歴史問題(その15)(英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…、「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか、「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか) [政治]
歴史問題については、3月7日に取上げた。今日は、(その15)(英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…、「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか、「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか)である。
先ずは、5月8日付け東洋経済オンラインが掲載した国際ジャーナリスト(フランス在住)の安部 雅延氏による「英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/426180
・『最近のフランス国内のいくつかの世論調査によると、「フランスの歴史上最も誇れる英雄」のトップはジャンヌ・ダルクでも、ドゴール将軍でもなく、ナポレオン・ボナパルト(1世)だという。今年はセントヘレナ島に幽閉され、1821年5月5日に51歳で他界してから200年になる。そのため、フランス各地でイベントが企画されている。 ナポレオンは君主制を打倒した大革命後に登場した皇帝だ。イギリスやオーストリア、ロシアなど君主制の国が自分の地位を危ぶみ、フランス封じ込めに動く中、それらの国々を跳ね除け、近代戦争の軍隊の礎を築いた人物として知られる。生涯戦績は38戦35勝と圧倒的な強さだ。 ナポレオンの近代的戦術は今も世界各地の士官学校の教材となっており、特に敵の動き始めた「動的」状態に勝機を見出す戦術は有名だ。戦争だけでなく、世界のビジネススクールでも、机上の戦略ではなく、物事を進行させながら機会を捉える戦い方が、競争の激化するビジネス界で有効だという理由で教えられている。 戦争以外でのナポレオンの最大の功績は、革命が目指した理念を法的に体系化したフランス民法法典(ナポレオン法典)を書いたことにある。ナポレオンは、ただ権力を振るう皇帝ではなかった。ナポレオン法典は過去の封建制を終わらせ、自由、平等、人権を尊重するフランスを築く基礎になっただけでなく、日本を含め、世界各地の近代市民社会の法の規範ともなり、フランス人が自画自賛するゆえんとなっている』、「ナポレオンの近代的戦術は今も世界各地の士官学校の教材となっており」、「ナポレオン法典は・・・日本を含め、世界各地の近代市民社会の法の規範ともなり」、確かに功績は偉大だ。
・『活発化する「キャンセルカルチャー」 ところが、フランスでは現在、ナポレオン没後200年を手放しで祝えない雰囲気が漂っている。 欧米ではこの1年間、奴隷制に関与しながら英雄視される歴史上の人物の像を破壊する運動が繰り返された。いわゆるキャンセルカルチャー(本来はコールアウト・カルチャー)の運動が活発化し、21世紀の価値観に沿わない主張をしたり、行動したりした人物を英雄の座から引きずり下ろす運動が繰り返されている。 実はナポレオンもその運動のやり玉にあげられているのだ。ナポレオンは奴隷制を復活させて有色人種を隷属させ、女性の社会的地位を男性の下に位置付けたためだ。その2つがある限り、英雄としての資格はないという主張がキャンセルカルチャーの運動をする人々からなされ、フランス国民や政府を困惑させている。 アメリカでは2013年に黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴えるブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が起こった。 昨年夏、黒人のジョージ・フロイドさんが警官の暴力で死亡したとされる事件で運動はさらに拡散。南北戦争で奴隷制存続を指示した南軍に関係する像など記念碑の破壊や撤去が急増した。イギリスで、17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの銅像がデモ隊によって破壊されるなど、ヨーロッパにも波及している。 これら人種差別を批判する潮流とともに、差別者の認定を受けた人物がSNS上などで徹底的に批判され、辱められるキャンセルカルチャーも横行している。日本でも性的マイノリティー(LGBT)への差別(それ自体は不当)に敏感となり、差別者へのバッシングは厳しさを増している。 イギリスでは海に放り込まれたコルストンの銅像を博物館に陳列し、いいことと悪いことの正確な史実の説明を加える方針を打ち出した。なぜなら、英国近代史の最高の英雄ウィンストン・チャーチルもアジア人蔑視で知られ、過去の英雄を今の価値観に照らせば、問題のない英雄はいないという事情もある』、行き過ぎた「キャンセルカルチャーの運動」は考えものだ。歴史上の人物は生きていた時代の価値観で判断すべきだろう。
・『廃止していた奴隷制度を復活させたナポレオン フランスでは、革命後の1791年に植民地だった現在のハイチで黒人奴隷反乱が起き、国民公会は1794年に奴隷制度を廃止した。ところが権力を掌握したナポレオン1世は、1802年に奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした。その後、ハイチは1804年に独立し、奴隷制度が廃止されたのは1848年の2月革命で樹立された共和制政府によってだった。 奴隷制の残酷さは日本ではあまり知られていないが、奴隷商人によって家族はバラバラに売買され、人間として扱われなかった。今でもその扱いを受けた先祖を持つ人々の恨みは消えていない。 3月18日付のニューヨーク・タイムズはハイチ出身の黒人女性の研究者、マルリーン・ダート教授の寄稿を掲載し、「フランス人はナポレオンが行った奴隷制復活の暴挙を知りながら、まるで何事もなかったかのように、その歴史的罪を論じようとしない」という批判の記事を掲載した。 彼女の批判は、ナポレオンだけでなく彼の政策を支持したフランス国民やフランス軍にも向けられ、「恥ずべき歴史と向き合おうとしていない」「BLM運動の潮流を無視して、ナポレオン没後200年を祝おうとしている」と批判し、キャンセルカルチャーにも影響を与えている。 無論、フランスでも議論がないわけではない。パリ北東部、ラ・ヴィレット公園内にある「グラン・アール・ドゥ・ラ・ヴィレット」で大規模な「ナポレオン展」が本来は4月14日から開催予定だったが、コロナ禍のロックダウンで延期されている。このイベントの企画段階で、歴史学者から、ナポレオンの失政部分を隠蔽すべきではないという指摘があった。 奴隷制復活だけでなく、女性の社会的地位を男性の下に位置付けたことへの批判も根強い。 ナポレオンが定めた民法では、妻と子供に対する家長の権力は絶対的であり、妻は夫に従わなければならないと定められている。さらに1810年のナポレオン民法の下では、夫が自宅で妻の不貞行為に遭遇した場合、妻を殺害したとしても罪に問われないと定められていた。 ナポレオン自身、生涯に2度結婚したが、そのほかに少なくとも3人以上の愛人がいたとされる。男性中心社会であったことは確かで、そもそも革命後の「人権宣言」には女性の権利が含まれていなかった。ナポレオンの民法が原因かどうかはわからないが、婦人参政権法案が採択されたのは1945年4月と欧米主要国の中では最も遅かった。 自由、平等、友愛をうたう大革命で、女性はほとんどの政策意思決定に関わっていなかった。カトリックの教えでは家父長制度が当然とされ、女性聖職者は今でも認められていない。フランスの歴史に深く関わってきたとされるフリーメイソンも男性の秘密結社だ。筆者のフリーメイソンの友人は「女性は政治に向いていない」と言い切っている』、「奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした」のは、やはり問題だ。「フリーメイソン」を生んだ社会なので、「女性」の社会進出は遅れたようだ。
・『当時の社会慣習からすれば当然といえるものナ ポレオンの定めた民法での妻の夫への絶対従属は、イスラム教の教えにも似ているが、当時の社会慣習からすれば、当然ともいえるものだった。 ナポレオン民法は当時、女性の従属的地位を決定的なものにした。そこから女性が社会的、政治的に平等な地位が与えられるまでに100年以上の年を要した。 1970年代以降、フランスでのフェミニズム運動が世界的に知られるようになった背景に、ナポレオンの存在があると主張するフェミニズム活動家は少なくない。フェニミズム運動家もまた、ナポレオンを称賛することを認めない勢力として、没後200年のイベントに注文をつけている。 しかし、フランスはヒステリックなキャンセルカルチャーに加わるつもりはないようだ。 そもそもフランスでは、政治指導者に聖人君子的なものは求めていない。実際、ミッテラン大統領以降の歴代大統領の浮気、離婚、隠し子は政治生命には影響していない。マクロン現大統領を支持するフランス国民の多くは若きエリートで、高校時代に女性教師と不倫して25歳年上の女性を妻にしたことを今風と好感する国民だ。 戦中戦後のリーダーだったドゴールのように「支持率が50%を切ったら大統領をやめる」と言った誠実でモラルの高い政治家を尊敬する側面もあるが、政治権力者が市民と同じように権力や金に執着し、男女の色恋に弱い(セクハラは別だが)のは、庶民に近くていいという感覚もある』、「マクロン現大統領を支持するフランス国民の多くは若きエリートで、高校時代に女性教師と不倫して25歳年上の女性を妻にしたことを今風と好感する国民だ」、さすが「フランス」らしい。
