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脳科学(その2)養老孟司氏2題:なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?、なぜ「他人が自分をどう思うか」を気に病むのか?) [科学]

脳科学については、4月9日に取上げた。今日は、(その2)養老孟司氏2題:なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?、なぜ「他人が自分をどう思うか」を気に病むのか?)である。

先ずは、4/28日経ビジネスオンライン「養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/041800005/
・『解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、紐解いていきます。 養老先生は、子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています。とすれば、現代社会は「脳の世界」が明らかに優位になっていますから、子どもたちにとって生きづらいのは当然かもしれません。これから子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえで、「感覚」「自然」は大事なキーワードになるでしょう。 今回は、この2つのうち、「感覚」の意味するものへの理解を深めます(Qは聞き手の質問)。 養老(孟司氏:以下、養老):子どもというのは感覚的なんです。そこが大人と違うところですが、僕のいう「感覚的」というのは、普通にいわれている意味と違うんですね。 Q:どう違うのでしょう。 養老:例えば小学校の黒板に先生が白墨で、「黒」っていう字を書くとします。そうしたら、「くろ」と読むというのが正しい教育です。しかし、その白墨で書いた「黒」という字は、何色ですか? 白いチョークで書いているのですから、色という意味では「白」です。 養老:そのとき、それを「しろ」と読む子がいたら、どうなります? Q:「黒」と書いてあるのですから、「漢字を勉強しなさい」と。 養老:でも、チョークの色は白いわけです。ならば、「しろ」と読んでいいじゃないか、と。漢字をわかっていてそう返す子どもがいれば、相当反抗的と見なされるでしょう。 Q: ああ、そうかもしれません。 養老:僕なんかそういう子でしたから。だって先生が書いているの、白いじゃんっていう。それは「感覚が優先する」ということです。言葉として読めば「黒」という字ですけど、感覚として素直に捉えれば、それは「白」です。(養老孟司氏の略歴はリンク先参照)』、「子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています」、というのは面白い比喩だ。
・『人間の感覚は「x=3」に納得できない  養老:言葉が使えるようになった途端に、感覚より言葉のほうが優位になってきます。上になるんですね。だいたい中学生くらいで逆転します。僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていたんですけどね。数学では、「2x=6、ゆえにx=3」とやるでしょう。それがどうしても受け入れられない子がいるのですよ。 Q:「x=3」をですか? 養老:うん。さらに「A=B」と文字だけになったりすると、もう怒りだす。 Q:ああ、AはBじゃない。 養老:そう。「AはBじゃない。A=Bなら、明日からBっていう字は要らない。Aって書けばいいでしょう」って。これはへそ曲がりじゃないんですね。感覚的に捉えれば、AとBは違うものでしょう。だから「A=B」に納得できないのは当然なのですが、人は、納得できるようになってしまいます。AとBをイコールで結ぶことができるようになってしまうのですね。 Q: そういう教育を受けるから。 養老:先ほどのように、「x=3」に抵抗する子がいる。「x」は文字で「3」は数字でしょう。「数字と文字を一緒にしていいの?」という疑問ですね。 Q: 感覚としては、受け入れられないということですよね』、「僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていた」、子どもの捉え方は大人では想像もつかないような捉え方をする子どももいるので、大変だと思う。
・『意識は「同じ」を求め、感覚は「違い」を求める  養老:感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります。 Q:人の意識には「イコールにする」という機能がある。逆に感覚は「イコールにする」ことができない。ご著書にもありました。 言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。 『遺言。』(新潮新書/2017年)  Q: 先生がおっしゃる、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」において、言語は「脳の世界」に属すると。そしてそれは「イコールの世界」である。子どもが属する感覚の世界とは違っているということですね。 養老:これが、前にお話しした「自己の問題」にもつながるんです。 Q:「脳の世界」「イコールの世界」が、自己の問題になる?』、「感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります」、「数学ができない子」のできない1つの理由が理解できた。
