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教育(その23)(理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く、性の問題を なぜ中高できっちり教えないといけないのか?【APU出口学長×スタンフォード星校長5】、「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する) [社会]

教育については、昨年12月2日に取上げた。今日は、(その23)(理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く、性の問題を なぜ中高できっちり教えないといけないのか?【APU出口学長×スタンフォード星校長5】、「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する)である。

先ずは、本年1月3日付けYahooニュースが掲載した名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授の内田良氏による「理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20210103-00215871/
・『2020年、学校教育はコロナ禍にあって、臨時休校や9月入学、校内の感染リスクなどが話題になった。じつはその陰で、少しずつ動いてきたことがある。「校則」の緩和だ。マスクは、白色以外は禁じられていたが、コロナ禍のマスク不足で多様な色が認められるようになった。一方で、マスクが手に入りやすくなった今日、徐々に揺り戻しの動きもみられる。なぜ学校は、厳しい校則を維持しようとするのか』、「せっかくの「校則」の緩和」、が「徐々に揺り戻しの動きもみられる」、とは残念だが、その背景は何なのだろう。
・『コロナ禍で緩和されたマスクがカラフルに  日本では新型コロナウイルスの感染拡大の危機感が高まり始めた2月頃から、マスク不足が伝えられるようになった。そのなかにあって、学校で教師からマスクの色は白のみとの指示を受けたという嘆きが多く聞かれた。 たとえば札幌市では分散登校時に白色以外の色や柄を注意する学校があったといい(北海道新聞 2020年3月25日付)、また佐賀市では「そのマスクってピンクじゃない? 白はないの?」と、生徒が教師から注意を受けたという(共同通信 2020年4月23日付)。コロナ禍でマスクが品薄であったとしても、感染症対策(安全の確保)よりも色指定(見た目に関するルール)が優先された。 ただそれはむしろ一部の学校であり、大多数の学校ではマスクの色柄は自由化された。いまや学校では子供も教師も、じつに多様なマスクを使用するようになった』、「コロナ禍でマスクが品薄」を契機に「色柄は自由化」とは望ましいが、あくまで「品薄」が前提のようだ。
・『教室でコートの着用可  この季節、防寒対策なしには生活できない。だが学校では、コートやマフラーなど防寒具の着用が禁止されていることも少なくない。宮崎県では高校37校中15校でコートやジャンパーなどの着用が禁止されているという(NHK宮崎放送局 2020年4月13日付)。 通学時の着用は認められているけれども、教室内での着用が禁止されている例は全国的にも多い。室内で防寒具を着用していることが「マナー違反」とみなされたり、そもそも制服以外のものを身に着けていることが「不要な装飾」とみなされたりする。 これが、コロナ禍で教室の換気が求められたことにより、状況が変わった。さすがに寒かろうと、教室内での防寒具の着用が認められるようになったのである。 文部科学省の「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル」(2020.12.3 Ver.5)においても、「室温低下による健康被害の防止」として、「児童生徒等に暖かい服装を心がけるよう指導し、学校内での保温・防寒目的の衣服の着用について柔軟に対応しましょう」と記されており、子供の感覚を重視した提案がなされている』、「コロナ禍で教室の換気が求められたこと」で、「教室内での防寒具の着用が認められるようになった」、、当然のことだ。
・『私服登校がOKに  「制服」(標準服)という、容易には変えがたいルールも、緩和された。 6月に全国で学校が再開された際に、ウイルスが付着する可能性を考慮して、毎日洗濯することが難しい制服ではなく、ジャージや体操服、さらには私服での登校を認めた学校がある。私服登校がつづく岐阜県立加納高校では、「コロナ禍をきっかけに通学服を考えた体験は、生徒にとって大いに刺激となった」として、「当たり前だと思って着ていた制服を、自分で考え選んでいいという発想が新しかった」という生徒の声が報じられている(岐阜新聞 2020年11月24日付)。 また、熱中症対策としても、制服以外の服装を推奨した学校もある。登下校時はもちろんのこと、エアコンが稼働していても教室は暑く、さらには換気により室温が下がりにくくなるため、できるだけ涼しくて過ごしやすい服装がよいとの判断があった。 2020年はコロナ対策や熱中症対策として、子供の安全・安心をベースに、さまざまな校則が緩和された。問題は、この先どうなるかである。 熱中症対策としてのみ、校則を緩和したケースでは、9月が過ぎたころには多くが元に戻った。校則の緩和は、猛暑という一時的な出来事への一時的な対応にすぎない。そして、すっかり定着したと思われていたカラフルなマスクも、私が聞いたところでは、一部の学校で「白色」への揺り戻しが生じている』、「カラフルなマスクも、私が聞いたところでは、一部の学校で「白色」への揺り戻しが生じている」、残念なことだ。
