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心理学(その4)(生贄探しシリーズ(第1回 日本人は世界でもいじわる行動が突出している 「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」 足を引っぱりあう日本人脳、第2回 「徳していそうな人」が生贄になる 「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった、第3回 ”世間体”という日本の戒律 恐るべし! 日本人は「世間の目」を なぜこんな強烈に怖がるのか?イタリア人から見た日本 ヤマザキマリ、第4回 自分自身が生贄にされないために 失敗やみっともなさを許す力をつける) [生活]

心理学については、6月20日に取上げた。今日はやや古い記事だが、(その4)(生贄探しシリーズ(第1回 日本人は世界でもいじわる行動が突出している 「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」 足を引っぱりあう日本人脳、第2回 「徳していそうな人」が生贄になる 「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった、第3回 ”世間体”という日本の戒律 恐るべし! 日本人は「世間の目」を なぜこんな強烈に怖がるのか?イタリア人から見た日本 ヤマザキマリ、第4回 自分自身が生贄にされないために 失敗やみっともなさを許す力をつける)である。

先ずは、2020年4月19日付け現代ビジネスが掲載した脳科学者の中野信子氏と漫画家のヤマザキマリ氏による「生贄探し 第1回 日本人は世界でもいじわる行動が突出している 「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」 足を引っぱりあう日本人脳 」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82246?imp=0
・『「なぜ、あの人だけいい思いをするの!」幸せそうな人を見るとモヤッとする誰にもある負の感情。ヒトは誰もが生贄を求め、自分も生贄になる運命にあります。 脳科学者・中野信子さん、中東からヨーロッパ、アメリカとさまざまな異文化で学び暮らしてきた漫画家・ヤマザキマリさんの共著『生贄探し 暴走する脳』で、その、不条理さを歯に衣着せず分析。 そして、生きにくさから自由になる方法を提案します』、興味深そうだ。
・『自分が損してでも他人をおとしめたい  「日本人は親切だ」「日本人は礼儀正しい」「日本人は真面目だ」「日本人は協調性がある」というお決まりの褒め言葉があります。 確かにそのとおりでしょう。でも、日本人として日本に長く暮らしていると、手放しで喜んでよいものなのかどうか、一抹の不安もよぎります。これは一面的な見方であるかもしれない。本当に美しい心からそういう振る舞いがなされているのだろうか。そんなきれいごとで説明できるような国民性であったら、あっという間に悪意を持った他者/他国の餌食にされてしまうのでは? コーネル大学のベス・A・リビングストン、ノートルダム大学のティモシー・A・ジャッジ、ウェスタンオンタリオ大学のチャーリス・ハーストが行った研究によれば、協調性の高さと収入のレベルは反比例するといいます。誤解を恐れずに言えば、いい人は搾取されてしまうということです。 冷静に考えれば、親切で礼儀正しいのは、相手に対して無礼に振る舞ったことが広まって誹謗されることによる不利益を被るリスクを抑えるためであったり、真面目なのは誰かから後ろ指をさされて村八分にならないための自衛行為であったりもします。協調性があるというのも、そうしなければ本当に困ったときに誰も助けてくれないかもしれないからという理由が隠れていたりもします。 表向き、整った姿が見えているだけで、その裏には見なかったことにしなければならない闇の部分が口を開けている……。そんな闇があるからこそ、地理条件が偶然に助けているばかりではなく、日本人は自身の力で独立性を保っていられるのだとも言えます。きれいに整った穏やかな笑顔の下に、適切な量だけ毒々しさを隠し持っている日本の共同体の姿を、多くの人は、私などよりもずっと、経験的に知っているはずだと思います。 そんな日本社会の中で、生きづらさや息苦しさを感じたり、なぜ合理的な仕組みを築くことができないのかと憤慨したりする人も多いでしょうが、根本的には日本人のこうした逆説的な良い意味での「悪い」性格が原因となっているとも言えます。 残念ながら(?)、日本人は他国よりも顕著に「スパイト行動」をしてしまうという結果が報告されたわけですが、このスパイト行動とは、相手の得を許さない、という振る舞いのことです。もっと言えば、「自分が損してでも他人をおとしめたいという嫌がらせ行動」とでも言えばよいでしょうか』、「日本人は他国よりも顕著に「スパイト行動」をしてしまうという結果が報告されたわけですが、このスパイト行動とは、相手の得を許さない、という振る舞いのことです。もっと言えば、「自分が損してでも他人をおとしめたいという嫌がらせ行動」とでも言えばよいでしょうか」、ふーん、なるほど。
・『世界でもいじわる行動が突出している日本人  大阪大学社会経済研究所の実験をご紹介します。 実験としては、おたがいにお金を出資して公共財(道路)を造ろうというゲームをしてもらいます。プレイヤー同士がおたがいにどんな行動をとるかによって自分の損得が決まるというルールで、心理的な駆け引きが見えてくるようになっています。 この実験によれば日本人は「スパイト行動」、つまり「自分が損してでも他人をおとしめたいという嫌がらせ行動」が顕著であったというのです。日本人は他人が利益を得ようとして自分を出し抜くことを嫌います。いわゆる「フリーライダー」を許さないのです。 タダ乗りする奴を許してはならない、なぜなら許せば社会の損失となるからだ――そうした内的な動機づけが行われて、自分が損をしてでも他人の足を引っ張ろうとするのです。そして、この傾向は世界のほかの国の人々には見られなかったというのです。 なぜ、日本でだけこの現象が見られるのでしょうか。日本人が、人の足を引っ張る行動をとる背景には、何があるのでしょうか。 「出る杭は打たれる」という諺(ことわざ)がありますが、これは非常に日本的な発想であると言えます。海外ではそれに該当する諺がないか、日本ほどは強く言われないようです。 一方で、日本人の社会的振る舞いは、たいへん節度のあるものであり、控えめで美しいと、海外から称賛されることもしばしばです。親切さ、礼儀正しさ、真面目さ、協調性など、われわれ自身も誇らしく思えるものでもあります。しかし、これらは一見、美しく見えますが、本質的なところはどうでしょうか。 もし、これらの性質が、実際はスパイト行動で自分が怖い目に遭わないための同調圧力に起因するものだとしたら。 『空気を読む脳』(講談社+α新書)で詳述しましたが、日本特有のこういった風潮の成り立ちについては、遺伝的な要素も絡む、一定の生理的な理由が考えられます。セロトニンの動態によってその人の、他者の得に対する態度が左右されるのです。 面白いことに、この実験では、ゲームが進むにつれて、プレイヤーは協力的になっていきました。これは、協力せずに自分が出し抜こうとしたら仕返しされるリスクが高いため、その恐怖が大きくなっていくからであると考えられます。 この結果についても、他国ではこのような傾向が見られませんでした。要するに、日本人は他人が得するのを許せない、そして、意地でも他人の足を引っ張りたいと考えている、ということが図らずも証明されてしまったわけです。協力的な姿勢になるのは自分も同じ目に遭うのが怖いからなのだ、ということになるでしょうか。 ただ、私はこのことをもって、単純に日本人が性悪だとは思いません。美しい国を守るためには、ときにはこういった毒をうまく使いこなすことも必要でしょう。 いずれにしても、とても興味深い結果です』、「単純に日本人が性悪だとは思いません。美しい国を守るためには、ときにはこういった毒をうまく使いこなすことも必要でしょう」、なるほど。
