人生論(その11)(アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末、養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで 褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている、養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは 生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える) [人生]
人生論については、3月8日に取上げたばかりだが。今日は、(その11)(アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末、養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで 褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている、養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは 生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える)である。
先ずは、3月6日付けAERAdot.「アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/dot/2022022200057.html?page=1
・『誰もが知る天才・アインシュタインには「人生最大の失敗」があったという。彼を長年にわたって悩ませた「失敗」の驚くべき顛末とは――。その逸話を宇宙物理学者・須藤靖(東京大学教授)の著書『宇宙は数式でできている』(朝日新書)より抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『■アインシュタインの「人生最大の失敗」 アインシュタインは、現在アインシュタイン方程式として知られている一般相対論の基礎方程式に基づいて宇宙がどのように振る舞うのかを計算した結果、無限の過去から無限の未来まで、ずっと同じ状態のままであり続ける静的な宇宙はあり得ず、宇宙は必然的に時間変化することを「発見」しました。 今の我々であれば、「宇宙が時間変化しても別にいいじゃん」と簡単に納得することでしょう。しかし、その当時、特に西欧においては「神が創られた宇宙は完璧なものであり、それが時々刻々変化するなどもってのほかだ」と考える人々が大多数でした。このように時間変化する宇宙という結論は、アインシュタインにとっては悩みの種でした。 そこで彼は、一般相対論が静的宇宙解を持つように、もともとのアインシュタイン方程式に新たな項を付け加えました。それはアインシュタインの宇宙項と呼ばれ、それに対応する定数Λ(ラムダ)は宇宙定数と呼ばれています。 ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁止した州があったり、今でも国民の4割が進化論を信じていないとされたりする米国の例を考えれば、このような宗教的な偏見が科学に影響を与えることは、決して過去の話ではありません。そのような偏見とはほぼ無縁な日本は世界的に珍しいというべきなのです。 しかしながら、このΛ項を導入すべき積極的理由がない限り、勝手にそれを追加してしまうと一般相対論の美しさを減じてしまう、とアインシュタインは考えました。古くからの宇宙観と物理学理論の美しさの間で、アインシュタインはとても悩んだのです。 こうして宇宙は時間変化してはならないと考えたアインシュタインは、1917年に渋々宇宙項を追加することに決めたのです。) ところが、米国の天文学者エドウィン・ハッブル(1889―1953)は、遠方の銀河が我々から遠ざかる速度とそれらの銀河までの距離が比例している観測事実を論文にまとめて1929年に出版しました。 通常、この比例関係はハッブルの法則と呼ばれ、宇宙が膨張している観測的証拠として知られています。 ハッブルの研究結果から観測的には宇宙が膨張していることを知ったアインシュタインは、1931年の論文で宇宙項がもはや必要ないことを認め、それを撤回しました。その際に彼は「宇宙定数の導入は自分の人生最大の失敗だった」と述べたとされています。あのアインシュタインでも間違えるのかという驚きもあり、「人生最大の失敗」という言葉は広く知られるようになりました。 ところで、ベルギーのカトリック司祭で宇宙論の研究者でもあったジョルジュ・ルメートル(1894―1966)が、ハッブルより2年早い1927年にこの比例関係を発見していたことが明らかになっています。残念なことに、彼の原論文はフランス語で書かれており、しかもあまり有名ではない雑誌に掲載されていたため、その事実は長い間ほとんど知られていませんでした。この事実が広く認められるようになったため、世界中の天文学者の組織である国際天文学連合は、2018年、今後はハッブルの法則ではなくハッブル・ルメートルの法則と呼ぶことを推奨する決議を可決しました』、「ハッブルの研究結果から観測的には宇宙が膨張していることを知ったアインシュタインは、1931年の論文で宇宙項がもはや必要ないことを認め、それを撤回しました」、さすがいさぎよい「撤回」だ。
・『■蘇るアインシュタインの宇宙定数 このように、宇宙が時間変化していることが定着すると、宇宙定数は理論的にはもはや不要なお荷物だと見なされるようになりました。その一方で、宇宙定数が存在しないことを証明するのもまた極めて困難です。しかし、宇宙論研究者の大半はそれをほぼ無視し続けていました。 ところが、アインシュタインが撤回してから半世紀以上経った1980年代末頃から、宇宙の観測データの質と量がともに飛躍的に向上し、実はΛ項がやはり必要ではないかと考えられ始めたのです。私が博士号を取得したのはまさにこの時期であり、実際に宇宙定数を主たる研究テーマとしていました。 特に日本においては、1990年代初めには、宇宙論の理論研究者の間で、宇宙定数が存在することはほぼ確実だとの理解が共有されていました。国際的には、米国のプリンストン大学やテキサス大学、英国のケンブリッジ例えば、1995年には米国のローレンス・バークレー国立研究所のソール・パールムターのグループが、遠方の超新星を用いた観測から、宇宙定数は存在しないとする論文を発表しました。その年に京都で開催された国際天文学連合総会の際のシンポジウムで、パールムター氏が行った講演に対して、私は「理論的には宇宙定数が存在するという間接的証拠が積み上がっているが、あなたのグループの観測結果はどこまで確実に宇宙定数を否定していると考えているのか」と質問しました。これは、その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだったように思います。 実際その後、彼のグループ、及びハーバード大学のブライアン・シュミットとアダム・リースたちのグループは、互いに独立に多くの観測データを追加し、それらに基づいた解析結果から、宇宙膨張は減速ではなく加速していると結論する論文を1998年に発表しました。さらにその後の観測が積み上がるにつれて、その結果はより確実になりました。この宇宙の加速膨張の発見によって、パールムター、シュミット、リースの3名は、2011年のノーベル物理学賞を受賞しました。そして、その加速膨張の原因としてもっとも有力視されているのが、宇宙定数なのです。 ところで、その当時の状況を指して、「彼らの発見は、それまで予想もされていなかった宇宙定数の存在を示した衝撃的な結果であった」と述べる人も多くいるようですが、これは明らかな間違いです。意図的に話を盛っているのか、あるいは単にその前後の研究の流れを知らないだけなのかはわかりません。 しかし先述のように、少なくとも私の周りの研究者たちは、宇宙定数が存在しないとした1995年のパールムターの最初の論文にこそ驚いたものの、それを自ら否定した1998年の論文の結果に対しては、「やっぱり予想通りだったね」といった反応だったと思います』、「その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだった」、「日本の理論研究者」のレベルは相当高かったようだ。