・『校則は本当に「理不尽」なのか  「人権侵害」を超えた議論  さて、学校はなぜ厳しい校則を復活させようとするのか。そもそもなぜ、厳しい校則を好むのか。 そこに言及するに先だって、校則問題の論じ方について、私なりの方針を示しておきたい。 1) 学校批判のみに終わらない  これは私自身の反省でもある。私は長らく、理不尽な校則を「人権侵害」「管理主義」として、ただただ学校のみを一方的に非難してきた。だが後に詳述するように、「学校依存社会」において、校則は保護者・地域住民を含めた社会全体の問題としてとらえる必要がある。 2) 学校側には理由がある  校則をめぐる議論では、「説明がつかない校則が多い」という主張がしばしば展開される。だが現実には、(仮に瞬時には説明がつかないとしても、)学校からは相応の回答が得られる。どこまで回答内容が妥当であるかはともかくも、学校目線では説明がついているところにこそ、校則問題の難しさがある。校則の見直しには、学校目線からの内在的な理解が不可欠である。 3) 教師の負担を考える  今日の学校教育の課題を考えるにあたっては、教師の負担を抜きに語ってはならない。「校則の見直し」と「教師の負担軽減」の両立をさぐる論理が求められる。教育社会学者の山本宏樹氏(東京電機大学・准教授)が指摘するように、ここ数年の「『ブラック校則』追放運動が一面的な教師批判になるのではなく、教師の『ブラック労働』問題と同時並行的に議論されている点」(「これからの校則の話をしよう」)を前面に押し出しながら、校則を見直していく必要がある』、「内田良氏」の見方は、現実に向き合うなかで、多面的・マイルドになったようだ。
・『古くて新しい問題  いま話題になっている校則問題の直接的な発端は、2017年にさかのぼる。 同年10月に、大阪府内の公立高校に通う女子生徒が、生まれつきの茶色い髪を黒く染めるよう学校から強要されたとして、大阪府に対し損害賠償を求める訴えを起こした。この訴えが火付け役となって、理不尽な校則に対する関心が一気に高まった。 厳しい校則というものは、教育界では「過去のこと」と思われてきた。子供たちは数十年前に比べれば、自由な学校生活を享受しているだろう、という印象だ。 校内暴力が吹き荒れた1980年代に、生徒を取り締まるための手段として、厳格な校則が適用された。そして1990年7月に神戸市内の高校で起きた女子生徒の校門圧死事件は、管理教育の象徴としての校則の是非を、世に問うた。 それ以降、校則問題の議論は下火になっていった。ところが現実には、むしろ校則はその厳格さが強化されているようにさえ見える。校則は、古くて新しい問題である』、「校則はその厳格さが強化されているようにさえ見える」、というのは大いに問題だ。
・『高校野球部で丸刈りの割合が高まる  朝日新聞社が、日本高校野球連盟と共同で実施した調査によると、連盟に加盟している高校のうち髪型を「丸刈り」と決めているのは、2003年が46.4%であったのに対し、2018年には76.8%にまで増加している【図1】(朝日新聞 2018年6月16日付)。丸刈り強要こそ「過去のこと」という印象が強いけれども、むしろ2003年と比べると息を吹き返していることがわかる。 図1:高校野球部における丸刈りの割合 ※『朝日新聞』(2018年6月16日付)に掲載されている図をもとに筆者が作成。調査ではいずれの年も、約4000校が回答し、回答率は98%~100%である。 また荻上チキ氏らが2018年に実施したウェブ調査では、「下着の色が決められている」「整髪料を使ってはいけない」など多くの質問項目で、若年世代のほうが経験ありとの回答を示している(『ブラック校則』、東洋館出版社)。 先の黒髪強要訴訟を受けて朝日新聞社がおこなった調査からは、東京都立高校の約6割で、髪の毛が茶色だったり縮れていたりする生徒に対して、それが生まれつきのものであることを示す「地毛証明書」を提出させていることが明らかとなった(朝日新聞 2017年5月1日付)。理不尽な校則は、けっして消滅していない。それどころか、強化あるいは拡張していることが複数の調査からうかがえる』、「東京都立高校の約6割で」、「「地毛証明書」を提出させているとは、信じられないほど酷い話だ。
・『部屋のほこりを取り除くかのように  1980~1990年代にかけて校則問題の議論をリードした坂本秀夫氏は、校則違反を「部屋のほこり」にたとえて次のように説明している。 規則をきびしくすればするほど違反が目立つ。これはきれいな部屋ほど細かなほこりも目立つのと同じである。自由服ならば多少はでな服装も目立たない。だがセーラー服や黒いツメ襟制服で細かな規定をすればするほどわずかな違反も目立ってくる。この取締りのなかにのめり込んでいけばいくほどアラが見えてくるから生徒不信におちいってしまうのである。(坂本秀夫『「校則」の研究』三一書房、218頁) 自由なカラフルな服装のなかでは、白かグレーは目立たない。色どころか、何を着用しているのかさえ、ほとんど気にならない。だが細かい規則をひとたび運用し始めると、小さなちがいが目立ってくる。そして規則がある以上は、その小さなことに指導を入れなければならない。 きれいになればなるほど、あるいは統一感が出てくれば出てくるほど、さらに微細な差異が目に付くようになる。こうしてその微細な差異への指導が入ることになる』、「校則違反を「部屋のほこり」にたとえて」、と絶妙な比喩だ 。
