日本の若者は戦後民主主義のあり方や、植民地問題に関する歴史について非常に無頓着であると指摘しています。 ぼくも大学で学生と接していて、学生たちに植民地主義についての認識がないことや、そもそも日本の近代史について十分に教育を受けていないことを感じています。例えば、「慰安婦」問題について、多くの学生は日韓のナショナリズム問題としか捉えていません。 そこで、前川さんに伺いたいのですが、植民地主義に関して、旧宗主国や旧植民地の国々では、どのような歴史教育を行っているのでしょうか。 前川:一般論として簡潔にお答えします。イギリスに関しては『教養としての歴史問題』で触れたとおりで、歴史教科書は植民地主義の功罪を“客観的”“中立的”に書くというスタンスです。フランスも大差ないというのが私の印象です。 一方、敗戦国のドイツは日本と似ていて、そもそも戦争や植民地主義の歴史について、とくに前者について自由に語ることが許されなかったためなのか、非常にフラットな印象の教科書になっています。帝国主義の歴史についての記述は簡略で、日本で教えているような事実関係を淡々と記しています。 スペインは、ちょっとユニークです。ご存じのとおり、スペインは近代植民地主義のトップランナーだったわけですが、南米大陸の文化の変容に関する記述が中心で、19世紀的な植民地主義はメインテーマではありません。 前川:一方、アフリカ諸国やインドなどの旧植民地側ですが、興味深いのは記述に二面性があることです。植民地主義を「文明化の使命」だと言い張る旧宗主国の主張に対し、搾取の歴史だと明確に批判する一方で、独立の過程で、民主主義や人権などの欧米の「近代的」で「普遍的」な価値観を積極的に取り入れ、支配者側の論理を逆手にとって独立を果たしたのだと、そのような教育をしています。 ヨーロッパ出自の文明概念の強靭な生命力をここに見出すことができます。だからこそ、「文明化の使命」といったテーマを単なる言説の問題として切り捨ててしまうわけにはいかないのですが』、「学生たちに植民地主義についての認識がないことや、そもそも日本の近代史について十分に教育を受けていないことを感じています」、同感だ。「敗戦国のドイツは日本と似ていて、そもそも戦争や植民地主義の歴史について、とくに前者について自由に語ることが許されなかったためなのか、非常にフラットな印象の教科書になっています。帝国主義の歴史についての記述は簡略で、日本で教えているような事実関係を淡々と記しています」、「敗戦国」の宿命なのだろうか。
・『中学や高校における歴史教育のあり方  呉座:植民地主義の歴史を、教育の場でどのように教えるのかは非常に難しい課題だと思います。 (呉座勇一(ござ ゆういち)/国際日本文化研究センター助教。専門は日本中世史・・・)) 前川さんのご指摘どおり、学知として植民地主義を忘却するような世界史を批判することは当然で、国際政治や歴史研究の分野で植民地主義の清算を主張することは非常に重要だと思います。ですが、大学ならともかく、中学校や高校で植民地主義を否定する歴史教育が具体的にどうすれば実現できるのか、理想としてはすばらしくても、現実的に可能なのかという素朴な疑問があります。 日本の歴史教育では、日本は満州事変を契機に国際社会から孤立し、間違った道を進み始めたと教えていますが、反対に言うと、それ以前の日本の近代化の歩みはおおむね肯定的に語られています。けれど、植民地主義を批判する、植民地主義を清算するという立場から見れば、例えば、ワシントン体制に代表される1920年代の国際協調も、帝国主義国家同士の談合にすぎないという話になってしまいます。 それは歴史の一面の真理ではありますが、中学、高校でどのように教えるのか。満洲事変以降の侵略路線は論外ですが、それ以前の欧米との協調路線も間違っていたと教えるなら、では日本はどうすべきだったのかという子どもたちの疑問にどう答えるのかという問題があります。 網野さんは「明治の選択は『最悪』」と評し、明治維新以降の日本の近代化を全否定しています。 (倉橋耕平(くらはし こうへい)/立命館大学ほか非常勤講師。専門は社会学・・・) 近代化、富国強兵の結果、アジアを侵略してしまったのだから、間違っていたと考えるわけです。当然ながら、近代化しなければ欧米列強の植民地にされていたはずだという反論が寄せられましたが、網野さんは、「同じ運命をたどっているアジアの人々を抑圧して、自分だけ成り上がる」ぐらいなら植民地になったほうがよかった、と発言しています。 