・『ノブレスオブリージュの精神が失われている マクロン大統領は、戦後創設された上級公務員や政治家を養成する国立行政学院(ENA)を廃校にし、さらにはほかのエリート養成のグランゼコールの改革に取り組もうとしている。理由は市民離れした特権階級化を防ぐためだが、一般国民は大した変革はできないと冷ややかだ。 グランゼコールの中には理工系のエコール・ポリテクニークがある。同校は革命後に設立され、ナポレオン1世が軍学校にしたエリート養成校だ。だから今まで毎年、革命記念日に同校の学生が軍服をまとい、パリのシャンゼリゼ通りを行進してきた。 ENA廃校によるエリート教育のリセットには、ナポレオン時代から指導者教育で強調されたノブレスオブリージュ(高貴の義務)、すなわち権力者は私欲を排して公的に尽くす義務があるという精神が失われたこともある。いわゆる指導者のコンプライアンス問題だ。 その典型がポリテクニークの卒業生で、背任罪や私的資金乱用罪で起訴された日産自動車の元会長のカルロス・ゴーン被告だ。 ナポレオンは確かに奴隷制を復活させ、女性の地位を決定づけたという意味で、今の価値観では認められないかもしれない。しかし、ヨーロッパの近代市民社会の確立に貢献し、ヨーロッパに範を求めた明治・大正時代の日本の近代化にも大きな影響を与えたことは否定できない。 200年以上前の時代状況を今日に当てはめれば、英雄の価値は減ってしまうのだろう。ただナポレオンは今のビジネスにも通じるリーダーシップや戦略戦術の面で残した功績も大きい。国の方向性を決定づけ、ヨーロッパを変えてしまうほどのスケールの大きな指導者だったことの評価は、これからも変わらないだろう』、「ヨーロッパの近代市民社会の確立に貢献し、ヨーロッパに範を求めた明治・大正時代の日本の近代化にも大きな影響を与えた」、やはり偉大な人物であることは確かだ。
次に、8月16日付け東洋経済オンラインが掲載した元伊藤忠社長、元中国大使で日本中国友好協会会長の丹羽 宇一郎氏による「「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/444666
・『8月15日は終戦の日。あの夏から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の犠牲をけっして記憶から消してはならない。「戦争に近づかないために、日本人は、76年前に終わった日本の戦争について学び直すべきである」と訴え続ける、『戦争の大問題』の著者で、日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏が、二度と戦争をしないために心にとどめておくべきことを訴える』、興味深そうだ。
・『なぜ負けが明白な戦争をやめられなかったのか 昭和の大戦の犠牲者は310万人とも350万人ともいわれる。そのほとんどが戦争末期の1年間に集中している。いったい終戦の1年前には何があったのか。 戦時の日本は「絶対国防圏」という最終防衛ラインを定めていた。太平洋方面における絶対国防圏はマリアナ諸島である。マリアナ諸島を取られると、日本本土全体が米軍機によって空襲可能となるからだ。 事実、東京大空襲ほか主要都市の大空襲、広島、長崎の原爆投下はマリアナ諸島のサイパン、テニアンから飛び立った爆撃機によるものである。そのマリアナ諸島を終戦のほぼ1年前、1944年6月の「マリアナ沖海戦」で失った。この戦闘によって日本海軍は壊滅的な損害を受け、対米戦の敗北が決定的となった。知らぬが仏というが、知らない仏はいなかった。軍人と役人は仏の顔をしながら、その実、鬼だったのだ。 拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。 「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」(『戦争の大問題』 戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。 沖縄では実に県民の4人に1人が犠牲となり、広島では14万人が、長崎では7万5000人が原爆の犠牲となり、東京では10万人、その他の都市の空襲犠牲者を合わせると50万人を超える。この間、多くの兵隊も南方戦線で、中国・アジアで、補給を絶たれ降伏することも許されず病気や飢えによって命を失った。フィリピンのミンダナオ島に軍曹として派遣された谷口末廣さんはこう語っていた。
「最初は(倒れた戦友を)連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の体力とするのが戦友愛と変わってくる。死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を貰ったとか、みんな知っている」(『戦争の大問題』)) 戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある』、「戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ」、「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」、その通りだ。
・『最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ 大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい何だったのだろうか。 私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株価が下がれば株主から批判される。ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方から責任を追及される。 手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。 戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。 いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。 これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。私は実現困難と判断したが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。ただし「他人に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらその責任を取らせるという意味である。 事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取らない。そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に実行しようとする。これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所在があいまいなのである。 戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。 「昭和18年8月26日(木)米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」 「昭和20年2月19日(月)?山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」(いずれも『暗黒日記』) 清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。 責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。 そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。 戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない』、「みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。 戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ」、「責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。 そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった」、何事も曖昧なまま済まそうとする日本的やり方の典型だ。