・『なぜ変わらないのか 説明がつかないものは改めるべき?  校則が厳格化されてきたところだけを切り取るならば、学校は子供の人権を積極的に侵害するようになってきたとも言える。学校はそこまでして、子供を痛めつけたいということなのだろうか。 2020年の7月、東京の都立高校におけるツーブロック(注)禁止が話題となった。都議会議員の池川友一氏が委員会にて、ツーブロック禁止の理由を教育長に問うたところ、教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めている」と答えた(BuzzFeed News 2020年7月14日付)。 人権を侵害しているのではない。むしろ、生徒を危険から守るためという、教育上の真っ当な目的があったということだ。 髪型も、マスクも、防寒具も、服装も、多様なものを認めてしまえば、「華美」になったり、「マナー」に反したり、「中高生らしさ」が失われてしまったり、さらには、子供が事件や事故に巻き込まれたり、学校の秩序が乱れたり・・・と、たくさんの不安が浮上してくる。それらのリスクから子供を守るために、厳しい校則が適用されている。 なお、「華美」「マナー」「中高生らしさ」という視点と、「事件」「事故」という視点は、風紀(前者)と安全(後者)という意味で、異質なもののように見える。だが事故防止策がとられるとしても「風紀」の維持は大前提である(例:自転車事故の防止にカラフルなヘルメットは許されない)。 学校側の対応をひと言で表現すれば、学校は平穏な日常の「乱れ」を、先手を打って防いでいる。校則をめぐる議論では「説明がつかないものは改めるべき」という意見がしばしば聞かれるが、学校側からすれば、校則には真っ当な存在理由がある。 厳しい校則は、「乱れ」の観点から説明が可能であり、子供の安全・安心を願って定められている。だからこそ、容易には変えられないのだ』、「学校は平穏な日常の「乱れ」を、先手を打って防いでいる」、先手が行き過ぎ、過剰な介入になる場合もありそうだ。
(注)ツーブロック:男性の髪型
・『保護よる支持  保護者においても、総じて校則は受け入れられている。 内閣府が実施した保護者対象の全国調査(2014年実施、子どもの保護者2,487名が回答(回収率は93.1%))に、「我が国の子育てや教育の現状について考えたとき、あなたはどのようなことが問題だと思いますか」という質問がある。選択肢として「テレビやインターネットなどのメディアなどから、子どもたちが悪い影響を受けること」「子どもたちの遊び場が少ないこと」「学校の規則が厳し過ぎること」など計16項目(複数選択可)が用意されており、もっとも割合が高かったのは「テレビやインターネットなどのメディアなどから、子どもたちが悪い影響を受けること」(55.8%)であった。 計16項目のうち、「その他」「特に問題とすべきことはない」をのぞいた14項目でみると、「学校の規則が厳し過ぎること」はもっとも割合が低かった(2.7%)。過去の調査(2006年調査、2000年調査)においても、「学校の規則が厳し過ぎること」に対する関心は低く、いずれの年も質問項目のなかで最小値をとった【図2】。 厳しい校則というのはいまに始まったものではなく、2000年から2014年にかけても存在していたはずである。だが、保護者において校則に対する問題意識は、きわめて低い。基本的に校則は支持されていると言える』、なるほど。
・『生徒による支持  生徒自身も、校則には肯定的である。 福岡県の高校2年生を対象に、2001年、2007年、2013年と3時点にわたって実施された調査では、「学校で集団生活をおくる以上、校則を守るのは当然のことだ」という質問への回答が、3時点で大きく変化している。 全体(男子・女子)の傾向として、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という肯定的な傾向が、2013年では87.9%に達している。大多数の生徒が校則を守ることは当然と考えている。しかもそれは2001年の68.3%から、約20%もの大幅な増加である。さらには「どちらかといえばそう思う」はほとんど変化がなく、「そう思う」というより積極的な回答が増えている。【図3】。 以上のように、子供も保護者も、現状の校則を支持している。そして、学校側においても、学校なりに子供の安全・安心を考えて校則が運用されている。 個々別々の校則をとりあげれば、理不尽なものも見つかるけれども、総じて、学校・生徒・保護者の三者ともに、今日の校則に親和的な態度を有している。これが、校則の見直しを難しくしている最大の要因である。 図3:「校則を守るのは当然のことだ」に対する態度(高校生調査)※平野孝典「規範に同調する高校生」(友枝敏雄編『リスク社会を生きる若者たち』大阪大学出版会)に掲載されている図をもとに筆者が作成』、「生徒」から支持されているとはいっても、それは生徒の主体性のなさを表しており、やはり問題だ。
・『校則が照らし出す「学校依存社会」  家庭の時間まで拘束する――「4時禁」という行動規制(ちょうど一年前の冬、「4時禁」という校則が注目を集めた。 「4時禁」とは「4時まで外出禁止」の略称で、学校が午前中で終わって子供が帰宅した際に、午後4時までは家から出てはならないというルールである。岐阜県の塾経営者が話題の火付け役となった。 「4時禁」という名称が全国的にどこまで共有されているかはわからないものの、時間指定して帰宅後の行動を規制する校則は、岐阜県以外の地域にも存在する。岐阜県内では、違反すると反省文を提出させられるケースもあったという(NHK 2020年2月10日付)。 学校の門を出てしまえば、子供がどのような行動をとろうと自由である。まして帰宅後ともなれば、そこでの行動を制約する権限は、学校にはない。それにもかかわらず、自宅待機を命じられ、違反すれば反省文を書かされることさえあるとは、理不尽の極みのように思える。 帰宅後の行動規制は、「4時禁」に限られない。家族旅行であっても事前に学校の承認が必要であったり、友人宅での外泊を禁止したり、夏休み期間中のお祭り会場に教師がパトロールと称してやって来たり、コロナ禍の休校期間中に教師が商店街を見回ったりと、保護者の管理下にあるはずの子供の自由時間に、学校が当然であるかのように介入してくる』、信じられないような過剰介入・「越権行為」だ。