いったんは植民地になったとしても、アジアの諸民族と連帯して植民地独立戦争を戦う、「負けて勝つほうの道」こそが日本の進むべき道だったと力説されています。いわば、本当の意味での「大東亜共栄圏」を作るという選択肢があったのではないか、という議論ですね。極論のようにも思いますが、植民地主義を清算する歴史を教えようとしたら、究極的には網野さんぐらいの覚悟が必要になるのではないでしょうか。その辺りをどうお考えですか。 前川:私は網野さんほど根源的にものを考えているわけではないと思うので、「植民地になればよかった」とまでにわかに言い切ることができるかどうか……。ですが、明治以降の近代化の方向性は間違っていたということは、おそらくそのとおりだろうと思います。近代化それ自体というよりは、その方向性です。 つまり、明治以降、日本は近代化なり国際化なりの道をひたすらに歩み続けたわけですが、その果実はどう回収されたのかという問題だと思っています。それは明らかに軍国化に費やされたのではなかったでしょうか。しかも、それは帝国主義世界体制に参画するためだった。世界史の観点から言えば、それは否定しえないのではないですか。そしてその延長に戦争があったわけです。 そうした日本の姿への批判として捉えるなら、なるほど「植民地になればよかった」という表現になるのかもしれません。要するに、戦争を反省するなら、それに先立つ植民地主義の世界史と関連づけて、総体的な観点から日本の近代化に向き合わなければならないということです。そこで、欧米の近代化だって軍国化とセットじゃないかと言って済ましてはいけない。そこは批判しないといけない、というのが私の基本的な考えです。 一方、呉座さんご指摘のとおり、それを教育の場でどのように教えるのかは、非常に難しい問題だと思います。ただし、くどいようですが、明治維新であれ、第1次世界大戦後の国際協調の時代であれ、その当時の国際社会の姿というのは、きっちりと理解しておかなければならない。そこには、植民地主義を前提とした世界があったこと、それを当時の国際社会は当然のことと受け止め、欧米諸国や日本がアジアやアフリカの(公式であれ非公式であれ)植民地を当たり前のように搾取していたことは、きちんと捉え直さなくてはならないと思います。 ですから、教育の現場でも、「植民地になればよかった」と言うかどうかは別にしても、「植民地主義は間違っていた」、「そこに善などあろうはずがない」といったことは、はっきりと言わなければなりません。そういうことを率直に言えばいい。 こうすると、「現代の価値観で過去を論じるな」と、例の“歴史の不遡及”論が必ず出てくるのですが、私から言わせれば、そんなことばかりしていたら、歴史は好事家のたしなみに成り下がりますよ。もちろん、トリビア(注)それ自体は悪くはないのですが、その一方で、現代と過去のあいだには、評し評される、一種の緊張関係があるのだし、それを棚上げにしてはいけないと考えています。 もちろん、具体論となるとハードルはかなり高いことは理解しています。そもそも、文科省がそんなやり方を手放しで認めるはずはないでしょう。が、学知が歴史の事実を実証し、それを教育に反映する工夫はやはり必要なのだと思います。そこは揺らぎません。答えになっているかわかりませんが……』、「日本の歴史教育では、日本は満州事変を契機に国際社会から孤立し、間違った道を進み始めたと教えていますが、反対に言うと、それ以前の日本の近代化の歩みはおおむね肯定的に語られています」、「戦争を反省するなら、それに先立つ植民地主義の世界史と関連づけて、総体的な観点から日本の近代化に向き合わなければならない」、「それを教育の場でどのように教えるのかは、非常に難しい問題」、その通りだ。(注)トリビア:くだらないこと、瑣末なこと、雑学的な事柄や知識、豆知識(Wikipedia)。
