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自殺(その4)(養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」、なぜ子どもの自殺が「過去最悪」となっているのか…「遊びの喪失」がもたらす深刻な影響 人生をシミュレートする活動「遊び」が失われている) [社会]

自殺については、昨年3月13日に取上げた、今日は、(その4)(養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」、なぜ子どもの自殺が「過去最悪」となっているのか…「遊びの喪失」がもたらす深刻な影響 人生をシミュレートする活動「遊び」が失われている)である。

先ずは、2月18日付け日経ビジネスオンラインが掲載した「養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/012600001/
・『「子どもの自殺について語り合いたい」 ―― 解剖学者の養老孟司先生による問題提起から、この連載はスタートしました。 「私たちは、子どもたちが幸せになれる社会をつくれるのか。統計上、子どもの自殺は増えており、私たちの社会は今、子どもが死にたいと思うような社会になっている。子どもが死にたがる社会でいいのか。なぜ、子どもが死にたくなるような社会になってしまったのか、何をどう変えるべきなのか。この問題について語り合いたい」ーー取材・構成を担当したのは、日経ビジネス電子版で「もっと教えて! 『発達障害のリアル』」を担当する、フリーランスの黒坂真由子。 子どもの自殺を起点に、脳化社会(情報化社会)や近代日本人の自我の問題など、議論すべきトピックは多岐にわたります。子どもの自殺は、現代社会のひずみの象徴でもあります。一緒に考えてみませんか(Qは聞き手の質問)。  Q:なぜ今、子どもの自殺が増えているのでしょうか? 養老孟司氏(以下、養老):理由は多分、一つじゃないですね。結構、厄介な問題だと思います。しかし、そもそも答えを簡単に出せるような問題というのは、大した問題じゃないんです。いろいろなことが関係しています。ですからこの場を使って、一つひとつひもといていきましょう。  Q:統計を確認します。昨年の10月に発表された文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査(※1)」によると、小中高生の自殺は2008年度から増加基調にあり、令和2年度(2020年度)は415人で調査開始以降、最多。前年度に比べ30%ほど、約100人の増加となりました。 自殺の統計はほかにもあり、警察庁のデータでは同時期500人を超えた人数が示されています(※2)。このような統計データに表れる数字が氷山の一角であると考えると、自殺にまでは至らなかったものの、困難な状況にある子どもが多くいることが考えられます。 自殺が大きく増えた2020年度というのは、コロナ禍で全国一斉休校となった時期と重なります。学校に行かず家にいる間に、多くの子どもたちが、自らの命を絶つ決断をした。このことについて、どうお考えになりますか? ※1.学校が把握し、計上した数字が「年度」で集計されている。 ※2.警察庁における令和3年1〜3月の数値は暫定値。 養老:まず、家庭が「生きる」ということに対して、寄与していない。子どもが元気に生きる、幸せに生きるということに対してですね』、「家庭が」「子どもが元気に生きる、幸せに生きるということに対して」「寄与していない」、残念なことだ。
・『家にいたから、死にたくなった?  Q: 家にいたから死にたくなってしまった子が、たくさんいた。ステイホーム期間中の自殺の増加は、こうも捉えられる、ということですね。 養老:そう、むしろ学校に行くと救われる。もともと若い人にとって、大勢の人と一緒に何かをするというのは、生きがいです。それを奪われた形になったのですね。 Q: では家庭というのはもう、子どもを守る機能を果たせていないのでしょうか? 養老:どうお考えですかね、皆さん。 そもそも現代社会においては、家庭というものが、あまり意味を持たなくなってきました。これは核家族が主流になった先に、起こってきたことです。もちろん、「核家族になろう」と決めてやってきたわけではありません。ひとりでにそうなったわけです。しかし、この「ひとりでに起こった」ことの原因を考えるのは、難しい。あれこれいってもしょうがないところがある。とにかく、ありとあらゆる理由があって、こういう状況になったわけです。 Q: コロナ禍に入ったころの家庭の状況を思い起こせば、子どもが家にいるしかなくなったとき、親がいたとしても慣れないリモートワークで忙しく、子どもは一人でゲームをしていたり、部屋にこもって動画を見ていたりする。あるいは一人でぼんやり配信授業を受けている。そんな家庭は多かったと思います』、「ステイホーム期間中の自殺の増加は」、「もともと若い人にとって、大勢の人と一緒に何かをするというのは、生きがいです。それを奪われた形になったのですね」、なるほど。