・『越権行為の背景  明らかな越権行為を、なぜ学校がおこなってしまうのか。私が学校関係者に話を聴いていくなかで、私たち第三者には見えない学校の姿が浮かび上がってきた。 学校の授業が早く終わり、生徒は昼には校門を出る。そのまま友だちとフードコートに向かい、昼食をとり長時間にわたっておしゃべりしたり、勉強をしたりする。それを見た店員や地域住民が、学校に苦情の電話をかけてくる。そして、教師がフードコートまで足を運んでお詫びをする。 校門を出た時点で生徒は保護者に返されたはずなのだけれども、謝りに行くのは教師である。そこに保護者の姿はない。こんなことがつづけば、一律に「4時禁」を発動したくもなる。 週末に生徒が、道路のガードレールに落書きをした。それを教師が消しに行く。友人宅での外泊時に友人間のトラブルが起きた。教師がその解決に時間を割く。こんなことがつづけば、一律に生徒の行動を規制したくもなる。 「そんなの、放置すればいい」と思う人もいるかもしれない。でも学校外でのいざこざが、学校のなかに持ち込まれてきては、学校の日常がまわらなくなる』、私も「放置すればいい」と思う。
・『「学校依存社会」の時代  社会科学の領域に、「学校化社会」という言葉がある。哲学者のイヴァン・イリイチ氏は、学校的な価値が制度に組み込まれた社会(例:学校を卒業すれば一人前とみなされる社会)を「学校化社会」と呼び、そのあり方を批判的に考察した(『脱学校の社会』、東京創元社)。また社会学者の宮台真司氏(東京都立大学・教授)は、偏差値重視の学校的価値が社会の隅々にまで浸透した社会をそう呼んだ(『学校的日常を生きぬけ』、教育史料出版会)。いずれも、学校の価値観が社会で支配的な位置を占めていることに対する危機感から生まれた言葉だ。 「4時禁」をはじめとする学校の越権行為も、よく似た状況である。すなわち、学校こそが子供の行動を取り締まり、それを保護者や地域住民も当然のこととみなしている。こうした、社会の構成員が子供の広範な管理を学校に求めようとする社会を、私は「学校依存社会」と呼びたい。 「学校依存社会」の恐ろしいところは、依存していることがもはや当たり前になっていて、そこに気づけないことである。越権行為による介入を受けている家庭でさえも、そして負担を強いられている教師でさえも、それを自明視している。 学校がその権限を逸脱してまで、子供の生活圏内に介入すべき理由はない。学校は、ときに体罰まで行使しながら、警察や司法、福祉などの業務を引き受け、丸抱えしてきた(丸抱えさせられてきた)。校則はその厳しさを増大させながら、領分を拡大させていった。これでは、今日話題となっている学校の長時間労働はけっして解消しない。 だからと言って、現実に起きてしまったトラブルを放置するわけにはいかない。業務を担ってきた教師の「後任」はだれなのか。どこまで介入すべきなのか。今後、包括的な視野からの検討が必要であるものの、まずもってその前提として「学校依存社会」から校則を読み解いていかなければならない』、「学校は、ときに体罰まで行使しながら、警察や司法、福祉などの業務を引き受け、丸抱えしてきた(丸抱えさせられてきた)。校則はその厳しさを増大させながら、領分を拡大させていった」、非常に深い分析だ。現状は過度な役割分担で、やはり本来の姿に戻すべきだろう。
・『「乱れ」と呼ぶか、「多様性」と呼ぶか  ここまで、厳しい校則の現状とそれが維持される背景を示してきた。学校による「人権侵害」のひと言では片付けられない、根深い課題が見えてきたのではないかと思う。 さて、話を冒頭に戻そう。 新型コロナウイルスの感染拡大という甚大な災禍によって、校則が変わらざるをえなくなった。マスクがカラフルになり、教室でコートが着られるようになり、私服の学校生活まで誕生した。 学校は、風紀や秩序の「乱れ」をとても恐れている。コロナ禍で校則がゆるくなり、はたして子供は乱れ、学校は荒れ放題となってしまっただろうか。 私の目には、子供の生活がカラフルにそして多様になっただけのように見える。実際に現場からは、「マスクどころか服装を自由にしても、何も起きなかった」という声も、私の元に届いている。私たちが恐れていた子供の「乱れ」とは、ただの「多様性」だったのではないか。 厳格なルールにより「正しさ」(例:白色のマスク)が定義されるからこそ、同時にその裏返しとして「乱れ」(例:ピンク色のマスク)が定義される。ただの「多様性」だとすれば、「正しさ」も「乱れ」もなく、さまざまな個人が存在しているだけだ。そこには、「正しさ」の管理コストも発生しない。 もちろん、明らかなトラブルが起きたときに、私はそれを「多様性」と呼びたいのではない。トラブルには、教師の「後任」を交えた個別対応が必要であることは言うまでもない。 後に、それでもあえて、校則は学校が決めているということを付記しておきたい。校則は、変えようと思えば、学校で変えることができる。 頭のてっぺんから足の先まで、学校が、子供の身なりや持ち物を規定する。 子供にもう少しだけ、「選ぶ」機会と「考える」機会があってもよいのではないだろうか。子供をもう少しだけ、「信じる」ことがあってもよいのではないだろうか。 そして、みんなでこの社会の子供を育てていくのだという思いを、共有できないものだろうか。 新型コロナウイルスという甚大な災禍が、大きな岩を動かした。あとはこの岩を、みんなで動かしつづけることだ。元に戻るわけにはいかない』、「みんなでこの社会の子供を育てていくのだ」、との考えの下で、学校、家庭、地域社会の役割分担を改めて見直し、再構築してゆくべきだろう。