・『負けると知りながら必勝を叫ぶ無責任 実際に戦場に立った人たちも、なぜあの戦争をやめられなかったのかと問う人は多かった。シベリア抑留を経験した與田純次さんもこう語っていた。 「満州(満州国、1932年満州事変によって建国された中国東北部にあった日本の植民地、1945年日本の敗戦と共に消滅)でやめておけばよかったのだ」(『戦争の大問題』) できることなら「満州も」やめておけばよかった。しかし満州事変に国民は大喝采を送った。 「満州事変では関東軍の暴走、朝鮮軍の独断越境(満州の応援に国境を越えて派遣)に、責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」(『戦争の大問題』) 結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。では、結果がついてこないときはどうするのか。結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。 だが、日本人は結果に対する査定もあいまいだ。国民の大喝采を浴びて建国された満州国だが、結果的には最後まで経済的にお荷物だったし、国際政治上でも益するところがなかった。 戦前でも、石橋湛山などは「日本が国際社会で立ち行くためには、政治的のみならず経済的にも、満州を放棄するほうがむしろ有利である」と主張していた。 だが形だけのものでも、一度手にしたら放棄するのは難しい。当時の指導者も国民も、ここまでやって手放すのは惜しい、ここまで来ていまさらやめられないという気持ちだったに違いない。権限と決定のあいまいさと、いまさらやめられないは、日本人の悪しき習性であり、今回の東京2020オリンピックや新型コロナ対策でもさまざまな形で影を落とした。 いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。 「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」(『戦争の大問題』) この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていたのである。 市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。 「昭和19年9月12日(火)いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」(『暗黒日記』) 東條首相は開戦時の演説「大詔を拝し奉りて」で、「およそ勝利の要訣(ようけつ)は必勝の信念を堅持することであります」と強く国民に訴えた。科学的な検証に目を背け、神風頼みで勝利のみ信じよと国民に迫るのは、とても責任あるトップの言動ではない。国民には仏のような顔を見せていた軍人、役人だが、『暗黒日記』では文字どおり暗闇の中でうごめく鬼と、その正体が暴かれている』、「満州事変では・・・責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」、マスコミの罪深さを示している。
・『いまわれわれに問われるもの 皇室と日本を深く敬愛した清沢だが、国民に対しては期待と失望が織り交ざっていた。 「昭和18年7月15日(木)僕はかつて田中義一内閣のときに、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって国民の目が覚めたと考えたからである。しかし国民は左様に反省的なものでないことを知った。彼らは無知にして因果関係を知らぬからである。今回も国民が反省するだろうと考えるのは、歴史的暗愚を知らぬものである」(『暗黒日記』)と手厳しく国民の未熟さを指摘するときもあれば、次のように将来の期待を示すこともあった。 「昭和20年1月25日(木)日本人は、いって聞かせさえすれば分かる国民ではないのだろうか。正しいほうに自然につく素質を持っているのではなかろうか。正しいほうにおもむくことの恐さから、官僚は耳をふさぐことばかり考えているのではなかろうか。したがって言論自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来たるべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ」(『暗黒日記』) われわれはこの清沢の期待に応えたい。しかし彼の指摘するわれわれの愚かさのほうが正鵠を射ているように思える。清沢は76年前に今日のわれわれのことを見通していたかのようだ。 いまだに愚かさの先行するわれわれは、努めて自らの行動を慎まねばならない。われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない。 2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ』、「われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない」、深い反省の気持ちを持ち続ける「丹羽 氏」のような考え方が多数派になってほしいものだ。
第三に、8月15日付けPRESIDENT Onlineが掲載したノンフィクション作家の保阪 正康氏による「「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/48731
・『ジャーナリスト・評論家の立花隆さんは「戦争」をどう捉えていたのか。このほど大江健三郎さんとの対話と長崎大学での講演を収録した『立花隆 最後に語り伝えたいこと』が発売された。同書に収録されているノンフィクション作家・保阪正康さんの解説を一部紹介しよう――。※本稿は、立花隆『立花隆 最後に語り伝えたいこと』(中央公論新社)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『戦後民主主義教育を受けた「第1期生」としての責務 私と立花は6カ月ほど私が早くに生まれているために、小学校教育は1年私が早かった。私は昭和21(1946)年4月に国民学校に入学した。この年はまだ国民学校と言っていたのである。北海道の人口2万人余の町の小学校であったが、まだ教育制度も、教育環境も、昭和20年4月の頃と変わりなく、変わったのは教育内容であった。いわゆる戦後民主主義教育の始まりであった。 私たちは、ミンシュシュギという語を最初に習った。昭和21年はまだカタカナから学んだのである。立花は翌22年に小学校に入学したことになる。この年4月から教育制度は改まり、名称も小学校となり、すべての教科書も揃うようになった。新制度下の第1期生といえば、やはり立花の世代になるのであろう。すでに彼も書き、話している通りだが、しかし私の年代は実質的な第1期生というのは我々の年代だと自負している。戦争が終わったとはいえ、制度のもとでの第1期生と教育内容の新しい理念のもとでの第1期生、1年違いとはいえ、私と立花との年代の差にはそのズレが示されている。そのズレをただすのが戦争教育への徹底した批判だった。それは三つの歴史的意味をもっているはずであった。 一、我々の年代が「戦争」の批判を行い、その誤りを継承するのは歴史的責務である 二、あの戦争を選択した責任と批判は明確な論理と具体的事実で指摘するべきである 三、日本社会から戦争体験者が全くいなくなったときに、日本人は戦争否定の論理は確立しえているだろうか』、第三の点ははなはだ心もとない印象だ。
・『札幌で開かれたシンポジウムでの示唆に富む話 立花の戦争批判、そして日本社会の将来についての論点と分析もこのような視点に基づいていると私が理解したのは平成21(2009)年であった。私の出身地・札幌でシンポジウムが開かれることになり、私が人選などを担当し、北海道から近現代史の視点を全国に発信しようということになった。私は半藤一利と立花に連絡を取り、出席をお願いした。2人とも快く応じてくれた。そのシンポジウムで、立花は私の決めたテーマに合わせてくれたのか、日本の将来に極めて示唆に富む話を感情をこめて説いた。 私と半藤はいかに昭和史の教訓を次代に語っていくべきか、そういう話であった。ちょうどその頃は3人とも大学に講座を持っていたのだが、私と半藤はその体験を通じてどういうことをどのようにして語り継いでいくべきか、そういう話になった。3人がそれぞれ30分ずつ講演を行い、そのあと休憩を挟んで1時間半ほどシンポジウムを続けるというのが、約束であった。立花は話し出すと、特に興がのると時間を忘れてしまうので、私と半藤はそれぞれ20分話すことにして、2人の削った時間の20分を立花に回すと決めた。50分あれば、彼の講演も終わるだろうと予測したのであった。しかし立花は話をすべて伝えたかったのか、50分ほど過ぎても終わらない。結局1時間を過ぎても終わらなかった』、「立花」氏のような大物を入れた「シンポジウム」では、確かに時間配分が難しくなるのは避けられないようだ。
