SSブログ

終活(死への準備)(その1)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の前半:①死は それ自体が「パラドックス」である、②全生物のうち 人類だけが「発展」できた4つの理由) [人生]

今日は終活(死への準備)(その1)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の前半:①死は それ自体が「パラドックス」である、②全生物のうち 人類だけが「発展」できた4つの理由)を取上げよう。

先ずは、1月19日付け日経ビジネスオンラインが掲載した哲学博士のスティーヴン・ケイヴ氏による「死は、それ自体が「パラドックス」である」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00421/011200001/
・『「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。1回目は、「人は必ず死ぬ。しかし誰もが、自分の死を正しく想像できない」ということについて』、興味深そうだ。
・『人類を突き動かす「永遠」への熱望  私たち人間は、他のあらゆる生き物同様、果てしなく生を追求するよう駆り立てられている。だが、生き物のうちで唯一私たちだけが、その追求の過程で目覚ましい文化を創出して瞠目(どうもく)すべき芸術品を生み出し、豊かな宗教伝統を育み、科学の物質的業績と知的業績を積み上げてきた。そのすべては、「不死」を手に入れるための4つの道をたどることを通して成し遂げられてきた、というのが私の主張だ。 不死への意志が文明の根本的な推進力であるという主張を初めて耳にしたら、疑いを抱く人もいるだろう。 「そのような意志はあまりに抽象的であり、日々の活動の背後にある本能たりえないであろう。あまりに神秘的なので、サルから進化したヒトという生物の行動は説明できそうにない」というのだ。 だが、私たちの永遠への熱望の起源は、神秘的でもなければ抽象的でもない。その正反対で、これほど自然なものはありえないだろう。私たちが未来まで生き延びようと奮闘努力するのは、人類の長い進化の遺産の、直接の結果にすぎない。 あらゆる生命形態に唯一共通するのが、生き永らえ、子孫を残そう、つまり、未来まで存続しようとする傾向だ。どれほど大きな山でも、甘んじて浸食を許す。微細な砂粒が黙って海の波に洗われるのと何ら変わりはない。だが、どれほど小さな生き物でも、風雨や捕食者の攻撃には全力で立ち向かう。生物以外の宇宙の特徴である無秩序に陥るまいとして闘う。生き物はまさにその本質上、はなはだしい不利をものともせずに持ちこたえるための、動的なシステムなのだ。犬であろうと、ミミズであろうと、アメーバであろうと、生き物はひたすら生き続けることのために間断なく奮闘する。永続するためのこの努力こそが、生の本質だ。 進化生物学者リチャード・ドーキンスが言うとおり、「私たちは生き残るためのマシンだが、『私たち』とは人間だけを意味するわけではない。そこには、あらゆる動物、植物、細菌、ウイルスが含まれる」のだ。これは、現代生物学では自明の理となった。何らかの形での自己保存あるいは自己複製は、「生命とは何か」という定義には必ず含まれている。 自然選択による進化の過程は、なぜそうならざるをえないのかを教えてくれる。多様性に富んだ個体群の中では、生き延びて子孫を残すのが最も得意な生物が自らの遺伝子を次世代に伝える。身の回りに見られる猫や樹木や昆虫のどれであれ、今存在しているのは、祖先が自らと子孫を維持するのに最も長(た)けていたからにすぎない。 したがって、生き永らえて子孫を残すことを通じて、未来まで首尾良く生き延びられるかどうかが、まさに進化の勝者と敗者の分かれ目なのだ。 そして、私たち人類に関していえば、直感や複雑な情動や私たちの洗練された推論の過程はみな、生存という目的に、直接的あるいは間接的に貢献するために存在していることが、卓越した神経科学者のアントニオ・ダマシオによって示されている。 生物人類学者のジェイムズ・チザムはさらに推論を進め、あらゆる価値はこのたった1つの目標から生じるとし、その目標とは、「そのために身体が存在している複雑な活動、すなわち無期限の持続」である、と述べている。 ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、この根本的な衝動を単に「生への意志」と呼んだ。とはいえ、時間の制限はない――チザムの言うとおり、私たちが望む持続は「無期限」だ――から、むしろ、永遠の生への意志、あるいは、不死への意志と呼ぶべきだ。 文明という営みの大半を含め、私たちの成すことのじつに多くが、「不死」への衝動によって説明できるのだ』、「文明という営みの大半を含め、私たちの成すことのじつに多くが、「不死」への衝動によって説明できるのだ』、なるほど。
・『人は必ず死ぬ、しかし誰もが「自分の死」は受け入れられない  私たち人間を際立たせているのは、大きくて接続性の高い脳だ。この脳も、私たちが自らを無期限に存続させるのを助けるために進化したのであり、生存のための奮闘には大いに役立つ。 私たちは、自分自身や、未来や、さまざまな可能性を自覚しているので、適応し、精緻な計画を立てることができる。だが、自分自身に関して、恐ろしいと同時に不可解な視点を持つことにもなる。私たちの強力な知性は、私たちも身の回りの他のあらゆる生き物同様、いつの日か死なねばならないという結論に情け容赦(ようしゃ)なく至る。それにもかかわらず、その一方では、私たちの頭脳には1つだけ想像できぬものがあり、それは、死という、自分が存在しない状態そのものだ。それは文字どおり、考えられない。 したがって、死は不可避かつ信じ難いものという印象を与える。これを私は「死のパラドックス」と呼ぶ。 このパラドックスの両面は共に、同じ見事な認知能力から生じる。約250万年前に現生人類の直系の祖先であるホモ属が出現して以来、人間の脳の大きさは3倍になった。それに伴い、概念にまつわる一連の非常に重要な革新が起こった。 第一に、私たちは自分を他者と別個の個体として認識している。これは、大きな脳を持つほんの一握りの種に限られた特質であり、高度な社会的相互作用に不可欠と考えられている。 第二に、私たちは未来について詳しい考えを持っているので、あらかじめ計画を立てたり、それを変更したりできる。これもまた、他の大多数の種では見られぬ能力だ(珍しい例外の1つに、スウェーデンのフールヴィック動物園のチンパンジーの事例がある。そのチンパンジーは、日中に来園者に投げつけるための石を、夜のうちに拾い集めておいた)。 そして第三に、私たちはあれこれ可能性を検討し、目にしてきたものを一般化しながら学習したり、論理的に考えたり、既知のものから未知のものを推測したりでき、さまざまな筋書きを思い浮かべられる』、「私たちの強力な知性は、私たちも身の回りの他のあらゆる生き物同様、いつの日か死なねばならないという結論に情け容赦なく至る。それにもかかわらず、その一方では、私たちの頭脳には1つだけ想像できぬものがあり、それは、死という、自分が存在しない状態そのものだ。それは文字どおり、考えられない。 したがって、死は不可避かつ信じ難いものという印象を与える。これを私は「死のパラドックス」と呼ぶ」、確かに「死」は「想像できない」。
・『「人間の死亡率は100%である」ということ  生き延びる上でこうした能力が有利に働くことは明らかだ。マンモス猟の落とし穴からスーパーマーケットの供給網まで、私たちは必ず必要を満たせるように、物事を計画し、調整し、協力することができる。 だが、こうした能力には代償も伴う。自分や未来についての概念を持ち、身の回りで目にするものに基づいて未知のものを推測したり一般化したりできるなら、仲間がライオンに殺されるのを目撃した場合には、自分もライオンに殺されうることに気づく。そのせいで、いざというときのために槍(やり)の穂先を尖(とが)らせて備えておくようなら役に立つが、不安も生まれる。死という未来の可能性を現在に呼び込む。 そして、生きとし生けるものはすべて死を免れないことに気づく。死こそ真の敵であることを悟る。強力な頭脳を使い、鋭い槍や頑丈な門、満杯の食料貯蔵庫、病院などによって、この敵をしばらくは食い止めることができるが、同時に、すべては結局無駄で、いつの日か自分が死にうるだけではなく、確実に死ぬことがわかる。 