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民主主義(その7)(宇野重規2題:「民主主義にはそもそも論が必要だ」 「デモクラシー」はいつから肯定的になったのか、「執行権を民主的にどう統制できるか」 立憲主義だけでは日本政治はよくならない) [国内政治]

民主主義については、昨年3月22日に取上げた。今日は、(その7)(宇野重規2題:「民主主義にはそもそも論が必要だ」 「デモクラシー」はいつから肯定的になったのか、「執行権を民主的にどう統制できるか」 立憲主義だけでは日本政治はよくならない)である。

先ずは、2月17日付け東洋経済オンラインが掲載したライター・編集者の斎藤 哲也氏による「宇野重規「民主主義にはそもそも論が必要だ」 「デモクラシー」はいつから肯定的になったのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/411735
・『「ポピュリスト」の跋扈、旧社会主義諸国および中国など権威主義国家の台頭など、近年の世界は、民主主義という制度の根幹が揺るがされる情勢になっている。日本でも現行の政権は「民意」を正確に反映しているか、すなわち「民主主義的な」政権かという点には疑問符がつく。はたして民主主義はもう時代遅れなのか? それとも、まだ活路はあるのか? 発売から4カ月で10刷4万部に達した『民主主義とは何か』の著者で東京大学社会科学研究所教授の宇野重規氏へのインタビューを前後編にわたってお届けする(Qは聞き手の質問、Aは宇野氏の回答)』、アカデミックな立場で考える意味もありそうだ。
・『私が「デモクラシー」という言葉を使わない理由  Q:宇野さんは、これまで『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)や『民主主義のつくり方』(筑摩選書)など、デモクラシーや民主主義をテーマにした著書をお書きになっています。これらの著書が現代の民主主義を考察の対象にしているのに対して、新しく書かれた『民主主義とは何か』(講談社現代新書)は、古代ギリシャまでさかのぼって、民主主義の歴史をたどる内容になっています。今回の『民主主義とは何か』は、宇野さんがこれまで書かれた民主主義論のなかで、どのように位置づけられるのでしょうか。 A:私はあまり計画的にものを書く人間ではないので、長期的な構想にもとづいて本を書いているわけではないんですが、以前に書いた『〈私〉時代のデモクラシー』と『民主主義のつくり方』とは、1つ大きな違いがあるんですね。それは「デモクラシー」という言葉を使わず、「民主主義」と言っていることです。 政治思想史を専門とする私の研究は、19世紀前半のフランスの政治思想家であるアレクシ・ド・トクヴィルが書いた『アメリカのデモクラシー』という本から出発しました。この本を読むと、トクヴィルがデモクラシーという言葉にさまざまな意味を込めていることがわかります。狭い意味での政治体制という意味もあれば、社会が平等化していく歴史の趨勢を指す場合もある。あるいは、対等な人間関係のあり方みたいなものも含んでいる。) 私は、トクヴィルのそういう多義的なデモクラシー論が好きだったんです。ですから、当初はトクヴィルにちなんで、私も多義的な意味でデモクラシーという言葉を使っていました。実際、『〈私〉時代のデモクラシー』という本は、トクヴィルの「平等化」や「個人主義」に関する分析がびっくりするぐらい日本の今に当てはまることを説明したくて書いたものです。 その後に出したのが『民主主義のつくり方』ですが、このときに「民主主義」という言葉を私は選んだんですね。デモクラシーの訳語として、民主主義はあまりいい言葉じゃない。そもそもデモクラシーは「主義」ではありませんから。でも、日本人に向かって「デモクラシー」というと、なんとなく抽象的で、アカデミズムっぽいんですよ。 Q:自分とは関係ない学問の世界の話のように聞こえてしまうと? A:そうなんです。例えば、「いま、民主主義を問い直すことが大切だよね」と語りかければ、「そうかも」と言ってくれる人はいるかもしれません。でも、「デモクラシーを鍛え直さなければ」なんて言った日には、「学者さんが何か言ってる」と受け取られるだけでしょう。だから、いい訳語ではないけれど、世の中に対してメッセージを出すときには、やっぱり「民主主義」を使ったほうがいいだろうと思ったわけです』、日本語表記するか原語表記するか、確かに悩ましい点だ。
