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日本型経営・組織の問題点(その13)(見えない価値「非財務資本」こそが生死を分ける 日本企業がGAFAMの足元にも及ばない真の理由、「日本型経済システム」の成立条件が 完全なる終焉を迎えつつある根拠 『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』(青木昌彦著)で読み解く、似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、昨年12月25日に取上げた。今日は、(その13)(見えない価値「非財務資本」こそが生死を分ける 日本企業がGAFAMの足元にも及ばない真の理由、「日本型経済システム」の成立条件が 完全なる終焉を迎えつつある根拠 『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』(青木昌彦著)で読み解く、似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?)である。

先ずは、本年1月17日付け東洋経済オンライン「見えない価値「非財務資本」こそが生死を分ける 日本企業がGAFAMの足元にも及ばない真の理由」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/503177
・『「ウチの株価、どうしてこんなに低いんでしょうか。足元の業績も悪くないし、成長もしている。自己株買いだってやっているのに」――。ある東証1部上場企業のCFO(最高財務責任者)は、業績の良さとは裏腹に低迷する株価をみてうなだれる。 コロナ禍の大規模な金融緩和もあって、日本企業の株価はバブル期以降の低迷期を脱したようにみえる。しかし、足元では日経平均株価が3万円に届かないまま行ったり来たり。半導体や自動車のメーカーを中心に企業の業績は良くなっているのに、なぜか株価が思ったほど上がらない。 一方、株価が上昇し続けているのがアメリカの市場だ。GAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック(現メタ)、アマゾン、マイクロソフト)など、巨大IT企業の株価が牽引し右肩上がりが続く。コロナショックからの回復期を経て、S&P500などアメリカ市場の代表的な株価指数はまだまだ最高値を更新し続けている。 アメリカ株の上昇を「バブルだ」と片付けてしまうのは簡単だ。しかし、日本株が低迷してきた過去30年間でも、アメリカ株は中長期で見て上昇基調を維持している。日米の企業価値の差は歴然である』、興味深そうだ。
・『過去の業績では株価は動かない  1月17日(月)発売の『週刊東洋経済』1月22日号(1月17日発売)では「企業価値の新常識」を特集。「非財務資本」を巡る、企業の混乱と対処法について、まとめている。 企業会計の専門家たちは、近年、時価総額が財務諸表に載っている業績データで説明できなくなってきていると指摘する。財務諸表に載っていない、見えない価値を説明するために出てきたのが、「非財務資本」という概念だ。 産業の中心が製造業だった時代には、工場の生産能力から将来生み出される製品の量が予測でき、そこから未来の企業業績を比較的簡単に計算できた。まさに財務諸表全盛期だ。 しかし、現在では産業の中心がITを活用したサービス産業に移行している。とくにネット系のビジネスではユーザーの数や顧客満足度が将来の稼ぎに大きく影響するが、こうした情報は財務諸表にはほとんど載っていない。 サービス産業への移行にうまく適応したのがアメリカの企業だった。 GAFAMを代表とするIT企業群は、ソフトウェアや優秀なエンジニア、働きやすい環境作りなどに積極的に投資し、財務諸表に載らない「非財務資本」をうまく蓄積してきた。 翻って、日本の企業は環境変化への対応や人材への投資を怠ってきた、と言わざるをえない。例えば人材への投資という点では、入社時や昇進時に数日程度の研修を行うことはあっても、従業員のスキルアップにつながるような投資を地道にしてきただろうか。 あるいはDX(デジタルトランスフォーメーション)が近年話題にはなってきたものの、単純な業務の「デジタル化」にとどまっている例は枚挙にいとまがない。インターネットやさらにその先の革新的な技術による新たな事業の創出に結びつくことは稀ではないだろうか。 数字からも日本企業の出遅れ感は明らかだ。PBR(株価純資産倍率)は、倍率が高いほど「非財務資本」が大きいことを表すが、日本企業のPBRは1倍付近で停滞している。アメリカの上場企業平均が約3倍なのに対し、明確に低い水準だ。東証1部でも1000社以上がPBR1倍を下回る、すなわち時価総額が純資産より少ない状態にある』、「従業員のスキルアップにつながるような投資を地道にしてきただろうか。 あるいは「DX」も「単純な業務の「デジタル化」にとどまっている例は枚挙にいとまがない」、こうした「日本企業の出遅れ感」が、「日本企業のPBRは1倍付近で停滞・・・アメリカの上場企業平均が約3倍なのに対し、明確に低い水準」、その通りだ。