これこそ、20世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが「死に向かう存在」という有名な言葉で表現したものであり、彼はこれこそが人間の境遇にほかならないと考えた。 したがって私たちは、強力な頭脳に恵まれているものの、同時に、死ぬだけではなく、死なねばならぬことを知るという宿命を負わされている』、「私たちは、強力な頭脳に恵まれているものの、同時に、死ぬだけではなく、死なねばならぬことを知るという宿命を負わされている」、「死に向かう存在」である以上、避けて通ることは出来ない。
・『「自分」という視点を抜きに「自分の死」は想像できない  だが、第二の考え――そして、「死のパラドックス」のもう一面――は、その正反対のことを告げている。私たち自身の消滅は不可能だ、と。実際のところ私たちは、“自分が死んだらどうなるか”を想像しようとするたびに、つまずく羽目になる。現に存在していないところを思い描くことが、どうしてもできないのだ。 やってみてほしい。自分の葬儀までは、あるいは、ひょっとすると、暗い虚空までは思い浮かべられるかもしれないが、あなたは依然としてそこに存在している──観察者として、それを思い浮かべて眺めている目として。想像するという、まさにその行為が、あなたを魔法のランプの精のように呼び出し、仮想の存在とする。 したがって、思考する主体としての私たち自身に、死を現実のものにすることはできない。私たちの秀でた想像力が適切に機能しない。想像をしている者が、その想像をしている本人の不在を懸命に想像しようとしてもうまくいかないのだ。 「私たち自身の死を想像することはまったくもって不可能だ。そうしようとするたびに、じつは自分が傍観者として相変わらず存在していることが見て取れるから」と、ジークムント・フロイトは1915年に書いている。彼はここから、次のように結論した。「心の底では、自分が死ぬと信じている人は誰もいない……[なぜなら]無意識の中では、私たちの誰もが、自分は不死だと確信している」からだ。 あるいは、イングランドのロマン派の詩人エドワード・ヤングが言うとおり、「万人が、誰も死を免れないと思っている。自分自身を除けば、だが」。 現代の認知心理学は、この古来の直感に科学的な説明を与える。私たちが新しい事実や可能性を受け入れるかどうかは、それを想像できるかどうかに左右されるという。自分自身の死というのは、意識の終わりを伴うので、意識がないというのはどのようなものかを意識的になぞることはできない』、「自分自身の死というのは、意識の終わりを伴うので、意識がないというのはどのようなものかを意識的になぞることはできない」、確かにその通りだ。
・『「死のパラドックス」を抱えながら生きる  というわけで、私たちはパラドックスを抱えている。未来に目を凝らすと、永遠に生きたいという願望が満たされるように思える。いつの日か自分が存在しなくなることなど、考えられないように感じられるからだ。だから、私たちは自分の不死を信じている。 それでも同時に、毒ヘビから雪崩(なだれ)まで、自分の存在に対する無数の潜在的脅威を痛切に感じており、そこかしこで他の生き物が否応(いやおう)なく命を落とすところを目にする。だから、私たちは自分の死の必然性を信じている。私たちの過度に発達した知的能力が、お前は永遠だ、お前は永遠ではない、死は事実だ、死は不可能だ、と相反することを告げているように思える。 ジグムント・バウマンの言葉を借りると、「死の概念は矛盾を孕(はら)んでいる。そして、そうであり続ける運命にある」となる。私たちの不滅性と、死の必然性の両方が、同等の力を持って私たちの心の中に現れてくるのだから。 この「死のパラドックス」がどのように発生するかは、自分を客観的に眺めるか、主観的に眺めるかと考えれば、説明がつく――だが、説明がつくのと解決するのとは話が別だ。このパラドックスは、私たちの最終的な運命についての、2つの相容れぬ、それでいて強力な直感から成る。私たちはそのような緊張関係を抱えたまま生きてはいけないし、生きてはいない。そのような状態は、恐怖と希望の間の、継続的で身がすくむような苦闘となるだろう。 