・『協調性という名の蟻地獄  前項で日本人はスパイト行動をする傾向にあるという実験をご紹介しましたが、このスパイト行動は、言い換えれば、協調性という名の蟻地獄、とでも言えるものです。 他人が得するのを許せない、という精神が、どちらも得をするというwin-winな考え方の邪魔をしているのです。また興味深いのは、「私が損をしているのだからお前も損をすべきだ」という考え方が生じることです。いわば、win-winよりもlose-loseを指向する構造を持っているということになります。足を引っ張りあい、誰の得も許さない。ひとりだけ抜け駆けしようとするやつは寄ってたかって袋叩きにしてやれということにもなります。つまり、この蟻地獄から抜け出そうとするのには、かなりの困難が伴うということです。 さすがに文章で読んでいるだけであれば、自分はそんなことはしないし、思いもしない、という人がそれなりにいると思うのですが、実際には、すでにおたがいを潰しあう結果をもたらす選択を何度もしている人が相当数いるのではないかと推察されます。そうでなければ、もっと合理的な選択を選好する社会がとっくに構築されていて然るべきで、「空気を読め」だとか、「出る杭は打たれてしまう」だとか、「お前だけを特別扱いするわけにはいかない」だとか、そんな非合理的な慣習はすでに消滅し去っているはずだからです。 日本ではイノベーションがなぜ起きないのか、といった議論がひところ、盛り上がったことがありました。ここまで説明してきたような土壌のある土地では、相当工夫しなければ、目立って旗を振る人は全員がこの空気の犠牲になってしまうでしょう。足を引っ張られてしまうことから彼らを守らなければ、イノベーションなど起こりようがないのです。 ドローンやブロックチェーン、自動運転といった新たな技術が出てきても、普及させるうえで些細な問題が起きるたびに、足を引っ張るいい口実ができたとばかりに、責任追及ばかりに終始する。ネガティブな側面ばかりがクローズアップされて、規制のオンパレード。これでは、新しいことにチャレンジするインセンティブ(動機)がなくなってしまいます。新しいことには経験知も伴わないことが多く、失敗があって当然のはずですから、新しいことにチャレンジする、イコール、足を引っ張られる沼へ踏み込むこと、になってしまうのです。 ただ、これは、攻撃する人を責めても状況が改善されるものではないのです。誰が悪いかを特定してその人を排除する、ではまた同じことのくり返しであり、まったく解決になりません。そうではなくて、これからどう改善するかにフォーカスする必要があります。 この実験はもうひとつの興味深い性質を浮き彫りにしてもいます。自分が得する側になったら、今度は自分が足を引っ張られて潰されるのが怖いので、できるだけ相手を刺激しないよう、無難に仲良くlose-loseしよう、という性質です。空気を読んで、目立たないように行動しよう。誰かの反感を買いかねないような派手な格好や威圧的なファッションは避けておこう。そんなふうに日本の女性が振る舞うのも、このためでしょう』、「協調性という名の蟻地獄、とでも言えるものです。 他人が得するのを許せない、という精神が、どちらも得をするというwin-winな考え方の邪魔をしているのです。また興味深いのは、「私が損をしているのだからお前も損をすべきだ」という考え方が生じることです。いわば、win-winよりもlose-loseを指向する構造を持っているということになります。足を引っ張りあい、誰の得も許さない。ひとりだけ抜け駆けしようとするやつは寄ってたかって袋叩きにしてやれということにもなります。つまり、この蟻地獄から抜け出そうとするのには、かなりの困難が伴うということです」、「自分が得する側になったら、今度は自分が足を引っ張られて潰されるのが怖いので、できるだけ相手を刺激しないよう、無難に仲良くlose-loseしよう、という性質です。空気を読んで、目立たないように行動しよう。誰かの反感を買いかねないような派手な格好や威圧的なファッションは避けておこう。そんなふうに日本の女性が振る舞うのも、このためでしょう」、なるほど。
・『日本ではたったの一度の不倫騒動も命とり  身近にもスパイト行動はたくさん見受けられます。 誰かがいい思いをしているとそれに嫉妬して、「あいつはダメだ」と周りに吹聴したり嫌味を言う。人を祝福したり称賛することができない。こうした人々の中では、誰かが得するだけで揉めごとの原因になりかねません。 この環境下では、宝くじが当たろうがビットコイン長者になろうが、余計なことは話さず、素の感情は見せないのが得策なのかもしれません。カラハリ砂漠のサン人は自慢すると後ろから味方に討たれかねないので、どんなにいい獲物を仕留めても、自らの猟果をみんなの前で自慢することはないといいます。日本社会にも似たところがありそうです。 政治家や芸能人のゴシップ記事で、炎上しやすいのが日本特有である理由の一端も、これで説明することができるかもしれません。芸能人も一度不倫騒動があれば人生が終わるようなレベルの転落をしてしまいます。やはり日本人には有名人を叩くのが好きなスパイト精神があるのでしょう。有名税という言葉は日本特有かもしれません。自分よりもおいしい思いをしている有名人は「けしからん!」と考えるのです。 論理的に考えれば、仕事ができることと人間的に高潔であることは別物です。「英雄色を好む」と言われるように、偉大な仕事を成し遂げる人はテストステロン値の高い人が多く、色恋沙汰も必然的に多くなってしまう傾向も否めないでしょう。仕事で結果を出しているのであればその人のプライベートはほとんど関係ないはずで、政治家が不倫をしようが日本をよくしてくれるのなら、特に糾弾する必要はないのではとも個人的には思います。 誰に対しても高潔さを求められる社会は息苦しいものです。 日本にいまだによくある根性論や美徳を振りかざして他者を追い詰める行為も、スパイト行動の一種と言えます。モラハラ、パワハラとも言われますね。成長にまったく寄与しないにもかかわらず、お前のためだ、などと言って理不尽な倫理観でねじ伏せようとする行動です。児童虐待の中にもこうした側面を持つものがあり、痛ましい報道に触れるたびに、胸が苦しくなるように感じます。 「自分たちはこんな苦労をしてきたのだからお前も苦労すべきだ」論を押しつける振る舞いもよく見られるように思います。今の若い人がおいしい思いをしているのを見るだけで、許せなくて足を引っ張ろうとする。これも、スパイト行動の典型的な例です。 あなたの人生には、有限の時間しかありません。足を引っ張るような人の多い環境で、息を詰めるように暮らしていくのは大変なことです。できればもっと誰かを祝福したり素直に称賛できたりするような、器の大きさを持った人と楽しくすごしていきたいものです』、「日本にいまだによくある根性論や美徳を振りかざして他者を追い詰める行為も、スパイト行動の一種と言えます。モラハラ、パワハラとも言われますね。成長にまったく寄与しないにもかかわらず、お前のためだ、などと言って理不尽な倫理観でねじ伏せようとする行動です」、なるほど。「あなたの人生には、有限の時間しかありません。足を引っ張るような人の多い環境で、息を詰めるように暮らしていくのは大変なことです。できればもっと誰かを祝福したり素直に称賛できたりするような、器の大きさを持った人と楽しくすごしていきたいものです」、同感である。