・『企業価値を高める秘策とは何か  では企業価値を高めるにはどうすればよいか。いきなり非財務資本を高めよと言われても難しい。ただし、手がかりはある。 例えば、気候変動関連の開示への対応を進めること。足元で国際的な枠組みの策定が進み、4月にスタートするプライム市場の企業には、新たな枠組みでの開示が求められる。開示対応には2つのメリットがある。 まず、こうした開示への要求に積極的に対応すれば、投資家から再評価される可能性があることだ。預かった資産を中長期で安定して運用する責任のある機関投資家にとって気候変動のリスクは大きい。適切な開示を行う企業には、投資家が安心して資金を投じる可能性が高い。 また、新しい開示の枠組みに対応しようとすれば、例えば「2100年に地球全体の気温が産業革命以前と比べて4度上昇するとき、あなたの会社のビジネスにはどのような財務影響がありますか?」といった難しい質問にも、答えていることになる。少なくともそうした問題意識を持ち、取り組んでいる姿勢を投資家に示していると、評価されやすい。 投資家のためだけでなく、自社のためにもなる。こうした新しい開示の枠組みに少しずつでも対応していくことで、中長期で自社のビジネスモデルや戦略を見直すきっかけにもなるというわけだ。 企業価値を巡る考え方は、実体のあるモノをどれだけたくさん抱えているかということから、人材やノウハウ、ブランド、顧客満足度など、数えたり測ったりできない対象へ主眼が移っている。 こうした新しい企業価値の考え方に基づいた開示を行っている企業もある。エーザイ、キリンホールディングス、伊藤忠商事などだ。まずはこうした先行企業の事例から学び、企業価値の向上につなげてほしい』、「企業価値を巡る考え方は、実体のあるモノをどれだけたくさん抱えているかということから、人材やノウハウ、ブランド、顧客満足度など、数えたり測ったりできない対象へ主眼が移っている。 こうした新しい企業価値の考え方に基づいた開示を行っている企業もある」、「こうした先行企業の事例から学び、企業価値の向上につなげてほしい」、同感である。

次に、3月23日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したプリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役の秋山進氏による「「日本型経済システム」の成立条件が、完全なる終焉を迎えつつある根拠 『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』(青木昌彦著)で読み解く」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/299512
・『日本経済の停滞ぶりが「失われた○○年」と形容され、「日本は変わらなければならない」と言われ続けて久しい。「変わらなければ」論者は、あるときは、資本主義社会においてより普遍的といわれているアメリカ型の組織やシステムを、またあるときは、先ごろまでは好調だった中国経済を対象に現象面を比較し、異なる点を見つけては、日本のあり方は間違っている、遅れていると自虐的に指弾する。 そうした「反省」に基づいて、さまざまな改革が実際に試みられた。コーポレート・ガバナンス改革、DX改革、ROE重視の経営や、ジョブ型雇用……。日本経済が遅れていて、ガラパゴスだという論は果たして100%正しいのか。それとも改革は流行に流されていて、意味のないものなのか。あるべき姿とはどのようなものなのか――。疑問を持つ人は多いに違いない。 これらの疑問への多大なヒントを与えてくれるのが、ノーベル経済学賞候補に名を連ねたこともあり、スタンフォード大学でCIA(比較制度分析)の講座を立ち上げた、青木昌彦氏の著書『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』である。丁寧に解説していきたい』、興味深そうだ。
・『日本経済が脅威であった時代にいち早く提言された日本企業の課題  本書の単行本が出版されたのは1995年。バブル崩壊後、いまだ日本経済が他国にとっての脅威であり、日本異質論に対応して日本の経済システムを他の先進国と同様のものに変えなければならない、という外圧が強かった頃である。 本書は、当時経済分析のツールとして機能し始めた情報の経済学、ゲームや契約の理論などの分析言語を使って、新たな視点から一国経済を分析し、多くの人が普遍的だというアメリカ型の経済システムも、特殊だといわれた日本型の経済システムも、多様な均衡解(さまざまな状況や条件が重なって暫定的に最適解のように収まっている状態)のひとつであり、状況によっては均衡解でなくなることを、一般向けに解説している。 経済システムの多様な在り方や日本の経済システムの原型を理解することで、現在のシステムのゆらぎの把握や、この先に(少なくとも理論上は)あるはずのよりよい均衡点(よりよいシステムの在り方)への展開を感じることができる。それはマクロな国家の経済システムとミクロな組織と人の在り様の両方を接続して考えるうえで、非常に大きなヒントになる。 本書の基本的な考え方は、以下のようなものである。 経済主体の合理性の限界、人々のあいだでの情報の分配の非対称性、市場の不完全性などのゆえに、時空を超えて普遍的な規範的価値を持った経済システムなどというものは本来ありえない」(『経済システムの進化と多元性―比較制度分析序説』(青木昌彦、講談社学術文庫、以下引用はすべて同書) 人も企業も完全に合理的な意思決定はできない。また、人々の間には情報格差がある。さらには現在の市場は、欲しいものを欲しい人が適正な価格で得られるような完璧に合理的な売買ができるように動いてはいない。だから、いつ誰にとっても合理的で完璧な経済システムというのはあり得ない、と言っている』、「時空を超えて普遍的な規範的価値を持った経済システムなどというものは本来ありえない」、「いつ誰にとっても合理的で完璧な経済システムというのはあり得ない」、との考え方は納得できる。