・『「昨日の私」と「今日の私」は同じなのか?  養老:意識は毎晩、眠ると失われるのに、朝になったら出てくるでしょう。そして朝に出てきた意識は「記憶にある昨日の意識と同じ意識だ」と考える。その「同じ意識」に「私」という名称を当てちゃうのが間違いなんですがね。 Q:朝起きた「私」が、昨日と「同じ私」と考えるのが、そもそも間違っているというわけですか。 養老:言語がそうであるように、意識というのは「同じ」という働きそのものなんです。しかし、この世界を見まわして、同じものってあります? Q:まったく同じものですか? 養老:そんなもの、あり得ないんです。よく似たものが2つ並んでいたら、置いてある場所も違うし、違うに決まっているんです。 Q:数学はどうですか? 養老:数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね。 Q:数学ではなく現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね。 Q:この2本の赤ペンは「同じ種類のペン」ですけど、いわれてみれば「同じ」ではないです。使い始めた日も違えば、買ったお店も違いますし。インクの残り具合も違います。 養老:ほら、同じものって、ないでしょう。 Q:でも、「同じもの」だと思って生活をしています。よく考えれば「違う」はずのこの2本のペンを、「同じ」だと私たちは認識している。 養老:それを「概念」というのですよ』、「数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね」、「現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね」、意表をつく見方だ。
・『「the」とは感覚であり、「a」とは概念である  養老:リンゴが何個あっても、全部「リンゴ」にする。1個1個が本当にリンゴなのかどうか、いちいち確かめているかというと、別に確かめてはいません。 今、私が「リンゴ」といったときに、どこにもリンゴはありません。感覚的なリンゴはない。 Q:「感覚的なリンゴ」というのは、触ったり、匂いをかいだり、食べたりできるリンゴということですね。 養老:そういう感覚的なリンゴがないにもかかわらず話が通じてしまうのは、「同じもののことを考えている」という暗黙の約束があるからです。言葉でね。「リンゴ」という音が聞こえたときに「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。 英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです。「the apple」のほうは、感覚から入ってきたリンゴですね。 Q:theのほうは、触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」ということですね。つまり「感覚的なリンゴ」。 養老:そうです。だから「このリンゴ」「そのリンゴ」「あのリンゴ」になるんです。一方、「an apple」のほうは「どこのどれでもない一つのリンゴ」。僕が最初に英語を教わったときは、そう教わりました。でも「どこのどれでもない一つのリンゴ」ってわかります? Q:わからないです。 養老:それは別な言い方をすれば、「同じリンゴ」ということです。誰もが考えているリンゴで、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。それが「同じリンゴ」。難しくいえば「概念」となります。 Q:概念としてのリンゴ。 養老:日本語の場合は、これを「が」と「は」で使い分けています。(次回に続く)』、「「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。 英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです」、なるほど説得力ある解説だ。

次に、5月20日付け日経ビジネスオンライン「養老孟司氏、なぜ「他人が自分をどう思うか」を気に病むのか?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/042800007/
・『解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。いろいろなことが関係している厄介な問題だと、養老先生はおっしゃっていましたが、これまでにうかがったお話から、いくつかの理由が浮かび上がってきました。 情報化社会において子どもが「ノイズ」として扱われていることが一つ(「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」、「なぜ『本人』がいても『本人確認』するのか?」)。また、「自己」という概念を文化として持たない日本に、西洋流の「自己」が急激に持ち込まれたことによる戸惑い(「なぜ日本人は『自分で決めたくない』のか?」)。そして私たちの社会には自殺を止める思想がないこともわかりました(「人はなぜ『自分の命は自分のもの』と思い込むのか?」)。 これらの議論を踏まえて、課題解決の方策を探ります。 Q: ここまで、子どもの自殺が増えてしまった理由を考えてきました。では、どうすれば、子どもが死にたくならないような社会にできるのでしょうか。私たちはこれから、どんな社会をつくっていけばいいのでしょうか。今回は、そのヒントをうかがうことができればと。 養老孟司氏(以下、養老):私が気になっているのは、子どもたちが必要なものを与えられているか、ということです。