・『生身の人間と関わりたくない  養老:人と関わるのは生きがいにもなりますが、大変です。その大変さのほうを現代社会は重く見て、随分と人間関係を削ってきてしまいましたね。生身の人と面と向かって付き合うのが嫌だというか、好まれてない。それに拍車をかけているのが、おそらくネット社会です。つまり、情報のやりとりだけにとどめたいと。 このごろの医者は、患者さんを見ません。カルテを見ている。検査の結果という「情報」を見ています。患者さんの顔も見ないし、手も握らない。年寄りがよく文句を言っています。 これがどういうことかといえば、システム化された社会では、情報以外のものはすべて「ノイズ」だということです。システム化された医療においては、数字で測って出るデータ以外は、ノイズなのです。ですから、「患者さん自身」はノイズです。いらないのです。ノイズだから。 Q: データがあれば診断できるからですか? 養老:というより、システムのなかで扱えるものしか、扱わなくなっている』。「システム化された社会では、情報以外のものはすべて「ノイズ」だということです。システム化された医療においては、数字で測って出るデータ以外は、ノイズなのです」、「「患者さん自身」はノイズです。いらないのです」、「システム化」の行き過ぎは予想外の問題を引き起こすようだ。
・『生身の人間がノイズとなり、排除される  Q: システム化された社会、情報を中心とした脳化社会にとって、人間はノイズになってしまう。それはつまり、生身の人間は排除されてしまうということなのでしょうか? 養老:そうです。生身の人間はいらないのですよ。生身の患者は、うるさいのです。生身の人間に「ここが痛い」「あそこがかゆい」などといわれるのは、面倒なのです。きれいな数字になったデータであれば、「この値が正常値からずれていますから、この水準に戻しましょう」という話で済みます。  思い当たることがあります。地元の整形外科に先生が2人いらして、年配の先生か若い先生を選べるようになっているんです。若い先生が人気かと思いきや、年配の先生がいつも数時間待ちなんですね。通院してその先生にお世話になったときに、理由がわかりました。目を見ながら話を聞き、痛いところに優しく手を当ててくださるんです。長年通っているお年寄りも多いと、スタッフの方が言っていました。先生の顔が見たくて来院する。お土産を持ってきたりして。 ただ生身の人間として扱われるということが、それほどうれしい。そんな時代になっているのですね』、「生身の患者は、うるさいのです。生身の人間に「ここが痛い」「あそこがかゆい」などといわれるのは、面倒なのです。きれいな数字になったデータであれば、「この値が正常値からずれていますから、この水準に戻しましょう」という話で済みます」、確かに「整形外科」で、「若い先生が人気かと思いきや、年配の先生がいつも数時間待ちなんです」、(年配の先生は)「目を見ながら話を聞き、痛いところに優しく手を当ててくださるんです」、確かに若い先生はデータ重視で検査結果を見るのに追われ、患者の方はろくに見ないケースが多いようだ。
・『「脳の世界」と「身体の世界」   Q:多くの大人にとって、生身の人間はノイズになっている。けれど、子どもたちは違うのですよね。子どもたちにとっては、家に一人でいるより、学校に通って、みんなと一緒にいるほうが生きやすい。とすれば、子どもにとって生身の人間は、ノイズではないということですか?  養老:そうです。 Q: 先生は以前から、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」を比較して論じています。そして大人は「脳の世界」に属し、子どもは「自然の世界」「身体の世界」に属すものであると。著作から引用します。 現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである。 