・『民主主義を楽観視できない時代に入った  Q:2013年に出された『民主主義のつくり方』は、アメリカのプラグマティズムを参照しながら、これからの民主主義について前向きに論じていた点が印象的でした。 A:一般的に、「プラグマティズム」って軽薄な思想のように捉えられがちなんですね。深い思慮がなく、実用的に結果さえよければいい。そんなふうに思っている人もけっこういます。 でも、そんなことはなくて、プラグマティズムの思想は現代の民主主義に重要な示唆を与えているんですよね。例えば、プラグマティズムの思想家であるジョン・デューイは、民主的な社会を、一人ひとりの個人がさまざまな実験をし、経験を深めていくことを許容する社会だと捉えました。私もこの考えに強く同意し、新しい民主主義のあり方を構想する手がかりとしました。そして、デューイのいう「実験」の実例として、全国から移住者が集まる島根県海士(あま)町、東日本大震災の被災地で活動するNPOを本の中で取り上げたわけです。 ただ、いまから振り返ると、あの時点ではまだ民主主義に楽観的だったのかもしれません。) Q:楽観的というと? A:民主主義への不信は募っているけれど、日本でも新しい民主主義の種は芽生えてきていると思っていたんです。隠岐にある海士町では、離島であるにもかかわらず、昔からの住民が立ち上がり、Iターンで来た若い人を受け入れて新しい地域をつくっている。三陸は「NPO不毛の地」と言われていたのに、震災後に地元に戻ってきた若い人を中心としたNPOが育ちつつある。 東京の永田町や霞が関を見ていると、日本の政治は変わらないように思えてくるんですが、地域を見ると確実に変わっている。だからこれからの時代は、変革は地域から始まり、最後に東京が変わる。東京よりも地域のほうが進んでいる。割とそういう気持ちで書いた本なんですね。 ところが、『民主主義とは何か』の冒頭でも書いたように、2016年あたりから、イギリスのEU離脱やドナルド・トランプが勝ったアメリカ大統領選をはじめとして、世界各地でポピュリズムと呼べるような現象が相次いで起こり、独裁的手法が目立つ指導者も多くなりました』、やはり学者といえども政治学の世界では、事態の変化により考え方も変わるようだ。
・『日本の意思決定層ですら抱く民主主義への疑問  以前、企業や官庁の「エラい人」から、こんな言葉を聞いたことがあります。「中国を見ていると、民主的な体制とは言えないが、それだけに決断が早い。決まるとすぐ実行される。その中国が経済的にもこれだけ成功している以上、もはや民主主義を擁護するだけの自信が自分にはない」と。日本社会で責任ある地位にいる人でさえ、民主主義に疑問を抱いているわけです。 あるいは安倍政権の時代に、モリカケ問題を含めて、民主主義の行き詰まりを示すような問題が噴出しました。「忖度」なんていう言葉が横行するのも、民主主義の危機の兆候でしょう。 そんな具合に、ここ数年で、世界でも日本でも民主主義が大変な危機に直面していることが肌身で感じられるようになり、以前のような楽観視はできないという思いが強まったんです。) Q:その危機意識から書いたのが『民主主義とは何か』なんですね。 A:はい。こうなったら、民主主義とはそもそも何なのか、という原則論に立ち戻ろう、と。さまざまな議論を見るにつけ、いろんな人が百人百様、ずいぶん違う民主主義の理解を念頭に置いている。激しく論争しているように見えて、全然かみ合っていない議論も散々見てきました。だったら、ここは1つ腰を据えて「民主主義とは何か」というところからスタートして、正統派中の正統派、まさに教科書を書くような心づもりで、古代ギリシャから徹底的に論じてみようと考えたんです』、「原則論に立ち戻ろう」、こういう時には大切なことだ。