次に、1月10日付けダイヤモンド・オンライン「性の問題を、なぜ中高できっちり教えないといけないのか?【APU出口学長×スタンフォード星校長5】」を紹介しよう。
・『世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』がついに10万部を突破。ビジネス書大賞2020特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。池谷裕二氏(脳研究者・東京大学教授)から「初心者でも知の大都市で路頭に迷わないよう、周到にデザインされ、読者を思索の快楽へと誘う。世界でも選ばれた人にしか書けない稀有な本」、宮部みゆき氏(小説家)から「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります」、なかにし礼氏(直木賞作家・作詞家)から「読み終わったら、西洋と東洋の哲学と宗教の大河を怒濤とともに下ったような快い疲労感が残る。世界に初めて登場した名著である」と絶賛された本が、12/25「日経新聞」に掲載された。だがこの本、A5判ハードカバー、468ページ、2400円+税という近年稀に見るスケールの本だ。 一方、スタンフォード大学・オンラインハイスクールはオンラインにもかかわらず、全米トップ10の常連で、2020年は全米の大学進学校1位。世界最高峰の中1から高3の天才児、計900人(30ヵ国)がリアルタイムのオンラインセミナーで学んでいるが、そのトップが星友啓校長だ。 星校長の処女作『スタンフォード式生き抜く力』も神田昌典氏(マーケティングの世界的権威・ECHO賞国際審査員)から「現代版『武士道』(新渡戸稲造著)というべき本。新しい世界に必要な教育が日本人によって示されたと記憶される本になる」と大絶賛。発売直後に2万部の重版が決まった。 今回、APUの出口学長とスタンフォード大学・オンラインハイスクールの星校長が初めてオンラインで対談。紆余曲折のまさかの人生で両校トップになった二人は、教育について、ビジネスについて、何を語ったのか。注目の初対談の続きをお届けしよう。(構成・藤吉豊)』、「出口」氏と「星」氏の対談とは興味深そうだ。
・『中等・高等教育の目的は2つしかない  星友啓(以下、星):出口先生は、中等・高等教育の分野における学校の役割、教育の目的をどのようにお考えですか? 出口治明(以下、出口):中等・高等教育の目的は、2つしかないと思っています。 ひとつ目は、「最低限の武器を与える」ことです。 武器とは、社会を生き抜くための基礎的知識です。 政治、民主主義、お金、経済、性(SEX)の問題など、社会の根幹をなすしくみについて教えるのが教育です。 現在の日本の教育ではこれらすべてが十分教えられてはいませんが、特に性の問題が海外と比べて遅れています。ここをしっかり教えないといけない。 なぜなら、性暴力や望まない妊娠・人工中絶などの問題は学校でしっかりと性教育ができていないことに一因があるからです。 大人になって社会に出て自分ひとりで社会と向き合ったとき、武器がなければ、負けてしまいます。 2つ目は、「自分の頭で考える力を養うこと」です。 17世紀の哲学者、パスカルが述べたように、「人間は考える葦」です。 人間の人間たるゆえんは、自分の頭で考えること。自分の頭で考え、自分の言葉で、「こう思う」と自分の意見を言える人間になること。自分の頭で考え、人とは違うアイデアを生み出す力を育てることが教育の目的です。 社会に出て独り立ちしていくときに困らない「ベーシックな知識」を徹底的にたたき込む。それから、「考える方法論」を教えることに教育の目的は尽きる気がします。 星:同感です。先生のおっしゃるところを伺っていて、たとえば、アメリカの哲学者ジョーン・デューイの教育哲学を思い出していました。 教育の目的の一つは子どもたちを社会の一員として育てていくことです。 そのため、学校の中で民主的な考えやプロセスを体験できるようにする必要があります。 また、逆に学校は社会の民主的なプロセスの一部であり、その学校の中で社会を知る機会をつくることが必要だというのです。 現在の社会では、学校で学ばれていることと社会を生き抜くための力にまだまだ大きなギャップがあります。学校と社会がそうした分断をなくせるように、社会のコンテキストの中で教育を捉え直していく必要があります』、「現在の日本の教育ではこれらすべてが十分教えられてはいませんが、特に性の問題が海外と比べて遅れています。ここをしっかり教えないといけない。 なぜなら、性暴力や望まない妊娠・人工中絶などの問題は学校でしっかりと性教育ができていないことに一因があるからです」、との「出口」氏の指摘には同感である。