だが、大半の人はそのような生き方はしない。人間の境遇の中核にある矛盾に身がすくむようなことは、通常ない。それは、存在にまつわるこの窮境を理解するのに役立つ物語を創り出したからで、それらの物語が「不死のシナリオ」であることは言うまでもない。 「誰もが死ぬ。したがって、私も死ぬに違いない。だがこれは想像できないので、私たちは不死を創出し、その所産が文明である」(ブライアン・アップルヤード) 進歩そのものが、無期限の生を求める私たちの抑え難い欲望の産物なのだ』、「進歩そのものが、無期限の生を求める私たちの抑え難い欲望の産物なのだ」、なるほど。

次に、1月20日付け日経ビジネスオンラインが掲載した哲学博士のスティーヴン・ケイヴ氏による「全生物のうち、人類だけが「発展」できた4つの理由」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00421/011200002/
・『「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。2回目は、人類の発達の原動力となった、「4つの不死への願望」について』、「4つの不死への願望」とはどういうことだろう。
・『人類の営みはすべて、「4つの不死探求」につながっている  あらゆる生き物が先々まで生き延びようとするが、人間は永遠の生を求める。この探求、この不死への意志こそが、人類の業績の基盤であり、宗教の源泉、哲学の着想の起源、都市の創造者、芸術の背後にある衝動だ。それは私たちの本性そのものに埋め込まれており、その成果が、文明として知られているものにほかならない。 「どのようにして不死を達成するか」という物語は見たところ多様であるものの、その根底には4つの基本形態しかない。私はそれを4つの「不死のシナリオ」と呼ぶことにする。 永続的な生を達成するためにこれまでなされた──そして、これからなされるであろう──試みはすべて、その4つのシナリオをなぞる。4つのシナリオは、私たちが自らの最も素朴な衝動、すなわち、生き続けたいという衝動を誘導する道筋でありながら、最も高度な知的偉業や宗教的偉業や芸術的偉業へとつながってきた』、「4つのシナリオは、私たちが自らの最も素朴な衝動、すなわち、生き続けたいという衝動を誘導する道筋でありながら、最も高度な知的偉業や宗教的偉業や芸術的偉業へとつながってきた」、ずいぶん有益なことにつながったようだ。
・『科学・都市・文明……「生き延びる」ための涙ぐましい努力  第一の道は、私たちの本能に直接端を発している。他のあらゆる生き物と同じで、私たちも死を避けようと懸命に努力する。永遠に──物理的に、この世で──死を避けるという夢は、不死のシナリオのうちでも最も基本的なものだ。この最初の道は単に、「生き残りのシナリオ」と呼ぶことにする。 人は衰弱して死ぬという基本的事実を前にすると、このシナリオには期待が持てそうになく、論外にさえ思える。ところが、この考えは、じつに広く行き渡っている。ほぼあらゆる文化に、老化と死を打ち負かす秘密を発見した賢者や黄金時代の英雄や辺境の農民の伝説が見られる。 このシナリオは、若さと健康を保ち、少しばかり長く、1年、2年、あるいは10年よけいに生きようとする私たちの試みの延長にすぎない。食糧の供給や都市を囲む城壁といった、身体的欲求を満たして安全を守る文明の側面は、この道筋を行く第一歩であり、医療と衛生がそれに続く。 だが、大半の文明は、単なる長生きをはるかに凌(しの)ぐビジョンを見せる。病気や衰弱を永久に打ち負かす「不死の薬」の存在をほのめかすのだ。このビジョンは、道教のようなさまざまな宗教や、聖杯崇拝のような秘教・秘術を支えてきたが、今日ほど広まっている時代はかつてない。「科学の進歩」という概念そのものが、科学は寿命を果てしなく延ばせることを前提としており、定評のある多数の科学者や科学技術者が、寿命は程なく大幅に延びると考えている。 だが、「生き残りのシナリオ」にすべてを賭けるという戦略は危うい。これまでのところ、成功率ははなはだ心もとないからだ』、「「生き残りのシナリオ」にすべてを賭けるという戦略は危うい。これまでのところ、成功率ははなはだ心もとないからだ」、それはその通りだろう。