次に、3月19日付けPRESIDENT Onlineが掲載した解剖学者・東京大学名誉教授の養老 孟司氏による「養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで、褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/55681
・『解剖学者の養老孟司さんが『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)という本を出した。養老さんは「『バカの壁』で訴えた都市化の問題が行き着くところまできて、子どもが次々と死ぬ社会になってしまった。この社会のおかしさを、一度立ち止まって考えてほしい」と語る。前後編の特別インタビューをお届けする――。(前編/全2回)』、「子どもが次々と死ぬ社会になってしまった」とは穏やかでない。どういうことだろう。
・『日本は「児童虐待社会」 たまに東京にいくと、夜の9時ごろ、地下鉄で子どもが走り回っているのです。こっちは爺さんですから叱ろうかと思ったんですが、思い直した。 おそらくこの子たちは、学校が終わった後に塾か習い事に行っていたのではないか。夕飯を食べたのかどうかはわからないけれど、こんな時間になってやっと解放されて、だからこうして地下鉄で走り回っているのではないかと。 こうした場面に遭遇すると、つくづく日本社会は「児童虐待社会」だと思います。 実際、日本は子どもの自殺が大変に多い国です。令和3年版の自殺対策白書(厚労省)によれば、わが国の10~39歳の死因の第1位は自殺です。G7の中でも15~34歳の死因の第1位が自殺である国は日本だけ。つまり、国際的に見ても際立って異常な状態にあるのです。 僕が子どもの頃は、もちろん病気や事故で亡くなる子どもはいましたけれど、学齢期の子どもが自殺するなんていうことはまずなかった。そんなことがあれば「異常な事件」として扱われたと思いますが、いまや、子どもの自殺は普通の出来事になってしまった感があります』、「G7の中でも15~34歳の死因の第1位が自殺である国は日本だけ」、「子どもの自殺は普通の出来事になってしまった感があります」、言われてみればその通りだ。
・『かつて日本は子どもの天国だった 昔は、いまに比べれば生活がはるかに不便で、その分人手がたくさん必要でした。だから僕だけでなく、子どもたちはみな家事を手伝わされたものだけれど、その代わり、塾もなければ、習い事もなかった。家の手伝い以外に子どもがやらなくてはいけないことなんて、何もなかったんです。何もやることはなかったけれど、子どもたちはみんな生き生きとしていました。 僕の子ども時代よりもさらに昔、明治維新の前に日本にやってきた欧米人が書き残した記録を読むと、「日本の子どもは勝手気ままで幸せそうだ。そして、大人も子どもも笑っている」なんてことが書いてある。 欧米人は大人と子どもの世界をはっきりと区別しますから、大人と子どもが一緒になって笑っている日本の社会が、いかにも不思議なものとして映ったのでしょう。いずれにせよ、かつての日本では、大人と子どもが屈託なく笑い合って暮らしていたわけです。 でも、いまはあまり笑っていないんじゃないですかね。 果たしていまの日本に、学校が終わった後、友だちと一緒に野山を駆けずり回ったり、何も考えずに、ただぼんやりと風景を眺めて過ごしている子どもがどれほどいるでしょうか。地方に行ったからといって、そういう子どもに出会えるわけではないのです。 こうした状況は、いまに始まったことではありません。すでに昭和30年代の終わりごろから、都市化が進み、子どもの遊び場も、遊ぶ時間も一貫して少なくなっている。その結果として、生き生きとした子どもの日常が日本社会から失われてしまったのです。 子どもの自殺について、明らかに社会に問題がある。僕は、そう考えています』、「すでに昭和30年代の終わりごろから、都市化が進み、子どもの遊び場も、遊ぶ時間も一貫して少なくなっている。その結果として、生き生きとした子どもの日常が日本社会から失われてしまったのです。 子どもの自殺について、明らかに社会に問題がある」、その通りだ。
・『東大理三に入る人は明らかに異常 いかに日本社会が異常な状況にあるかは、大学入学共通テストの当日、東大の前で刺傷事件を起こした高校生のことを考えればよくわかります。 彼は東大の理科三類(医学部進学コース)に入らないと生きる意味がないと考えていたわけですが、これを血圧検査に当てはめて考えてみましょう。 現代の血圧検査では、まずはたくさんの人の血圧を測定して統計を取り、正常値と異常値(高血圧、低血圧)の範囲を決めて、被検者の血圧が正常の範囲にあるのか異常の範囲にあるのかを判定します。 統計に使う測定データの人数が十分に多ければ、血圧の分布はベルカーブ(正規分布)を描きます。ちょうど、教会の鐘(ベル)のような形になるわけです。 そして、このベルカーブのうち、最も人数の多い中央値(ベルの中心)から左右両方にそれていって、95%までに入る範囲を「正常値」とし、そこから先の2.5%+2.5%=5%を「異常値」としています。 血圧の測定では最高血圧と最低血圧の両方を測りますが、最高血圧で言えば、高いほうの異常値は140以上、低いほうの異常値は100以下。つまり140を超えれば高血圧、100を下回れば低血圧と判定されるのです。いずれも、「全体の中では大きく外れていますよ、だから異常ですよ」ということを意味しています。 では、東大理三はどうなのかといったら、偏差値は80を超えており、合格者数は100人ぐらいしかいない。つまり、ベルカーブでいえば最も右の端に位置しているわけで、血圧測定に倣っていえば、完全なる異常値です』、「東大理三・・・偏差値は80を超えており、合格者数は100人ぐらいしかいない。つまり、ベルカーブでいえば最も右の端に位置しているわけで、血圧測定に倣っていえば、完全なる異常値です」、「偏差値」が「完全なる異常値」とは面白い捉え方だ。
・『日本にはびこるおかしなダブルスタンダード ところがどういうわけでしょうか、頭の評価に関しては「全体の人数の中で大きく外れている方がよい」ということになっている。体の評価では異常とされることが、頭の評価だと正常どころか、むしろよいことだとされているのです。 僕の常識に照らしたら、人間そんなもんじゃないだろうと。頭の評価と体の評価が異なるなんていうことは、普通に考えればまったくおかしなことです。頭に関してだって、ベルカーブの右端は、当然、異常なはずです。異常で病気だから、東大理三(医学部)に入るんでしょうと。 だけど、現代の日本では体よりも頭のほうが偏重されているから、東大理三は素晴らしいということになってしまう。日本社会にはこうした、おかしなダブルスタンダードがいくつも存在しています。おそらく刺傷事件を起こした高校生は、このダブルスタンダードの存在によって精神が混乱してしまったのではないでしょうか。』、「現代の日本では体よりも頭のほうが偏重されているから、東大理三は素晴らしいということになってしまう。日本社会にはこうした、おかしなダブルスタンダードがいくつも存在しています」、その通りだ。