・『歴史教育は「国民史の物語」  呉座:いや、参考になりました。やはり、学知と教育、歴史学と歴史教育の違いという問題に突き当たらざるをえないのだと思いました。前川さんは、歴史教育についてどのようなお考えですか。つまり、歴史教育とは何か、という質問です。 (前川一郎(まえかわ いちろう)/立命館大学グローバル教養学部教授。専門はイギリス帝国史・植民地主義史・・・) 前川:大きな質問ですね。でも、あえてひとことで言うならば、歴史学と歴史教育の大きな違いは、歴史学がファクトの追求であるのに対し、歴史教育は「国民の物語」ということなのだろうと思います。 歴史を学校教育の場で語るときには、どうしても国の問題と分けて考えることはできません。日本はどのような国であったのかということを教えるのが国民史です。もちろん、その歴史の事実の部分を教育の場に提供する役割を背負っているのは歴史学です。 だからこそ、ここに呉座さんが質問された問題の所在があるわけですよね。植民地主義のファクトをどう「国民の物語」に接続するかという。 実際、そのように葛藤している現場の先生たちはたくさんおられると思うんです。ですが、現実的にはなかなか難しい。そうこうしているあいだに、歴史修正主義に付け入れられてしまったわけで、いつの間にか歴史修正主義版国民史が社会に伝播してしまった……。 呉座:そこが問題の核心で、歴史学と歴史教育は密接に関わるけれども、立脚点が違うわけですよね。歴史学なら過去の誤りを遠慮なく指摘できますが、歴史教育の場合は悪いところもいいところもあったという両論併記になりがちです。全否定で「国民の物語」を紡ぐことは非常に困難だからです。これは日本だけの問題ではなく、前川さんがご紹介されたイギリスなど、旧宗主国に共通する問題だと思います』、「歴史学と歴史教育の大きな違いは、歴史学がファクトの追求であるのに対し、歴史教育は「国民の物語」ということ」、「いつの間にか歴史修正主義版国民史が社会に伝播してしまった…」、「歴史修正主義版国民史が社会に伝播」、困ったことだ。
・『学校外で歴史をどう教えていくか  辻田:日本の近代史を学校でどのように教えるかは重要な問題ですが、一方で、身もふたもない話になりますけども、中学高校では時間が足りなくて、多くの場合、歴史の授業は近現代にまでたどり着いていないという現実があります。ですから、歴史教育を考えるときには、学校、アカデミズム、マーケットなどをばらばらに考えるのではなく、社会全体のなかで考えなければいけないなと思います。学校だけが、歴史教育の場ではありません。 (辻田真佐憲(つじた まさのり)/作家、近現代研究者。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論多数・・・) 一例として、NHKの朝ドラを考えてみましょう。近年の平均視聴率は20%前後だそうですから、単純に換算すると2000万人が見ていることになります。2000万人は眉唾だとしても、非常に大きな影響力があることは間違いありません。 その朝ドラには、よく戦時下の話が出てくるのですが、これが決まって空襲の場面なんですね。主人公が逃げ惑って、苦しい思いをしたりする。そして戦争が終わり、「ああ、よかった」と。それはいいのですが、こういうものを何度も見るうちに、われわれは知らず知らずに「歴史教育」を受けて、戦争への理解を形成してしまっているのではないかと思うのです。本当は日本が始めた戦争なのに、まるで天災のように捉えてしまう、というように。 歴史教育を考えるときには、どうしても、大学や学校のイメージが先行しがちです。最近、歴史系の入門書がやたら「講義」と名乗っているのも、その延長線な気がします。とはいえ、現実には、映画やテレビがもっと大きな影響力を持っていたりする。これはもちろん、大衆メディアのほうが偉いということではありません。ドラマ制作にはタネ本があって、それはもとをたどれば、アカデミズムの研究成果だったりするわけです。それが、作家によって物語にされ、最終的にテレビドラマとなる。ですから、アカデミズムも重要ですし、作家も重要です。 反対に、大学予算が削減されたり、作家が右翼だらけになれば、てきめんに悪い影響が出てくる。歴史教育も、そういう全体像のなかで捉えることが重要だと思います。 呉座:おっしゃるとおりだと思います。「つくる会」の歴史教科書を採択する学校はほとんどありませんから、学校教育の観点では実は取るに足らない問題です。しかし学校教育とは別のところで、歴史修正主義の影響力が高まってしまった。 ですから、歴史修正主義の潮流に学校教育の改革で対処するという案はピント外れではないかという懸念を持っています。学校教育で「国民史」を相対化するという理想はすばらしいですが、その反動として、学校外で愛国心をあおる「国民の物語」が広がる可能性も想定すべきではないでしょうか』、「朝ドラには、よく戦時下の話が出てくるのですが、これが決まって空襲の場面・・・われわれは知らず知らずに「歴史教育」を受けて、戦争への理解を形成・・・本当は日本が始めた戦争なのに、まるで天災のように捉えてしまう」、確かにその通りだ。ただ、「歴史修正主義」とのつながりがよく分からない。後編をみてみよう。