・『どうすれば周りに足を引っ張られないか  足を引っ張られず、悠々と実力をつけたいと願うのであれば、まずはスパイト行動をとる人が多い環境をなるべく避けることです。 実力をつけてきそうな後輩を叩いて道連れにしたり、村八分を恐れるあまり同調せざるを得なくなるような人も残念ながら多いものです。そうした環境にいては、あなたの人生は搾取される一方になってしまう。もしもそんな環境にあなたがいたとしたらすぐに抜け出すことをすすめます。長いことそんな環境に身を置いていれば、自分も無意識に誰かにスパイト行動をするように変貌してしまうかもしれません。 そしてもし、抜け出せない環境にそんな相手がいたとしたら、その人には、自分のことを、こう思ってもらう必要があります。「この人は私とは違う。もはやこの人は私の手の届くようなところにはない特別な能力を持った人だ」と。出過ぎた杭は打たれない、というのは確かに心理学的にみてもそのとおりです。相手の妬みを憧れに変え、自分を生贄にするよりも、生かして仲良くしたほうが得だと思わせられるようになるまで、自分を磨きぬかねばなりません。 そうして自身を作り上げていった人たちが多数派になったとき、この国の様相も、変わっていくかもしれないと思います。そんな静かな革命の一歩が、もしかしたらあなたの振る舞いから始まるかもしれません。明日の見えない、不安な時代に、「空気」という群衆のあいまいな意見に振り回されず、自分自身の選んだ道を正解にできる力強さを、多くの人が持つことができるよう願っています。 続きは、中野信子さんとヤマザキマリさんの対談『「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった』です』、「「この人は私とは違う。もはやこの人は私の手の届くようなところにはない特別な能力を持った人だ」と。出過ぎた杭は打たれない、というのは確かに心理学的にみてもそのとおりです。相手の妬みを憧れに変え、自分を生贄にするよりも、生かして仲良くしたほうが得だと思わせられるようになるまで、自分を磨きぬかねばなりません。 そうして自身を作り上げていった人たちが多数派になったとき、この国の様相も、変わっていくかもしれないと思います」、理想論的だが、同感である。

次に、この続きを、2020年4月20日付け現代ビジネスが掲載した脳科学者の中野 信子氏と漫画家の ヤマザキ マリ氏の対談「生贄探し 第2回 「徳していそうな人」が生贄になる 「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82248?imp=0
・『「なぜ、あの人だけいい思いをするの!」幸せそうな人を見るとモヤッとする誰にもある負の感情。ヒトは誰もが生贄を求め、自分も生贄になる運命にあります。 脳科学者・中野信子さん、中東からヨーロッパ、アメリカとさまざまな異文化で学び暮らしてきた漫画家・ヤマザキマリさんの共著『生贄探し 暴走する脳』で、その、不条理さを歯に衣着せず分析。 そして、生きにくさから自由になる方法を提案します』、興味深そうだ。
・『フェラーリで上がる男性ホルモンの値  中野 誰にとっても自分が大事というのは生物の基本原理ですし、そうでなければ現在、生き残っていない可能性大です。でも、誰にとっても自分が大事だから、他者を傷つけないでおこう、そこの思考のジャンプができる人とできない人がいるのですよね。 ヤマザキ 車の運転で人格が変わる人がいますけど、ツイッターにも似ている要素がありますね。 中野 似てますね。たとえば、あおり運転などの報道を見ていると、免許を持っていても運転するのが怖くなります。アバターを使った実験があるのですが、自分のアバターを変えるだけで、自尊感情が向上するというのがわかっているんです。また、高級車のほうが違反が多いというデータもありますね。フェラーリとカローラとを比べると、フェラーリに乗るほうがテストステロン値は上がるとわかったのです。 ヤマザキ 自尊心が誇大化するんですね、車もSNSでの発言も実態を覆う甲冑ですから。 中野 男性ホルモンの値が上がって、攻撃性が増してしまうんですね。たぶん昔の武将などは、名の知れた甲冑を身に着けるだけで人格変容する、ということもあったのではないでしょうか。 ヤマザキ フェラーリだとまたみんな振り返りますしね。承認欲求の顕在化。 中野 今だと高級時計とか、トロフィーワイフなどですかね。 ヤマザキ トロフィーワイフもあればトロフィーハズバンド、今まさにまったく同じこと考えていました。 中野 (笑)。月並みですが、やはり人間は物質的に満たされるとどこか病んでしまうのですかね……。コロナ禍が起こって、実は、こういうことを客観的に眺めることができる時間が増えたことは、現代人にとってまさに立ちどまって考える時間を与えられたという意味では、よかったと思うんですが。 ヤマザキ ひとつの共通した問題を、世界のすべての国々や人々が同時に抱える機会など滅多にありません。安泰な時間が多すぎても問題ですが、足りない分にはいろいろなことに気がつくチャンスがもたらされる。 中野 足りないとより知的になる人と、足りないとパニックになり、より鈍ってしまう人の両方がいますね。ただこれも、文化と教育のリソースが豊かであれば、前者の人をより増やせると思うのです。必ずしも物質的に豊かなことが幸福にはつながらない具体例として、古代ローマは大きな実験データになっているんですね』、「高級車のほうが違反が多いというデータもありますね。フェラーリとカローラとを比べると、フェラーリに乗るほうがテストステロン値は上がる」、「ヤマザキ 自尊心が誇大化するんですね、車もSNSでの発言も実態を覆う甲冑ですから。・・・ヤマザキ フェラーリだとまたみんな振り返りますしね。承認欲求の顕在化」、「必ずしも物質的に豊かなことが幸福にはつながらない具体例として、古代ローマは大きな実験データになっている」、日本でも「フェラーリ」集団の高速道路での大事故が話題になった。
・『息苦しさが表の顔と裏の顔を作る  ヤマザキ 古代ローマの時代性は食文化にも現れています。たとえば、帝政期のパクス・ロマーナの期間などは飽食の時代でもあり、お金持ちはフラミンゴの舌や雌豚の乳房とかを高級珍味として食していたりするわけです。 中野 古代ローマにおける食のバブルですね! ヤマザキ 食のファンタジーが通常の概念を逸脱していました。でもそういった豪勢な宴を開きながら、食べたものは吐き出すわけです。なぜかと言うと、食欲のために食べているわけではなく、味覚を満たすのが目的だからです。 中野 栄養をとるためじゃなく、エンタメや癒やしのために食べるんですね。 ヤマザキ そういうことです。盛りつけも視覚を刺激するものでなければならないから、突飛もないような有様だったらしい。鴨の腹を裂くとウナギが出てくる、みたいな……。 中野 摂食障害や過食嘔吐の人が多く出たでしょう。 ヤマザキ 古代ローマの社会や経済を考えると、多かったと思いますよ。 中野 この時代は痩せているほうが美ですか? ヤマザキ いえ、痩せているのが美しいとは思われていません。女性で言えば、痩せていると貧相、つまり出自や生き方が貧しいということになります。現代でも発展途上国の中にはグラマラスさが求められる傾向が強いところもありますけど、同じですね。肥満については、太って貫禄を見せたい元老院とかのおっさんたちには許されても、若いうちはやはりメンタルバランスの失調を表すことになってしまうので、運動もしているという証拠としてそこそこ筋肉がついた均整のとれた体が求められた。 古代の彫刻を思い出してみてください。女性は痩せすぎず、太すぎず。男性もいいあんばいの筋肉がついています。古代ローマで大事なのは、「バランス」です。何ごとも均等の調整がとれない人は自己管理が下手と見做されます。 中野 ローマの理想の型を追ってみる試みは面白いですね。その理想が独り歩きして、人々を苦しめたりもしていそう。現代と同じように。人間にはダメな部分や裏の部分もあるのに、その部分を認めない理想によって、表の顔と裏の顔が乖離(かいり)します。表は輝かしい皇帝、裏はいつも不安で自己の欠落におびえる。 マリさんが『プリニウス』(新潮社)で描いている暴君と呼ばれた皇帝ネロが、心理的にグレートマザーに依存し、闇を抱えてしまう理由のひとつがここにもあったのですね。 ヤマザキ 人文、運動、芸術すべてバランスを整えられない人はエリートとして認められません。ネロもこの圧力の犠牲になっていたと言えますね。 中野 興味深いですけど、なんと息苦しい社会でしょう。 ヤマザキ 息苦しいですよ、だから奴隷であるほうがいっそ気楽だったと思います。 中野 エリート層から脱落する恐怖というのはやはりあったのでしょうか。 ヤマザキ ありましたね。皇位継承は世襲だったりそうでなかったりと時期によって変わりますが、階級社会ではありますから、貴族はしょっちゅう権力者に媚び続けていなければなりませんでした。脱落すれば、普通の市民か、それ以下の生活が待っている。経済も馬力があった反面、競争も激しく、行き詰まってしまう商人や実業家もいました。 中野 格差が大きかったんですね。 ヤマザキ 今の資本主義社会とかなり近い社会だったと思いますよ。当時はまだ命の尊さや慈愛を訴えるキリスト教の教えが広まっていませんから、自殺は悪いことではありません。死の選択は自由でした。だから行き詰まったり、名誉を失った人は苦悩からの解決策として自殺を選ぶことも当たり前でした。 中野 あ、ちょっと日本ぽいです。 ヤマザキ 似ているんですよ』、「ヤマザキ 人文、運動、芸術すべてバランスを整えられない人はエリートとして認められません。ネロもこの圧力の犠牲になっていたと言えますね。 中野 興味深いですけど、なんと息苦しい社会でしょう。 ヤマザキ 息苦しいですよ、だから奴隷であるほうがいっそ気楽だったと思います」、「古代ローマ時代」が「息苦しい」とはありそうな話だ。