モノの話じゃありませんよ。つまり、生きがいみたいなものです。大人は案外気がつかないんですけどね。 僕はイタリアの田舎なんかが好きでよく行くんですけど、レストランで小学生ぐらいの子がウエーターのまねごとをして、チップをもらっています。あれは今の国連の意見だと、児童労働ということで撲滅しなくちゃいけない。でも、何もさせないほうが虐待なんじゃないかという気がしています。 子どもに役割を持たせて、「承認欲求」をある程度満たしてやらなければならない。子どもは承認欲求が非常に強いんですよ。 Q: 役割を与えるということは、子どもの承認欲求を満たすことになる。それは生きがいにもなりますか? 養老:なります。自分のなかに生きがいはないんですから』、「イタリアの田舎」の「レストランで小学生ぐらいの子がウエーターのまねごとをして、チップをもらっています。あれは今の国連の意見だと、児童労働ということで撲滅しなくちゃいけない」、こんなのを「児童労働」とは官僚主義的解釈の最たるものだ。「役割を与えるということは、子どもの承認欲求を満たすことになる。それは生きがいにもなります」、子どもにも「生きがいにもな」るので抑制しようとした国連のスタンスは誤りだ。
・『自分のために生きるから、承認欲求が満たされない  養老:農作業の手伝いなんか、昔は普通だったんですけどね。そんなふうに社会がきめ細かく子どもの面倒を見ることをやめちゃったんですね。ブータンで、子どもがお父さんの手伝いをしていたら、「国連の役人が来て、児童虐待だといわれた」って、親が怒っていましたよ。国連なんかに勤める人は、要するにハイソサエティーの出身だからね。そうすると、「子どもを働かせるのは児童虐待」と頭で考える。そうじゃなくて、必要な場合もあるわけです。 だからYouTuberになりたいっていう子が増えるんですよ。 Q: 「だから」といいますと? 養老:YouTuberになりたいというのは要するに、「いいね」がたくさん欲しいということでしょ。  Q:満たされない承認欲求を満たしたくて。 養老:人の意見を気にするようになっているんです。小さいときから。 Q: YouTubeで「いいね」をもらわなくても、昔は子どもなりに働いて、親の役に立てれば、承認欲求を満たすことができた。それが生きがいにもつながっていたということですね。 養老:そういうものを全部外しちゃった子どもって何なんですかね。親孝行するにも、大人になってから、お金を稼いでするぐらいしかないでしょう。そんな先のこと、子どもが今、幸せになる動機にはなりませんよ。 だから社会をね、つくり直さなきゃいけない。 Q: 武士の時代のようにお家のためでも、戦争中のようにお国のためでもない社会。けれど、今の日本のように自分のために生きるのでもない社会。 かつての日本には家制度があって、代々家を存続させることに重きをおいていた。それには子供が必要です。それが今のように現世の社会のみを考えれば、大人社会から子供は要らなくなってしまう。『超バカの壁』(新潮新書/2006年) 養老:「世のため、人のため」という感覚でしょうね。家の手伝いというのは、その一歩になります。 Q: 今の日本がこれだけ子どもが自殺してしまうような社会になったということは、個人、自分のためという生き方が行き詰まっているということですよね。 養老:そうです。自分のためでは駄目なんですよ』、「ブータンで、子どもがお父さんの手伝いをしていたら、「国連の役人が来て、児童虐待だといわれた」って、親が怒っていましたよ」、「ブータン」でまで「児童虐待」騒動を起こすとは、国連も困ったものだ。「今の日本がこれだけ子どもが自殺してしまうような社会になったということは、個人、自分のためという生き方が行き詰まっているということ」、その通りだろう。
・『生きることの意味は、自分のなかにはない  養老:今の若い人はボランティアが好きでしょう。「世のため、人のため」だと喜んで動くんですよ。 Q: NPO(非営利団体)に就職したり、ソーシャルベンチャーを立ち上げたりした若い人の話もよく聞きます。もともと子どもはみんな、「人の役に立ちたい」という気持ちを持っているということですね。だからきっと、大人が「世のため、人のため」という部分を大切にすると、子どもも生きやすい社会になる。 養老:戦後、僕がずっと生きてきた時代は、それをばかにしてきましたから。社会貢献する仕事というものの価値を、全部下げてきましたから。学校の先生が偉くなくなったでしょう。 Q: 確かにそうですね。 養老:お医者さんも偉くなくなった。政治家が最初に落っこちましたね。 Q: 政治家ですか。そういわれてみれば、政治家というのは、社会のために働く人でしたね。 養老:僕は、「汚れ仕事をやってくれてありがとうございます」って、ときどきいうんですよ。 Q:そういえば政治家になりたいという子どもは見かけませんね。子どもの小学校で卒業記念のフォトブックを作ったのですが、「将来の夢」の欄に「先生」や「お医者さん」はあっても、「政治家」はありませんでした。人の役に立ちたいという子どもたちにとって、政治家は夢の職業ではなくなっているんですね。 養老:政治家は、国民のために働いているんですよ。今はそんなこと思ってないでしょうけどね、政治家本人たちも。 Q: 確かに私たちの親の世代、私たちの世代が生きてきたのは、社会への貢献より、個人としての成功を第一にする社会だった気がします。 養老:子どもたちは今、「自分の生きる意味は自分のなかにある」と、暗黙のうちに思わされているんです。そう教育されているんですね。それが常識だろうと、親が多分そう思っているわけです。 