第三に、上記の続き、8月31日付け東洋経済オンライン「座談会:大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/369361
・『強調されるのは「被害者視線の歴史観」  前川:前回の終わりに、学校外で歴史をどう伝えていくかという問題が提起されました。そうすると、また商業主義や大衆文化の話に戻っていくということになりそうですね。つまり、商業主義、大衆社会に浸透する歴史という素材の問題ですね。 私が最近なんだか危ういなという感覚を持ったのは、『この世界の片隅に』(注)の大ヒットなんです。コミックス、映画、ドラマ、アニメと、まさに歴史総合エンタメなわけですが、作品としてはいいし、普段リベラルと目されている人たちも賞賛していました。ですので、こんなことを言うのは気が引けるのですが、それでも歴史の物語としてはやはり危ういのです。 と言うのも、あの話は徹底的に被害者の視点で描かれていて、加害のストーリーは丸ごとごっそり削除されているからです。しかも、国の関与をうかがわせるところもある。一昨年には、東京千代田区にある「昭和館」で、これは国立博物館なわけですが、特別企画展が大々的に開かれましたし、TBSでドラマが作られたとき、後援の1つは厚労省でした。 要するに、国の後押しを受けて、辻田さんが示唆されているような「つらい状況を乗り超えた私たち」と同じで、戦争になっても「一生懸命頑張っていればいいことがあるよね」っていう話をしているようなものなのです。それで、戦時下の庶民のけなげな姿勢が淡々と描かれています。 いや、私も映画からアニメから何から全部見ましたが、それはもう感動しますよ。朗らかな顔つきで、じっと耐え忍んでいる姿は涙を誘うんです。感動することで被害者視線の歴史観が刷り込まれていくというパターンで、それは歴史修正主義者の大好きな手法です。 ちなみに、ご存じの方も多いと思いますが、1965年に岩波書店から『この世界の片隅で』という新書が出されています。「に」と「で」の違いだけで、内容も同じ広島の原爆をテーマにしているのですが、作品のメッセージはまったく違います。 岩波版のほうは被爆者の体験集です。しかも、在日朝鮮人が被爆者として二重の差別を受けた実態などが収録されている。これは、被害者視線を借りた、戦争と植民地支配の加害に対する告発文として読むこともできます。 前川:さらに、これまた有名な話ですけれども、高畑勲監督は亡くなる前に、『火垂るの墓』には加害者性がないから、完全な反戦映画ではないといった話をしておられました。 高畑監督は、『火垂るの墓』のあと、日本の中国侵略をテーマにした作品を作ろうとしていたのだけれども、ちょうど中国政府が民主化運動を弾圧するニュースが流れて、会社が企画をボツにしてしまったそうです。 そして結局のところ、それ以前もそれ以降も、日本で作られる戦争映画やアニメは、やはり圧倒的に被害者視線の物語ばかりになっている気がします。繰り返しますが、これでは歴史修正主義者に簡単に持っていかれてしまいます。 すみません、ちょっと話が脱線気味ですが、要するにそう考えると、辻田さんが指摘されている「良質な物語」を作っていくということは、本当に大事だと思うわけです。 ただし、これはこれで課題が山積みです。まず、そもそも「良質な物語」とはどんなものか。そして、これが最大の課題なのですが、それはどうやって作るのか』、「日本で作られる戦争映画やアニメは、やはり圧倒的に被害者視線の物語ばかりになっている気がします。繰り返しますが、これでは歴史修正主義者に簡単に持っていかれてしまいます」、『この世界の片隅に』を観てなかったので、下記のWikipediaの「あらすじ」を読むと、やはり、「被害者視線の物語」のようだ。ただ、もともと商業映画やアニメに「加害者性」を求めるのは無理なのではなかろうか。