・『炙り出された企業の生産性を左右する要素  青木はその前提に立って、企業組織が実際にどのように運営されているかを分析した。その結果、企業の生産性は、企業の業務や生産に携わる人々が持つ情報の量や質と、その情報を基にした決定の権限や義務の組織的配置に依存しているということを明らかにした。 企業で働く人の情報量と質がどんなものであるかということと、それを基に誰が何を決められるかによって生産性が変わるというのである。そして組織の基本型は、ある職場や組織のシステム全体の活動のコストや売り上げに影響を与えるシステム環境パラメータと、それぞれの職場の活動のコストや売り上げに個別に影響を与える個別環境パラメータの2つの視点で分けることができると考えた。 「企業組織のコーディネーションには五つの基本型(※)がありうることを示す。それらは、古典的・機能分権的・水平的ヒエラルキーと情報同化型、情報異化型である。(中略)そしてもっとも重要なことは、これらのタイプのどれが最も(情報)効率的であるかは、組織環境の活動のあいだの技術的・確率的関連性、社会に存在する個人の情報処理能力(技能)のタイプと水準の分布などに依存するのである」 ※2003年の青木の『比較制度分析に向けて』では、その後の研究では3つの基本型に収斂している。ヒエラルキー分割、情報同化、情報カプセル化である。 2つのパラメータを使って、5つの基本型が導き出される論理展開は大変興味深い。たとえば、アメリカの典型的な産業である石油化学工業と日本の典型的な産業である自動車産業における企業の意思決定では、最終製品の販売や個別の部品に関する直近の情報がどれだけ生かされる仕組みになっているか(システム環境パラメータ)、現場にどれだけ裁量があり、全体の状況から独立してどれだけ自由に意思決定できるか(個別環境パラメータ)の、2つ観点による違いが明確にされる。 ある事業で、どのような組織運営がふさわしいか(どのような情報をどのように生かすしくみにするか、ある事柄についての意思決定がどのように決まるのか――現場の裁量で行われるのか、中央で統一的に決めるのか)は、産業構造によって決まるということが証明されていく。 さらにそこに影響を与えるのが、産業勃興時の初期条件である。たとえばアメリカでは、第二次世界大戦中の軍需生産で生産性が増大し、科学的なシステマティックな経営管理が導入され、労働者を組織的に訓練し、明確に職務を切り分けて、職務ごとにマニュアルに沿って運営する分権的ヒエラルキーが精緻化されていた。一方、同時期に日本では、大量の徴兵で労働力が不足し、仕事を専門化することが不可能になったため、労働者と工場長などの職長、ブルーカラーとホワイトカラーの身分差別が急速に消失し、互いに情報共有する傾向が飛躍的に高まった』、「産業勃興時の初期条件」の日米の違いは、納得できる。
・『分権型の経営が得意な米国と水平型の経営が浸透する日本  アメリカでは「仕事の種類を切り分けて権限移譲する分権的ヒエラルキー」的要素が、日本では「みんなで情報共有する水平的ヒエラルキー」的な要素が組織の中に浸透していたのである。 その結果、日本においては産業構造的に水平的なすり合わせ(情報共有)を必要とすることで優位性を発揮できる(水平的な)、自動車産業、工作機械、電気機械などが優勢になった(下請けの部品工場がサイバーアタックを受けたら、グローバルで全社的な生産まで止まってしまうような自動車産業は、その典型的な例であろう)。 一方、すり合わせなしでも意思決定できる(分権的な)、アメリカが得意な石油化学工業などは、競争力を持たなかった。石油化学は買ってきた原油を集めて、一旦ナフサや重油や軽油に分ければ、あとは、ナフサ部門、重油部門、軽油部門などから細かく何十、何百もの部門に派生していって、それぞれの部門で複雑な製品の製造を行うので、分かれたあとには横の連携はほぼないのだ。 このように、産業ごとにふさわしい組織型は異なる。したがって本来は、産業ごとに水平的、分権的など、マッチした組織の型を採用して運営すればよい。しかし、そうはならないのである。 「ある経済では、いずれかの基本型が支配的になっている。たとえば、日本では情報共有型あるいはその進化型としての水平ヒエラルキーが支配的であるし、アメリカでは従来、分権的ヒエラルキーが支配的であった」) なぜそうなるのか。それは経済主体(人や組織)が市場の支配的な組織の型に合わせて、自己の投資戦略を決めるからである。たとえば日本にいれば、日本に多いタイプの組織で必要な能力を身に着けておいたほうが出世するし賃金も上がるから、その技能を身に付けようとするということである。 「各経済主体は、企業組織に参加する前に(すなわち企業を興すか、雇用される以前に)、情報処理能力の形成の方向性に関して選択を行わねばならない。ひらたくいえば、教育、技能訓練などによって、一定の方向性を持った技能への投資を行わねばならない。たとえば、どのような組織においても通用するような特殊機能の技能(機能的技量)に投資するか、あるいは特定の企業組織参加後にその文脈で有用な技能(文脈的技能)に磨きをかけるという展望を持って、まずは一般的な問題処理能力や組織的コミュニケーションの能力(可塑的技能)に投資しておくか、の二つの選択肢がありえよう」』、「産業勃興時の初期条件」の日米の違いから、「分権型の経営が得意な米国と水平型の経営が浸透する日本」に分かれたというのも、説得力がある。
・『機能的技量と可塑的技量ではどちらの投資リターンが高いか  機能的技量の投資のほうがリターンを得られる可能性が高い地域では機能的技量が、可塑的技量への投資のほうが高いリターンが得られる可能性が高い地域では可塑的技量を高める選択することが、合理的な戦略になるのだ。おおざっぱにいえば、特殊機能の技能(機能的技量)とは、日本の会社における専門職で必要な技能、文脈的技能、可塑的技能は、総合職で必要な能力と考えておけばいいだろう。 学生時代に特殊機能的な技能を習得し、そうした仕事を得てその領域で生きていくことが前提とされている社会では、戦略的に特殊機能的な技能への投資が行われるが、入社した後に何をするか、どのようなキャリアを歩むのかなどが予測できない場合は、一般的な問題処理能力やコミュニケーション能力といった文脈的技能、可塑的技能への投資を人は選択するのである。 