・『プラトン・バイアスで古代ギリシャを見てはいけない  Q:実際に読んでみて、古代ギリシャの民主政のイメージが大きく変わりました。高校世界史や倫理の教科書などでは、古代アテネで民主政は発展したけれど、ペロポネソス戦争でスパルタに敗れた後は、デマゴーグ(衆愚政治家)が幅を効かせて衰退していったというふうに書かれています。でも、そうではなく、一時的に迷走はしたけれど、アテネの民主主義は進化したということが書かれていて驚きました。 A:恥ずかしながら、私自身も大学の授業などではそういうストーリーで話していたんです。ところがこの機会に、古代ギリシャ史家の橋場弦先生が書いた『民主主義の源流』(講談社学術文庫)を読み直してみると、いわゆる全盛期を過ぎたとされている時代でも、アテネの民主主義はしぶとく持ち直していることが書かれている。 政治参加している市民の数は減っていないし、現代の違憲立法審査権のように、デマゴーグが民会で無責任な発言をして国を誤らせたときは、事後的にそれを処罰するといった仕組みまで整備されている。むしろ制度的に進化しているんですよね。そういう話を読んで、「あれ?」と。自分は毒されていたと反省しました。 哲学でも、プラトンやアリストテレスは民主主義に対して批判的ですよね。その影響が大きいので、古代アテネの民主政というと、どうしてもプラトンやアリストテレスのバイアスが入ってしまう。でも、実態はだいぶ違っていたわけですね。 Q:「デモクラシー」という言葉が、どういう経緯で肯定的な意味を獲得していったのかという説明も非常に勉強になりました。ヨーロッパでは、長い間「デモクラシー」がネガティブな言葉だったことは知っていましたが、いつごろからポジティブになったのか、よくわからなかったんです。 A:それも教科書トラップかもしれませんね。社会契約論から民主主義へという流れが強調されるので、われわれはうっかり社会契約論が提唱された17世紀ぐらいに、民主主義はポジティブな意味を持っていたと勘違いしがちです』、「全盛期を過ぎたとされている時代でも、アテネの民主主義はしぶとく持ち直している」、と通説は必ずしも正しくないようだ。
・『民主主義が肯定されたのはごく最近のこと  でも、よくよく文献を読んでみると、18世紀のルソーだって、デモクラシーをいい意味ではろくに使っていないんですね。彼は「人民主権」や「一般意志」という言葉は肯定的に使っていますが、具体的な政治体制を語る際には、「デモクラシーはよほど天使のような優れた国民にしか向かないので、現実にはなかなか難しい」といったようなことを書いているんです。あるいは、アメリカ独立革命の指導者たちも、みんなそろって民主政を悪い意味で使っていて、それと対比する形で共和政をいい意味で使っている。 教科書では、近代民主政はアメリカ独立革命とフランス革命で花開いたというふうに書いてありますが、その当事者たちはデモクラシーをいい意味で使っていない。デモクラシーをいい意味で使い始めたのはずっと後のことで、1830年代のトクヴィルあたりからでしょう。 さらにいえば、誰もがデモクラシーをいい意味で使うようになったのは20世紀に入ってからです。アメリカは、2つの世界大戦に参加するにあたって、デモクラシーという大義を掲げました。とくに第2次世界大戦では、民主主義対全体主義という大プロパガンダをおこない勝利したので、民主主義はすばらしいという世界的なコンセンサスができあがったわけです。 Q:本当にごく最近のことなんですね。 A:そういう時代感覚はけっこう重要なんですね。いま、少なからぬ人々が民主主義について悪口を言っているけれど、そんな議論は昔からつい最近までずっとしていた。だから、慌てることはないんです。こういうときだからこそ、うろたえずに民主主義の善しあしをじっくり考えましょうと。それが『民主主義とは何か』の狙いです』、「デモクラシーをいい意味で使い始めたのはずっと後のことで、1830年代のトクヴィルあたりから」、「アメリカは、2つの世界大戦に参加するにあたって、デモクラシーという大義を掲げました。とくに第2次世界大戦では、民主主義対全体主義という大プロパガンダをおこない勝利したので、民主主義はすばらしいという世界的なコンセンサスができあがった」、こうした歴史の流れのなかで「民主主義」を捉える意味は大きそうだ。