・『「いい人生ってどういう人生ですか?」 少し前のことになりますが、子どもの質問に大人が真面目に答えるというテレビ番組に出演する機会がありました。すると、ある子どもからこんな質問がきたのです。 「いい人生ってどういう人生ですか?」 僕はびっくりしてしまった。 長ければ100年にもおよぶ人生には、当然、紆余うよ曲折があり、いい時もあれば悪い時もある。とてもひと言で説明できるものではありません。昔だったら、こんな事を大人に質問しようものなら、「生意気なことを言うもんじゃない」と一喝されたでしょう。 しかしこの子は、いい人生とは何かを言葉で聞きたかったわけです。言葉で聞くことによって疑問を解決したかった。別のときに高校生から「なぜ、死んではいけないのですか?」と聞かれたこともありました。 この子たちの頭の中に、世の中には言葉では説明できないことがあるということが入っていないのです。言葉ですべて説明できると思っているのが「情報化」で、頭の世界が大きくなり過ぎている結果だと思います』、「この子たちの頭の中に、世の中には言葉では説明できないことがあるということが入っていないのです。言葉ですべて説明できると思っているのが「情報化」で、頭の世界が大きくなり過ぎている結果だと思います」、本来、親などの大人が、教えるべきことだ。
・『言葉で説明できないことがある 僕は大学で解剖を教えていました。 授業はほとんど実習です。講義なんて、年に一度しかなかった。人の体や生死のことは、口でしゃべって教えられることじゃないからです。 仏教でいうところの「四苦」。つまり、「生老病死」、生きて、老いて、病気を得て、死ぬということは、自然なことで、誰も予定してやっているわけではありません。だけど、親たちは子どもの進路についてだけは予定を決めて、あっちにいけ、こっちにいけとやっている。 そこで育った子どもたちは、子ども時代に味わう喜びを先送りさせられています。 子どもを楽しませることなんて、本来はとても簡単なこと。しかし、多くの大人たちはその簡単なことすら、手を抜いてやろうとしない。だから、子どもたちは、これから先も人生は灰色で楽しいことなど何もないと思って、自殺してしまうのでしょう。 都心部では中学受験が過熱して、受験準備が低年齢化していると聞きます。こういうところに「児童虐待社会」の姿がくっきり浮かび上がっていると、僕は思うのです。(後編につづく)』、「都心部では中学受験が過熱して、受験準備が低年齢化していると聞きます。こういうところに「児童虐待社会」の姿がくっきり浮かび上がっている」、同感である。
第三に、この続きを、3月20日付けPRESIDENT Online「養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは、生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/55709
・『解剖学者の養老孟司さんが『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)という本を出した。養老さんは「戦後の日本では、『自分の人生は自分のものである』という考え方が広がった。しかし、こういう考え方からは生きる意味なんて出てこない」と語る。前後編の特別インタビューをお届けする――。(後編/全2回)』、「養老さんは「戦後の日本では、『自分の人生は自分のものである』という考え方が広がった。しかし、こういう考え方からは生きる意味なんて出てこない」と語る」、どういうことなのだろう。
・『このままでは日本人は消えていなくなる(前編から続く)(「児童虐待社会」がどうして出現したかといえば、それは「都市化」と深い関係があります。 都市化とは人間が頭の中で考えたことを外に出して街をつくるということ。「脳化」と言い換えてもいい。僕はいつも「ああすれば、こうなる」というのですが、そういう考えでつくられているのが都市である、ということです。 たとえば、都市では切符を買って電車に乗れば、目的地に着くでしょう。これも、「ああすれば、こうなる」の一例。都市はそのように作られている。しかし、自然の中ではそうはいきません。森の中で迷ってしまえば、どこにたどり着くかわからないのです。 ある国なり地域なりが都市化すると、多くの場合、少子化が起こります。先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。 だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっているのです。 実際、丸の内のまん中や新宿副都心の高層ビル街を歩いている子どもなんて、ほとんど見たことがないでしょう。都市にとって、子どもは厄介で邪魔な存在。それゆえに、子どもを産むことを控えたり、産んでも急いで大人にしようと教育したり、管理したりする。こうしたことが少子化の根本的な原因であり、児童虐待社会の実相です。 先日もニュースになっていましたが、日本の出生数は6年連続で過去最少を記録していて、2021年の速報値で約84万人。厚労省が発表している2020年の合計特殊出生率は1.33しかありません。 大ざっぱに言って、ひと世代で半分ぐらいに減っているんだから、このままいけば遠からず日本は消える。日本から物理的に人間がいなくなってしまう日が本当にやってくると、僕は考えています』、「都市では切符を買って電車に乗れば、目的地に着くでしょう。これも、「ああすれば、こうなる」の一例。都市はそのように作られている」、「先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。 だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっている」、「子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません」、これは傑作だ。
・『「自分の人生は自分のもの」ではない 個人主義の弊害も、子どもの問題を考える上でとても重要です。 戦後の日本の強い傾向で、いわゆる個人主義が広がった。「自分の人生は自分のものである」という考えが蔓延しました。 もしかするとこの文章をお読みのみなさんも、「自分の人生は自分のものである」と考えているかもしれないし、それで何が悪いのかと思うかもしれない。ですが、この考え方は子どもの自殺と大いに関係があると僕は思うのです。「なぜ、死んではいけないんですか?」と質問する子どもは、暗黙のうちに、自分の人生は自分のものなんだから、自分の体をどうしようと勝手だろうと考えています。 これはとんでもないことです。自分の人生は自分のものなんかでは、まったくない。もちろん、自分の人生は他人のものでも国家のものでもありませんが、自分ひとりのものであるという考え方からは、生きる意味なんて出てこないのです』、「自分ひとりのものであるという考え方からは、生きる意味なんて出てこないのです」、なるほど。
・『人生の意味は外部にある これは『バカの壁』(新潮新書)でも触れたことですが、V・E・フランクルというアウシュビッツ強制収容所に収容された体験を持つ心理学者は、「意味は外部にある」という言葉を残しています。わかりやすく言えば、「人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる」(前掲書より)ということです。 つまり、周囲の人や社会との関係がないところから、生きている意味は生まれてこないとフランクルは言うわけですが、個人主義の広がりによって、農村共同体やその代替物だった会社という共同体すら崩壊してしまった現代の日本では、生きる意味を見いだすことがとても難しくなっています。 いや、会社という共同体は存続しているじゃないかと言う人がいるかもしれない。しかし、本物の共同体はメンバーの首を切ったりはしません。リストラなんてするはずがない。ワークシェアをせずに平然とリストラをする日本企業は、もはや共同体とは呼べないのです。 現代の子どもたちは、共同体が崩壊してしまった社会の中で、生きる意味を見失ってしまっている。共同体には共通の目的が必要で、以前であれば「食べていくこと」だった。農作業は皆で協力してやらないとできなかったことが、いま機械を使えば一人でできてしまう。だから、共同体を再生することは――挑戦している人はいますけれど――とても難しいことだと僕は思います』、「周囲の人や社会との関係がないところから、生きている意味は生まれてこないとフランクルは言うわけですが、個人主義の広がりによって、農村共同体やその代替物だった会社という共同体すら崩壊してしまった現代の日本では、生きる意味を見いだすことがとても難しくなっています」、「ワークシェアをせずに平然とリストラをする日本企業は、もはや共同体とは呼べないのです」、その通りだ。