・『「目立つ人」「得をしていそうに見える人」から標的になる  中野 有名な人を何かにつけて攻撃するのは、生贄の構造と同じと言えます。祝祭の生贄は共同体を保つために必要ということになりますが……。誰かをやり玉にあげることによって、その他の人が団結したり、ルールを守らせるための見せしめとなったりする。昔はそういう役割の人をわざわざ用意したところもあったのではないかと思います。その祝祭の構造が地域共同体の崩壊により機能しなくなると、誰も彼もが標的になるんですね。 ヤマザキ たとえばいじめも、リーダー格の人が誰かをスケープゴートと決めて、そして周りにもその人をスケープゴートとして扱うことを強いる、というあの構図でしょうか。 中野 そうですね。『魏志倭人伝』にも、持衰(じさい)という役割を持つ人が出てきます。船に乗り込ませ、時化(しけ)のときに生贄にされるための存在です。残酷ですが……。持衰は髪もとかず服も洗わず虱(しらみ)まみれで、肉も食べず女とも交わってはならないと記述があります。 本当は専門家に詳しく聞きたいところですが、このような仕組みがないと、危機のときにもっと困ったことになったのかもしれません。つまり、あらかじめ失われる人を設定しておかないと、誰から標的になるのかと言うと、「目立つ人」「得をしていそうに見える人」から選ばれてしまう。その人は、実際には力があって、共同体のために必要な人かもしれないのに。これが、現代でいう、有名税の構図ですよね。 また、外見の異なる人も標的になりやすくなります。異質者を排除する集団バイアスがかかるためです。さらに危機が迫ると、内集団バイアスという「自分たちは無条件にすごい!」、外集団バイアスは「よそ者は無条件にダメ!」と、こういった偏りが強くなります。 ヤマザキ でもそれが社会のバランスをとるうえで必要不可欠なことなのだとすると、格差のない人類皆平等の世界などというのは完全にフィクションということになりますよね。歴史を辿っても見えてくることですが、そもそも人類から差別や格差が消えるなどと思ったことは実はありません』、「外見の異なる人も標的になりやすくなります。異質者を排除する集団バイアスがかかるためです。さらに危機が迫ると、内集団バイアスという「自分たちは無条件にすごい!」、外集団バイアスは「よそ者は無条件にダメ!」と、こういった偏りが強くなります」、日本人は「内集団バイアス」にかかり易そうだ。
・『不安や経済的な不安定さが生贄欲を高める  中野 災害が起きるたびにこの傾向は高まるようなのです。災害が起きるごとに社会的な排除というかたちで生贄がささげられる、ということの説明にはなるでしょう。しかし、現代の世界にはそぐわないですよね、この生贄をささげるという仕組みは。 ヤマザキ 不安が溜まったり経済的に不安定になればなるほど、生贄を欲するようになるということでしょうか。生贄という概念自体は本能ではないけれど、人間の文明は生贄とともにありき、というのはありますよね。 中野 そうですね、もう生物としての仕組みに近いところにありますね。完全に消すことは無理なのかもしれません。しかし、何か工夫ができないものかといつも思います。差別や格差というかたちでなく、人心を安定させるための仕掛けが必要だと思います。逸脱者を自分勝手な正義に基づいて攻撃することは、恥ずかしいことだ、と自覚させる仕掛けがあるといいのですよね。抑止力としては今のところこれができればいちばんスマートです。 ただ、これを外的なルールとして定着させると、またそこから逸脱した人は排除していい、というリバウンドが起こります。「攻撃している奴は攻撃していい! いじめている奴こそいじめられてしかるべき!」というのがその典型ですが、これが無限に続いてしまうでしょう。「冷静になろうよ」という人がもう少しいてもいいと思うのですが、あまり広がらない感じがあるのは残念です。 ヤマザキ とにかく、俯瞰的にものごとを捉えて、人間をヒトという生き物として分析したり、冷静な発言をできる人間が少ないですね。人間が地球の生物で一番優れているという確信から捉えた考え方が多い。 中野 本当に。大衆を動かすとき、古代ローマでもそういった、やはり民をあおるような言説は広がっていったんですか。冷静な発言をする人は、常に標的になりかねないものだ、という認識があります。 ヤマザキ ネットでも「自分は大変冷静に今の状況を捉えています」みたいな雰囲気を漂わせている人にも、警戒したほうがいいな、というのが自分にはあります。 中野 自分こそ正義、自分こそ知性、と思っている人ほど、ブレーキがオフになりやすく、正義の快さにあっという間に人格を乗っ取られてしまう。本当の知性は、自分の正義や知性が独り善がりのものになっていないかどうかを、まず疑うところにこそ、あると思うのですが。 続きは、ヤマザキマリさんの『日本人は「世間の目」を、なぜこんな強烈に怖がるのか? ~イタリア人から見た日本』をお届けします』、関東大震災時の朝鮮人狩りも「生贄」の一種だったのかも知れない。

第三に、この続きを2020年4月21日付け現代ビジネスが掲載した漫画家のヤマザキマリ氏による「生贄探し 第3回 ”世間体”という日本の戒律 恐るべし! 日本人は「世間の目」を、なぜこんな強烈に怖がるのか?イタリア人から見た日本 ヤマザキマリ」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82249?imp=0
・『「なぜ、あの人だけいい思いをするの!」幸せそうな人を見るとモヤッとする誰にもある負の感情。日本人の思考の傾向は脳の特徴と言えます。ですから、ヒトは誰もが生贄を求め、自分も生贄になる運命にあります。 脳科学者・中野信子さん、中東からヨーロッパ、アメリカとさまざまな異文化で学び暮らしてきた漫画家・ヤマザキマリさんの共著『生贄探し 暴走する脳』で、その、不条理さを歯に衣着せず分析。 そして、生きにくさから自由になる方法を提案します』、興味深そうだ。