次に、この続きを、2月18日付け東洋経済オンライン「宇野重規「執行権を民主的にどう統制できるか」 立憲主義だけでは日本政治はよくならない」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/411737
・『「ポピュリスト」の跋扈、旧社会主義諸国および中国など権威主義国家の台頭など、近年の世界は、民主主義という制度の根幹が揺るがされる情勢になっている。日本でも現行の政権は「民意」を正確に反映しているか、すなわち「民主主義的な」政権かという点には疑問符がつく。はたして民主主義はもう時代遅れなのか?それとも、まだ活路はあるのか? 「宇野重規『民主主義にはそもそも論が必要だ』」(2021年2月18日配信)に続いて、『民主主義とは何か』の著者で東京大学社会科学研究所教授の宇野重規氏へのインタビュー後編をお届けする(Qは聞き手の質問、Aは宇野氏の回答)』、前編は総論的だったが、後編は各論になるので、楽しみだ。
・『民主主義と立憲主義の緊張関係  Q:安倍政権の時代には、安保法制の問題に対して、「立憲主義を守れ」という言葉をよく耳にしました。そこで伺いたいのは、民主主義と立憲主義の関係です。両者は対立とまでは言わないまでも、民主主義の暴走にブレーキをかけるのが立憲主義だというふうに、緊張関係にあるものとして議論されます。宇野さんは、両者の関係をどのように考えておられますか。 A:たしかに民主主義と立憲主義を対立的に捉える理解はあるし、むしろそちらのほうが王道かもしれません。いま指摘いただいたように、民主主義は正しい答えをつねに出すとは限らない。とすると、民主的な議論で出した結果をすべてよしとするのではなく、一定の枠をはめる必要があると考えるわけですね。例えば個人の人権や、権力分立のもとでの法の支配は、仮にみんなが「ないほうがいい」と言っても否定されてはならない。これらはあらかじめ憲法に書き込んで、別枠にしておこうというのが立憲主義です。 また、民主政的な支持を受けた指導者だからといって何をやってもいいわけではないという意味でも、立憲主義は重要だとは思います。 こういう発想は、『民主主義とは何か』でも書いたように、さかのぼれば19世紀の自由主義と民主主義の対立に端を発しているんですね。 ルソーは、人民自らが主権者となって立法をおこなう人民主権論を主張しました。それに対してフランスのバンジャマン・コンスタンという思想家は、誰が主権者になるかということよりも、個人の自由や権利を守るために、主権の力に外から枠をはめることが重要だと、ルソーを批判しました。) Q:なるほど。当時の自由主義と民主主義の対立が、現代では立憲主義と民主主義との対立に置き換わっているわけですね。 A:ええ。ただ、そういう理解は、現代でも決してまだ常識にはなっていない気がします。実際、「自由主義と民主主義はぶつかることもある」と言うと、驚く人もいるんですね。自由主義も民主主義もいいものだから、いいものといいものを足せばよりよくなると素朴に考えてしまうんですね。 ですから、立憲主義と民主主義を対比的に捉える視点はいまなお重要です。ただ同時に、そういう議論に限界があるんじゃないかとも感じています。例えば、今の日本社会で政権批判をするときに、法の支配云々と言ったところで、なかなか理解されにくい。「個人の人権」と言っても、お題目にしか受け取ってもらえない。じゃあ裁判所が最後の歯止めになるかというと、日本の裁判所は非常に消極的で、いざというときになると急に慎重になってしまう。 そういう状況をふまえると、民主主義に外から枠をはめるという発想だけでは限界がある。より重要なのは、民主主義自体をバージョンアップさせて、状況を変えることじゃないかと思うんです。いまの民主主義って、あまりにも不十分なんですよ。選挙で代表を決めれば、あとはお任せみたいな安易な民主主義が横行している。でも、やりようはいくらでもあります』、「民主主義に外から枠をはめるという発想だけでは限界がある。より重要なのは、民主主義自体をバージョンアップさせて、状況を変えることじゃないかと思うんです」、その通りだ。