(注)この世界の片隅に:Wikipediaの「あらすじ」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB
・『学知にできるのはファクトの提供  倉橋:非常に難しい問題です。朝ドラや『この世界の片隅に』の話が出ましたが、その反対の勇ましいパターンが百田さんの『永遠のゼロ』ですね。これに対抗して、どのように「良質な物語」を提供していけるかについて、ぼくには今のところ回答はありません。辻田さんがおっしゃるように、学知はファクトを提供することはできますが、言い換えると、できることはそこまでだ、ということになるからです。 これに対して、私自身の考えは、ある種メディア論的な見方になりますが、そうなると、重要なのは作り手の意識で、そこが変わらないと、辻田さんが提起されている「健全な中間」という場所にも至らないのではないかと思っています。というのも、歴史修正主義は消費者評価が重要だったと考えているので、同じ土俵で勝負しても仕方がないと思うからです。 なので、別の仕方で消費者評価の視点を上げたり、育てたりする必要があると思います。歴史修正主義者は、差別的で排外的です。人権意識が非常に低い。まずは、ここを理解したほうがいいと思います。新型コロナウイルスの自粛生活でNetflixなどをよく見ているのですが、海外作品はいわゆる「ポリティカル・コレクトネス」がしっかりかかっていても、エンターテインメントとしてしっかりウケています。 つまり、人権意識が非常に高いのに良質なエンターテインメントです。ディズニーもそうだし、アカデミー賞受賞作も脚本がすばらしい。『パラサイト』だってコメディなのに人権意識が高い。こういった歴史修正主義者に欠落している部分を見極めて、あるいは歴史修正主義を生んだ土壌が何なのかを考えないと、うまく「良質な物語」は提供できないのではないかと思います。 辻田:私の場合、実践で示していくしかないのかなと思います。ですので、自分の話になってしまうのですが、以前、アガリスクエンターテイメントという劇団が、「発表せよ!大本営!」を上演しました。 コメディータッチながら、メディアが権力によって統制される恐ろしさをたくみに描いた演劇でしたが、制作にあたっては拙著の『大本営発表』を参照されたそうです。こういう試みがテレビや映画にも広がっていく。それが1つの理想です。 あるいは、先ほど、朝ドラの話をしましたが、現在、放送されている『エール』の主人公のモデルは、「六甲おろし」や「長崎の鐘」などで知られる作曲家の古関裕而です。 彼は、戦時中に多くの軍歌を手掛けていますから、単なる被害者史観では描けないはずです。今後、どういう展開になるのかわかりませんが、音楽史研究もやっている私としては、その関係の資料を発掘して発表することで、側面支援することもできるかもしれません。 それは、加害者史観で放送せよということではありません。従前の単純な「被害/加害」の二項対立ではなく、古関が生活のために軍歌を作った姿は、出版不況で愛国ビジネスに加担していく現代の出版界の姿とも重なり、リアリティーもあるのではないかという第三の道を提案するということです。 もちろん、力不足は重々承知していますが、私だけではなく、いろいろな人がこういう試みをやればよいと思います。そうするなかで、倉橋さんがあげられたような、「人権意識が非常に高いのに良質なエンターテインメント」も徐々に出てくるのではないでしょうか』、そうした努力は必要であるとしても、大勢を変えるには力不足なのではなかろうか。
・『作家や評論家が描く通史の評価  呉座:辻田さんがおっしゃっている「物語」は、小説やドラマや映画といった狭義の物語だけではなく、作家や評論家が執筆した通史や史論も含みます。そうした「物語」にはさまざまな不備がありますが、歴史学はそれを許容するのか否かが問われていると思います。私は、歴史学の成果を踏まえたものであれば、ある程度は許容すべきで、そうしないと社会に刺さらないと考えています。やはり作家と学者では発信力が違いますから。 もちろん、この戦略には危うさも伴います。歴史学者の学術的な問題意識と、作家や評論家、さらには一般の歴史ファンの興味関心は往々にしてズレるからです。政治家やビジネスマン向けに話す機会が増えてわかったのですが、彼らの多くは歴史を学ぶことで人生の指針を得ようとしています。 