・『互いの個性を認め合いながら  出口:ホモ・サピエンスの歴史を20万年の流れの中で見ていくと、産業革命以前の教育は、人生が教育であり、生活が教育であり、教育は生きることの一部になっていました。 たとえば、鍛冶屋さんになりたいと思ったら鍛冶屋さんに弟子入りし、朝から晩まで仕事をする。そこで鍛冶屋の仕事を教えてもらう。そこで受けた教育は、彼自身の生活であり、人生そのものです。 ところが、「産業革命」と「ネーション・ステート(国民国家)」という2つのイノベーションが当時の社会を一変させました。 産業革命は、均質な労働者を必要とします。どこの工場にも最低限のマニュアルがある。労働者には最低限、識字能力が求められるし、部品の数を数える計数能力も必要です。そこで、「学校を整備しなければならない」というニーズが生まれてきました。 一律の学校教育は、均質な労働力を確保するために一番効率がよかったわけです。 そして、学校という仕組みは国民国家の国民皆兵にも最適でした。 つまり、産業革命によって、人生や生活と教育が最終的に切り離されたのです。 ですが、「本来的には、教育は人生そのものである」という考え方を忘れてはいけないと思います。 ベーシックな教育が行き渡っていない段階では、全国一律の学校制度の中で主要科目を教えるのが効率的です。 でも、それがある程度行き渡ってきたら、分散させ、自由に、それぞれの個性に応じて勉強させなければいけない。 僕は、「個性は性差や年齢差を超える」と思っています。 人間はいろいろな意味で、グラデーションの中で生きているのですから、男性の特性はこう、女性の特性はこう、日本人はこう、外国人がこうという二項対立で考えるのではなく、「違う個性を持つ人たちがグラデーションで集まって世界をつくっている」ということを決して忘れてはならないと思います。 星:今後社会が進む方向性は、やはり分散化だと思います。 分散化というのは、分断とは違います。出口先生がおっしゃるように、性別、年齢、国籍、文化、価値観など、さまざまなバックグラウンドを許容しつつ、お互いを認め合いながら一体化を目指していくことがますます大事になるはずです。(了)』、両氏の見方は深いだけに説得力がある。「個性は性差や年齢差を超える」、「今後社会が進む方向性は、やはり分散化」、同感である。

第三に、2月26日付け東洋経済オンラインが掲載した桜美林大学リベラルアーツ学群教授の芳沢 光雄氏による「「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する」を紹介しよう。
・『筆者は1978年から5つの大学での専任教員、5つの大学での講師を合わせて約1万5000人対象(文系・理系は半々)に授業をしてきた。また、1990年代半ばから数学嫌いの改善を主な目的として、全国の小・中・高校などでも約1万5000人を対象に出前授業をしてきたことになる。 そして現在、「小学校時代の算数の教え方次第で人生の進路は決まる」という考えをもっている。本稿では主に、その訳を説明しよう』、「小学校時代の算数の教え方次第で人生の進路は決まる」との見解は興味深い。
・『間違った整数の覚え方  ここに多くの男の子と女の子がいるとき、「その人数は男子が多いか、女子が多いか、それとも同数か。それぞれの人数を数えないで答えられるか」という質問には、男子と女子が一人ずつ手をつないでもらえればわかる。余った方が多く、余った人がいなければ同数だからである。 この発想は「1対1の対応」と言われ、整数の概念が生まれる前は、トークンと呼ばれる粘土細工によって物品の管理に用いられていた(紀元前8000年~紀元前3000年頃)。また現在では、数学の集合について語るときの基礎として重要な働きをしている。 筆者は大学院生の頃を中心に家庭教師を散々行って成功した思い出が多いものの、わずかであるが小学生の算数で失敗の経験もある。 それには共通の特徴があり、最初の面談のときに、親御さんから「うちの子どもは小学校の入学前から数字をよく覚えていて、50ぐらいまでスラスラ言えたほどです。それがどうも伸びなくて……」と言われたことである。 そして、お子さんに指導を始めてすぐに気づくことは、親御さんの整数の教え方が根本的に誤っていたのである。単に「イチ、ニ、サン、シ……」と鳥のオウムに暗唱させるような教え方で、50ぐらいまで覚えさせていたのである。 本来ならば、同じ3ならば3人、3枚、3個というものは1対1の対応がつくように、3という抽象的な数を理解できる例を一緒に示す必要がある。それを完全に省略して教えてしまったために、お子さんは整数に関して強い苦手意識をもってしまったのである。 余談であるがオウムの名誉のために述べておくと、かつてアレックス君というオウムが6までの整数を正しく認識していたことは有名である。 小学校の算数教育で必ず登場することに「九九」がある。3×4=12の「サンシジュウニ」ならば、3+3+3+3=12を示した後に暗記させるものである。ところが、困った指導が一部で行われて、3×4=12のような意味を示す前に九九を全部暗唱させていたのである。 今年度の本務校ゼミナール学生もそのような指導を小学校で受けた思い出が鮮明に残っていて、「なんの言葉なのかサッパリわからないまま、ただただ暗記させられました。疑問に思って学習塾に通っていた友人に尋ねたところ、3×4=12の意味があって「サンシジュウニ」があることが納得できました」と説明したのである。 筆者は「九九の暗記は大切」という考えをもっている。しかし、九九を導く式の理解を省略して覚えてもつらい気持ちしか残らないことは明らかである』、「困った指導が一部で行われて、3×4=12のような意味を示す前に九九を全部暗唱させていたのである」、それは酷い話だ。