・『「精神力」を頼りに戦争に入っていった日本 その時の話を、私はよくおぼえている。それほど衝撃的、かつ刺激的な内容だったのである。立花は時に苛立ちを露骨に表しながら話し続けた。聴衆も特に騒ぎ立てるわけではなく耳を傾けていた。それだけ立花の話は関心が持たれたのであった。私は立花が近現代史の研究者やジャーナリストなどとは一味違うな、と思ったのもこの時であったが、彼は戦争はなぜ起こったのか、どういうシミュレーションの元での判断だったのか、彼我の戦力比をどう考えるか、という点にポイントを絞って論じた。 対アメリカとの戦力をどう比較したのか、そこを問題にしたのである。すべての数字は戦争の結果について「勝利」などはあり得ない、というのが結論のはずなのに、それでも戦うというのはどういうことなのか。そのことをこの時は説いたわけではないのだが、立花が問題にしたのは以下のようなことだった。軍事が行うシミュレーションの折に、敵と味方が衝突したら、その勝敗についていくつかのパラメーター(変数、測定値)にいろいろ数字を入れていく。客観的な数字を入れるだけでは、日本に勝ち目はない。ところがもっとも楽観的な数字を入れると、それでも敗北と出るが、しかし僅差で敗れるとなる。そこで軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。そして戦争に入っていったということになる』、「軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。そして戦争に入っていった」、事実であれば、お粗末だ。
・『歴史を語り継ぐ姿勢が余人とは違う 立花の講演はこのことが本題ではなかったので、このからくりが日本人の欠陥であるというような例のひとつに挙げたに過ぎなかった。しかし私はこの説明を聞いて、立花の歴史を語り継ぐ姿勢の本質がわかった。というよりこの人はやはり余人と違うという実感であった。私は日本の軍事指導者の最大の欠点は、「主観的願望を客観的事実にすり替える」という点にあると考えてきた。そういう例にまさに符節すると思った。立花のこういう指摘は、実は無意識のうちに「ある立場(日本的指導者というべき)」に立つ人の思考方法そのものだとも気がついたのである。そのことを語っておかなければならない。そこに民主主義教育を受けた世代が自立していった姿がある。私はそのことに感銘を受けたのである』、なるほど。
・『戦争体験を自らの身体から離して客体化する「三次的継承」 一般的には、戦争体験を語るには自らの身体的、社会的体験を語るのが普通であり、そのことによって「体験の継承」という言い方で括られていく。あえていえば「一次的継承」という表現で語ってもいいかもしれない。俗に言う継承はこのような理解であろう。さてこれとは別に他者の体験を聞き取り、それを語り継ぐ「二次的継承」という手法がある。むろんこれは私なりの用い方であり、すべてをうまく捉えているとは思わないが、こうした分け方をしていかないと歴史の継承という意味は散漫になってしまう。 そのほかに「三次的継承」があると考えてきた。それは体験の教訓化、あるいは継承の社会化ともいうべき内容である。戦争体験を自らの身体から離して客体化するのである。一次的継承を感性という語で語るなら、三次的継承は知性とか理性ということになろうか。付け加えておくが、戦争体験はないが、体験を聞く、読むなどで確かめ、それを語り継ぐ前述の二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまうことになる』、「二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまう」、というのは確かだ。
・『「三次的継承」から「一次的継承」に目を移すプロセス 私が、昭和史や太平洋戦争を語り継ごうと志しているのは、「一次的継承」「二次的継承」から「三次的継承」までを踏まえてと考えているのだが、どうしても一次的継承、二次的継承が軸になり、三次的継承は主ではなく、従という姿勢になってしまう。私の見る限りほとんどは一次的継承を語り、その結論として「戦争は嫌です」「こんな非人間的所業はありません」と結論づける。その方程式のような問答がこの国の平常の姿である。立花はそうではなく、三次的継承を初めに持ってきて、それを説く。そして一次的継承に目を移す。私などとは異なってかなり知性的、理性的なプロセスを辿っている。 立花は、自らの戦争体験を土台に据えるにせよそこから人類の、あるいは地球規模の、そしてとうとう科学によって身を滅ぼすような兵器を作り上げてしまった我々の時代が、どのように変転するのかに、知的に興味を持っている。その関心は自らの体験の一部が拡大していった末に辿り着いたのである。一般には感性から知性へ、と移行するが、立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている』、「立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている」、さすが「立花」氏だ。
・『「歴史のなかで何を自らに問うて生きるのか」 立花は、体験の継承を「三次的継承」から説く。なぜだろうか。開戦前の彼我の戦力比に大きな違いがあるのに、なぜ戦争を選んだのかとの問いは、普通には継承のレベルでは初めに来ることではない。しかし立花は自らも戦後民主主義の第1期ともいうべき世代だと簡単に言った後に知性で説くのだ。本書の長崎大学での講演(2015年1月17日)は、私たちとの札幌でのシンポジウムから5年余後になるが、読んでいて立花の体験継承を土台に据えての知性の分析による覚悟が感じられて、私は立花の心中に「人生の段階(生きるステージ)」が上がってきているのだな、と受け止めた。私が猫ビルで4時間ほど対話した頃になるだろうか、立花の中に、「若い世代」に語り継ぐという姿勢が生まれているということであった。それは何も若い世代と接するという意味ではなく、君たちは何を参考に生きるのか、歴史のなかで何を自らに問うて生きるのかを、自分に問え、その時の参考の一助にと私は語っているんだ、私だってそう問うてきたんだ、という感情の迸ほとばしりが感じられる』、なるほど。
・『知性が放射線状に広がっていった この講演には立花が、思考を深めることになる歴史のキーワードがさりげなくある。少々引用すると、「僕は一〇〇%戦後民主主義世代なんです」「僕たちは戦前と戦後の時代の断絶を感じながら生きてきました」「あの戦争のあの原爆体験というものは、本当にすべての人が記憶すべき対象です」「戦争が終わったときにどん底で、僕はそのときに五歳ですから、毎日食うものもなくて、本当に大変だったんです」などから立花の知性は、放射線状に広がっていった。 さらに一次的継承の試みというべきだが、立花は大胆な方法も考えている。2010年6月に立教大学の立花ゼミで、主にゼミ生を相手に母親の龍子、兄の弘道、妹の菊入直代、そして立花の4人で、「敗戦・私たちはこうして中国を脱出した」というタイトルで終戦時の体験を語っている。札幌での私たちの「戦争体験を次代にどう語り継ぐか」の実践でもあったのだろう』、「戦争体験を次代にどう語り継ぐか」は実に難しい課題だ。
・『この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるのではないか これが長崎大学への講演につながっていったように、私には思われる。私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならないのである。 立花の言動は一次的継承を語ることで、歴史の継承が戦争体験者が一人もいなくなった時代に知性だけで語ることによる歪みを正そうとしたのかもしれない。彼自身があの戦争の愚かしさと一線を引いていた世代の感性と知性の両輪を信頼し、それを歴史に刻もうとしていたのかもしれない。 私は立花よりも、その一族と会い、知性の刺激を受けてきた。立花との対話を思い出すと会った回数は少ないにせよ、3時間も4時間もの対話を交わしていた時に彼のイントネーションに、あれは水戸の訛りだろうか、あるいは長崎のなごりだろうか、と窺える時があった。私にも北海道のイントネーションがあっただろう。がん患者の体験を持つ私たちは、死について生育地の訛りを交えて驚くほど淡々と向き合っていることを確認した。同年代のトップランクの頭脳と会話しているな、との思い出が懐かしい』、「私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならない」、困った「習性」だが、私も同感である。
先ずは、5月8日付け東洋経済オンラインが掲載した国際ジャーナリスト(フランス在住)の安部 雅延氏による「英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/426180
・『最近のフランス国内のいくつかの世論調査によると、「フランスの歴史上最も誇れる英雄」のトップはジャンヌ・ダルクでも、ドゴール将軍でもなく、ナポレオン・ボナパルト(1世)だという。今年はセントヘレナ島に幽閉され、1821年5月5日に51歳で他界してから200年になる。そのため、フランス各地でイベントが企画されている。 ナポレオンは君主制を打倒した大革命後に登場した皇帝だ。イギリスやオーストリア、ロシアなど君主制の国が自分の地位を危ぶみ、フランス封じ込めに動く中、それらの国々を跳ね除け、近代戦争の軍隊の礎を築いた人物として知られる。生涯戦績は38戦35勝と圧倒的な強さだ。 ナポレオンの近代的戦術は今も世界各地の士官学校の教材となっており、特に敵の動き始めた「動的」状態に勝機を見出す戦術は有名だ。戦争だけでなく、世界のビジネススクールでも、机上の戦略ではなく、物事を進行させながら機会を捉える戦い方が、競争の激化するビジネス界で有効だという理由で教えられている。 戦争以外でのナポレオンの最大の功績は、革命が目指した理念を法的に体系化したフランス民法法典(ナポレオン法典)を書いたことにある。ナポレオンは、ただ権力を振るう皇帝ではなかった。ナポレオン法典は過去の封建制を終わらせ、自由、平等、人権を尊重するフランスを築く基礎になっただけでなく、日本を含め、世界各地の近代市民社会の法の規範ともなり、フランス人が自画自賛するゆえんとなっている』、「ナポレオンの近代的戦術は今も世界各地の士官学校の教材となっており」、「ナポレオン法典は・・・日本を含め、世界各地の近代市民社会の法の規範ともなり」、確かに功績は偉大だ。