・『解決策は「自然のなかに身を置くこと」 では、どうしたらいいかといったら、もう少し素直に自然と向き合う、子どもと向き合うということだと思っています。 こういっても、あんまりピンとこない人が多いかもしれません。これも言葉で説明できるものではなく、自然のなかにいればひとりでにわかってくることだからです。 先日、僕は福島県の会津地方を旅していました。旅館の窓から外の景色を眺めていると、ちょうど雪が降り始めました。旅館を取り囲む木々の細い枝一本一本に雪が降り積もって、風景が少しずつ白くなっていく。 その様子を眺めていると、ものすごく気持ちがいい。 いつまで眺めていても飽きるということがないのです。子どもが夢中になっているゲームなどのデジタルな刺激とは違って、自然は向こうから働きかけてくることはありません。しかし、自然の中にじっと身を置いていると、徐々に自分が自然と同一化していくのがわかる。これが、とても心地いいのです。 少し理屈っぽいことを言えば、1本の木だって35億年という途方もない歳月を生き延びてそこに生えているわけで、その形状がいい加減にできているはずがない。一本一本の細い枝の先端にいたるまで、自然のルールを反映しているのです。そして、自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、われわれの体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです』、「自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、われわれの体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです」、やや出来過ぎとの印象を受ける。
・『いじめ問題も都市化で深刻になった 子どもに、自分の体が田んぼとつながっていることを教えないといけない。 科学的にいえば、人間の体は物質でできていて、それはどこから来たかといえば、多くは田んぼからきている。田んぼとか、海とか、川とかが、形を変えてあなたの体になっているんだよってことを教えないといけない。 自然と自分とのつながり、世界とのつながりといってもいいのだけど、自然と自分は地続きであることを感じてほしい。 いじめの問題が大きくなってしまっているのも、子どもに本来あった自然とのつながりが断たれて、子どもの世界が狭くなってしまったことが原因です。人が何かとのつながりを求める生き物だとしたら、自然とのつながりを失った代わりに、子どもの中で身近な人間関係が非常に大きなウエイトを占めるようになってしまった。 昔からいじめはありました。だけど、昔の子は、いじめられたら、海や山や川に逃げることができたんです。僕なんかは、いじめられても、夜に電球にカブトムシが飛んできたら、全部、忘れていましたっけ』、「人が何かとのつながりを求める生き物だとしたら、自然とのつながりを失った代わりに、子どもの中で身近な人間関係が非常に大きなウエイトを占めるようになってしまった」、「いじめ問題」にもつながっているとの主張は、説得力がある。
・『知性は自然のなかで磨かれ 僕は昆虫採集が好きですが、虫とり仲間と話しているととても面白
い。 連中は異口同音に、「体に力が入っていると虫は見えない」と言います。とろうとろうと思うと体に力が入ってしまい、虫にこちらの気配を悟られて逃げられてしまうからです。 反対に、じっと森の中に座って自然と同一化すると、虫がどこにいるかがよく見えるようになり、やがて虫や動物の方から近寄ってくるようになる。そんな禅宗のお坊さんの悟りのような状態を、みんな体験しているのです。 ずっと蝶ばかりとっていた友人が網を振っているのを見ていたら、古武道の達人で研究者の甲野善紀さんの刀の使い方とよく似ていて、驚いたことがあります。言うこともそっくりです。自然のなかで虫取り網を振っていれば、剣術の修行をしているのと同じ学びがあるわけです。 ひとりでに身につく自然のルールや知性は、入学試験で判定できるようなものではありません。ですが、それを手に入れることは後々の人生すべてに大きく影響を与えます。「人生という試験に耐えられる人間になる」と言ってもいい。人生100年時代であることを考えれば、子どもを塾に行かせたり、習い事漬けにするよりも、自然のルールを身につける方がはるかに大切なことではないでしょうか。 だからといって、田舎に移住しろと言うつもりも、取ってつけたような自然体験をさせろと言うつもりもありません。あくまでも「田舎風」でいいのです。空き地があって、虫がいて、そこに行けばいつでも仲間に会える。それで十分なのです。 僕は、都市化した社会、脳化した社会の先を切り開いていくのは、泥だらけになって野山をかけ回っている子どもたちだと思っているのです』、「人生100年時代であることを考えれば、子どもを塾に行かせたり、習い事漬けにするよりも、自然のルールを身につける方がはるかに大切なことではないでしょうか」、同感であるが、都会のなかで実現していくにはハードルが高いようだ。
先ずは、3月6日付けAERAdot.「アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/dot/2022022200057.html?page=1
・『誰もが知る天才・アインシュタインには「人生最大の失敗」があったという。彼を長年にわたって悩ませた「失敗」の驚くべき顛末とは――。その逸話を宇宙物理学者・須藤靖(東京大学教授)の著書『宇宙は数式でできている』(朝日新書)より抜粋して紹介する』、興味深そうだ。
・『■アインシュタインの「人生最大の失敗」 アインシュタインは、現在アインシュタイン方程式として知られている一般相対論の基礎方程式に基づいて宇宙がどのように振る舞うのかを計算した結果、無限の過去から無限の未来まで、ずっと同じ状態のままであり続ける静的な宇宙はあり得ず、宇宙は必然的に時間変化することを「発見」しました。 今の我々であれば、「宇宙が時間変化しても別にいいじゃん」と簡単に納得することでしょう。しかし、その当時、特に西欧においては「神が創られた宇宙は完璧なものであり、それが時々刻々変化するなどもってのほかだ」と考える人々が大多数でした。このように時間変化する宇宙という結論は、アインシュタインにとっては悩みの種でした。 そこで彼は、一般相対論が静的宇宙解を持つように、もともとのアインシュタイン方程式に新たな項を付け加えました。それはアインシュタインの宇宙項と呼ばれ、それに対応する定数Λ(ラムダ)は宇宙定数と呼ばれています。 ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁止した州があったり、今でも国民の4割が進化論を信じていないとされたりする米国の例を考えれば、このような宗教的な偏見が科学に影響を与えることは、決して過去の話ではありません。そのような偏見とはほぼ無縁な日本は世界的に珍しいというべきなのです。 