・『“出る杭を打つ”日本を恋しがるイタリア人の夫  イタリアで学校の教諭をしている夫はこれまで年に2度、休暇のたびに日本を訪れるのが常でしたが、コロナ禍になってからはそれも叶わず、おたがいに会えていない状態が2019年の暮れから続いています。日本より厳しい措置がとられているイタリアで、50キロ離れた場所に暮らす両親の家へ行くことも控え、日々引きこもりを強いられている生活にやり場のない鬱憤を溜め込んでいる様子の夫ですが、先日交わした電話での会話でも「日本へ行きたい」とくり返していました。 ヨーロッパや中東の歴史の研究を生業としてきた夫は、日本人である私と結婚をしていながら、日本という国そのものに対しては、それほど強い好奇心を持っているわけではありません。昨今日本を訪れていた多くの外国人観光客に見られるような日本のサブカルへのシンパシーもなく、むしろ私の漫画家という休日返上で向き合わねばならない仕事を快く思っていない人です。なので「日本に来たくなるのはどうして?」と問いただしてみました。すると夫はしばらく黙ってからこう答えました。 「イタリアでは誰もがコロナに平常心を乱され、家族や知人の、見るからに鬱憤を溜め込んでいる表情を見ていると滅入ってしまう。こんな毎日をすごしていると、日本の、周りの人に迷惑をかけないように気を使って生きている、お行儀のよい人たちが懐かしくなる」 夫曰く、テレビをつけても、教員同士でリモート会議をしても、誰も彼も自制の利かない強烈な自己主張をぶつけてくるばかりで疲れてしまい、そんなとき、ふと日本の“世間体”を意識しながら主張を抑えて生きる人たちを思い出してしまうというのです』、「イタリア人の夫」が「イタリアでは誰もがコロナに平常心を乱され、家族や知人の、見るからに鬱憤を溜め込んでいる表情を見ていると滅入ってしまう。こんな毎日をすごしていると、日本の、周りの人に迷惑をかけないように気を使って生きている、お行儀のよい人たちが懐かしくなる」・・・そんなとき、ふと日本の“世間体”を意識しながら主張を抑えて生きる人たちを思い出してしまうというのです」、日本人が変なところで評価されたものだ。
・『“世間体”という圧力で調和をとる日本人  「たとえばテレビのニュース番組ひとつとってみても、イタリアの女性キャスターは斜に構えたポーズに攻撃的な口調だし、知的だけどどこかセクシーな服装も含めどこか挑発的だけれど、日本のキャスターはみんな見た目も服装も謙虚で素朴だし、威圧感もない。ニュース番組の内容自体も世界で起こっているアグレッシブな報道は少なくて、田舎でこんな作物がとれたとか、こんなイベントがあったとか、全体的にほのぼのしたネタが多い。人間の狂気的側面を感じさせる報道を極力控えた、あの独特な雰囲気が懐かしくなることがある」 といった夫の発言は、まさに日本のニュース番組を毀誉褒貶するものでした。 “出る杭を打つ”という精神衝動は特に日本人に顕著に見られるものだそうですが、実は夫が指摘していた日本の女性キャスターの服装も、視聴者のリアクションを配慮した結論なのだという話を聞いたことがあります。もし、日本の朝のニュース番組に日焼けした肌にジル・サンダーやマックス・マーラをスマートに着こなす、スタイリッシュで大人の知的色気を纏った女性キャスターが現れでもしたら、全国の時間を持て余している視聴者からクレームが殺到する可能性があると言うのです。 毎日、特に朝のテレビに出るような立場の人は、視聴者に余計な刺激を与える存在であってはいけないし、どんなに知性があってもそこに成熟した色気を匂わせたり、視聴者に圧を与えるような雰囲気の女性がキャスターを務めるようなニュース番組は見たくない、と感じている人が少なくないということなのでしょう。 かくいう私も、かつて北海道のテレビ局の番組で料理を作ったりリポーターをしていた時期がありますが、11年に及ぶイタリアでの留学生活の直後だったこともあり、ヘアスタイルは学生時代と同じくジャニス・ジョプリンのようなもつれた無造作なソバージュで、しかも声は低いし態度も大雑把ですから、日本のテレビ向けとは言い難い私の有様を見て驚いた視聴者がいたのでしょう。間もなく番組のプロデューサーに呼び出されて、髪型を変えてほしいということ、そして黒や紺など暗い色の服装も控えてほしい、と指示されたことがありました。 結局私は髪型を変えることも、子どものころから着なれている暗い色の服を控えることもしませんでしたが、そのうち視聴者の人たちも私のそんな佇まいに慣れていったのか、または諦めたのかクレームが届くことはなくなりました。 たまたま私がイタリアという、家庭でも社会でも自己主張の弱い人間はたちどころに潰されていくような国で揉まれてきたのと、テレビの仕事も子育てのためと弁えて、自分の佇まいを矯正されてまで続けるつもりはなかったので、プロデューサーや視聴者の批判にさほど翻弄されることなく毅然としていられましたが、あのときもし、自分の居場所は日本にしかなく、日本の環境に何が何でも溶け込む必要がある、という意識がもっと強かったら、おそらくそうした“世間体”の圧力によって、自分という人間を視聴者が求めていたような仕様にかたどり直していたかもしれません。 もちろん、中には突出した才能を発揮させることで社会的な成功を収めている人たちだっています。しかし、人々は出る杭的な立場である彼らを、自分たちの抱くイメージや正しいと信じていることを裏切らないという条件つきで認めているところがありますから、少しでもそれに添わないことをしてしまうと、簡単に世間から抹殺されてしまうことになるのでしょう』、「人々は出る杭的な立場である彼ら(外国育ち)を、自分たちの抱くイメージや正しいと信じていることを裏切らないという条件つきで認めているところがありますから、少しでもそれに添わないことをしてしまうと、簡単に世間から抹殺されてしまうことになるのでしょう」、ヤマザキ氏が忠告を無視できたのは幸運だった。
・『「世間の目が怖い」で統制されている日本社会  個性や独特な世界観が人としての評価を高めることのできる欧州と、世間が築いたテーゼからはみ出さないように生きてきた人が評価される日本。こうしたそれぞれの国民の個性や価値観の相違の背景には、そういった精神性が育まれるにいたった歴史や地理といった条件が織り込まれているので、どちらがよいとか悪いとかといったことを考えるのはナンセンスですし、怠惰な人間にとって比較は迷惑なものでしかありません。 たとえば、西洋や中東では、長い年月宗教が築いた倫理や理性が人々の中で確固たる軸をなしていますが、宗教の拘束がない日本の場合は“世間体”という戒律がわれわれの生き方を統制しています。先日、コロナの陽性反応が出たことで「周りに迷惑をかけてしまった」と危惧し、自ら命を絶ってしまった女性がいたことを報道番組で知りました。周囲から非難されることを恐れて、検査が陰性でも田舎の実家へ戻らないようにしている人たちも随分いると聞いています。 下手をするとこの“世間体”は、キリスト教やイスラム教やちょっとした社会主義体制よりも、よほど厳しい戒律だと解釈することもできます。無症状だけど陽性判定が出てしまい、周りへ迷惑をかけることを苦に自死した女性がいるとイタリアの家族に話をしたら「なんだって!? そんなことで自殺をするなんて信じられない!」と絶句していましたが、実は日本におけるこうした“世間体”の厳しさこそが、他国と比べてコロナの蔓延をいくらか抑制する理由になっている部分も少なからずあるのではないかと、私は見ています。 われわれは、自由と民主主義が許された社会の中で暮らしていると思い込んで日々をすごしています。でも実態は、“世間体”という、具体的なかたちになっていないだけの民衆による強烈な統制力と、その時々の流動的な倫理によって形成される正義感によって、思想や行動の自由が容赦なく規制された、窮屈な環境の中に置かれているとも言えるのです。 続きはヤマザキマリさんの『失敗やみっともなさを許す力をつける』をお届けします』、「西洋や中東では、長い年月宗教が築いた倫理や理性が人々の中で確固たる軸をなしていますが、宗教の拘束がない日本の場合は“世間体”という戒律がわれわれの生き方を統制しています」、「下手をするとこの“世間体”は、キリスト教やイスラム教やちょっとした社会主義体制よりも、よほど厳しい戒律だと解釈することもできます。無症状だけど陽性判定が出てしまい、周りへ迷惑をかけることを苦に自死した女性がいるとイタリアの家族に話をしたら「なんだって!? そんなことで自殺をするなんて信じられない!」と絶句していましたが、実は日本におけるこうした“世間体”の厳しさこそが、他国と比べてコロナの蔓延をいくらか抑制する理由になっている部分も少なからずあるのではないかと、私は見ています」、確かに「“世間体”の厳しさこそが、他国と比べてコロナの蔓延をいくらか抑制する理由になっている部分も少なからずあるのではないか」。日本の感染状況の軽さに有力な説が出てきたようだ。

第四に、この続きを、2020年4月22日付け現代ビジネスが掲載した漫画家のヤマザキマリ氏による「生贄探し 第4回 自分自身が生贄にされないために 失敗やみっともなさを許す力をつける」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82250?imp=0