都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。『唯脳論』(ちくま学芸文庫/初出は青土社、1989年) 都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。 そうはいかないのが、子どもという自然なのである。 『遺言。』(新潮新書/2017年)』、「都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない」、「子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う」、「子どもは自然である」とは言い得て妙だ。
・『コロナ禍で明らかになった「子どものノイズ化」  養老:子どもにとって、生身の人間との接触は、生きる上で重要な意味を持ちます。親と視線を合わせ、そのときの表情から、自分に対する関心や愛情を読み取る。そのようなことが、子どもが幸せに生きるうえで効いてきます。  Q:しかしステイホームの期間、生身の人間をノイズと見なす大人といる時間が、極端に増えてしまった。それが、子どもたちの自殺が増えた一因であると。 養老:実際、子どもたちは、ノイズ扱いされているでしょう。 Q: 確かに家で仕事をしていると、「静かにしてほしい」と思うことは多々あります……。 養老:虐待事件も、その延長ですよね。でもね、子どもというのは本来うるさいものなんですよ。僕は長く、保育園の理事をしていたので知っています。今、保育園を建てようとすると、「うるさいから駄目」といわれます。年寄りがいいます。しかも、耳の遠い年寄りがいうんですから。 全体を通じていえることは、子どもが子どもであることを許されていない。子どもに対する、最も一般的な見方が「大人の予備軍」になっています。子どもを「小さい大人」として見ている。本来の意味における、子どもというものの存在を認めていないのです。これから大人になる何か。 小さい大人ですから、大人の物差しを当てる。だから「うるさい」だの「足りない」だの、いろいろな問題をいいたてます。子どもには子どもを測る物差しがあるのに、それを使おうとしない。学校にいるほうがまだよくて、ずっと家にいると、四六時中大人の物差しで測られることになりかねません。 Q: 子どもの存在を「ノイズ」と感じてしまうのは、私たち大人が、大人用の物差しで子どもを見ているからなんですね。 養老:子どもを「うるさい」と問題視するのは、大人の基準です。先にもいいましたが、子どもというのは本来うるさいものです。 Q: 確かに、すごくおとなしい子どもがいたら、逆に心配かもしれません。けれど 「周りに迷惑を掛けてはいけない」という圧力を、親は強く感じています。電車やバス、公共の場所で、小さい子どもを泣かせないように、ぐずらせないようにと苦心している親御さんを多く見ます。 養老:それはもう本当に、言い返したほうがいいと思います。「人は生きているだけで、周りに迷惑をかけているのです。あなたも同じではないですか」と。それを昔は、「お互いさま」といいました。それがなくなってきてしまいました。 Q: 確かに「お互いさま」という言葉は、聞かなくなった気がします。 養老:皆さん、自分は独立して生きていると思っているから。本当は、お互いさまで生きているのに』、「ステイホームの期間、生身の人間をノイズと見なす大人といる時間が、極端に増えてしまった。それが、子どもたちの自殺が増えた一因であると」、「子ども」たちには、「「ステイホームの期間」は悲劇だったようだ。「「人は生きているだけで、周りに迷惑をかけているのです。あなたも同じではないですか」と。それを昔は、「お互いさま」といいました。それがなくなってきてしまいました」、「「お互いさま」という言葉は、聞かなくなった気がします」、同感である。