・『まっとうな民主主義とは?  Q:立憲主義を強化するだけでなく、民主主義の質を高めていこうということでしょうか。 A:そういうことです。自由主義と民主主義は、完全に一体化はしない。でも今日、まっとうな民主主義といえば、すべての人に自由を認める民主主義以外にはありえないわけです。『民主主義とは何か』も、その条件からいかに民主主義を質の高いものへとバージョンアップしていけるかを考えようという組み立てになっています。 この点で、民主主義に批判的なリベラリストと処方箋が違ってくるんですね。彼らは、民主主義にどうしても警戒感を持っています。だから、どうしても民主主義の暴走を立憲主義で抑えようという発想になる。これに対し、私はあくまでもデモクラット、つまり民主主義者なので、「民主主義を抑えることで、よりよい政治をしよう」と言われると、やっぱり引っかかるんですね。民主主義は自分自身のことをちゃんと御していける。そういうふうに民主主義を高めていこう、というのが私の基本的発想です。) Q:いまのお話と関連することですが、『民主主義とは何か』では、近代の民主主義論は議会制を中心に議論してきたために、執行権や行政権の問題が死角になっていたことが指摘されています。 そこは本で強調したかった論点の1つです。近代の民主主義論は、立法権に議論が集中しているんですね。今まで権力者が恣意的な意志ででたらめな法律をつくってきたからよくなかった。それを変えて、全人民の1つの共通の意志を体現するような正しい一般法をつくれば、世の中は自動的にうまくいくだろうと。これがルソーの発想であり、それをどの国よりも真に受けたのがフランスなんです。 でも、その結果といえば、せっかく革命をしたのに、ナポレオンのようなカリスマ的な指導者が人民の声を体現しているとの名の下、何度も出てくる。ナポレオン3世、20世紀のド・ゴールしかりです。フランスは民主政が大混乱に陥ると、最後はカリスマ的指導者の力で乗り切る、それを通じて執行権が拡大するというパターンを繰り返しているんですね。 これは現代でも大きな問題になっていることです。フランスの政治学者ピエール・ロザンヴァロンは、近現代を通じて、執行権の力は拡大する一方で、現在は「民主主義の大統領化」が進んでいるといいます。 アメリカのトランプ前大統領はその典型だし、日本を見てもそうでしょう。官邸主導という名のもとで、さまざまな問題が頭ごなしに決められてしまっています』、「全人民の1つの共通の意志を体現するような正しい一般法をつくれば、世の中は自動的にうまくいくだろうと。これがルソーの発想であり、それをどの国よりも真に受けたのがフランスなんです。 でも、その結果といえば、せっかく革命をしたのに、ナポレオンのようなカリスマ的な指導者が人民の声を体現しているとの名の下、何度も出てくる」、「近現代を通じて、執行権の力は拡大する一方で、現在は「民主主義の大統領化」が進んでいるといいます。 アメリカのトランプ前大統領はその典型だし、日本を見てもそうでしょう」、確かにその通りだ。
・『どのようにブレーキをかければいいか  Q:執行権が暴走するような場合、どのようにブレーキをかければいいんでしょうか。 A:はっきり言って、まだ十分に研究されていないと思います。これまで多くの政治学者が「それは代表制民主主義がうまく機能していないのだから、選挙制度を変えよう」という処方箋を出してきました。1993年以降の日本の政治学者はその典型です。選挙制度を変えることこそが、政治をよくするカギだと考えたのです。 結果、どうだったか。選挙制度をいくら変えても、政治はよくならないのではないか。多くの人がそう思うようになってしまいました。むしろ執行権がオールマイティーの力を持ち、誰にもチェックされないまま暴走するようになってしまったのではないでしょうか。 もちろん現在の選挙制度に問題があるのもたしかです。比例代表制と小選挙区制の長所がくっつくと思って制度改革をしたら、むしろそれぞれの悪いほうが目立つようになってしまった。これを変えていくという議論も当然すべきでしょう。 けれども、それだけがベストな処方箋ではない。執行権を民主的にチェックし、直接的に統制する仕組みをつくる。それが現在の民主主義をバージョンアップさせるうえで、死活的に重要な課題だと思います。 Q:最近、若い官僚の退職者が増加していることが問題になっています。