・『「比と割合」の意味を理解していない  また、算数の教育で最も重要と考える「比と割合」すなわち「%」の概念の教育では、「基準とする対象を1あるいは100%とすると、比べられる対象はどのくらいになるか」という理解がまず大切であるものの、そのような理解を省略して、それらの関係式の暗記だけの教育が広まっている。 これに関しては学習塾関係者も危惧の念を述べているが、以下のような呆れた事実が結果として表れている。暗記だけの学びは忘れるのが早く、一旦忘れると手も足も出ないことに注意したい。 2012年の全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)に出題された小学6年生対象の問題で、「赤いテープの長さは120cmで、赤いテープの長さは白いテープの長さの0.6倍」を示す図を選ぶ4択問題の正解率が34.3%であった。 2012年度の全国学力テストから加わった理科の中学分野(中学3年対象)で、10%の食塩水を1000グラムつくるのに必要な食塩と水の質量をそれぞれ求めさせる問題が出題された。 これに関して、「食塩100グラム」「水900グラム」と正しく答えられたのは52.0%にすぎなかった。1983年に、同じ中学3年を対象にした全国規模の学力テストで、食塩水を1000グラムではなく100グラムにした同一の問題が出題され、この時の正解率は69.8%だった。 理解を無視した暗記だけの算数・数学の学びは中学や高校でもますます盛んになっている(拙著『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(東洋経済新報社)参照)。背景には、社会全体に「結果さえ良ければそれでよし」というプロセス軽視の風潮もあるだろう。それが算数・数学の学びの世界にも浸透してしまったと考える。かつて、「算数・数学は最後の答えが合っても途中の式をしっかり書かなくてはダメ」と散々言われた時代を懐かしく思い出すのである。) 筆者は22年間の理学部数学科での教員生活を経て、2007年から現在の本務校のリベラルアーツ学群に勤めているが、しばらくの間は補職として就職委員長を歴任した。当時は学生の就職状況が悪く、算数・数学を苦手とする学生に、関連する非言語問題対策として何らかのサポートをすべきという思いから、後期の毎週木曜日の夜に「就活の算数」ボランティア授業を行った。 筆者の手当て一切ナシは当然として、学生も単位認定一切ナシでも、3年間で約1000人の学生が授業に参加した。昼の正規の授業と合わせて週に10コマ近く行っていたが、それによる疲れはまったく感じない充実した授業であり、昔の寺子屋を想像したほどである。 実はその授業を通して重要なことを学んだ。苦手意識をもつ数学嫌いの学生の多くは、上述したように小学生の頃から理解を無視した暗記の算数・数学教育を受けてきたことである。何人もの学生から、「こんなに理由を説明してくださる先生に教えてもらったことは人生で初めてです」と伝えてもらった。このような話は、数学科の教員時代には一回も聞いたことがなかったことである』、「理解を無視した暗記だけの算数・数学の学びは中学や高校でもますます盛んになっている」、「社会全体に「結果さえ良ければそれでよし」というプロセス軽視の風潮もあるだろう。それが算数・数学の学びの世界にも浸透してしまったと考える」、いくら「プロセス軽視の風潮」とはいっても、「算数・数学の学びの世界にも浸透」、とは本当に由々しいことだ。
・『「数学嫌いの若者」が生まれる経緯  かつて、女性タレントとして活躍された東大工学部卒の方が、テレビの対談番組で「私が習った小学校算数の授業では、先生が考える楽しさを皆に教えたので、クラスの児童全員が算数は好きでした」と述べられたことが忘れられない。 あえて極論を述べると、「子どもの将来の方向は、保護者を含む小学算数の教え方一つで決まるのではないか。もちろん本人の努力もあるが、数学嫌いの若者は教育の犠牲者の面が大きいのではないか」と筆者は言いたいのである。 理解無視の算数の暗記教育と結果だけ問うマークシート式問題が遠因と考えるが、中学数学での作図文や証明文の指導が昔と比べて相当減っている。 その結果として、2014年に行われた千葉県立高校入試の国語で地図を見ながら道案内する文を書く問題が出題されたが、半数が0点だったこと。PISA調査(OECDの生徒の学習到達度調査)で、日本の子どもたちは科学的文献に対して自らの考えを述べる論述力に弱点があること。等々が表面化している。 ひと頃はAIに関して、「人間の仕事はほとんどAIに奪われてしまう」という負のイメージが主であったが、昨年あたりから、両者の良い関係を模索する意見が目に見えて増えている。実際、人間とAIの関係を考えてみると、AIが得意とすることは処理回数と記憶である。 その一方で、人間が得意とすることは、試行錯誤したり考えたりして、斬新な応用や発想を思いつくことである。それゆえ、人間は理解の学びが大切であるが、現在の日本の数学教育を見渡すと上述してきたように、理解を軽視した暗記だけの学びが盛んになっている。) 2019年に経済産業省のレポート「数理資本主義の時代~数学パワーが世界を変える」が発表され、前後に経団連も数学を学ぶことの意義を強調している。しかし、一向に目立った動きが見えない背景には、2015年度のTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)でも発表されているように、日本では「数学は嫌いで役に立たない」と思う青少年の割合が極めて高いのである。 この状況は以前からであり、一向に改善されない。だからこそ、あの「ゆとり教育」が導入されてしまったのであり、算数・数学の「好き嫌い」と「役立つ」という点の意識改革は極めて重要な課題である。そこで筆者は、1990年代半ばから精力的に全国の小中高校約200校で出前授業を行ってきた』、「日本では「数学は嫌いで役に立たない」と思う青少年の割合が極めて高いのである」、由々しいことだ。筆者の「出前授業」の努力には頭が下がる。