しかしながら、このΛ項を導入すべき積極的理由がない限り、勝手にそれを追加してしまうと一般相対論の美しさを減じてしまう、とアインシュタインは考えました。古くからの宇宙観と物理学理論の美しさの間で、アインシュタインはとても悩んだのです。 こうして宇宙は時間変化してはならないと考えたアインシュタインは、1917年に渋々宇宙項を追加することに決めたのです。) ところが、米国の天文学者エドウィン・ハッブル(1889―1953)は、遠方の銀河が我々から遠ざかる速度とそれらの銀河までの距離が比例している観測事実を論文にまとめて1929年に出版しました。 通常、この比例関係はハッブルの法則と呼ばれ、宇宙が膨張している観測的証拠として知られています。 ハッブルの研究結果から観測的には宇宙が膨張していることを知ったアインシュタインは、1931年の論文で宇宙項がもはや必要ないことを認め、それを撤回しました。その際に彼は「宇宙定数の導入は自分の人生最大の失敗だった」と述べたとされています。あのアインシュタインでも間違えるのかという驚きもあり、「人生最大の失敗」という言葉は広く知られるようになりました。 ところで、ベルギーのカトリック司祭で宇宙論の研究者でもあったジョルジュ・ルメートル(1894―1966)が、ハッブルより2年早い1927年にこの比例関係を発見していたことが明らかになっています。残念なことに、彼の原論文はフランス語で書かれており、しかもあまり有名ではない雑誌に掲載されていたため、その事実は長い間ほとんど知られていませんでした。この事実が広く認められるようになったため、世界中の天文学者の組織である国際天文学連合は、2018年、今後はハッブルの法則ではなくハッブル・ルメートルの法則と呼ぶことを推奨する決議を可決しました』、「ハッブルの研究結果から観測的には宇宙が膨張していることを知ったアインシュタインは、1931年の論文で宇宙項がもはや必要ないことを認め、それを撤回しました」、さすがいさぎよい「撤回」だ。
・『■蘇るアインシュタインの宇宙定数 このように、宇宙が時間変化していることが定着すると、宇宙定数は理論的にはもはや不要なお荷物だと見なされるようになりました。その一方で、宇宙定数が存在しないことを証明するのもまた極めて困難です。しかし、宇宙論研究者の大半はそれをほぼ無視し続けていました。 ところが、アインシュタインが撤回してから半世紀以上経った1980年代末頃から、宇宙の観測データの質と量がともに飛躍的に向上し、実はΛ項がやはり必要ではないかと考えられ始めたのです。私が博士号を取得したのはまさにこの時期であり、実際に宇宙定数を主たる研究テーマとしていました。 特に日本においては、1990年代初めには、宇宙論の理論研究者の間で、宇宙定数が存在することはほぼ確実だとの理解が共有されていました。国際的には、米国のプリンストン大学やテキサス大学、英国のケンブリッジ例えば、1995年には米国のローレンス・バークレー国立研究所のソール・パールムターのグループが、遠方の超新星を用いた観測から、宇宙定数は存在しないとする論文を発表しました。その年に京都で開催された国際天文学連合総会の際のシンポジウムで、パールムター氏が行った講演に対して、私は「理論的には宇宙定数が存在するという間接的証拠が積み上がっているが、あなたのグループの観測結果はどこまで確実に宇宙定数を否定していると考えているのか」と質問しました。これは、その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだったように思います。 実際その後、彼のグループ、及びハーバード大学のブライアン・シュミットとアダム・リースたちのグループは、互いに独立に多くの観測データを追加し、それらに基づいた解析結果から、宇宙膨張は減速ではなく加速していると結論する論文を1998年に発表しました。さらにその後の観測が積み上がるにつれて、その結果はより確実になりました。この宇宙の加速膨張の発見によって、パールムター、シュミット、リースの3名は、2011年のノーベル物理学賞を受賞しました。そして、その加速膨張の原因としてもっとも有力視されているのが、宇宙定数なのです。 ところで、その当時の状況を指して、「彼らの発見は、それまで予想もされていなかった宇宙定数の存在を示した衝撃的な結果であった」と述べる人も多くいるようですが、これは明らかな間違いです。意図的に話を盛っているのか、あるいは単にその前後の研究の流れを知らないだけなのかはわかりません。 しかし先述のように、少なくとも私の周りの研究者たちは、宇宙定数が存在しないとした1995年のパールムターの最初の論文にこそ驚いたものの、それを自ら否定した1998年の論文の結果に対しては、「やっぱり予想通りだったね」といった反応だったと思います』、「その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだった」、「日本の理論研究者」のレベルは相当高かったようだ。
次に、3月19日付けPRESIDENT Onlineが掲載した解剖学者・東京大学名誉教授の養老 孟司氏による「養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで、褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/55681
・『解剖学者の養老孟司さんが『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)という本を出した。養老さんは「『バカの壁』で訴えた都市化の問題が行き着くところまできて、子どもが次々と死ぬ社会になってしまった。この社会のおかしさを、一度立ち止まって考えてほしい」と語る。前後編の特別インタビューをお届けする――。(前編/全2回)』、「子どもが次々と死ぬ社会になってしまった」とは穏やかでない。どういうことだろう。
・『日本は「児童虐待社会」 たまに東京にいくと、夜の9時ごろ、地下鉄で子どもが走り回っているのです。こっちは爺さんですから叱ろうかと思ったんですが、思い直した。 おそらくこの子たちは、学校が終わった後に塾か習い事に行っていたのではないか。夕飯を食べたのかどうかはわからないけれど、こんな時間になってやっと解放されて、だからこうして地下鉄で走り回っているのではないかと。 こうした場面に遭遇すると、つくづく日本社会は「児童虐待社会」だと思います。 実際、日本は子どもの自殺が大変に多い国です。令和3年版の自殺対策白書(厚労省)によれば、わが国の10~39歳の死因の第1位は自殺です。G7の中でも15~34歳の死因の第1位が自殺である国は日本だけ。つまり、国際的に見ても際立って異常な状態にあるのです。 僕が子どもの頃は、もちろん病気や事故で亡くなる子どもはいましたけれど、学齢期の子どもが自殺するなんていうことはまずなかった。そんなことがあれば「異常な事件」として扱われたと思いますが、いまや、子どもの自殺は普通の出来事になってしまった感があります』、「G7の中でも15~34歳の死因の第1位が自殺である国は日本だけ」、「子どもの自殺は普通の出来事になってしまった感があります」、言われてみればその通りだ。