・『活発化する「キャンセルカルチャー」 ところが、フランスでは現在、ナポレオン没後200年を手放しで祝えない雰囲気が漂っている。 欧米ではこの1年間、奴隷制に関与しながら英雄視される歴史上の人物の像を破壊する運動が繰り返された。いわゆるキャンセルカルチャー(本来はコールアウト・カルチャー)の運動が活発化し、21世紀の価値観に沿わない主張をしたり、行動したりした人物を英雄の座から引きずり下ろす運動が繰り返されている。 実はナポレオンもその運動のやり玉にあげられているのだ。ナポレオンは奴隷制を復活させて有色人種を隷属させ、女性の社会的地位を男性の下に位置付けたためだ。その2つがある限り、英雄としての資格はないという主張がキャンセルカルチャーの運動をする人々からなされ、フランス国民や政府を困惑させている。 アメリカでは2013年に黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴えるブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が起こった。 昨年夏、黒人のジョージ・フロイドさんが警官の暴力で死亡したとされる事件で運動はさらに拡散。南北戦争で奴隷制存続を指示した南軍に関係する像など記念碑の破壊や撤去が急増した。イギリスで、17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの銅像がデモ隊によって破壊されるなど、ヨーロッパにも波及している。 これら人種差別を批判する潮流とともに、差別者の認定を受けた人物がSNS上などで徹底的に批判され、辱められるキャンセルカルチャーも横行している。日本でも性的マイノリティー(LGBT)への差別(それ自体は不当)に敏感となり、差別者へのバッシングは厳しさを増している。 イギリスでは海に放り込まれたコルストンの銅像を博物館に陳列し、いいことと悪いことの正確な史実の説明を加える方針を打ち出した。なぜなら、英国近代史の最高の英雄ウィンストン・チャーチルもアジア人蔑視で知られ、過去の英雄を今の価値観に照らせば、問題のない英雄はいないという事情もある』、行き過ぎた「キャンセルカルチャーの運動」は考えものだ。歴史上の人物は生きていた時代の価値観で判断すべきだろう。
・『廃止していた奴隷制度を復活させたナポレオン フランスでは、革命後の1791年に植民地だった現在のハイチで黒人奴隷反乱が起き、国民公会は1794年に奴隷制度を廃止した。ところが権力を掌握したナポレオン1世は、1802年に奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした。その後、ハイチは1804年に独立し、奴隷制度が廃止されたのは1848年の2月革命で樹立された共和制政府によってだった。 奴隷制の残酷さは日本ではあまり知られていないが、奴隷商人によって家族はバラバラに売買され、人間として扱われなかった。今でもその扱いを受けた先祖を持つ人々の恨みは消えていない。 3月18日付のニューヨーク・タイムズはハイチ出身の黒人女性の研究者、マルリーン・ダート教授の寄稿を掲載し、「フランス人はナポレオンが行った奴隷制復活の暴挙を知りながら、まるで何事もなかったかのように、その歴史的罪を論じようとしない」という批判の記事を掲載した。 彼女の批判は、ナポレオンだけでなく彼の政策を支持したフランス国民やフランス軍にも向けられ、「恥ずべき歴史と向き合おうとしていない」「BLM運動の潮流を無視して、ナポレオン没後200年を祝おうとしている」と批判し、キャンセルカルチャーにも影響を与えている。 無論、フランスでも議論がないわけではない。パリ北東部、ラ・ヴィレット公園内にある「グラン・アール・ドゥ・ラ・ヴィレット」で大規模な「ナポレオン展」が本来は4月14日から開催予定だったが、コロナ禍のロックダウンで延期されている。このイベントの企画段階で、歴史学者から、ナポレオンの失政部分を隠蔽すべきではないという指摘があった。 奴隷制復活だけでなく、女性の社会的地位を男性の下に位置付けたことへの批判も根強い。 ナポレオンが定めた民法では、妻と子供に対する家長の権力は絶対的であり、妻は夫に従わなければならないと定められている。さらに1810年のナポレオン民法の下では、夫が自宅で妻の不貞行為に遭遇した場合、妻を殺害したとしても罪に問われないと定められていた。 ナポレオン自身、生涯に2度結婚したが、そのほかに少なくとも3人以上の愛人がいたとされる。男性中心社会であったことは確かで、そもそも革命後の「人権宣言」には女性の権利が含まれていなかった。ナポレオンの民法が原因かどうかはわからないが、婦人参政権法案が採択されたのは1945年4月と欧米主要国の中では最も遅かった。 自由、平等、友愛をうたう大革命で、女性はほとんどの政策意思決定に関わっていなかった。カトリックの教えでは家父長制度が当然とされ、女性聖職者は今でも認められていない。フランスの歴史に深く関わってきたとされるフリーメイソンも男性の秘密結社だ。筆者のフリーメイソンの友人は「女性は政治に向いていない」と言い切っている』、「奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした」のは、やはり問題だ。「フリーメイソン」を生んだ社会なので、「女性」の社会進出は遅れたようだ。
・『当時の社会慣習からすれば当然といえるものナ ポレオンの定めた民法での妻の夫への絶対従属は、イスラム教の教えにも似ているが、当時の社会慣習からすれば、当然ともいえるものだった。 ナポレオン民法は当時、女性の従属的地位を決定的なものにした。そこから女性が社会的、政治的に平等な地位が与えられるまでに100年以上の年を要した。 1970年代以降、フランスでのフェミニズム運動が世界的に知られるようになった背景に、ナポレオンの存在があると主張するフェミニズム活動家は少なくない。フェニミズム運動家もまた、ナポレオンを称賛することを認めない勢力として、没後200年のイベントに注文をつけている。 しかし、フランスはヒステリックなキャンセルカルチャーに加わるつもりはないようだ。 そもそもフランスでは、政治指導者に聖人君子的なものは求めていない。実際、ミッテラン大統領以降の歴代大統領の浮気、離婚、隠し子は政治生命には影響していない。マクロン現大統領を支持するフランス国民の多くは若きエリートで、高校時代に女性教師と不倫して25歳年上の女性を妻にしたことを今風と好感する国民だ。 戦中戦後のリーダーだったドゴールのように「支持率が50%を切ったら大統領をやめる」と言った誠実でモラルの高い政治家を尊敬する側面もあるが、政治権力者が市民と同じように権力や金に執着し、男女の色恋に弱い(セクハラは別だが)のは、庶民に近くていいという感覚もある』、「マクロン現大統領を支持するフランス国民の多くは若きエリートで、高校時代に女性教師と不倫して25歳年上の女性を妻にしたことを今風と好感する国民だ」、さすが「フランス」らしい。
・『ノブレスオブリージュの精神が失われている マクロン大統領は、戦後創設された上級公務員や政治家を養成する国立行政学院(ENA)を廃校にし、さらにはほかのエリート養成のグランゼコールの改革に取り組もうとしている。理由は市民離れした特権階級化を防ぐためだが、一般国民は大した変革はできないと冷ややかだ。 グランゼコールの中には理工系のエコール・ポリテクニークがある。同校は革命後に設立され、ナポレオン1世が軍学校にしたエリート養成校だ。だから今まで毎年、革命記念日に同校の学生が軍服をまとい、パリのシャンゼリゼ通りを行進してきた。 ENA廃校によるエリート教育のリセットには、ナポレオン時代から指導者教育で強調されたノブレスオブリージュ(高貴の義務)、すなわち権力者は私欲を排して公的に尽くす義務があるという精神が失われたこともある。いわゆる指導者のコンプライアンス問題だ。 その典型がポリテクニークの卒業生で、背任罪や私的資金乱用罪で起訴された日産自動車の元会長のカルロス・ゴーン被告だ。 ナポレオンは確かに奴隷制を復活させ、女性の地位を決定づけたという意味で、今の価値観では認められないかもしれない。しかし、ヨーロッパの近代市民社会の確立に貢献し、ヨーロッパに範を求めた明治・大正時代の日本の近代化にも大きな影響を与えたことは否定できない。 200年以上前の時代状況を今日に当てはめれば、英雄の価値は減ってしまうのだろう。ただナポレオンは今のビジネスにも通じるリーダーシップや戦略戦術の面で残した功績も大きい。国の方向性を決定づけ、ヨーロッパを変えてしまうほどのスケールの大きな指導者だったことの評価は、これからも変わらないだろう』、「ヨーロッパの近代市民社会の確立に貢献し、ヨーロッパに範を求めた明治・大正時代の日本の近代化にも大きな影響を与えた」、やはり偉大な人物であることは確かだ。
次に、8月16日付け東洋経済オンラインが掲載した元伊藤忠社長、元中国大使で日本中国友好協会会長の丹羽 宇一郎氏による「「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/444666