この傾向は山岡荘八の歴史小説『徳川家康』が経営者のバイブルになってから顕著になったと思いますが、その淵源は江戸時代までさかのぼります。勇将・智将の逸話集や言行録が多数編まれて、人生訓が語られました。この種の逸話・名言は実のところ真偽不明なものが多いのですが、極端に言えばうそでもいいのです。 実際、明治時代になって実証史学がドイツから導入されて、美談・名言の史実性を疑問視する研究が登場すると、「そんなことを指摘して何になるのだ」という反発が出ました。たとえ作り話だったとしても、道徳教育に役立つとか、国民に勇気と誇りを与えることができるとか、そういう“実用的な”効果があるなら目くじらを立てる必要ないじゃないか、というわけです。 呉座:平泉澄らの「皇国史観」や、記紀神話にこだわる「つくる会」、『日本国紀』などは明白にこの立場ですが、歴史修正主義とは直接関わりのない作家や評論家であっても、史実性よりも実用性を優先する人は散見されます。だから、歴史学者が当事者となって歴史観を示すことがより望ましい。ただし、学界関係者しか読まない学術誌で発言しても、それは仲間内で盛り上がっているだけです。 歴史の諸学会がしばしば発表する「建国記念の日に反対する」といった政治的声明も「私たちは戦っている」というアリバイ作りに堕してはいないでしょうか。少なくとも論壇誌くらいには進出して発言しないと、一般の人には届かないと思いますが、それをやる歴史学者はほとんどいません。その状況に私は根本的な疑問を抱いています』、「少なくとも論壇誌くらいには進出して発言しないと、一般の人には届かないと思いますが、それをやる歴史学者はほとんどいません」、「歴史学者」の怠慢だ。
・『学知と社会──外に出ることの意味  辻田:今、呉座さんから、学者も少なくとも論壇誌ぐらいには出ていくべきだという話がありました。その点、みなさんは、論壇というか社会とどのように関わるべきだとお考えでしょうか。歴史学の分野では、学会に籠もる人がいる一方で、逆に、積極的に非アカデミシャンを批判する人もいます。そういう状況をどのように評価されているのでしょう。 あるいは、倉橋さんの社会学の分野は論壇に近く、なかにはほとんど評論家になっている人も見受けられますが、倉橋さんは、学知と社会の中間のようなところで仕事をするとき、ご自身をどう位置づけられているのでしょうか。 倉橋:社会学にはほぼ社会とくっついているような一面があるので、ぼくの場合も基本的にはアカデミアの外に現れる「知」には関心があります。そもそも自分の研究関心が、歴史修正主義というものだけではなく、メディアによってどのように「知」や「規範」が構築されるか、なので。ですから、むしろ自分の発言がどのように流通するのかなどを経験的実験的に観察できるところがありますかね。 前川:私は、まだ院生やポスドクだった駆け出しのころ、歴史学研究会(歴研)に育てられたようなもので、歴研の先生や仲間には、ずっと感謝と尊敬の念を持ち続けています。“社会に関わる歴史学”というのも、「歴研大学」で教わりました。 ですが、そのなんて言うか、歴研で活動していたころ、例えば「科学運動」というような内輪にしか通じないような用語や議論に出くわすたびに、戸惑うことがありました。歴研にとって「科学運動」は、戦時中の体制迎合的な歴史学を総括する重要な概念であり活動・運動方針です。 これを内輪でやる分にはいいですが、いざ“社会に関わる”というときに、もしかしたら自分たちしか共感していない考えの“正しさ”を「わからんお前が悪い」と言わんばかりに“蒙を啓く”やり方に、「上から目線」で畳みかける姿勢にですね、ちょっとついていけないというか、どこかモノローグな感じを否めず、違和感を抱いたものです。 それではダイアローグにならんだろうと。若気の至りかもしれませんが、ずいぶん前に、そういうことを会員向けの会誌に書いたこともあるんですよ。何の反響も得られませんでしたが……。 何度も言っていますが、立場が違ったり、実証史学から見てデタラメであったりしても、歴史修正主義者らが提起してきた問題それ自体は意味があって、それには真面目に向き合うべきだったと思うのです。 ですからこのような本を作っているわけですが、歴史学界全体を考えると、ここらへんをどう受け止めてきたのか。