・『なぜ、同じオフィスにいる人にメールするのか?  養老:ノイズ扱いされているのは、子どもだけではありません。脳によって作り出された情報化社会では、「身体」はすべてノイズです。 Q: 養老先生の言葉をお借りするなら、生身の人間は、雑音を含みすぎている。 生身のヒトはいわば「雑音を含み過ぎている」。意味を持たない、さまざまな性質が生身には含まれてしまう。そんなものはいらない、面倒くさい。『遺言。』(新潮新書/2017年) 養老:会社でもそうでしょう。生身の人間は避けられます。「同じオフィスで働いている新入社員が、仕事の報告をメールでしてくる」と課長が怒っているといった話を、6月ごろになると聞きます。しかし、新入社員にしてみれば、無理もありません。生身の課長のところに報告に行ったら、たまさか二日酔いで機嫌が悪いかもしれない。たまったものじゃない。ころころと機嫌が変わる課長の顔色をうかがうのが、自分の仕事ではない。自分の給料は、仕事に対して支払われているのである。だから、「仕事はちゃんとできているとメールで報告すればいいだろう」と考える。生身の人間をノイズと感じる、そういう社会になっているんです。 Q: 脳化社会、情報化社会において、生身の身体が抑圧されている。それが、子どもの自殺が増える一因である、と。先生の本に印象的なフレーズがありました。 社会は暗黙のうちに脳化を目指す。そこではなにが起こるか。「身体性」の抑圧である。 『唯脳論』(ちくま学芸文庫/初出は青土社、1989年) 養老:ノイズ扱いされているのは、子どもだけではないのです。(次回に続く)』、「 脳化社会、情報化社会において、生身の身体が抑圧されている。それが、子どもの自殺が増える一因である」、なるほど。なお、「次回」以降は有料部分が多いので、紹介は省略する。

次に、4月9日付けPRESIDENT Onlineが掲載した白梅学園大学名誉学長・東京大学名誉教授の汐見 稔幸氏による「なぜ子どもの自殺が「過去最悪」となっているのか…「遊びの喪失」がもたらす深刻な影響 人生をシミュレートする活動「遊び」が失われている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/56371
・『子どもの自殺が増え続けている。2020年には499人と過去最悪となった。東京大学名誉教授の汐見稔幸さんは、「子どもたちの『困難を解決する力』が弱くなっている。その背景には、人生をシミュレートする活動である『遊び』が失われたことがある」という――。(前編/全2回)』、興味深そうだ。
・『子どもの自殺に対して日本人は感覚が麻痺している  子どもの自殺が増えつづけている。文部科学省の発表によると、2020年の1年間で、499人の小中高校生が自殺した。これは過去最悪の数字で、この数年、子どもの自殺者数は過去最悪を更新しつづけている。 いまの日本は1年に子どもが500人近く自殺する国なのだ。多いと考えるか少ないと考えるか、基準がないので判断は難しいが、頭によぎったのはしばらく前に訪れたキューバのことだった。 世界一と言われるキューバの医療制度とか教育制度、それと都市部で大規模に行われている自然農に関心があった私は、世界遺産の街ハバナを中心に友人たちとあちこちを訪問した。そのとき案内してくれた若者が、雑談のおり、私たちに悲しそうな顔でこう言ったのだ。 「去年とうとうキューバで自殺者が1人出てしまったんです」 人口1000万強で自殺者が1人出たことを悲しそうに語る国と、国民の多くが知らないうちに子どもだけでも500人近く自殺してしまっている国と。感覚の麻痺に敏感でないといけないと思い知った体験だった』、「2020年の1年間で、499人の小中高校生が自殺」、感覚的には確かに多いようだ。
・『困難を乗り越えることができない現代の子ども  子どもは突然自殺を願望するわけではあるまい。 日頃の生活ぶりの中に、生きることに希望を失ったり、ちょっとした失敗をうまく乗り越えることができなくて苦しんでしまったり、等々、ちゃんとした理由があるはずだ。その多くは、その子自身の育ちの過程で抱えた困難を、その子自身がうまく処理・解決できなかったか、周りがそれに気づいてその子の困難解決をうまく応援できなかったか、が背景にあるのだろう。いずれも子どもの育ちの過程の実際とその質の問題だ。 ここでは、そういうことを考えるために、子ども自身の生活ぶりが短期間にどう変わってきたかを探ってみることにしたい。日常に埋没するとその日常の特色が見えなくなるので、ここでは少し歴史的に子どもの生活ぶり、特に子どもにとってもっとも大事な、人生をシミュレートする活動である遊びを中心にその変遷をみてみたい』、「子どもにとってもっとも大事な、人生をシミュレートする活動である遊びを中心にその変遷をみてみたい」、なかなかいい思い付きだ。