・『キリスト教・アバター・人体冷凍……「死後の生」への切望  したがって、第二の道が代替策を提供してくれる。それによれば、たとえ死が訪れても、やり直しが利くという。これが「蘇(よみがえ)りのシナリオ」で、私たちは物理的に死なねばならないとはいえ、生前に持っていたものと同じ身体で物理的に復活できるという信念だ。 蘇るという希望は、単に生き永らえようとする試みほど基本的なものではないにせよ、やはり自然に根差している。自然界は冬に死を迎えるものの、翌年には勢いも新たに蘇る様子を、私たちは見慣れているからだ。春になると世界中の何十億という人が、この、死に対する生の勝利を、人間も蘇るという見込みとあからさまに結びつけ、復活祭のような祝祭で祝う。信者の多くは気づいていないが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大一神教もみな、中心的教義として、文字どおりの物理的な蘇りを信じている。これらの宗教が初期に収めた成功は、この信念があればこそだった。 これらの古代からの伝統に加えて、別の形態の蘇りも、神よりテクノロジーを信頼したがる人々の間で人気が高まっている。たとえば、いつの日か 治療を施されて生き返ることを期待し、有償で遺体を凍結してもらう人体冷凍保存(クライオニクス)は、テクノロジーによる蘇りの新たな路線だ。 テクノロジーが急速に発展するなか、なおいっそうハイテクの蘇りの形態も提案されつつある。自分をコンピューターにアップロードし、それから新しい身体あるいはデジタルアバターにリロードする可能性がその一例だ』、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大一神教もみな、中心的教義として、文字どおりの物理的な蘇りを信じている。これらの宗教が初期に収めた成功は、この信念があればこそだった」、「イスラム教」まで「物理的な蘇りを信じている」とは初めて知った。「ハイテクの蘇りの形態も提案されつつある。自分をコンピューターにアップロードし、それから新しい身体あるいはデジタルアバターにリロードする可能性がその一例」、余り有難味があるとも思えないが・・・。
・『来世・生まれ変わり・輪廻(りんね)……「霊魂」による転生は可能か  とはいえ、来世では、たとえデジタル形式であってさえも、かつての身体を継承したがらぬ人もいる。物質界はあまりに当てにならず、永遠性を保証できないと思っているからだ。したがって彼らは、何らかの霊的存在、すなわち「霊魂」として生き延びることを夢見る。これが第三の道だ。 現在、地球上の人の大多数が、自分には霊魂があると信じている。じつに、イギリス人の3分の2、アメリカではそれよりもなお多くの割合の人が霊魂の存在を信じているという。この考えは、キリスト教では今や支配的な信念となっているだけでなく、ヒンドゥー教や仏教をはじめ、他の多くの宗教でも中核を成している。 この「霊魂のシナリオ」を信奉する人は「蘇りのシナリオ」の信奉者とは違い、この世に物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、何かもっと霊的なものから成る未来を信じる。先の2つほどには自然に根差してはいないものの、この信念も直感から生じる。 夢や神秘体験の中で、人間は身体を抜け出る感覚を久しく抱いてきた。昔から多くの人には、霊魂や心はそれが宿っている肉体から分離でき、したがって、肉体なしに生き延びられるように思えたのだ』、「この「霊魂のシナリオ」を信奉する人は「蘇りのシナリオ」の信奉者とは違い、この世に物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、何かもっと霊的なものから成る未来を信じる」、「物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、何かもっと霊的なものから成る未来を信じる」、信じるハードルは低そうだ。