専門的なスキルを磨いたほうが就職しやすく、その後の収入も保証されているなら、人は学生時代にそのような勉強をするし、新卒で有名企業に総合職で入れば一生安泰という二昔くらい前の日本であれば、新卒を一括採用する大手有名企業の内定を取るため(入試の学力試験が問題処理能力には直結しないとはいえ)5教科を勉強し、より偏差値の高い大学に入り、アルバイトやサークル活動で「コミュ力」を磨こうとするのである。 個々の経済主体(個人)の間で、文脈的技能の獲得が支配的になれば、本来は機能的技能を優先すべき石油化学産業にあっても、文脈的技能を重視する組織運営が支配的になってしまう(これは進化ゲームという分析によって明らかになる)。) どちらが先なのかわからない、鶏と卵のような話でもあるが、学生が偏差値的学力やコミュ力を磨くことが一般的になれば、専門スキルを重視すべき業界でも、偏差値的学力とコミュ力を企業は重視するようになる。事実、日本企業が新卒採用時に最も重視するのは専門的なスキルや知識(機能的技能)ではなく、問題処理能力、コミュニケーション能力や主体性(文脈的技能、可塑的技能)であり、日本の石油化学産業にもそうした能力が高い人材が送り込まれることになった。 さらに本書では、このような雇用システムに加え、他のシステム(メインバンクによるガバナンスと内部者による会社の支配など)が補完的に機能し合い、日本型の経済システムが構築され機能してきたと説明されている。個々のシステムが相互拘束し合い、一連の強固なシステムとして機能し始めると、多少一部でルールや制度が変わろうと、経済システムや組織運営方法の基本型は変化することなく継続する。 メインバンクや系列企業同士で株を持ち合って、お互いにがっちり縛り合い、どこかの制度を少しいじって表面的に成果給を入れてみたり、「株主による経営者の監視(コーポレートガバナンス)をこれからはしっかりしてください」と規則を厳しくしたりする程度の変革では、びくともしない日本型経済システムの体系が作り上げられたということなのである』、「新卒を一括採用する大手有名企業の内定を取るため(入試の学力試験が問題処理能力には直結しないとはいえ)5教科を勉強し、より偏差値の高い大学に入り、アルバイトやサークル活動で「コミュ力」を磨こうとするのである。 個々の経済主体(個人)の間で、文脈的技能の獲得が支配的になれば、本来は機能的技能を優先すべき石油化学産業にあっても、文脈的技能を重視する組織運営が支配的になってしまう」、「個々のシステムが相互拘束し合い、一連の強固なシステムとして機能し始めると、多少一部でルールや制度が変わろうと、経済システムや組織運営方法の日本型は変化することなく継続する」、道理で「日本的経済システム」が「強固」なわけだ。
・『偏差値的学力向上と「コミュ力」磨きが成功への近道だった日本の学生  このようなことから、多くの外圧、内圧に晒され、部分的な手直しが多発しながらも、日本的経済システムの基底はこれまでなかなか変わらなかった。最も重要なことは、すり合わせを中心とする水平型の組織運営こそが競争力の源泉である産業がビジネス界の中核にあり、そのため経済主体(個人)は可塑的技能に投資することが合理的であり、またそれが当たり前であると信じて疑わない人が、組織運営の中核を担ってきた。 カンバン方式、ジャストインタイムなどの自動車産業のように、水平的に緊密に連携し合うチームワークの組織こそが、ものづくりの素晴らしい組織だと神格化され、そういう社会で育った学生たちも、専門スキルよりは偏差値的学力向上と「コミュ力」を磨くことに力を入れることが、人生での「成功」の近道であり、それが当たり前だ思う人たちが、日本経済の中心にいたということである。 しかしながら、このように強固であった日本型の経済システムも、とうとう分水嶺をこえて、まだ姿の見えない新たなシステムに向けて、流動する時代に突入してしまったのではないかと思われるのである。 すでに、これまでも日本の大企業(上場企業)は、メインバンクによるモニタリングから、株主によるガバナンスの方向へと舵が切られ続けてきたし、その方向性はますます強まっている。メインバンクによるガバナンスのシステムは、企業が不振になり銀行の債権が脅かされない限りは、利益創出にそれほどこだわらない。 銀行さえ損をしなければ、企業の運営がどうなろうと知ったことではないのであるが、一方、株主ガバナンスは常に企業価値の向上を求める。時代の変化に合わず、価値を創出できない組織運営は許容されない。株主が求めるような利益を上げられない会社は、株主からノーと言われる。) 産業構造においては、エレクトロニクスやIT産業でソフトウェアのアプリケーションひとつで性能を変えられるような、入れ替え可能なモジュール化が進み、自動車産業においてもEVに切り変わっていく中で、これまでのすり合わせ(水平ヒエラルキー)重視の組織や組織間の関係が過去ほどの優位性を持てなくなり、利益創出がピンチを迎えている。 さらに、もうすぐIoTの時代に入るから、系列を超えて誰とでもどことも繋がることを前提にした、これまでとは異なる規格に基づいたオープンな情報コーディネーションの時代に入る。 さらには、日本発のグローバル大企業においては、すでに製造拠点の多くは日本になく、研究や開発、商品企画などにおいても日本国内でのみ行われるわけではなくなっている。外国の自社社員との協働も当たり前である。このような状況下にあっては、いまだに日本においてのみ水平的ヒエラルキーを前提に、可塑的技能(総合職的な問題処理力とコミュ力)への投資が支配的な人事制度を維持しているデメリットが大きい』、「強固であった日本型の経済システムも、とうとう分水嶺をこえて、まだ姿の見えない新たなシステムに向けて、流動する時代に突入してしまったのではないか」、「エレクトロニクスやIT産業でソフトウェアのアプリケーションひとつで性能を変えられるような、入れ替え可能なモジュール化が進み、自動車産業においてもEVに切り変わっていく中で、これまでのすり合わせ・・・重視の組織や組織間の関係が過去ほどの優位性を持てなくなり、利益創出がピンチを迎えている」、「IoTの時代に入るから、系列を超えて誰とでもどことも繋がることを前提にした、これまでとは異なる規格に基づいたオープンな情報コーディネーションの時代に入る」、「日本発のグローバル大企業においては、すでに製造拠点の多くは日本になく、研究や開発、商品企画などにおいても日本国内でのみ行われるわけではなくなっている。外国の自社社員との協働も当たり前である。このような状況下にあっては、いまだに日本においてのみ水平的ヒエラルキーを前提に、可塑的技能・・・への投資が支配的な人事制度を維持しているデメリットが大きい」、「日本型の経済システムも」「新たなシステムに向けて、流動する時代に突入」、いよいよ変化しつつあるようだ。