・『かつて日本は子どもの天国だった 昔は、いまに比べれば生活がはるかに不便で、その分人手がたくさん必要でした。だから僕だけでなく、子どもたちはみな家事を手伝わされたものだけれど、その代わり、塾もなければ、習い事もなかった。家の手伝い以外に子どもがやらなくてはいけないことなんて、何もなかったんです。何もやることはなかったけれど、子どもたちはみんな生き生きとしていました。 僕の子ども時代よりもさらに昔、明治維新の前に日本にやってきた欧米人が書き残した記録を読むと、「日本の子どもは勝手気ままで幸せそうだ。そして、大人も子どもも笑っている」なんてことが書いてある。 欧米人は大人と子どもの世界をはっきりと区別しますから、大人と子どもが一緒になって笑っている日本の社会が、いかにも不思議なものとして映ったのでしょう。いずれにせよ、かつての日本では、大人と子どもが屈託なく笑い合って暮らしていたわけです。 でも、いまはあまり笑っていないんじゃないですかね。 果たしていまの日本に、学校が終わった後、友だちと一緒に野山を駆けずり回ったり、何も考えずに、ただぼんやりと風景を眺めて過ごしている子どもがどれほどいるでしょうか。地方に行ったからといって、そういう子どもに出会えるわけではないのです。 こうした状況は、いまに始まったことではありません。すでに昭和30年代の終わりごろから、都市化が進み、子どもの遊び場も、遊ぶ時間も一貫して少なくなっている。その結果として、生き生きとした子どもの日常が日本社会から失われてしまったのです。 子どもの自殺について、明らかに社会に問題がある。僕は、そう考えています』、「すでに昭和30年代の終わりごろから、都市化が進み、子どもの遊び場も、遊ぶ時間も一貫して少なくなっている。その結果として、生き生きとした子どもの日常が日本社会から失われてしまったのです。 子どもの自殺について、明らかに社会に問題がある」、その通りだ。
・『東大理三に入る人は明らかに異常 いかに日本社会が異常な状況にあるかは、大学入学共通テストの当日、東大の前で刺傷事件を起こした高校生のことを考えればよくわかります。 彼は東大の理科三類(医学部進学コース)に入らないと生きる意味がないと考えていたわけですが、これを血圧検査に当てはめて考えてみましょう。 現代の血圧検査では、まずはたくさんの人の血圧を測定して統計を取り、正常値と異常値(高血圧、低血圧)の範囲を決めて、被検者の血圧が正常の範囲にあるのか異常の範囲にあるのかを判定します。 統計に使う測定データの人数が十分に多ければ、血圧の分布はベルカーブ(正規分布)を描きます。ちょうど、教会の鐘(ベル)のような形になるわけです。 そして、このベルカーブのうち、最も人数の多い中央値(ベルの中心)から左右両方にそれていって、95%までに入る範囲を「正常値」とし、そこから先の2.5%+2.5%=5%を「異常値」としています。 血圧の測定では最高血圧と最低血圧の両方を測りますが、最高血圧で言えば、高いほうの異常値は140以上、低いほうの異常値は100以下。つまり140を超えれば高血圧、100を下回れば低血圧と判定されるのです。いずれも、「全体の中では大きく外れていますよ、だから異常ですよ」ということを意味しています。 では、東大理三はどうなのかといったら、偏差値は80を超えており、合格者数は100人ぐらいしかいない。つまり、ベルカーブでいえば最も右の端に位置しているわけで、血圧測定に倣っていえば、完全なる異常値です』、「東大理三・・・偏差値は80を超えており、合格者数は100人ぐらいしかいない。つまり、ベルカーブでいえば最も右の端に位置しているわけで、血圧測定に倣っていえば、完全なる異常値です」、「偏差値」が「完全なる異常値」とは面白い捉え方だ。
・『日本にはびこるおかしなダブルスタンダード ところがどういうわけでしょうか、頭の評価に関しては「全体の人数の中で大きく外れている方がよい」ということになっている。体の評価では異常とされることが、頭の評価だと正常どころか、むしろよいことだとされているのです。 僕の常識に照らしたら、人間そんなもんじゃないだろうと。頭の評価と体の評価が異なるなんていうことは、普通に考えればまったくおかしなことです。頭に関してだって、ベルカーブの右端は、当然、異常なはずです。異常で病気だから、東大理三(医学部)に入るんでしょうと。 だけど、現代の日本では体よりも頭のほうが偏重されているから、東大理三は素晴らしいということになってしまう。日本社会にはこうした、おかしなダブルスタンダードがいくつも存在しています。おそらく刺傷事件を起こした高校生は、このダブルスタンダードの存在によって精神が混乱してしまったのではないでしょうか。』、「現代の日本では体よりも頭のほうが偏重されているから、東大理三は素晴らしいということになってしまう。日本社会にはこうした、おかしなダブルスタンダードがいくつも存在しています」、その通りだ。
・『「いい人生ってどういう人生ですか?」 少し前のことになりますが、子どもの質問に大人が真面目に答えるというテレビ番組に出演する機会がありました。すると、ある子どもからこんな質問がきたのです。 「いい人生ってどういう人生ですか?」 僕はびっくりしてしまった。 長ければ100年にもおよぶ人生には、当然、紆余うよ曲折があり、いい時もあれば悪い時もある。とてもひと言で説明できるものではありません。昔だったら、こんな事を大人に質問しようものなら、「生意気なことを言うもんじゃない」と一喝されたでしょう。 しかしこの子は、いい人生とは何かを言葉で聞きたかったわけです。言葉で聞くことによって疑問を解決したかった。別のときに高校生から「なぜ、死んではいけないのですか?」と聞かれたこともありました。 この子たちの頭の中に、世の中には言葉では説明できないことがあるということが入っていないのです。言葉ですべて説明できると思っているのが「情報化」で、頭の世界が大きくなり過ぎている結果だと思います』、「この子たちの頭の中に、世の中には言葉では説明できないことがあるということが入っていないのです。言葉ですべて説明できると思っているのが「情報化」で、頭の世界が大きくなり過ぎている結果だと思います」、本来、親などの大人が、教えるべきことだ。
・『言葉で説明できないことがある 僕は大学で解剖を教えていました。 授業はほとんど実習です。講義なんて、年に一度しかなかった。人の体や生死のことは、口でしゃべって教えられることじゃないからです。 仏教でいうところの「四苦」。つまり、「生老病死」、生きて、老いて、病気を得て、死ぬということは、自然なことで、誰も予定してやっているわけではありません。だけど、親たちは子どもの進路についてだけは予定を決めて、あっちにいけ、こっちにいけとやっている。 そこで育った子どもたちは、子ども時代に味わう喜びを先送りさせられています。 子どもを楽しませることなんて、本来はとても簡単なこと。しかし、多くの大人たちはその簡単なことすら、手を抜いてやろうとしない。だから、子どもたちは、これから先も人生は灰色で楽しいことなど何もないと思って、自殺してしまうのでしょう。 都心部では中学受験が過熱して、受験準備が低年齢化していると聞きます。こういうところに「児童虐待社会」の姿がくっきり浮かび上がっていると、僕は思うのです。(後編につづく)』、「都心部では中学受験が過熱して、受験準備が低年齢化していると聞きます。こういうところに「児童虐待社会」の姿がくっきり浮かび上がっている」、同感である。
第三に、この続きを、3月20日付けPRESIDENT Online「養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは、生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/55709
・『解剖学者の養老孟司さんが『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)という本を出した。養老さんは「戦後の日本では、『自分の人生は自分のものである』という考え方が広がった。しかし、こういう考え方からは生きる意味なんて出てこない」と語る。前後編の特別インタビューをお届けする――。(後編/全2回)』、「養老さんは「戦後の日本では、『自分の人生は自分のものである』という考え方が広がった。しかし、こういう考え方からは生きる意味なんて出てこない」と語る」、どういうことなのだろう。