・『名声・栄光・遺伝子……第四の「不滅」を求めて  霊魂の概念は東洋でも西洋でももてはやされてきたものの、この概念にも疑いを抱く人はいた。物質志向の人の場合には、特にそうだ。そのような人でさえ、おそらく最も広く普及しているシナリオ、すなわち第四の道である「遺産(レガシー)のシナリオ」には慰めを見出すことができる。 この考えは、物理的な身体の存続も非物質的な霊魂も必要とせず、その代わりに、もっと間接的な形──名声や栄光、あるいは遺伝子といった形─―で未来まで存続することを主眼としている。名声と不死の結びつきは、古代世界では広く見られたし、それ以後も、ギリシア神話の英雄アキレウスがトロイアの戦場で長寿よりも永遠の栄光を選んだ例に、多くの人が倣(なら)ってきた。 文化には、生きとし生けるものには欠けている永続性と堅牢(けんろう)性が備わっており、したがって、永遠の生は、文化の領域に自らの居場所を確保できる人のものだと、古代ギリシア人は信じていた。今日私たちは、アキレウスが必死に栄光を求めたのに劣らず、名を上げようと躍起になっているように見える。文化の中に位置を占めようとする競争は、相変わらず熾烈(しれつ)だ。 多くの人は、名望だけではなく、より具体的なもの、すなわち子孫まで後に残す。私たちの遺伝子は不滅だと言われてきた。まさに生命の起源にまで、はるか何十億年も遡れるし、運が良ければ、遠い未来にまで続いていくだろうからだ。 あるいは、一部の人が主張するように、私たちの遺産は、地球上の生命の一環──個々の人間が死んだ後も末永く生き続ける超個体、いわゆる「ガイア」の一環──であったこと、さらには、発展していく宇宙の一環でさえあったことかもしれない』、「物理的な身体の存続も非物質的な霊魂も必要とせず、その代わりに、もっと間接的な形──名声や栄光、あるいは遺伝子といった形─―で未来まで存続することを主眼としている。名声と不死の結びつきは、古代世界では広く見られたし、それ以後も、ギリシア神話の英雄アキレウスがトロイアの戦場で長寿よりも永遠の栄光を選んだ例に、多くの人が倣(なら)ってきた」、なるほど。
・『結局、どうすれば「不死」を実現できるのか  これらのシナリオは、古代の神話から最近のマニュフェストまで、多種多様な形で示されるが、どの文化にも最低1つは見られ、生の道の道標となっている。何千年にもわたってたった1つの道をたどってきた文明もあれば、進む道を替えた文明もある。だが、4つのうちのどれにも支えられずに存続してきた文明は1つとしてない。どの文明にも不死のシナリオがあり、それらはみな、今挙げた4つのどれかに該当する。 今日の先進世界でも、4つのシナリオがすべて健在だ。ただし、単一の物語にまとめ上げられてはいない。むしろ、信念の市場でそれぞれの見方が競い合っている。市場を見て回り、じっくり考えてからどれにするか決める人もいれば、最新の流行を追う人もいるが、大半の人は単に、親が買ったものを買う。だが、承知していようといまいと、私たちの大多数は、山積みになった不死の信条のいずれかを買っている。 これらの不死の4つのシナリオの1つひとつは、私たちの文明を現在のもののようにならしめる上で、どのような貢献をしてきたのだろうか。そして同時に、これら4つの道のどれが本当に約束を果たす可能性があるのだろうか。 4つのシナリオは、人間の境遇に深く根差した側面に動機づけられて生み出されたが、だからといって、それらが正しいかどうかはわからない。みな、歴史の黎明(れいめい)期に人類によって成し遂げられた正真正銘の発見かもしれないし、あるいは、希望的観測の手の込んだ産物ということもありうる。 私たちは、不死の秘密を解明するように「死のパラドックス」(連載第1回参照)によって駆り立てられたのかもしれないし、あるいは、不死の秘密を創作するように駆り立てられたこともありうる。それぞれの道は歴史を通して、仮に何十億と言わぬまでも、何億、何千万という信奉者を集めてきた。そして、現在もなお、集めている。それぞれが、多数の哲学者や神学者や賢者に擁護されてきた。 そのうちの1つ、あるいはすべてが、深い森を抜け、雲の上の、不老不死の山の日当たりの良い頂上まで私たちを導いてくれるのか、どれ1つとして導いてはくれないのかは、まだ探求の途上なのだ』、「4つのシナリオは、人間の境遇に深く根差した側面に動機づけられて生み出されたが、だからといって、それらが正しいかどうかはわからない。みな、歴史の黎明(れいめい)期に人類によって成し遂げられた正真正銘の発見かもしれないし、あるいは、希望的観測の手の込んだ産物ということもありうる」、「まだ探求の途上なのだ」、「探求」は永遠に続くのだろう。