ファクトチェックに口角泡を飛ばすことはあっても、もちろんそれ自体は大事なんですけれども、それで歴史修正主義が問いかけた大きな(国民の)「物語」に耳を傾け、現実社会に真正面から向き合ってきたと言えるのか。 控えめに言っても、歴史学にとって事実と物語というのは、昔からある大きなテーマだったはずなんです。けれども、歴研に連なる一部の人たちは別にして、歴史学界全体に漂い続ける、歴史修正主義に対するこの超然とした態度はいったいどこから来るのでしょうか。 いずれにしても、その意味で、学知の外に出てなんぼのものだというのは、そのとおりだと思っています。私自身がそんな力もなく、これはもう反省も込めての発言なのですが。 呉座:私は、辻田さんと同意見で、学界は民間の研究者や論壇の人などと連携していく必要があると考えています。そうしないと、アカデミズムの閉鎖性や権威主義などへの批判に対して、反論のしようもありません。 歴史をテーマに数多くの著書を書かれている出口治明さんのお仕事は、確かに専門家や歴史オタクのような人から見れば、多少おかしなところもありますが、歴史学の最新成果に学ぶという姿勢を示しています。 歴史学者がやるべきことをやらないから、出口さんが代わりにやってくれているわけで、それを学知の側が重箱の隅をつついて潰しても、最初から聞く耳を持たないトンデモ論者が余計跋扈するだけです。ミスがあるなら教えてあげて、一緒に「良質な物語」を作っていけばいいのです』、「学界は民間の研究者や論壇の人などと連携していく必要がある」、その通りだ。
・『学者は積極的に社会に関わるべき  倉橋:先に述べたように僕自身は、大衆文化や言論の中で生産されていく「知」には関心があります。その中で僕が重視していることの1つは、学知の社会と一般社会の乖離をチェックすることです。 例えば、学知の世界で厳密に定義されている用語が、一般社会では違った意味で使われていることはよくありますが、学知の側の人間はそれに無頓着で、伝わらないばかりか、誤解されてしまう言葉を使って話したり書いたりしています。 第1回で議論したイデオロギーに関しても、左や右といった言葉に込められた意味は、学知と一般社会ではもはやかなり乖離しています。ですから、それらをチェックするためには、アカデミズムと一般社会の間の中間的な場所に立つことが非常に大切だと認識しています。 メディアに現れてくる知のあり方みたいなことに興味を持つと、そこに学知と一般の持っている考えのズレみたいなものが見えてきます。それは、是非の問題ではなく、「ズレ」があることは、社会が動いたことの証明だと思っています。 辻田さんの問いかけに戻ると、だから、学知と社会の中間のところで積極的に関わっていくことは非常に大切だと考えています。 前川:さて、話は尽きませんが、そろそろ時間もなくなってきました。ここまで、歴史学や歴史教育の問題を中心に話してきましたが、先ほどの倉橋さんのご発言を始め、みなさんがご指摘のように、歴史修正主義の「主戦場」となった社会のほうの問題は極めて重要で、もっといろいろと考えなくてはいけないことがたくさんあるような気がしています。 また、本日は突っ込んで論じはしませんでしたが、心理的な側面も重要な論点です。ご存じのとおり、ホロコースト否認裁判の実話に基づく映画『否定と肯定』(2016年)の原題は“Denial”ですが、これは、受け入れがたい現実に直面したとき、事実とわかっていながら認められない心理を意味します。 いずれにしても、このように専門も立場も違う者たちが一堂に会して、「座談会文化」というのでしょうか、ともかく向き合って話し合ってみるというのは、これは大事だなと改めて思いました。 今日の座談会自体も、実はリモート座談会という、私自身も初めての経験であったわけですが、この新しい社会状況、もしかしたら、「歴史コミュニケーション」の未来を考える絶好のチャンスなのかもしれません。今日は長時間、本当にありがとうございました』、「学者は積極的に社会に関わるべき」、との考え方が出てきたのは、一歩前進ではあるが、「歴史修正主義」は根深いだけに、道は遠そうだ。