・『「時間・空間・仲間」が失われたことだけが原因なのか  子どもが自由に遊ぶには3つの「間ま」が必要とよく言われる。 時間、空間、仲間の3つの間だ。この3つの間が失われてきたことが、子どもが次第に遊ばなくなった、遊べなくなった原因だという考えだ。子どもの育ちにとって、自由で、時に冒険的で、ダイナミックな遊びは、心も体も頭もいつのまにか鍛えてくれる自然の学校になる。それが次第になくなってしまった。塾通い等で子どもは自由な時間が奪われている。道路がすべて舗装され道ばたで子どもが遊ぶことは危険になった。少子化の上、群れて遊ぶ異年齢の集団もなくなった。この3つが、子どもたちが地域社会で遊ばなくなった原因だ。こういう説明だ。 しかし、どうだろうか。 私などは、いや、ちょっとまてよ、という気持ちになる。子どもは本当に遊びたければ、どんな小さな空間でも遊ぶだろうし、ちょっとした隙間時間でも遊ぼうとするのではないか。そこに仲間がいなくても、遊びが面白いとなれば仲間は増えていくはずだ。確かに「3つの間」の喪失は子どもの遊びの減少を説明する必要条件かもしれないが、それで十分に説明されているとは思えない。私などはそう感じる』、「確かに「3つの間」の喪失は子どもの遊びの減少を説明する必要条件かもしれないが、それで十分に説明されているとは思えない」、さすが学者らしい。
・『「遊び=ゲーム」だと思っていた若いお父さん  現代の若い世代は、自身の子ども時代に大胆で冒険的な、それでいて面白いと感じさせてくれるような昔風の遊びの体験がない人が多い。 ある保育園で遊びの大切さを学ぶ講演会を開いたが、講演が終わったあと、参加していた若い父親に園長が「お父さん、わかったでしょう。もっとお子さんと遊んであげてくださいね。遊びは本当に大事なんですから」といった。するとその父親は「いや、よくわかりましたが、うちの息子はまだちょっと無理だと思うんですよ」「え、どうして? 2歳なんだからもう十分に遊べますよ」「いやあ、ちょっと無理だと思いますけどねえ」「どうして? 十分遊べますよ」「いやあ、2歳の子にはゲームは無理ですよ」…… 何のことはない、このお父さん、「遊び=ゲーム遊び」と思い込んでいたのだ。園長が聞くと子どもの頃の遊びはゲーム以外記憶にないとのこと。ゲームがものすごい勢いで広がっていた40年ほど前の話だ。昔の子どもの遊びは、映画で見るか写真で見ないかぎり、実感できない時代になっている』、「昔の子どもの遊びは、映画で見るか写真で見ないかぎり、実感できない時代になっている、時代の変化は想像以上に大きいようだ。
・『昔の子どもはおもちゃを手作りしていた  昭和の子どもはどんな遊びをしていたのだろうか。 下記の絵は、熊本市に住むグラフィックデザイナーで印刷業等も営んでおられる原賀隆一さんが丹精込めて描かれた『ふるさと子供 遊びの学校』という本からのものだ。 原賀さんはこの本の中に、子どもの頃に遊んだ遊びや手伝いの様子を実にきめ細やかに自分の絵で再現している。原賀さんは1991年に『ふるさと子供グラフティ』という本を出版(自費)され、昭和の時代の遊びの面白さとそれが失われていく悲しさをバネに、子どもたちは実際にどんな遊びをしていたか、記憶をたよりに、絵でそれを表現し始めた方である。その後『ふるさと子供ウィズダム』を2年後に出され、その約10年後に引用の絵の描かれている『ふるさと子供 遊びの学校』を出版した。 この絵はミノ虫ごっこと名付けられているが、見てほしいのは、このミノ虫型の入れ物を子どもたちは自分の手で一からつくったということだ。本のその前のページにはその作業過程が紹介されている。それぞれがつくったら木に登り、枝までそろそろ進み、適当なところに手製のかごをぶら下げ、それから注意してその中に入る。見事なものというしかない。 その次は、体操ロボットと名付けられた遊び。小さくて見にくいかもしれないが、竹細工の一つだ。鉄棒選手を一人木で削ってつくり、削って大きさを整えた竹を組み合わせて鉄棒をつくってその腕を竹細工の鉄棒にはった紐に通す。その作業の様子が説明されている。今の子どもたちでも、こういうおもちゃをつくろうと呼びかければ、応じる子が多いのではなかろうか。 子どもたちは、ちょっと前までは、遊び道具、おもちゃの大部分を自前でつくるしかなかった。私などもそうで、親父にねだって、小学校に入る前に、大工道具一式自分のものをもっていた。ノミもカンナもブリキを切るはさみやガラス切りももっていた。それで何でも自分でつくるのである。 当時は、今のように児童公園などはない。 あるのは道ばた、原っぱ、河原、畑、田んぼ、川原、川、あぜ道、ドブ、橋の下、空き家、場合によっては海岸等だけだ。そこで遊ぶには、そこにあるものを最大限利用して何かの遊びを創造するか、遊び道具の方を工夫してつくり出すか、いずれしかなかった。遊び道具づくりは大人に教えてもらった子どもが代々伝えていったのだと思う。そのため、子どもたちは小さな折りたたみナイフを日常的に持ち歩いていた。写真に見られる肥後守ひごのかみというナイフだ。これで枝を切り、木を削り、何でも自分でつくろうとしたのだ。 今の社会で子どもがポケットに毎日ナイフを忍ばせていたらなんといわれるだろうか。しかし少し前までは日常的に、誰もが持ち歩いていたのである』、私も「何かの遊びを創造するか、遊び道具の方を工夫してつくり出す」しかなかったが、「ナイフ」を持ち歩くことはなかった。