・『8月15日は終戦の日。あの夏から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の犠牲をけっして記憶から消してはならない。「戦争に近づかないために、日本人は、76年前に終わった日本の戦争について学び直すべきである」と訴え続ける、『戦争の大問題』の著者で、日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏が、二度と戦争をしないために心にとどめておくべきことを訴える』、興味深そうだ。
・『なぜ負けが明白な戦争をやめられなかったのか 昭和の大戦の犠牲者は310万人とも350万人ともいわれる。そのほとんどが戦争末期の1年間に集中している。いったい終戦の1年前には何があったのか。 戦時の日本は「絶対国防圏」という最終防衛ラインを定めていた。太平洋方面における絶対国防圏はマリアナ諸島である。マリアナ諸島を取られると、日本本土全体が米軍機によって空襲可能となるからだ。 事実、東京大空襲ほか主要都市の大空襲、広島、長崎の原爆投下はマリアナ諸島のサイパン、テニアンから飛び立った爆撃機によるものである。そのマリアナ諸島を終戦のほぼ1年前、1944年6月の「マリアナ沖海戦」で失った。この戦闘によって日本海軍は壊滅的な損害を受け、対米戦の敗北が決定的となった。知らぬが仏というが、知らない仏はいなかった。軍人と役人は仏の顔をしながら、その実、鬼だったのだ。 拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。 「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」(『戦争の大問題』 戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。 沖縄では実に県民の4人に1人が犠牲となり、広島では14万人が、長崎では7万5000人が原爆の犠牲となり、東京では10万人、その他の都市の空襲犠牲者を合わせると50万人を超える。この間、多くの兵隊も南方戦線で、中国・アジアで、補給を絶たれ降伏することも許されず病気や飢えによって命を失った。フィリピンのミンダナオ島に軍曹として派遣された谷口末廣さんはこう語っていた。
「最初は(倒れた戦友を)連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の体力とするのが戦友愛と変わってくる。死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を貰ったとか、みんな知っている」(『戦争の大問題』)) 戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある』、「戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ」、「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」、その通りだ。
・『最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ 大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい何だったのだろうか。 私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株価が下がれば株主から批判される。ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方から責任を追及される。 手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。 戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。 いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。 これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。私は実現困難と判断したが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。ただし「他人に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらその責任を取らせるという意味である。 事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取らない。そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に実行しようとする。これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所在があいまいなのである。 戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。 「昭和18年8月26日(木)米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」 「昭和20年2月19日(月)?山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」(いずれも『暗黒日記』) 清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。 責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。 そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。 戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない』、「みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。 戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ」、「責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。 そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった」、何事も曖昧なまま済まそうとする日本的やり方の典型だ。
・『負けると知りながら必勝を叫ぶ無責任 実際に戦場に立った人たちも、なぜあの戦争をやめられなかったのかと問う人は多かった。シベリア抑留を経験した與田純次さんもこう語っていた。 「満州(満州国、1932年満州事変によって建国された中国東北部にあった日本の植民地、1945年日本の敗戦と共に消滅)でやめておけばよかったのだ」(『戦争の大問題』) できることなら「満州も」やめておけばよかった。しかし満州事変に国民は大喝采を送った。 「満州事変では関東軍の暴走、朝鮮軍の独断越境(満州の応援に国境を越えて派遣)に、責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」(『戦争の大問題』) 結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。では、結果がついてこないときはどうするのか。結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。 だが、日本人は結果に対する査定もあいまいだ。国民の大喝采を浴びて建国された満州国だが、結果的には最後まで経済的にお荷物だったし、国際政治上でも益するところがなかった。 戦前でも、石橋湛山などは「日本が国際社会で立ち行くためには、政治的のみならず経済的にも、満州を放棄するほうがむしろ有利である」と主張していた。 だが形だけのものでも、一度手にしたら放棄するのは難しい。当時の指導者も国民も、ここまでやって手放すのは惜しい、ここまで来ていまさらやめられないという気持ちだったに違いない。権限と決定のあいまいさと、いまさらやめられないは、日本人の悪しき習性であり、今回の東京2020オリンピックや新型コロナ対策でもさまざまな形で影を落とした。 いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。 「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」(『戦争の大問題』) この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていたのである。 市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。 「昭和19年9月12日(火)いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」(『暗黒日記』) 東條首相は開戦時の演説「大詔を拝し奉りて」で、「およそ勝利の要訣(ようけつ)は必勝の信念を堅持することであります」と強く国民に訴えた。科学的な検証に目を背け、神風頼みで勝利のみ信じよと国民に迫るのは、とても責任あるトップの言動ではない。国民には仏のような顔を見せていた軍人、役人だが、『暗黒日記』では文字どおり暗闇の中でうごめく鬼と、その正体が暴かれている』、「満州事変では・・・責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」、マスコミの罪深さを示している。