タグ:学者は積極的に社会に関わるべき 学界は民間の研究者や論壇の人などと連携していく必要がある 学知と社会──外に出ることの意味 少なくとも論壇誌くらいには進出して発言しないと、一般の人には届かないと思いますが、それをやる歴史学者はほとんどいません 作家や評論家が描く通史の評価 学知にできるのはファクトの提供 もともと商業映画やアニメに「加害者性」を求めるのは無理なのではなかろうか この世界の片隅に 日本で作られる戦争映画やアニメは、やはり圧倒的に被害者視線の物語ばかりになっている気がします。繰り返しますが、これでは歴史修正主義者に簡単に持っていかれてしまいます 強調されるのは「被害者視線の歴史観」 「座談会:大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ」 本当は日本が始めた戦争なのに、まるで天災のように捉えてしまう われわれは知らず知らずに「歴史教育」を受けて、戦争への理解を形成 ドラには、よく戦時下の話が出てくるのですが、これが決まって空襲の場面 学校外で歴史をどう教えていくか いつの間にか歴史修正主義版国民史が社会に伝播してしまった… 歴史学と歴史教育の大きな違いは、歴史学がファクトの追求であるのに対し、歴史教育は「国民の物語」ということ 歴史教育は「国民史の物語」 それを教育の場でどのように教えるのかは、非常に難しい問題 中学や高校における歴史教育のあり方 「敗戦国のドイツは日本と似ていて、そもそも戦争や植民地主義の歴史について、とくに前者について自由に語ることが許されなかったためなのか、非常にフラットな印象の教科書になっています。帝国主義の歴史についての記述は簡略で、日本で教えているような事実関係を淡々と記しています」 学生たちに植民地主義についての認識がないことや、そもそも日本の近代史について十分に教育を受けていないことを感じています 植民地主義を学校でどう教えるのか 『教養としての歴史問題』 前川一郎、倉橋耕平、呉座勇一、辻田真佐憲の4人の気鋭の研究者による同書の座談会 座談会「「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要」 前川 一郎 東洋経済オンライン いよいよインドの土を踏むのですな 部下による「暗殺計画」が相次いだ いっそ牟田口を殺して、自分も自決する 作戦中に「師団長」を「更迭」 対立していた師団長を更迭 インパール作戦を開始した3月8日から数えて44日目 インダンジーに戦闘司令所を置いた 軍司令部と前後して芸者、仲居がメイミョウから出てきた 督促は再三に及んだ。そして、ついにメイミョウを出ることになったが、急進急追しなかった。そればかりでない、シャン高原をおりて、イラワジ河を渡ると、中間基地のシュウェボでとまってしまった ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促 催促に催促を重ねて 軍司令官、各参謀、幹部将校は、それぞれに専属の芸者をもっている。彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居が いる 作戦開始後、3週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かない 3週間の予定で、食糧を3週間分しか持って行かないから、まず食糧が不足してきた。また、急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった 今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、3週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦 シンガポール島を攻略した勇将 第15軍司令官・牟田口廉也中将 早々に過半の兵力を失う状況下で流れた噂 「「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に 『全滅・憤死 インパール3』より #1」 高木 俊朗 文春オンライン (13)(「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に、「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要、大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ) 歴史問題
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