Q: そう思っていました。正直にいえば、それ以外の考え方があると思っていませんでした。 養老:親がそうであれば、自然に子どもの考え方もそうなってしまう。でも、極めて根拠がないんですよ。「自分の生きる意味は自分のなかにある」という考え方は。 それはヴィクトール・E・フランクルというウィーンの精神科の医者が、本に書いています。人生の意義は自分のなかにはないと。ナチスドイツの強制収容所から生きて出てきたユダヤ人です。 Q: 『夜と霧』ですね。 養老:「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ(*)」。人生の意義は、自分のなかにはなく、むしろ自分の外にあるということです(*)。 *『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル/みすず書房):「生きる意味を問う」より  Q: 先生も書かれていましたね。 「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場は、まさに共同体でしかない。『バカの壁』(新潮新書/2003年)』、「人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場は、まさに共同体でしかない」、日本人は考え違いを正す必要がある。
・『「人からどう見られるか」は、意外に重たい  養老:これは20年ほど前から言っているのですが、「参勤交代」をしたらどうかと。都市で生活している人たちが、1年のなかの一時期、田舎暮らしをしたらどうかという提案です。やむを得ずでも一定の時間、自然と付き合うような形の生き方にしたほうがいいんじゃないの、と。田舎では本来、何でも自分でやらなきゃならない。不便なんですね。この不便というのが非常に大事なんです。  Q:不便さというのが、今の子どもの生きづらさを解消する一助になるということでしょうか? 養老:不便なら身体を使いますから。すると、考え方が変わりますよ、ひとりでにね』、「都市で生活している人たちが、1年のなかの一時期、田舎暮らしをしたらどうかという提案です」、「田舎では本来、何でも自分でやらなきゃならない。不便なんですね。この不便というのが非常に大事なんです」、「不便なら身体を使いますから。すると、考え方が変わりますよ」、興味深い提案だ。
・『 身体を使うことで、子どもの考え方が変わる?  養老:大人も変わるでしょうね。体を使って自然に接する時間をつくると、必ずしも人に合わせる必要がなくなるからです。人の顔色を見る必要がないんですね、田舎では。 Q: 身体を使って自然に接すると、人の顔色を見る必要がない……。 養老:作業しているとね。 Q: 作業ですか。田舎で作業する……。例えば、芋掘り体験をしたときのことなど思い出してみると、確かに芋と土のことしか頭になくて、誰にどう見られているかなんて、あまり気にしていなかった気がします。 養老:そう、それが大事。人にどう見られているかっていうのは、意外に重たいんですね。でも、五感をフルに働かせると、意識のほうが遠慮しますから。そうやって感覚を多少、優位に持っていく。 Q: 具体的に、何かを見るとか聞くとか触るとか。 養老:そうですね。僕の子どものころを思い出すと、いつも川で魚を捕っていましたけど、水に入ると冷たいし、風が吹いてくるし、カワセミは飛んでいるし。ああ、きれいだなって。自然のなかにいると、さまざまな感覚の働きに気を取られて、考えることが減っていきますね。「なぜ死んではいけないのか」なんて、そんなことは考えない。 Q: それが「意識のほうが遠慮する」ということ』、「体を使って自然に接する時間をつくると、必ずしも人に合わせる必要がなくなるからです」、「自然のなかにいると、さまざまな感覚の働きに気を取られて、考えることが減っていきますね」、なるほど。
・『人間の相手ばかりしているから、死にたくなる  Q: 先生は、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」を比較して論じていらっしゃいますが、私たちにとって今、大事なのは「身体の世界」にいる時間を確保することなのですね。子どもが本来、「身体の世界」に属するものだとすると、五感をフルに働かせ、身体を使って何かをすることは、子どもの自殺を防ぐうえで助けになる気がします。 養老:僕らの頃は小学校だともう、1週間の半分ぐらいは川で遊んでましたよ、魚を捕って。それが高学年で虫捕りになっただけで。つまり、人の相手じゃなくて自然を相手にして、十分遊んでいられたんです。今はそれがなくなって、子どもの世界が半分になっちゃった。子どもたちの相手をするのが、先生とか親とか友達とか、人間ばかりになっちゃったんです。若い人にとって、「みんなで何かをする」ことは喜びではあるのですが、それにしても人といる時間が多すぎるんですよ。 なぜならそれが、自殺にも関連してくるからです。坂口恭平さんという人がいて、「いのっちの電話」というのをやっているんです。自分の携帯電話の番号を公開して、死にたい人であれば誰でもかけられるようにしています。『苦しい時は電話して』(講談社現代新書)という自分の本にも、自分の携帯電話の番号を載せている。電話がかかってきたら話して、電話に出られなかったときはかけ直している。そうやって2万人くらいの死にたい人の話を聞いてきた坂口さんは、人の苦労というのはすべて他人との関わり合いのなかにあるとしています。 だからね、子どもの時代からそういう苦労を負わせる必要、僕はないと思う。 