・『日本のものづくりの力は遊びで育まれた  こうした事実は何を表しているのだろうか。 実は近代の日本の産業界をになった人物の多くが、学校ではなく、こうした生活の中でも工夫や努力によってもの作りの才覚を身につけていったということが示唆されている。 松下幸之助氏は小学校4年までしか行っていないし、本田宗一郎氏の学歴も小卒だ。私の親父もレコードを作らせたらこの人の右に出る人はいないと作家五味康祐にいわせた録音技師だったが、学歴はやはり小卒だ(『芸術新潮』1973年秋号)。 元京都大学教育学部教授だった藤本浩之輔氏が明治時代に子どもだった人に聞き取って、当時の生活を再現した『明治の子ども 遊びと暮らし』(本邦書籍1986年)という興味深い本があるが、その中でも明治時代の子どもの実にダイナミックな遊びの様子が聞き書きで再現されている。 それを見ても、明治以降の日本の近代化を最も底辺で支えたのは、もの作りの工夫を尋常ならざるレヴェルで追求した職人魂の持ち主たちで、その動機、志向性は生活の中特に遊びの工夫の中で育まれたという印象が強くなる。明治期の職人たちが、日本の産業革命後に工場で職工として活躍したのであるが、その職人的な志向性は子どもの頃の遊びの中に淵源をもっている』、「明治期の職人たちが、日本の産業革命後に工場で職工として活躍したのであるが、その職人的な志向性は子どもの頃の遊びの中に淵源をもっている」、たぶんその通りなのだろう。
・『1970年代に子どもの遊びは大きく変容した  原賀氏が再現したのは戦前から戦後の時期の子どもの遊びだが、戦後、高度経済成長期以降は、こうした遊びはどうなっていったのであろうか。 今度は一連の写真を見ていただきたい。 これらの写真は、写真家であり学校の教師であった宮原洋一氏が、趣味で撮り始めた頃の子どもの遊びの様子だ。宮原氏は1960年代の末頃から東京や川崎で、子どもの遊びや手伝いの様子を写真で撮り続けた。 氏が学校を定年でやめる2000年代になって、これまで何万枚と撮ってきた子どもの写真を整理してみたという。すると、この写真のようなダイナミックでときに大胆でスケールの大きな遊びは、1970年代に入ると急に減ってきて、80年代には全く撮れなくなったというのである。 日本では1970年代に子どもの遊びが大きく変容したのである』、「日本では1970年代に子どもの遊びが大きく変容した」、初めて知った。
・『荒れる学校、不登校、いじめ…さまざまな問題が噴出  そして宮原氏は「こうした遊びを日本の子どもがしなくなったときと、中学校が荒れ、子どもにいじめ、不登校等の問題が大きく起こってきたときがきっちり重なります」「なぜ子どもたちは問題行動をおこすのか、その原因の一端はこの遊びと生活の変化の中にあるのではないですか」 そう感じて宮原氏は、この60年代末から70年代初めの頃の子どもたちの遊びと生活の写真を出版したという。題して『もう一つの学校』(新評論)である』、「子どもの遊びの変化」と「荒れる学校、不登校、いじめ…さまざまな問題が噴出」の時期の一致以外に、実態的な関連があるのかどうかが問題だ。
・『深刻な運動能力の衰え  遊びが失われると、子どもの育ちにはどのような影響が生じるのだろうか。 容易に想像できるのは、体の柔軟性、しなやかさ、俊敏性、忍耐力など、筋肉系と神経系、循環器系等の育ちの違いだろう。実際、文科省が行っている小中高校生に対する運動能力テストのデータは1985年ごろをピークに下がってきて、教育関係者を焦らせた。50メーター走などの走力だけでなく、俊敏力、投力等も下がってきて、体格は伸びているのに、運動能力が下がって関係者は驚いたものだ。 図表1は、運動能力テストの中の女子の1000メーター走の結果を昭和45年と平成12年で比較したものだ。 昭和45年は1970年で平成12年は2000年だからちょうど30年の差がある。このグラフは母親と娘の持久走力の比較のようなものだ。ごらんのようにだいたい20秒の差がある。 21世紀に入って文科省は焦って学校に運動指導の強化を要請したが、形式的な一斉指導を導入すると、逆にデータが下がってしまう等がわかり、遊びの中で育った体の力を意識的に取り戻すことには、十分な工夫が必要なことがわかってきている』、「小中高校生に対する運動能力テストのデータは1985年ごろをピークに下がってきて、教育関係者を焦らせた」、確かに深刻だ。