・『水平型ヒエラルキー的な働き方にダメ押しをしたリモートワークの定着  具体的に言うと、高い専門スキルを持った外国人エキスパートを、総合職的な能力重視で深い専門的技能を持っていない上司は、マネジメントできないのである。また、職務ごとに市場価格が定められる労働市場において、高い給与を出せないと優秀な人も採用できない状況に追い込まれるのである。そのようなことから、過去のように建前としてではなく、必要に迫られて機能的技能(専門的スキル)が重要視されるジョブ型雇用に転換する大企業が出現しているのである。 皆がいつも顔を合わせて、なんでも”ホウレンソウ“しながら決めていく水平型ヒエラルキー的な日本企業の仕事の進め方は、これまでも長時間労働の温床であるため、効率的な運用に変えることが求められてきた。さらには、有給休暇も消化し切ることが普通になり、残業時間も厳しく制限されるようになってきている。 そこに、コロナ禍によるリモートワークの定着である。皆が顔を合わせる時間は大幅に減り、自分の仕事を明確に定め、他の同僚や他部署との接続部分においてのみ仕事上のコミュニケーションを重点的に行う仕組みに、変えざるを得ない。この状況下では、その分野に高い能力を持つ上司が、仕事を適切に切り分けモジュール化して、個々人に分権的に仕事を割り振りながら、必要なところだけ互いの業務を調節する仕組みに変えたほうが、圧倒的に効果的かつ効率的である。従来の水平型のコミュニケーションを促進し、調整の場だけをつくって合意を形成する能力(可塑的能力)だけが高い非専門家の上司は、不要なのである。) このような大きないくつもの変化を背景に(コーポレートガバナンスの形式を整えるといった制度的な小手先の変革でなく)、企業の組織運営システム(水平型なのか分権型なのか、それ以外なのか)の在り方と、経済主体(人や組織)の意思決定そのものが変わらざるを得なくなりつつある。水平型を前提とした個人の可塑的技能への投資は、大きく変化するだろう。つまり総合職人材を育てる企業は少なくなるということである。 「ある一つの進化的均衡から他の進化的均衡への移行のために最低限必要な、突然変異の総人口に占める比率を、前者から後者への『移行費用』と呼ぶ。一つの進化的均衡から他の進化的均衡への移行はかなりのサイズを以って一塊の集団(critical mass)による『同時的』変異によってもたらされる」 あるシステムから別のシステムへの変更には、それなりの人数がそのシステムに一斉に鞍替えしなければ行われない(この一斉の鞍替えを移行費用という)。グローバル化によるジョブ型の導入とリモートワーク時代の到来という2つの力が同時に加わり、クリティカルマスは超えられた、つまり社会が変わるのに必要な程度の大多数の人がシステムの鞍替えをしようとしているのではないか』、「グローバル化によるジョブ型の導入とリモートワーク時代の到来という2つの力が同時に加わり、クリティカルマスは超えられた、つまり社会が変わるのに必要な程度の大多数の人がシステムの鞍替えをしようとしているのではないか」、あり得る話だ。
・『最適な均衡点はどこか? 模索が続く日本の経済システム  ただ、この先どのような均衡点に移動するのかは、まだ見えていない。本書では、旧来のアメリカ型でもなく、日本型でもないところに、どの産業セクターにとっても良いP均衡(パレート最適)と呼ばれる均衡点、すなわち、ちょうどよい状態の経済やシステムの状態が、理論上は存在していることが示されてはいる。 過去の均衡点からどこか別の均衡点に移動し落ち着くまでの間、日本の経済システムは相当大きな混乱に陥ることになるだろう。ただ、その混乱は政府の政策がまずいからでも、外国の陰謀でもなく、システムが形を変えて生き残るために避けては通れない道であり、肯定的に評価できるものなのである』、「旧来のアメリカ型でもなく、日本型でもないところに、どの産業セクターにとっても良いP均衡・・・と呼ばれる均衡点、すなわち、ちょうどよい状態の経済やシステムの状態が、理論上は存在していることが示されてはいる」、「P均衡」がどこに着地するのか大いに注目される。

第三に、4月28日付け日経ビジネスオンライン「似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/042600027/