・『このままでは日本人は消えていなくなる(前編から続く)(「児童虐待社会」がどうして出現したかといえば、それは「都市化」と深い関係があります。 都市化とは人間が頭の中で考えたことを外に出して街をつくるということ。「脳化」と言い換えてもいい。僕はいつも「ああすれば、こうなる」というのですが、そういう考えでつくられているのが都市である、ということです。 たとえば、都市では切符を買って電車に乗れば、目的地に着くでしょう。これも、「ああすれば、こうなる」の一例。都市はそのように作られている。しかし、自然の中ではそうはいきません。森の中で迷ってしまえば、どこにたどり着くかわからないのです。 ある国なり地域なりが都市化すると、多くの場合、少子化が起こります。先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。 だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっているのです。 実際、丸の内のまん中や新宿副都心の高層ビル街を歩いている子どもなんて、ほとんど見たことがないでしょう。都市にとって、子どもは厄介で邪魔な存在。それゆえに、子どもを産むことを控えたり、産んでも急いで大人にしようと教育したり、管理したりする。こうしたことが少子化の根本的な原因であり、児童虐待社会の実相です。 先日もニュースになっていましたが、日本の出生数は6年連続で過去最少を記録していて、2021年の速報値で約84万人。厚労省が発表している2020年の合計特殊出生率は1.33しかありません。 大ざっぱに言って、ひと世代で半分ぐらいに減っているんだから、このままいけば遠からず日本は消える。日本から物理的に人間がいなくなってしまう日が本当にやってくると、僕は考えています』、「都市では切符を買って電車に乗れば、目的地に着くでしょう。これも、「ああすれば、こうなる」の一例。都市はそのように作られている」、「先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。 だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっている」、「子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません」、これは傑作だ。
・『「自分の人生は自分のもの」ではない 個人主義の弊害も、子どもの問題を考える上でとても重要です。 戦後の日本の強い傾向で、いわゆる個人主義が広がった。「自分の人生は自分のものである」という考えが蔓延しました。 もしかするとこの文章をお読みのみなさんも、「自分の人生は自分のものである」と考えているかもしれないし、それで何が悪いのかと思うかもしれない。ですが、この考え方は子どもの自殺と大いに関係があると僕は思うのです。「なぜ、死んではいけないんですか?」と質問する子どもは、暗黙のうちに、自分の人生は自分のものなんだから、自分の体をどうしようと勝手だろうと考えています。 これはとんでもないことです。自分の人生は自分のものなんかでは、まったくない。もちろん、自分の人生は他人のものでも国家のものでもありませんが、自分ひとりのものであるという考え方からは、生きる意味なんて出てこないのです』、「自分ひとりのものであるという考え方からは、生きる意味なんて出てこないのです」、なるほど。
・『人生の意味は外部にある これは『バカの壁』(新潮新書)でも触れたことですが、V・E・フランクルというアウシュビッツ強制収容所に収容された体験を持つ心理学者は、「意味は外部にある」という言葉を残しています。わかりやすく言えば、「人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる」(前掲書より)ということです。 つまり、周囲の人や社会との関係がないところから、生きている意味は生まれてこないとフランクルは言うわけですが、個人主義の広がりによって、農村共同体やその代替物だった会社という共同体すら崩壊してしまった現代の日本では、生きる意味を見いだすことがとても難しくなっています。 いや、会社という共同体は存続しているじゃないかと言う人がいるかもしれない。しかし、本物の共同体はメンバーの首を切ったりはしません。リストラなんてするはずがない。ワークシェアをせずに平然とリストラをする日本企業は、もはや共同体とは呼べないのです。 現代の子どもたちは、共同体が崩壊してしまった社会の中で、生きる意味を見失ってしまっている。共同体には共通の目的が必要で、以前であれば「食べていくこと」だった。農作業は皆で協力してやらないとできなかったことが、いま機械を使えば一人でできてしまう。だから、共同体を再生することは――挑戦している人はいますけれど――とても難しいことだと僕は思います』、「周囲の人や社会との関係がないところから、生きている意味は生まれてこないとフランクルは言うわけですが、個人主義の広がりによって、農村共同体やその代替物だった会社という共同体すら崩壊してしまった現代の日本では、生きる意味を見いだすことがとても難しくなっています」、「ワークシェアをせずに平然とリストラをする日本企業は、もはや共同体とは呼べないのです」、その通りだ。
・『解決策は「自然のなかに身を置くこと」 では、どうしたらいいかといったら、もう少し素直に自然と向き合う、子どもと向き合うということだと思っています。 こういっても、あんまりピンとこない人が多いかもしれません。これも言葉で説明できるものではなく、自然のなかにいればひとりでにわかってくることだからです。 先日、僕は福島県の会津地方を旅していました。旅館の窓から外の景色を眺めていると、ちょうど雪が降り始めました。旅館を取り囲む木々の細い枝一本一本に雪が降り積もって、風景が少しずつ白くなっていく。 その様子を眺めていると、ものすごく気持ちがいい。 いつまで眺めていても飽きるということがないのです。子どもが夢中になっているゲームなどのデジタルな刺激とは違って、自然は向こうから働きかけてくることはありません。しかし、自然の中にじっと身を置いていると、徐々に自分が自然と同一化していくのがわかる。これが、とても心地いいのです。 少し理屈っぽいことを言えば、1本の木だって35億年という途方もない歳月を生き延びてそこに生えているわけで、その形状がいい加減にできているはずがない。一本一本の細い枝の先端にいたるまで、自然のルールを反映しているのです。そして、自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、われわれの体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです』、「自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、われわれの体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです」、やや出来過ぎとの印象を受ける。
・『いじめ問題も都市化で深刻になった 子どもに、自分の体が田んぼとつながっていることを教えないといけない。 科学的にいえば、人間の体は物質でできていて、それはどこから来たかといえば、多くは田んぼからきている。田んぼとか、海とか、川とかが、形を変えてあなたの体になっているんだよってことを教えないといけない。 自然と自分とのつながり、世界とのつながりといってもいいのだけど、自然と自分は地続きであることを感じてほしい。 いじめの問題が大きくなってしまっているのも、子どもに本来あった自然とのつながりが断たれて、子どもの世界が狭くなってしまったことが原因です。人が何かとのつながりを求める生き物だとしたら、自然とのつながりを失った代わりに、子どもの中で身近な人間関係が非常に大きなウエイトを占めるようになってしまった。 昔からいじめはありました。だけど、昔の子は、いじめられたら、海や山や川に逃げることができたんです。僕なんかは、いじめられても、夜に電球にカブトムシが飛んできたら、全部、忘れていましたっけ』、「人が何かとのつながりを求める生き物だとしたら、自然とのつながりを失った代わりに、子どもの中で身近な人間関係が非常に大きなウエイトを占めるようになってしまった」、「いじめ問題」にもつながっているとの主張は、説得力がある。