官邸の力が強まる一方で、官僚の力が弱くなっているということはないでしょうか。 そこが難しいところですよね。中学や高校の教科書では、官主導社会は批判的に書かれています。いわく、日本は官僚の力が強すぎたために、国民の政治参加が妨害されているのだと。 ただ、これはなかなか微妙な問題です。例えば、日本の官僚の人数って、国際比較すると圧倒的に少ないんですね。ずいぶん少ない人数でよく働いているとも言える。その官僚に対して大変風当たりが強いまま、現在に至っているわけですね。 でも、本当にそれでいいのか。いま言われたように、若く意欲的な官僚が逃げ出しつつあるのは大きな問題です。だから私はむしろ、官僚を正当に評価するほうがいいと思っているんです』、「執行権を民主的にチェックし、直接的に統制する仕組みをつくる。それが現在の民主主義をバージョンアップさせるうえで、死活的に重要な課題だと思います」、「若く意欲的な官僚が逃げ出しつつあるのは大きな問題です。だから私はむしろ、官僚を正当に評価するほうがいい」、同感である。
・『現代の官僚は萎縮しすぎている  おしなべて私が知っている30代、40代ぐらいの官僚の皆さんって、とても真面目ですよ。誠実で、労働時間が長くても文句を言わずに一生懸命やっている。自分たちが国を引っ張っていこうというメンタリティーはなくなっても、自分たちの職務を誠実にこなしていくことには強い関心を持っている。それは基本的に正しい方向だと思います。 でもそれが行きすぎて、萎縮するようになってはまずい。現場の感覚からいったら、若手、中堅の官僚が自由に発言できる組織のほうが、絶対にいいアイデアが出てくると思うんです。もちろん、官僚がいくらアイデアを出したからと言って、すぐには実現しないでしょう。大事なのは、それを大臣だけに説明するんじゃなくて、市民にも届けることです。行政のプロとして、専門家として、自分たちはこういうアイデアがある。市民にも協力してもらえないか。こういったことをもうちょっと自由に、いろんな場に出てきて話せるといいのですが。 Q:政治家に比べて、専門性もありますからね。 A:すぐれた情報も持っているし、経験も蓄積されています。そういう専門家の意見をもっと民主的に活用するべきです。でも現実には、キャリア官僚もみんな萎縮してしまって、大臣の意向に沿うことばかりを気にしている。それはすごくもったいないことです。) Q:さきほど宇野さんが指摘された、執行権の民主的統制という点から考えた場合、官僚はどのような役割を担うべきでしょうか。 まずは国民に対する情報提供です。1990年代以降の政治改革の大きなあやまちは、政治家が官僚に一方的に命令することが政治主導だと理解されてしまった点にあります。でも、官僚が持っている情報は、政府や政治家の独占物じゃないんですよ。根本的には国民が議論する材料であり、その国民の議論をまとめることこそが政治家の役割です。だから、政治家が政府の情報を独占し、官僚に一方的に命令することはおかしな話です。   現在の状況を考えると、官僚がしっかりと機能することはきわめて重要です。そのためにも、官僚がどういう情報に基づいて、どういうことを考えているかを、国民にもっと開示すべきです。審議会の議事録だけでなく、政策の決定過程や、基礎的な社会のデータをもっと出してほしいんですよ。 行政権や執行権の暴走を防ぐためにも、官邸のごく一握りの人たちが国民の目に見えないところで物事を決めることを許してはなりません。政府が自分たちの持っている知識や情報を、積極的に国民に示し、国民とともに議論することが必要です。 ところが、今の日本の政治はそれと逆行していて、データが出てきません。公文書でさえ隠す始末です。「なぜそういう決定をしたんだ」と後から文句を言われるのが嫌だから、隠れたところで決めてしまいたい。そのような意図ばかりが透けて見える。これは民主主義の真逆をいく行為です』、「今の日本の政治はそれと逆行していて、データが出てきません。公文書でさえ隠す始末です。「なぜそういう決定をしたんだ」と後から文句を言われるのが嫌だから、隠れたところで決めてしまいたい。そのような意図ばかりが透けて見える。これは民主主義の真逆をいく行為です」、その通りだ。