Q: 今の子どもは、人間の相手ばかりをしているから、「他人が自分をどう思うか」を気にする時間が長い。常に他人の評価、特に大人の評価にさらされっぱなしということになるんですね。 養老:人生の半分ぐらいは、人以外のものと付き合ったらいいんじゃないのかと思います。 Q: 先生が解剖学に向かわれたのも、そのためですか? 養老:そうです。解剖もそうだし、虫もそうです。 Q: 解剖の検体は「ものいう人」ではないですもんね。虫もそうでしたか。 養老:人以外のものと付き合う時間を増やしていくことが大切なんです。 Q: 都会に住んでいるなら、親が積極的に自然に触れる機会をつくっていかないといけないですね。 養老:そうですね。ただ都会の人はわりと意識的なんです。近ごろは田舎が便利になっちゃったから、むしろ今ではそのほうが問題になっています。文部科学省の統計を調べれば、田舎の子のほうが太っている。 Q: 車での移動が多いから。 養老:だから、都会と田舎を行き来したほうがいいんですよ。(次回に続く)』、「子どもの世界が半分になっちゃった。子どもたちの相手をするのが、先生とか親とか友達とか、人間ばかりになっちゃったんです。若い人にとって、「みんなで何かをする」ことは喜びではあるのですが、それにしても人といる時間が多すぎるんですよ。 なぜならそれが、自殺にも関連してくるからです」、「人以外のものと付き合う時間を増やしていくことが大切」、「都会と田舎を行き来したほうがいい」、今さら、「田舎」生活を半分というのは、夢のまた夢だとは思うが、子どもが自然に接する時間が長くなれば、自殺は減る可能性がありそうだ。
タグ:脳科学 (その2)養老孟司氏2題:なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?、なぜ「他人が自分をどう思うか」を気に病むのか?) 日経ビジネスオンライン「養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?」 「子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています」、というのは面白い比喩だ。 僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていた」、子どもの捉え方は大人では想像もつかないような捉え方をする子どももいるので、大変だと思う。 「感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります」、「数学ができない子」のできない1つの理由が理解できた。 「数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね」、「現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね」、意表をつく見方だ。 「「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。 英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです」、なるほど説得力ある解説だ。 日経ビジネスオンライン「養老孟司氏、なぜ「他人が自分をどう思うか」を気に病むのか?」 「イタリアの田舎」の「レストランで小学生ぐらいの子がウエーターのまねごとをして、チップをもらっています。あれは今の国連の意見だと、児童労働ということで撲滅しなくちゃいけない」、こんなのを「児童労働」とは官僚主義的解釈の最たるものだ。「役割を与えるということは、子どもの承認欲求を満たすことになる。それは生きがいにもなります」、子どもにも「生きがいにもな」るので抑制しようとした国連のスタンスは誤りだ。 「ブータンで、子どもがお父さんの手伝いをしていたら、「国連の役人が来て、児童虐待だといわれた」って、親が怒っていましたよ」、「ブータン」でまで「児童虐待」騒動を起こすとは、国連も困ったものだ。「今の日本がこれだけ子どもが自殺してしまうような社会になったということは、個人、自分のためという生き方が行き詰まっているということ」、その通りだろう。 「人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場は、まさに共同体でしかない」、日本人は考え違いを正す必要がある。 「都市で生活している人たちが、1年のなかの一時期、田舎暮らしをしたらどうかという提案です」、「田舎では本来、何でも自分でやらなきゃならない。不便なんですね。この不便というのが非常に大事なんです」、「不便なら身体を使いますから。すると、考え方が変わりますよ」、興味深い提案だ。 「体を使って自然に接する時間をつくると、必ずしも人に合わせる必要がなくなるからです」、「自然のなかにいると、さまざまな感覚の働きに気を取られて、考えることが減っていきますね」、なるほど。 「子どもの世界が半分になっちゃった。子どもたちの相手をするのが、先生とか親とか友達とか、人間ばかりになっちゃったんです。若い人にとって、「みんなで何かをする」ことは喜びではあるのですが、それにしても人といる時間が多すぎるんですよ。 なぜならそれが、自殺にも関連してくるからです」、「人以外のものと付き合う時間を増やしていくことが大切」、「都会と田舎を行き来したほうがいい」、今さら、「田舎」生活を半分というのは、夢のまた夢だとは思うが、子どもが自然に接する時間が長くなれば、自殺は減る可能性がありそうだ。
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