・『「なぜ、あの人だけいい思いをするの!」幸せそうな人を見るとモヤッとする誰にもある負の感情。日本人の思考の傾向は脳の特徴と言えます。ですから、ヒトは誰もが生贄を求め、自分も生贄になる運命にあります。 脳科学者・中野信子さん、中東からヨーロッパ、アメリカとさまざまな異文化で学び暮らしてきた漫画家・ヤマザキマリさんの共著『生贄探し 暴走する脳』で、その、不条理さを歯に衣着せず分析。 そして、生きにくさから自由になる方法を提案します』、「生きにくさから自由になる方法を提案」とは興味深そうだ。
・『自分の失敗の責任を自分で背負いたくない  以前、若い新聞記者の男性からインタビューを受けたとき、昨今の若者は海外への留学や旅行はおろか、そもそも国内旅行に行こうとすらしないという話になりました。そういう記者本人もなかなか国外へ出る勇気が出ないというので、どうしてなのかと尋ねてみたところ、融通のきかない土地へ行って自分のダメさや使えなさと向き合い、自分自身に失望するのが怖いと言うのです。つまり、自分が知りたくないみっともない自分とは遭遇したくない、自分の失敗の責任を自分で背負いたくない、ということなのでしょう。 そういえばバブルのころ、成田離婚という言葉が横行した時期がありました。要するに、日本では頼りがいのあるパートナーが海外に出た途端さっぱり役に立たず、そんな新郎の情けない有様に幻滅した妻から離婚を申し出られるというのが成田離婚の内実らしいのですが、最近の若者が旅に出て自分に幻滅するのが怖いというのも、同じ心理でしょう。冒険をしてみたところで自分のダメさに気がつき、嫌な思いをするくらいなら、行動範囲を狭めるに越したことはない、と考える人はすでに成田離婚が話題になっていたころから増えていたのかもしれません。 1990年代後半、子どもを連れて日本に戻ってきた私が気になったのは、私の幼少期と比べて子どもたちが全体的に大人しくなっていたことでした。オーケストラをリタイアした母が自宅で50人くらいの子どもたちにバイオリンを教えていたので、彼らの様子を見ればその傾向が一目瞭然でした。 それはちょうど学校での差別化を排除し、運動会の徒競走のゴールは全員一緒、学芸会ではみんなが主人公、教師が子どもたちにゲンコツのような体罰を与えようものなら大騒ぎ、という風潮が当たり前になりつつあったあの時期、子どもの授業にPTAが順番で立ち会う、というような態勢をとっていた学校の話も聞いたことがあります。とにかく教員たちがそれまでのように自分たちの解釈や判断で振る舞えなくなったというのが、日本における教育の大きな変化だったと言えるでしょう』、「教育環境は“メンタル無菌室”状態」というのは由々しい事態だ。私の区立中学校時代は、番長がいたり、誠に賑やかだった。先生も多様だった。
・『教育環境は“メンタル無菌室”状態…!  ちなみに私が小中学校に通っていた1970年代から80年代初頭は、学校にはまだ当たり前に、良い意味でも悪い意味でも個性豊かな教員たちが揃っていましたし、校則が守れない子どもには怒鳴ったり平気でゲンコツを振り下ろすような気の短い教師もいましたが、そういった粗暴な態度をとられたところで「教師としてありえない」「教師のくせに非道」などとは誰も思ってはいませんでした。 時に不条理な理由で怒られることがあったとしても、人間の社会なんていうのは所詮そんなものだということを、教員だってみんな普通にストレスを抱えながら働いている一介の人間なんだということを、子どもの立場でありながらも認識する機会を与えてもらえていたのが​、私たちにとっての学校という社会でした。そもそも理想的な人間像を、学問を教えるという役割の人間に求めるというのは、根本的におかしな話です。私の夫も研究者で教員ですが、日々、自分自身の学業や職業へのストレスと向き合いながら生きています。彼を含め生徒の心理や家庭環境の不条理についてを親身に理解し、健やかな未来を念頭に献身的に手を差し伸べてくれるほど精神が安定している人など、正直ほとんど見たことがありません。 生徒も教師も誰しも過酷な社会というジャングルに生息し、生き延びるために必死にならなければならないほど容赦のない状況に置かれた生き物なのだ、ということを知ることができるのも、学校という組織のあり方だと思うのです。 しかし現代では、こうした社会の不条理や歪んだ人間社会の実態を知らずにすませる教育が推奨されています。無茶な行動をとるような教員もいなければ、荒んだ家庭環境が顕在化したような、見るからに極悪風情な不良もいません。健やかに勉強ができるように、そしていじめが発生しないようにという考慮によって、教育環境は“メンタル無菌室”のような状態になっている印象があります。しかし、この“メンタル無菌室”で育てられた子どもたちは、果たして大人になったときに、生きていれば必ずどこかで遭遇する社会の荒波や不条理を乗り越えていくことができるのでしょうか。 どんな食べ物であろうと、しっかり栄養分を吸収して消化できるような頑丈な体のほうが、何が起こるかわからないこの世の中では有利だと思うように、メンタル面でも子どものころからさまざまな社会の歪みや悩みと接していったほうが、大人になってさまざまな問題と向き合うことになっても、その苦境を乗り越えていけるたくましさが養われると思うのです。自分自身がさまざまな痛みや苦しみを経験しなければ、他者を慮れる利他的な配慮もできなくなってしまうでしょうし、想像力が豊かになることもないでしょう。 講演会などでこういう話をすると、子どものいる親御さんたちは「そのとおり」としきりに頷かれるのですが、かといって実生活では世間での教育の全体的な風潮に逆らえる勇気まではなかなか出ない、“世間体”によるジャッジと孤立化が怖くて、全体傾向の同調圧力に背くことができない、というのが現実のようです。こんな教育への姿勢が変わらない限り、失敗や辛酸をなめてでも海外に行ってみようなどと思い立つ子どもも、そして親も現れないのは当たり前でしょう。 落語の噺の中には、とんでもない失敗をしでかし、人を騙し、騙され、調子に乗っていい気になったり失望したり、予定調和などない社会の中でもがきながらも面白おかしく生きている人物がたくさん登場します。 江戸時代や昭和の人々はこうした人間の、理不尽かつ不条理で、なかなか思いどおりにはならない人生の本質を知ることで、大笑いしながら自分を慰め、励まし、「まあ人間なんてぇのは所詮はこんなもんよ」と開き直ってすごしていたところがあると思うのです。 人間を必要以上に理想化せず、高望みもせず、どんな生き方をしようと、誰がどこでどんな目に遭おうと必要以上に頓着せず、他者を思いやれる人情という寛容性が当たり前に身についていたあの時代の社会には、現代にはない成熟があったように思うのです。 悪徳代官だろうと、狡猾な商人であろうと、貧乏長屋の住民であろうと、置屋の芸者であろうと、懸命になって生きる人々の日常とその滑稽さを、笑いながら知ることのできた落語は、聴衆にとって自分たちの生き様を俯瞰で捉えるツールのひとつだったのかもしれません。 しかし、負の感情を極力回避させられながら生きる現代の子どもたちに、こうした古典落語を聞かせてみたところで、いったいどんな反応ができるでしょうか。人間たちが失敗や恥をかきながらもくり広げる世界を、異次元での出来事のように感じてしまう子どももいるのではないでしょうか。 そう考えると、明治維新に始まった日本社会の早急な西洋化が、人々のかっこ悪さやみっともなさを人情という美徳と捉えていた心のゆとりを払拭してしまった、ひとつのきっかけだったような気もします』、「そもそも理想的な人間像を、学問を教えるという役割の人間に求めるというのは、根本的におかしな話です。私の夫も研究者で教員ですが、日々、自分自身の学業や職業へのストレスと向き合いながら生きています。彼を含め生徒の心理や家庭環境の不条理についてを親身に理解し、健やかな未来を念頭に献身的に手を差し伸べてくれるほど精神が安定している人など、正直ほとんど見たことがありません。 生徒も教師も誰しも過酷な社会というジャングルに生息し、生き延びるために必死にならなければならないほど容赦のない状況に置かれた生き物なのだ、ということを知ることができるのも、学校という組織のあり方だと思うのです」、同感である。