・『国民にもっとデータを!  Q:アカウンタビリティーをまったく果たそうとしていない。 コロナ対応でもそうですよね。対策の是非はともかく、アカウンタビリティーは極めて低かった。なぜそれをやるのか、やったことが正しかったのかどうか、全然説明しません。強制せずに国民の自発的協力を得るならば、情報を開示して、説明責任を果たすのが民主的なあり方です。 菅内閣が「デジタル化の推進」を掲げていますが、デジタル化の大事なポイントは、その情報やデータに「誰もが」アクセスできるようにすることだと思います。上から「はんこをなくせ」という話じゃなくて、誰もがデータを入手して利用できるようにする。国民がさまざまな情報にアクセスできるようになれば、そこから政治参加もできますよね。 政策決定過程を透明化し、そこに国民が自らイニシアチブを持って参加できるルートをつくれるかどうかが、今後、民主主義をアップデートするうえでいちばん重要な課題なんです』、説得力溢れた主張で、全面的に同意する。
タグ:民主主義 (その7)(宇野重規2題:「民主主義にはそもそも論が必要だ」 「デモクラシー」はいつから肯定的になったのか、「執行権を民主的にどう統制できるか」 立憲主義だけでは日本政治はよくならない) 東洋経済オンライン 斎藤 哲也 「宇野重規「民主主義にはそもそも論が必要だ」 「デモクラシー」はいつから肯定的になったのか」 私が「デモクラシー」という言葉を使わない理由 民主主義を楽観視できない時代に入った やはり学者といえども政治学の世界では、事態の変化により考え方も変わるようだ 日本の意思決定層ですら抱く民主主義への疑問 「原則論に立ち戻ろう」、こういう時には大切なことだ。 プラトン・バイアスで古代ギリシャを見てはいけない 「全盛期を過ぎたとされている時代でも、アテネの民主主義はしぶとく持ち直している」、と通説は必ずしも正しくないようだ 民主主義が肯定されたのはごく最近のこと 「デモクラシーをいい意味で使い始めたのはずっと後のことで、1830年代のトクヴィルあたりから」 「アメリカは、2つの世界大戦に参加するにあたって、デモクラシーという大義を掲げました。とくに第2次世界大戦では、民主主義対全体主義という大プロパガンダをおこない勝利したので、民主主義はすばらしいという世界的なコンセンサスができあがった」、こうした歴史の流れのなかで「民主主義」を捉える意味は大きそうだ 「宇野重規「執行権を民主的にどう統制できるか」 立憲主義だけでは日本政治はよくならない」 民主主義と立憲主義の緊張関係 「民主主義に外から枠をはめるという発想だけでは限界がある。より重要なのは、民主主義自体をバージョンアップさせて、状況を変えることじゃないかと思うんです」、その通りだ まっとうな民主主義とは? 「全人民の1つの共通の意志を体現するような正しい一般法をつくれば、世の中は自動的にうまくいくだろうと。これがルソーの発想であり、それをどの国よりも真に受けたのがフランスなんです。 でも、その結果といえば、せっかく革命をしたのに、ナポレオンのようなカリスマ的な指導者が人民の声を体現しているとの名の下、何度も出てくる」 「近現代を通じて、執行権の力は拡大する一方で、現在は「民主主義の大統領化」が進んでいるといいます。 アメリカのトランプ前大統領はその典型だし、日本を見てもそうでしょう」、確かにその通りだ。 どのようにブレーキをかければいいか 「執行権を民主的にチェックし、直接的に統制する仕組みをつくる。それが現在の民主主義をバージョンアップさせるうえで、死活的に重要な課題だと思います」、「若く意欲的な官僚が逃げ出しつつあるのは大きな問題です。だから私はむしろ、官僚を正当に評価するほうがいい」、同感である 現代の官僚は萎縮しすぎている 「今の日本の政治はそれと逆行していて、データが出てきません。公文書でさえ隠す始末です。「なぜそういう決定をしたんだ」と後から文句を言われるのが嫌だから、隠れたところで決めてしまいたい。そのような意図ばかりが透けて見える。これは民主主義の真逆をいく行為です」、その通りだ 国民にもっとデータを! 説得力溢れた主張で、全面的に同意する
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