・『自然遊びではコミュニケーション力も伸びる  もう一つ、こうした遊びを積極的に子どもの頃から行う場合とそうでない場合とで育ちに違いが出てくる分野がある。それが意外なことにコミュニケーション能力だ。 作家の浜田久美子氏の著書『森の力 育む、癒す、地域をつくる』(岩波新書)の冒頭の方に次のような一節がある。 「そのとき(※筆者註:2001年)の取材でもっとも驚いたことは、森の幼稚園に通う子どもたちはコミュニケーション能力が高くなるという点だった。ドイツでの比較研究によれば、森の幼稚園に通う子どもと普通の幼稚園の子どもとでは、発話が早い、発話量が多い、語彙が豊富などが、森の幼稚園の子どもに顕著に見られる特徴なのだという」(p4) 森の幼稚園というのは、森や林、川、海岸など自然の中で自由に遊ばせ、生活させることで子どもを育てようとする1960年代にデンマークから始まった運動だ。今はドイツや北欧の諸国で熱心に取り組まれている。 浜田さんも驚いているが、どうして、毎日自然の中で走ったり、木に登ったり、川で遊んだりしていると、コミュニケーション力、言葉力が高くなるのか。おそらく、自然の中で自由に遊んでいると「ちょっと、そこ持っていて! ちがう! ここ、ここ、そう、そこ!」「あ、そこ滑るから危ないよ! 左によった方がいい!」「足下に赤い実のなる草があるよ、そう、そこ、見て!」などというコミュニケーションというか言葉でのやりとりが必須になる。その場で、ちょうどそのとき、できるだけ的確な言葉で、相手に通じる言い方で伝える、ということを繰り返さないと遊ぶことができない。これが自然の中での遊びの特徴になり、結果として子どもたちの言葉力、コミュニケーション力が伸びるのだろう。 この力は、その後友人を作るときも、遊びを計画するときも、学校で発言するときも、間違いなく生きてくる。その意味で人間力の基本が以前の子どもたちがやっていたような遊びの中で育つのだ』、「人間力の基本が以前の子どもたちがやっていたような遊びの中で育つのだ」、その通りだ。
・『遊びには「積み重ね」が必要  最初に空間、時間、仲間の三つの間がなくなってきたことが子どもの遊び力の衰退の要因だという言い方にはもっとていねいな吟味が必要だと述べた。 たとえば先の宮原氏の写真の中で、公園の滑り台から飛び降りる遊びをしている子どもたちの様子をもう一度見てほしい。現在の子どもたちに、同じような滑り台とマットを与えたらどうなるだろうか。おそらく、誰もこういう遊びをしないだろう。やってごらんといっても怖がってしないと思うし、無理にさせようとすると逃げていくにきまっている。 つまり、遊びには、幼い頃から徐々に上手になり、大胆になっていくという積み上げが必要なのだ。 遊びは、工夫してやることでだんだん面白くなるという体験、やっとできたという達成感、それに伴う喜びの感情、そしてもっと挑んでみようという意欲、そうした感情体験と、それらを通じて育つ自分への信頼感や自信、そうしたものがない交ぜになった遊び体験のポジティブな感情と記憶が体に刻み込まれていなくてはならない。 もちろんスキルアップはいる。しかし遊び力というのは単なるスキルアップではなく、世界を自分のものにできるという情動的能動性が高まっていくことなのだ。体が遊びを覚え、それが世界に向かうときのその子の能動的な立ち位置をたかめていく。 今はこうした体験を幼児期からすることが極めて困難になっている。 体に遊びのワザと喜びの記憶が刻み込まれていかないし、自分はできるという自己信頼も育てることが難しい。それではいくら三つの間が与えられても、子どもたちが遊び出すことはないだろう。遊びは生きながら順次発酵していく、世界への能動的な姿勢であり意欲であり作為力なのである。(後編に続く)』、「遊びには「積み重ね」が必要」、しかし、「今はこうした体験を幼児期からすることが極めて困難になっている」、具体的にどのように「体験」させていくか、英知を集めて検討していくべきだろう。