・『コロナ禍で打ちのめされた私を救った友人  いつのことだったか思い出せませんが、夫がぼそりとこんなことを言ったことがありました。 「困ったり苦しんでいる人を、純粋な慈愛をもって助けてあげることができるかどうか、利他性を発揮できる人間がどれだけいるかどうかが、人類の文明の尺度になるのではないか」 何に対してそんな言葉を吐露したのか覚えてはいませんが、その解釈には納得させられました。 コロナの影響で私はこの1年、自分にとって三度の食事よりも大切な栄養素となっていたイタリアと日本の往復を含む世界中の都市への旅も制限され、日本という国に留め置かれてしまったことに自分でも想像していなかったほどの精神的苦しみと葛藤を強いられました。 自分にとって、各国を旅することで得られる価値観の差異は、多様な考え方や既成概念を逸脱した発想をもたらしてくれる大きなきっかけとなっていたのに、それが断たれてしまったことで、いつもなら旺盛な創作への意欲も萎えてしまい、仕事になかなか着手できない日も増えました。こんな具合に表現への意欲が消沈するのは、物心がついてからは初めてのことだったかもしれません。 そんな私の様子を危惧したとある親しい友人が、「大丈夫。これからはインナートリップで価値観の違いや多様性を知って、豊かな気持ちになればいい」と、さまざまなジャンルの映画や書籍や音楽を紹介してくれました。今まで場所を移り変わることで意識を逸らしていた仕事などにかかわる周辺整理も、立ちどまったことで対処する気持ちになれたのも、その友人が励ましてくれたおかげだったと思っていますが、その人にとっては自分の周りに困った人がいれば助け舟を出すのがあたり前の行為であり、手助けをしたことで感謝されたい、などという見返り欲求は一抹もありません。正義というのは、他者の苦しみに対し、無意識に手を差し伸べてあげられてこそ、本当の意味を成すものなのではないかということを感じたのでした。 自分が信じている信念に従わない他者を戒めることは、それがたとえ自分にとって、どんなに理想的な宗教的理念や政治思想が根拠になっていようと、所詮は同調への強引な圧力というものでしかなく、正義とは言えません』、「自分が信じている信念に従わない他者を戒めることは、それがたとえ自分にとって、どんなに理想的な宗教的理念や政治思想が根拠になっていようと、所詮は同調への強引な圧力というものでしかなく、正義とは言えません」、さすが深い考察でその通りだ。
・『今、立ちどまって考えること  2020年、アメリカの大統領選挙の結果に満足がいかなかったトランプ支持者たちにとっては、議事堂で大暴れするのも自分たちの信念を守るための、真っ当な正当行為だったはずです。しかし、あの騒動から垣間見えてくるのは、思想に縛られた想像力の麻痺と、孤独、そして思考力の怠惰です。 自分とは意見の分かち合えない人がいたり、自分が正しいと思う行為に背く人がいたら、それを頭ごなしに否定するのではなく、その理由やそういった齟齬を生んだ背景をわかろうとする試みと努力は必要不可欠だと思うのですが、考えることに怠惰な人々は情動に身を委ね、群衆という一体感に安堵し、陶酔してしまう。人類の歴史とともにあり、途絶える気配もない戦争は、まさにそうした人間の想像力の欠落と思考力の怠惰のあらわれなのではないかと思うのです。 自分と分かち合えない意見や思想とぶつかったら、まずはそれを興味深い、考えてみるに値する現象として受け入れてみればいいのです。 私が昆虫好きな理由は、意思の疎通もできなければ大気圏内の生き物という以外に何も共有するものがない、こうした多様な生物を生み出した地球そのものへの好奇心を楽しめるからです。 アメリカ・インディアンのズニ族にとって虹は5色、アフリカのジンバブエやザンビアに暮らすショナ人は3色と解釈しています。そんな彼らに対し虹は7色なのだ、なぜそれがわからないのだと強制するのではなく、世界には5色や3色、または12色に見える人たちもいるのだということを、地球上における興味深い実態として受け入れればいいのです。 現在のようなコロナ禍の危機的状況を乗り越えるのに必要なのは、外部からの情報に翻弄されず、冷静に自分の頭でものごとを考えることと、自分と同じ考えを持たない人との相互理解への積極性でしょう。知性を怠惰なまま放置しないでください。どうしても周りに自分の考えを納得させないと気がすまないというのであれば、そこで怨嗟やストレスを増長させるかわりに、何かそれとはまったく関係のない別のことを考えたり意識を向けるようにしてみるべきだと思います。 私がおすすめするのは、どこか広く視野が開けた、なるべくなら人間の巣である都市部よりも自然の多い場所まで出向いて、地球とそこに生きる自分のつながりをシンプルに感じることです。空に向かって思い切り深呼吸をするなど、大気圏内で生きる生物である自分を感じてみると、かなり気楽になるかと思うのです。​地球という惑星が自分の究極の住処であるという感覚をものにすれば、限定的な範囲の中で発生している些末な揉めごとや悩みも、なかなか自分の思いどおりにならない人生や他者の生き方についても、それほど大騒ぎをしたりするほどのことでもない、と感じることができるはずです。 自分が病気にならないために、病気を持っていそうな人を排除しながら生きていくのか、それともどんな劣悪な環境にも対応できる強い覚悟を身につけるべきなのか。今はまさにそういうことを考えられる絶好のタイミングなのではないでしょうか』、「自分とは意見の分かち合えない人がいたり、自分が正しいと思う行為に背く人がいたら、それを頭ごなしに否定するのではなく、その理由やそういった齟齬を生んだ背景をわかろうとする試みと努力は必要不可欠だと思うのですが、考えることに怠惰な人々は情動に身を委ね、群衆という一体感に安堵し、陶酔してしまう。人類の歴史とともにあり、途絶える気配もない戦争は、まさにそうした人間の想像力の欠落と思考力の怠惰のあらわれなのではないかと思うのです」、「私がおすすめするのは、どこか広く視野が開けた、なるべくなら人間の巣である都市部よりも自然の多い場所まで出向いて、地球とそこに生きる自分のつながりをシンプルに感じることです。空に向かって思い切り深呼吸をするなど、大気圏内で生きる生物である自分を感じてみると、かなり気楽になるかと思うのです。​地球という惑星が自分の究極の住処であるという感覚をものにすれば、限定的な範囲の中で発生している些末な揉めごとや悩みも、なかなか自分の思いどおりにならない人生や他者の生き方についても、それほど大騒ぎをしたりするほどのことでもない、と感じることができるはずです」、なかなかいいアドバイスなので実践してみよう。
タグ:現代ビジネス 心理学 (その4)(生贄探しシリーズ(第1回 日本人は世界でもいじわる行動が突出している 「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」 足を引っぱりあう日本人脳、第2回 「徳していそうな人」が生贄になる 「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった、第3回 ”世間体”という日本の戒律 恐るべし! 日本人は「世間の目」を なぜこんな強烈に怖がるのか?イタリア人から見た日本 ヤマザキマリ、第4回 自分自身が生贄にされないために 失敗やみっともなさを許す力をつける) 中野信子 ヤマザキマリ氏による「生贄探し 第1回 日本人は世界でもいじわる行動が突出している 「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」 足を引っぱりあう日本人脳 」 共著『生贄探し 暴走する脳』 「日本人は他国よりも顕著に「スパイト行動」をしてしまうという結果が報告されたわけですが、このスパイト行動とは、相手の得を許さない、という振る舞いのことです。もっと言えば、「自分が損してでも他人をおとしめたいという嫌がらせ行動」とでも言えばよいでしょうか」、ふーん、なるほど。 