・『中国出身の気鋭の経営学者、ジャクソン・ルー米マサチューセッツ工科大学(MIT)准教授は、日本人、中国人、韓国人といった東アジア系は、インド人のような南アジア系に比べ米国の組織でリーダーになりづらい理由を深く探ってきた。東アジア系の人々は他の人種よりも強く同質性を好むため、リーダーになりづらいと主張する。ルー氏に解説してもらった(Qは聞き手の質問)。 Q:東アジア系が米国の中で出世しづらいという「竹の天井」を検証した研究(注:2020年7月17日掲載「米国で東アジア系がインド人より出世できない理由」参照)の続編(注)を発表したそうですね。エスニックホモフィリー(同じ民族同士でつながりたがる傾向)が、東アジア系の人は南アジア系の人をはじめほかの民族より相対的に強いということです。これはどういうことですか。 ジャクソン・ルー米マサチューセッツ工科大学(MIT)経営大学院准教授(以下、ルー氏):英語にこんなことわざがあります。「類は友を呼ぶ」(Birds of a feather flock together)。古くからある言葉で、社会学研究でよく使われる概念です。つまり、人には住んでいる場所を問わず、自分と同類だと感じる人間同士で集まる傾向があるということです。 注:Lu, J. G. (2021). "A social network perspective on the bamboo ceiling: Ethnic homophily explains why East Asians but not South Asians are underrepresented in leadership in multiethnic environments.", Journal of personality and social psychology.』、「東アジア系が米国の中で出世しづらいという「竹の天井」を検証した研究」、とは興味深い。「竹の天井」とは初耳だ。
・『人間なら誰にでもある「似た者同士で群れる傾向」  ですからエスニックホモフィリーは、東アジア系だけの特徴というわけではありません。人種の多様性の高い環境、例えば米国のような環境では、どこに行っても多様な人種が暮らしています。見た目で黒人、白人、東アジア系の人、南アジア系の人と大体分かります。(ジャクソン・ルー氏の略歴はリンク先参照) 人種を問わず、人は見た目が似ている人を見かけると、ひょっとしたら自分に対して親切にしてくれるのではないかと無意識に反応して、その人に近づく傾向があるのです。 白人は白人同士で親しくなりやすい傾向がありますし、黒人はもちろん、南アジア出身の人も南アジア系の人と友達になりやすい。すべての人種にそうした傾向があるのですが、東アジア系の人はその傾向が一番強いということが、私の研究で確かめられたのです。 Q:確かに、日本、韓国、中国と自国にいるときは互いに距離があるのに、国外に住んでいると国籍を超えて東アジア系だけで集まるのが不思議な気はしていました。アジアの物を扱う小売店や市場でも、東アジアの様々な国の商品がごちゃごちゃで売っていたりとか。 ルー氏:例えばあなたが、MITスローン経営大学院のような米国のビジネススクールに入学し、初登校したとしましょう。あなたは、キャンパスに1人も知り合いがいない。そこでアジア系の学生を見かけると、見た目が似ているから、あの人なら私の考え方などを理解してくれそうだ、友達になろう、と無意識に行動するのです。 米国のような多様性の高い環境では当然ながら、リーダーになるためには自分と違う人種の人々ともしっかりつながる必要があります。エスニックホモフィリーが強く、仲間内だけでつながっているような人では、グループ全体の利益の代表になれないのです。 だから米国では選挙のときも、候補者は自分がたとえ白人であっても必死にスペイン語を使い、自分はラテンアメリカ人の利益に関心を持っているという姿勢をアピールするのです。 Q:すると今回の研究は、東アジア系のエスニックホモフィリーが米国で出世、あるいはリーダーになる上で妨げになっているという結論ですか。 ルー氏:その通りです。例えば特にビジネススクールなどの学校では、東アジア系の人が好んで集まっている様子が目に付くのです。学校以外でも、例えば米国や英国でも中華街のような地域がたくさんありますよね。一方、インドタウンのような地域はあまり見られません。 英語能力のレベルや出生地を統計的にコントロールして、2世である場合などの影響を勘案して分析しても、つまり米国で生まれ育った東アジア系の人であったとしても、やはりエスニックホモフィリーが高いという結果が出ました。) Q:東アジア系の人は人種的な仲間意識の度合いが他の人種よりも強いため、リーダーになりにくいということですね。これはイノベーションが起こせるかどうかの話にもつながりそうです。一匹おおかみの方が破壊的なイノベーションを起こしやすいと指摘する著名経営学者の話を聞いたことがあります。日本人は群れたがるから破壊的なイノベーションを起こせないという仮説も成り立ちそうな気がします。 ルー氏:東アジア文化圏の集団主義も(破壊的なイノベーションが起こしづらい)理由の1つだと思います。例えば日本では統計的に99%の人は同じ民族です。同様に韓国でも99%の人は同じような顔をしていますし、中国も92%は漢民族です。一方、南アジア、例えばインドとかパキスタンは、非常に多様な国です。 インドには公用語が22もあります。子供のころからそうした環境で育った人は、自分と見た目や習慣、育った環境の違う人と接することに慣れています。自分と違う人とつながる練習を積んでいます。だから、米国のような多様性の高い環境に移っても「よそ者」とのコミュニケーションに全く支障がありません』、「東アジア系」は「国外に住んでいると国籍を超えて東アジア系だけで集まる」傾向が強いようだ。「破壊的なイノベーションを起こせない」、というのも寂しい傾向だ。「日本では統計的に99%の人は同じ民族です。同様に韓国でも99%の人は同じような顔をしていますし、中国も92%は漢民族です。一方、南アジア、例えばインドとかパキスタンは、非常に多様な国です」、「インドには公用語が22もあります。子供のころからそうした環境で育った人は、自分と見た目や習慣、育った環境の違う人と接することに慣れています。自分と違う人とつながる練習を積んでいます。だから、米国のような多様性の高い環境に移っても「よそ者」とのコミュニケーションに全く支障がありません」、「「インドには公用語が22」、何と非効率だと思っていたが、「米国のような多様性の高い環境に移っても「よそ者」とのコミュニケーションに全く支障がありません」、と思わぬ効用があるようだ。