・『知性は自然のなかで磨かれ 僕は昆虫採集が好きですが、虫とり仲間と話しているととても面白
い。 連中は異口同音に、「体に力が入っていると虫は見えない」と言います。とろうとろうと思うと体に力が入ってしまい、虫にこちらの気配を悟られて逃げられてしまうからです。 反対に、じっと森の中に座って自然と同一化すると、虫がどこにいるかがよく見えるようになり、やがて虫や動物の方から近寄ってくるようになる。そんな禅宗のお坊さんの悟りのような状態を、みんな体験しているのです。 ずっと蝶ばかりとっていた友人が網を振っているのを見ていたら、古武道の達人で研究者の甲野善紀さんの刀の使い方とよく似ていて、驚いたことがあります。言うこともそっくりです。自然のなかで虫取り網を振っていれば、剣術の修行をしているのと同じ学びがあるわけです。 ひとりでに身につく自然のルールや知性は、入学試験で判定できるようなものではありません。ですが、それを手に入れることは後々の人生すべてに大きく影響を与えます。「人生という試験に耐えられる人間になる」と言ってもいい。人生100年時代であることを考えれば、子どもを塾に行かせたり、習い事漬けにするよりも、自然のルールを身につける方がはるかに大切なことではないでしょうか。 だからといって、田舎に移住しろと言うつもりも、取ってつけたような自然体験をさせろと言うつもりもありません。あくまでも「田舎風」でいいのです。空き地があって、虫がいて、そこに行けばいつでも仲間に会える。それで十分なのです。 僕は、都市化した社会、脳化した社会の先を切り開いていくのは、泥だらけになって野山をかけ回っている子どもたちだと思っているのです』、「人生100年時代であることを考えれば、子どもを塾に行かせたり、習い事漬けにするよりも、自然のルールを身につける方がはるかに大切なことではないでしょうか」、同感であるが、都会のなかで実現していくにはハードルが高いようだ。
タグ:「人生100年時代であることを考えれば、子どもを塾に行かせたり、習い事漬けにするよりも、自然のルールを身につける方がはるかに大切なことではないでしょうか」、同感であるが、都会のなかで実現していくにはハードルが高いようだ。 「人が何かとのつながりを求める生き物だとしたら、自然とのつながりを失った代わりに、子どもの中で身近な人間関係が非常に大きなウエイトを占めるようになってしまった」、「いじめ問題」にもつながっているとの主張は、説得力がある。 「自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、われわれの体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです」、やや出来過ぎとの印象を受ける。 「周囲の人や社会との関係がないところから、生きている意味は生まれてこないとフランクルは言うわけですが、個人主義の広がりによって、農村共同体やその代替物だった会社という共同体すら崩壊してしまった現代の日本では、生きる意味を見いだすことがとても難しくなっています」、「ワークシェアをせずに平然とリストラをする日本企業は、もはや共同体とは呼べないのです」、その通りだ。 「自分ひとりのものであるという考え方からは、生きる意味なんて出てこないのです」、なるほど。 「都市では切符を買って電車に乗れば、目的地に着くでしょう。これも、「ああすれば、こうなる」の一例。都市はそのように作られている」、「先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。 だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっている」、「子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません」、これは傑作だ。 PRESIDENT Online「養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは、生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える」 「都心部では中学受験が過熱して、受験準備が低年齢化していると聞きます。こういうところに「児童虐待社会」の姿がくっきり浮かび上がっている」、同感である。 「この子たちの頭の中に、世の中には言葉では説明できないことがあるということが入っていないのです。言葉ですべて説明できると思っているのが「情報化」で、頭の世界が大きくなり過ぎている結果だと思います」、本来、親などの大人が、教えるべきことだ。 「現代の日本では体よりも頭のほうが偏重されているから、東大理三は素晴らしいということになってしまう。日本社会にはこうした、おかしなダブルスタンダードがいくつも存在しています」、その通りだ。 「東大理三・・・偏差値は80を超えており、合格者数は100人ぐらいしかいない。つまり、ベルカーブでいえば最も右の端に位置しているわけで、血圧測定に倣っていえば、完全なる異常値です」、「偏差値」が「完全なる異常値」とは面白い捉え方だ。 「すでに昭和30年代の終わりごろから、都市化が進み、子どもの遊び場も、遊ぶ時間も一貫して少なくなっている。その結果として、生き生きとした子どもの日常が日本社会から失われてしまったのです。 子どもの自殺について、明らかに社会に問題がある」、その通りだ。 「G7の中でも15~34歳の死因の第1位が自殺である国は日本だけ」、「子どもの自殺は普通の出来事になってしまった感があります」、言われてみればその通りだ。 「子どもが次々と死ぬ社会になってしまった」とは穏やかでない。どういうことだろう。 「養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで、褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている」 PRESIDENT ONLINE 「その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだった」、「日本の理論研究者」のレベルは相当高かったようだ。 「ハッブルの研究結果から観測的には宇宙が膨張していることを知ったアインシュタインは、1931年の論文で宇宙項がもはや必要ないことを認め、それを撤回しました」、さすがいさぎよい「撤回」だ。 AERAdot.「アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末」 (その11)(アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末、養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで 褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている、養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは 生きる意味なんて出てこない」 だから「なぜ死んではいけないんですか?」と考える) 人生論 「養老さんは「戦後の日本では、『自分の人生は自分のものである』という考え方が広がった。しかし、こういう考え方からは生きる意味なんて出てこない」と語る」、どういうことなのだろう。