・『いまわれわれに問われるもの 皇室と日本を深く敬愛した清沢だが、国民に対しては期待と失望が織り交ざっていた。 「昭和18年7月15日(木)僕はかつて田中義一内閣のときに、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって国民の目が覚めたと考えたからである。しかし国民は左様に反省的なものでないことを知った。彼らは無知にして因果関係を知らぬからである。今回も国民が反省するだろうと考えるのは、歴史的暗愚を知らぬものである」(『暗黒日記』)と手厳しく国民の未熟さを指摘するときもあれば、次のように将来の期待を示すこともあった。 「昭和20年1月25日(木)日本人は、いって聞かせさえすれば分かる国民ではないのだろうか。正しいほうに自然につく素質を持っているのではなかろうか。正しいほうにおもむくことの恐さから、官僚は耳をふさぐことばかり考えているのではなかろうか。したがって言論自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来たるべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ」(『暗黒日記』) われわれはこの清沢の期待に応えたい。しかし彼の指摘するわれわれの愚かさのほうが正鵠を射ているように思える。清沢は76年前に今日のわれわれのことを見通していたかのようだ。 いまだに愚かさの先行するわれわれは、努めて自らの行動を慎まねばならない。われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない。 2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ』、「われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない」、深い反省の気持ちを持ち続ける「丹羽 氏」のような考え方が多数派になってほしいものだ。
第三に、8月15日付けPRESIDENT Onlineが掲載したノンフィクション作家の保阪 正康氏による「「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/48731
・『ジャーナリスト・評論家の立花隆さんは「戦争」をどう捉えていたのか。このほど大江健三郎さんとの対話と長崎大学での講演を収録した『立花隆 最後に語り伝えたいこと』が発売された。同書に収録されているノンフィクション作家・保阪正康さんの解説を一部紹介しよう――。※本稿は、立花隆『立花隆 最後に語り伝えたいこと』(中央公論新社)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『戦後民主主義教育を受けた「第1期生」としての責務 私と立花は6カ月ほど私が早くに生まれているために、小学校教育は1年私が早かった。私は昭和21(1946)年4月に国民学校に入学した。この年はまだ国民学校と言っていたのである。北海道の人口2万人余の町の小学校であったが、まだ教育制度も、教育環境も、昭和20年4月の頃と変わりなく、変わったのは教育内容であった。いわゆる戦後民主主義教育の始まりであった。 私たちは、ミンシュシュギという語を最初に習った。昭和21年はまだカタカナから学んだのである。立花は翌22年に小学校に入学したことになる。この年4月から教育制度は改まり、名称も小学校となり、すべての教科書も揃うようになった。新制度下の第1期生といえば、やはり立花の世代になるのであろう。すでに彼も書き、話している通りだが、しかし私の年代は実質的な第1期生というのは我々の年代だと自負している。戦争が終わったとはいえ、制度のもとでの第1期生と教育内容の新しい理念のもとでの第1期生、1年違いとはいえ、私と立花との年代の差にはそのズレが示されている。そのズレをただすのが戦争教育への徹底した批判だった。それは三つの歴史的意味をもっているはずであった。 一、我々の年代が「戦争」の批判を行い、その誤りを継承するのは歴史的責務である 二、あの戦争を選択した責任と批判は明確な論理と具体的事実で指摘するべきである 三、日本社会から戦争体験者が全くいなくなったときに、日本人は戦争否定の論理は確立しえているだろうか』、第三の点ははなはだ心もとない印象だ。
・『札幌で開かれたシンポジウムでの示唆に富む話 立花の戦争批判、そして日本社会の将来についての論点と分析もこのような視点に基づいていると私が理解したのは平成21(2009)年であった。私の出身地・札幌でシンポジウムが開かれることになり、私が人選などを担当し、北海道から近現代史の視点を全国に発信しようということになった。私は半藤一利と立花に連絡を取り、出席をお願いした。2人とも快く応じてくれた。そのシンポジウムで、立花は私の決めたテーマに合わせてくれたのか、日本の将来に極めて示唆に富む話を感情をこめて説いた。 私と半藤はいかに昭和史の教訓を次代に語っていくべきか、そういう話であった。ちょうどその頃は3人とも大学に講座を持っていたのだが、私と半藤はその体験を通じてどういうことをどのようにして語り継いでいくべきか、そういう話になった。3人がそれぞれ30分ずつ講演を行い、そのあと休憩を挟んで1時間半ほどシンポジウムを続けるというのが、約束であった。立花は話し出すと、特に興がのると時間を忘れてしまうので、私と半藤はそれぞれ20分話すことにして、2人の削った時間の20分を立花に回すと決めた。50分あれば、彼の講演も終わるだろうと予測したのであった。しかし立花は話をすべて伝えたかったのか、50分ほど過ぎても終わらない。結局1時間を過ぎても終わらなかった』、「立花」氏のような大物を入れた「シンポジウム」では、確かに時間配分が難しくなるのは避けられないようだ。
・『「精神力」を頼りに戦争に入っていった日本 その時の話を、私はよくおぼえている。それほど衝撃的、かつ刺激的な内容だったのである。立花は時に苛立ちを露骨に表しながら話し続けた。聴衆も特に騒ぎ立てるわけではなく耳を傾けていた。それだけ立花の話は関心が持たれたのであった。私は立花が近現代史の研究者やジャーナリストなどとは一味違うな、と思ったのもこの時であったが、彼は戦争はなぜ起こったのか、どういうシミュレーションの元での判断だったのか、彼我の戦力比をどう考えるか、という点にポイントを絞って論じた。 対アメリカとの戦力をどう比較したのか、そこを問題にしたのである。すべての数字は戦争の結果について「勝利」などはあり得ない、というのが結論のはずなのに、それでも戦うというのはどういうことなのか。そのことをこの時は説いたわけではないのだが、立花が問題にしたのは以下のようなことだった。軍事が行うシミュレーションの折に、敵と味方が衝突したら、その勝敗についていくつかのパラメーター(変数、測定値)にいろいろ数字を入れていく。客観的な数字を入れるだけでは、日本に勝ち目はない。ところがもっとも楽観的な数字を入れると、それでも敗北と出るが、しかし僅差で敗れるとなる。そこで軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。そして戦争に入っていったということになる』、「軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。そして戦争に入っていった」、事実であれば、お粗末だ。
・『歴史を語り継ぐ姿勢が余人とは違う 立花の講演はこのことが本題ではなかったので、このからくりが日本人の欠陥であるというような例のひとつに挙げたに過ぎなかった。しかし私はこの説明を聞いて、立花の歴史を語り継ぐ姿勢の本質がわかった。というよりこの人はやはり余人と違うという実感であった。私は日本の軍事指導者の最大の欠点は、「主観的願望を客観的事実にすり替える」という点にあると考えてきた。そういう例にまさに符節すると思った。立花のこういう指摘は、実は無意識のうちに「ある立場(日本的指導者というべき)」に立つ人の思考方法そのものだとも気がついたのである。そのことを語っておかなければならない。そこに民主主義教育を受けた世代が自立していった姿がある。私はそのことに感銘を受けたのである』、なるほど。
・『戦争体験を自らの身体から離して客体化する「三次的継承」 一般的には、戦争体験を語るには自らの身体的、社会的体験を語るのが普通であり、そのことによって「体験の継承」という言い方で括られていく。あえていえば「一次的継承」という表現で語ってもいいかもしれない。俗に言う継承はこのような理解であろう。さてこれとは別に他者の体験を聞き取り、それを語り継ぐ「二次的継承」という手法がある。むろんこれは私なりの用い方であり、すべてをうまく捉えているとは思わないが、こうした分け方をしていかないと歴史の継承という意味は散漫になってしまう。 そのほかに「三次的継承」があると考えてきた。それは体験の教訓化、あるいは継承の社会化ともいうべき内容である。戦争体験を自らの身体から離して客体化するのである。一次的継承を感性という語で語るなら、三次的継承は知性とか理性ということになろうか。付け加えておくが、戦争体験はないが、体験を聞く、読むなどで確かめ、それを語り継ぐ前述の二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまうことになる』、「二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまう」、というのは確かだ。