・『東アジア人同士の「圧」  一方、中国人や日本人は安全地帯から飛び出して、自分と違うタイプの人とコミュニケーションすることが苦手です。 米国で東アジア系の人同士が使う俗語で「バナナ」という表現をご存じですか。バナナの外皮は黄色い、でも中身は白いですね。東アジア系の人が白人社会に溶け込んでいる様子を見たとき、東アジア系のコミュニティーで、彼、彼女は東アジア系の顔をしているのに白人とばかり付き合っている、と言ったりする。 そこで登場するのが、この俗語です。これが日本人であれば、見た目は日本人なのになぜ日本人と付き合っていない、なぜ日本人とまず友達になれないのか、なぜ、白人と友達になるんだと皮肉を言うわけです。 文化的には、東アジア系であればコミュニケーションや文化の違いだけでなく、そうした周囲の目というプレッシャーもある。東アジア系だからまず東アジア系と友達になれ、そうでなければ裏切り者だ、といった「圧」ですね。だからこそバナナという表現が生まれるのです。 そのようなプレッシャーがあって、新しいグループや新しい環境にもう1人東アジア系の人がいると、では私たちがまず友達になりましょうという流れになるわけですね。) Q:ところで、東アジア出身の人が、実力があっても米国企業などで出世できないという「竹の天井」という言葉ですが、これは05年につくられた言葉ですね。女性が出世できないことを指す「ガラスの天井」から派生したものであると。 ルー氏:そうです、Jane Hyun氏が、『Breaking the Bamboo Ceiling: Career Strategies for Asians』という本を書いたのが始まりです。 言っていることは面白いし納得感があるのですが、研究に基づいて出した洞察ではありませんでした。そうした、納得はするけれどもエビデンスで検証されていないことを深掘りするのが、私たち研究者の役目です。 竹の天井の含意としては、東アジア系は自国民同士や同じ人種の仲間内だったらリーダーを目指せるけれど、多様な環境に入った途端に弱くなるということですね。仲間内の論理では強い。 ルー氏:そうですね。多様性の高い環境でリーダーになるには、いろいろな人とつながる力がないと難しいです。米国で面接すると、東アジア系の人はなぜみんないつも一緒にランチを食べるのですか、とよく聞かれます。 東アジア系は得てしてネットワークも内輪だけにとどまり、いつも同質なグループの人とばかり遊び、食事している。だから人事部門がリーダーとして候補に挙げにくいのです。 Q:そして今回の研究の結論もまた、以前の研究同様、多様性のある組織のリーダーはインド人などの南アジア系である、ということなわけですね。インド人は人口も多いですが、それも関係がありますか。 ルー氏:いえ、人口の問題ではないと思います。米国内でいえば、インド出身者の人口は東アジア系の人口の半分程度ではないですか。でも米ツイッターのCEO(最高経営責任者)も、仏シャネルのCEOもインドの方です。米マイクロソフト、グーグルを傘下に持つ米アルファベットもそう』、「米国内でいえば、インド出身者の人口は東アジア系の人口の半分程度」にも拘らず、有名企業のCEOになっているのは、確かに圧倒的だ。
・『東アジア系に立ちはだかる世界の壁  Q:東アジア系はどうすればリーダーになれるのでしょう。 ルー氏:多様性の高い環境でリーダーになるためには、自分とは違うタイプの人とつながることが大事です。 組織側の努力も必要です。東アジア系の人々が、米国の組織でリーダーになるハードルが傾向として高いということを認識した上で、じゃあ、どうすればサポートできるかと考えることです。多様な背景を持つ人々がつながる機会をつくることなどが考えられます。 米国の多様性を重視する大手企業では、東アジア系の人だからと東アジア系のメンターを付けたりはしないと聞いています。その代わりにもっと外から働きかける機会をつくります。 日本人なら日本人同士で毎日ランチを食べるのではなく、組織的にフリーランチなどの機会を設けて、東アジア系の人を他の人種の人と一緒にするなど、意図的につながる場をセッティングするのです。 Q:機会をつくって意図して訓練を重ねる。そうするとインド人のようにチャンスを得られるかもしれません。 ルー氏:人間というのは基本的に怠け者で、より楽で簡単な方を選ぼうとしてしまいます。心理的には、自分と同じ言語を話す人、自分と似た者同士と友達になりやすいのです。 その壁を乗り越えるには、やはり外からの強制が必要なときもあるのではないでしょうか。 Q:ところで、研究では東アジア系がリーダーになりづらいほかの理由の中に、アサーティブネス(自己主張)が足りないという指摘がありました。エスニックホモフィリーの克服とアサーティブネスの力を鍛えることは両立するのですか。両方を訓練して克服すれば東アジア系がリーダーになれる可能性があるということでしょうか。 ルー氏:東アジア系の人は、南アジア系の人と比べても集団の中で埋もれやすいということが研究でも分かっていますが、エスニックホモフィリーの強さとアサーティブネスの弱さはつながっていると思うのです。 アサーティブネスはコミュニケーションのスタイルの1つです。確かに、東アジア系の人はコミュニケーションするとき、あまり主張しない傾向があります。それも恐らく、エスニックホモフィリーが強い理由の1つなのだと思います。コミュニケーション上、アサーティブネスが低い人、つまりほかの東アジア系の人とより付き合いたい気持ちになってしまいやすいのです。 いずれにせよ、米国の企業や組織に東アジア系のリーダーは少なく、その一方でインド人のリーダーはたくさんいるという理由や背景を探る研究はまだまだ続けます。また、研究が完成したらお話ししたいと思います』、今後の「研究」の進展が楽しみだ。