「単純に日本人が性悪だとは思いません。美しい国を守るためには、ときにはこういった毒をうまく使いこなすことも必要でしょう」、なるほど。 「協調性という名の蟻地獄、とでも言えるものです。 他人が得するのを許せない、という精神が、どちらも得をするというwin-winな考え方の邪魔をしているのです。また興味深いのは、「私が損をしているのだからお前も損をすべきだ」という考え方が生じることです。いわば、win-winよりもlose-loseを指向する構造を持っているということになります。足を引っ張りあい、誰の得も許さない。ひとりだけ抜け駆けしようとするやつは寄ってたかって袋叩きにしてやれということにもなります。つまり、この蟻地獄から抜け出そうとする 「日本にいまだによくある根性論や美徳を振りかざして他者を追い詰める行為も、スパイト行動の一種と言えます。モラハラ、パワハラとも言われますね。成長にまったく寄与しないにもかかわらず、お前のためだ、などと言って理不尽な倫理観でねじ伏せようとする行動です」、なるほど。「あなたの人生には、有限の時間しかありません。足を引っ張るような人の多い環境で、息を詰めるように暮らしていくのは大変なことです。できればもっと誰かを祝福したり素直に称賛できたりするような、器の大きさを持った人と楽しくすごしていきたいものです」、同感 「「この人は私とは違う。もはやこの人は私の手の届くようなところにはない特別な能力を持った人だ」と。出過ぎた杭は打たれない、というのは確かに心理学的にみてもそのとおりです。相手の妬みを憧れに変え、自分を生贄にするよりも、生かして仲良くしたほうが得だと思わせられるようになるまで、自分を磨きぬかねばなりません。 そうして自身を作り上げていった人たちが多数派になったとき、この国の様相も、変わっていくかもしれないと思います」、理想論的だが、同感である。 中野 信子氏と漫画家の ヤマザキ マリ氏の対談「生贄探し 第2回 「徳していそうな人」が生贄になる 「有名人は“得している”から生贄にピッタリ!」は脳の指令だった」 「高級車のほうが違反が多いというデータもありますね。フェラーリとカローラとを比べると、フェラーリに乗るほうがテストステロン値は上がる」、「ヤマザキ 自尊心が誇大化するんですね、車もSNSでの発言も実態を覆う甲冑ですから。・・・ヤマザキ フェラーリだとまたみんな振り返りますしね。承認欲求の顕在化」、「必ずしも物質的に豊かなことが幸福にはつながらない具体例として、古代ローマは大きな実験データになっている」、日本でも「フェラーリ」集団の高速道路での大事故が話題になった。 「ヤマザキ 人文、運動、芸術すべてバランスを整えられない人はエリートとして認められません。ネロもこの圧力の犠牲になっていたと言えますね。 中野 興味深いですけど、なんと息苦しい社会でしょう。 ヤマザキ 息苦しいですよ、だから奴隷であるほうがいっそ気楽だったと思います」、「古代ローマ時代」が「息苦しい」とはありそうな話だ。 「外見の異なる人も標的になりやすくなります。異質者を排除する集団バイアスがかかるためです。さらに危機が迫ると、内集団バイアスという「自分たちは無条件にすごい!」、外集団バイアスは「よそ者は無条件にダメ!」と、こういった偏りが強くなります」、日本人は「内集団バイアス」にかかり易そうだ。 関東大震災時の朝鮮人狩りも「生贄」の一種だったのかも知れない。 ヤマザキマリ氏による「生贄探し 第3回 ”世間体”という日本の戒律 恐るべし! 日本人は「世間の目」を、なぜこんな強烈に怖がるのか?イタリア人から見た日本 ヤマザキマリ」 「イタリア人の夫」が「イタリアでは誰もがコロナに平常心を乱され、家族や知人の、見るからに鬱憤を溜め込んでいる表情を見ていると滅入ってしまう。こんな毎日をすごしていると、日本の、周りの人に迷惑をかけないように気を使って生きている、お行儀のよい人たちが懐かしくなる」・・・そんなとき、ふと日本の“世間体”を意識しながら主張を抑えて生きる人たちを思い出してしまうというのです」、日本人が変なところで評価されたものだ。 「人々は出る杭的な立場である彼ら(外国育ち)を、自分たちの抱くイメージや正しいと信じていることを裏切らないという条件つきで認めているところがありますから、少しでもそれに添わないことをしてしまうと、簡単に世間から抹殺されてしまうことになるのでしょう」、ヤマザキ氏が忠告を無視できたのは幸運だった。 「西洋や中東では、長い年月宗教が築いた倫理や理性が人々の中で確固たる軸をなしていますが、宗教の拘束がない日本の場合は“世間体”という戒律がわれわれの生き方を統制しています」、「下手をするとこの“世間体”は、キリスト教やイスラム教やちょっとした社会主義体制よりも、よほど厳しい戒律だと解釈することもできます。無症状だけど陽性判定が出てしまい、周りへ迷惑をかけることを苦に自死した女性がいるとイタリアの家族に話をしたら「なんだって!? そんなことで自殺をするなんて信じられない!」と絶句していましたが、実は日本にお ヤマザキマリ氏による「生贄探し 第4回 自分自身が生贄にされないために 失敗やみっともなさを許す力をつける」 「生きにくさから自由になる方法を提案」とは興味深そうだ。 「教育環境は“メンタル無菌室”状態」というのは由々しい事態だ。私の区立中学校時代は、番長がいたり、誠に賑やかだった。先生も多様だった。 「そもそも理想的な人間像を、学問を教えるという役割の人間に求めるというのは、根本的におかしな話です。私の夫も研究者で教員ですが、日々、自分自身の学業や職業へのストレスと向き合いながら生きています。彼を含め生徒の心理や家庭環境の不条理についてを親身に理解し、健やかな未来を念頭に献身的に手を差し伸べてくれるほど精神が安定している人など、正直ほとんど見たことがありません。 生徒も教師も誰しも過酷な社会というジャングルに生息し、生き延びるために必死にならなければならないほど容赦のない状況に置かれた生き物なのだ、と 「自分が信じている信念に従わない他者を戒めることは、それがたとえ自分にとって、どんなに理想的な宗教的理念や政治思想が根拠になっていようと、所詮は同調への強引な圧力というものでしかなく、正義とは言えません」、さすが深い考察でその通りだ。 「自分とは意見の分かち合えない人がいたり、自分が正しいと思う行為に背く人がいたら、それを頭ごなしに否定するのではなく、その理由やそういった齟齬を生んだ背景をわかろうとする試みと努力は必要不可欠だと思うのですが、考えることに怠惰な人々は情動に身を委ね、群衆という一体感に安堵し、陶酔してしまう。人類の歴史とともにあり、途絶える気配もない戦争は、まさにそうした人間の想像力の欠落と思考力の怠惰のあらわれなのではないかと思うのです」、 「私がおすすめするのは、どこか広く視野が開けた、なるべくなら人間の巣である都市部よりも自然の多い場所まで出向いて、地球とそこに生きる自分のつながりをシンプルに感じることです。空に向かって思い切り深呼吸をするなど、大気圏内で生きる生物である自分を感じてみると、かなり気楽になるかと思うのです。​地球という惑星が自分の究極の住処であるという感覚をものにすれば、限定的な範囲の中で発生している些末な揉めごとや悩みも、なかなか自分の思いどおりにならない人生や他者の生き方についても、それほど大騒ぎをしたりするほどのこと 「自分とは意見の分かち合えない人がいたり、自分が正しいと思う行為に背く人がいたら、それを頭ごなしに否定するのではなく、その理由やそういった齟齬を生んだ背景をわかろうとする試みと努力は必要不可欠だと思うのですが、考えることに怠惰な人々は情動に身を委ね、群衆という一体感に安堵し、陶酔してしまう。人類の歴史とともにあり、途絶える気配もない戦争は、まさにそうした人間の想像力の欠落と思考力の怠惰のあらわれなのではないかと思うのです」、「私がおすすめするのは、どこか広く視野が開けた、なるべくなら人間の巣である都市部よ
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