タグ:「私たちの強力な知性は、私たちも身の回りの他のあらゆる生き物同様、いつの日か死なねばならないという結論に情け容赦なく至る。それにもかかわらず、その一方では、私たちの頭脳には1つだけ想像できぬものがあり、それは、死という、自分が存在しない状態そのものだ。それは文字どおり、考えられない。 したがって、死は不可避かつ信じ難いものという印象を与える。これを私は「死のパラドックス」と呼ぶ」、確かに「死」は「想像できない」。 「文明という営みの大半を含め、私たちの成すことのじつに多くが、「不死」への衝動によって説明できるのだ』、なるほど。 スティーヴン・ケイヴ氏による「死は、それ自体が「パラドックス」である」 日経ビジネスオンライン 終活(死への準備) (その1)(哲学博士スティーヴン・ケイヴ4題中の前半:①死は それ自体が「パラドックス」である、②全生物のうち 人類だけが「発展」できた4つの理由) 「私たちは、強力な頭脳に恵まれているものの、同時に、死ぬだけではなく、死なねばならぬことを知るという宿命を負わされている」、「死に向かう存在」である以上、避けて通ることは出来ない。 「自分自身の死というのは、意識の終わりを伴うので、意識がないというのはどのようなものかを意識的になぞることはできない」、確かにその通りだ。 「進歩そのものが、無期限の生を求める私たちの抑え難い欲望の産物なのだ」、なるほど。 スティーヴン・ケイヴ氏による「全生物のうち、人類だけが「発展」できた4つの理由」 「4つの不死への願望」とはどういうことだろう。 「4つのシナリオは、私たちが自らの最も素朴な衝動、すなわち、生き続けたいという衝動を誘導する道筋でありながら、最も高度な知的偉業や宗教的偉業や芸術的偉業へとつながってきた」、ずいぶん有益なことにつながったようだ。 「「生き残りのシナリオ」にすべてを賭けるという戦略は危うい。これまでのところ、成功率ははなはだ心もとないからだ」、それはその通りだろう。 「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大一神教もみな、中心的教義として、文字どおりの物理的な蘇りを信じている。これらの宗教が初期に収めた成功は、この信念があればこそだった」、「イスラム教」まで「物理的な蘇りを信じている」とは初めて知った。「ハイテクの蘇りの形態も提案されつつある。自分をコンピューターにアップロードし、それから新しい身体あるいはデジタルアバターにリロードする可能性がその一例」、余り有難味があるとも思えないが・・・。 「この「霊魂のシナリオ」を信奉する人は「蘇りのシナリオ」の信奉者とは違い、この世に物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、何かもっと霊的なものから成る未来を信じる」、「物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、何かもっと霊的なものから成る未来を信じる」、信じるハードルは低そうだ。 「物理的な身体の存続も非物質的な霊魂も必要とせず、その代わりに、もっと間接的な形──名声や栄光、あるいは遺伝子といった形─―で未来まで存続することを主眼としている。名声と不死の結びつきは、古代世界では広く見られたし、それ以後も、ギリシア神話の英雄アキレウスがトロイアの戦場で長寿よりも永遠の栄光を選んだ例に、多くの人が倣(なら)ってきた」、なるほど。 「4つのシナリオは、人間の境遇に深く根差した側面に動機づけられて生み出されたが、だからといって、それらが正しいかどうかはわからない。みな、歴史の黎明(れいめい)期に人類によって成し遂げられた正真正銘の発見かもしれないし、あるいは、希望的観測の手の込んだ産物ということもありうる」、「まだ探求の途上なのだ」、「探求」は永遠に続くのだろう。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感