タグ:日本型経営・組織の問題点 (その13)(見えない価値「非財務資本」こそが生死を分ける 日本企業がGAFAMの足元にも及ばない真の理由、「日本型経済システム」の成立条件が 完全なる終焉を迎えつつある根拠 『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』(青木昌彦著)で読み解く、似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?) 東洋経済オンライン「見えない価値「非財務資本」こそが生死を分ける 日本企業がGAFAMの足元にも及ばない真の理由」 「従業員のスキルアップにつながるような投資を地道にしてきただろうか。 あるいは「DX」も「単純な業務の「デジタル化」にとどまっている例は枚挙にいとまがない」、こうした「日本企業の出遅れ感」が、「日本企業のPBRは1倍付近で停滞・・・アメリカの上場企業平均が約3倍なのに対し、明確に低い水準」、その通りだ。 「企業価値を巡る考え方は、実体のあるモノをどれだけたくさん抱えているかということから、人材やノウハウ、ブランド、顧客満足度など、数えたり測ったりできない対象へ主眼が移っている。 こうした新しい企業価値の考え方に基づいた開示を行っている企業もある」、「こうした先行企業の事例から学び、企業価値の向上につなげてほしい」、同感である。 ダイヤモンド・オンライン 秋山進氏による「「日本型経済システム」の成立条件が、完全なる終焉を迎えつつある根拠 『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性』(青木昌彦著)で読み解く」 「時空を超えて普遍的な規範的価値を持った経済システムなどというものは本来ありえない」、「いつ誰にとっても合理的で完璧な経済システムというのはあり得ない」、との考え方は納得できる。 「産業勃興時の初期条件」の日米の違いは、納得できる。 「産業勃興時の初期条件」の日米の違いから、「分権型の経営が得意な米国と水平型の経営が浸透する日本」に分かれたというのも、説得力がある。 「新卒を一括採用する大手有名企業の内定を取るため(入試の学力試験が問題処理能力には直結しないとはいえ)5教科を勉強し、より偏差値の高い大学に入り、アルバイトやサークル活動で「コミュ力」を磨こうとするのである。 個々の経済主体(個人)の間で、文脈的技能の獲得が支配的になれば、本来は機能的技能を優先すべき石油化学産業にあっても、文脈的技能を重視する組織運営が支配的になってしまう」、「個々のシステムが相互拘束し合い、一連の強固なシステムとして機能し始めると、多少一部でルールや制度が変わろうと、経済システムや組織 「強固であった日本型の経済システムも、とうとう分水嶺をこえて、まだ姿の見えない新たなシステムに向けて、流動する時代に突入してしまったのではないか」、「エレクトロニクスやIT産業でソフトウェアのアプリケーションひとつで性能を変えられるような、入れ替え可能なモジュール化が進み、自動車産業においてもEVに切り変わっていく中で、これまでのすり合わせ・・・重視の組織や組織間の関係が過去ほどの優位性を持てなくなり、利益創出がピンチを迎えている」、「IoTの時代に入るから、系列を超えて誰とでもどことも繋がることを前提に 「日本発のグローバル大企業においては、すでに製造拠点の多くは日本になく、研究や開発、商品企画などにおいても日本国内でのみ行われるわけではなくなっている。外国の自社社員との協働も当たり前である。このような状況下にあっては、いまだに日本においてのみ水平的ヒエラルキーを前提に、可塑的技能・・・への投資が支配的な人事制度を維持しているデメリットが大きい」、「日本型の経済システムも」「新たなシステムに向けて、流動する時代に突入」、いよいよ変化しつつあるようだ。 「グローバル化によるジョブ型の導入とリモートワーク時代の到来という2つの力が同時に加わり、クリティカルマスは超えられた、つまり社会が変わるのに必要な程度の大多数の人がシステムの鞍替えをしようとしているのではないか」、あり得る話だ。 「旧来のアメリカ型でもなく、日本型でもないところに、どの産業セクターにとっても良いP均衡・・・と呼ばれる均衡点、すなわち、ちょうどよい状態の経済やシステムの状態が、理論上は存在していることが示されてはいる」、「P均衡」がどこに着地するのか大いに注目される。 日経ビジネスオンライン「似た者同士で群れる日本人 リーダー量産するインド人とどう違う?」 「東アジア系が米国の中で出世しづらいという「竹の天井」を検証した研究」、とは興味深い。「竹の天井」とは初耳だ 「東アジア系」は「国外に住んでいると国籍を超えて東アジア系だけで集まる」傾向が強いようだ。「破壊的なイノベーションを起こせない」、というのも寂しい傾向だ。「日本では統計的に99%の人は同じ民族です。同様に韓国でも99%の人は同じような顔をしていますし、中国も92%は漢民族です。一方、南アジア、例えばインドとかパキスタンは、非常に多様な国です」、 「インドには公用語が22もあります。子供のころからそうした環境で育った人は、自分と見た目や習慣、育った環境の違う人と接することに慣れています。自分と違う人とつながる練習を積んでいます。だから、米国のような多様性の高い環境に移っても「よそ者」とのコミュニケーションに全く支障がありません」、「「インドには公用語が22」、何と非効率だと思っていたが、「米国のような多様性の高い環境に移っても「よそ者」とのコミュニケーションに全く支障がありません」、と思わぬ効用があるようだ。 「米国内でいえば、インド出身者の人口は東アジア系の人口の半分程度」にも拘らず、有名企業のCEOになっているのは、確かに圧倒的だ。 今後の「研究」の進展が楽しみだ。
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