・『「三次的継承」から「一次的継承」に目を移すプロセス 私が、昭和史や太平洋戦争を語り継ごうと志しているのは、「一次的継承」「二次的継承」から「三次的継承」までを踏まえてと考えているのだが、どうしても一次的継承、二次的継承が軸になり、三次的継承は主ではなく、従という姿勢になってしまう。私の見る限りほとんどは一次的継承を語り、その結論として「戦争は嫌です」「こんな非人間的所業はありません」と結論づける。その方程式のような問答がこの国の平常の姿である。立花はそうではなく、三次的継承を初めに持ってきて、それを説く。そして一次的継承に目を移す。私などとは異なってかなり知性的、理性的なプロセスを辿っている。 立花は、自らの戦争体験を土台に据えるにせよそこから人類の、あるいは地球規模の、そしてとうとう科学によって身を滅ぼすような兵器を作り上げてしまった我々の時代が、どのように変転するのかに、知的に興味を持っている。その関心は自らの体験の一部が拡大していった末に辿り着いたのである。一般には感性から知性へ、と移行するが、立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている』、「立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている」、さすが「立花」氏だ。
・『「歴史のなかで何を自らに問うて生きるのか」 立花は、体験の継承を「三次的継承」から説く。なぜだろうか。開戦前の彼我の戦力比に大きな違いがあるのに、なぜ戦争を選んだのかとの問いは、普通には継承のレベルでは初めに来ることではない。しかし立花は自らも戦後民主主義の第1期ともいうべき世代だと簡単に言った後に知性で説くのだ。本書の長崎大学での講演(2015年1月17日)は、私たちとの札幌でのシンポジウムから5年余後になるが、読んでいて立花の体験継承を土台に据えての知性の分析による覚悟が感じられて、私は立花の心中に「人生の段階(生きるステージ)」が上がってきているのだな、と受け止めた。私が猫ビルで4時間ほど対話した頃になるだろうか、立花の中に、「若い世代」に語り継ぐという姿勢が生まれているということであった。それは何も若い世代と接するという意味ではなく、君たちは何を参考に生きるのか、歴史のなかで何を自らに問うて生きるのかを、自分に問え、その時の参考の一助にと私は語っているんだ、私だってそう問うてきたんだ、という感情の迸ほとばしりが感じられる』、なるほど。
・『知性が放射線状に広がっていった この講演には立花が、思考を深めることになる歴史のキーワードがさりげなくある。少々引用すると、「僕は一〇〇%戦後民主主義世代なんです」「僕たちは戦前と戦後の時代の断絶を感じながら生きてきました」「あの戦争のあの原爆体験というものは、本当にすべての人が記憶すべき対象です」「戦争が終わったときにどん底で、僕はそのときに五歳ですから、毎日食うものもなくて、本当に大変だったんです」などから立花の知性は、放射線状に広がっていった。 さらに一次的継承の試みというべきだが、立花は大胆な方法も考えている。2010年6月に立教大学の立花ゼミで、主にゼミ生を相手に母親の龍子、兄の弘道、妹の菊入直代、そして立花の4人で、「敗戦・私たちはこうして中国を脱出した」というタイトルで終戦時の体験を語っている。札幌での私たちの「戦争体験を次代にどう語り継ぐか」の実践でもあったのだろう』、「戦争体験を次代にどう語り継ぐか」は実に難しい課題だ。
・『この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるのではないか これが長崎大学への講演につながっていったように、私には思われる。私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならないのである。 立花の言動は一次的継承を語ることで、歴史の継承が戦争体験者が一人もいなくなった時代に知性だけで語ることによる歪みを正そうとしたのかもしれない。彼自身があの戦争の愚かしさと一線を引いていた世代の感性と知性の両輪を信頼し、それを歴史に刻もうとしていたのかもしれない。 私は立花よりも、その一族と会い、知性の刺激を受けてきた。立花との対話を思い出すと会った回数は少ないにせよ、3時間も4時間もの対話を交わしていた時に彼のイントネーションに、あれは水戸の訛りだろうか、あるいは長崎のなごりだろうか、と窺える時があった。私にも北海道のイントネーションがあっただろう。がん患者の体験を持つ私たちは、死について生育地の訛りを交えて驚くほど淡々と向き合っていることを確認した。同年代のトップランクの頭脳と会話しているな、との思い出が懐かしい』、「私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならない」、困った「習性」だが、私も同感である。
タグ:「立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている」、さすが「立花」氏だ。 PRESIDENT ONLINE 「ヨーロッパの近代市民社会の確立に貢献し、ヨーロッパに範を求めた明治・大正時代の日本の近代化にも大きな影響を与えた」、やはり偉大な人物であることは確かだ。 行き過ぎた「キャンセルカルチャーの運動」は考えものだ。歴史上の人物は生きていた時代の価値観で判断すべきだろう。 保阪 正康 「われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない」、深い反省の気持ちを持ち続ける「丹羽 氏」のような考え方が多数派になってほしいものだ。 「マクロン現大統領を支持するフランス国民の多くは若きエリートで、高校時代に女性教師と不倫して25歳年上の女性を妻にしたことを今風と好感する国民だ」、さすが「フランス」らしい。 「「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか」 丹羽 宇一郎 「立花」氏のような大物を入れた「シンポジウム」では、確かに時間配分が難しくなるのは避けられないようだ。 「満州事変では・・・責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」、マスコミの罪深さを示している。 「軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。そして戦争に入っていった」、事実であれば、お粗末だ 「「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか」 「みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。 戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ」、「責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。 そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった」、 「奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした」のは、やはり問題だ。「フリーメイソン」を生んだ社会なので、「女性」の社会進出は遅れたようだ。 第三の点ははなはだ心もとない印象だ。 「私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならない」、困った「習性」だが、私も同感である。 「戦争体験を次代にどう語り継ぐか」は実に難しい課題だ。 「二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまう」、というのは確かだ。 「戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ」、「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」、その通りだ。 歴史問題 安部 雅延 (その15)(英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…、「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか、「"戦争は嫌です"で終わらせてはいけない」知の巨人が恐れた"日本社会の習性" 形を変えて繰り返すのではないか) 「英雄「ナポレオン」没200年の今、猛批判される訳 奴隷制復活、有色人種の隷属は許されないが…」 東洋経済オンライン 「ナポレオンの近代的戦術は今も世界各地の士官学校の教材となっており」、「ナポレオン法典は・・・日本を含め、世界各地の近代市民社会の法の規範ともなり」、確かに功績は偉大だ。