タグ:「家庭が」「子どもが元気に生きる、幸せに生きるということに対して」「寄与していない」、残念なことだ。 日経ビジネスオンラインが掲載した「養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」 自殺 (その4)(養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」、なぜ子どもの自殺が「過去最悪」となっているのか…「遊びの喪失」がもたらす深刻な影響 人生をシミュレートする活動「遊び」が失われている) 「ステイホーム期間中の自殺の増加は」、「もともと若い人にとって、大勢の人と一緒に何かをするというのは、生きがいです。それを奪われた形になったのですね」、なるほど。 「システム化された社会では、情報以外のものはすべて「ノイズ」だということです。システム化された医療においては、数字で測って出るデータ以外は、ノイズなのです」、「「患者さん自身」はノイズです。いらないのです」、「システム化」の行き過ぎは予想外の問題を引き起こすようだ。 「生身の患者は、うるさいのです。生身の人間に「ここが痛い」「あそこがかゆい」などといわれるのは、面倒なのです。きれいな数字になったデータであれば、「この値が正常値からずれていますから、この水準に戻しましょう」という話で済みます」、確かに「整形外科」で、「若い先生が人気かと思いきや、年配の先生がいつも数時間待ちなんです」、(年配の先生は)「目を見ながら話を聞き、痛いところに優しく手を当ててくださるんです」、確かに若い先生はデータ重視で検査結果を見るのに追われ、患者の方はろくに見ないケースが多いようだ。 「都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない」、「子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う」、「子どもは自然である」とは言い得て妙だ。 「ステイホームの期間、生身の人間をノイズと見なす大人といる時間が、極端に増えてしまった。それが、子どもたちの自殺が増えた一因であると」、「子ども」たちには、「「ステイホームの期間」は悲劇だったようだ。「「人は生きているだけで、周りに迷惑をかけているのです。あなたも同じではないですか」と。それを昔は、「お互いさま」といいました。それがなくなってきてしまいました」、「「お互いさま」という言葉は、聞かなくなった気がします」、同感である。 「 脳化社会、情報化社会において、生身の身体が抑圧されている。それが、子どもの自殺が増える一因である」、なるほど。なお、「次回」以降は有料部分が多いので、紹介は省略する。 PRESIDENT ONLINE 汐見 稔幸氏による「なぜ子どもの自殺が「過去最悪」となっているのか…「遊びの喪失」がもたらす深刻な影響 人生をシミュレートする活動「遊び」が失われている」 「2020年の1年間で、499人の小中高校生が自殺」、感覚的には確かに多いようだ。 「子どもにとってもっとも大事な、人生をシミュレートする活動である遊びを中心にその変遷をみてみたい」、なかなかいい思い付きだ。 「確かに「3つの間」の喪失は子どもの遊びの減少を説明する必要条件かもしれないが、それで十分に説明されているとは思えない」、さすが学者らしい。 「昔の子どもの遊びは、映画で見るか写真で見ないかぎり、実感できない時代になっている、時代の変化は想像以上に大きいようだ。 私も「何かの遊びを創造するか、遊び道具の方を工夫してつくり出す」しかなかったが、「ナイフ」を持ち歩くことはなかった。 「明治期の職人たちが、日本の産業革命後に工場で職工として活躍したのであるが、その職人的な志向性は子どもの頃の遊びの中に淵源をもっている」、たぶんその通りなのだろう。 「日本では1970年代に子どもの遊びが大きく変容した」、初めて知った。 「子どもの遊びの変化」と「荒れる学校、不登校、いじめ…さまざまな問題が噴出」の時期の一致以外に、実態的な関連があるのかどうかが問題だ。 「小中高校生に対する運動能力テストのデータは1985年ごろをピークに下がってきて、教育関係者を焦らせた」、確かに深刻だ。 「人間力の基本が以前の子どもたちがやっていたような遊びの中で育つのだ」、その通りだ。 「遊びには「積み重ね」が必要」、しかし、「今はこうした体験を幼児期からすることが極めて困難になっている」、具体的にどのように「体験」させていくか、英知を集めて検討していくべきだろう。
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