・『出前授業をする目的  筆者の出前授業は、現在の本務校に移ってきてからはだいぶ減ったものの細々と続けている。その特徴は、いわゆるSSH(スーパーサイエンスハイスクール)指定校の東京都立戸山高校、山梨県立甲府南高校、静岡県立磐田南高校、あるいは愛媛県立松山東高校(旧制松山中学)のような優秀な高校生を対象にしたもののほか、小中学校や児童養護施設や問題の多い高校などにも手弁当で積極的に訪ねたことである。 背景には、「算数・数学が好き」な生徒をより「好き」にさせるだけでなく、「算数・数学が嫌い」や「恵まれない環境」の生徒に少しでも数学への興味関心をもたせたいという目的があったからである。拙著『AI時代に生きる数学力の鍛え方』では、さまざまな出前授業で生徒から喜んでもらった題材も数多く紹介した。 出前授業と合わせて、教員研修会での講演も積極的にお引き受けしてきた。これも1990年代半ばから約200カ所で行ってきたが、とくに昨年は沖縄県の算数・数学の先生方対象の大きな研修会や長野県の高校の校長先生方を対象の講演会がコロナで中止になったことは、いまだに残念に思う。それは、本稿で述べてきた内容を直接語ることを予定していたからである。 筆者は本務校の定年退職まであと2年となったが、コロナさえ収まれば、出前授業や教員研修会に積極的に出かけたいと思っている。そして、70歳になってからの定年退職後は、前半で紹介したオウムのアレックス君を超える算数犬を、1対1の対応の概念から育てる夢を実現したいと思っている』、「算数犬」がきっと素晴らしいパフォーマンスを示すであろうことを期待している。
タグ:教育 東洋経済オンライン yahooニュース ダイヤモンド・オンライン 芳沢 光雄 内田良 (その23)(理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く、性の問題を なぜ中高できっちり教えないといけないのか?【APU出口学長×スタンフォード星校長5】、「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する) 「理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く」 「せっかくの「校則」の緩和」、が「徐々に揺り戻しの動きもみられる」、とは残念だが、その背景は何なのだろう コロナ禍で緩和されたマスクがカラフルに 「コロナ禍でマスクが品薄」を契機に「色柄は自由化」とは望ましいが、あくまで「品薄」が前提のようだ 教室でコートの着用可 「コロナ禍で教室の換気が求められたこと」で、「教室内での防寒具の着用が認められるようになった」、、当然のことだ 私服登校がOKに 「カラフルなマスクも、私が聞いたところでは、一部の学校で「白色」への揺り戻しが生じている」、残念なことだ 校則は本当に「理不尽」なのか 「内田良氏」の見方は、現実に向き合うなかで、多面的・マイルドになったようだ。 古くて新しい問題 「校則はその厳格さが強化されているようにさえ見える」、というのは大いに問題だ 高校野球部で丸刈りの割合が高まる 「東京都立高校の約6割で」、「「地毛証明書」を提出させているとは、信じられないほど酷い話だ 部屋のほこりを取り除くかのように 「校則違反を「部屋のほこり」にたとえて」、と絶妙な比喩だ なぜ変わらないのか 説明がつかないものは改めるべき? 「学校は平穏な日常の「乱れ」を、先手を打って防いでいる」、先手が行き過ぎ、過剰な介入になる場合もありそうだ 保護よる支持 生徒による支持 信じられないような過剰介入・「越権行為」だ。 越権行為の背景 私も「放置すればいい」と思う 「学校依存社会」の時代 「学校は、ときに体罰まで行使しながら、警察や司法、福祉などの業務を引き受け、丸抱えしてきた(丸抱えさせられてきた)。校則はその厳しさを増大させながら、領分を拡大させていった」、非常に深い分析だ。現状は過度な役割分担で、やはり本来の姿に戻すべきだろう。 「乱れ」と呼ぶか、「多様性」と呼ぶか 「みんなでこの社会の子供を育てていくのだ」、との考えの下で、学校、家庭、地域社会の役割分担を改めて見直し、再構築してゆくべきだろう。 「性の問題を、なぜ中高できっちり教えないといけないのか?【APU出口学長×スタンフォード星校長5】」 「出口」氏と「星」氏の対談とは興味深そうだ 中等・高等教育の目的は2つしかない 「現在の日本の教育ではこれらすべてが十分教えられてはいませんが、特に性の問題が海外と比べて遅れています。ここをしっかり教えないといけない。 なぜなら、性暴力や望まない妊娠・人工中絶などの問題は学校でしっかりと性教育ができていないことに一因があるからです」、との「出口」氏の指摘には同感である 互いの個性を認め合いながら 両氏の見方は深いだけに説得力がある。「個性は性差や年齢差を超える」、「今後社会が進む方向性は、やはり分散化」、同感である 「「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する」 「小学校時代の算数の教え方次第で人生の進路は決まる」との見解は興味深い 間違った整数の覚え方 「困った指導が一部で行われて、3×4=12のような意味を示す前に九九を全部暗唱させていたのである」、それは酷い話だ。 「比と割合」の意味を理解していない 「理解を無視した暗記だけの算数・数学の学びは中学や高校でもますます盛んになっている」 「社会全体に「結果さえ良ければそれでよし」というプロセス軽視の風潮もあるだろう。それが算数・数学の学びの世界にも浸透してしまったと考える」、いくら「プロセス軽視の風潮」とはいっても、「算数・数学の学びの世界にも浸透」、とは本当に由々しいことだ 「数学嫌いの若者」が生まれる経緯 「日本では「数学は嫌いで役に立たない」と思う青少年の割合が極めて高いのである」、由々しいことだ。筆者の「出前授業」の努力には頭が下がる 出前授業をする目的 「算数犬」がきっと素晴らしいパフォーマンスを示すであろうことを期待している
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